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兜町の風雲児は、四十年後に火の中で死んだ――投資ジャーナル事件と中江滋樹、集めた金はどこへ消えたのか

二〇二〇年二月二十日、東京都葛飾区南水元の木造アパートの二階から火が出た。焼け跡から見つかった遺体は、しばらく身元が分からなかった。歯型の照合と部屋の契約者情報から名前が判明したのは、五日後の二月二十五日だ。警視庁亀有署が確認した名は、中江滋樹、六十六歳。部屋は六畳一間で、家賃は月四万八千円。

この名前にピンとくる人と、まったく来ない人が、たぶん真っ二つに分かれる。ピンとくる世代にとって、この男は「兜町の風雲児」だ。

一九八〇年代前半、二十代で数百億円を動かし、テレビに出て、銀座で毎月二億円を飲み散らかし、政治家と財界人を高級ホテルのパーティーに呼び集めた。全国から七千人以上の人間が、この男の名前を信じて金を送った。集まった額は、判決で問題になった数字だけでも五百八十億円。当時の五百八十億円だ。

その男が、四十年近く経って、六畳一間で焼けて死んだ。ここまで落差のある人生は、正直そうそうない。しかもこの話、単なる「成り上がりが転落した」で終わらないのが厄介なところだ。

掘れば掘るほど、なんでこんなものに七千人が金を出したんだという疑問が残る。その答えは、中江滋樹という個人の詐術よりも、あの時代の日本が抱えていた気分のほうにある。順番に、全部書く。

短波ラジオを机の下に隠していた高校生

中江滋樹は一九五四年一月三十一日、滋賀県近江八幡市に生まれた。父親が証券会社の社員だった。これが全部の始まりだ。

家に株の話が転がっている環境で、小学生のうちに株を触り始めた。中学ではもうチャートを自分で描いていたという。この時点でだいぶおかしい。

彦根東高校に進むと、名古屋の投資顧問会社「三愛経済研究所」の会員になった。高校生の身分で信用取引をやって、一千万円以上稼いだ。一九七〇年前後の一千万円だ。教員の初任給が三万円台という時代の話になる。

授業中は机の下に短波ラジオを隠して株価を聴く。休み時間になると公衆電話に走って、売買注文を出す。そのうち教師のほうが「どの銘柄を買えばいいか教えてくれ」と頼みに来るようになった、と本人は後年振り返っている。数学は全国模試で三番になったことがある、というのが晩年まで彼の自慢だった。

神戸大学経営学部に進んだが中退し、名古屋の証券会社で、立会場の株価を黒板に書き写す「黒板書き」のアルバイトから始めた。三愛経済研究所には三年ほど勤めている。ここで彼は、投資顧問という商売の骨組みを内側から見た。

相場を当てることより、相場を当てそうに見えることのほうが金になる。この構造を、二十歳そこそこで理解してしまった男の話だと思って読んでほしい。

山科の三万円アパートに、現金書留が山で届いた

二十二歳のとき、京都の山科に月三万円のアパートを借りて、「ツーバイツー」という会社を作った。株価予想レポートを郵送する商売だ。社名の由来が、そのまま彼の看板になる。

二割の儲けを十回続ければ、元手はざっと六倍になる。単利で考えても二倍を軽く超える。これを彼は「ツーバイツー理論」と呼んで売り込んだ。数字のマジックとしては初歩も初歩なんだが、これが刺さったんだよな。

手書きのレポートが「よく当たる」と評判になった。現金書留が毎日山のように届いて、現金を入れる箱に入りきらなくなった、というのが本人の言い方だ。銀行振込も殺到した。一年で京都の河原町の事務所に移る。ここから先は加速しかない。

一九七八年、二十四歳で東京・兜町に出る。社名は「投資ジャーナル」。同名の雑誌を出し、後に『月刊投資家』も出した。彼が推す銘柄は「N銘柄」と呼ばれるようになる。

二十三歳の時点で数十億円を動かしていた、という話が伝わっている。この頃の金額は本人談が多くて、裏が取りにくい。それでも、兜町の人間が「あの若造は何なんだ」とざわつき始めたのは間違いない。

なぜ、あれほど人が金を預けたのか

ここが一番大事なところなので、腰を据えて書く。投資ジャーナルの全盛期は、おおよそ一九七九年から一九八四年だ。この時期の日本がどういう空気だったかを押さえないと、七千六百八十四人という被害者数の意味が分からない。

最初は相場の話。一九八〇年一月の日経平均は、六千八百円あたりにいた。それが一九八五年八月には、一万二千七百円台まで来ている。五年半でほぼ倍。

しかもこれはまだ、バブルと呼ばれる狂騒の前段階にすぎない。日経平均が三万八千九百十五円という歴史的な頂点に達するのは、一九八九年の年末で、投資ジャーナルが潰れてから五年も後の話だ。

中江が暴れていたのは、「まだ全然上がる」とみんなが思い始めた助走期間にあたる。第二次オイルショックの重い空気を、日本経済が予想外の速さで抜け出す。輸出企業の利益が伸び、円安が効き、「日本はどうやら強いらしい」という自己認識が国民のあいだに広がっていく。そんな時期だ。

そこに、二つの燃料が投げ込まれた。

一つは、個人の余剰資金だ。高度成長期に貯めた預金が積み上がり、住宅ローンを払い終えた層が出てきた。定期預金の利息はそこそこ付いた。でも、それより株のほうが儲かるらしい、という話が近所から聞こえてくる。

