- 日曜の夜、面会室に残った男
- 手錠を外し、板を蹴破るまでの下ごしらえ
- 電池のないブザーと、画面を眺める署員
- お遍路姿が全国ニュースになった
- 300キロ先の道の駅で終わった逃避行
- なぜここまで騒がれたのか、三つの理由
- 実刑判決と、宙に浮いたままの問い
- 面会はまだ続いています
- 電池を抜かれたブザー
- 換気扇のカバーと、ファスナーの金具
- 赤い自転車が消えた夜の富田林
- お盆の大阪が張り詰めていた
- 三十歳になるまでに、男が通ってきた道
- 二〇一八年は、逃げられる年だった
- 延べ四万人と、千二百件の目撃情報
- 時速十五キロという盲点
- 台風20号が徳島に上陸した夜
- 愛媛県庁でもらった「日本一周中」の紙
- 手配写真では、あの男に届かない
- 菅笠と白装束
- 遍路道は昔から、そういう人を通してきた
- 十二年逃げた草遍路のこと
- 白衣の人に、声をかけづらくなった夏
- 道の駅という兵站基地
- 毎日どこかで「見た」が生まれた
- 午後十一時、かわうその里すさき
- 取材車が並んだ道の駅
- 素潜りで魚を獲る自転車乗り
- バターもち一袋と、二百八十円
- 逃げても罪にならない人がいる
- 十四人の処分と、鳴るようになったブザー
- 法廷で男が言ったこと
日曜の夜、面会室に残った男
2018年8月12日、日曜日の夜。大阪府富田林市の富田林警察署に、強盗致傷などの容疑で勾留中だった当時30歳の樋田淳也がいた。この夜は弁護士との接見のため、面会室に入っている。話はここから転がり始める。
面会室の造りは単純だ。アクリル板と呼ばれる仕切り板が、被疑者側と面会者側をきっちり隔てている。面会が終われば、被疑者は署員に付き添われて留置場へ戻る。それが決まりだった。
ところが、この夜は違う。面会を終えた弁護士は、被疑者側にまだ樋田が残っていることを署員に告げないまま、そのまま署の外へ出ていった。小さな連絡漏れ。それが48日間の逃走劇の引き金を引くんだから、怖い話なんだよな。
手錠を外し、板を蹴破るまでの下ごしらえ
樋田はかねてから逃走の機会をうかがっていて、その準備はもうかなり細かいところまで進んでいたらしい。捜査関係者への取材によれば、独房内の備品である換気扇のカバーや、自分の衣服のファスナー部分を加工して、即席の工具のようなものへ作り替えている。
アクリル板にも弱点があった。面会室のその板は、設置から30年以上にわたって点検が行われず、床との接地部分の劣化がずいぶん進んでいた。樋田はこの脆くなった箇所を、自作の道具であらかじめ緩めていたとみられる。三十年分のガタに、本人の細工が上乗せされた格好だ。
弁護士が退室したあとは、もう何にも邪魔されない。板を蹴り外し、そのまま面会室から脱出した。見張りのいない部屋で板一枚を外すだけの作業を、止められる人間はその場にひとりもいなかったわけだ。あっけない話だ。
手錠のほうにも謎が残る。あらかじめ緩めるなどの工作を施していたのか、それとも体格や関節の可動域を利用して自分で外す技術を身につけていたのか。その二つの可能性が指摘されてきた。外した経緯の詳細は、捜査上明らかにされていない部分も多い。
どちらにしても、彼は身体ひとつで拘束から解放され、そのまま深夜の富田林市街へと姿を消す。手際だけ見れば、映画の脱獄シーンそのものなんだよな。まるで作り話だ。
電池のないブザーと、画面を眺める署員
世間が噛みついたのは、脱出の手口そのものより、警察側の気の抜けた対応のほうだ。面会室の外扉には、異常時に室内から呼び出すためのブザーが設置されていた。ところが事件のおよそ1年前から、そのブザーは電池を抜かれた状態で放置されている。笑えない話だ。
理由は拍子抜けするほど小さい。過去に被疑者が面会の様子をブザー越しに気にして苦情を訴え、その対応として署員が電池を抜いてしまったとされる。安全管理のために設けられた装置を、現場の都合で機能停止させていたことになる。
もっと致命的だったのが時間だ。樋田が姿を消してからおよそ1時間40分、署の誰ひとりその不在に気づかない。逃げる側からすれば、これ以上ない贈り物みたいな空白だったと思う。
その間、署員は何をしていたか。留置管理を担当していた署員は、私用のスマートフォンで、プロ野球中継やアダルトサイトの動画を閲覧するのに気を取られていた。後の内部調査で、そこまで明らかになっている。本来なら定期的に行われるべき留置場内の巡回と点検も、当日は徹底されていなかったんだから、話にならない。
これらの事実が明るみに出る。話は単なる一被疑者の逃走劇では済まなくなり、警察組織の緊張感の緩みそのものが厳しく問われることとなった。
お遍路姿が全国ニュースになった
樋田の逃走が確認されると、大阪府警は緊急配備を敷き、報道各社も連日この事件を大きく取り上げた。当初は、逃走現場の付近で発見されるという見方が強い。ところが樋田は徒歩や自転車を使いながら、驚くべき速度で移動範囲を広げていく。読みは外れた。
四国を巡る「お遍路」の巡礼者を装って、移動していたとみられる。高知県内の道の駅では、笠をかぶり自転車に乗った人物の姿が防犯カメラに捉えられた。樋田とみられるその映像が、大きく報じられる。
目撃情報は近畿地方の各府県にとどまらず、中国地方に至るまで、樋田らしき人物の話が次々と寄せられた。地図上に点在するその足取りは、まるで日本列島を横断する逃避行だ。報道各局が、それを連日図解して伝えた。
過熱した報道合戦は現場にも混乱を招き、目撃情報が寄せられるたびに、テレビ各局の取材クルーが現地へ殺到した。住民の生活道路が取材車両で埋まる。喫茶店や道の駅の机には、他の利用客そっちのけでカメラが並ぶ。そんな光景が各地で見られ、現場の混乱そのものが「行き過ぎた取材合戦」として批判の対象にもなった。
