- スーパーの隣に、千百五十五人の名前が立っている
- その台風は、常識外れの速さで日本列島を駆け抜けた
- 「天気図」と呼ばれた男が、その船を預かっていた
- 二分間の停電が、運命の分岐点になった
- 午後五時、空に青が広がった
- 「凪次第で青森に行く」――降ろされなかった乗客たち
- 午後六時三十九分、洞爺丸は離岸した
- 午後七時一分、防波堤の外に錨が落ちた
- 船尾は、ただの穴だった
- 火が消える――缶室の絶望
- 午後十時二十六分、船底が砂を擦った
- 午後十時四十五分、船はひっくり返った
- 同じ夜、あと四隻が海に消えた
- 夜が明けた七重浜は、直視できる場所ではなかった
- 「結婚して八カ月目の妻を、目の前で殺してしまった」
- 沈む船の中で手品をした外国人がいた
- 学生を全員失って、ひとりだけ帰ってきた教授
- 号外は「死者・行方不明多数」と書いた
- 責任はどこにあったのか――五年に及んだ海難審判
- 「会議に間に合わせろと言われた」という話の行方
- あれは本当に台風だったのか、という後年の見直し
- 遺体になりすます男たちがいた
- 海の底に道を掘る――青函トンネルという答え
- 船の設計思想が、この夜を境に変わった
- 惨事は、小説になって生き延びた
- そして、浜で声が聞こえるようになった
- 濡れた乗客を乗せたタクシー
- スクリューについた爪あとの噂
- 青森駅の窓ガラスに残った、無数の手形
- 海の中から伸びてくる白い手
- なぜこの事故だけが、これほど怪談を生んだのか
- 九月二十六日、浜には毎年、線香の匂いがする
スーパーの隣に、千百五十五人の名前が立っている
北海道北斗市に七重浜という浜がある。函館駅から海沿いに西へ走って、国道227号から228号に出た先。いまはスーパーやドラッグストアや大型量販店が並ぶ、どこにでもある郊外の風景だ。夏場には海水浴場も開く。ビーチパラソルが立って、子どもがはしゃぐ声がする。何も知らずに通り過ぎたら、ただの明るい浜である。
その一角に、でかい石碑が立っている。台風海難者慰霊碑。ふつうは洞爺丸慰霊碑と呼ばれている。1955年、事故の翌年に建てられたものだ。ここから沖へ数百メートルの海で、1954年9月26日の夜、青函連絡船の洞爺丸がひっくり返った。乗っていたのは1314人。生きて帰れたのは159人だけだった。1155人が死ぬか、行方不明になった。
しかもこの夜の犠牲者は、洞爺丸だけじゃない。同じ函館湾で、同じ台風で、青函連絡船があと4隻沈んでいる。第十一青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸。乗っていたのは全員が国鉄職員だ。この4隻だけで275人が死んだ。5隻を合わせると1430人。一晩でだ。戦争による沈没を除けば、当時の時点でタイタニック号、サルタナ号に次ぐ世界第3位の規模の海難事故だった。日本の海難史では、いまもってこれが最悪だ。
で、ここからが本題になる。七重浜には、いまでも話がある。夜の浜から「助けて」という声が聞こえる。慰霊碑のあたりに濡れた女が立っている。深夜のタクシーが乗せた女性客が、目的地に着くと消えていて、シートだけがぐっしょり濡れている。海で泳いでいると、足を白い手につかまれる。青森駅の窓ガラスに、朝になったら無数の手形が残っていた。
こういう話を、頭ごなしに笑うのは簡単だ。でも、いったん1954年9月26日にちゃんと戻ってみてほしい。何が起きて、何が浜に流れ着いて、その浜で人が何を見たのか。順番に見ていくと、なぜこの事故だけがこんなに怪談を吐き出し続けたのか、その理由がわりとくっきり見えてくる。少なくとも俺にはそう見えた。
その台風は、常識外れの速さで日本列島を駆け抜けた
まず台風の話からいく。ここを飛ばすと、この事故は「船長がバカだった」で終わってしまう。そうじゃない。
1954年9月18日、カロリン諸島の東部で弱い熱帯低気圧が生まれた。北海道新聞が第一報を載せたのは9月22日付の紙面で、中央気象台が21日午前3時にグアム島西方約800キロで台風15号の発生を確認した、という短い記事だ。中心気圧985ミリバール、最大風速20メートル。この時点では、誰も気にしていない。むしろいったん勢力を落として熱帯低気圧に格下げされたくらいだ。
ところが23日朝から再発達する。バシー海峡の東で進路を変えて、そこから異様に加速した。26日午前2時ごろに鹿児島湾から大隅半島北部へ上陸したときには、中心気圧966ミリバール前後、そして時速100キロを超える速さで走っていた。台風が時速100キロで動くというのは、当時の常識ではまずありえない。高速道路を走る車と同じスピードで暴風域が通過していくのだ。
九州東部を縦断し、4時半ごろ大分県臼杵付近から豊後水道へ抜け、中国地方を横切り、8時ごろには山陰沖から日本海に出た。
普通、台風は陸を通れば弱る。この台風は弱らなかった。日本海に出ても発達を続けた。関東も暴風域に入って、9月26日付の朝日新聞夕刊は「スピード台風15号 東京、戦後最強の風」という見出しを打っている。東京で平均最大風速26.8メートル。この時点で14府県で死者20人、家屋全壊614戸。だがこれは、その夜に起きることの前座に過ぎなかった。
北海道の函館では、朝から雨だった。午前6時ごろから東寄りの風が強くなり、正午には16メートル、午後3時には19メートルを超える。函館海洋気象台は午前11時半に暴風雨警報を出した。海上で最大風速25から30メートル、というのがその中身だ。当時、25メートル程度の風なら青函連絡船は普通に走っていた。だから乗組員も「まあ、いつもの荒れ方だな」という感覚だったらしい。ここが後で効いてくる。
そして15時の発表では、台風の中心示度968ミリバール、時速110キロで北東に進行中、17時ごろに渡島半島を通過して、夜半には千島方面へ抜ける見込み、とされていた。予報どおりなら、夕方には函館の頭上を通り過ぎ、あとは風が落ちるだけだ。誰もがそう読んだ。
実際に台風がやったのは、まったく別のことだった。
「天気図」と呼ばれた男が、その船を預かっていた
洞爺丸という船について。1947年11月に就航した客載車両渡船で、全長118.7メートル、型幅15.85メートル、航海速力14.5ノット。戦争で壊滅した青函連絡船を立て直すために、国鉄がGHQの許可を得て建造した4隻の第一船である。日本復興の象徴、なんて呼ばれ方もした。1950年には日本の船として初めてレーダーを積んでいる。
ジャイロコンパス、瞬間風速計、検定済みのアネロイド気圧計が船橋のほか船長室や航海士室にも備え付けられていた。当時としては、これ以上ないくらい新しくて上等な船だ。
しかも事故のわずか1カ月前、1954年8月には、北海道を巡幸した昭和天皇のお召船をつとめている。青函連絡船の花形どころか、日本の海の顔みたいな船だった。
その洞爺丸を預かっていたのが近藤平市船長、54歳。船長歴13年のベテランで、周囲から「天気図」というあだ名をつけられていた。それくらい気象を読むのがうまい、慎重な人だったという。この呼び名は、後年この事故を語るときに必ず出てくる。皮肉に響くから、というのもあるが、それ以上に「気象に一番詳しいはずの男が、なぜ」という問いが誰の胸にも刺さるからだ。
背景として押さえておきたいのは、青函連絡船が単なるフェリーではなかったということ。これは「海上鉄道」だ。青森と函館の発着列車にきっちり接続するダイヤで動くことを、開設当初から求められていた。1908年開設以来の基幹ルートで、北海道の石炭と木材を本州に出し、本州の物資を北海道に入れる大動脈でもある。航空機は高くて庶民の手が届かない時代だ。船が止まると、北海道と本州の間で人も物も止まる。
警察大学校の樋口晴彦教授は後年、この構造をはっきり指摘している。青函連絡船では、ダイヤを守るためにあえて航海の危険を冒すことが以前から行われており、そういう現場慣行が洞爺丸事故を引き起こしたのだ、と。船長個人の性格の話じゃない。定時運航のプレッシャーが職業文化として染み込んでいた、という話である。
そして当時、出港するかしないかの権限は、まるごと船長ひとりにあった。陸の指令と相談して決める仕組みではなかった。全部ひとりで背負う。この設計が、後で最悪の形で効く。
二分間の停電が、運命の分岐点になった
9月26日、洞爺丸は午前6時30分に青森を出て、11時5分に函館へ入港した。鉄道桟橋の第1岸に係留する。折り返し、14時40分発の上り4便になる予定だった。
ここで予定が狂いはじめる。津軽海峡に入ったところで運航を中止し、函館へ引き返してきた第十一青函丸がいたのだ。この船は進駐軍関係の輸送を担っていて、乗っていたアメリカ軍関係者57人と日本人119人、それに米軍の車両を洞爺丸に移し替えることになった。この積み替えに時間がかかる。定刻の14時40分は過ぎた。15時ごろ、まだ米軍の荷物車を積んでいた。
近藤船長は、これ以上遅れると台風が来る前に陸奥湾に入れなくなると判断して、追加の車両積み込みを断った。そして船尾の可動橋を上げさせようとした。可動橋というのは、陸の線路と船の車両甲板をつなぐ橋のことだ。これを外さないと船は動けない。
上がらなかった。
船尾にいた二等航海士の山田友二氏が桟橋の職員に「可動橋を上げなさい」と声を張り上げると、返ってきたのは「停電で上がりません」だった。函館市内ではこの日、断続的に停電が起きていた。山田氏が近藤船長に報告すると、船長は「テケミする」と告げた。テケミ、天候険悪運航見合わせ。台風が抜けるまで出さない、という判断だ。
