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すき焼きの鍋が煮えていた夜、赤報隊事件は15年で時効になった

憲法記念日の夜、2階の編集室で

1987年5月3日は日曜日だった。憲法記念日の夜だ。

憲法記念日は、日本国憲法が施行された1947年5月3日にちなむ祝日で、言論や表現の自由が守られている国であることを、あらためて確かめる日でもある。

兵庫県西宮市にある朝日新聞の阪神支局では、2階の編集室で記者たちが鍋を囲んでいた。すき焼きだったらしい。日曜の夜だというのに支局には人がいて、部屋にはのんびりした空気が流れていたという。支局長は会合に出ていて、その場にはいなかった。

編集室にいたのは3人の記者で、年は42歳、29歳、25歳。ソファのまわりに腰を下ろして、とりとめのない話をしていた。

時計の針が午後8時15分ごろを指したころ、全身黒ずくめの男が、鍋を囲む編集室の中へ入ってきたのだ。

誰かのいたずらだと思った

目出し帽で顔を隠し、黒いフレームの眼鏡をかけた男は、銃身を短く切り詰めた2連式の散弾銃を手にしていた。顔つきは、まるで分からない。

居合わせた記者は、あとになってこう振り返っている。最初は誰かのいたずらだと思った、と。そう感じたのも無理はない話で、日曜の夜の支局に銃を構えた男が現れるなんて、誰も考えていなかったのだから。

男はひとことも口をきかなかった。声をかけるでもなく、名乗るでもなく、銃を腰のあたりに据えて、そのまま狙いを定める。

最初の1発は、ソファに座っていた42歳の記者の左胸に向けて撃たれた。起き上がろうとした29歳の記者には、至近距離から脇腹へ2発目が撃ち込まれた。部屋のなかには、すき焼きの匂いがまだ漂っていたはずだ。

札入れとボールペン

男は3人目の25歳の記者にも銃口を向けた。けれど引き金は引かれなかった。男は銃を抱えたまま、何も言わずに立ち去ったのだ。

侵入してから出ていくまで、1分もかかっていなかったと伝わる。あまりに短い。まばたきほどの時間だ。鍋の湯気がまだ立ちのぼっているうちに、すべてが終わってしまっていたことになる。

42歳の記者の体には、約80発の散弾が食い込んでいた。左胸を狙った弾は、胸ポケットに入っていた札入れとボールペンに当たって勢いを失い、心臓まであとわずか2ミリのところで止まったという。右手の指も失ったが、命だけは助かった。紙一重の差。

29歳の記者は、散弾が胃の後ろで散らばっていた。その夜から手当てが続けられたが、手術のさなかに心臓が止まってしまい、翌5月4日に帰らぬ人となってしまう。

3発目が撃たれなかった理由

男は25歳の記者にも銃口を向けて、そのまま撃たずに部屋を出ていった。理由は、いまも分かっていない。

使われたのは2連式の散弾銃で、銃身が2本並んでいる形の銃だから、弾を込め直さない限り、撃てるのは2発までになる。2発を撃ち終えた時点で、弾は空になっていたという計算だ。数字は合う。

けれど、それを理由と決めつけるのは早い。最初から2発しか込めていなかったのか、予備の弾を持っていたのか、確かめるすべは残されていないのだ。

ひとつだけ言えることがある。銃口を向けられた25歳の記者は、撃たれずに済んだ。その裏に犯人の意図があったのかどうかは、誰にも分からない。

三日後に届いた紙

事件から3日たった5月6日、時事通信社と共同通信社に1通の犯行声明が届いた。

差出人は「赤報隊一同」。すべての朝日社員に死刑を言い渡す、という言葉が書かれていた。われわれは本気である、という一文もあった。

聞き慣れない名前だ。闇の中から突然名乗りを上げてきたような格好で、捜査は手探りから始めるしかない。

しかも声明は、阪神支局の件だけを語っていたわけではなかった。同じ年の1月に朝日新聞の東京本社も襲撃した、と書いてあったのだ。

声明の宛先は2つの通信社だった

犯行声明が最初に届けられたのは、新聞社ではなく通信社だった。

時事通信社と共同通信社は、記事を全国の新聞社や放送局に配る会社なので、ここに届いた文書は、すぐに各社の編集部へ回っていく。犯人が声明を朝日新聞ではなく通信社に送ったことは、記録にはっきり残っている。

