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1時間40分の空白――トリカブト保険金殺人事件、二つの毒と自白なき無期懲役をめぐる14年の記録

1986年5月20日の午後、石垣島のホテルのロビーは、まだ夏になりきらない湿った空気で満ちていた。チェックインを済ませたばかりの女性が、いきなり床にしゃがみこんだ。汗が吹き出している。寒いと言う。手足がしびれて力が入らない。

一緒に来た友人たちは最初、船と飛行機を乗り継いだ疲れだと思った。ほんの数分後には、その考えは吹き飛んでいた。ここで倒れた彼女について、先に二つだけ書いておく。

彼女は33歳だった。3か月前に結婚したばかりだったんだよ。そして、その夫はこの島にいなかった。

これから書くのは、日本の犯罪史でくり返し「例がない」と言われてきた一件の話だ。トリカブト保険金殺人事件。1986年に起き、1991年に逮捕があり、1994年に一審判決が出て、2000年にようやく確定した。

動いた時間の長さだけでも異常だ。でも、本当に異常なのはそこじゃない。自白がないまま、状況証拠だけで無期懲役が導かれた。しかもその決め手になったのが、法廷で戦わされた毒物学の理屈だった。ここから、時間の順に一つずつ見ていく。

那覇での一泊と、朝の「急用」

1986年5月19日、神谷力と妻の利佐子さんは沖縄県那覇市に到着している。結婚は同年2月。二人だけの旅じゃない。利佐子さんの友人たちも合流する予定になっていた。報道では新婚旅行と呼ばれ、周囲も実際にそう受け取っていた。

結婚から3か月、遅れてやってきた祝いの旅というのが、いちばん近い感覚だろう。翌20日の午前中、一行は那覇空港にいた。石垣島行きの便に乗るためだ。ところが11時40分ごろ、神谷が急に「急用を思い出した」と言い出す。

自分はここで引き返す、みんなは予定どおり行ってくれ、と。妻と友人3人はそのまま搭乗し、正午過ぎに石垣島に着いた。この「急用」が、のちに何百回も検証されることになる。当時は誰も気に留めなかった。

仕事熱心な夫が急に呼び戻された、その程度の話だ。旅先で夫だけが先に帰る、よくある光景でもある。ただ、この日を境に、神谷と利佐子さんの物理的な距離は、決定的な重さを帯びた数字に変わってしまった。まあ、その数字の話は後でたっぷりする。

ホテルのロビーから八重山病院まで

石垣島に着いた一行は、ホテルに入ってチェックインを済ませた。荷物を部屋に運ぶ前だったか、後だったか。証言によって細部は揺れる。はっきりしているのは、その直後に利佐子さんが苦しみ出したことだ。

大量の発汗、悪寒、手足の麻痺。友人たちは慌ててフロントに走り、救急車を呼んだ。搬送先は県立八重山病院。ところが救急車の中で心肺停止に陥っている。

病院に着いたときにはすでに危機的な状態で、蘇生の努力は続けられたものの、心臓は一度も正常な拍動に戻らなかった。死亡が確認されたのは15時4分。彼女が苦しみ出してから、あまりに短い時間だった。

友人たちの受け止め方は、後年のインタビューや報道で断片的に伝わっている。共通しているのは、信じられなかった、という一点だ。健康な33歳が、離島まで飛行機で来られるくらい元気だった人が、荷ほどきもしないうちに死ぬ。医学的な説明を求める以前に、事実として飲み込めない。

誰かが夫に連絡し、神谷は那覇から急いで石垣島へ向かった。悲嘆に暮れる夫の姿を、その場にいた人たちは見ている。この時点では、これは事件ではなかった。若い女性の突然死。それだけだった。

「急性心筋梗塞」の後ろに書かれた小さな一文字

沖縄県警は、遺族と神谷本人の承諾を得たうえで行政解剖に付した。執刀したのは、当時琉球大学医学部の助教授だった大野曜吉だ。東北大学を出て、大学院と助手を経て琉球大に来ていた法医学者で、この一体が、その後の人生をまるごと変えてしまうことになる。

解剖所見は「急性心筋梗塞」。心臓の一部に小さな鬱血はあった。でも、内臓に病的な変化はない。血管が詰まった痕も、はっきりとは見えない。

若く健康な女性が旅行先で急死する、その理由を説明できるだけの所見が、体のどこにも出てこなかった。大野は診断名の後ろに「疑」の一文字を添えた。断定していない、という意思表示だ。ここはあとで効いてくるので、覚えておいてほしい。

ここで大野は、法医学者としては地味だが、後に決定的な重さを帯びる判断をしている。心臓と、血液30ccを保存した。通常、解剖時に採る血液はこれより少ないことが多い。

ただ、行政解剖では、後から遺体を再び解剖することはできない。だから引っかかりがあるときは、多めに採って残しておく。そういう習慣の延長線上の判断だった。

大野は後年、この件について繰り返し語っている。疑問を持つと最後まで調べないと気が済まないたちだった、と周囲は評する。組織学的にも体に痕跡を残さない毒物というのは、一体何なのか。その問いを、彼は5年間抱え続けることになる。

研究室の冷凍庫の中で、30ccの血液が黙って待っていた。この保存がなければ、事件はおそらく永遠に「急性心筋梗塞」のままだった。日本の法医学史で、たった一人の判断がここまで結果を左右した例は、そう多くない。

5年で3人の妻を亡くした男

神谷力は1939年、宮城県仙台市に生まれている。父は東北大学工学部の教授だった。知的水準の高い家庭という言い方をされることが多い。けれど、幼少期は決して平穏じゃない。