山田氏はのちに全日本船舶職員協会の機関誌「全船協」2020年1月号から4回にわたって「青函連絡船“洞爺丸”二等航海士の回顧録」を連載していて、そのなかでこの場面を振り返っている。船長は「天気図」というあだ名がつくほど天気に詳しい人だった、危険回避と定時運航を守るプレッシャーの狭間で悩んだ末の決断だと思う、と。
そして山田氏はこう書く。もし、このトラブルがなければ、洞爺丸は台風の直撃を避けて青森に着いていたはずだ、と。
なぜならこの停電、たった2分で復旧しているのだ。可動橋はほどなく上がった。だが一度出した見合わせの決定は取り消されなかった。15時10分、洞爺丸は正式に運航中止となる。
2分。この2分がなければ、洞爺丸は台風が最悪の形に化ける前に海峡を渡り切っていた可能性が高い。人生を左右する分岐点というのは、たいていこういう地味な顔をしている。停電、可動橋、書類上の手続き。誰も悪くない場所で、静かに切り替わる。
このとき輸送指令からは、乗客を降ろして離岸するよう指示が来た。だが船長は指令に要請して、乗客を降ろさずそのまま係留を続けた。第十一青函丸の車両も積み取り、さらに乗客を順次乗せていった。この判断が、のちに最大の批判点のひとつになる。
午後五時、空に青が広がった
15時半ごろの函館港内は、雨まじりの突風20メートル。洞爺丸は岸壁にぶつかっては離れる、という気味の悪い動きを繰り返していた。船内では、下船したいと申し出る乗客も出はじめた。
16時の函館桟橋の気圧は985.2ミリバール、雨を伴う東風が10から15メートル。ここまでは順当に荒れている。
ところが17時前後、空気が変わる。風力が急に弱まった。土砂降りだった雨がやみ、雲が切れ、函館山の上から西の空にかけて青空がぱーっと広がった。夕焼けまで見えた。気圧は17時直前にわずかに上昇している。
船にいた誰もが同じことを思った。台風の目に入った。
山田二等航海士も回顧録でそう書いている。私を含め、誰もが「台風の目が近づいている」と思った、と。しかも当時の常識として、北海道に近づく台風は温帯低気圧に変わって勢力が弱まるのが通例だ。私たちは「じきに海は凪ぐ」と見込んでいました、と山田氏は続けている。
17時40分ごろ、近藤船長は出港を決断する。まもなく、出港時刻を18時30分とすることを発表した。
ここで何が起きていたのかを、後年の調査は容赦なく暴いている。
台風15号は、秋田沖に達したあたりで急ブレーキをかけていた。時速100キロで走っていたのが、時速40キロ程度まで落ちたのだ。北のオホーツク海に高気圧があって、行く手をふさいだためだった。減速した台風はそのまま北上し、奥尻島付近に達していた。つまり中心は函館の西方の日本海上にあって、しかも減速しながらさらに発達し、中心気圧は956ミリバール前後まで下がっていた。
そして函館に現れた「台風の目」は、台風の目ではなかった。台風の南にあった寒冷前線に伴う冷たい気流と、台風の中心へ反時計回りに吹き込む風がぶつかり、寒冷前線が急激に消滅する。その過程で一時的に晴れ間が広がった。閉塞前線の通過による、偽の晴天だったのだ。
しかも情報は届いていた。17時59分40秒のラジオ放送は「台風は今江差の西方100キロの海上を北東または北北東に向かって進んでいます」と伝えている。江差は渡島半島の日本海側だ。函館のすぐ西である。この位置を海図に落として、午後3時の位置と比べれば、台風が著しく減速していることは計算できたはずだった。のちの高等海難審判庁の裁決は、まさにそう指摘している。
さらに手元の観測値も不自然だった。函館桟橋の気圧は17時も18時も982.6ミリバールで停滞し、風向は南のまま変わらず風力だけ増している。有川桟橋では気圧が下がり続け、18時には973.4ミリバール、18時22分には突風33メートルを記録している。大間埼と竜飛埼の航路標識事務所でも、18時30分ごろまで1時間以上にわたって風向が変わらないまま風力だけが上がっていた。
台風が高速で通過していったなら、風向は回るはずだ。回っていない。
「台風が時速110キロで進み続けていると考えるには、風向、風力、気圧示度の変化に著しく不審があった」。裁決文はそう書いている。
ただ、これは全部あとから言えることでもある。当時の気象観測に気象衛星はない。中央気象台と札幌管区気象台の判断にも食い違いが生じていた。函館海洋気象台の予報警報のなかには暴風圏の範囲を縮小したものや、風向の変化を「東後北西の風」と表現したものもあった。台風の中心が函館の南を通るのか北を通るのか、どの方向の風が強く吹くのかは示されていなかった。船長が受け取れた情報は、そもそも解像度が低かったのだ。
「凪次第で青森に行く」――降ろされなかった乗客たち
出港が決まった前後の船内の様子を、生き残った二等航海士の阿部喜代二氏、当時43歳が語っている。海上生活26年の老練な船員で、生き残った乗組員のなかで最高責任者だった。9月27日夜に函館中央署で証人供述を終えたあと、記者に対して話した内容が9月28日付の朝日新聞朝刊1面に載っている。見出しは「台風をアマく見た 後部甲板浸水が打撃」だった。
その阿部氏の言葉。5時半ごろ、天気がよくなった。出港前の5時ごろには、乗客を降ろそうかという話も聞いたが、凪次第青森に行くのだから乗せておいてもよいのではないか、という考えで降ろさなかった。5時半に青森に行くことが確定した。6時39分、青森まで行くつもりで出港した。
この「乗せておいてもよいのではないか」の一行が、七十年経ってもきつい。
そして乗客の側の証言が残っている。青森県南津軽郡から北海道へ夫婦で行商に来ていた28歳の男性。彼はこう語っている。あの暴風ではどうしようもなく下船することにした。ところが船ではタラップを降ろしてくれず、船員は「こんな台風は大丈夫だから」とガンとして受け付けてくれなかった。私たちの他にも多くの乗船客が下船したいと相当さわいだが、船ではどうしても受け付けてくれなかった。
さらに彼は続ける。午後5時半にもなったろうか、船のマイクは「風は30メートル程度で落ちついているから安心して下さい」と放送し、新たにドヤドヤと客を乗船させた。
この男性の証言は9月28日付の朝日新聞東京本社版朝刊7面に「悲惨!最後の一瞬 洞爺丸遭難者に聴く 下船希望を拒まる 抱き締めた新妻も激浪へ」という見出しで掲載された。彼が語った続きは、のちほどまとめて紹介する。
18時25分ごろ、近藤船長は船橋に上がった。第2岸に着けようとして引船5隻がかりで苦労している石狩丸を見守り、その石狩丸がどうにか係留を終えたのを見届けてから、離岸を命じた。
このとき函館港には、巡視船りしり、連絡船の第六青函丸、第十一青函丸、北見丸、商船の第六真盛丸、第四南興丸、富貴春丸が、いずれも待機していた。青森側でも連絡船の渡島丸と羊蹄丸が出港を見合わせていた。
つまり、この夜に函館を出た定期船は、洞爺丸だけだった。
午後六時三十九分、洞爺丸は離岸した
18時39分、洞爺丸は函館桟橋を離れた。積んでいたのは旅客その他を合わせて1314人、車両12両でおよそ313トン、郵便物171個。喫水は船首約4.55メートル、船尾約5.05メートル、船尾の乾舷は約1.75メートルだった。乾舷というのは水面から甲板までの高さのことだ。1.75メートル。これは覚えておいてほしい数字である。
なお乗員乗客の総数は、資料によって1314人、1331人、1337人と幅がある。事故直後の混乱と、後年の国鉄本社による確定作業のずれによるものだ。海難審判の裁決と国鉄の確定数は1314人としている。死者の内訳も、旅客1041人、乗組員73人、その他41人の計1155人、生存者は旅客110人、乗組員38人、その他11人の計159人というのが確定値である。
行方不明のまま遺体が見つからなかった人が100人以上いる。後日、襟裳岬沖と宮古沖で発見された遺体もあった。数字が揺れること自体が、この事故の混乱ぶりを物語っている。
18時53分ごろ、函館港第二号灯浮標を左舷に見て、防波堤の西出入口に向かった。
そして、近づくにつれて波が想定外に荒いことがわかった。近藤船長は言った。
「これでは危いから錨を入れる。」
裁決文にそのまま残っている言葉だ。この時点で、青森に渡ることは断念されている。出港からわずか16分である。
午後七時一分、防波堤の外に錨が落ちた
18時55分ごろ、洞爺丸は西出入口を通過した。風下に著しく圧流されながら西に向けてしばらく進み、機関を使って風上に回頭する。19時1分、函館港防波堤灯台から真方位300度、0.85海里の地点で右舷錨を投下した。錨鎖を6節まで延ばしても錨が効かない。左舷錨も投下した。左舷7節、右舷8節。19時50分ごろには両舷とも8節まで出した。1節は約27.5メートルだから、8節でおよそ220メートルである。
ここで「なぜ防波堤の外なのか」という疑問が当然出てくる。答えは、当時の青函連絡船の慣習にある。
函館港の錨地は、防波堤の内側に係船浮標を含めて計37カ所が指定されていた。だが連絡船は普段は岸壁に係留していて、係船浮標に係留することはほとんどなかった。天候の都合で避泊する場合でも、防波堤の外に錨泊する船長が多かったのだ。理由は二つ。函館の強い風はたいてい北西寄りで、防波堤外の錨地は東寄りの風なら函館半島に、北西寄りの風なら上磯の後背にある山にさえぎられて波の影響が少ないこと。
それに、連絡船は昼夜を問わず動いているので、外に錨泊しておけばすぐ出られて便利だったこと。連絡船側は「係留に煩わしい浮標はむしろ撤去してもらったほうがいい」とすら考えていた。
