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葛の網で殺された土蜘蛛の正体、記紀と風土記に出る人々と中世の化け蜘蛛

頭と胴と脚を別々に埋めたという塚

奈良県御所市の葛城一言主神社の境内に、蜘蛛塚と呼ばれる小さな塚がある。伝承では、神武天皇が捕らえた土蜘蛛を頭と胴と脚に切り分けて埋め、その上に石を据えたあとだという。分けて埋めたのは、怨念が復活しないようにするためだったとも伝わる。この神社は、雄略天皇が葛城山で出会ったという一言主神を祀る社だ。塚の主は、蜘蛛なのか、人なのか。

手がかりは『日本書紀』にある。神武天皇の巻に、己未の年の二月、天皇が諸将に命じて兵士を鍛えさせたという記事が出てくる。ここで、従わない者たちの名が、土蜘蛛という呼び名とともに並ぶ。書紀に土蜘蛛の名が最初に出てくる場面。

層富県の波哆の丘には新城戸畔、和珥の坂下には居勢祝、臍見の長柄の丘には猪祝がいたと書紀は記す。三か所の土蜘蛛は、そろって腕力を頼みにして朝廷に来ようとしなかったが、天皇は軍の一部を分けて送り、皆を誅した。三人の名は、ここで消える。

次の一文が、あの塚につながる。高尾張邑にも土蜘蛛がいた。身は短く、手足は長く、侏儒に似ていたという。皇軍は葛の蔓で網を編み、不意を突いて襲って殺し、邑の名はこの出来事から葛城に改められた、と書紀は続ける。

同じ高尾張邑の名は、神武に味方した弟猾が大和で天皇に逆らいそうな相手を数え上げる場面にも出てくる。磯城邑には磯城の八十梟帥、高尾張邑には赤銅の八十梟帥がいると、弟猾は天皇の前で告げる。同じ邑に、まるで違う呼び名が付いているうえ、書紀は従わない相手を梟帥、賊、虜、土蜘蛛と、場面によって別の言葉で呼ぶ。

地名の説明は、ここで終わる。書紀が語るのは、網で殺したところまでだ。頭と胴と脚に分けて埋めた話は、神武紀のこの箇所には見えない。塚の話は、書紀の外側にある土地の伝承として、地名の説明に結びついている。金剛山の中腹にある高天彦神社にも、土蜘蛛塚と土蜘蛛窟が伝わり、金剛と葛城の山麓には土蜘蛛の伝説が点々と残る。

古事記は尾のある土雲と書いた

『古事記』は、同じ時期の話を別の姿で伝える。土蜘蛛とは書かず、土雲と書いて、グモと読ませる注を付けた。神武が宇陀から進んで忍坂の大室に着くと、尾の生えた土雲の八十建が、その室で待っていたという。ちなみに、八十は数の多さを表す言葉だ。

天皇は八十建にごちそうを振る舞い、同じ数の膳夫を用意して、それぞれに刀を佩かせ、「歌を聞いたら、いっせいに斬れ」と言い含めた。合図の歌は、室に人が大勢入り込んでいても、久米の子らが頭椎と石椎で撃ち果たすという内容になっている。歌い終えると、膳夫たちは刀を抜き、八十建を一時に打ち殺した。

書紀にも忍坂の宴の話があり、道臣命が合図を出して敵を一斉に討たせる筋は、古事記と重なる。ただし書紀は、この敵を土蜘蛛とは呼ばず、虜と書く。同じ事件でも、呼び名が書物によって違う。

同じ『古事記』には、尾の生えた人がほかにも出てくる。吉野では、光る井戸から現れた井氷鹿が国つ神と名乗って神武の問いに答え、岩を押し分けて出てきた石押分之子も、御子が来ると聞いて参上したと述べる。井氷鹿は吉野首らの祖、石押分之子は吉野国巣の祖と注が付くので、同じ尾の人でも、吉野の二人は祖と書かれ、忍坂の八十建は一時に斬られた。

鼠の石窟に住んでいた青と白

景行天皇十二年、熊襲が背いて朝貢しなくなった。天皇は筑紫へ向かい、十月に碩田国へ入る。のちの豊後国にあたる土地。地形が広く美しいので碩田と名づけた、と書紀は記す。

速見邑には、速津媛という女がいて、一つの地域の長を務めていた。天皇が来たと聞くと、速津媛は自分から出迎えに出て、土地の様子を天皇に告げる。この山には鼠の石窟という大きな石窟があり、土蜘蛛が二人住んでいるという。名は、青と白。