ワイドショーや情報番組では連日特集が組まれ、まるでミステリー小説の主人公であるかのように樋田の逃避行が扱われていく。ネット上でも、彼の行動を追う実況的な投稿や考察がSNSに溢れた。
逃走がここまで長期化し、しかも全国規模で注目を集めるのは、平成以降の日本の刑事事件としては極めて異例のことだった。当時の空気を覚えている人も多いと思う。正直、異様な夏だった。
300キロ先の道の駅で終わった逃避行
樋田は逃走中、自転車を乗り継ぎながら移動し、時には野宿をし、時には人目につかない場所で身を潜めていたとみられる。動き方が、ただの逃亡とはまるで違う。足が止まらない。
移動距離は、当初の想定よりはるかに長かった。逃走開始地点の大阪府富田林市から、直線距離にして300キロメートル以上離れた山口県まで動いている。判明はずっと後だ。
「日本一周の自転車旅行をしている」。周囲にはそう語り、地元住民とも自然に会話を交わしていたとされる。その人当たりの良さが、かえって彼の正体を覆い隠す結果になっていたとも言われていて、ここが本当に厄介なところなんだよな。人懐っこい逃亡者だ。
樋田の身柄が最終的に確保されたのは、逃走から48日目にあたる2018年9月29日。場所は山口県周南市にある道の駅「ソレーネ周南」で、休憩中とみられる樋田を山口県警察の警察官が見つけた。職務質問の末の確保だった。
逃走開始から、実に7週間近く。全国を騒がせ続けた逃走劇は、こうして幕を閉じる。終わってみれば、全国を巻き込んだあれだけの大騒ぎのわりに、拍子抜けするほどあっけない幕切れだった。
なぜここまで騒がれたのか、三つの理由
この事件がこれほど関心を集めた理由は、ひとつじゃない。第一に、逃走の手口そのものだ。アクリル板を蹴破り、手錠を外して脱出するというやり方は、まるで映画さながらの大胆さを持っていた。
第二に、皮肉がある。警察という、本来もっとも「逃がしてはならない」組織が、あまりにも人間くさい失態を重ねていた。電池の抜かれたブザー。私用携帯を眺める署員。どっちも、ドラマの脚本なら没になりそうなほど間の抜けた話なんだよな。
第三に、長さだ。逃走は1日や2日では終わらず、実に7週間近くにもわたって、全国を巻き込む長期戦になった。日々更新される目撃情報が、そのままエンターテインメント的な見世物になっていく。
事件後、大阪府警察本部はこの一連の不祥事を重く見る。富田林警察署長を減給のうえで警務部付へと更迭し、さらに関連する署員ら合計14人を懲戒処分とした。
留置施設の設備点検体制の見直し。面会室の構造そのものの改善も含め、全国の警察施設で再発防止のための対策が進められることとなった。余波は全国に及んだ。
一被疑者の逃走事件では終わらなかった。日本の留置管理体制そのものを揺さぶった一件として、刑事政策や警察組織論の議論でもよく引かれる。刺さった場所が深い。
実刑判決と、宙に浮いたままの問い
樋田は身柄確保後、逃走罪をはじめとする複数の容疑で追起訴された。裁判では、逃走の悪質さや巧妙さが量刑判断で重く見られている。判決は実刑。そのまま服役することとなった。
事件そのものは、全国を巻き込んだ逃走劇として決着した。それでも「なぜ、あれほど周到に準備された脱走を、警察は防げなかったのか」という問いは消えない。この問いは、いまも組織論の教材として引かれ続ける。重たい問いだ。
手錠とアクリル板。いちばん硬く閉ざされているはずの拘束が、たったひとつの気の緩みから、48日間の全国規模の逃避行に化けた。人の注意力の隙間ひとつで、ここまで転がる。
ここまでが、ざっくりした全体像だ。ここから先は同じ48日間を場面ごとに巻き戻して、面会室の造りから財布の中身まで、もっと近い距離で追いかけてみる。長いけど付き合ってほしい。
面会はまだ続いています
富田林警察署の接見室は、三畳あるかないかの細長い箱で、真ん中をアクリル板と鉄の枠がきっちり仕切っていた。被疑者側の扉には鍵がかかる。面会人側の扉は、内からでも外からでも押せば開く。この左右非対称が、この夜のすべてを決めた。
2018年8月12日、日曜の夜七時半ごろ。三十歳の男がその箱に入り、アクリル板の向こうに弁護士が座った。話が始まる。
日曜の夜は、署の中がいちばん静かになる時間帯だった。当直の頭数は平日より薄く、留置管理の担当者も減る。外の廊下に、人影はない。男はその曜日とその時刻の手薄さを、勾留されている房の中から、何週間もかけて確かめていたらしい。
面会が終わったのは、それから一時間ほどあとだった。弁護士は席を立ち、板の向こうへ声をかける。男は、面会はまだ続きがあるという意味のことを、落ち着いた調子で口にした。ここが分かれ目だ。
弁護士はそれを疑わない。面会人側の扉を開けて廊下へ出ると、署員に面会の終了を告げないまま、玄関を抜けていった。あとに残ったのは、鍵のかかっていない扉と、男の背中。
署員が異変に気づいたのは午後九時半ごろで、面会が長すぎると思った誰かが接見室をのぞいたのがきっかけだった。アクリル板は鉄枠から外れ、片側に人ひとり通れる隙間が空いていた。部屋の中は無人。
空白は、およそ一時間四十分。その間に男は、署の中に置かれていた白いスニーカーを勝手に履き、高さ二メートルから三メートルある塀をよじ登って外へ出ていた。近所に停めてあった赤い自転車を盗み、そのまま富田林の夏の夜に溶けた。
緊急配備の無線が流れ始めたころ、男はもう市外に出ている。追いかける側と逃げる側のあいだには、スタートの号砲が鳴った時点ですでに一時間半以上の差がついていた。勝負は最初から傾いている。
電池を抜かれたブザー
面会人側の扉には、開け閉めのたびにブザーが鳴る仕掛けがついていた。入って鳴り、出て鳴る。留置管理の担当者は、そのブザーの音だけを頼りに、面会の始まりと終わりを把握する仕組みだった。