だが函館湾は、湾口が南南西に開いている。南西寄りの強い風が吹き続けると、吹走距離が長いぶん時間とともに防波堤外に異常な高波が生まれる。避泊には最悪の錨地になる。しかもこれは、青函局が函館海洋気象台に依頼して調査済みだった。平均風速20から25メートルの南または南西の風が吹き続ければ階級7に達する高波が起きる、という報告書は、各連絡船の船長に周知されていた。
防波堤外で南寄りの強風に遭って難渋した経験を持つ船長もいた。
活用されていなかった。裁決文はそう書いている。防波堤外に避泊するとき、風向を特に考慮することはほとんどなかった、と。
そしてこの夜、風は南から南西に回って増勢した。20時ごろから走錨が始まる。走錨というのは、錨を下ろしたまま船が押し流されることだ。波高は平均で約6メートルに達した。しかも錨地は防波堤にぶつかって跳ね返る返し波と重なって、複雑な波の撹乱の渦のなかにあった。
この日、函館海洋気象台では21時に風速25.8メートル、20時55分に瞬間最大風速41.3メートルを観測している。だが函館湾の現場では、瞬間最大風速57メートルを超える突風が吹いていたと推定されている。
近藤船長がとった投錨仮泊という方法は、当時の連絡船では常識的な荒天対応だった。錨を下ろし、機関を微速で使って船首を風上に向け、位置を保つ。通常の強風なら有効な方法だ。だが、これほどの波浪では逆に働いた。錨が海底に固定点をつくり、船はそれを支点にして振り子のように左右に振られる。波で上下に揺すられるたび、錨鎖が張り切った瞬間に船体は強い衝撃を受ける。
対照的だったのが僚船の大雪丸だ。同じように函館湾で投錨仮泊したが、漂流してくる他船との接触を避けるために、あえて錨を上げて湾外に脱出した。これが結果的に幸いした。大雪丸は沈まなかった。台風のような波浪状態では、錨を上げて船首を風上に向け、波にまかせて漂ったほうが安全なのだ。大洋で台風に出会った船がだいたい問題なくやり過ごせるのは、この理屈による。
正解は、湾外だった。だがそれは、あとになってわかることだ。
船尾は、ただの穴だった
ここから、この船が沈まなければならなかった構造上の理由に入る。ここが洞爺丸事故の核心だと、俺は思う。
洞爺丸は客載車両渡船である。甲板に3線の軌道が敷かれていて、貨車や客車をそのまま積み込める。陸の線路と船をつなぐ可動橋を渡って、列車が船に入っていくのだ。これは船を「海の上に浮かんだ線路」にする、たいへん合理的な設計思想だった。積み替えの手間がいらない。海上鉄道という位置づけそのものである。
問題は、列車が入る以上、船尾に大きな口を開けておかなければならないことだ。
洞爺丸の車両甲板の後部は開放構造だった。扉もシャッターもない。ただの開口部だ。しかも車両甲板には、載炭口や空気口など、ほかにも開口部がたくさんあった。ボイラーの燃料は粉炭で、毎航海、函館で石炭庫がほぼ満載になるまで積む。石炭車を右舷側の軌道に引き込んで、貨車の側板を倒して直接炭庫に落とし込む。そのための載炭口だ。
この載炭口の蓋がまた問題だった。開いたときに一定の角度で止まるよう支柱が装備されていたのに、普段は支柱を使わず盤木などを差し込んで開けていた。だから蓋板は適正な開度にならず、支点も片寄る。頻繁な採炭作業と相まって、蓋板の曲がりや蝶番の損傷が生じていた。つまり、閉めても隙間が残る状態だったのだ。
19時30分ごろ、船体の縦揺れに伴って、船尾の車両甲板が海水をすくいはじめた。掬った水は甲板の上を船首方向へ流れる。
20時過ぎ、近藤船長は乗組員に作業を命じた。車両緊締具の増し締め、開口蓋閉鎖の確認、スカッパーすなわち排水口の疎通、盤木や楔の片付け。だが、前述のとおり開口部の閉鎖装置の状態が良くない。完全に密閉できない。そうこうしているうちに波はさらに増大し、車両甲板へなだれ込む海水の量は刻々と増えていった。船体の動揺に合わせて甲板上の水が大きく流動するから、作業そのものが危険になる。
20時30分ごろ、作業員はついに車両甲板から引き上げた。
このときの甲板上の浸水は、船首側で0.3メートル。船尾は完全に海面下に没していた。甲板の両舷側にある通路にまで、水密扉の隙間から海水が入りはじめた。
そして開口部から、機関室と缶室への浸水が始まった。
火が消える――缶室の絶望
缶室というのはボイラー室のことだ。洞爺丸は石炭焚きの蒸気タービン船である。缶に石炭を投げ込み、蒸気を起こし、タービンを回して船を動かす。同時に発電機も回している。
そこに海水が入ってきた。しかも石炭混じりの水だ。
阿部二等航海士の証言が生々しい。これは貨車甲板の積み込み口から追い波が入り、石炭をまじえて汚水口にたまったためで、吸い上げポンプも使えず、石炭がたけなくなってついにエンジンが止まったのだ、と。
浸水はビルジ、つまり船底に溜まる汚水の量を増やす。だが発電機が次々に止まっていくので、排出ポンプが動かない。動かないから水が増える。増えるから発電機が止まる。完全な悪循環だ。
21時50分ごろ、左舷主機が運転不能になった。22時5分ごろ、右舷主機も止まった。両舷の主機が死んだ時点で、洞爺丸は操船能力を完全に失った。4337トンの船が、風速50メートル超の暴風の中で、ただの巨大な漂流物になった。
このころ船体は右舷側に傾きはじめている。もともとは左舷側に傾いていたのを、トリミングポンプで直そうとして果たせなかった。左舷主機が止まったころから走錨の速度が上がり、風浪を左舷側から受けるようになって、傾きは右舷へ移り、次第に大きくなっていった。
22時15分ごろ、近藤船長は事務長に、旅客に救命胴衣を着用させるよう命じた。
船内放送が流れた。機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する、という内容だった。船長は、沈没を避けるために遠浅の砂浜へ意図的に乗り上げることを選んだ。船を砂に載せてしまえば、少なくとも沈まない。そういう判断だ。
船内の様子はすでに地獄だった。デッキから船室へ、滝のように海水が落ちてくる。三等船室は連絡船の構造上、車両甲板の下にある。逃げ出す暇さえない。丸窓を壊して出た人だけがかろうじて助かった。乗客の一人はのちにこう語っている。ボーイや乗組員の指示に従って船室内にいた人は、そのまま沈んだようだ。ボーイは客室の戸を開けようとせず、海中に飛び込んではいけないと注意していた。
早めに船を離れていればもっと沢山の人が助かったと思う、と。
乗組員を責めるのは酷だと思う。彼らはパニックを防ごうとしていた。「慌てないでください。大丈夫です」と叫ぶ船員の声を、阿部二等航海士は船橋で聞いている。荒れ狂う真っ暗な海に飛び込ませるほうが危ない、というのはまっとうな判断でもあった。ただ結果として、その判断は多くの人を船室に留めた。乗組員自身も73人が死んでいる。
午後十時二十六分、船底が砂を擦った
22時26分ごろ、函館港第三防波堤灯柱から267度、0.8海里、岸から約0.6海里、水深12.4メートル、底質は砂。この地点で、船尾に3回ほど軽い底触を感じた。
座礁だ。
船体は右舷側に45度あまり傾いた。当時、船橋にいた者たちも、乗客も、これで危機は去ったと思ったらしい。阿部二等航海士は「座礁前に傾斜したときも、転覆するというような考えは浮かばなかった」と語っている。
ただ、この座礁は本当は不十分だった。水深12.4メートル、喫水5メートルの洞爺丸を安定して座礁させるには深すぎたのだ。船体は砂に食い込まず、なお海岸のほうへ押し流されていく。波が来るたびに傾きが増した。
22時39分、SOSが打電された。直後に停電。22時41分ごろの電文が残っている。「エスオーエス、こちら洞爺丸。函館港外青灯より267度8ケーブルの地点に座礁」。原文では船名符字のJBEAが使われている。すぐに函館海上保安部が受信を確認する応答を返した。そして最後の打電は「本船、500キロサイクルにてSOS、よろしく」。
500キロサイクル、いまでいう500キロヘルツ、当時の遭難通信の国際周波数である。
その後、通信は途絶えた。
午後十時四十五分、船はひっくり返った
22時43分ごろ、船体を支えていた左舷の錨鎖が耐えきれずに切断した。
そこへ大波が来た。船は横倒しになり、車両甲板に積まれていた客貨車12両が、轟音とともに一斉に横転した。313トンの鉄の塊が、いっぺんに片舷へ移動したのだ。復原力は失われた。
22時45分ごろ、函館港防波堤灯台から337度、2500メートルの地点で、洞爺丸は右舷側に約135度傾斜し、船底を海上に現したまま、海岸とほぼ平行の状態で沈没した。岸からは700メートル。最後には船体はほぼ裏返しになり、煙突が海底に刺さった状態だったという。
出港から4時間6分。錨を下ろしてからは3時間44分。
なお後年の水槽実験によって、転覆のメカニズムはもう少し細かく推定されている。機関室への浸水につながった車両甲板上の海水の滞留は、波高6メートル、波周期9秒のときに最大量になることがわかった。この値は観測からの推定値とほぼ一致していた。一方、車両甲板上に溜まった水の量そのものは試算で250トン以下とされ、復原力に決定的な影響を及ぼすものではないとされている。
つまり甲板上の水が船をひっくり返したのではない。水が機関を殺したのだ。
そして七重浜での転覆については、座州実験の結果、漂流中に右舷のビルジキールが漂砂に引っかかって船体が一点で支持される状態になり、そこへ大波が襲ったために転覆した、と推定されている。ビルジキールは船底の湾曲部に付いている横揺れ防止の板だ。それが砂に引っかかった。ほんの偶然のようなことで、1155人の生死が決まっている。