父は戦後、教授職を離れて政党の活動に身を投じ、1948年ごろに拘束されている。残された母は生活の急変に耐えかね、やがて自死した。神谷が小学校5年生のときだ。本人の手記によれば、母は苦しみながら息を引き取ったという。少年は工場に住み込みながら学校に通った時期もある。

高校卒業後に上京し、書店、音響機器メーカー、空調機の会社と職を変えた。1965年に最初の妻と結婚。1970年代初めには、勤め先の女性と関係を持つようになる。その関係は10年近く続いた。

1981年、最初の妻が死亡する。心筋梗塞。38歳だった。この時点では保険金は絡んでいない。

翌年、長く関係のあった女性と再婚する。二人目の妻には、神谷を受取人とする1000万円の保険が掛けられた。1985年には、この二人目の妻も急性心不全で死亡する。やはり38歳だった。

同じ1985年の11月、神谷は池袋のクラブでホステスとして働いていた女性と出会う。前の妻の死から2か月ほどしか経っていない。翌年2月に結婚。それが利佐子さんだった。

数えてみると、神谷は1981年から1986年までの5年間に、3人の妻を立て続けに亡くしている。全員が若く、全員が心臓に関わる病名で、全員が突然死だった。この事実の並びだけで、大勢が「おかしい」と感じた。

ただ、当時の刑事司法にとって、「おかしい」は証拠じゃない。念のため書いておくと、前の二人については、有罪判決が確定した事実ではない。だから、ここでも断定はしない。それでも、この並びが世間の空気を一変させたことだけは記録しておきたい。

4社で1億8500万円という数字

利佐子さんには、神谷を受取人とする生命保険が掛けられていた。1社じゃない。4社にまたがり、合計で1億8500万円。月々の保険料はおよそ18万円になる。

1986年の物価と給与水準を考えると、まともなサラリーマン世帯の家計から出せる額じゃない。しかも加入したのは、彼女が亡くなるわずか20日前だった。保険料は1回しか払われていない。正直、この並びだけで寒気がする。

加入から死亡までの日数と、掛金の支払い回数と、金額の大きさ。この三つが揃った瞬間、保険会社の査定部門は色めき立つ。業界には昔から「加入直後の高額死亡」を警戒する経験則がある。統計的にも、それは詐欺やモラルリスクを疑うべき典型的なシグナルだ。

保険会社は支払いを保留した。理由として持ち出したのは、殺人の疑いじゃない。告知義務違反。利佐子さんが以前、神経系の病気で通院していた事実を、契約時に伝えていなかったのではないか、というのがその主張だった。

この選択には、当時の制度的な背景がある。生命保険というのは、他人の死によって金が動く仕組みだ。だから昔から、賭博的な利用や、被保険者の生命が危険にさらされる事態をどう防ぐかが最大の設計課題だった。

日本では被保険者本人の同意を要求する方式が採られ、受取人が故意に被保険者を死なせた場合には保険者は免責される、というルールも置かれていた。ただ、「故意に死なせた」ことを保険会社が自力で立証するのは、まず不可能に近い。捜査権もなければ解剖もできない。

だから実務では、より立証しやすい告知義務違反という入口から、契約の効力そのものを争う。この事件で保険会社が取ったのも、まさにその常套手段だった。

保険金殺人が「時代の犯罪」だった頃

ここで時代背景の補足。1980年代の日本は、保険金殺人という言葉が新聞の見出しに頻繁に出た時代だった。高度成長期に急拡大した生命保険が社会の隅々まで行き渡り、一世帯あたりの加入件数も保障額も膨らんでいた。営業職員が数字を追い、加入のハードルはどんどん下がっていく。その一方で、加入者の実像を審査する仕組みは追いついていなかった。

制度の設計思想そのものは、かなり早い段階から危険を意識していた。他人の死に保険を掛けるという行為は、放っておけば賭博になるし、被保険者の生命を危険にさらす。だから日本の法律は、他人の死亡を対象とする保険契約には被保険者本人の同意が要る、という仕組みを採った。

同意さえあれば何でもいい、という話でもない。契約者や受取人と被保険者の関係を見ながら、引き受けるかどうかを保険会社が総合的に判断する。それが建前だ。

でも建前は、現場で常に守られるとは限らない。契約を取りたい営業と、審査を厳しくしたい査定部門の緊張関係は、どの時代のどの会社にもある。加入から20日で高額の死亡保険金が請求されるというこの事件の事実関係は、当時の業界にとって最悪のシナリオそのものだった。

事件後、保険各社は高額契約の引受基準や契約確認の運用を見直していった。こうした事案の積み重ねがあったからでもある。制度が変わるとき、たいてい後ろには具体的な死者がいる。

友人たちが声を上げる

事態を動かしたのは、警察でも保険会社でもなかった。利佐子さんの友人たちだ。彼女たちが不審に思っていたことは、いくつもあった。神谷は出会ってからわずか6日目にプロポーズしている。大量の金品を贈っていた。

職業は公認会計士だと名乗っていた。なのに、公認会計士の名簿を調べても神谷の名前が出てこない。ここからが大事なところだ。利佐子さんが「滋養強壮剤をもらった」と言って、白いカプセルをときどき飲んでいるのを、友人たちは何度も目にしていた。

空港でのことを覚えている人もいた。搭乗前のことだ。利佐子さんが夫から何かを渡され、それを口に運んでいた。滋養強壮剤だと本人は言っていた。当時の感覚では、疑う理由のない光景だ。