直入県の禰疑野にも、土蜘蛛が三人いる。打猿、八田、国摩侶。五人とも力が強く、仲間も多いうえに、みな「皇命には従わない、無理に呼べば兵を挙げて拒む」と言っているという。

同じ年の九月、周芳の娑麼でも似た場面がある。神夏磯媛という女が、賢木に剣と鏡と玉を掛けて船に乗り、天皇の使者が来たと聞いて自分から出向いた。近くにいる賊の名と居場所を、四人ぶん告げる。賊は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折。書紀はこの四人を、土蜘蛛とは書かない。

使者の武諸木らは、先に麻剥の仲間へ赤い衣や珍しい品を与えて手なずけ、残る三人も呼び出させて、ことごとく捕らえて殺した。四人は、天皇が筑紫へ進む前に、使者の手で片付けられた。話を碩田へ戻す。

天皇は来田見邑に仮の宮を建てて留まり、群臣と相談した。大勢の兵を動かして討てば、相手は山野に隠れて後の憂いになる、というのが天皇の考えだった。海石榴の木を切り、椎に作って武器とする。

選び抜いた強い兵に椎を持たせ、山に穴を開け、草を払って進ませて、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉川のほとりで破り、一党をことごとく殺した。血は流れて踝に届いたという。椎を作った場所は海石榴市、血が流れた場所は血田と呼ばれた。

次は禰疑野の三人。禰疑山を越えると、賊の矢が横の山から雨のように飛んできた。天皇はいったん城原へ引き返し、川のほとりで占ってから、改めて兵を整えて禰疑野に向かい、八田を先に破ると、打猿は勝てないと悟って降伏を願い出た。

打猿の降伏を天皇は聞き入れず、打猿らは皆、自分から谷に身を投げて死んだ。八田は戦で破られ、打猿は降伏を拒まれて死に、国摩侶の最期は書かれていないが、降伏を願い出た者を許さなかったことまで、書紀は書いている。

天皇は、戦いの前に柏峡の大野で石を蹴る占いもした。「土蜘蛛を滅ぼせるなら、この石を蹴ったとき柏の葉のように舞い上がれ」と祈って蹴ると、石は大空に上がったという。石は長さ六尺、約一・八メートル、幅三尺、厚さ一尺五寸で、のちに蹈石と呼ばれた。祈った神は、志我神、直入物部神、直入中臣神の三柱。

景行天皇十八年の記事は、もっと短い。筑紫の玉杵名邑に土蜘蛛の津頬がいて、天皇が誅したと書くだけで、理由の説明はない。

風土記は同じ話を少しだけ違えて書く

『豊後国風土記』の速見郡の条にも鼠の石窟の話があり、速津媛が天皇を迎えに出て、石窟の二人と禰疑野の三人を告げる。この五人の人柄を、書紀は「強力」と書き、風土記は「強暴」と書いた。違いは、たった一字。同じ五人でも、風土記のほうが乱暴な印象を受ける。

風土記では、天皇が兵を遣わして要害をふさぎ、ことごとく誅滅したので、土地の名は速津媛国になり、のちに速見郡と改められたという。大野郡の海石榴市と血田も、椎を作らせて土蜘蛛を殺し、流れた血が踝を没したと、ほぼ同じ形で記される。筋は書紀と重なる。

大野郡の網磯野には、別の土蜘蛛が出てくる。小竹鹿奥と小竹鹿臣の二人が、天皇の食膳に出す獲物を得るために、田猟を催した。猟人たちの声があまりにやかましく、天皇が「あなみす」と言ったので、囂の字を当てた大囂野が、のちに訛って網磯野になったという。

この条に、討伐の記述はない。土蜘蛛は、天皇に獲物を差し出そうとする側として出てくる。肥前国風土記の蒲田郷には、蠅の声がやかましいと天皇が言って地名になった話がある。猟人の声と、蠅の声。どちらも天皇の一言が、そのまま地名になった。

川上の荒ぶる神を鎮めた二人の女

『肥前国風土記』の佐嘉郡には、土蜘蛛の女が二人出てくる。大山田女と狭山田女という。佐嘉川の川上には荒ぶる神がいて、道を行く人の半分を生かし、半分を殺していた。県主らの祖の大荒田が占って鎮め方を問うと、二人は「下田村の土で人形と馬形を作って祭れば、必ず和らぐ」と答えた。

大荒田が言うとおりに祭ると神は静まり、大荒田は「この女たちは賢い」と感心して、賢女を国の名にしたいと言ったという。賢女郡は、のちに佐嘉郡と訛ったという。ここに出る土蜘蛛は、討たれる側でない。神の祭り方を知る者として、県主に助言した、って話だ。

