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魚津の蜃気楼、蜃が吐いた気の正体は富山湾の暖かい風だった

実景の上に重ねてめくる、6枚の絵

金沢の図書館に、変わった絵が残っている。6枚の図幅が1組になっていて、実景を描いた絵の上へ順番に重ねて見る仕組みだ。1枚めくるごとに、海の向こうの景色が少しずつ姿を変えていく。今でいうパラパラ漫画。

絵を描かせたのは、加賀藩の11代藩主、前田治脩だった。寛政9年の4月、いまの暦に直すと1797年の5月にあたる。江戸から金沢へ向かう道中、魚津の御旅屋に泊まっていた。その海に蜃気楼が立った。

治脩の命で描かれた絵は、変わっていく様子を6枚に写している。日時と、蜃気楼がどう変化したかを記した文章も添えてある。題は『喜見城之図』で、金沢市立玉川図書館の近世史料館が『魚津蜃気楼之図附喜見城之図断』という資料名で収めている。魚津埋没林博物館は、江戸時代の蜃気楼の観測記録として一級のものだと紹介している。

御旅屋というのは、加賀藩と、その支藩だった大聖寺藩と富山藩の藩主だけが使う宿泊所のことだ。魚津のそれは北陸道に面して、海岸沿いに建っていた。いまは公園で、地上に遺構は見えない。それでも往時の町割りがよく保たれていて、区画の場所は特定できる。

2020年3月10日、この跡地が『魚津浦の蜃気楼(御旅屋跡)』の名で国の登録記念物になった。名勝地関係の登録で、面積は約1270平方メートル。国の解説には、現在も上位蜃気楼を観測できると確認されている、と書かれた。江戸の殿様が海を眺めた場所が、そのまま守る対象になったわけだ。

「喜見城と呼ぶように」と命じた藩主

魚津の蜃気楼には、古くからの別名がある。喜見城だ。『魚津古今記』によれば、加賀前田家の5代、前田綱紀が魚津で蜃気楼を実際に見て、以後はそう呼ぶよう命じたという。綱紀は1643年に生まれて1724年に亡くなった人で、この本の成立は国の記録で天明8年、1788年とされる。命名の話は、没後に書かれた本から知るしかない。

喜見城とは、仏教で帝釈天が住む城のことだ。海の上に立つ塔や城のような姿に、天上の宮殿の名がつけられた。この呼び名は、1805年ごろの小野蘭山の著書『本草綱目啓蒙』にも出てくる。桑名の「狐の森」、津軽の「狐だま」、厳島の「蓬莱島」と並べて、魚津の「喜見城」が各地の蜃気楼の呼び名として挙げられた。

蜃気楼の別名は、まだたくさんある。海市、山市、貝櫓、狐楯。どれも、海や山の上に町や櫓が浮かんで見えることからついた名前だ。

見えているのは空気の層で曲げられた景色なのに、昔の人はそこに城を見た。名前を並べると、その驚きがそのまま残っているのが分かる。

海のそばの蜃の気は、楼台のかたちをつくる

蜃気楼という言葉のもとは、紀元前に書かれた史書の一行にある。司馬遷がまとめた『史記』は紀元前91年ごろに成立し、そのなかの天文や気象の現象を記した「天官書」に、海旁の蜃気は楼台を象る、という句が出てくる。海のそばの蜃の気が、高い建物の形になるという意味だ。

続く句では、広い野では気が宮闕、つまり宮殿や城門の形をつくる、とも書かれる。海だけでなく、野原にも幻の城が立つと考えられていた。

蜃気楼の「蜃」は生き物の名前で、「気」はその生き物が吐く息のことだ。「楼」は高い建物を指す。蜃が気を吐いて楼閣をつくる。その一文が、そのまま言葉の名前になった。

蜃は貝だったのか、竜だったのか

蜃は、1種類の生き物ではなかった。16世紀の末にまとめられた本草書『本草綱目』には、蜃が2つ載っている。大きなハマグリの仲間と、蛟と呼ばれる竜の仲間だ。どちらにも、蜃気楼をつくる、という説明が付いていた。