文書の中身は、阪神支局の襲撃を自分たちの仕業だと認めたうえで、1月の東京本社銃撃にまで触れるものだった。世間にまだ知られていなかった事件が、犯人の側から先に明かされたことになる。

事件の夜から、まだ3日しかたっていなかった。

気づかれなかった1月24日の2発

東京本社の銃撃は、1987年1月24日の土曜日、午後8時過ぎに起きていた。

建物の1階にある植え込みのあたりから、2階に向けて散弾銃が2発撃たれたのだ。ところが、その時点では事件として大きく扱われなかった。銃撃の跡らしきものはあっても、はっきり断定できる材料がそろっていなかったらしい。

阪神支局が襲われて声明が届いたあとで、ようやく同じ犯人の仕業だと見られるようになる。1月に撃たれた2発の弾は、3か月余りのあいだ、誰にも気づかれないまま眠っていたことになる。

考えてみると、これは落ち着かない話だ。何とも気味が悪い。撃たれた側が気づいていない襲撃を、わざわざ声明で明かしてくる。犯人は自分のやった行動を、きちんと数えて覚えている人物だった。

名古屋の単身寮に撃ち込まれた弾

同じ年の9月24日、木曜日の午後6時45分ごろ。今度は名古屋で銃声がした。

朝日新聞の名古屋本社に勤める記者たちが暮らす単身寮に、外から散弾が撃ち込まれた。当たったのは居間と食堂を兼ねた部屋で、そのときは無人だったという。西隣のマンションの外壁にも、1発が当たったと伝わる。

死傷者は出なかった。ただ、灯りのつく夕方の時間に、人のいない部屋を撃っているのだから、これを単なる外れ弾と呼んでいいのかは分からない。脅しの形が阪神支局のときとは違って見える、という声もある。

このあとの声明には、反日朝日は五十年前にかえれ、という言葉が並んだ。50年前といえば1937年で、日中戦争が始まった年にあたる。何を取り戻せと言いたいのか。読んだ人の背筋が冷えた一文だった。

ピース缶の中身

1988年3月11日、静岡支局の駐車場に爆弾が仕掛けられた。

見つかったのは翌12日。紙袋に入ったピースの缶で、中には黒色の猟用火薬が約90グラム詰められていた。缶には時限式の発火装置がつながっていて、紙袋は松屋のもの。

幸い、爆発は起きなかった。未遂で終わっている。ただ、もし缶が爆ぜていたら、支局の建物ごと大きな被害を受けたかもしれない。

同じ3月11日の消印で、二人の政治家のもとに脅迫状が届いていて、靖国神社への参拝や教科書の問題に触れた内容だった。ここまで来ると、狙われているのは新聞社だけではなくなっていく。

広告を出した会社の屋敷

1988年8月10日の午後7時20分ごろ、東京の住宅に散弾銃の弾が1発撃ち込まれた。

家の主は、リクルートの元会長。当時は未公開株をめぐる問題が政財界を揺るがし始めたころで、世間の目が会社に集まっていた時期だ。

声明が理由に挙げたのは、朝日新聞に広告を出して金を渡した、という点だった。新聞社に広告を出した会社まで、敵として数えられた。

朝日新聞を軸にしながら、そのまわりにいる人や組織へ、銃口が少しずつ向きを変えていく。襲撃の輪は、こうして外側へ広がっていった。

1990年5月17日

赤報隊を名乗る最後の事件は、1990年5月17日の午後7時25分ごろに起きた。

場所は名古屋で、愛知韓国人会館が放火されている。在日韓国人の団体にかかわる施設だ。声明には、韓国の大統領が来日することへの反対が書かれ、在日韓国人を脅す言葉も含まれていた。

阪神支局の事件から、3年がたっていた。狙う相手は朝日新聞から離れて、まるで別のところへ移っている。

この事件を最後に、赤報隊の名前は途絶えた。そのあと新しい声明は届いていない。静かな幕切れだった。

6つの日付を並べてみる

赤報隊を名乗る事件を、日付の順に並べてみる。1987年1月24日、同じ年の5月3日、9月24日。1988年3月11日、8月10日。そして1990年5月17日の6つだ。

最初の2つのあいだは3か月と少しで、2つ目と3つ目のあいだは4か月半ほど。3つ目から静岡の爆弾までは5か月半、そこから東京の住宅への銃撃までは約5か月。数か月ごとに、どこかで何かが起きていた。