「財テク」という言葉が普通の家庭の会話に入り込んできたのは、この頃だ。会社員が昼休みに証券会社の店頭に立ち寄る。主婦が電話で注文を入れる。それが特別なことではなくなっていった。

もう一つは、情報格差への不満だ。当時の株式市場は、いまとは比べものにならないくらい閉じていた。決算情報の伝わり方も遅く、証券会社の営業マンが持ってくる話が唯一の情報源、という個人投資家がいくらでもいた。

しかも、みんなが薄々気づいていたんだよな。プロは何か知っている。自分たちが知らない何かを。

投資ジャーナルは、この不満のど真ん中に刺さった。

雑誌を出す。誌面で「絶対に儲かる」売買テクニックを解説する。会員になれば推奨銘柄が届く。会費は一人あたり十万円から数百万円。

この価格設定がまた巧妙で、十万円なら「まあ授業料と思えば」と払える。数百万円のコースまで用意することで、「上のコースにはもっといい情報があるはずだ」と思わせる。

中江本人もテレビに出て、雑誌に出て、髭を生やした長髪の異形として街を歩き、政治家や財界人やスポーツ選手や芸能人と写真に写る。プロ野球の四百勝投手や、日本にハンバーガーチェーンを持ち込んだ実業家と付き合いがあった、という話が本人の口から出てくる。

当時の兜町で、彼は完全に「見世物」であり「スター」だった。アイドル並みの人気、と形容されたのは大げさでもなんでもない。

普通の詐欺は、匿名性の陰に隠れる。投資ジャーナルは逆だった。顔を出しまくった。顔が出ているから信用できる、という判断は素朴だが、人間はだいたいそうやって判断する。

もっと決定的だったのは、実際に儲かった時期が本当にあったことだ。ここを誤解している人が多い。中江は、最初から空っぽの箱を売っていたんじゃない。

上場企業の特許情報を読み込んで相場を張る、という手法を彼は自慢していたし、経営者との人脈から得た話を使ったこともある。本人の話はこうだ。ある建設会社の社長が、パーティーで南米の金鉱の話をした。それを聞いて株を仕込み、三百円が一千円以上になった。

この種の話が本当かどうかはさておき、初期の会員のなかに本当に儲けた人間がいたことだけは動かない。

儲けた人間は、黙っていない。喋る。喋られた人間が、次の会員になる。これが一番強い広告だ。

「うまい話には裏がある」という警戒心より、「乗り遅れたら損だ」という焦りが上回っていた瞬間が、一九八〇年代前半の日本にはあった。中江滋樹は、その瞬間にちょうどいい場所に立っていた。

「十倍融資」という一行

ここで、例の一行が出てくる。

保証金を積めば、その十倍まで株を買う資金を融資する。百万円あれば九百万円貸すから、合計一千万円ぶんの株が買える。これが投資ジャーナルの必殺のコピーだった。

信用取引の仕組みを知っている人なら、当時の制度信用取引の委託保証金率からして、この倍率は異常だと分かる。ところが、分からない人のほうが圧倒的に多かった。

しかも「十倍」という数字は、上がったときの夢を十倍にしてくれる。下がったときの恐怖も十倍になるのだが、上がる前提でしか話は語られない。

問題は、この融資が実体を伴っていたかどうかだ。

裁判で認定されたのは、顧客の多くに対して、実際には株式を引き渡さず「預り証」だけを発行していた、という中身だ。金は集めた、紙は渡した。でも、約束された取引の実態がなかった。

内閣府の消費者行政の資料が、この事件についての裁判所の認定を要約している。その言葉では、顧客の入金と出金のバランスが崩れれば直ちに返済不能になる「自転車操業に近い状態」だった。実質的な証券取引が行われていなかったことが、詐欺の成立根拠とされた。

構造としては、後の豊田商事事件とよく似ている。あちらは金地金の現物を渡さず、契約証券という紙だけを渡した。こちらは株券を渡さず、預り証だけを渡した。名目の商品が違うだけで、骨格は同じだ。

新しい客の金で古い客に払う。払えているうちは誰も文句を言わないし、相場が上がっているうちは、なお文句が出ない。

面白いのは、中江本人がこのコピーの発案者ではないと主張し続けたことだ。二〇一六年のインタビューで彼は、「十倍融資」というキャッチフレーズを考え出したのは自分ではないと言っている。考えたのは、当時の社長だった部下だという。

責任の押し付けとして読むのが自然だ。ただ、これは本人の主張であって、判決がそう認定したものではない。彼が会長として集金構造の頂点にいたことは、確定した有罪判決が示すとおりだ。

柱制度――三千人を回した仕組み

営業組織の作り方も、この事件を理解するには外せない。

中江は「柱制度」という独自の仕組みを敷いていて、京セラのアメーバ経営に着想を得た、と本人は説明している。自分が大黒柱で、その周りに一定の条件を満たした社員を「柱」として五十人認定し、柱には人事権を与える。

月のノルマはおよそ三千万円。初任給は月百万円で、ノルマを達成するたびに月十万円ずつ上がっていく。月百万円の初任給、一九八〇年代前半の話だ。大卒初任給が十万円台の時代に、である。

これが何を生んだか。金が欲しい若い人間が、大量に集まってきた。最盛期には従業員三千人、関連会社およそ二百社という規模に膨れ上がる。二百社の内訳は、雑誌の出版、広告代理、不動産、飲食まで含む雑多なものだった。