2つは名前が同じだけの、別のものだった。同名異物だ。魚津埋没林博物館の解説では、もとはどちらか一方だけが蜃気楼の蜃で、同じ名のせいで混ざったのだろうと考えられている。本草綱目の記述から見ると、元の正体は竜の仲間のほうだったと推定される。いまはハマグリとするのが一般的だ。

『本草綱目』の竜の蜃は、細かいところまで描写される。蛇に似た体に角があり、赤いひげとたてがみが生えているという。ずいぶん派手な姿だ。この蜃の脂を混ぜて作ったろうそくを灯すと、幻の楼閣が見えるとも書いてあった。

日本には、両方の説が入ってきた。貝原益軒の『大和本草』は1709年に、蜃を竜の一種として記している。寺島良安の『和漢三才図会』は1712年の本だ。竜の仲間の蜃と、大型のハマグリである車螯の両方を載せ、2つは別のものだと断った。

ハマグリの姿を広めたのは、絵だ。1781年、鳥山石燕が妖怪画集『今昔百鬼拾遺』に『史記』の一節を引いて、蜃とは大蛤なり、と書き添えた。大きなハマグリが気を吐き、その先に楼閣が浮かぶ絵は、のちに庶民へ伝わって楽しまれたと言われている。

ハマグリと楼閣を組み合わせた蜃気楼文様は、江戸時代の半ば以降に広がった。陶磁器、漆器、絵画、着物、袱紗、欄間の彫刻、刀の鐔、根付、祭りの山車の幕や傘鉾。ありとあらゆる細工物に、貝の吐く気が描かれた。竜の蜃のほうも霊獣として、寺社の銅製品の飾りになった。東京上野の東照宮には、江戸前期の銅灯籠に竜の蜃の飾りがついたものがある。

決着の年も、一応は記録されている。1926年に日野巌が『動物妖怪譚』で、気を吐くのは竜の類で、ハマグリは気を吐かないと示した、と蜃気楼の項の年表は記す。もっとも、いまも博物館の解説は「現在では大ハマグリとするのが一般的」と書く。伝承は、学者が決めた順には並ばない。

魚津でいちばん古い蜃気楼は、謙信が見たものか

魚津の蜃気楼がいつから知られていたのか。古い記録が2つある。

ひとつは、元禄11年、1698年に駒谷散人が著した『北越軍談』だ。永禄7年、1564年に上杉輝虎、のちの謙信が魚津で蜃気楼を見たと書いてある。これが本当なら、国内の蜃気楼の記録として最古になり、16世紀の半ばには魚津の蜃気楼が知られていたことになる。だが刊行は謙信の死後100年以上たってからだ。真偽は分からない。

もうひとつは、確かなほうの記録だ。寛文9年、1669年に、加賀藩に仕えた儒学者の沢田宗堅が魚津の蜃気楼を書いた。国の文化財の解説も、現在把握されている最古の記録として、この寛文9年の記述を挙げている。

沢田より少し後には、やはり加賀藩の儒学者だった室鳩巣が、魚津の蜃気楼を詠んだ漢詩を残した。ちなみに題は『早発魚津』という。地元で親しまれた詩で、大正から昭和の初めに魚津で作られた蜃気楼の絵はがきに、よく刷り込まれていた。

絵はがきの時代まで来ると、魚津の蜃気楼はもう土地の看板になっている。いまは特別天然記念物のホタルイカ群遊海面、同じく特別天然記念物の魚津埋没林と並んで、魚津の三大奇観と呼ばれる。

魚津の海岸から、8.5キロメートル先の堤防を見る

蜃気楼は、近くのものには起きない。光の曲がり方がごくわずかなので、目に見えるほど像が変わるには、ふつう5キロメートル以上の距離が要る。

魚津の海岸から、黒部市の生地までが約8.5キロメートル。近くはない。富山市の岩瀬あたりまでは、15キロメートルから20キロメートルにもなる。遠くの景色は小さく見えるが、そのぶん、変化には十分な距離がある。

魚津の海岸からは、北北東に黒部市の生地、北から西へ能登半島と氷見市、西から南西へ高岡市、射水市、富山市の岩瀬と水橋、滑川市まで見渡せる。富山市の方向には呉羽山、射水市の方向には新湊大橋と、目印になる建物や山があるので、変化にも気づきやすい。対岸が広く見えるという地形が、蜃気楼の見える街を作った。