この夜、ブザーは一度も鳴らなかった。電池が入っていなかったからだ。音の鳴らないブザーなんて、扉に貼りついているだけのただの飾りでしかなく、誰にも何も知らせてくれない。
抜いたのは署員本人で、時期はおよそ一年前にさかのぼる。面会中に音が気になると被疑者から苦情が出て、その場しのぎで電池を外し、そのまま戻さずに一年放置していた。安全のための装置を、現場の都合で黙って殺していたことになる。ひどい話だ。
理由としては、あまりにも小さい。それなのに結末は、これ以上ないほど大きかった。小石ひとつで堤防が丸ごと抜けたような話で、ここまで釣り合いの取れない因果もなかなか見かけない。皮肉なもんだ。
アクリル板にも同じ穴。設置から三十年以上、まともな点検を一度も受けていない。本来なら月に一度、留置施設の設備を一斉に点検する決まりがあったのに、その月の点検は実施されないまま流れていた。
板と床の接地面は、経年で接着の効きが落ちてガタついていたという。副署長は事件の翌日、報道陣に対して板そのものは壊れていないと説明し、よほどの力でないと外れない構造だとも言い切った。強気な説明だった。
その「よほどの力」を作るための時間を、男は三十日以上かけて確保する。力任せじゃない。時間を味方につけたわけだ。
換気扇のカバーと、ファスナーの金具
逃走までに男が何をしていたかは、逮捕後の捜査でだいたい見えてきた。最初にやったのは観察だった。当直の顔ぶれと時間割、巡回の間隔、どの曜日のどの時間帯がいちばん手薄になるか。留置場の中からでも、それくらいは毎日見える。
工具は風呂場から出たもので、換気扇のカバーを外して金属の縁を折り曲げ、刃物に近い形へ加工している。留置場で貸し出される衣類のファスナーも抜き取り、細い金具として手元に残した。どちらも、房の中にある物だけで作れる道具だった。
削る対象は、アクリル板と床の接着部分。面会のたびに、男は板の下側を少しずつ削っていったとみられる。弁護士が話している最中でも、机の陰なら手は動かせる。
三十年分の劣化と、数十日分の細工。その二つが、たった一か所に重なって積み上がっていた。面会のたびに少しずつ削られていく板の下側を想像すると、あの狭い接見室の箱がずいぶん違って見えてくる。
手錠の件もある。手錠については、いまも説明しきれない部分が残る。逃走の時点で腕に何も付いていなかったのだけは確かだ。関節の可動域を使ったのか、あらかじめ緩める細工を仕込んでいたのか、そこは捜査上の理由もあって細かく公表されていない。
本人は後の法廷で、知らない人間が入ってきて気がついたら板が外れていた、という趣旨の主張をした。信じた人は、たぶんひとりもいない。苦しすぎる言い分だよね。
赤い自転車が消えた夜の富田林
塀を越えた男が最初に手にしたのは、他人の赤い自転車だった。持ち主は近所の住民で、朝になって一台消えていることに気づいただけだった。そのたった一台が四十八日にわたって日本中の警察を引き回すことになるとは、本人も思っていない。災難な話だ。
大阪府警が緊急配備を敷いたのは、発覚からさらにしばらく時間が経ってからで、しかも網の張り方が狭い。府の南部に配備を出しただけで、府内全域には広げなかった。どうせ徒歩だからすぐ捕まる、という空気が現場にあったと後に報じられている。
読みは最初の一晩で外れた。男は自転車で松原市まで抜けると、一台目を乗り捨て、別の車体に乗り換えて府内を転々としていく。ひったくりで当座の現金を作った。
生野区や平野区では、逃走後に起きた被害の届け出が実際に出ている。逃走犯が地元で新しい事件を重ねているというこの構図が、大阪の夏の空気を一気に重くした。住民はたまらない。
八月十九日には、神戸市垂水区の商業施設でリュックサックを買っている。ほぼ同じころ、近くでテントが盗まれた。装備がひとつずつ揃っていき、野宿ができるだけの体裁が整った男は、府県の境を越えて西へ向かい始める。逃避行の準備完了だ。
お盆の大阪が張り詰めていた
逃走が起きたのは、ちょうどお盆に入る直前だった。帰省の車で道が混み、夏祭りの櫓が立ち、夜遅くまで人が出歩く時期。逃げる側にとっては、これ以上ないほど紛れやすい数日間だったし、追う側にとっては最悪の数日間でもあった。間が悪すぎる。
南河内の住宅地には、連日パトカーのアナウンスが流れた。戸締まりを確認してください。不審な人物を見かけたら通報してください。同じ文面が来る日も来る日も繰り返されるうちに、町の空気がじわじわ固くなっていく。
小学校では集団での下校が徹底され、夜の塾の送り迎えを親がやるようになった。女性にはひとり歩きを避けるよう呼びかける回覧が回り、深夜のアルバイトを辞めた学生もいたって話だ。町ごと身構えた。
不安の質が、ふつうの事件とは違っていた。犯人が誰かは分かっている。顔写真も名前も出ている。それなのに、どこにいるかだけが分からない。
分かっている相手の居場所だけが分からないという状態は、正体不明の犯人を怖がるより、ずっと神経に障る。八月が終わって九月に入っても、大阪の緊張はほどけなかった。夜道が怖い。
三十歳になるまでに、男が通ってきた道
男は1987年に生まれ、大阪の南部で育った。少年期から警察沙汰が珍しくない子どもで、近所では手のつけられない子として知られていたという話だ。
転落は早かった。中学を出て工業高校に進んだものの、車を盗んだことが発覚して退学になり、そのまま少年院へ送られた。出てからも定職には落ち着かず、二十代の後半にはまた身柄を取られている。2015年ごろの事件で服役し、大阪刑務所の塀の中を一度は見た人間だった。
塀の中の作法と、塀の外の逃げ方。どちらも身体で覚えていた。今回の逃走で見せたあの妙な落ち着きぶりは、たぶんそういう経験の積み重ねから来ているんだと思う。
