一九九三年一月十三日、新庄の空はもう暗かった
山形県新庄市。一月の新庄は特別豪雪地帯で、午後四時を回ればもう外は青黒い。屋根から下がったつららが街灯にぼんやり光って、除雪された雪の壁が歩道の両側にそびえている。神室連峰から吹き下ろす風が、校舎の窓をカタカタ鳴らす。
そういう町の、市立明倫中学校の体育館で、一年生の男子生徒が死んだ。十三歳だった。
その日の放課後、体育館では部活動が動いていた。館内には五十人前後の生徒がいたとされる。バスケットゴールの下でボールが跳ねる音、床を擦るシューズの音、顧問の声。どこの中学にもある冬の夕方だ。
そのすぐ隣、体育館に付属した用具室で、何かが起きた。何が起きたのかを、この国の司法は三十三年かけてもまだ一つの答えに収束させられていない。それがこの事件の、いちばん厄介なところなんだよな。
巻かれたマットから、足だけが出ていた
発見されたのは午後七時過ぎ。息子が帰ってこないことを心配した家族が学校に問い合わせ、教師が校内を探しはじめた。用具室の扉を開けて、そこで見つかった。
体育用のマットが、丸めた状態で床に立ててあった。高さはおよそ一・二メートル。その筒の中に、少年が頭から逆さに突っ込まれていた。身長はおよそ一・五メートル。だから脛から下だけが、マットの上端から突き出していた。それを最初に見た人間が何を思ったか、想像するのがつらい光景だ。
死因は窒息死とされた。顔面には殴られたような皮下出血があって大きく腫れ上がっており、手足には打撲の痕があったと報じられている。頭蓋骨の陥没や骨折があったという記述もある。
一方で、のちに元少年側の弁護団は「加害による受傷と認められるべき傷はなかった」と真っ向から反論することになる。遺体の所見をめぐる評価そのものが、この事件では最初から割れているわけだ。
一発芸を強要される、という日常
事件に至るまでの数か月、彼の学校生活がどういうものだったかについては、ある程度の共通了解がある。
彼は「面白いことをやって周りを笑わせるやつ」という位置に押し込まれていた。求められれば一発芸をやる。歌を歌わされる。「金太郎」の替え歌に合わせた芸を強要された、という話も出てくる。
最初は「いじり」だったのかもしれない。だが黙って言いなりになる姿は、そういう関係の中では加速装置にしかならない。要求はエスカレートしていった。下着を無理やり脱がされる。殴られる。
一九九二年の夏、彼は兄に対して「ギャグで切り抜けている」と話していたという。十三歳の子どもが、自分の置かれた状況を「切り抜ける」と表現していた。その一言だけで、どれくらいの緊張の中に彼がいたかが分かる。
同年九月、集団宿泊研修から帰ってきた彼の顔は腫れていた。家族は学校に相談した。学校側はそれを放置した。一九九二年十一月と一九九三年一月には、体育館の用具室で集団暴行があったとも指摘されている。つまり事件当日の用具室は、初めての場所ではなかった。
よそ者の家、という見えない値札
なぜ彼が標的になったのか。ここで必ず語られるのが、家族が「よそ者」だったという話だ。
一家は事件の十七年前にこの土地へ移り住んでいた。十七年住んでも新参者。標準語を話す。友人を呼ぶときに敬称をつける。趣味も周囲と違う。裕福な家だとも見られていた。それらが全部、閉じたコミュニティの中では「浮いている」という値札に変換される。小学校高学年のころから、日常的ないじめが始まっていたとされる。
断っておくと、これは「田舎は怖い」みたいな雑な話じゃない。どこの共同体にも、内と外を分ける線はある。問題は、その線が子ども社会にそのままコピーされたとき、線の外側に置かれた子どもを守る仕組みが機能していたかどうかだ。この事件では、機能しなかった。
午後四時四十分から午後七時までの空白
民事の確定判決が認定した筋書きでは、暴行と押し込みは午後四時四十分ごろとされている。七人の生徒が彼を取り囲み、一発芸を求め、拒まれて激高し、顔と頭を殴り、蹴り、体育用具室へ連れ込み、丸めたマットの中心に頭から突っ込んだ。