妻の体を気遣う夫。むしろ微笑ましい。友人たちがその場面を思い出して背筋が寒くなるのは、ずっと後になってからだ。

誰一人として、タバコ以外に彼女が何かを口にしたのを見ていない、と神谷は後に手記で書いている。この一文をどう読むかで、事件の見え方は変わる。

利佐子さんの遺族と友人たちがその後どういう時間を過ごしたのかは、多くが表に出ていない。ただ、彼女たちが疑いを口にし始めたのが、葬儀からそう間を置かない時期だったことは分かっている。

身内を亡くした直後の人間が、悲しむより先に「これはおかしい」と考え、証拠を探して奔走する。そういう状態に追い込まれること自体が、遺族にとってのもう一つの被害だ。

友人たちはまず警察に訴えた。取り合ってもらえなかった。無理もない、と言うこともできる。行政解剖の結果は急性心筋梗塞で、事件性なしと処理されている。捜査機関にとっては終わった案件だ。

それでも彼女たちは諦めなかった。次に向かったのが、新聞社と週刊誌だった。

この行動を、あとから振り返って「執念」と表現するのは簡単だ。けれど当時の彼女たちの立場を想像すると、もっと切実だったはずだ。考えてみてほしい。友人がいきなり死んだ。夫の話は何ひとつ裏が取れない。

警察は動かない。誰も自分たちの違和感を引き受けてくれない。訴える先を探して歩き回るしかなかった。そして実際、その足で歩いた距離が、5年後の逮捕につながっていく。

スポーツ紙と写真週刊誌、そしてワイドショーの季節

反応したのはスポーツ紙と写真週刊誌だった。当時の写真週刊誌は最盛期で、疑惑の人物を追い回す取材手法が世間の関心を独占していた。スポーツ紙の記者の中には、神谷が利佐子さんにプロポーズした段階から、怪しい人物として追いかけていた者もいたという。

逮捕までの5年間、断続的に紙面を作り続けた記録が、後に一冊の本にまとめられている。1990年の秋以降、テレビが本格的に乗り出す。全国ネットの朝の情報番組が、連日この事件を扱った。

アナウンサーやリポーターが現場に飛び、関係者に当たり、スタジオで模型や図解を使って「時間差」の謎を説明する。同じ時期、世間は別の大型疑惑報道の記憶をまだ生々しく抱えていた。1980年代のワイドショーには二つの大疑惑があった、という言い方が今も残っている。そのうちの一つが、この事件だ。

報道の熱は、二つの相反する働きをした。ひとつは、警察を動かしたこと。世間の関心が高まれば、捜査機関は無視できなくなる。もうひとつは、被疑者扱いされた人物に反撃の材料を与えたことだ。

神谷は自分で手記を作り、報道各社に配り始めた。私は悲劇の夫であり、マスコミに人格を破壊されている、という主張だ。産経新聞が2024年に警視庁150年の連載でこの事件を取り上げたときも、紙面には手記の写真が載っている。神谷が関与を否定するために作った私家版の手記だ。彼はそういうやり方を、逮捕後も、判決後も、死ぬまで続けた。

「疑惑」という商品

この時期のテレビと雑誌の作法を、少し具体的に書いておきたい。まだ逮捕されていない、起訴もされていない人物を「疑惑の人」として扱い、自宅前に張り込み、外出時にマイクを突きつけ、過去の関係者を探して回る。得られた断片をスタジオで並べ、コメンテーターが「これはおかしい」と言う。

視聴率が取れるので、翌日も同じことをする。1980年代の情報番組は、そうやって一つの疑惑を何か月も引っ張る技術を磨いていた。この事件が「ロス疑惑」と並べて語られるのは、手法がそっくりだったからだ。決定的な証拠はない。

でも、状況は限りなく黒い。その隙間を、視聴者の推理欲が埋めていく。番組は毎日、少しずつ新しい断片を出す。連載小説を読むような感覚で、日本中が事件の続きを待った。

いまの目で見ると、この報道の熱には二つの顔があったことが分かる。ひとつは、警察が動かない案件を社会の表に引きずり出す力だ。友人たちの訴えは、警察の窓口では止まった。でも、テレビと雑誌では止まらなかった。

漁業関係者からの通報も、テレビを見た人からもたらされている。報道がなければ、この事件の捜査に必要な情報の相当部分は集まらなかった可能性が高い。

もうひとつの顔は、当然ながら暴力性だ。疑惑報道は、有罪判決の代わりにはならない。この件では最終的に有罪が確定したので、結果オーライの物語になっている。けれど同じ手法が無実の人に向けられた例を、日本の報道史はいくつも抱えている。

取材する側の職業倫理の問題であると同時に、それを毎日楽しんで見ていた側の問題でもある。当時テレビの前にいた人々の中に、自分もその熱の一部だったと覚えている人は、いまもそれなりにいるはずだ。

民事法廷が刑事事件を起こした

保険会社が支払いを保留したので、神谷は保険金の支払いを求めて民事訴訟を起こした。ここが、この事件のいちばん奇妙で、いちばん面白い部分かもしれない。一審の東京地裁は、告知義務違反はなかったと判断した。神谷の勝訴。1990年2月のこと。

この時点で彼は、法的には「保険金を受け取る権利のある悲劇の夫」だった。保険会社は控訴した。控訴審の法廷で、事態がひっくり返る。1990年10月、証言台に立ったのは、4年前に石垣島で解剖を執刀した大野曜吉だった。あの「疑」の一文字の主。

彼はそこで、利佐子さんの死因は毒物による可能性がある、と述べた。法廷にいた人間にとって、これは爆弾だった。民事訴訟の争点は告知義務違反、つまり契約時に病気を隠したかどうかだ。