勾留のきっかけになったのは、2018年5月の事件だ。大阪市内のマンションで、二十五歳の女性の部屋に押し入り、刃物で脅したうえで暴行した容疑がかけられていた。強盗致傷と強制性交等の疑いで逮捕され、そのまま富田林署の留置場へ入れられている。重い容疑だ。
被害者にとって、逃走の一報は二重の打撃になった。加害者が野に放たれ、しかも居場所が分からないという状態が、何日も、何週間も続いていくことになる。捜査本部が異常な規模で人を動かした理由のひとつは、間違いなくそこにある。胸が痛む話だ。
再犯の危険が高い種類の事件だった。逃走が長引くほど、次の被害者が出る確率も上がっていく。当時、刑事弁護を専門にする弁護士が自分のサイトで、女性はひとり歩きに気をつけてほしいと書いたほどの緊張感が流れていた。冗談では済まない。
二〇一八年は、逃げられる年だった
この事件が日本中の神経を逆撫でした裏には、同じ年の春に起きたもう一件がある。話は少し前にさかのぼる。2018年4月、愛媛県今治市にある松山刑務所大井造船作業場から、受刑者がひとり逃げた。
塀のない施設だ。開放的処遇と呼ばれる仕組みで、規律を守れる者だけが送られる場所だったのに、その信頼があっさり裏切られた。そこから消えた男は、しまなみ海道を渡って広島県尾道市の向島に潜伏する。
島は封鎖された。橋と船を押さえ、全戸を回り、空き家を一軒ずつ潰していく大がかりな捜索だ。延べ一万五千人を超える人員が投入されたのに、男は網の中をすり抜け、四月末に広島市内で確保されるまで二十三日間逃げ切った。
その記憶がまだ生々しい八月に、今度は警察署から直接逃げられた。世間が怒るのも当然だろう。しかも今回の逃走犯は、あとで分かったことだけど、向島の男と同じようにしまなみ海道を渡っている。
四国と本州をつなぐこの橋が、二年続けて逃走ルートになった。自転車で渡れる海の道。観光資源としては最高で、包囲網としては最悪の構造だった。
延べ四万人と、千二百件の目撃情報
八月の下旬、大阪府警は一日あたり三千人規模の人員を投入していた。八月末の時点で、捜査に関わった人数は延べ四万人を超え、玄関からひとり逃がしただけで、これだけの人間が動いた計算になる。途方もない数だ。
町には制服が溢れた。商店に手配書が配られ、聞き込みが何度も繰り返される。地元の人の言い方を借りると、そこらじゅうに警官がうじゃうじゃいる状態が、何週間も途切れずに続いた。
寄せられた目撃情報は千二百件を超えた。松原、尼崎、京都、名古屋、東京。地図に打たれた点は日本中に散らばり、どれが本物でどれが思い込みなのか、誰にも切り分けられなくなっていく。もう収拾がつかない。
防犯カメラの映像は、コンビニ一店につき最低でも一週間分あった。数十人がかりで割り振り、ひたすら早送りしては巻き戻すという気の遠くなる作業が、真夏の会議室で延々と続いた。根気勝負だ。
府警は一時、男が東京に土地勘を持つという筋を本気で追い、大規模な人員を関東へ振り向けている。その読みも外れた。男はそのころ、まったく逆の方角へ自転車を漕いでいた。
時速十五キロという盲点
警察の追跡網は、基本的に自動車と公共交通を前提にして組み立てられている。高速の出口に検問を置き、駅やバスターミナルに私服を配置して、Nシステムで走ってくる車のナンバーを片端から読み取る。網は車向けだ。
自転車は、その網の目をまるごとすり抜ける。ナンバープレートがないから自動読み取りの対象にならないし、高速道路には乗らないから検問にも引っかからない。盲点そのものだ。
切符を買わないから乗車記録も残らず、改札の防犯カメラにも映らない。追跡の仕組みが百年かけて積み上げてきた前提を、一台の自転車が全部外していった。冷静に考えると怖い。
速度も絶妙だった。巡航は時速十五キロから二十キロほどで、一日に八十キロから百キロは進める。走りながら裏道へ入れるし、歩道も使えるし、担いで階段も上がれるという身軽さは、車にはとても真似できない。
徒歩よりずっと速く、車よりずっと見えない。捜査側が松原や尼崎で目撃情報を洗っているあいだに、本人はとっくに淡路島を回って四国へ渡っていた。差は開く一方だ。
情報が上がってから裏付けを取るまでに二日か三日かかる世界では、一日百キロの移動に永遠に追いつけない。潜伏する逃亡者なら包囲網は縮まるけれど、動き続ける相手には網そのものが意味を失う。追う側の完敗だ。
止まらないという一点だけで、この男は四十八日を稼いだ。隠れ家は要らない。一か所に潜り込んで息を殺すより、場所を変え続けるほうが見つかりにくい、という理屈だったのだろう。
台風20号が徳島に上陸した夜
そこへ台風。八月二十三日の夜九時ごろ、台風20号が徳島県南部に上陸した。日付が変わる直前には、兵庫県姫路市付近へ再上陸している。淡路島では高さ三十七メートルの風力発電の風車が根元から倒れ、京都では十五メートルのモチノキが神社の拝殿を押し潰した。
西日本がまるごと暴風域に入った晩だ。同じ二十三日には、しまなみ海道に設置された防犯カメラが、自転車で走っていく男の姿をとらえていた。淡路島をひと回りしてから四国へ渡ったのが、逃走十一日目あたりになる。偶然にしては近い。
台風の進路と男の進路が、地図の上でほとんど重なっていた。雨と風が強まれば捜索は止まる。検問も間引かれ、道路上の人の目そのものが減る。自転車で走るには最悪の条件でも、追われている側にとっては、最高の目隠しになった。
七月の西日本豪雨から、まだ一か月半しか経っていない時期でもあった。復旧作業が続く区間を、この男は自転車で横切っていったことになる。作業員も支援者も旅行者も入り乱れていた土地で、自転車の一台くらい、誰の記憶にも残らない。紛れるには十分だ。