そして発見は午後七時過ぎ。ここに二時間二十分ほどの空白がある。報道の中には、彼が逆さのまま三時間近く苦しんだ可能性に触れるものもある。
死亡推定時刻をめぐっても議論があって、午後七時から八時のあいだとする見方も紹介されてきた。この「いつ死んだのか」が、後の裁判でアリバイの成否に直結してくる。だからここは単なる時系列の話ではなく、争点そのものなんだ。
体育館には五十人ほどの生徒がいた。用具室は体育館のすぐ隣だ。声も物音も、まったく届かなかったのか。届いていて、届かなかったことにされたのか。ここが最初の分岐点だった。
七人が捕まり、七人が認め、七人が撤回した
一月十八日、警察は生徒三人を逮捕し、四人を補導した。逮捕された三人は当時十四歳の上級生、補導された四人は同学年の生徒だったとされる。合わせて七人。
取り調べの中で、七人は全員が「暴行してマットに押し込んだ」と認めた。ここまでは一本の線に見える。
だが家庭裁判所に送致されたあと、彼らは供述を撤回する。自白は強制されたものだ。自分たちはやっていない。彼は一人でマットに入ったんだ。主張を切り替えた。全員がアリバイを述べはじめた。
十三歳と十四歳の少年七人が、親の立ち会いもないまま取り調べを受け、そこで一度は認め、あとで一斉に翻す。この構図が、その後三十年以上にわたる争いの燃料になる。自白は真実だったのか、それとも作られたものだったのか。答えは判断する裁判体ごとに変わっていく。
三百人のアンケートに「暴行を見た」はゼロだった
学校は無記名のアンケートを実施した。三百人を超える生徒が回答して、そのうち十七人が「いじめを目撃した」と答えた。だが「暴行を目撃した」という回答は、一件もなかった。
ゼロ。事件当日、体育館にいたとされる約五十人も、警察の聞き取りに「見ていない」で通した。非協力的だった、と当時は報じられている。
十七人がいじめを見ていて、誰も暴行は見ていない。この数字の落差をどう読むか。子どもたちが本当に見ていなかったのか、見たけれど言えなかったのか、あるいは言わないという合意が先に成立していたのか。
少なくとも捜査側にとっては、これは致命的だった。物証が乏しい事件で、目撃証言もほぼ取れない。残るのは、あとで撤回された自白だけ。事件の骨格が最初から自白だけで支えられてしまったことが、のちの混乱をぜんぶ準備してしまった。
校長が最初に言ったのは「いじめはなかった」
事件直後、校長はいじめの存在も、保護者からの相談があったことも否定した。そして生徒には口止めをした、と指摘されている。
逮捕者が出てから、学校の説明は事実を認める方向に転換した。三月九日、校長は二十日間の停職処分を受け、少年審判の途中で退職している。教頭も、部活動の顧問も、担任教諭も異動していった。
この初動が何をもたらしたか。
まず、事件直後の生徒の記憶が、いちばん鮮明な時期に組織的に押さえ込まれた。次に、遺族が「学校は隠す側だ」と確信するに十分な材料を与えた。そして三つ目に、元少年側にとっても不幸なことに、「学校ぐるみで何かを隠している」という前提が世間に定着してしまい、彼らが後に無実を訴えても「隠蔽側の言い分」として処理されやすい空気が作られた。誰も得をしていない。
少年審判という非公開の部屋で起きたこと
ここから司法手続きに入るんだが、まず押さえておきたいのは、これが少年事件だということだ。成人の刑事裁判ではない。公開の法廷で、検察官が起訴して、被告人が争って、という形にはならない。
当時の少年審判は非公開で、原則として検察官も関与しない。家庭裁判所の裁判官が、調査官の報告と少年の供述をもとに、非行事実があったかどうかと、どういう処分が必要かを一体的に判断する。教育的・福祉的な手続きとして設計されているから、対立当事者が全力で事実を争うという構造になっていない。
ところがこの事件では、七人全員が全面否認に転じた。教育のための手続きの中で、大人の刑事裁判並みの激しい事実認定の争いが始まってしまった。制度が想定していない負荷が、いきなりかかったわけだ。