そこに、死因そのものが毒だ、という話が持ち込まれた。争点の次元が変わってしまったわけだ。神谷は訴訟を取り下げた。1億8500万円は、ついに一円も支払われていない。

この証言は、刑事事件の引き金になった。民事の法廷での一言が、殺人捜査を起動させた。日本の刑事事件で、こういう順番で動いた例はほとんどない。

別件逮捕から、殺人と詐欺未遂へ

1991年6月9日、警視庁は神谷を業務上横領の容疑で逮捕した。勤務先の部品メーカーでの金銭処理をめぐる事件だ。彼は1988年に経理部長にまで昇進していたが、疑惑報道が強まった1990年に退職していた。

7月1日、警視庁は神谷を殺人と詐欺未遂の容疑で再逮捕する。5年前の妻の死が、正式に殺人事件として立ち上がった瞬間だった。

捜査を担当したのは、警視庁捜査一課の強行犯捜査第二係。難事件をじっくり掘り返す部署で、「穴掘り班」と呼ばれていた。中心にいたのは「落としの金七」の異名を持つベテラン刑事だったと伝えられる。名前のとおり、自供を引き出すことで知られた刑事だ。

ところがこの事件では、その異名は最後まで実を結ばなかった。神谷は一貫して否認したからだ。

別件逮捕という手法をめぐる議論

ここで一つ、刑事訴訟法の教室で必ず議論になる論点に触れておく。神谷がまず横領で捕まり、その勾留中に殺人で再逮捕されたという流れだ。

本命の事件で逮捕状を取るだけの証拠がまだ揃っていないときに、別の軽い事件で身柄を確保し、その間に本命の取り調べを進める。これがいわゆる別件逮捕で、日本の捜査実務では長く使われてきた一方、令状主義の潜脱ではないかという批判も浴び続けてきた。

身柄を取れば取り調べができ、取り調べができれば自白が取れるかもしれない。その誘惑が制度の穴を広げる、という理屈だ。

ただ、この事件では議論がやや複雑になる。横領それ自体が実体のある事件だった点と、結局のところ被疑者が最後まで落ちなかった点があるからだ。取り調べで自白を取ることが目的だったとすれば、その目的は達成されていない。

有罪を支えたのは供述じゃない。5年前の血液と、そこから組み立てられた科学的な推論だった。皮肉な言い方をすれば、この事件は自白偏重の捜査手法が通用しなかった事例でもある。

冷凍庫の30ccが語り出す

5年前の事件だ。普通なら証拠はない。ところが大野は、5年間ずっと考え続けていた。文献を読み漁り、体に痕跡を残さず、あの症状の出方をする毒物は何かを潰していった。

そして、植物毒であるアコニチンにたどり着く。トリカブトに含まれる成分。保存されていた心臓と血液が、琉球大学と東北大学で改めて分析された。アコニチンが検出された。5年越しの答え。

この瞬間、利佐子さんの死は病死ではなくなった。捜査は一気に加速する。ここから先に集まってくる証言が、この事件のいちばん人間くさい部分でもある。

福島県の山あいで高山植物を扱っていた店主が、警察に、そして後には法廷に出てきた。数年前、神谷に数十鉢という単位でトリカブトを売ったという。園芸の世界では、トリカブトは珍しい注文じゃない。紫の花は品があって人気がある。

だから店主にとっては、まとめ買いをする熱心な客、それ以上でも以下でもなかった。事件報道でその客の顔を見たとき、彼が何を感じたかは想像するしかない。法廷で証言台に立った植物店の店主というのは、日本の刑事裁判でもそう見かける光景じゃない。

彼が語ったのは、ただ商売の記憶だった。その記憶が、一人の人間の一生を左右する証拠になった。

アパートの大家の証言にも、同じ種類の重みがある。神谷が借りていた部屋について、大家は、水道代と電気代が異常に高い月があったと述べた。生活の実感から出た違和感だ。人が住んでいるにしては使い方がおかしい。

日常的にその建物を管理している人間だけが持てる感覚だ。警察がその部屋を調べると、畳からトリカブトの毒が検出された。大家は自分の証言が、そこまでの重さを帯びるとは思っていなかっただろう。

そこへ、テレビを見た漁業関係者からの通報が届く。大学の研究者を名乗る男が、クサフグを大量に買い付けていた、というのだ。これも同じ構図だ。買いに来た客がいた。研究者だと名乗ったんだよな。

だから売った。それだけの話が、何年も経ってから、テレビの画面越しに意味を帯び始める。通報した人は、番組を見ながら「あの人だ」と気づいた瞬間の感覚を、たぶん一生忘れない。

この通報が、事件の性質を根本から変えることになる。警視庁は保存されていた血液を、東北大学の協力を得て改めて調べ直した。今度は、フグ毒であるテトロドトキシンが出た。

トリカブトとフグ。被害者の体から、性質のまったく異なる二種類の毒が検出された。この事実の重さが分かるのは、もう少し先の話になる。

トリカブトという名前が日本中に広まった日

事件報道を機に、トリカブトという植物の名前は一気に全国区になった。秋、枝分かれした茎の先に、兜のような形の濃い紫の花をつける多年草だ。山野の林床に自生し、園芸品種も流通している。要は、どこかに隠された特別な植物じゃない、身近な植物だ。

有毒であることは古くから知られていた。狩猟民族が矢に塗る毒として使ってきた歴史がある。北方の狩猟文化では、仕留めた獲物の肉を食べられるように毒の性質を扱う知恵も伝わっていた。漢方の世界でも、加工を前提とした生薬として扱われてきた歴史がある。