営業のインセンティブが「集めた金額」に紐付いていると、組織は自動的に集金マシンになる。上に立つ人間がどれだけ理念を語ろうが、現場は数字を追い、数字を追う人間は断られない話し方を発明する。

この構造そのものが、投資ジャーナル事件の被害を七千人規模にまで押し上げた要因だ。中江ひとりが電話をかけていたら、こんな数にはならない。

ちなみに集めた金の使い道について、中江は後年こう言っている。投資顧問料だけで五百億円くらい稼いだ、株で儲けたのが五十億円、その五十億円は全部飲み食いで使ってしまった、と。

飲み食いで五十億。毎日銀座に通い、赤坂と六本木に流れ、飲み代と夕食代だけで月に二億円を使ったという証言と符合する。ホステスへのチップ、芸者遊び、笑いが止まらなかった、と本人は振り返っている。

兜町のもう一人の怪人

投資ジャーナルの話をするとき、必ず並べて語られる名前がある。誠備グループの加藤暠だ。

加藤は一九四一年生まれで、中江より一回り以上年上。黒川木徳証券の歩合外務員という肩書きで兜町に戻り、一九七七年にダイヤル・インベストメント・クラブを作る。それが誠備グループになる。会員は最盛期で四千人超。動かした資金は五百億円を下らず、保有株式の時価は一千億円程度と言われた。

宮地鉄工所を二百円台から一九八〇年八月に二千九百五十円台まで持ち上げ、発行済株式の七割を買い占めたとされる。ヂーゼル機器、岡本理研ゴム、丸善、安藤建設。誰が仕掛けているかが誰にでも分かる「K氏銘柄」というブランドが成立していた。

加藤は一九八一年二月十六日、東京地検特捜部に所得税法違反で逮捕される。ただし一九八八年の東京地裁判決では、起訴事実の主要部分が退けられた。実質的な無罪判決だった。

彼はその後も相場の世界に残り、二〇一五年十一月に金融商品取引法違反容疑で再び逮捕される。ところが判決を待たず、二〇一六年十二月二十六日に病死した。公訴棄却で幕が下りている。

この二人はよく「兜町の二大怪人」と並べられる。だが、やっていたことの性質は違う。加藤は基本的に株を買い占めて値を吊り上げる相場師で、集めた資金は実際に株式市場に入っていた。中江は、集めた資金の相当部分について、約束した取引をそもそもしていなかったと認定された。

片方は市場のなかで暴れ、もう片方は市場の手前で金を止めたわけだ。この差が、有罪と実質無罪という結末の差にも効いている。

中江が加藤の派手さを見て育った世代であることも、忘れないほうがいい。誠備が一九八一年に潰れた後、その熱狂の受け皿になったのが投資ジャーナルだった。市場から熱が消えたわけじゃない。熱の行き先が、変わっただけだったのだ。

一九八四年二月、足元が崩れ始める

崩壊の始まりは、相場だった。一九八四年二月ごろから、中江銘柄の代表格だった関東電化が急落を始める。証券各社が、中江銘柄の取り扱いを自粛するようになった。ここが分水嶺だ。

仕手戦は、次の買い手がいる限り成立する。証券会社が扱いを渋れば買い手のパイプが細り、値が下がれば、十倍の融資を約束された会員たちの損失も十倍で膨らむ。返金を求める声が出る。

でも投資ジャーナルの資金繰りは、新しい入金に依存していた。入金が細り、出金が増えれば、答えは一つしかない。

その年の七月ごろには、中江の周囲にマスコミが目立って集まるようになる。何かある、というのは業界では既に公然の噂だった。

一九八四年八月二十四日、警視庁が投資ジャーナルと関連会社を摘発する。無免許での証券業に相当する営業を行っていた疑いだった。栄華は、およそ六年で終わった。

この時点で効いてくるのは、摘発が「詐欺」ではなく証券取引法の枠組みから入った点だ。当時、投資顧問という業態を直接規制する法律がなかった。ここが証券行政の穴だった。

証券会社は免許制で厳しく監督される。ところが、「助言をするだけ」を名乗る会社は制度の外にいた。誰でも名乗れて、誰も登録を求めない。

集めた金をどう管理するかのルールもなければ、分別管理の義務もない。監督官庁が定期的に帳簿を見に来ることもない。その穴に、五百億円規模の集金装置が居座っていた。

八か月の逃亡

摘発の前後で、中江は日本を出ている。海外逃亡の期間はおよそ八か月。同行したのは妻ら数人で、報道では計四人とされる。

行き先はアジア各地を転々とし、香港、マレーシア、そしてパリの名が本人の口から出ており、滞在先では家宅捜索も行われた。

彼が帰国した理由が、また彼らしい。テレビ局関係者の葬儀に参列するためだった、と本人は語っている。指名手配同然の身で葬式に出るために帰ってくるという判断は、常人の計算じゃない。もっとも、逃亡先での資金繰りが行き詰まりつつあったという見方もある。

帰国後も、彼はすぐには逮捕されなかった。刑事二人が常に付き添う状態がしばらく続いた、と中江は述べている。この宙ぶらりんの期間が何だったのかは、いまも完全には説明されていない。