毎年ほぼ確実に春の蜃気楼が出る場所は、国内では魚津のほか、滋賀県の大津市など限られている。琵琶湖でも4月から6月に蜃気楼が確かめられている。大津から北の方向に、年平均で12回前後の発生が確認されたという調査もある。

見える方角は、日によって違う。生地の堤防だけが伸びる日もあれば、富山市のほうだけが変わる日もある。黒部方向に出たあと、時間をかけて富山方向へ移ることもあるという。

蜃気楼の正体は、遠くの景色が上下に変形したものだ。ある景色が別の方向に映し出されるわけではない。博物館は、そこを何度も念を押して説明している。

光は、冷たい空気のほうへ曲がる

光は、ふつうは真っすぐ進む。ところが密度の違う空気が重なった境目では、光は密度の高い、つまり冷たい空気のほうへ曲がる。

魚津の春の蜃気楼は、下が冷たく上が暖かい空気の層でできる。ふつう空気は、高いところほど冷たい。それが逆になった層を、逆転層という。魚津で蜃気楼が見えるとき、逆転層の高さはおおむね10メートル以下で、上下の温度差は1度から5度ほどと考えられている。

上へ向かった光の一部が、この層で曲がって目に戻ってくる。人は、光が途中でどれだけ曲がっても、目に入る直前の方向に物があるように見てしまう。だから、実際の景色の上側に、伸びた像や逆さまの像が現れるのだ。

ここまでは、上位蜃気楼と呼ばれる春の蜃気楼の話だ。実景の下側に像が出るものは下位蜃気楼といい、道路の逃げ水もこの仲間に入る。魚津の人が「蜃気楼」といえば、ふつうは上位のほうを指す。

蜃気楼の見かけの高さを角度にすると、およそ0.1度から0.2度しかない。博物館の説明では、1メートル先に置いた5円玉の穴の直径より小さいという。かなり小さい。正直なところ、肉眼で見分けるのが難しい日が多いのも、無理はない。

雪どけ水を犯人にしていた時代

富山湾の蜃気楼には、長く説明がひとつあった。立山連峰から春の雪どけ水が湾に流れ込み、海面を冷やす。その冷たい空気の上に暖かい空気が乗って、逆転層ができる、というものだ。

分かりやすい話で、辞典にもそう書かれた。富山湾の蜃気楼は、雪解けの冷水が海面をおおい、その上に陸地から暖かい空気が流れて逆転層ができるために起こる、と百科事典は記している。

だが近年の博物館の解説は、雪どけ水はほとんど関わっていない、としている。いま有力なのは、海上の低温の空気の上へ、日中に陸地で暖められた空気が流れ込むという説だ。

きっかけのひとつは、海の水の温度だった。調べてみると、富山湾の5月の海面水温は、周辺の海と比べて特別に冷たいわけではなかった。雪どけ水が犯人なら、湾だけが冷えていなければおかしい。どうも辻褄が合わない。

1999年5月22日、風船は海の上へ昇った

そこで研究者が、これまで誰もやっていなかった測り方をした。やり方は単純だ。1999年の5月、魚津と生地のほぼ中間にある釣り桟橋に立ったのだ。海岸から約150メートル沖の桟橋の上から、温度計と風速計をぶら下げたヘリウムの風船を、ロープで上下させた。

測ったのは、海面から30メートルまでの気温と風だ。観測は5日間で、蜃気楼が出た日が3日、出なかった日が2日。出なかった日の気温は、30メートルまでほぼ同じだった。

蜃気楼が出た5月22日は、様子が違った。発生の前の気温はほぼ一定。ところが発生のころから、海面上15メートル以上で急に温度が上がり始める。11メートルから15メートルのあたりに温度の境目ができて、上が暖かく下が冷たい層になっていた。