八月二十三日、三人が「非行なし」になる
最初の処分は一九九三年三月二十六日。一人について、児童福祉法にもとづく在宅指導という行政的な措置が取られた。
次が八月二十三日。ここで山形家庭裁判所は、三人について「非行事実なし」として不処分の決定を出した。刑事裁判でいえば無罪に近い判断だ。証拠が足りない、この子たちがやったとは認定できない、と家裁が言った。
この決定は、遺族にとって想像を絶する打撃だった。息子は死んでいる。七人が一度は認めている。それなのに三人は「やっていないことになった」。
逆に元少年側とその支援者にとっては、これは司法が最初に出した正しい答えだった。ここから両者の見ている風景は、完全に別のものになる。
九月十四日、残る三人に保護処分
三週間後の九月十四日、山形家裁は残る三人について保護処分の決定を出した。つまり、この三人については非行事実があったと認めた。
同じ事件、同じ証拠、同じ裁判所。それなのに三人は白、三人は黒。分かれた理由は、それぞれの供述の内容や具体性、他の証拠との整合の度合いが違うと判断されたためとされる。
法的には筋の通る話ではあるんだが、外から見れば「七人でやったとされる一つの行為が、途中で三人ぶんだけ消えた」ようにしか見えない。
保護処分を受けた三人は抗告した。舞台は仙台高等裁判所に移る。
仙台高裁の逆転――「七人全員が関与した」
一九九三年十一月二十九日から三十日にかけて、仙台高裁は決定を出した。内容は、家裁の判断を覆すものだった。
高裁は、七人全員が事件に関与したと認定した。そのうえで、二人を初等少年院送致、一人を教護院送致とした。抗告した側が、抗告したことでより重い判断を受けた形になる。再抗告は一九九四年三月一日に最高裁で棄却され、少年事件としてはここで手続きが終わった。
刑事的な決着としては、これが到達点だ。ただし気をつけてほしいのは、少年審判は刑事裁判ではないので、ここで「有罪判決が確定した」わけではないという点だ。七人のうち少年院・教護院に送られたのは三人。不処分になった三人の判断は取り消されていない。制度上、その三人はもう審判の対象ではなかったからだ。
審判の対象ですらなかった三人を、なぜ名指しできたのか
ここが元少年側の主張の核心のひとつになる。
抗告審に持ち込まれたのは、保護処分を受けた三人の事件だ。不処分になった三人は、その手続きの当事者ではない。にもかかわらず高裁の決定は「七人全員が関与した」と書いた。弁護側と支援団体は、これを「審判の対象ではない者について、反論の機会もないまま犯人だと述べたに等しい」と批判してきた。
言い分としては分かる。手続きに参加していない人間について、その手続きの結論の中で事実認定に近いことを書かれてしまったら、争いようがない。
逆に高裁の側から見れば、三人の関与を認定するためには事件全体の構造を描く必要があり、七人でやったという構造を書かずに三人の行為だけを切り出すのは無理だった、ということになる。
どちらの理屈も成立してしまう。この事件の司法判断が「二転三転」と言われるのは、単に結論が揺れたからじゃない。揺れる構造が制度の中に埋め込まれていたからだ。
遺族が書いた一億九千三百万円の訴状
少年事件が終わっても、遺族の側には何も残らなかった。何が起きたのかの公式な説明も、謝罪も、責任の所在も。少年審判は非公開で、記録も自由には見られない。
一九九五年十二月十六日、遺族は民事訴訟を起こした。被告は少年七人と、学校を設置していた新庄市。請求額はおよそ一億九千三百万円(報道により一億九千四百万円とするものもある)。ここからが、もう一つの三十年になる。
民事は刑事と証明の基準が違う。「合理的な疑いを超えて」ではなく、「証拠の優越」に近い水準で足りる。だから刑事で有罪にできない事案でも、民事では責任が認められることがある。ただしこの事件は、その一般論だけでは説明できない揺れ方をする。
山形地裁二〇〇二年――「自白の信用性を肯定することはできない」
提訴から六年以上たった二〇〇二年三月十九日、山形地方裁判所が一審判決を出した。