同じ夜、あと四隻が海に消えた
洞爺丸ばかりが語られるが、この夜の函館湾は、青函連絡船隊にとってほぼ壊滅の夜だった。
港内にいた8隻の船舶は、係留索が切れたり錨鎖が切れたり走錨したりしたものの、沈没は免れた。ところが防波堤の外に錨泊していた9隻のうち、無事だったのは2隻だけ。2隻が座礁し、5隻が沈んだ。そしてその5隻は、洞爺丸を含めて全部が青函連絡船だった。車両を積んでいた連絡船だけが、そろって沈んだのである。
第十一青函丸、2851トン。19時57分の「停電に付き、後で交信を受ける」という通信を最後に途絶えた。波浪による船体破断で沈没。乗員90人が全員死亡した。未発見の遺体は44。全員が死んだので正確な沈没時刻は不明だが、殉職者の腕時計から20時ごろと推定されている。皮肉なことに、この船が海峡から引き返してきたせいで洞爺丸の出港は遅れ、乗客と車両が洞爺丸に移された。
移された人たちも、残った乗組員も、どちらも助からなかった。
北見丸、2928トン。15時17分に貨車46両を積んで有川桟橋を離れ、15時30分には防波堤外に錨泊していた。避難のつもりだった。19時30分には車両甲板の船尾開口部から大量の海水が打ち込み、機械室とボイラー室への流入が始まる。20時ごろには風速40メートル、走錨で七重浜の1海里手前まで押し流された。
21時15分にやっと錨鎖を巻き込んで踟躇(その場に留まる操船)を開始したが、22時10分には右舷傾斜に転じ、22時30分にボイラーの焚火が不能になり主機停止、直後に積載車両が横転して右舷へ転覆した。葛登支岬灯台から真方位89度、2.9キロ、水深約50メートル。乗組員76人のうち70人が死亡。沖合8キロという場所だったため、行方不明者の半数は太平洋に流されたとみられている。未発見遺体は29。
生存者はわずか6人だった。
日高丸、2932トン。北見丸の姉妹船だ。近くの沈船に接近しすぎて機関を使えず、浸水が増し続けた。23時に錨を捨てる決断をし、23時35分ごろに錨鎖庫の止め金具を外して錨鎖を切断、機関全速前進を発令したが、機関はすでに止まっていた。23時34分にSOSを発信。最後の電文は「エスオーエス、こちら日高丸。函館防波堤灯台よりW9ケーブルの位置にて遭……」というところで途切れている。
JQLYは日高丸の船名符字だ。23時43分ごろ転覆沈没。乗員56人が殉職し、生存者は20人だった。
十勝丸、2912トン。23時43分、葛登支灯台沖8キロで転覆沈没。乗員59人が殉職、生存者17人。
この4隻の乗組員は全員が国鉄職員だった。そして捜索は、旅客を乗せていた洞爺丸が優先された。仕方のない判断ではある。ただ、貨物船の乗組員にも家族がいた。捜索が始まるまでの時間が彼らの家族にとってどんなものだったかは、想像するしかない。
さらに同じ夜、後志の岩内町では別の惨事が起きている。20時15分、相生町の木造アパートから出火した。風速37.6メートル、瞬間で40から50メートル。消防のポンプ車が駆けつけたが、ノズルから出る水は霧になって火に届かず、職員自身が風で吹き倒される有様だった。火は翌27日午前6時まで市街を時計回りに燃え広がり、市街地の8割、3298戸を焼いた。罹災者16622人、死者35人。
戦後三大大火のひとつに数えられる規模だ。それでも全国報道は微々たるものだった。世間の耳目は、全部が洞爺丸に集まっていたのである。
夜が明けた七重浜は、直視できる場所ではなかった
洞爺丸座礁の報を受けた青函局は救難本部を設置し、補助汽船4隻を現場へ向かわせた。いずれも150トン程度の船だ。波浪が激しすぎて断念している。函館海上保安部からは巡視船「おくしり」が出た。近くにいた汽船や漁船にも救助が要請された。だがどの船も自分の船を守るのに必死で、洞爺丸に近づけない。陸からの救援もない。事実上、見殺しにする形になった。
海難救助にあたっていた海上保安庁の巡視艇「うらなみ」自体が二次遭難している(乗員は全員救助された)。
23時15分ごろ、七重浜駅から救難本部に「洞爺丸の遭難者が浜に漂着している」という連絡が入った。
その時刻、たまたま現場の近くをトラックで走っていた運転手がいた。髪を振り乱した半裸の女性が、ふらつきながら歩いているのを見つけたのだ。驚いた運転手はトラックを降り、波打ち際に向かって走った。その数十メートルの間に、彼は何度も何かにつまずいた。遺体だった。暗くて足元が見えないなか、遺体につまずきながら海へ向かって走ったのである。
運転手は暴風のなか生存者を荷台に乗せ、函館の万代町の交番へ届けた。23時35分ごろのことだ。受け付けた警官は、最初こう言ったという。
「洞爺丸ってのは青函連絡船だろう。あの船が沈むことがあるものか。いい加減なことを言うと承知しないぞ」
責める気にはならない。青函連絡船の花形が、目の前の浜で裏返しになっているなんて、まともな人間の想像力の外にある。
23時半ごろ、七重浜には消防団と鉄道職員が集まりはじめ、鉄道病院の救護班も到着した。そこからは遺体の処置に忙殺されることになる。
翌朝の浜は、直視できるものではなかった。救助に来た人々は、最初、打ち上げられているそれが遺体だとわからなかったという。沈没地点から岸まで流される間に、波にもまれ、他の遺体や船体や漂流物にぶつかり続けた結果、手足がちぎれ、原形をとどめない遺体が多かった。大量の漂流物の下敷きになり、風で運ばれた砂に半分埋まって、人なのか物なのか一目では判別できない状態のものもあった。
北海道新聞の記者は後年、あの浜は地獄そのものだった、と述懐している。
救命胴衣をしっかりつかんだまま死んでいる人がいた。互いの体を紐で結び合ったまま死んでいる老夫婦がいた。下着を波に剥ぎ取られ、すでに息のない乳児を抱いたまま、一点を見つめて砂の上に座り込んでいる女性がいた。
そして、生きて浜に打ち上げられながら、夜明けまでの数時間を持ちこたえられずに息絶えた人が相当数いたという話が残っている。激しい風雨と情報の混乱で救助が遅れたからだ。もう少し早く誰かが来ていれば助かった命が、この浜には確実にあった。
犠牲者があまりに多く、既存の火葬場では処理が追いつかなかった。そこで七重浜に仮設の火葬場が設けられた。浜で焼くのだ。
北海道旭川に住むある人が、こんな記憶を書き残している。その人には七重浜で寺を営む親戚がいて、幼いころ函館からよく足を運んでいた。行くたびにこう聞かされたという。次から次に打ち上げられてくる遺体を浜で荼毘に付し、夜を徹して供養したものだ、それはそれは地獄のようだった、と。
しかもこの人の父親は当時23歳で国鉄青函局に勤務しており、この事故を体験したことがきっかけで、国鉄退職後に僧侶になることを決意したのだという。
この夜が人の一生をどう変えたか、という話の一例だ。
「結婚して八カ月目の妻を、目の前で殺してしまった」
ここから、証言を三つ、少し長めに引く。
一つめ。先に触れた青森県南津軽郡の28歳の男性。函館市富田病院のベッドで、朝日新聞の記者に語った内容だ。掲載は1954年9月28日付、東京本社版朝刊7面。
彼は妻と二人で北海道へ行商に来た帰りだった。暴風がひどいので下船しようとしたがタラップを降ろしてもらえなかった、という話はすでに書いた。船は出港した。30分ほどで航行不能になり錨を下ろす。船は右に左に、立っていられないほど揺れた。ボーイは盛んに「大丈夫だ」と客をなだめたが、彼は嫌な予感がした。大変なことになるな、と思った途端、船が45度傾き、三等船室にデッキから海水が流れ落ちてきた。
彼の言葉をなるべくそのまま置く。水をかぶった人々がわめくうちに船は再び60度も傾き、すでに船室にたまった水に子供や女が浮き沈みしている姿が眼に映った。夢中で妻の手を引き階段を上った。滝のように落ちる波を頭から浴びながらデッキに上り着いたとたんに船の横腹を流された。私は胸に妻を抱きしめながら激浪に引きずられていた。妻が「死ぬなら一緒に……」と苦しそうに私の胸の下で叫んだ。
「バカをいうな」と励ましたとき、大きなうねりに妻は私の手を離れ、私はブイに頭をぶつけてとっさにこれにつかまってしまった。
そのまま彼は浜に打ち上げられ、病院に運ばれた。
だが彼はベッドにいられなかった。看護婦の目をかすめて七重浜に駆けつけた。そして一日じゅう、浜で妻の名前を呼びながら探し歩いた。力尽きて砂の上に倒れ、再び病院に担ぎ込まれた。
記事の冒頭で彼が言った言葉が、「結婚して八カ月目の妻を、目の前で殺してしまった」である。
浜で名前を呼び続ける、という行為。ここは覚えておいてほしい。後で怪談の話をするときに、また出てくる。
沈む船の中で手品をした外国人がいた
二つめ。この事故でもっとも広く語り継がれてきたエピソードだ。
洞爺丸には三人の外国人宣教師が乗り合わせていた。カナダ出身のアルフレッド・ラッセル・ストーン、52歳。アメリカ出身のディーン・リーパー、33歳。そしてカナダ合同教会のドナルド・オース。
ストーン宣教師は1902年、カナダのオンタリオ州ハイゲート村にアイルランド系農民の子として生まれた。トロント大学などで学んで牧師になり、1926年9月に来日。東京で日本語を学び、1928年に長野へ赴任した。各地で農民福音学校を開き、隣保館をつくり、保育園を開設した。野尻湖の周辺で西欧の珍しい野菜の栽培を広め、特産品にまでしたので、湖のほとりには村人が建てた記念碑がいまも立っている。