危険であることと、人の暮らしの近くにあることが、昔から両立していた植物なんだよな。この事件以降、日本人がトリカブトに対して抱くイメージは決定的に変わった。園芸店の店頭に並ぶ紫の花を見て、事件を思い出す人が出てきた。まあ、無理もない話だ。

山菜採りの季節に自治体が出す注意喚起も、この事件の後は言葉の重みが違ってきた。現に、春先の芽の時期には食用の野草と見分けがつきにくく、誤食による事故が今も起きている。花が咲いていれば間違えようがない。でも、芽吹きの頃は難しい。

一つの殺人事件が、一つの植物の社会的な意味を書き換えてしまった例として、これは相当珍しい。

「1時間40分」という壁

起訴された神谷は、法廷で無罪を主張した。言い分はこうだ。トリカブトは観賞用に買った。フグは食品会社を起こす準備のために買った。

確かに、彼は1981年ごろに食品関連の会社の設立準備をしていた形跡がある。だから購入それ自体は犯罪の証明にならない、というのが弁護側の理屈だ。でも、弁護側の本丸はそこじゃなかった。狙いは、時間。

アコニチンは即効性の毒として知られている。摂取から症状の出現までは、一般に15分から30分程度とされる。ところが、神谷が那覇空港で妻と別れてから、利佐子さんが石垣島で苦しみ出すまでには、およそ1時間40分の開きがあった。

神谷はその間、別の島にいた。物理的に飲ませることができない。弁護側は、これを「鉄壁のアリバイ」として押し出した。毒物の性質そのものが、被告人の無実を証明している。

理屈としては強い。しかも、この理屈は科学に依拠している。検察が持ち出した科学的証拠を、同じ科学で殴り返す構図だ。正直、検察にとってこれは痛い一撃だ。

検察は反撃を試みた。利佐子さんが白いカプセルを飲んでいたという友人たちの証言を踏まえ、カプセルが胃で溶けるまでの時間を稼げば説明がつくのではないか、と考えた。千葉大学に検証を依頼している。

結果は検察にとって最悪だった。カプセルを二重、三重にしても、遅らせられるのは5分から10分程度にすぎない。80分の空白は、どうやっても埋まらない。

当時、この検証結果が伝わったとき、ワイドショーのスタジオでも同じ実験が繰り返されていた。みんなが時間差を埋めようとして、誰も埋められなかった。壁は壁のまま。弁護側の主張が正しいのではないか、という空気が、法廷の内にも外にも流れた。

拮抗――法廷を動かした毒物学の争点

ここからが、この裁判の核心だ。断っておくが、以下は法廷で何が争点になったかという話であって、それ以上じゃない。具体的な入手先や作り方や量については、この先も一切扱わない。扱う必要もない。

争われたのは、あくまで「そういう現象が起こりうるのか」という一点だからだ。

二つの毒が同じ舞台に立っている

大野が法廷で示したのは、次のような理屈だった。アコニチンとテトロドトキシンは、まったく別の生き物に由来する毒でありながら、体の中で同じ場所に作用する。細胞膜にあるナトリウムチャネル、つまりナトリウムイオンの出入り口だ。

ただし、作用の向きが正反対だ。テトロドトキシンはこの出入り口をふさぎ、ナトリウムの流入を阻む。だから中毒症状の主役は麻痺になる。

一方のアコニチンは、逆に出入り口を開きっぱなしにして、ナトリウムを細胞内に流れ込ませる。心筋では致死的な不整脈を引き起こす。

同じドアに対して、片方は鍵をかけようとし、片方は閉まらないように押さえている。両方が同時に効いていれば、ドアの動きは中途半端になる。これが「拮抗作用」だ。

肝心なのは、二つの毒が体から消えていく速さが違うことだ。テトロドトキシンのほうが早く抜ける。つまり、はじめは両者が拮抗して症状が抑え込まれ、フグ毒側が先に力を失った時点で、押さえ込まれていたアコニチンが一気に前に出る。

症状の発現が、後ろにずれる。これが、80分の空白を説明する仮説だった。

鑑定はどう組み立てられたか

大野はこの説を、法廷での思いつきとして述べたんじゃない。マウスを使った実験で確かめている。アコニチンを単独で与えた群では全例が死亡したのに対し、テトロドトキシンを混ぜた群では一部が生き残り、死亡までの時間も延びた。この結果が、拮抗が実在するという主張の骨格になった。

裁判が終わった後も、大野の研究室ではこのテーマの研究が続いている。彼は琉球大学から日本医科大学に移り、そこで長年にわたってアコニチンとテトロドトキシンの体内動態を追い続けた。

血中濃度の時間変化を測る分析法を確立し、混合投与時に心電図がどう変わるかを調べ、呼吸数や血中酸素飽和度まで含めて比較した。定年退職記念の講演要旨には、この事件が「その後の人生に大きな影響を与えた一解剖例」だったと書かれている。一つの解剖が、一人の研究者の30年を規定した。

その後の研究では、話がもっと複雑なことも分かってきている。組み合わせによっては死亡率が下がり死亡時間が延びる一方、フグ毒の側が過剰になると呼吸抑制が前面に出て、かえって早く死ぬ例が急増した。

拮抗は万能のブレーキじゃなく、ごく狭い条件でしか成り立たない現象だった。皮肉なことに、この「条件が狭い」という後年の知見は、当時の弁護側の疑問と部分的に重なっている。