結論は請求棄却。遺族の全面敗訴だった。判決は、一部のいじめの存在は認めつつ、いじめと死亡との因果関係を否定した。そして少年たちの自白について「その信用性をも肯定することはできない」と明確に書いた。
決定的な物証がないこと、供述が撤回されていること、目撃証言に問題があること。地裁はそれらを積み上げて、この自白では事実を認定できないと判断した。
元少年側にとっては、少年審判の不処分に続く二度目の勝利だ。遺族にとっては、九年かけて振り出しどころかマイナスに戻された瞬間だった。
仙台高裁二〇〇四年――「大筋において信用できる」
控訴審の判決は二〇〇四年五月二十八日。仙台高等裁判所は一審判決を取り消した。
高裁は「大筋において、少年の自白の信用性が認められる」と判示し、七人全員の関与を認定。遺族四人に対して約五千七百六十万円の損害賠償を支払うよう命じた。
同じ供述調書を読んで、地裁は信用できないと言い、高裁は大筋で信用できると言った。
何が違ったのか。高裁は、個々の供述の細部の食い違いよりも、複数の少年の供述が独立に一致している部分や、いじめの継続という背景状況との整合性を重視したとされる。一方の地裁は、細部の変遷や誘導の可能性を重く見た。同じ材料でも、どこに重心を置くかで結論が反転する。それくらい、この事件の証拠は薄氷の上に立っている。
最高裁が確定させたもの、確定させなかったもの
二〇〇五年九月六日、最高裁判所は上告を棄却した。仙台高裁の判決が確定し、元少年七人の不法行為責任が法的に確定した。
ここで正確に整理しておきたい。確定したのは民事上の損害賠償責任だ。刑事的な有罪判決ではない。少年審判で不処分になった三人について、その不処分決定が取り消されたわけでもない。
日本の司法は、この事件について「民事では七人に責任がある」「少年審判では三人が不処分、三人が保護処分」という、並存する二つの答えを抱えたまま今日に至っている。
だから、この事件をネットで語るときによく見る「犯人は七人」という断定は、正確じゃない。正確には「民事の確定判決が七人の不法行為責任を認めた」だ。長ったらしいけど、この差は本質的なんだよな。
「無罪」と「無実」は同じ言葉じゃない
この事件を追ってきた書き手が繰り返し指摘するポイントがある。無罪と無実は違う、という話だ。
裁判所ができるのは「有罪だと証明されたかどうか」の判定であって、「やっていないという事実」を証明することじゃない。少年審判の不処分は「やっていないと認定された」ではなく「やったと認定するには足りない」だ。逆に民事の賠償命令も「疑いなく真実だと確定した」ではなく「民事の証明水準では責任を認める」だ。
この区別を飛ばすと、議論はすぐ壊れる。遺族側の「司法が認めた」も、元少年側の「無罪だ」も、どちらもそれぞれの手続きの中では嘘じゃない。噛み合わないまま、両方が正しさを主張し続けられる。三十三年間この事件が終わらないのは、たぶんそこに理由がある。
弁護側が積み上げた反論を、ひとつずつ見ていく
元少年側と、彼らを支援してきた法律家団体や人権団体の主張は、大きく分けて四本柱だ。
第一に、自白の質。彼らの自白には「秘密の暴露」がない、という指摘だ。秘密の暴露とは、犯人でなければ知り得ない事実が供述に含まれていることをいう。それがなければ、供述は取調官が持っている情報の反射である可能性を排除できない。しかも当時十三歳と十四歳の少年が、親の立ち会いなしで取り調べを受けている。
第二に、物証の不在。彼らを事件に結びつける物的証拠が一切ない、という主張だ。指紋、繊維、痕跡、そういうものが出ていない。さらに、遺体に加害による受傷と認めるべき傷はない、とまで踏み込んでいる。ここは報道されている遺体所見と真っ向からぶつかる部分で、法廷でも激しく争われた。