天気が味方したというより、荒れる日を待ってから動いていたように見えるのが、この男の不気味なところだ。ここまで来ると、偶然の一言で片づけるのは難しい。油断ならない。
愛媛県庁でもらった「日本一周中」の紙
八月二十四日、男は愛媛県庁に現れた。向かった先は自転車新文化推進課。愛媛はサイクリングを県の看板政策にしていて、県外から来た自転車旅行者が気軽に立ち寄る窓口が用意されていた。うってつけの窓口だ。
そこで頼んだのが、日本一周中と印刷された紙だった。職員は普通に応対し、普通に作って渡している。男は、仕事を辞めて日本一周に出たところだという身の上話を、窓口の職員相手によどみなくしたという。演技は完璧だ。
指名手配中の逃走犯が、県庁の窓口で身分証代わりの看板をもらう。この一枚が、そのあと一か月以上にわたって男を守り続けた。冗談みたいな展開だ。
自転車店にも入った。荷台を付けてほしいと頼み、装備の相談をし、店員と雑談までして、金を払って店を出ていく。挙動不審どころか、その日いちばん感じのいい客だったはずだ。
写真を撮られても嫌がらない。声をかけられれば、自分から喋る。逃げる人間は人目を避けるものだ、という誰もが持っている思い込みを、男は最初から裏返して使っている。隠れなかったから、見つからなかった。
手配写真では、あの男に届かない
指名手配のポスターに使われたのは、五月に逮捕されたときの記録用の一枚だった。髪があり、頬に肉がつき、肌の色も普通で、カメラの正面をまっすぐ向いた、いかにも記録用らしい顔だ。道の駅にいた男とは、ほとんど接点がない。まるで違う。
頭は丸刈りにして、四十日以上ずっと屋外を走ったせいで、肌は真っ黒に焼けていた。体重も落ちて頬がこけ、サングラスとサイクルウェアで、印象に残る部分がきれいに覆われている。ポスターを毎日見ていた人でも、目の前の自転車乗りと結びつけるのは難しい。無理もない。
人の顔の記憶は、輪郭と髪型と肌の明るさに強く引きずられる。その三つを同時に変えられると、同じ人物だと判定する自信が、見る側の頭の中で一気に崩れてしまう。そういうものだ。
変装というのは顔を隠す作業というより、相手の記憶の手がかりを一つずつ外していく作業だ、という言い方もできる。男はそれを、逃げながら自然にやってのけた。
手配書のほうにも弱点があった。自転車で日本一周中の旅行者という属性が、どこにも書かれていない。人間は、探している人物像に合う相手しか目に入れない。日本一周の紙を貼ったリュックを背負った時点で、男はもう手配書の枠の外へ出てしまう。
見えていたのに、見られていなかった。目の前にいたのに誰にも気づかれなかったというこの一点に、四十八日も逃げおおせた理由がほとんど詰まっている。盲点の極みだ。
菅笠と白装束
四国に入った男が身につけたのが、菅笠だった。白っぽい上着に白い笠、前かごに荷物を積んでゆっくり漕ぐ。高知県内の道の駅では、その姿が防犯カメラにはっきり残っていた。見事な変身だ。
映像が全国に流れたとき、四国の人間はひと目で分かった。あれはお遍路さんの恰好だ。四国で暮らす人にとってはあまりにも見慣れた姿で、説明なんかされなくても、誰だってすぐにピンと来る。
四国八十八箇所の巡礼者は、白衣をまとって菅笠をかぶり、金剛杖を突いて歩く。白衣はもともと死装束で、道中でいつどこで倒れても、そのまま葬れるようにという意味が込められている。杖は弘法大師そのものとされ、笠には迷故三界城、悟故十方空といった文字が墨で書かれた。覚悟の装いだ。
同行二人という言葉がある。ひとりで歩いていても、隣に大師がいる。遍路はどれだけ長い道をひとりきりで歩いていても、いつも弘法大師と二人連れだ、という意味の言葉になる。
この恰好の何が強いかというと、四国では誰も理由を聞かないところだった。どこから来たのか。なぜ歩いているのか。名前は何というのか。そういうことをいちいち尋ねない作法が、千年近くかけて、島のすみずみにまで染み込んでいる。
歩く人間を、無条件に通す道。男はそこへ、自転車ごと入り込んだ。しかも巡礼者の姿を借りて、千年近く守られてきた島の作法の内側へ潜り込んだわけで、たちが悪い。
近年は自転車で八十八箇所を回る遍路も増えていて、菅笠とサイクルウェアという組み合わせ自体は珍しくもない。だから高知でも愛媛でも、誰ひとり二度見しなかった。溶け込み放題だ。
遍路道は昔から、そういう人を通してきた
四国遍路の柱にあるのが、お接待と呼ばれる習慣だ。沿道の家が、歩いてきた遍路に食べ物や小銭を渡し、ときには宿を貸すこともあるが、見返りは求めない。渡した側が功徳を積むという考え方で、この仕組みは回っている。不思議な理屈だ。
伊勢参りや西国三十三所では、巡礼者が金を落とすから宿場や門前町が潤った。四国だけが逆だ。むしろ地元の側が巡礼者に金や物を出すわけで、この一点で四国遍路は他の巡礼路と性格がはっきり違っている。
金のない人間ほど、四国へ来た。近世の記録を見ると、飢饉で全国の巡礼者が減った年に、四国遍路の数だけが増えている。食べられなくなった人間が、最後に頼れる場所として島を選んだからだ。
故郷を追われた病者、身寄りのない老人、借金から逃げた男、そういう人々を、この道はずっと受け入れてきた。受け入れたが、救いきれたわけでもない。現実は厳しい。
遍路道の脇には、行き倒れた人を葬った遍路墓が点々と並ぶ。名前の分からない墓も多い。倒れた人を村が埋め、次の村がまた埋めるという具合に、誰がどこまで面倒を見るかの分担が宿場ごとに暗黙で決まっていた。
通夜堂や善根宿と呼ばれる無料の宿も、各地の寺や集落が抱えている。泊めるのが当たり前だった。帰る場所を失い、ぐるぐると島を回り続ける暮らし方をする人を、地元では草遍路とか職業遍路と呼んだ。