同じ風土記の小城郡には、討たれる側の土蜘蛛がいる。この村の土蜘蛛は堡を造って隠れ、皇命に従わなかったので、日本武尊が巡幸した日に、ことごとく誅されたという。堡は、砦のことだ。小城郡の名は、ここから付いた。

藤津郡の能美郷にも、堡を造って隠れ住み、従わなかった土蜘蛛が三人いる。兄は大白、次は中白、弟は少白。景行天皇が遣わした穉日子が誅滅しようとすると、三人は頭を下げて己の罪を述べ、もう一度生きたいと願った。能美郷の名は、この出来事から付いたという。

命乞いをした土蜘蛛は、もう一組いる。値嘉嶋の小近には大耳、大近には垂耳が住んでいた。阿曇連百足に捕らえられた大耳らは、死罪が当然だと認めながら、お許しをいただければ御贄を献上し続けると誓う。木の皮で長鮑や鞭鮑などの形を作って差し出すと、天皇は恩を垂れて赦し、島を近島と呼んで、値嘉の名が付いた。

総記には、もっと古い崇神天皇の世の話がある。肥後国益城郡の朝来名峰に、土蜘蛛の打猴と頸猴がいて、百八十人あまりの徒衆を率いて皇命を拒んだ。朝廷は肥君らの祖の健緒組を遣わし、ことごとく誅滅させた。健緒組は功を認められて火君健緒紕の姓名を賜り、その国を治めるよう命じられたという。

彼杵郡の周賀郷には、船を救った土蜘蛛が出てくる。神功皇后が新羅へ向かう途中、陪従の船は風に遭って漂い沈んだ。土蜘蛛の欝比表麻呂が、その船を救った。そこで救郷と名づけ、のちに訛って周賀郷になったという。

書紀の神功皇后の巻にも、女の土蜘蛛が出てくる。仲哀天皇九年の三月、皇后は羽白熊鷲を滅ぼしたあと、山門県に進んで土蜘蛛の田油津媛を誅した。田油津媛の兄の夏羽は、軍を起こして迎えに出た。妹が殺されたと聞くと、夏羽は逃げたという。

茨で固めた城と、穴へ逃げ込む佐伯

『常陸国風土記』の茨城郡には、古老の話として国巣が出てくる。国巣は、俗の言葉でツチクモ、あるいはヤツカハギともいい、山の佐伯、野の佐伯と呼ばれた。吉野の石押分之子が祖とされた吉野国巣と、同じ字だ。あちこちに土の窟を掘ってはいつも穴に住み、人が来れば窟に入って隠れ、去れば野に出て遊ぶ。

風土記は、その性分を狼や梟になぞらえる。鼠のように窺い、犬のように盗み、招いて慰めても従わず、風俗はいよいよ隔たったという。そのころ、大臣の族の黒坂命が、彼らの出歩く時を見計らって穴の中に茨の棘を仕掛けておき、騎兵を放って急に追い立てる。

佐伯たちは、いつものように穴へ走り帰った。穴に飛び込んだ体は、仕掛けられた棘にいっせいに刺さり、突き傷つけられて、ことごとく死に散った。茨の棘を取って、県の名にしたという。それが、茨城だ。

風土記は、もう一つの話を並べる。ある人が言うには、山の佐伯と野の佐伯は賊の長となり、徒衆を引き連れて国中を横行し、大いに略奪して殺した。黒坂命はこの賊を滅ぼそうとして、茨で城を築いた。穴に棘を仕掛ける話と、茨の城を築く話。一つの地名に、二つの筋が付いている。

黒坂命の最期は、風土記の逸文に出る。陸奥の蝦夷を討っての帰り道、多珂郡の角枯山で病にかかり、世を去った。角枯山は、それから黒前山と呼ばれる。亡骸を乗せた車が山を発って日高見の国へ向かうとき、赤と青の旗が雲のように飛び、虹のように張り、野と道を照らした。人々はそれを赤幡の垂れる国と呼び、のちに信太の国になったという。

同じ風土記の行方郡には、崇神天皇の世の話がある。建借間命が東の荒ぶる賊を平らげに向かい、国栖の夜尺斯と夜筑斯に行き当たる。二人は賊の長で、穴を掘り、小城を造って住んでいた。官軍が近づくと抵抗し、追われるとそろって小城に逃げ込み、門を固く閉じて立てこもったという。