弁護側はどう争ったか

弁護側は、この鑑定を全面的に争った。争い方は、おおむね三つの層に分かれる。

第一に、現象そのものの再現性だ。マウスで観察された遅延が、体重も代謝も違う人間で同じように起こるのか。動物実験の結果を人体にそのまま外挿することの危うさは、法廷でも科学の世界でも古くから指摘されてきた。

しかもこの鑑定は、事件の後に、事件を説明するために組み立てられている。仮説が先にあって実験が後から来る構造は、どうしても「結論に向かって走った鑑定」という批判を招く。弁護側はそこを突いた。

第二に、その現象が現実に起きたことの証明だ。仮に拮抗による遅延が理論的に可能だとしても、利佐子さんの体内で実際にそれが起きたと言えるのか。血液から二つの毒が検出されたことと、二つの毒が拮抗して80分の遅れを生んだこととは、論理的に別の話だ。

前者は測定の問題だが、後者は再構成された物語だ。弁護側は、検察がその間の飛躍を埋めていないと主張した。

第三に、そもそも被告人がそれを実行できたのか、という点だ。神谷の学歴は高卒だ。大学の研究室に匹敵する知識を、独学でどこまで得られるのか。

弁護側は購入の目的について観賞用であり事業準備であると説明し続け、検察の描く犯行像を「推測の積み重ねにすぎない」と切って捨てた。神谷本人も法廷で、これらは推測にすぎず自分は無実だ、と繰り返している。

ただ、法廷での神谷の様子を見ていた人たちは、別のことも感じ取っていた。毒物についての知識の量と語り口が、素人のそれではなかったというのだ。まるで毒物オタクだった、という表現が伝わっている。自宅には大量の医学書とミステリー小説があった。

弁護側の「知識がない」という線は、この印象と正面からぶつかった。

裁判所は鑑定をどう受け止めたか

日本の刑事裁判には、アメリカのように科学的証拠の許容性を事前に審査する独立の手続きがない。フライ基準やドーバート基準にあたるものが、法定されていないのだ。

鑑定書は、相手方が同意しなければそのままでは証拠にならない。でも、鑑定人を法廷に呼んで主尋問と反対尋問に答えさせれば、よほどのことがない限り証拠として採用される。そのうえで、内容を信じるかどうかは裁判所の自由心証に委ねられる。

この事件で裁判所がやったのは、拮抗説が科学的に正しいかどうかを審査することじゃなかった。反対尋問を経てなお、その説明が合理的な疑いを残さない程度に信用できるかを判断することだった。ここ、けっこう大事な違いなんだよな。裁判所は信用できると判断した。

決め手になったのは、二つの事実が拮抗説と噛み合ったことだった。一つは、二種類の毒が実際に被害者の体から検出されている、という動かしがたい事実。もう一つは、その組み合わせを被告人が現に手元に集めていたことだ。

科学的証拠は、それ単体では有力な情況証拠の一つにすぎない。最高裁の司法研究も、科学的証拠から直接認定できるのはどのような事実か、そこに他の事実を加えると何が推認できるか、という分析的な視点が大事だと説いている。

この事件の判決も、まさにその構造をしている。鑑定は「時間の壁」を取り除いただけだ。壁が消えた後、有罪の重みを支えたのは、それ以外の無数の事実の集積だった。

自白なき有罪という重み

神谷は最後まで自白しなかった。犯行を見た者もいない。毒を飲ませる場面の目撃証言もない。指紋も、それに相当するものもない。要は、直接証拠がゼロ。

日本の刑事裁判は長く「自白偏重」「調書裁判」と批判されてきた。捜査段階の供述調書を大量に積み上げ、裁判官がそれを読み解いて心証を形成する。そのやり方が誤判を生んできたという指摘は、今も続いている。

この事件は、その真逆に位置している。自白がないどころか、被告人は一貫して否認し、獄中から本まで出して無実を訴えた。それでも無期懲役が確定した。

情況証拠だけで有罪を導くことは、法律上は禁じられていない。ただ、そこには蓄積された議論がある。1970年代には、直接証拠がないまま間接事実を積み上げて死刑判決に至った事件があった。裁判所の努力を評価する声と、あれは間違いだったと断じる弁護士の声とが、今も対立したままだ。

この事件から10年後、最高裁は情況証拠による事実認定について重要な判断を示している。2010年4月27日の判決だ。

そこでは、こう述べられた。情況証拠で認められる間接事実の中に、一定の事実関係が含まれていなければならない。被告人が犯人でないとしたら合理的に説明できない、あるいは説明が極めて困難な事実関係だ。個々の推認力が弱い事実をいくら束ねて「全体として考察すれば」と言っても足りない、という趣旨だ。

この基準を後知恵で当てはめてみると、トリカブト事件の証拠構造がどういう性格のものだったかが見えてくる。被害者の体から、由来のまったく異なる二種類の毒が同時に検出された。その二種類を被告人が現に集めていたことも、動かない。

被告人が使っていた部屋から、その一方の毒が出た。金の話もある。加入から20日で高額の保険が掛けられ、受取人は被告人だった。被告人には返済すべき借金があった。

これらの一つひとつを、被告人が犯人でないという仮定のもとで無理なく説明するのは、相当難しい。とくに、二つの毒が同時に出たという点は、偶然や誤検出では説明しにくい。

ただ、法曹の評価が一枚岩だったわけじゃない。科学鑑定に依拠した情況証拠型の有罪認定には、常に危うさがついて回る。科学は進歩する。かつて「真」とされた鑑定結果が、後の知見で覆る可能性は完全には排除できない。