彼が信州農民福音学校の参加者に贈った聖書には、こう書かれていた。土を愛し、人を愛し、神を愛せよ。日本人と同じ暮らしをしようと日本食を食べ、日本の民家を愛し、囲炉裏を囲んで流暢な日本語で語る人だった。1954年に北海道の開拓伝道を担うため赴任し、9月25日に札幌を出て函館へ向かった。26日の朝には日本基督教団函館教会で「平和の道」と題して説教をしている。
本来なら14時40分発の洞爺丸には間に合わないはずだった。船が何時間も遅れたせいで、間に合ってしまった。
リーパー宣教師は1920年、アメリカのイリノイ州で農場を営む父のもとに生まれた。イリノイ州立大学農学部に入り、学内のYMCAでアジア帰りの宣教師に感化されて、自分もアジアへ行きたいと思うようになる。太平洋戦争で召集されたが、武器は持ちたくないという希望が認められ、日本を研究する任務に就いた。それが彼と日本を結びつけた。1945年、日本YMCAの指導者として来日。
焼け野原の東京、防空壕に住む人々を見て衝撃を受け、YMCAの再建に力を尽くしながら、自分も日本人になろうと努めた。欧米人が二等以上に乗るのが普通だった時代に、鉄道はいつも三等に乗った。銭湯へ行って日本人と背中を流し合った。そして彼は、プロ級の手品師でもあった。
1954年9月5日に家族で来日し、9月22日に学生キリスト運動の現状を知るため北海道を訪れ、北海道大学に立ち寄った後、仙台へ向かう途中で洞爺丸に乗った。
船が傾き、船内が悲鳴と泣き声で満ちたとき、リーパーは得意の手品を披露した。恐怖におびえる乗客に優しく語りかけ、あざやかな手さばきを見せた。子どもも大人も大喜びした。船室に一時、落ち着きが戻ったという。
やがて船はさらに傾き、船室に水が流れ込みはじめる。三人の宣教師は逃げまどう乗客のなかに割って入り、天井のロッカーから救命胴衣を取り出して配りはじめた。着用に手間取る子どもや女性を手伝った。日本語と英語で話しかけて励ました。
そして船が沈み出す直前、ストーンは救命胴衣をつけていない男子学生を見つけて、自分のものを譲った。学生は返そうとしたが、もうその時間はなかった。ストーンはこう言ったと伝えられている。君は若い。日本のために役立つ機会がいくらでもある。最善をつくせ。そして大声でその学生のために祈った。
リーパーは女性や子どもに救命胴衣を着せてやり、最後まで励ましの言葉をかけ続けた。
この話は、生き延びたオース宣教師の証言によって明らかになった。ストーンとリーパーに救命胴衣をもらった人は生還し、その母親が翌日、新聞社にこのことを伝えた。日本経済新聞は「北海に散った神の使徒」あるいは「北海に散った外人宣教師」という見出しでこれを報じた。
翌朝、七重浜で救命胴衣をつけていないストーンの遺体が発見された。函館鉄道病院の医師が書いた死亡診断書がカナダ合同教会の資料室に残っている。死亡の時、昭和29年9月26日推定午後11時30分。死亡の原因、溺死、災害死。リーパーの遺体が七重浜に上がったのは5日後だった。
リーパーの長男スティーブンさんは事故当時6歳だった。父が海難事故で亡くなったと母から聞かされても、受け入れられなかったという。海軍出身の父は泳ぎの達人だ、どこかに泳ぎ着いて絶対に生きているはずだ、と思っていた。だが父子で参加する学校行事で、自分の隣にだけ父がいない。同級生たちが笑い合うのを見て、失ったことを実感した。
その壊れそうな心を支えたのが、伝え聞いた父の最期の姿だった。手品をして周りを和ませた父。子どもに救命胴衣を着せた父。
スティーブンさんは1984年に来日し、広島平和記念資料館の展示や被爆者証言の翻訳に携わった。2007年には同館を運営する広島平和文化センターの理事長に、アメリカ人として初めて就任している。70年の節目にあたる2024年、読売新聞のオンライン取材にこう答えた。恐怖に屈することなく周囲を助けた父を誇りに思う、自らを犠牲にして他者を救った父を忘れないでほしい、と。
2004年、事故から50年の節目には、リーパーさんの妻ミッジさん(当時83歳)と長男スティーブンさん、ストーンさんの二男ロバートさん夫妻が函館を訪れている。9月26日、午前は日本キリスト教団函館教会の追悼礼拝、午後3時から七重浜の慰霊碑前の祈祷会に出席した。七重浜に立ったロバートさんは言った。ここは特別な場所。きょうの穏やかな海を見ると当時の様子は想像できない、と。
事故後はじめて函館に来たというミッジさんはこう語っている。50年前、急に夫が死んで寂しかった。当時は4人目の子供がお腹にいて大変だった。ずっと夫が亡くなったこの地に来たかった、と。
学生を全員失って、ひとりだけ帰ってきた教授
三つめ。作家の三浦綾子が直接聞き取った証言だ。
『氷点』の連載が始まって半年ほど経った1965年5月の連休のころ、三浦綾子と夫の光世は函館へ行った。朝日新聞から一日分の分量を少し削るよう要請があり、書き直すなら1954年の洞爺丸遭難のことを入れてはどうか、と光世が提案したからだ。二人は函館で、生存者の一人を紹介された。函館教育大学で美術を教えていた渕上巍教授である。
渕上教授は、ゼミの学生数人を連れて本州へスケッチ旅行に向かう途中だった。洞爺丸に乗った。そして遭難した。一行のうち生き残ったのは、教授ひとりだけだった。学生は誰も助からなかった。
三浦綾子はこの教授から体験をつぶさに聞き取り、『氷点』の主人公である辻口啓造の遭難体験として書き込んだ。作中の啓造は、胃けいれんで苦しむ女性が救命具の紐が切れたと泣くのを聞く。すると近くにいた宣教師が落ち着いた声で言う。「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマス」。そして救命具を外しながら、こう続ける。「アナタハ、ワタシヨリワカイ。ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」。
啓造は思わず宣教師を見るが、自分の救命具を譲ろうとはしない。あとになって啓造は、大沼の紅葉を見ながら思う。あの宣教師は助かったろうか、と。
三浦綾子が『氷点』を書いた段階では、ストーンとリーパーの名前や年齢まではつぶさに知らなかったという。知ったのは後年のことだ。のちにリーパーの長女リンダさんが、父のエピソードが書かれたことに感謝して三浦綾子を訪ねている。綾子はそのことをエッセイ集『泉への招待』所収の「ミス・リーパーの来訪」に書いた。
そして渕上教授本人のことだ。三浦綾子の目に映った教授には、若い学生に死なれ自分ひとりが生き残った者の苦悩と悲哀が滲み出ていた、という。その後も教授は思い出したように葉書をくれた。後年には「カトリックの洗礼を受けた」という葉書も届いた。
生き残った、という事実そのものが刑罰みたいに機能してしまうことがある。渕上教授の三十年、四十年が具体的にどんなものだったかは、俺には書けない。ただ、葉書が届き続けたということだけが、こちらに残っている。
号外は「死者・行方不明多数」と書いた
報道の話をする。この事故の紙面の動きは、それ自体がかなり興味深い。
9月27日、各紙は号外を出した。朝日新聞の号外の主見出しは「青函連絡船(洞爺丸)転覆 函館港で 死者・行方不明多数」。本文はこうだ。
青函連絡船洞爺丸(4337トン、近藤平七船長、水谷繁事務長、乗組員110人)は26日午後6時30分、乗客1117人を乗せて函館港を出港したが、強風のため午後7時すぎ、防波堤外で仮泊中、海上瞬間50メートルの強風に押し流され、エンジンに故障を起こし、同10時半ごろ、北海道上磯郡上磯町七重浜沖100メートルの地点で座礁。45度に傾いて砂上に横転した。
ちなみにこの号外、船長の名前を「近藤平七」と書いている。正しくは近藤平市だ。乗客数も1117人で、出港時刻も6時30分になっている。数字も名前も、ぜんぶ後で修正される。それくらい混乱した第一報だったということだ。
そして注目したいのが、この号外の続きの部分。引き潮のため、乗客の一部は船員の指示で浅瀬を渡って同浜に避難。バスに分乗させ、函館港の景福丸海上ホテルに収容している、と書いている。まるで、大半の乗客は歩いて浜に逃げられたかのような書き方だ。陸のすぐ目の前で座礁して横転したのだから、そのくらいの惨事だろう、と朝日は見ていた。
対して毎日新聞の号外は「洞爺丸・函館港外で遭難」を主見出しにしつつ、袖に「乗船者千名絶望か」と打った。そして書いた。27日午前4時現在、救助された者約130名、死体収容約200名、他は全部絶望視されるという、わが国海難史上最大の事故となった、と。
この時点で毎日は踏み込んでいる。同じ夜の同じ材料を持ちながら、社によって被害の見立てがここまで違った。
毎日はさらに「三、四百名“死の脱出”」という見出しの記事で、船の構造にまで踏み込んでいる。横倒しになって浸水した当時、一、二等客は逃げやすかったが、三等客は連絡船の構造上、三等室が貨車甲板の下になっているため、逃げ出すいとまさえないありさまで、わずかに船室の丸窓を壊して逃げ出した者が奇跡的に助かったぐらいで――と。
事故翌日の号外で、すでに車両甲板の下に三等船室があるという構造上の問題を指摘しているのだ。
翌9月28日付の朝刊になると、紙面の焦点は二つに割れる。ヒューマンストーリーと、原因・責任のありかだ。朝日と毎日は1面トップで、生き残った洞爺丸乗組員中の最高責任者である阿部喜代二二等航海士の証言を報じた。乗組員の話が紙面に載ったのは、これが初めてだった。朝日の見出しは「台風をアマく見た 後部甲板浸水が打撃」。かなりショッキングな打ち方である。同じ日、朝日の7面には、前述の新婚の男性の証言が「悲惨!