証拠固めに時間を要した、という説明が最も素直だ。ただ、後で触れる「政治家の名前」をめぐる駆け引きがあったのではないか、という見方も根強い。

一九八五年六月十九日、警視庁は中江ら十一人を詐欺容疑で逮捕した。

この日付を覚えておいてほしい。翌六月二十一日、大阪で豊田商事の永野一男会長が刺殺される。場所は、報道陣がカメラを構えるマンションの一室。日本中が悪質商法の被害に神経を尖らせていた、まさにその週だった。

二つの巨大な集金事件が、数日を挟んで並んだわけだ。一九八五年前半の日本は、金の話で頭がおかしくなっていた。

公判が認定したもの

一九八九年、東京地裁は中江に懲役六年の実刑判決を言い渡した。認定された被害は、七千六百八十四人から五百八十億円。

数字が資料によって五百八十億円だったり五百八十四億円だったりするのは、起訴された範囲と報道時点の集計の違いによる。どちらにしても、当時の詐欺事件としては桁違いの規模だ。

判決が示した核心は、繰り返しになるが「自転車操業に近い状態」という認定だ。顧客からの入出金のバランスが崩れれば、直ちに返済困難になる。そういう状態でありながら、あたかも安全に運用されているかのように装って金を集めた。実質的な証券取引が行われていなかったことが、詐欺の成立根拠とされた。

ここで、有罪判決が認定した事実と、それ以外を分けておく必要がある。

確定判決が認定したのは、ここまで書いた集金構造と詐欺の成立だ。中江の「投資ジャーナルで七百八十億円を集めたが六百億円は返した」という主張は、本人の弁明だ。裁判所の認定じゃない。

彼は、自分と豊田商事の永野一男は違う、と言い続けた。でも、その線引きが法的に認められたものではない。

同じく、捜査の過程で大物政治家や高級官僚への株の利益供与が判明した、という記述は各所に見られる。けれど、それによって特定の政治家が有罪になった事実はない。

中江本人は後年、政界に十億円をばら撒いた、二百人以上の政治家に五百万円ずつ配った、と口にしている。だがこれは、彼の一方的な証言だ。彼はまた、田中角栄に献金として持参した三千万円を突き返された、とも言っている。となると、彼が名を挙げた最大の大物は、彼の金を受け取っていないという話になる。

さらに彼は、東京地検特捜部の副部長から取引を持ちかけられた、と主張した。「金を受け取った政治家の名前を明かさなければ求刑を四年にする」という取引だ。これも本人の主張で、裏付けは取れていない。検察側がそれを認めた記録はない。

この話を面白がるのは自由だが、事実として扱うのは危ない。

消えた金をめぐる噂

事件の後、ずっと囁かれ続けてきたのが「金はどこへ消えたのか」だ。五百八十億円という認定額に対して、被害者に戻った金は微々たるものだった。

海外に隠した、政治家に流れた、暴力団に渡った、名義を変えて残っている。この手の噂は、事件から四十年経ったいまも、ネット上で繰り返し蒸し返される。

冷静に構造を見ると、答えの大半は身も蓋もないところにある。

第一に、集めた金の多くは、そもそも既存の会員への「配当」や返金に回っていた。自転車操業とはそういうことだ。入ってきた金が、そのまま出ていく。

第二に、営業組織そのものが超高コストだった。初任給月百万円、ノルマ達成で毎月昇給、従業員三千人。この人件費だけで年間どれだけ溶けるか、計算する気にもならない。関連会社二百社の維持費もある。

第三に、本人が認めているとおり、飲み食いで五十億円が消えた。

大金庫のなかに現金が積んであって、それが消えた、という絵ではない。バケツに開いた穴が複数あって、注ぎ込む速度より漏れる速度のほうが速くなった瞬間に破裂した、という話だ。

ただ、全部が説明できているわけでもない。国税は関連する不動産を差し押さえたし、逃亡中の資金がどこから出ていたのかもはっきりしない。

出所後に彼は「十人以上のヤクザの親分から計数十億もの借金を作ってしまった」と語った。これも、事件の金がまるごと残っていなかったことの傍証と読める。金が残っていたら、借りる必要がない。

隠し資産があったとする説は、いまのところ状況証拠すら乏しい。むしろ晩年の彼の生活が、その説を最も強く否定している。

一九八六年五月二十七日、法律が変わった

この事件が残した最大の制度的遺産は、法律だ。

一九八六年五月二十七日、法律第七十四号として「有価証券に係る投資顧問業の規制等に関する法律」が成立した。通称、投資顧問業法だ。投資助言業を登録制に、投資一任業を認可制にする法律で、それまで誰でも名乗れた投資顧問という商売に、初めて国のフィルターがかかった。

制定の直接の引き金が投資ジャーナル事件だったことは、複数の資料が指摘している。逆に言えば、この事件が起きるまで、日本には投資顧問業を直接規律する法律がなかったことになる。

証券会社は免許制で厳格に見られていた。なのに、その隣で「助言」を看板にした会社が野放しだった。制度の穴というより、制度の外だったんだよな。

この法律は二〇〇七年九月三十日をもって廃止され、金融商品取引法に統合された。いま投資助言・代理業の登録が求められ、無登録営業が刑事罰の対象になる。その出発点が、この一九八六年の法律だ。

もう一つ、この時期の消費者被害の連鎖も押さえておきたい。投資ジャーナルの摘発が一九八四年、逮捕が一九八五年六月。豊田商事の破綻と会長刺殺が一九八五年六月。一九八三年から一九八五年にかけて、日本は「紙だけ渡して現物を渡さない商法」に立て続けに殴られた。