第三に、アリバイ。それぞれに、事件時刻に別の場所にいたという主張がある。ただし検察側・遺族側はこれを口裏合わせだと見ており、実際、事件後に生徒同士で「一緒だったよな」と電話で確認し合った、女子生徒にデートの証言を頼んだ、といった「アリバイ工作」があったとする報道も出ている。工作があったのか、素直な記憶の確認だったのか、これも評価が割れる。
第四に、目撃証言の崩壊。これは次に書く。
たった一人の目撃者が「嘘でした」と言った日
捜査段階で、「犯行を目撃した」と述べた少年証人が一人いた。七人以外で、現場の状況を語れる唯一の存在だ。証拠が薄いこの事件で、この証言の比重はとても大きかった。
ところが、その証人は民事訴訟の一審と二審で、自分の供述が虚偽だったことを認めた。支援団体はこの点を、冤罪主張の最も強い根拠として繰り返し掲げている。
唯一の目撃証言が本人の口から否定された。それでも仙台高裁は自白の大筋の信用性を認めて賠償を命じ、最高裁もそれを維持した。
ここは、この事件を冤罪ではないかと疑う人たちがいちばん引っかかる場所だ。逆に遺族側から見れば、証人が後から証言を翻すこと自体、事件をめぐる圧力の存在を示しているという読み方になる。ここでもまた、同じ事実から正反対の解釈が生える。
十年ごとに訴え直さないと消える権利
二〇〇五年に賠償が確定した。だが、そこからが長い。
判決で確定した債権にも消滅時効がある。当時の制度では、確定から十年で権利が消える。つまり二〇一五年九月には、せっかく最高裁まで戦って得た賠償請求権が、時間切れで消えてしまう可能性があった。
遺族はそれを止めるために動いた。二〇一五年、四人については給与などの債権差押えを行い、残る三人については時効を中断させるために改めて提訴した。この再提訴で二〇一六年八月二十三日、二人を対象とする支払い命令が確定している。
そして十年後、また同じ期限がやってくる。二〇二五年十一月、遺族は三度目の訴訟を起こした。金を取るためというより、権利を消させないための訴訟だ。裁判所に通い続けなければ、加害責任そのものが法的に蒸発する。この制度設計は、被害者側から見ると相当にきつい。
二〇二六年七月十五日、三度目の判決
二〇二六年七月十五日、山形地方裁判所は元生徒三人に対し、約一億一千二百六十万円などの支払いを命じる判決を言い渡した。
内訳は、二〇〇五年に確定した元本およそ五千七百六十万円に、事件から三十三年ぶんの遅延損害金を上乗せしたものだ。元本の倍近くまで膨らんでいる。
ただし、この数字が実際に動くかというと、そうはならない可能性が高い。二〇一五年の時点で任意に支払いに応じた元生徒はゼロだった。判決後も、元生徒側の弁護団は「元少年七人が無罪を勝ち取るために引き続き頑張っていく」という姿勢を崩していない。
三十三年たって、金額だけが膨らんで、実体は一ミリも動かない。遺族が勝ち続けているのに、何も手に入らない。この空転が、この事件の現在地だ。
差し押さえられた四人と、たどり着けない三人
強制執行という手段はある。だが機能していない。
四人については給与の差押えができた。残る三人は、勤務先も財産も特定できず、差押えに至っていないと報じられている。日本の民事執行では、原則として債権者が「どこに財産があるか」を突き止めて特定しないといけない。相手が転職を繰り返したり、財産を親族名義にしたりすれば、追いかけるのは非常に難しい。
遺族の父親は、国か第三者機関がまず被害者側に賠償金を支払い、その後で加害者から取り立てる制度を日本でも検討してほしい、と提案している。犯罪被害者への立替払い制度は諸外国に例がある。ただしこの事件のように刑事有罪が確定していないケースをどう扱うのかという難問がついてくる。制度を作るとしても、そこは避けて通れない。
遺影に手を合わせることから始まる、七十七歳の朝
二〇二六年、父親は七十七歳になった。彼が取材に語った言葉が、この事件のいちばん重い部分だと思う。
「朝起きて最初にやることは仏壇の遺影に手を合わせることです」。三十三年、それが一日の始まりだった。