最後の一瞬」の見出しで載った。
読売新聞は「複雑な責任問題 気象誤報か、船長誤断か」という見出しを立てた。問題は、このような強風のさなかに出港したことにあり、それは船長の判断の誤りか、船長の判断の基礎となった気象情報に誤りがあったのではないか――と、争点を早々に絞り込んでいる。実際、この後の5年間はまさにこの二択をめぐって争われることになる。読売の見立ては的確だった。
一方、中央気象台のお天気相談所長は「予報に誤りなかった」と反論している。9月26日正午に札幌管区気象台が出した暴風警報は、陸上で最大風速20から25メートル、海上で25から30メートルという内容だった。一般には風速25から30メートルでは警報を出さないのが普通で、気象台が警戒していたことがわかる、と所長は言う。
そして瞬間風速は最大風速の5割から10割増し、時には3倍と考えるのが気象上の常識で、この常識を基にすれば予報に誤りはなかった、と結論づけた。
いま読むと、責任のなすりつけ合いに見える。ただ、当時の関係者にとってこれは生死に近い問題だった。国鉄当局は27日の時点でこう発表している。船体の設計上の欠陥もなく万全の措置をとっていたので、災害は不可抗力によるものと推定している、と。
高見忠雄青函局長も、近藤船長はベテランであり気象判断の間違いがあったとは考えられない、中央気象台と函館海洋気象台とで食い違いがあったようで、その点も船長の判断を狂わせたのではないか、と語っている。
なお、この事故が報じられた9月末の紙面には、ほかの記事も並んでいる。国共内戦で一時中断していた中国からの引き揚げが再開し、元軍人ら566人を乗せた引き揚げ船興安丸が舞鶴港に入ったこと。事故の3日前の9月23日には、ビキニ環礁での水爆実験で被曝した第五福竜丸の久保山愛吉無線長が亡くなり、追悼記事が連日載っていたこと。1954年は、日本が占領から独立して4年目である。
戦争の影がまだ濃く、同時に高度成長の助走が始まっていた。洞爺丸事故は、その両方の時代の真ん中で起きた。
責任はどこにあったのか――五年に及んだ海難審判
海難審判の経過を追う。ここを飛ばすと「結局船長が悪いんでしょ」という乱暴な理解で終わってしまうので、丁寧にいく。
事故翌日の9月27日、函館地方海難審判理事所の理事官が、重大海難として高等海難審判理事所から応援を得て調査を開始した。事情聴取は本船の乗組員、青函連絡船の運航管理関係者、生存乗客、国鉄関係者、気象台関係者など延べ200人におよんだ。理事官が作成した調書は2025ページ、収集した書類は133点1010ページ。さらに「洞爺丸の復原性について」の鑑定を依頼している。
そして事件発生からわずか62日で調査を完了。1954年11月27日、函館地方海難審判庁に審判開始の申し立てを行った。受審人は洞爺丸の二等航海士と二等機関士。指定海難関係人には、日本国有鉄道総裁、青函管理局長、中央気象台長、函館海洋気象台長がそれぞれ指名された。
第一審は1955年2月15日に開廷した。洞爺丸のほか、同じ夜に遭難した十勝丸、日高丸、北見丸、第十一青函丸の各事件を併合して審理する。初回の傍聴人は167人。受審人は各船の乗組員9人で、非番だった者も含まれている。1955年2月25日には東京大学の加藤弘教授らによる「洞爺丸等復元性鑑定書」が提出された。
審判は同年4月の1カ月間に8回も開くという集中ぶりで、証人尋問47人、同型船の検査など実地検査7回を経て、7月15日の第30回審判で結審した。
1955年9月22日、事故から一周年を前に、洞爺丸についての裁決が言い渡された。主文はこうだ。
本件遭難は、洞爺丸船長の運航に関する職務上の過失に基因して発生したものであるが、本船の船体構造、青函連絡船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。
そして指定海難関係人である十河信二国鉄総裁に対して勧告した。気象台と青函鉄道管理局長への勧告は見送られた。同年12月21日には十勝丸、日高丸、北見丸、第十一青函丸についても裁決が出て、前三者は洞爺丸と同様の判断となり、第十一青函丸だけは乗組員全員が死亡していて原因不明とされた。
この裁決に対して、理事官と国鉄の双方が二審を請求した。理事官は「もっと責任を明確に」、国鉄は「不可抗力だ」という、正反対の方向からの不服である。
高等海難審判庁での第二審は1956年4月6日に開廷。初日は審判廷の収容人員を超える200人が傍聴に押しかけた。その後の期日でも毎回40から50人の傍聴があった。事故から1年半経ってもなお、社会の関心は落ちていなかったということだ。証人調べ71人、実地検査6回、鑑定依頼を経て、1958年4月2日に結審。第二審の審判調書は5520ページ、提出された証拠書類等は64点3297ページ。
第一審と合わせると約2万ページになる。
1959年2月9日、第二審の裁決が言い渡された。裁決書は約300ページ。十河総裁への勧告は取り消したが、国鉄が主張した不可抗力説は採らなかった。あくまで人災である、という判断だ。
国鉄はなお裁決の取り消しを求めて東京高等裁判所に提訴し、さらに最高裁判所に上告した。1961年4月20日、上告棄却の判決。ここでようやく、6年半にわたる法廷闘争が終わった。
そして、この一連の裁判が残した副産物がひとつある。審判の進行中から「殉職した船長が弁明の機会のないまま一方的に断罪されること」に対する疑問の声が出ていた。近藤船長は死んでいる。反論できない。裁決文に「職務上の過失」と書かれても、本人は何も言えない。
海難審判制度の改革議論のなかでこの点がまとめられ、その後は、船長が殉職した海難事故の裁決理由の中に船長の名前が出たとしても「船長の職務上の過失」という語句は使用しない、と申し合わされることになった。
この事故が制度そのものを変えたわけだ。
もうひとつ。国鉄から被害者と遺族に支払われた賠償金の総額は、当時の金額でおよそ10億5000万円に達したと言われている。1950年代半ばの10億円である。国鉄が責任の所在を必死に争った背景には、この額もあった。ただ、それを言うのは酷でもある。金は誠意のひとつではあるが、金で死者は戻らない。
「会議に間に合わせろと言われた」という話の行方
この事故には、繰り返し語られてきた「もうひとつの原因」がある。
事故直後、「荒天での無理な出航は、一等に乗船していた国鉄の浅井総支配人および旭川・釧路・青函の各局長らが、国鉄本社での会議に間に合わせるために船長に出航を強要したものだ」という趣旨の新聞記事が出た。えらい人が船長に圧力をかけた、という話である。わかりやすいし、腹も立つ。だから七十年後のいまも、事故の一因としてしばしば語られる。
ただ、この説は根拠が弱い。出所は、出航前に一等船室から下船して事故を免れた乗客の放言によるところが大きいとされる。そして青函局長や乗組員の証言によれば、そもそも連絡船が遅れた場合に備えて切符の手配をしてあったので、船長に出航を強要する必要はなかった。強要しなくても、遅れたら遅れたで陸路の手配ができていたわけだ。
実際、浅井政治国鉄札幌総支配人と旭川・釧路の鉄道管理局長は、この船で亡くなっている。ほかにも冨吉栄二元逓信大臣、菊川忠雄衆議院議員、元宝塚女優の佐保美代子といった著名人が犠牲になった。圧力をかけたとされる当人たちが、そろって死んでいるのだ。
俺はこの説を採らない。ただ、この説がなぜこれほど生き延びたのかは面白いと思う。「船長がひとりで気象判断を誤った」という説明は、あまりに空虚だからだ。1155人が死ぬのに、原因がひとりの判断ミスというのは、感情の収支が合わない。だから人は、もっと大きくて悪い何かを探す。上のほうにいる誰かが、無理を通したに違いない、と。
もっと言えば、この心理は怪談を生む心理と地続きである。あとでまた触れる。
あれは本当に台風だったのか、という後年の見直し
科学の側からの見直しも進んでいる。
近年では、事故の時点で洞爺丸台風はすでに温帯低気圧に変わっていた可能性が高いと推定されている。函館で見えたあの晴れ間が閉塞前線によるものだった、という説明と表裏一体の話だ。台風が温帯低気圧化する過程では、暴風域がむしろ広がり、風の吹く時間が長くなることがある。台風としての「目」はもう無いのに、風だけがより広く、より長く吹く。1954年の観測技術で、その変化を追うのは不可能に近かった。
台風15号は日本海に入っても発達を続け、9月26日21時ごろに最盛期を迎えて北海道寿都町沖を通過し、27日0時過ぎには稚内市付近に達した。気象庁の記録では、この台風による全国の被害は死者1361名、行方不明者400名、負傷者1601名、住家全壊8396棟、半壊21771棟。別の統計では死者・行方不明1761人。九州でも中国地方でも西日本全体でも人が死んでいる。
洞爺丸の1155人はその中の一部だが、一夜にして名前を与えられるくらい圧倒的だった。この台風が「洞爺丸台風」と呼ばれるようになったのは、そのためだ。
一方で、根拠の薄い噂も流れた。青函トンネル建設の推進派が、工事計画を通すために悪天候のなか無理に洞爺丸を出港させたのではないか、という陰謀論である。当時、トンネル建設には技術と資金の両面から反対の声が強かった。だから事故を口実にした、というわけだ。
これは無理がある。事故が起きれば賠償金の問題が発生するし、トンネルが完成するまでは航路の維持が不可欠だから、新造船や修理の費用もかかる。トンネル工事費を出したうえに追加の負担を抱えることになる。国鉄が法廷で必死に責任の所在を争ったこと自体が、この噂と矛盾する。
それでも、こういう噂が出てくること自体が、この事故のもうひとつの症状だと思う。
遺体になりすます男たちがいた
書きたくないが、書かないと片手落ちになる話がある。
浜には、打ち上げられる遺体のなかから家族や知人を探し求める人々が集まった。泣き叫んで半狂乱になった人もいた。ある新聞は「まこと目を覆うばかりであった」と書いている。
そのなかに、女性の遺体のそばで大声で泣いている男がいた。男は自分がその女性の夫だと主張し、遺体を引き取った。まもなく詐欺の疑いで逮捕された。目的は、国鉄から遺族に渡される葬儀料だった。
そしてこの手の犯罪は、1件や2件ではなかったという。身元照会が混乱していたことにつけこんで、遺族になりすまし補償金を詐取しようとする事件が続発した。
もうひとつ、切ない話も残っている。「娘一家が乗船して遭難した」との一報を受けた父親が、ショックのあまり亡くなった。その後、娘の夫から「娘一家は乗船しておらず無事だ」という電報が届いた。情報が錯綜するというのは、こういうことでもある。
七重浜は、そういう場所として一週間ばかりを過ごした。仮設の火葬場の煙。名前を呼ぶ声。遺体を探す遺族。それに紛れ込む詐欺師。そして誰のものかわからない遺体。
こういう記憶が土地に沈殿して、そのあと何が生えてくるかというのが、この記事の後半の話になる。