ところが最後の2つのあいだだけは、1年9か月も空いている。そのあいだに何があったのか、それとも何もなかったのか。外から見ているだけでは、まるで分からない。

1987年の1年間だけで、3件も起きている。事件が集中した最初の年を過ぎると、間隔は少しずつ開いていき、赤報隊は静かに声を消していった。6件のうち、朝日新聞の記者が殺され、傷を負ったのは阪神支局の1件だけだった。

幕末にも同じ名前があった

赤報隊という名は、もともと幕末にあった部隊の名前だ。

1868年、戊辰戦争のさなかに、相楽総三が率いた一隊が同じ名で呼ばれている。官軍の先頭に立ち、年貢を半分にすると約束しながら進軍したあと、偽の官軍だったとされて処刑された部隊だ。幕末の歴史に少しでも触れた人なら、この名前に覚えがあるだろう。

今回の犯人が、その名前を意識して選んだのかどうか。そこは分からない。本人が語ったわけではなく、確かめようがない話だ。

ただ、百二十年ほど前の名前が、20世紀の新聞社を狙う声明の署名になった。その事実だけは、ここに書き留めておきたい。

ワープロが打った言葉

警察が頼れる物証は、けっして多くなかった。その中で、犯行声明は大きな手がかりだった。

声明や脅迫状は、シャープの書院というワープロで打たれていたとされる。同じ機種が使われ、紙の折り方まで共通していたという。

文面には、反日という言葉が何度も顔を出している。朝日新聞を日本に反する存在として断じるところに、書き手のものの見方がはっきり出ていた。

ところが、そのワープロは売れ筋の機種で、世の中に何台も出回っていた。1台を特定するのは難しい。文章の癖から書き手を絞り込む試みもあったが、決め手にはならなかった。そこが行き止まりだ。

白いマークIIと灰色の保冷車

目撃された車の情報も、捜査の大きな柱だった。

事件の前後に支局の近くで見られたのは、白い1982年型のトヨタ・マークII。ナンバーは横浜か静岡だったとされる。ほかにも、ワインレッドの古いマークIIで三重ナンバーのもの、灰色の保冷車などが目撃された。

警察は、該当する車の持ち主を片っ端から当たっていった。数千台という規模だったらしい。1台ずつ訪ねてアリバイを聞き、車の中を調べる地味な作業が、何年も続いた。どれも空振り。

でも結果は、実らなかったのだ。目撃された車と犯人の線は、最後までつながらなかった。

12番の散弾と黒色火薬

阪神支局で使われたのは、レミントン社製の12番の散弾で、粒の大きさは7.5号。12番というのは猟銃に広く使われている、いちばん一般的な口径だ。

散弾は、小さな鉛の粒をまとめて撃ち出す弾で、1発の中にたくさんの粒が詰まっている。粒は飛びながら広がっていくので、当たった体には何十発もの傷が残る。42歳の記者の体に約80発の粒が食い込んでいたのも、そのためだ。

銃を持っている人は全国に約20万人、散弾を買った人は約9万人。警察は、その大半を洗い出したと伝わっている。気の遠くなるような数だ。

静岡の爆弾に詰められた黒色の猟用火薬も、使う人は限られていた。それでも、そこから犯人にたどり着くことはできなかった。猟をする人たちが全国で使う市販品は、手がかりとしては犯人の姿をかすかになぞることしかできない。

116号と呼ばれた事件

警察庁は、この一連の事件を「広域重要指定116号事件」に指定した。

対象になったのは、散弾銃による襲撃4件と、静岡の時限爆弾の未遂1件。複数の都道府県にまたがる重大事件について、全国の警察が垣根を越えて連携し、情報を持ち寄りながら動くための、いちばん重い扱いだ。

捜査の対象になった人は、延べ50万人にのぼる。捜査員たちは全国を歩き回り、右翼団体や過激派の動きから、銃を持つ人や弾を買った人の身元まで、ありとあらゆる角度から調べていった。

それでも犯人は見つからなかった。何十万人も当たって、ひとりも見つからなかったのだ。

右翼のリストと、全員の否定

1998年には、警察が右翼関係者10人のリストを作ったと伝えられている。

声明の言葉づかいや、襲う相手の選び方から見ると、右翼の線が浮かぶのは自然な流れだ。ところが10人は、全員が事件との関わりを否定した。うそ発見器にかけられた人もいて、そこでシロと出た人もいたらしい。