事実、後年の再審事件では、確定判決を支えた鑑定の前提が崩れた例がいくつもある。この事件の鑑定も、当時としては世界的にも例のない領域に踏み込んでいた。だからこそ、有罪を支持する側は「執念の科学捜査」と讃え、慎重派は「仮説に依存しすぎている」と警戒した。その温度差は、確定から四半世紀を経た今も残っている。

判決までの道のり

一審の東京地裁は、1994年に無期懲役を言い渡した。求刑どおりだ。判決は、検察の描いた構図をほぼ全面的に採用した。動機は借金の返済であり、出会って6日でのプロポーズと短期間での結婚は、保険金を目的とした計画の一部だった、と。

被告人が自宅に実験器具を備え、マウスを使って実験を繰り返していたことから、計画性も認定された。神谷は控訴した。東京高裁も一審判決を支持している。彼はさらに上告した。

最後の舞台は最高裁。2000年2月21日、最高裁は上告を棄却した。無期懲役が確定した。

ここまで、とにかく長い。事件発生から13年9か月が経っていた。逮捕からでも8年半以上。

この長さ自体が、事件の難しさをよく表している。証拠の中心が、5年前に保存された血液と、それをめぐる科学的な議論だったからだ。争点が「何が起きたか」ではなく「その現象は起こりうるか」だった裁判は、審理に時間がかかる。

保険金の行方

民事の側は、刑事より先に決着していた。控訴審での大野の証言を受けて神谷が訴えを取り下げた時点で、保険金請求は消えている。4社合計1億8500万円は、支払われないまま終わった。

犯罪の目的物が、犯人の手にまったく渡らなかった。この事件を語るとき、この一点はもっと注目されていい。生命保険という制度は、殺人による利得を絶対に許さないという原則で設計されている。受取人が故意に被保険者を死なせた場合、保険者は免責される。

ところがこの事件で実際に支払いを止めたのは、その原則ではなかった。告知義務違反という、まったく別の入口だった。妙な話だ。最終的に請求を消したのも、判決ではなく一人の法医学者の証言だった。

制度は、想定どおりには働かなかった。でも結果として、目的は達成されたわけだ。この皮肉は、保険法の教科書には載らない。けれど実務家の記憶には残っている。

獄中の17年

神谷は服役中も無実を訴え続けた。1995年に一冊、無期懲役が確定した後の2002年にもう一冊、本を出している。二冊目の内容説明には、いくつもの主張が並んでいる。

マスコミに煽られ、検察にでっち上げられた事件だということ。妻たちはトリカブトやフグの毒では死んでいないこと。自分には完璧なアリバイがあること。

目次には「第一審判決が描く殺人行為の全容」「論理的でない矛盾に満ちた判決」「真実を描くとアリバイが成立する」といった章題がある。彼は最後まで、自分の物語を自分の言葉で書き続けた。

2002年以降は、大きな発信をしていない。再審請求が実を結んだという話も伝わっていない。2012年11月17日、神谷力は大阪医療刑務所で死亡した。73歳だった。死因は病気とされる。

この事件の最後の奇妙さが、ここにある。彼が死んだことがマスコミに伝わったのは、死亡から3か月以上経ってからだった。かつて連日ワイドショーが追い回し、写真週刊誌が張り込み、日本中が名前を知っていた男の死が、誰にも気づかれないまま季節を一つ越えた。あれだけの騒ぎを思うと、嘘みたいな話だ。

報道が事件を掘り起こし、報道が世論を作り、その報道が最後には彼を忘れていた。

なぜ「例がない」と言われ続けるのか

この事件が特別なのは、毒殺だからじゃない。毒殺そのものは、日本の犯罪史に何件もある。保険金殺人も珍しくない。それでも「日本の犯罪史でも例がない」と言われ続けるのは、いくつもの珍しさが一つの事件に同時に詰まっているからだ。

一つ目に、犯行方法が既存の科学の隙間を狙っていた。二種類の毒を組み合わせて、症状の発現を遅らせる。そういう発想は、当時の法医学の教科書には載っていなかった。捜査機関も、鑑定人も、最初は「そんなことは起こりえない」という前提から出発した。

犯人が、専門家の常識の外側にいたわけだ。それを解いたのが、まさにその専門家自身の5年がかりの読書と実験だったというのも、話としてできすぎている。

二つ目に、事件を掘り起こしたのが捜査機関ではなかった。友人たちの訴えがあり、スポーツ紙と写真週刊誌が拾い、テレビが増幅し、その熱の中で保険会社が争い、民事の法廷で法医学者が証言し、そこでようやく刑事捜査が始まった。この順番は、日本の事件史でも相当特異だ。

ワイドショーが事件解決に寄与した例として、今もテレビ番組が繰り返し取り上げるのはそのためだ。ただ、これを手放しで称賛していいのかという問題も残る。報道が疑惑の人物を追い詰める手法は、無実の人間に向けられれば取り返しがつかない。

この事件は結果的に有罪が確定したから、「お手柄」の物語になっている。でも逆の結末だった場合を考えると、背筋が寒くなる。

三つ目に、自白がなかった。取り調べの名手が投入されてなお、被告人は落ちなかった。日本の刑事司法が自白に依存してきた歴史を踏まえると、これは異例だ。自白がないまま情況証拠だけで無期懲役が確定した事例として、この事件は今も刑事訴訟法の議論で参照される。

四つ目に、たった一人の判断がすべてを決めた。1986年5月、石垣島で、一人の法医学者が診断名に「疑」の一字を添え、心臓と血液30ccを残した。前のほうで覚えておいてほしいと書いた、あの一文字だ。あの日の判断がなければ、5年後に分析すべき試料は存在しなかった。事件は事件にすらならなかった。