建借間命は計略を立てた。勇敢な兵を山のくぼみに潜ませ、武器を渚に並べ、舟をつなぎ、筏を編む。衣張りの笠は雲のように、旗は虹のようになびかせた。琴と笛を波の音に合わせて鳴らし、七日七夜、歌い踊って遊ぶ。この楽しげな音を聞いた賊は、家族そろって浜に出てきて、群れて笑った。

そこを狙って、命は騎兵に城を封じさせ、背後から襲って捕らえ、火を放って滅ぼした。討つさまを言い表した言葉が、そのまま地名になったという。痛く討つと言った所が伊多久の郷、ふつに斬ると言った所が布都奈の村、安く斬ると言った所が安伐の里。宴で油断させて討つ筋は、忍坂の大室の話とよく似ている。

古老の話を役所が書き留めた

書かれた時期を並べておく。『古事記』は七一二年、『日本書紀』は七二〇年にまとまった。七一三年には元明天皇が諸国に風土記の編纂を命じ、常陸国風土記は、国司が古老の伝える旧聞を報告する形でまとめられた。今に伝わる風土記は、出雲、常陸、播磨、豊後、肥前の五か国分だ。

七一三年の官命は、書き上げる項目を細かく指定していた。土地の産物、土地の良し悪し、山川や原野の名の由来、古老が伝える旧聞や異事を記して上申せよという内容だ。地名の由来は、役所の仕事として求められていた。風土記に地名の説明が並ぶのは、この命令に応えた結果でもある。

書紀が神武の東征の年とする己未の年は、書紀の数え方で紀元前六六二年に当たる。書紀がまとまったのは七二〇年だ。間には、千四百年近い開きがある。念のため断っておくと、土蜘蛛と呼ばれた人々が自分で書き残した記録は伝わらない。伝わるのは、朝廷の側がまとめた文章だけだ。

姿の描写には、注意が要る。背が低い、手足が長いといった書き方は、土蜘蛛という名から逆に想像された結果だとする見方がある。岩波の日本古典文学大系『日本書紀』の補注にも、津田左右吉の指摘として引かれている。尾や長い手足が実際の姿だったのかどうかは、文章の外から確かめる手段がない。

ここまで見た記事には、地名の説明がやたらに多い。葛城、茨城、速見、海石榴市、血田、網磯野、佐嘉、小城、能美、値嘉。討たれた事件と地名の由来が、ほぼ一組になって出てくる。正直、事件が先か、地名が先か。文章だけでは決められない。

確かめられる層と、土地に伝わる話は、分けておく。記紀と風土記は、写本で伝わる文献だ。そこに書かれた土蜘蛛の話は、朝廷や国司の側の記録になる。葛城の塚の話は、その外側にある土地の伝承だ。

病床の頼光に縄を投げた七尺の法師

ここから話は、中世へ飛ぶ。ある民俗学の論考は、土蜘蛛は初め朝廷の支配を拒む在地の豪族を指し、のちに人へ災いをなす妖怪へ展開したと整理する。滅ぼされた側が朝廷に恨みを持っても不思議はない、という筋立てだ。

その妖怪の土蜘蛛を広めた話の一つが、『平家物語』の剣巻にある。源頼光は実在した平安中期の武将で、生きた年は九四八年から一〇二一年。剣巻の頼光は、瘧を患って床につき、ある夜、身の丈七尺、約二・一メートルの怪僧が現れ、縄を投げて頼光を絡め取ろうとする。

頼光は病床のまま、枕元の名刀膝丸で斬りつける。僧は逃げ去った。翌日、頼光は渡辺綱ら四天王を連れて血の跡をたどる。行き着いたのは、北野神社の裏手にある塚だった。

そこにいたのは、全長四尺、約一・二メートルの巨大な山蜘蛛。頼光たちは蜘蛛を捕らえ、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病はその後すぐに治り、膝丸はこの話から、蜘蛛切と呼ばれるようになったという。

ここで化けて出たのは山蜘蛛で、土蜘蛛でない。剣巻は、源氏に伝わる蜘蛛切という刀の由来を語る話の中で、この蜘蛛を山蜘蛛と書く。土蜘蛛の呼び名が広く知られるようになったのは、この話を能が取り入れてからだ。

空を飛ぶ髑髏を追った先の古い屋敷

『土蜘蛛草紙』は、頼光の土蜘蛛退治を描いた絵巻だ。東京国立博物館が所蔵する一巻は紙本着色で、重要文化財に指定されている。縦は約二十九センチ、長さは約九・八メートル。制作年代は十三世紀とも十四世紀とも書かれ、資料によって幅がある。絵は土佐長隆の筆とする伝えもあるが、確証はなく時代も合わないと、『日本大百科全書』は記す。