彼は長いあいだ、待っていた。かつて弁護士から「彼らはまだ若い。結婚して子どもが生まれたら心情が変わるだろう」と言われた。その言葉を信じて、温情を示し続けてきた。人間性善説でね、と本人は言っている。元少年たちが大人になり、親になり、自分の子どもの顔を見たとき、十三歳で死んだ少年のことを思い出すんじゃないか。一人でもいい、向き合う態度をとってくれれば救われる。そう思って待った。
結果は「未だもってそこには至らずということ」だった。この乾いた言い方の裏にどれだけの時間が詰まっているか。事件の年に生まれた子がもう三十三歳になっている。待つと決めた期間としては、長すぎた。
別のインタビューでは「守ってやれなかった後悔の傷が消えることはない」とも語っている。加害の側を責める言葉より、自分を責める言葉のほうが多いのが、読んでいていちばんこたえる。
元少年側から漏れてきた言葉たち
一方の側からも、断片的に言葉は出てきている。
ある元少年は取材に対して「損害賠償を払いたくない」という趣旨のことを述べたと報じられた。別の報道では「逆に損害賠償請求したい」という発言まで出てきている。これは、自分たちこそ冤罪の被害者であり、三十年以上にわたって犯人扱いされ続けた損害があるのだ、という立場からの言葉だ。彼らの主張を前提にするなら、筋は通っている。ただ、十三歳で死んだ子どもの遺族がそれを聞いたときにどう感じるかは、別の話だ。
ある元少年の母親は、記者に「本人に任せている」と答えたと報じられている。三十三年前は中学生の親だった人が、今は七十代前後になっている。息子が全国的な事件の当事者とされ、無実を訴え続け、それでも賠償命令が出続ける。その家庭が抱えてきたものも、簡単なものではないはずだ。
ここは慎重に書いておきたいんだが、彼らを実名で犯人だと断定することは、この記事ではしない。刑事で確定した有罪はないし、七人のうち三人は少年審判で不処分になっている。民事の確定判決という法的事実と、ネット上で流通する「犯人リスト」は、まったく別の重さのものだ。
落書き、無言の視線、「育て方が悪い」
事件後、遺族が地域から受けたものについても記録が残っている。
「殺してやる」という落書きがあった。「育て方が悪い」という声が向けられた。亡くなった子の兄や妹にまで中傷が及んだという。息子を失った家族が、その土地でさらに石を投げられる側になった。
これが起きた理由を、単純な悪意だけで説明するのは違うと思う。事件が大きくなればなるほど、町の名前が全国に出る。学校の名前が出る。「あの町」と呼ばれるようになる。その負荷を誰かのせいにしたいという力学が働いたとき、いちばん立場の弱い者に向かうことがある。遺族はその条件を全部満たしていた。もともと「よそ者」とされていた家で、騒動の中心にいて、しかも反撃してこない。
そして皮肉なことに、この二次被害の構造は、元少年側の家族にも同じ形で降りかかった可能性が高い。狭い町で、七つの家が全部当事者になる。誰も逃げ場がない。
「いまさら騒ぎたてるな」と追い返された記者
取材に入った記者の体験談も、この事件を語るうえで外せない。
事件からしばらくたって現地に入った新聞記者が、学校関係者を名乗る複数の人物から「いまさら騒ぎたてるな」と抗議を受けたと伝えられている。取材を拒むというより、事件を掘り返す行為そのものを非難する態度だ。
社会学者も実地調査に入り、地域に根深い問題があることを確認したとされる。北澤毅と片桐隆嗣による『少年犯罪の社会的構築』という研究書は、この事件を素材に、決定的な物証がなく、事実認定がもっぱら自白や目撃証言といった「語り」によって支えられている構造を分析している。
同書が挙げるのは、四人が関与したという説、七人全員が関与したという説、事故死だったという説が鋭く対立し、真相が宙づりになったままだという状況だ。
記者を追い返す声も、この宙づり状態の産物なんだと思う。誰も確定的なことを言えないのに、外から人が来て掘り返す。町の側からすれば、答えの出ない傷口を毎回開けられるようなものだ。だからといって黙らせていいわけがないんだが、そこで働いた心理は分かる気がする。
掲示板が三十三年この事件を離さない理由