法医学の世界でこの事件が語り継がれるのは、犯行の巧妙さのためじゃない。この地味な判断のためだ。

語り直され続ける事件

確定から四半世紀、事件発生からは40年近くが経った。それでもこの事件は、定期的にテレビに戻ってくる。

ノンフィクションとしては、捜査の側から書かれたものがあり、2010年前後にはそれを原作としたテレビドラマも作られた。事件を追い続けた記者の側からの記録もある。

日本テレビ系の情報バラエティは、「1時間40分の謎」というタイトルでこの事件を何度も取り上げているし、TBS系も同じ切り口で特集を組んでいる。配信サービスでも、重大事件シリーズの一本として作られた。番組表を眺めていると、数年に一度は必ず誰かがこの事件をやっている。

なぜ繰り返されるのか。答えははっきりしている。テレビ的に完璧な構造をしているからだ。謎の提示があり、鉄壁のアリバイという障害があり、地道な専門家が5年かけてそれを崩すという逆転がある。CMをまたぐ引きの作りやすさで言えば、これ以上の素材はそうそうない。

ただ、繰り返し語られるうちに、話は少しずつ滑らかになっていく。犯人は天才と呼ばれ、法医学者は執念の人と呼ばれ、事件はトリックの物語として整えられる。ネット上の解説記事を並べて読むと、この滑らかさが加速しているのがよく分かる。

数字が微妙に食い違い、時系列が圧縮され、断定されていないはずのことが断定形で書かれる。前の二人の妻の死についても、確定した有罪の範囲を超えて語られていることが少なくない。裁判で認定されたのは、あくまで1986年の一件についてだ。

語り継ぐこと自体は悪くない。ただ、語り継ぐたびに輪郭が丸くなるのなら、たまには元の事実関係に戻ったほうがいい。日付、場所、誰が何を証言し、裁判所が何を認定したのか。ここまで日付と数字にこだわって書いてきたのは、そのためだ。

法医学の側に残ったもの

この事件が最も大きな遺産を残したのは、実は世間ではなく法医学の世界かもしれない。

一つは、試料を残すという習慣の重みが再確認されたことだ。行政解剖では再解剖ができない。だから引っかかった症例では、後から検査し直せる形で試料を保存しておく。当たり前のようでいて、忙しい現場では省略されがちな手間だ。

この事件は、その手間が5年後にどれだけの意味を持ちうるかを、これ以上ないほど劇的な形で示した。

もう一つは、複数の毒物が同時に体内にある場合の解釈という研究テーマが立ち上がったことだ。事件を担当した法医学者は、その後の研究者人生の大半をこのテーマに費やしている。血中濃度の追跡、心電図の変化、呼吸や酸素飽和度への影響。分析技術も、当時とは比較にならないほど進歩した。

彼は定年退職の記念講演で、法医中毒分析の進歩によって毒物を用いた犯罪が防止されることを願う、と書き残している。この事件を出発点にした30年の総括として読める一文だ。

三つ目に、法廷における科学の扱い方という問題を、日本の刑事司法に突きつけたことだ。日本には、科学的証拠の許容性を事前に審査する独立の手続きがない。専門家が法廷で語ったことを、法律家がどう理解し、どこまで信じるか。それは制度ではなくその場にいる人間の力量に委ねられている。

この事件では、それがうまくいった。でも、うまくいかなかった事件も、日本の司法は同じ数だけ抱えている。

怖さの正体

改めて、この事件のどこが怖いのかを考えてみる。毒そのものが怖いんじゃない。怖いのは、症状が出るまでの時間をずらす、という発想だ。

人が突然倒れたとき、私たちは無意識に「直前に何があったか」を探す。その直前を、意図的に無害な時間で埋められる。その場に居合わせないこと自体を、アリバイとして設計できる。因果関係についての人間の直感を、まるごと武器にしている。

もう一つは、死が病死として処理される寸前だったことだ。いや、実際いったんは処理された。急性心筋梗塞という診断名が付き、事件性なしとされ、遺体は荼毘に付された。書類の上では、処理済み。

もし解剖医が引っかからなければ、もし試料を残していなければ、この件は統計上「若い女性の突然死」として終わっていた。そう考えると、こういう終わり方をしている案件が他にどれだけあるのか、という問いが立ち上がる。誰も答えられない。この問いの底が見えないところが、いちばん怖い。

最後にもう一つ、被害者の側から見たときの怖さがある。利佐子さんは33歳で、結婚したばかりで、友人たちと南の島に旅行に来ていた。荷ほどきも済んでいなかった。彼女は自分に何が起きているのか分からないまま、2時間足らずで亡くなっている。

事件はその後、トリックの巧妙さや科学捜査の勝利という枠組みで、何度も語り直されてきた。テレビは「1時間40分の謎」というタイトルを付ける。ミステリー小説顔負けだ、とも書かれる。

でも、その1時間40分は、パズルの空欄じゃない。一人の人間が死んでいく時間だった。この記事も含めて、事件を語る側はそのことを忘れやすい。忘れないでおきたい。

この事件が40年近く語られ続けている理由は、結局のところ二つに集約されると思う。人間はここまで手の込んだことを考えつくのか、という驚き。それでも最後には見つかるのか、という安堵。前者は暗く、後者はわずかに明るい。その二つが同居しているから、この話は何度でも語り直される。

ただ、安堵のほうを支えているのは、制度でも技術でもない。1986年5月20日に石垣島で解剖台に向かった一人の医師が、診断名に納得できなかった、というそれだけのことだ。そういう細い糸で吊られていることを知っておくのは、たぶん悪くない。

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