風にも差があった。暖かい上の層の風は、冷たい下の層より、秒速で約2メートル速い。向きは北で、生地の方角から吹いていた。

この暖かい空気は、どこから来たのか。調べると、蜃気楼が出ているときの高い層の気温は、生地の海岸から約1キロメートル内陸にある黒部市の吉田科学館の気温と、よく合った。ほかの発生日でも、同じ結果になっている。暖気の正体は、生地のあたりの陸上の空気が海へ流れ出たものだと考えられた。

2000年の4月には、魚津埋没林博物館にも自動気象観測装置が置かれる。蜃気楼が出た日、建物の屋上の気温の変化は、約50分前の吉田科学館の気温の変化と、よく重なった。陸で暖まった空気は、時間をおいて魚津へ届いていたことになる。

暖かい風を連れてくるのは高気圧だった

その後の研究も、同じ方向を指している。2009年に気象の学会誌へ出た報告は、魚津で蜃気楼が出た日と出なかった日を比べた。

蜃気楼が出た日、上空の天気図では暖かい空気が入ってくる向きになっていた。出なかった日は、冷たい空気が入る向き。輪島の上空1000メートルの風を見ると、発生日のほとんどが南から西の間で吹いている。そのうち76%は南南西から西南西で、風速は秒速3メートルから15メートルの範囲だった。

魚津の春型の蜃気楼は、主に高気圧の後ろ側で現れる、という報告も別にある。高気圧が日本の南東に偏り、南西から暖かい風が山を越えて魚津の上空へ入ってくる。論文の著者は、そう考えられるとまとめた。

ただし、これで全部が説明できたわけではない。博物館の解説は、蜃気楼の仕組みは複雑でいろいろなパターンがあり、1つの説ですべてを説明することはできないかもしれない、と書く。謎が残されているほうがロマンがある、という意見もあるらしい。

肉眼で見えるのは、5回あるかないか

魚津で春の蜃気楼が出やすい時期は、3月の下旬から6月の上旬だ。博物館が目安にしている条件は、いくつもある。

時刻は午前11時ごろから午後4時ごろ。気温は18度以上のことが多く、朝に冷え込んで日中に上がる日がいい。風は魚津の海岸で北北東の微風、おおむね秒速3メートル以下。天気は、移動性高気圧の中心が本州の東の海上へ抜けて、当日は晴れ、翌日ごろから崩れそうな日だ。

条件がそろっても、出るとは限らない。上位蜃気楼は、例年だと上の時期に10回から15回ほど発生する。ただし双眼鏡でやっと見分けられる程度のものが多く、肉眼で楽しめるのは、5回あるかないかだ。

年ごとの差も大きい。微妙なものまで入れて5回ほどしか出ない年もあれば、20回以上出る年もある。数分で終わる日が多い一方で、出たり消えたりしながら半日以上続くこともまれにある。

観光向けの案内には、過去のデータから見た出現率は20%から30%ほど、とある。期待しすぎず、見られたらラッキーくらいの気持ちで行くのがいい、というのが勧め方だ。

5段階に分けた記録は、1992年から続いている

魚津埋没林博物館は、1992年の4月から、学芸員が毎年の出現回数を記録してきた。記録は30年以上になる。1996年の4月からは、回数に加えて3台のカメラと屋外での肉眼観察で、5段階の評価を発表している。肉眼ではっきり分かって長く続くものが最上位で、予備知識や双眼鏡がないと見分けられないものが最下位になる。

念のため書いておくと、記録に載るのは春型の上位蜃気楼だけだ。観測者によって判定に差があるため、ほかのところが発表する数字とは、一致しないことがあると博物館は断っている。

2018年には、12年ぶりに最上位のランクの蜃気楼が出た。ライブカメラで、富山市方面にある火力発電所のボイラーを調べた報告がある。ふだんは43メートルの建物が、最上位の日には1.9倍ほど、約80メートルまで伸びて写っていた。

同じ報告は、2018年の5月から翌年の4月までの28事例も調べている。ボイラーは約51メートルから約98メートルまで、さまざまに伸びていた。蜃気楼といっても、伸び方にはこれだけの幅がある。

報告には、気になる一文もある。この日に案内した県外の観光客には、どこが蜃気楼なのか、と思われたようだ。期待される変化の大きさと、実際の見え方にはずれがあると、書き手は感じたという。