海の底に道を掘る――青函トンネルという答え
先に、事故が変えたものを見ておこう。
津軽海峡を陸路で結ぶという構想自体は、大正年間の北海道博覧会で提唱されたのが最初だとされる。戦後、比較的人口の希薄な北海道が注目され、関門トンネルを建設した技術的な裏づけもあって、1946年には予備的な調査が始まっていた。
ルートは、下北半島から汐首岬に至る東回り案と、津軽半島から白神岬に至る西回り案が検討され、東京と札幌の距離、水深、火山帯の影響、地質調査の結果を勘案して、西回りが基本ルートに定められた。
だが、技術と資金のハードルが高すぎた。戦後から事故までの間、計画はほぼ棚上げだった。夢物語だ、と言われていた。
1954年9月26日が、その空気を一晩で変えた。
安全に本州と北海道を結ぶ道が要る、という声が国民のものになった。鉄道建設・運輸施設整備支援機構は現在も公式にこう記している。青函トンネルは、昭和29年、台風による青函連絡船洞爺丸沈没という世界的にも大きな海難事故を契機として建設が促進された、と。
1960年代の経済成長で本州と北海道の間の輸送量が増え、津軽海峡を複線鉄道トンネルで結ぶ計画が策定される。1964年、現場での試掘調査が開始された。同じころ東海道新幹線が開業し、高速鉄道への認識が一変する。新幹線整備計画のなかで北海道新幹線は青函トンネルを併用することとされたが、その後の輸送需要の変化から、将来の新幹線への設計上の配慮をしつつ、まずは在来線で開業することになった。
1971年に運輸大臣から工事実施計画が認可され、本工事が起工。
そこからが地獄だった。津軽海峡の海底は世界屈指の難地盤とされる。4度の大出水事故があり、そのたびに水没の危機に瀕した。地獄への穴掘り、という言い方をされたこともある。工事では殉職者34人を出している。
1983年に先進導坑が貫通。1985年に本坑が貫通。有史以来はじめて、北海道と本州が陸続きになった。1987年に電気関係を含む工事が完成し、1988年3月13日、津軽海峡線として営業を開始した。全長53.85キロ、海底部23.3キロ、海底下約100メートル。日本の20世紀遺産20選にも選ばれている。2016年3月には北海道新幹線が新青森と新函館北斗の間で開業し、青函トンネルはその一部になった。
そして1988年3月13日は、青函連絡船の最終日でもあった。朝に青函トンネルの営業運転が始まり、同じ日の夕刻、最後の連絡船が函館と青森を出港した。80年の歴史が閉じた。トンネルが開いた日に、船が終わった。きれいに引き継がれたようでいて、その引き継ぎのきっかけが1430人の死だったことは、忘れないほうがいい。
船の設計思想が、この夜を境に変わった
制度と船の話も押さえておく。
まず運航のルール。それまで船長ひとりに委ねられていた出港判断は、船長と青函局指令との合議制に変わった。荒天時には気象台との連絡を緊密にすることになった。そして退避先の考え方が根本から変わった。湾が南に開いていて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあって波浪の影響を受けにくい青森を退避先とする、という方針になったのだ。
一定の気象条件を超えた場合には、鉄道を含めて自動的に運行を停止させる制度も導入された。
荒天時の操船法も変わった。錨を下ろして仮泊するのではなく、錨を上げたまま船首を風上に向けて前進し、横波を受けないようにしながら波にまかせて漂う。大雪丸がやったことが、正式なやり方になった。
既存の連絡船には改修が施された。船尾車両積載口への水密扉の設置。下部遊歩甲板の旅客室窓を水密の丸窓に交換。蒸気機関への重油燃焼装置や自動給炭機の設置。第十二青函丸と石狩丸については、車両甲板上にあった旅客室を撤去して重心を下げた。
事故以降に新造される連絡船では、設計思想そのものが変わった。主機関を蒸気タービンからディーゼルへ。車両積載口には水密扉を採用。車両甲板下の旅客区画は廃止。機関室から車両甲板への開口部は全廃。凌波性と復原性の向上。船底部の水密区画と水密扉の設置。操舵性向上のための二枚舵の採用。
要するに、この夜に洞爺丸を殺したものが、一つずつ潰されたのだ。船尾の穴、載炭口、機関室への通路、車両甲板の下の三等船室。全部が犯人だったし、全部が対策された。
その結果、1988年の終航まで、青函連絡船で二度と洞爺丸事故級の大事故は起きていない。
なお洞爺丸の船体は、翌1955年8月25日に浮揚作業を完了している。ただ、作業期間中の荒天もあって、沈没時に下になって海底に埋まっていた右舷側の損傷が激しく、修理不能と判断されて解体された。北見丸は1956年8月16日に浮揚したが、やはり損傷が激しく再使用を断念し、1960年に売却されて解体された。日高丸だけが浮揚後に修復されて再就航し、1969年9月まで働いた。
惨事は、小説になって生き延びた
この事故は、いくつもの文学作品の骨になっている。
水上勉の『飢餓海峡』が代表格だ。1954年に同じ日に起きた洞爺丸事故と岩内大火をヒントに、時代を敗戦直後に置き換えて着想された推理小説である。水上勉が推理作家から社会派の作家へ移行していく時期の代表作で、戦後の貧困にあえぐ時代を生きた人々の悲哀が、登場人物に投影されている。目次の第一章が「序章 遭難」から始まり、作中の「岩幌町」は岩内町がモデルだ。
岩内町郷土館には「飢餓海峡と岩内」という常設展示コーナーがあって、ロケ風景の写真などが見られる。1965年には内田吐夢監督、三國連太郎主演で映画化された。洞爺丸の遭難シーンはミニチュア特撮で撮られている。特撮を担当したのは上村貞夫だった。
三浦綾子の『氷点』は前に触れたとおり。朝日新聞朝刊に1964年12月9日から1965年11月14日まで連載され、1965年11月15日に朝日新聞社から刊行された。作中で主人公の辻口啓造が洞爺丸事故で九死に一生を得る。娘の陽子も小学2年生のときに事故に遭い、自分の命を顧みず他人に救命具を与えた宣教師の姿に心を打たれてキリスト教に興味を抱く、という筋立てになっている。
宣教師の言葉が読者の記憶に残り、それが実在のストーンとリーパーの記憶を運ぶ器になった。
ノンフィクションでは上前淳一郎『洞爺丸はなぜ沈んだか』(文藝春秋、1980年11月25日刊)が定番だ。詳細な聞き取りと緻密な検証で、刻々と迫るその瞬間を克明に描いている。リーパー宣教師の行動もここに記されている。
ほかに森下研『ひびけ愛北の海をこえて 洞爺丸とともに波にきえたディーン・リーパー』(1988年)、篠輝久『残されたもの ディーン・リーパー物語』(1989年12月20日刊)、田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』などがある。
事故が本になり、映画になり、テレビドラマになる。そのたびに事故は少しずつ形を変えて広がっていく。そして小説や映画に耐えるだけの「物語の強度」を持ってしまった惨事は、たいてい、その隣に別のジャンルの物語も生やす。
そして、浜で声が聞こえるようになった
ようやく、ここからが怪談の話だ。
はっきりさせておきたいのは、俺は「霊がいる」と主張したいわけじゃないということ。ただ、七重浜で語られはじめた話の内容を並べていくと、あまりにも事故当日の現実の写しになっていることに気づく。そこが面白い。というか、けっこう怖い。
いちばん古くから語られたのが、浜で聞こえる声だ。
海が荒れる夜。あるいは事故が起きた9月26日の前後。慰霊碑から海のほうへ向かって立つと、風に乗って声が聞こえてくるという。「助けて」。「痛い」。「寒い」。「怖い」。女性のすすり泣きが混じることもある。
もうひとつは足音の話だ。夏に七重浜でキャンプをしていた人の体験談として伝わっているもの。夜中、テントの中で寝ていると、外でたくさんの人が歩く音が聞こえた。大勢だ。その足音がテントのすぐそばまで来て、止まった。そして声がした。「寒い……」「助けて……」。
いずれも、事故当夜そのものだ。あの夜、生きて浜に打ち上げられながら、朝までもたずに息絶えた人が相当数いた。彼らが最後に発した言葉が何だったかは、記録に残っていない。でも、たぶんこれに近い。寒い。助けて。9月末の北海道の海で、暴風雨に打たれて、暗闇のなかで。
慰霊碑のそばを歩いていると、誰もいないはずの碑の陰からじっとこちらを見つめる、水浸しの女性を見た、という話もある。
濡れた乗客を乗せたタクシー
そして、七重浜の怪談でいちばん有名なのがこれだ。
晴れた日の深夜。タクシーの運転手が、七重浜の路上で女性客をひとり乗せる。女性は「函館駅まで」とだけ小さく告げて、あとは後部座席で黙り込んでしまう。
運転手は言われたとおりに走らせるが、なんとなく薄気味が悪い。そっとバックミラー越しに客を見る。うつむきがちの顔は血の気が引いて青白い。そして、雨など降っていないのに、服からも黒髪からも、絶えず水が滴り落ちている。
運転手はもう、早く着くことしか考えられない。冷や汗まみれで目的地に着き、「お客さん、着きましたよ」と言って後ろを振り返る。
誰もいない。シートだけが、ぐっしょり濡れている。
地元の人々は、洞爺丸の犠牲者の霊魂が、海から自宅まで帰ったのだと噂した。
この話、実は日本の怪談史のなかでけっこう重要な位置にある。深夜のタクシーが乗せた女性客が消え、濡れたシートだけが残る、というパターンは全国に無数のバージョンがあるが、七重浜のこの話がその最も古い例のひとつ、あるいは原点だと言う人もいる。
もっとも、怪談研究の側から見ると事情はもう少し複雑だ。乗り物から乗客が忽然と消える話自体は、駕籠、馬車、人力車、自転車と、乗り物の変遷に合わせてずっと語られてきた。池田彌三郎の名著『日本の幽霊』(初版1962年)には、すでにこの型の話が「昭和5、6年ごろに聞いた話」として二つ紹介されている。舞台は青山墓地だ。つまり戦前から流布していた。
京都の深泥池を発祥地とする説は1969年の出来事に基づくもので、七重浜より新しい。江戸時代の怪談集『諸国百物語』にも、主人に殺された下女が馬方を利用して屋敷を訪れる話がある。
だから「七重浜が起源だ」と断言するのは無理がある。けれど、この型の話が戦後の日本で爆発的に増殖したとき、その最大の燃料のひとつが洞爺丸だったのは、まず間違いない。理由は単純で、この事故の犠牲者は「濡れて帰ってこられなかった人」の巨大な塊だからだ。しかも彼らには行き先があった。青森だ。あるいは函館だ。あるいは、津軽海峡の向こうの故郷だ。
千人以上が、目的地に着けないまま海で死んだ。その怪談が「乗り物に乗って、目的地に着けないまま消える」形をとるのは、必然に近い。
なお、この話にはバリエーションがある。行き先を「函館駅まで」とする版がいちばん多いが、洞爺丸が出た函館港のほうへ向かおうとした、という解釈もあれば、犠牲者の自宅へ帰ろうとしたのだ、という解釈もある。女性ではなく若い母子連れだった、という版を語る人もいる。運転手が交番に駆け込んだ、という尾ひれがつくこともある。細部は語る人ごとに揺れる。それが口承というものだ。