巡礼であり、生活であり、ゆるやかな自殺でもある。四国遍路には昔からその三つが同居していて、どれを選ぶかは、歩く本人の胸ひとつに委ねられていた。重たい話だ。
十二年逃げた草遍路のこと
草遍路と逃亡者が重なった事例は、この事件の前にもある。1991年、大阪市西成区で同僚を包丁で刺し、殺人未遂の容疑で指名手配された、田中幸次郎という男。四国で名乗った名は幸月だった。
この男は海を渡り、十二年にわたって遍路として暮らした。寺を回り、接待を受け、行く先々で顔を覚えられて、とうとう地元で伝説の草遍路と呼ばれるまでになる。ちょっとした有名人だ。ついにはNHKのドキュメンタリー番組にまで出演した。
そこまで有名になって、逮捕されたのが2003年の七月。八十歳になっていた。十二年も逃げ続けて、見つかったときには八十歳という、その時間の重さが、並べてみるとずしりと来る。
面白いのは周囲の反応だ。高知で世話をしていた人たちは、正体が分かったあとも支援をやめなかった。生活遍路には昔から陰のある人が多い、遍路に出る人はみな何かあるから遍路をするのだ、と語った住民もいる。
同じ人は、自分はかろうじて罪にならない隙間を歩いてきただけで、ただ運が良かったのかもしれない、とも言った。一歩違えば自分そのものだった。逃亡者を前にして、そういう言い方ができる土地なのだ。
2018年の夏に菅笠を選んだ男が、この草遍路の歴史をどこまで知っていたかは、いまとなっては分からない。ただ、衣装の選択としては完璧だった。そこがまた、なんとも薄ら寒い。
白衣の人に、声をかけづらくなった夏
高知の防犯カメラ映像が全国に流れた瞬間から、四国の空気が変わった。道の駅に白い笠の人がいる。誰かが写真を撮ってSNSに上げると、本人じゃないかというコメントが百件つく。
別人だったという訂正は、その十分の一も広がらない。そういう流れが、毎日どこかで起きていた。善意で通報した人もいれば、ただ話題になりたくて上げた人もいて、動機はばらばらでも結果は同じだった。拡散は止まらない。
いちばん困ったのは、本物の遍路だ。歩いていると振り返られる。コンビニに入ると店員の動きが止まる。職務質問を受ける回数が一気に跳ね上がり、笠を脱いで身分証を出す羽目になった人が、各地で続出した。
接待を受ける側だったはずの人間が、疑われる側に回された。立場の逆転。掲示板では、お遍路の恰好は日本最強の変装で、白衣を着てしまえば誰も顔を見ない、という書き込みが並んだ。本人確認をしない文化そのものを利用された、という指摘も出ている。
千年かけて作られた、何も聞かないという作法。そこへ、指を突っ込まれた夏だった。よりによって、疑わずに迎え入れるという善意そのものが、逃げる男の隠れ蓑として使われてしまったんだ。やりきれない。
四国の巡礼関係者にとって、この一件はいまだに触れにくい話になった。接待をやめた家もあったと聞く。信用を前提にして回っていた仕組みは、一度裏切られると、元の形に戻すのが難しい。
道の駅という兵站基地
逃走の全行程を地図に落とすと、点はほとんど道の駅の上に並ぶ。観音寺、須崎、周防大島、周南。四国と中国地方の道の駅を、まるで数珠つなぎにでもするような動き方で、男は西へ西へと進んでいた。これには理由がある。
道の駅には二十四時間使えるトイレと水道があり、広い駐車場と屋根のある休憩スペースがある。自販機と電源がある場所も多い。自転車で旅をする人間にとっては、補給所と宿の代わりを同時に果たしてくれる、ありがたい施設になる。
全国に千を超える数があって、幹線沿いなら一日走れば必ずどれかに当たるし、夜中に人がいても誰も不審に思わない。便利すぎるくらいだ。逃げる人間から見れば、理想の中継地点だ。
職員は旅行者の相手に慣れていて、素性を詮索する習慣がない。トラックの運転手が仮眠を取り、車中泊の客が寝て、自転車乗りがテントを張る、そういう場所として黙認されてきた歴史がある。防犯カメラは付いていても、手配写真と突き合わせる人間はどこにもいない。宝の持ち腐れだ。
旅行作家がこの事件について、道の駅が兵站基地になった、という言い方をしていた。的確な表現だと思う。軍隊が補給線を確保して前進するように、男は道の駅から道の駅へ、食料と水と睡眠をつなぎながら西へ進んだ。
地域振興のためにせっかく整えられた施設が、そのまま逃走インフラとして機能してしまった格好になる。作った側は災難だ。もちろん、施設に落ち度があったわけじゃない。
毎日どこかで「見た」が生まれた
千二百件という目撃情報の数字は、裏を返すと、千二百回ぶんの勘違いがどこかで生まれたという話でもある。本物は、そのうち何件もない。残りは全部、誰かの見間違いや思い込みだ。
似た背格好の男性が、全国のあちこちで呼び止められた。自転車で長旅をしている人はとくに標的になりやすい。日焼けして痩せて丸刈りという条件が揃うだけで、コンビニの駐車場で三十分足止めされた人もいたと聞く。とばっちりだ。
サイクリストがよく集まるネットの掲示板には、その年の夏の職質自慢めいた書き込みが、ずらりと並んだ。身分証を三回出した。手配書と顔を見比べられる。荷物を全部広げさせられた。
笑い話にして流すしかないような体験談が、九月いっぱい投稿され続ける。旅をする側の空気が、明らかに縮んだ夏だった。ペダルを漕ぐだけで疑われるんだから、たまらないよね。迷惑千万だ。
もっと荒い現象も起きている。それらしい人物を盗み撮りした画像が、本人の断りなくSNSへ投稿され、数千回単位で拡散していった。まったくの別人だと分かったあとも、画像は消えずに残り続けた。訂正のほうは誰も広めてくれない。
疑われた側には、何も残らないまま傷だけが残る。後味が悪い。盗み撮りされた側は何ひとつ悪いことをしていないのに、顔写真だけが勝手に全国をぐるぐると走り回っていく。