豊田商事の導入金は約二千二十二億円で、そのうち償還に充てられたのは約五百五十億円とされる。投資ジャーナルと合わせれば、たった数年で二千五百億円を超える金が、実体のない約束に吸い込まれたことになる。

規制はいつも後から来る。今回もそうだった。

出所、三億円の祝い金、そして反社の金

一九九二年十月一日、中江は滋賀刑務所を仮出所する。刑務所の前には、高級車が待っていた。

手配したのは、テンポラリーセンター、いまのパソナグループの創業者である南部靖之だった。南部は中江の旧知で、盟友関係にあったとされる。出所祝いとして三億円を渡した、という話も伝わっている。

普通なら、ここで人生をやり直す。ところが中江は、また相場に戻った。

出所後の彼が関わったとされる銘柄には、キョクイチ、矢作製鉄などの名が挙がる。一九九七年の暮れには、三井埠頭の経営に食い込んだ。ここで手形が乱発される。

報道によれば、およそ二百六十枚、額面にして百六十億円という規模の手形が発行され、その一部が暴力団関係に流れたとされる。特定の組織から十億円規模の資金を引き出し、焦げ付かせたという話も報じられている。

このあたりは、確定判決で認定された事実とは違う。週刊誌や関係者証言に基づく報道だ。そのつもりで読んでほしい。ただ、中江自身が後年「十人以上のヤクザの親分から計数十億もの借金を作ってしまった」と語っているのは事実だ。

一九九八年四月三十日、中江は突如失踪する。捜す側に暴力団関係者が動いた、という報道もある。ハワイに逃げていた時期がある、とも本人は話している。

二〇〇六年、実家に火をつけようとした男

長い空白のあと、彼の名前がニュースに出たのは二〇〇六年九月二十二日だった。

容疑は、非現住建造物等放火未遂。午後一時十五分ごろ、近江八幡市小幡町の自宅一階に灯油をまき、マッチで火をつけたとして逮捕された。飼い犬のことで近隣とのいさかいを抱えていた、と報じられた。その後、精神科に措置入院となる。

「兜町の風雲児」が実家に火をつけて捕まった、という報道は、当時それなりに驚きをもって受け止められた。ところが本人の説明は、まったく別のものだった。

後年、ジャーナリストとの再会の席で、彼はこう語ったとされる。あれは、殺されるのを避けるために、気が狂ったふりをして起こしたのだ、と。

追われていた。だから精神を病んだことにして、社会から一時的に消える必要があった。この説明が本当かどうかは分からない。彼の言うことは、面白い方向に盛られている可能性が常にある。

ただ、この人物が最も追い詰められていた時期の証言としては、記憶しておく価値がある。

六畳一間、家賃四万八千円

二〇一二年、中江は葛飾区南水元の木造アパートに移る。最寄り駅から徒歩二十分ほどの場所だった。六畳一間で、家賃は月四万八千円。

持ち物は衣服だけで、生活必需品はかつての部下が持ってきた。その支援もやがて途絶え、晩年は生活保護を受給していた。離婚した妻とのあいだに五人の子どもがいたが、家族と連絡を取ることはなかったという。

それでも、彼は相場を見るのをやめなかった。

部屋にはパソコンが三台あって、原油、地金、世界中の相場を毎日見ていた。少額を張り、「投資金額の二、三倍くらいにはなっている」と語ったこともある。二〇一二年の取材では「今、おカネはほとんどありません」と率直に認めている。

二〇一九年九月からは、日刊ゲンダイで自身の半生を振り返る連載を持った。タイトルは「兜町の風雲児」ゼニの哲学。山科のアパートで現金書留が山になった話、二十四歳で兜町に出た話、柱制度の話、逮捕を察知した経緯。彼はそこで、四十年前の自分を、妙に淡々と語っている。

二〇二〇年の正月には、体調を崩していた。血圧が百九十まで上がり、おむつを着けていたという。

二〇二〇年二月二十日

火が出たのは、二月二十日。アパートの二階の一室から出火し、焼け跡から遺体が見つかった。身元は五日後の二月二十五日に、中江本人と確認された。享年六十六。報道は、寝たばこの不始末による火災とみられる、と伝えた。

布団の周囲に吸い殻が散乱していたという記述もある。断定的な原因究明の結果は、公表されていない。

不思議な符合がある。彼が長時間のインタビューに応じた、その直後の出来事だった。

『週刊新潮』などで四十年以上記者を務めた比嘉満広は、五十時間を超えるインタビューを重ねて中江の告白を記録していた。その成果は二〇二一年一月十六日、新潮新書『兜町の風雲児――中江滋樹最後の告白――』として世に出る。中江はその本を見ていない。

記録に残った言葉

比嘉満広は、中江の晩年をこう証言している。出所後しばらくは投資ジャーナル時代の部下が資金援助をしていたが、ここ数年はそれも途絶えて、生活保護を受給していた。それでも相場への興味は失われておらず、パソコン三台を使って、原油や地金など世界中の相場を毎日見ていた。