スクリューについた爪あとの噂
これはあまり知られていないが、俺がいちばん背筋にくるバージョンがこれだ。
洞爺丸事故のあと、新しく就航した青函連絡船のスクリューに、奇妙な傷跡が見つかるようになった。細かい引っかき傷のような跡だ。
噂が立った。事故の犠牲者が船幽霊になって、スクリューに爪を立てているのだ、と。
海の底から、無数の手が伸びてきて、通り過ぎる船のスクリューにしがみつく。連れて行ってくれと言わんばかりに。あるいは、置いていったなと言わんばかりに。
この傷は後に電蝕、つまり電気化学的な腐食による損傷だと判明している。異なる金属が海水という電解質のなかで接すると、片方が溶ける。船のスクリューにはよくある現象だ。科学的には、まったく普通の話である。
でも、この噂が生まれた順番を考えてみてほしい。まず1954年に千人以上が海に沈んだ。そのあと同じ航路を新しい船が走りはじめた。船底を上げて点検したら、スクリューに引っかき傷があった。乗組員たちが何を思ったかは、想像するまでもない。
彼らの多くは、あの夜に同僚を275人失っている。国鉄職員が275人、一夜で。
青森駅の窓ガラスに残った、無数の手形
怪異は、七重浜だけの話ではない。洞爺丸が向かっていた先、青森でも語られた。
青森の港湾事務所、あるいは青森駅の宿直室で職員が寝ていると、待合室の窓ガラスを叩く音がする。トントン、トントン。深夜なのに止まない。急ぎの用か、忘れ物か、それとも酔っ払いか。業を煮やした職員が、眠い目をこすりながら待合室を見にいく。
ガラスを叩いている人の姿はない。
代わりに、ガラス越しに見えたのは、無数の手だった。ずぶ濡れの手が、外側から一面に張りついていた。
職員は絶叫して宿直室へ逃げ帰り、布団をかぶって朝まで震えていた。翌朝、恐怖を押し殺して窓を確認すると、ガラスは一面が手形で埋め尽くされていたという。
この話が語られるとき、必ず添えられる説明がある。洞爺丸事故の犠牲者には青森県民が多かった、と。船は青森へ向かっていた。乗客の多くは海峡を渡って家へ帰るところだった。行商帰りの夫婦。出稼ぎ帰りの人。故郷へ戻る学生。
だから、彼らは海を越えて、ちゃんと青森まで来たのだ、という話になる。
そういう話として語られていること自体が、俺は重要だと思う。この怪談は、恐怖の話であると同時に、「彼らは目的地に着けた」という話でもあるのだ。
海の中から伸びてくる白い手
事故直後、七重浜の住民のあいだで真っ先に噂されたのが、これだったという。
海のなかから、無数の白い手が伸びてくる。
七重浜は、もともと夏には海水浴のメッカとして親しまれていた場所だ。遠浅で、家族連れが安心して遊べる浜だった。事故で1000体を超える遺体が打ち上げられたその同じ砂の上で、翌年の夏にはまた海水浴場が開く。開かないわけにはいかない。生活があるからだ。
そこで泳いでいると、天気が悪いわけでもなく、波が高いわけでもない、穏やかな夏の日に、突然、冷たい手のような感触が足をつかむ。そして海中へ引きずり込まれそうになる。
沖に流されたのか、藻に足を取られたのか、離岸流に捕まったのか。合理的な説明はいくらでもつく。でも、あの浜でその感触に襲われたら、頭に浮かぶのはひとつしかない。
船から真っ暗な海へ投げ出された人たちが、あと少しのところで岸に手が届かなかった。その手が、まだ水の中にある。
それから、もっと後ろ暗い噂もあった。青函航路では、夜間の運航中に船から海に飛び込んで自ら命を絶つ人が、それなりの数いたらしい。裏では不名誉な呼ばれ方をしていた。事故直後、そのことを知る人たちのあいだで、そうした人々の怨念が洞爺丸を揺り動かして沈めたのではないか、という噂が立ったという。
もちろん洞爺丸を沈めたのは台風と船体構造と判断のミスだ。それは動かない。ただ、この噂が出たという事実は、当時の函館の人々が津軽海峡という場所をどう感じていたかを、ものすごく正直に映している。あの海は、以前から人を呑む場所だったのだ。
なぜこの事故だけが、これほど怪談を生んだのか
ここまで来たので、いちばん考えたいことを書く。
日本には海難事故が山ほどある。それなのに、なぜ洞爺丸だけがこれほど濃密に怪談を生んだのか。理由は、少なくとも四つあると思う。
ひとつめ。死者が「陸のすぐ目の前」で死んだこと。洞爺丸が沈んだのは、岸から700メートルの地点だ。泳ぎに自信のある人なら、穏やかな日なら届く距離である。実際、多くの人が浜まで泳ぎ着いた。そして浜で力尽きた。つまりこの事故の死は、海の彼方で消えた死ではなく、「あと少しで届いたのに届かなかった死」の集合なのだ。あと少し、という無念は、そのまま怪談の燃料になる。
海から伸びる手も、浜で聞こえる助けを呼ぶ声も、全部この「あと少し」から出ている。
ふたつめ。遺体が浜に上がったこと。1000体を超える遺体が、生活の場である浜に打ち上げられた。しかも仮設の火葬場が浜に作られ、そこで焼かれた。海難事故では遺体が上がらないことのほうが多い。この事故は違った。死が、抽象的な報せではなく、砂の上の具体物として地域に置かれた。しかも遺族が名前を叫びながら砂の上を歩き回った。その光景を、七重浜の住民は全員が見ている。
土地の記憶として物理的に刻まれてしまった。
みっつめ。死者に明確な「行き先」があったこと。これが大きい。洞爺丸の乗客は、旅行者ではなく移動者だ。行商の帰り、出稼ぎの帰り、進学や就職や帰省。全員が、津軽海峡の向こうにある具体的な場所へ行こうとしていた。切符を買って、時刻表どおりに動いていた。だから、彼らの霊がやることも具体的になる。タクシーを止める。行き先を告げる。青森駅の窓を叩く。
日本の怪談で「未練」というと恨みや呪いに寄りがちだが、洞爺丸の怪談の未練は、驚くほど交通的だ。移動の未練なのだ。
よっつめ。この事故が「納得のいく説明」を最後まで用意できなかったこと。1155人が死んだのに、責任の所在は6年半の裁判を経てなお、船長の判断ミスと船体構造と運航管理という、分散した形にしか着地しなかった。しかも当の船長は死んでいて、何も語れない。悪人がいないのだ。台風は自然現象で、船体構造は占領期の建造事情で、運航管理は組織文化で、気象情報は当時の技術の限界だった。
全部が「そうなってしまった」なのである。
人間は、規模と原因の釣り合わない出来事を、そのままの形では抱えられない。だから物語で埋める。ある人は「上のやつらが出港を強要したんだ」という陰謀の物語で埋め、ある人は「トンネル推進派の仕業だ」という物語で埋め、ある人は宣教師の自己犠牲という美しい物語で埋め、そして多くの人は、浜で聞こえる声という物語で埋めた。
怪談は、非合理の産物じゃない。説明の足りないところに人間が置く、間に合わせの意味だ。
そしてもうひとつ、身も蓋もないことを言うと、この怪談は「彼らは帰りたがっていた」という話でもある。タクシーに乗る。窓を叩く。浜を歩く。全部、帰ろうとしている動作だ。恨んでいるのではなく、帰ろうとしている。
七重浜で1000体の遺体を扱った人たちが、そういう形の話を語りはじめたことには、たぶん意味がある。あれは、追いかけてくる霊の話ではない。置いていかれた人たちを、こちら側から迎えにいくための話だ。少なくとも俺には、そう読める。
九月二十六日、浜には毎年、線香の匂いがする
いま、七重浜に事故の面影はほとんど残っていない。海水浴場は毎年7月から8月の一定期間、ちゃんと開かれている。国道沿いには大型店が並び、慰霊碑はその一角に立っている。地元の人が場所を説明するとき、大型量販店の隣、という言い方をすることもある。ある意味では、それがいちばん健全な風景かもしれない。
碑は1955年、事故の翌年に建てられた。以来、毎年9月26日には函館市仏教会が慰霊法要を執り行っている。70年以上、途切れていない。法要の前には、JR北海道函館支社の社員と北海道鉄道OB会函館支部の会員が慰霊碑を清掃する。献花台や燭台の汚れをブラシで丁寧に落とし、周囲のごみを拾う。
JR北海道はこの活動の理由を、事故の犠牲者をしのび、慰霊碑周辺の清掃をすることで社員の安全意識の向上につなげたい、と説明している。国鉄が分割民営化されて会社の名前が変わっても、この日だけは続いている。
2024年9月26日、事故から70年の法要には遺族ら数十人が参列した。2025年9月26日にも71年の法要が営まれ、遺族が犠牲者の冥福を祈っている。鉄道OB会函館支部の82歳の事務局長は、清掃活動のなかでこう語った。体がもつ限り、亡くなった方への弔いを続けていきたい、と。
2014年、事故から60年の法要では、遺族会の会長がこう挨拶している。事故は風化してきているが、後世に伝えたいと法要を続けてきた、と。
そして七重浜のほかにも碑がある。函館護国神社の近く、函館山の登山道口付近には青函連絡船海難者殉難碑がある。もともとは戦時中に殉職した職員を慰めるため1953年に建てられたものだが、洞爺丸台風の殉職者も後から合祀された。青森市の三内霊園には洞爺丸遭難者慰霊碑があり、青森県民の遭難者と、青函トンネル工事の殉職者がともに祀られている。
海で死んだ人と、その海の下に道を掘って死んだ人が、同じ場所に並んでいるわけだ。
近藤平市船長の話で、この記事を終える。
遺体捜索は9月28日から潜水夫による作業が始まった。そのころ、読売新聞に船長の妻の手記が載っている。夫人はこう書いていた。私達母子は、どんな非難も覚悟の前です。任せられた多くの生命を失った夫の罪を、どうかこの母と子に免じて許してやって下さい。
その手記の2日後、10月3日に、近藤船長の遺体が上がった。
船長は救命胴衣をつけていなかった。左手に、愛用の双眼鏡をしっかりと握りしめたままだった。救命胴衣着用を命じた際、部下が船長にも手渡そうとしたが、船長は「ありがとう」と言っただけで受け取らず、嵐の海を睨み続けていたという。
この人を一方的に断罪して終わりにすることは、俺にはできない。判断は間違っていた。それは審判が結論づけたとおりだ。だが、彼にその判断を丸ごと背負わせた制度と、定時運航を至上とする現場の慣行と、当時の気象情報の限界と、船尾に穴の開いた船体構造も、間違っていた。彼は最後まで船橋にいて、双眼鏡を握ったまま海を見ていた。
九月の終わりの七重浜には、毎年、線香の匂いがする。
声が聞こえるかどうかは、俺にはわからない。ただ、あの浜で1000体の遺体を運び、名前を呼びながら砂の上を歩き、浜に組んだ火葬場で夜を徹して手を合わせた人たちが、そのあと何十年もかけて「あそこには声がする」と語り続けたことは、事実として残っている。
それは幽霊の話であると同時に、人がどうやって耐え難い記憶と折り合いをつけるかの記録でもある。七重浜の怪談を笑えないのは、たぶんそこだ。あれは、忘れないための装置なのだ。