周防大島で一緒に走っていた四十四歳の男性も、身柄を取られたあとは相当な目に遭った。本人は日本一周の途中で勝手に付いてこられただけだと説明し、サングラスをしていたから顔も分からなかったと話している。それでも周囲の視線は簡単には戻らない。気の毒な話だ。
自転車を盗まれた側の人たちも、妙な立場に置かれた。大阪で奪われた白い自転車がその後どう使われたかは、公表が遅れたせいで持ち主にもしばらく伝わらなかったという。元刑事がテレビでその点を強く批判し、なぜ車体の特徴を早く出さなかったのかと府警を責めた。もっともな指摘だ。
写真を一枚出していれば、四国のどこかで誰かが気づいていたかもしれない。情報を出し惜しみする側と、出しすぎて暴走する側という両極が、二〇一八年の夏には同時に走っていた。どっちも極端だ。
午後十一時、かわうその里すさき
八月三十日の夜十一時ごろ、高知県須崎市の道の駅かわうその里すさきで、男はトイレの洗面台で洗濯をしていた。そこへ警察官が二人やってくる。職務質問だった。
男は偽名を告げ、落ち着いた調子で受け答えをした。自転車で日本一周をしている最中だと説明し、手元には愛媛県庁でもらった、あの日本一周中の紙まである。警察官はその説明に納得し、そのまま引き上げていく。疑う理由がない。
自転車の防犯登録番号は、照会しなかった。その自転車は大阪で盗まれた一台で、番号を端末に打ち込んでいれば、十秒で答えが出ていた計算になる。たった十秒だ。
全国で三千人が血眼になって探していた男が、目の前でシャツを洗っていたのに。ため息しか出ない。ここは何度読み返しても、あと一歩で終わっていたはずの逃走劇が、目の前で見逃された場面なんだよな。
発覚は逮捕のあとだ。テレビに映った顔を見た警察官が、あの晩の自転車乗りだと気づき、自分から上司に申告して発覚した。隠さず報告した点は評価されたけれど、逃した事実のほうは消えない。
ネットの反応は容赦がなかった。職質する意味がない。番号ひとつ叩けば終わっていた。十秒の手間を惜しんだせいで逃走が四十八日になった、という皮肉な計算を書き込む人まで現れた。
取材車が並んだ道の駅
目撃情報が出るたびに、テレビクルーが飛んだ。住宅地の生活道路が取材車両で埋まり、喫茶店のテーブルにはカメラが並んで、地元の客が座れなくなる。もはや迷惑行為だ。
道の駅の駐車場が中継車で塞がる。逃走犯を探しているのか、それともいい画を探しているのか分からない行列が、西日本のあちこちに現れた。本末転倒だ。
ワイドショーは連日この一件を回した。逃走ルートの図解、アクリル板の再現模型、元刑事のコメント。ネットには男の動きを追う実況のスレッドが立ち、次はどこへ向かうかを予想する書き込みが伸び続けた。完全に見世物だ。
犯罪者を追う報道が、いつのまにかロードムービーの体裁を取り始めている。被害者は置き去りだ。被害者について書かれる記事はほとんど増えず、話題の中心はいつも警察の間抜けさと男の旅程だった。
この温度差を批判する声も当時からあったけれど、数字が取れるのは、結局いつだって旅のほうだった。ここは報じる側の姿勢も問われていい部分だと思う。耳の痛い話だ。
懸賞金も動いている。八月二十五日、大阪の建設会社の代表がSNSで三百万円を出すと表明した。逃走後の事件が生野区や平野区で起きていて、地元の治安が悪くなるのを放っておけないという理由からだった。
その後、大阪府警のOBが二百万円の上乗せを検討し、報じられた懸賞金の総額は五百万円まで膨らんだ。ただし、この金は支払われていない。逮捕の経緯が、懸賞金の想定していた形とまるで違っていたからだ。幻の五百万円だ。
素潜りで魚を獲る自転車乗り
九月三日の早朝、男は愛媛県今治市から高速船に乗って広島県尾道市へ渡った。乗船のとき、手配書と照らし合わせた人間はいない。本州に戻った男は、そのまま広島県内を西へ進んでいく。誰も気づかない。
九月十八日の朝、山口県周防大島町の道の駅サザンセトとうわに現れた。連れがいる。四十四歳の男性で、こちらは本当に自転車で日本一周をしている人だった。あとで本人は、勝手に付いてこられただけだと話している。
リュックには、行くぞ日本一周中と書いた紙が貼ってあった。男はここに二十五日まで居座る。施設の倉庫に寝泊まりし、従業員と喋り、客にも自分から話しかけるという、およそ逃亡者らしくない毎日だった。
海に入って素潜りで魚や貝を獲っていると言い、自分で獲った魚は最高だ、と笑ったという。記念撮影にも応じている。逃亡中の人間の振る舞いとしては、どう考えても大胆すぎる。
真っ黒に日焼けした顔で、口元を左手のピースサインでさりげなく隠すような、計算したかのような絶妙な角度。全国に出回ったあの写真が、それだ。見覚えがあるかもしれない。
道の駅の支配人は逮捕後に振り返り、二人とも本当に日本一周ができそうな装備で、まさか逃走中とは思わなかったと話した。偽名は櫻井潤弥。日本一周が終わったら礼に来ると書いた手紙まで置いていった。律儀なことだ。
二十六日には町内にある竜崎温泉でも目撃されていて、風呂に入り、髭を剃り、着替えも何着か持っていた。浮浪者の暮らしぶりではない。自転車旅行者として、細部まできれいに成立していた。
装備は百円均一で買ったと、本人が言っている。頭は丸刈りにして、日焼けで肌の色も変わり、手配写真とはまるで別人のような顔になっていた。安上がりな変装だ。
バターもち一袋と、二百八十円
九月二十九日、夕方五時五十六分。場所は山口県周南市の道の駅ソレーネ周南で、男は食料品を手に取ると、レジを通さずに店を出ようとした。ただの万引きだ。
バターもち一袋、ロースとんかつ、菓子パン、缶コーヒー、紅茶と、どこの店にでもあるような品ばかりだった。締めて千五十三円。店員が声をかけた。会計がまだですよ、と。