人間関係については、比嘉はこう言っている。自分のような者が近づくと申し訳ない、と中江は自ら一線を引いていた、と。かつての知人たちに対しても、同じ態度だった。

あれだけ人を集め、あれだけ人に囲まれた男が、最後は自分から人を遠ざけた。比嘉は中江の生涯を、「数奇としか言いようがない」と結んでいる。

取材の手法についても記録がある。日を変え、場所を変え、同じような質問を何度も何度も繰り返す。そうやって記憶の輪郭を削り出していく作業だった。

中江本人の証言も、いくつもある。二〇一六年の雑誌インタビューで、彼は集めた金についてこう言っている。投資顧問料だけで五百億円ぐらい稼いだ、株で儲けたのが五十億円、その五十億円は全部、飲み食いで使ってしまった、と。悪びれる気配が、まるでない。

二〇二〇年のインタビューでは、さらに開き直っている。自分で稼いで自分で全部使ってきたから、何とも思っていない、と。金があったから田中先生や三浦のオヤジなど、たくさんの偉い政治家や財界人にも会えたし、きれいな女の子とも一杯遊んだ、とも。

締めくくりに、彼はこう付け加えた。自分でもボクの人生は数奇だと思っている、と。六畳一間の生活保護受給者が、五百八十億円の詐欺の当事者として、こう言い切る。この感覚のねじれ方が、この人物の核心だと思う。

書評を書いた経済ジャーナリストの須田慎一郎の反応も、証言として面白い。彼は最初、「なぜ今、中江滋樹なのか」と訝しんだと書いている。もう終わった過去の人物だと思っていた。ところが読み進めるうちに、完膚無きまでにやられた、と認めている。

当時の報道が説明しきれなかった経済事件の細部が、五十時間のインタビューで初めて言語化されていた、というのが彼の評価だ。中江という人間は、事件の当事者であると同時に、あの時代の兜町を内側から知る唯一に近い生き証人でもあった。

その証言が本になった直後に、本人が死んだ。記録の側から見れば、ぎりぎりで間に合ったことにもなる。

もう一つ、当時を知る周辺の空気を伝える証言がある。倉田まり子という当時のアイドル歌手をめぐる一件だ。一九八四年に創刊された写真週刊誌『フライデー』の創刊号に、中江と彼女のツーショット写真が掲載された。

撮ったのは中江の会社に出入りしていたカメラマンで、その写真が無断で持ち込まれた、というのが中江の説明だ。中江は彼女に移籍金として七千万円を貸し、雑誌の資金も出していた。

この報道の後、彼女は事実上引退に追い込まれた。購入していた自宅を自ら売却して、借入金を返済している。中江は後年、四、五回デートしただけで男女の関係はない、と語った。

この一件は、事件そのものとは直接関係がない。それでも、投資ジャーナルという集金装置が、金の力で社会の別の領域にまで手を伸ばしていた。その余波が、事件と無関係な人間の人生を壊した。どちらも、記録しておくべきだと思う。

怒りと好奇心、ネットに流れ着いた語り

事件当時の世論は、単純な怒りだけじゃなかったんだよな。

もちろん被害者は怒っていたし、全国から返金を求める声が上がり、会社には抗議が殺到した。ただ同時に、中江滋樹という人物への奇妙な興味も存在した。

二十代で数百億円を動かした若者、高校生で一千万円稼いだ天才、髭と長髪で銀座を練り歩く異形。この物語性が、被害の深刻さを覆い隠す方向に働いた面がある。

一九八五年六月に豊田商事会長刺殺事件が起きたことで、世間の関心は一気にそちらへ流れた。報道陣の目の前で人が刺されるという衝撃の前では、株の詐欺は霞んだ。投資ジャーナル事件が、被害規模のわりに「あまり語られない事件」になった理由の一つはここにある。

ネット時代に入ってからは、また別の語られ方をするようになった。

一つは「伝説の相場師」路線だ。株式投資を語るコミュニティで、中江は加藤暠と並んで神話的に扱われる。数字に強い天才が制度の隙を突いて暴れ回った、というロマン込みの語りだ。事件の被害者からすればたまったものではない語り口だが、実際にそう語られている。

二つ目は「消えた五百八十億円」路線だ。前に書いたとおり、隠し資産説には裏付けがない。それでも「実は海外に残っている」「政治家に流れた」という話は、定期的に浮上する。

この種の噂が消えないのは、返金がほとんど行われなかったという被害者側の実感が根拠になっているからだ。金が戻ってこなかったこと自体は、事実として動かない。でも、戻ってこなかったのは隠されたからじゃなく、既に燃やされていたから、というのが最も説明力の高い仮説だ。

三つ目は、二〇二〇年の火災死をめぐる語りだ。あまりに象徴的な死に方だったせいで、事故じゃないのではないか、という憶測が出た。でも報道されているのは、寝たばこの不始末とみられるという内容までだ。

それ以上のことは分かっていない。分かっていないことを断定するのは、この事件の場合とりわけ意味がない。彼は晩年、体調を崩し、独居で、生活保護を受けていた。日本中どこの木造アパートでも起こりうる火災が、たまたまこの男の部屋で起きた。それだけの可能性が、いちばん高い。

反証として押さえておくべき点も挙げておく。中江の証言はすべて彼自身のもので、裏付けの取れないものが多い。特に政界工作の規模、検察との取引の申し出、返金額七百八十億円のうち六百億円といった数字は、彼の口から出た数字だ。公的な認定じゃない。

彼は生涯を通じて自己劇化の名人だった。面白い話をする人間の話ほど、疑って読んだほうがいい。

なぜ、この事件はいまも語られるのか

理由は三つあると思う。

一つ目は、制度の話だ。この事件がなければ、投資顧問業法の制定はもっと遅れていた。いま個人投資家が投資助言業者の登録番号を確認できるのは、四十年前に七千六百八十四人が痛い目に遭ったからだ。