反転、伸び、縮み。同じ形は二度と出ない

上位蜃気楼の形には、いくつかの型がある。建物の上に逆さまの像が重なり、背中合わせになる反転。実景が高く伸びて、板塀のように見えたり、ところどころ欠けてバーコードのように見えたりする伸び。そして、風景や船が平たくつぶれる縮みだ。

縮みを望遠鏡でのぞくと、真下の海面が蜃気楼になって上へ伸び、そのぶん風景や船が縮んで見える場合が多いという。距離が違えば、同じ時刻でも形が変わる。遠くのものは反転して、近くのものは伸びる、ということが1つの画面で起きる。

「同じ形のものは2度と現れない」とも言われる、と博物館は書く。1994年の4月6日に、魚津埋没林博物館から生地の方角を撮った反転の写真がある。1999年の5月22日には、富山市の方角に、バーコード状に伸び上がった蜃気楼が出た。

観察のコツも細かく書かれている。蜃気楼を見るなら、海岸に立つことだ。逆転層の高さが10メートル以下なので、高い展望台へ上がっても、見えなくなることが多い。

双眼鏡は、10倍くらいの軽くて明るいものが理想で、7倍でも使える。2倍から3倍のオペラグラスでは、ほとんど役に立たない。長時間待つことになるから、帽子や折りたたみ椅子、飲み物のほか、昼食の弁当まで用意しておけ、とまで書いてある。食事に出ている間に出たら、悔やむことになるからだ。

冬の海は、ほぼ毎日蜃気楼を出している

春の蜃気楼ばかりが有名な魚津だが、冬の海にも蜃気楼はある。実景の下側に像が出る下位蜃気楼だ。魚津では、冬型の蜃気楼と呼ばれる。

冬は気温が下がっても、海水の温度はすぐには下がらない。そのため海の上の空気の下の部分が、常に暖められる。海面から1メートル以内の暖かい層が、下が暖かく上が冷たい空気の層をつくり、光を逆向きに曲げる。春とは正反対の曲がり方だ。

11月から3月ごろの寒い時期は、視界さえよければ、ほとんど毎日のように見える。確実に見るなら冬だ。見えるものは浮島現象や浮景現象とも呼ばれ、原理は道路の逃げ水や、砂漠で見える幻の湖と同じだ。

琵琶湖の蜃気楼を調べる高校生が、魚津の博物館の人に尋ねたという。魚津では下位蜃気楼をなぜ観測していないのか、と。ハッとした、と問われた側は書く。魚津を含む富山県内では、下位蜃気楼はあまり注目されてこなかったからだ。

そこで2018年の7月から翌年の4月まで、ライブカメラの映像を確かめた。303日のうち、下位蜃気楼が確認できたのは251日。上位蜃気楼は21日で、そのうち4日は、上位と下位が1日のうちに両方見えた。春の蜃気楼が10回あるかないかなのに、冬の蜃気楼は、毎日ほとんど出ていたことになる。

双眼鏡を首にかけた人たちが、毎年やってくる

魚津の人々は、この現象をずっと観測してきた。研究会は、1994年に地元の写真愛好家たちが結成した。蜃気楼の日常的な観測と、記録としての写真や動画の撮影、見物客への解説を、市民有志が続けている。

いまの博物館の建物は、1992年4月28日に完成した。1990年には、ふるさと創生事業の交付金を使って、蜃気楼の人工発生装置が作られている。日本カーバイド工業が5月14日に製造した、という記録がある。館内には、本物と同じ仕組みで発生させるミニ蜃気楼の再現装置が置かれている。

海岸の一帯は、魚津市の名勝「蜃気楼展望地点」に指定されている。博物館は、蜃気楼の過去の出現記録や、春から初夏の出現予測、いまの映像のライブ配信も公開している。

蜃気楼が見られたときは、博物館で自己申告をする。すると魚津市観光協会が発行する、「天下之奇観魚津の蜃気楼」という証明書がもらえる。見られなかった日にも用意がある。海の駅蜃気楼の付近で案内をしている「しんきろう見させ隊」が、「蜃気楼見られんだちゃ証」を渡してくれる。

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