男はトイレに行くと言って離れようとしたものの、万引きGメンを含む従業員が数人がかりで前に立ち塞がり、押さえ込んだ。現行犯逮捕。通報を受けた周南署の警察官が駆けつけ、身柄を引き取った。
この時点では、誰も相手が何者か分かっていない。名前を聞いても偽名が返ってくる。決め手になったのは足の入れ墨と指紋の照合で、指紋が一致した瞬間、山口の小さな署が全国ニュースの中心地に変わった。正体が割れた。
押収された所持品は三十六点にのぼる。帽子、サングラス数本、サイクルウェア、バリカン、ワンセグテレビ、テント、鍋、ガスバーナー二種類、クーラーボックス。野営と長距離移動のための道具が、ひと通り揃っていた。旅支度そのものだ。
そして、現金。逃走の途中でひったくった金は底をつきかけていて、手元には二百八十円しか残っていなかった。四十八日目にして、千円ぶんの食料すら買えない。
三千人の捜査員がどうしても届かなかった男を最後に止めたのは、包囲網ではなく空っぽの財布だった。富田林からの直線距離で三百五十キロ、走った距離は千キロを超えている。八つの府県を跨いで逃げた末の終点が、道の駅のレジの前だった。締まらない結末だ。
逃げても罪にならない人がいる
この事件で男に適用されたのは、刑法九十八条の加重逃走罪だった。少し法律の話をする。逃げただけなのか、何かを壊して逃げたのかで、同じ逃走でも条文と刑の重さががらりと変わってくる。
刑法は九十七条から百二条までを、逃走に関する規定に充てている。単純に逃げただけなら九十七条の逃走罪で、当時の法定刑は一年以下の懲役だから、正直なところ軽い。意外な軽さだ。
器物を壊したり、暴行や脅迫を用いたり、二人以上で示し合わせて逃げたりした場合には九十八条が適用される。刑は三月以上五年以下まで跳ね上がる。男はアクリル板を鉄枠から外して逃げた。だから加重逃走になる。
ややこしいのは、この条文が誰を対象にしているかだ。当時の九十七条は、裁判の執行によって拘禁された既決や未決の者、つまり勾留状が出ている人間を想定していた。逮捕されただけで、まだ勾留の手続きに入っていない段階の人が逃げても、逃走罪では問えない。ここに穴がある。
刑事弁護をやっている弁護士が、この穴を前から不思議がっていた。同じように走って逃げても、勾留状という書類が一枚出ているかどうかで、罪になったりならなかったりする。妙な話だよね。
理屈の上での説明は一応つくにしても、現場の感覚とは噛み合わない。富田林の一件が注目されたことで、この規定の古さも、あらためて話題にのぼることになった。思わぬ副産物だ。
その後、刑法の逃走関連の規定は見直しの対象になった。逮捕されている段階の人間も、逃走罪の射程に入る方向へ改められていく。ひとりの男が接見室の板を蹴り外したことが、ずいぶん遠回りではあるけれど、法律の条文まで動かした。妙な置き土産だ。
十四人の処分と、鳴るようになったブザー
十月十二日付で、大阪府警は関係者の処分を発表した。署長は減給のうえ警務部付へ更迭され、留置管理の担当者を含めて、処分を受けたのは合計十四人にのぼる。大量処分だ。
逃走当夜、当直だった署員が何をしていたかも明らかになった。私用のスマートフォンで、プロ野球中継の経過を追いかけながら、その合間にアダルトサイトの動画を眺めている。定時にやるはずの巡回も抜けていた。勤務中の話だ。
一時間四十分の説明としては、これ以上ないほど分かりやすい。誰にも気づかれなかった空白の理由が、署員の手元の小さな画面ひとつで、あっさり説明できてしまう。頭を抱えたくなる。
設備の側も一斉に見直された。接見室の仕切りは全国の警察署で点検対象になり、アクリル板の固定方法が変わり、枠ごと交換した署も出た。呼び出しブザーは電池式から配線式への切り替えが進み、電池を抜くという小技が物理的に使えなくなっていく。
面会終了時の手順も書き換わった。弁護士が退出するときは必ず署員に声をかけて確認を受け、被疑者が室内に残ったまま周囲から人が消える時間を作らない。当たり前すぎる手順が、事件のあとでようやく紙に書かれた。遅すぎる話だ。
留置場の巡回記録の様式も厳しくなった。私物のスマートフォンを留置場へ持ち込むことを制限する運用も、各地の警察へと広がった。全国の留置管理の空気が、この一件で明確に一段階締まっている。当然の措置だ。
弁護士の側にも余波が及んだ。接見交通権は守られるべき権利で、警察が会話に立ち会うわけにはいかない。それでも退出時のひと声だけは別だ、という整理が現場でついた。信用と管理のあいだに、細い線が一本引かれたことになる。
法廷で男が言ったこと
裁判は大阪地裁の支部で開かれた。逃走に使った自転車や食料品、電気シェーバーの窃盗については、間違いありませんとあっさり認めている。争ったのは重い部分だった。
アクリル板の損壊については、法廷で、知らない人が入ってきて気がついたら外れていたと述べている。押し入って暴行した件についても、別の人物の仕業だと言い張った。さすがに無理筋だ。
傍聴していた人の感想は、だいたい同じところに落ちる。何も話さなかった。逃走中の四十八日間に何を考えていたのか、その心境を自分の口から語る場面も、結局まったくなかった。
菅笠をかぶった理由も、周防大島の海で素潜りをした日のことも、とうとう法廷には一言も出てこない。いちばん聞きたかった部分だけが、ぽっかり空いたまま審理が終わった。もどかしい。
検察の求刑は懲役十八年。2020年七月の判決は懲役十七年で、争われた末に、2022年三月二十八日にその刑が確定している。逃走の代償は重い。
いまでも四国の道の駅には、白い笠を載せた自転車がやってくる。地元の人は、以前ほど気軽には声をかけない。無理もない。千年ぶんの作法にできた傷は、まだ塞がりきっていない。