無登録の投資助言をめぐるトラブルは、令和のいまも消えていない。SNSで「必ず儲かる」と言い、有料コミュニティに誘導し、無登録で助言をする。手口の見た目は変わったが、構造は一九八〇年代の投資ジャーナルと同じだ。この事件は、教科書としていまも現役なんだよな。

二つ目は、人間の話だ。「なぜ人は金を預けたのか」という問いに、この事件はいくつもの答えを出してくれる。相場が上がっていること、実際に儲けた人が身近にいること、有名人が顔を出している安心、倍率という数字の魔力、乗り遅れることへの恐怖。

この五つが揃うと、人はだいたい判断力を失う。しかもこの五つは、いまも定期的に揃う。仮想通貨でも、未公開株でも、海外不動産でも。

三つ目は、単純に、物語として強すぎるからだ。

小学生で株を始めた男が、二十四歳で兜町の頂点に立ち、月に二億円を飲み代に使い、三千人の社員と二百社を抱えた。逃げて、捕まって、六年入って、出てきて、また相場に戻って、暴力団の金に潰され、実家に火をつけ、消えた。六畳一間で生活保護を受けながらパソコン三台で世界中の相場を見続け、五十時間の告白を残した直後に、火の中で死んだ。

作り話だとしても出来すぎている。でも全部、記録にある出来事だ。

彼は最後まで、自分の人生を「数奇」と呼んだ。悔いるでもなく、被害者に詫びるでもなく、ただ数奇だと。この身も蓋もない自己認識こそが、たぶん彼を四十年間ずっと「語られる男」にしてきたのだと思う。

ここからは、ここまでで書ききれなかった論点を、もう少し踏み込んで整理しておく。

「投資顧問」という言葉が、なぜ盾になったのか

投資ジャーナル事件を制度の側から見たとき、最大の急所は「投資顧問」という名乗りだった。

当時の証券取引法は、有価証券の売買を業として行う者を免許制で縛っていて、ここは厳しかった。免許を持たずに証券業を営めば、処罰される。ところが、「私は売買をしていません、助言をしているだけです」と言う商売については、法律が何も言っていなかった。

助言だから自由。ここまでは、まあ理屈として分からなくもない。言論の自由の問題にもなる。株の予想を書いた雑誌を出すのに国の許可が要る、というのは確かに筋が悪い。だから当時の当局も、雑誌を出して銘柄を推奨するところまでは手が出せなかった。

問題は、その先だ。投資ジャーナルは助言だけで終わらず、会員から保証金を預かった。これはもう助言じゃない。金融取引の受託だ。

ところが、この「預かる」行為を規律する法律も、当時は存在しなかった。証券会社なら、顧客資産の分別管理を求められる。免許のない会社には、その義務すらかからない。

助言だから規制されない場所と、証券業ではないから規制されない場所。そのあいだに、法律的な空白地帯があった。投資ジャーナルは、そこに事務所を構えたわけだ。しかも意図的にそうしたのではないかと疑われる程度には、この会社は法律の縁を器用に歩いている。

一九八六年の投資顧問業法は、この空白を埋めた。助言業は登録制、一任業は認可制。登録すれば当局の監督下に入り、帳簿を求められ、行為規制がかかる。無登録営業は罰則の対象になる。いま金融商品取引法が投資助言・代理業に課しているルールの原型は、ここで作られた。

面白いのは、この法律が「詐欺を禁じる法律」じゃない点なんだよな。詐欺はもともと刑法で禁じられていて、投資ジャーナル事件の中江が問われたのも刑法の詐欺罪だ。

それでも新しい法律が必要だったのは、詐欺を事後に罰するだけでは間に合わないと分かったからだ。五百八十億円が集まりきってから捕まえても、金はもう戻ってこない。だから入口に、登録という関門を置く。この発想の転換が、一九八六年に起きた。

集金装置としての「柱制度」を、もう一度考える

事件の被害規模を決定づけたのは、中江個人のカリスマではなく組織設計だったと私は思っている。

柱制度の設計を、もう一度見てほしい。五十人の柱に人事権を渡す。月のノルマはおよそ三千万円。初任給は月百万円で、ノルマを達成するたびに毎月十万円ずつ上がる。

この設計には、二つの残酷な仕掛けがある。

一つは、達成が固定資産になる点だ。一度ノルマを達成して昇給すると、その水準が翌月以降の生活の前提になる。月百万円が月百五十万円になった人間は、もう月百万円には戻れない。だから翌月もノルマを追う。追い続けるしかない。

もう一つは、人事権の分配だ。柱に人事権を渡せば、柱は自分のチームを増やせる。チームが増えればノルマも達成しやすいから、柱は人を採る。採られた人間も、同じインセンティブで走る。

ネズミ算式に営業部隊が膨らみ、最盛期三千人という数字になる。こうなると、頂点にいる人間が何を考えているかは、もはや現場の行動をほとんど左右しない。組織は自律的に金を集め始める。

中江が仮に途中で「もうやめよう」と思ったとしても、三千人の営業部隊とその生活水準を止めることは、実際上できなかっただろう。

集金型の事件を見るとき、私はいつもここを見る。首謀者が悪辣かどうかより、報酬設計が何を最適化しているか。投資ジャーナルの報酬設計が最適化していたのは、顧客の利益ではなく入金額だった。それだけで、この会社の結末はほぼ決まっていた。