物語は蓮台野から始まる。頼光は家来の渡辺綱らと洛北の蓮台野に行き、空を飛んでいく髑髏を見つける。追いかけた先は、神楽岡の荒れ果てた古い屋敷だった。

屋敷では、異形のものが次々に現れる。台所には、二百九十歳だと名乗る老女がいて、瞼や乳房が垂れ下がり、それを体にまとわりつけた、異様な姿だという。老女は、自分を殺してほしいと頼光に頼むが、頼光はその場を離れる。頭の大きな尼も出る。

黒雲の中から、たくさんの妖怪たちが現れ、どっと笑ったかと思うと、障子の向こうへ消えていく。夜明けが近づくと、美しい女が現れる。頼光が斬りつけると、女は白い血の跡を残して消えた。太刀の先は、折れてなくなっていた。

血の跡をたどると、西山の奥の洞窟に行き着く。そこにいたのは、長さ二十丈、約六十メートルという巨大な蜘蛛だった。激しい戦いのすえに首をはねると、腹から千九百九十個の髑髏が出てきた。脇腹からは、数えきれない子蜘蛛が飛び出したという。頼光は、髑髏を土に埋めた。

屋敷の怪異は、すべてこの蜘蛛のしわざだったわけだ。研究では、頼光の土蜘蛛退治は二つの系統に分けられる。病床で法師に襲われる剣巻や謡曲の系統と、髑髏を追って古い屋敷へ入る草紙の系統だ。同じ頼光で、同じ蜘蛛でも、筋はまるで違う。

千筋の糸を投げる僧

能の『土蜘蛛』は五番目物で、作者は分かっていない。室町時代の末期に作られたらしく、剣巻を典拠にしている。前半の舞台は頼光の館だ。病に伏す頼光を、侍女の胡蝶が見舞う。この胡蝶を蜘蛛の化身と読む見方もある。

夜更けに僧が訪れ、「我が背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも」という古歌を口にして近づく。蜘蛛の振る舞いで人の訪れを知る、恋の歌だ。僧は蜘蛛の糸を千筋も投げかける。頼光は枕元の膝丸で斬り払い、僧は消える。頼光は、刀を蜘蛛切と名づける。

血の跡をたどった独武者たちが古塚を崩すと、塚の中から火や水が噴き出し、土蜘蛛の精が現れる。精は「葛城山に年を経し、土蜘蛛の精魂なり」と名乗る。葛城といえば、神武が網で土蜘蛛を殺したと書紀が記す土地の名だ。京都に出た化け物は、自分の本拠をそこだと言った。精は糸を投げて抗ったが、最後は首を打たれる。

糸を大量に投げる今の演出は、明治の金剛唯一が工夫したと言われる。この能をもとに、河竹黙阿弥が舞踊劇の『土蜘』を書いた。初演は明治十四年、一八八一年。土蜘の精を演じたのは、五代目尾上菊五郎だった。

主人公は、比叡山の僧の智籌。正体は土蜘の精だ。日本を魔界にしようとして、その手始めに頼光を襲う。能の独武者にあたる役は、歌舞伎では平井保昌の名で出る。尾上家の新古演劇十種に数えられる。

京都に三つあった蜘蛛塚

国立国会図書館のレファレンス記録によると、かつて京都市内には、蜘蛛塚と呼ばれる場所が三か所あった。二か所は頼光の伝説に由来し、もう一か所は別の由来を持つ。

頼光の伝説に由来する一つは、北区紫野十二坊町の上品蓮台寺にある。墓所の椋の木の根元に、「源頼光朝臣塚」の石碑が立つ。この老木を切り倒そうとした植木屋が、不思議な病にかかって死んだと伝わる。

もう一つは、上京区観音寺門前町の東向観音寺。剣巻が土蜘蛛の塚の場所とする北野の近くだ。この塚はもと、七本松通一条上ルの清和院の西門前にあった。一八九八年に開拓で塚が崩されると、塚の下から出た石塔を持ち帰って庭に置いた者の家が、まもなく倒産したという。

石塔をもらい受けた者も続けて倒産し、石塔は元の場所に戻された。一九二四年四月、土地整理で塚は東向観音寺の境内に移された。境内で目印になるのは、石灯籠の火袋。

もう一か所は、下京区大政所町の大善院にあった。祇園社の御旅所だった由来を語る話として、二つの説が伝わる。祇園社から蜘蛛が糸を引いてこの地に止まったという説と、本堂に巣食う大蜘蛛を山伏の覚円が退治したという説だ。大善院は明治維新で廃され、烏丸通の拡幅で跡は道路になった。

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