報道には、いろいろな団体名や人の名前が出てきた。けれども、はっきりした証拠が挙がったという話はひとつもない。誰かの名を挙げて「あの人が犯人だ」と言うことは、できないのだ。

怖いのは、そこだ。動機の向きは読み取れるのに、肝心の人間が見えてこない。

15年目の5月3日

そのまま、時間だけが過ぎていった。

2002年5月3日に、阪神支局の襲撃事件が公訴時効を迎えた。事件の夜からちょうど15年で、日付も同じ憲法記念日になる。この日を過ぎてしまえば、たとえ犯人が捕まっても、もう起訴することはできない。

翌2003年3月11日には、静岡支局の爆弾未遂事件も時効になった。こうして一連の事件は、すべて時効の向こう側へ去っていった。誰も裁かれないまま。

時効が延びたのは、事件のあとだった

公訴時効というのは、事件が起きてから一定の期間が過ぎると、もう犯人を起訴できなくなる決まりだ。時間がたつと証拠が薄れ、裁判で事実を確かめるのが難しくなる、というのがこの制度の主な理由とされてきた。

阪神支局の事件が起きたころ、殺人罪の時効は15年だった。2005年に25年へ延びて、2010年にはとうとう廃止される。凶悪事件の犯人を時効で逃したくないという声が、世の中で強まっていった結果だった。

だが、この法改正は、すでに時効が成立した事件には使えない。2002年に時効を迎えた阪神支局の事件は、その数年後に決まった新しいルールの外側に、取り残される形になった。

あと数年、時効の成立が遅れていたら、事情はまるで違っていたかもしれない。けれど、時間は戻らない。

時効のあとで

朝日新聞は、時効を迎えたあとも、真相に迫る努力を続けると表明した。

2018年1月27日と28日には、公共放送が未解決事件の番組でこの一連の事件を取り上げた。番組は、目撃した人や事件を知る人に情報を寄せてほしいと呼びかけている。声明を打った人物が同じである可能性は極めて高い、という分析が出たのもこの放送だった。

時効が過ぎても、犯人が自分から名乗り出た場合は話が別になる。2023年2月2日、国会の予算委員会で、この事件の再捜査を求める質問が出た。

答えた国家公安委員長は、公訴時効が成立したあとは捜査を行わないのが原則だと述べた。そのうえで、犯人が自首したような特別な事情があれば、事実の確認を行うこともあり得る、と付け加えている。

扉は、閉まりきってはいない。ただ、その鍵を持っているのは犯人だけだ。

支局の1階に置かれた祭壇

2026年5月3日、事件から39年のその日、西宮市の阪神支局には約350人が訪れた。

1階には遺影を掲げた祭壇が置かれ、記帳台も用意されて、全国から集まった人たちが順番に手を合わせていく。支局の中にある事件の資料室も、一般に公開された。

編集室には、詩人が詠んだ俳句が掲げられているという。事件の夜に、鍋を囲んでいた部屋のことだ。

亡くなった記者の墓は、広島県の呉市にある。この日は朝日新聞の幹部が墓前で手を合わせ、理不尽なことにも臆せず批判を続けていくと誓ったと伝えられた。

29歳だった記者のこと

亡くなった記者は29歳だった。ここでは名前を出さない。

若い記者だった。遺族が思いを語り継ぎ、同僚たちが追悼の場を守ってきた。失われたのは、ひとりの人間の命だ。それと同時に、言葉を仕事にする人が、その言葉ゆえに撃たれたという重みも背負っている。

42歳の記者は重い傷を抱えながら生き延び、25歳の記者は銃口を向けられても撃たれずに済んだ。

あの夜の編集室にいた3人は、それぞれ違う形で、事件の重さを背負い続けてきたことになる。

分かっていることだけを並べると

赤報隊とは何者だったのか。単独の犯行なのか、複数の人間が動いたのか。誰かの指示はあったのか、それも分からない。答えは、いまもない。

はっきり言えるのは、数えられるほどの事実だけだ。散弾銃で撃たれた場所が4つあった。爆弾が1つ置かれた。声明は、同じワープロで打たれたものだ。

そして、捕まった人はひとりもいない。

阪神支局の編集室で、男は1分足らずのあいだに記者2人を撃った。ひとことも話さないまま、銃を抱えて部屋を出ていった。男の顔は、目出し帽の下に隠れたまま。

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