「儲かっていた時期があった」ことの重さ

この事件をただの詐欺として片付けると、いちばん大事な教訓を取り落とす。

投資ジャーナルには、実際に会員が儲かった時期があった。相場が上がっていたからだ。一九八〇年代前半の日本株は、放っておいても上がる局面が何度もあった。

上がる相場では、どんな助言でも当たる。当たれば会員は喜び、喜んだ会員は追加で金を入れ、友人を連れてくる。

初期の投資ジャーナルは、詐欺というより「相場が良い時期に成立していた粗雑なビジネス」だった。相場が悪くなった瞬間に、その粗雑さが詐欺として顕在化した。

これは順序が逆に見えるかもしれない。ただ、集金型事件の多くはこの経路をたどる。最初から騙すつもりだった、というケースは意外に少ない。

上手くいっているうちに約束を大きくしすぎて、下り坂で約束を守れなくなり、守れないことを隠すために新しい金を入れる。気づいたら後戻りできない。

だから「儲かっているうちは誰も気づかない」というのが、この種の事件の本質的な難しさだ。被害者は騙されている自覚がないまま、しばらくのあいだ本当に幸福である。関東電化が崩れた一九八四年二月まで、投資ジャーナルの会員の多くは、自分を勝ち組だと思っていたはずだ。

中江の証言をどう扱うか

彼が残した証言の総量は、この種の事件の当事者としては異例に多い。雑誌インタビュー、新聞連載、そして五十時間を超える単行本用の取材。普通、詐欺で有罪になった人間はここまで喋らない。

なぜ喋ったのか。理由はいくつか考えられる。金がなかったから、という即物的な理由もあるだろう。忘れられたくなかった、という虚栄もあるだろう。

でも読んでいて感じるのは、彼が本気で「自分は面白い人生を送った」と思っていた、という点だ。おかげで彼の証言は、すごく有用であると同時に、すごく危険な史料になった。

有用なのは、外からは絶対に見えない部分を語っているからだ。当時の兜町の内部構造、営業の実際、政治との距離感。危険なのは、それが検証不可能な一人称の語りだからだ。

政界に十億円ばら撒いた、二百人以上の政治家に五百万円ずつ配った、検察に取引を持ちかけられた。どれも彼しか知らない話で、彼が誇張しても誰も反証できない。

だから読むときは、必ず二段構えにする。裁判所が認定した事実と、報道が確認した事実と、本人が語っただけの事実。この三層を混ぜない。

混ぜた瞬間に、この事件の話は陰謀論の材料に変わってしまう。ネット上で流通している投資ジャーナル関連の話も、相当部分がこの混同で成り立っている。

いまの日本に、投資ジャーナルは存在するか

する。形を変えて、いくらでもある。

現代版の共通点は三つだ。第一に、実績の見せ方が選択的であること。当たった予想だけを見せ、外れた予想は消える。SNSのスクリーンショットは編集可能だ。

第二に、倍率が語られること。レバレッジ、複利、元本何倍。数字が大きいほど、その数字の実現条件は厳しくなる。なのに、条件のほうは語られない。

第三に、人格が担保になること。顔を出している、有名人と写真に写っている、豪華な生活を見せている。この三つが揃った勧誘は、四十年前の投資ジャーナルの雑誌広告と、機能的にまったく同じことをしている。

違うのは速度だ。一九八〇年代は、雑誌を刷って郵送し、電話をかけ、会員を集めるのに何か月もかかった。いまは同じことが数日でできる。投資ジャーナルが六年かけて七千六百八十四人を集めたペースは、現代の基準では遅い。

だからこそ、入口の登録制という仕組みが効いてくる。無登録で投資助言をしている相手かどうかは、いまなら数分で確認できる。

この確認ができるようになったのは、一九八六年に法律ができたからで、その法律ができたのは、この事件があったからだ。四十年前の七千人の損失は、そういう形で、いまの制度のなかに残っている。

あの部屋に並んでいたもの

私が個人的にいちばん引っかかっているのは、パソコン三台の話だ。

生活保護を受けながら、六畳一間で、原油と地金と世界中の相場を毎日見ていた。少額を張って、二、三倍になっていると嬉しそうに言っていた。もう誰の金でもない、自分の小さな金で。

これを「懲りない男」と切って捨てるのは簡単だ。実際、彼のせいで人生を壊された人が七千人以上いる。同情する義理は、どこにもない。

ただ、この光景には、金の話ではない何かがある。彼は結局、相場そのものが好きだったのだと思う。数字が動くのを見るのが好きで、それを当てるのが好きだった。

高校の授業中に短波ラジオを机の下に隠していた少年と、六畳一間でパソコン三台を並べていた六十六歳は、たぶん同じことをしていたんだろう。

そのあいだの四十数年で、彼は五百八十億円を集め、七千人の人生に穴を開け、六年入り、追われ、消え、忘れられた。集めた金は返らなかったし、彼自身にも残らなかった。

炎に包まれたあの部屋には、たぶん、ほとんど何もなかったはずだ。衣服と、布団と、パソコンが三台。あとは、まだ本になっていない五十時間ぶんの告白だけが、別の場所で待っていた。

数奇、という言葉を、彼は自分で使った。それに反論する材料を、私は持っていない。

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