ネットの世界では、この事件はずっと現役だ。
判決が出るたびにスレッドが立つ。「一生風化させるな」という書き込みが並ぶ。遺族が十年ごとに提訴していることについては「定期的に追い込んで風化させないのが目的だろう」という読み方が支持されている。金額については「払うわけない」という冷めた声と、「保険金程度じゃないか」という不満が同居している。
興味深いのは、少数だが「無罪を訴えているんだから、払いたくない気持ちも分かる」という書き込みも存在することだ。ただ、圧倒的多数の反応の前ではほとんど埋もれる。ネット上の議論は基本的に遺族側に立っていて、元少年側の冤罪主張はまともに検討されないまま流されがちだ。
過去には五ちゃんねる系のまとめサイトで「加害者特定」の投稿が拡散した時期もあった。ここは注意が必要な領域で、不処分になった人物まで含めて実名がばらまかれる状況が長く続いてきた。司法が三人について「非行事実なし」と判断した事実は、ネットの断定にはほとんど反映されていない。もし本当に冤罪の人が混ざっているなら、その人は三十三年間ずっと私刑を受け続けていることになる。
この可能性を消せない以上、断定して書くべきじゃないんだよな。
「マット県」という揶揄が残したもの
この事件のあと、ネットの一部では山形県を「マット県」と呼ぶ揶揄が生まれた。県全体を、一つの事件の名前で呼ぶ。
言うまでもなく理不尽な話だ。事件と関係のない山形県民が、県名を出しただけで茶化される。この種のラベリングは、事件を語るための言葉ではなく、事件を消費するための記号として機能する。中身を知らないまま「マット県」とだけ言える状態が、いちばん風化に近い。
遺族が「風化させたくない」と言うときの風化は、事件が忘れられることだけを指してるわけじゃないと思う。名前だけが残って中身が抜け落ちること。ミームになって、十三歳の子どもが死んだ話だという実感がなくなること。それも風化だ。
雪の底にある町――新庄という土地の話
舞台になった新庄市について、少しだけ書いておきたい。事件のイメージで語られがちな土地だからこそ、実際のところを押さえておきたい。
新庄は山形県の北東部、新庄盆地にある。東に神室連峰が横たわり、最上川の中流域に位置する。南北と東西の交通の要衝で、鉄道の町として栄えた歴史がある。江戸時代には戸沢氏六万石の新庄藩の城下町だった。一七五六年、五代藩主が豊作祈願として天満宮の祭典を開いたのが新庄まつりの始まりで、これは今も続いている。戊辰戦争で城下町は焼けた。
気候は厳しい。特別豪雪地帯に指定されていて、市町村単位では日本一日照時間が短いとされる。気温の年較差も日較差も大きい大陸性気候で、最低気温はマイナス二十・二度(一九七六年)を記録している。
人口は昭和四十年代初頭に約四万九千人のピークを迎えたあと、戦後の産業構造の変化で漸減が続いてきた。馬産、養蚕・製糸、木材加工といった基幹産業が軒並み崩れ、工場誘致で立て直しを図ってきた土地だ。
一九九三年当時、この町は縮小の途上にあった。閉鎖性という言葉で片づけられがちだが、その背後には人が減り続ける地域が抱える不安がある。「よそ者」への警戒も、共同体を守るための古い装置が、もう機能しない時代に空回りしていた結果なのかもしれない。
この事件が少年法を書き換えた
この事件は、日本の少年法制に実際の影響を与えた。
少年審判は、教育と保護の手続きとして設計されていた。だから事実を厳しく詰める仕組みが弱かった。検察官は原則関与せず、裁判官は一人で判断し、証拠調べの手続きも刑事裁判ほど整備されていなかった。この事件で、七人全員が全面否認して激しく争ったとき、その設計の弱さが一気に露呈した。
家裁が三人を不処分にし、三人に保護処分を出し、高裁がそれをひっくり返して七人全員の関与を認定する。同じ証拠で結論が割れ、しかも当事者ですらない者について認定が及ぶ。この混乱が、事実認定手続きのレベルでの改正論議を呼び起こした。
二〇〇〇年の少年法改正では、一定の重大事件について検察官の審判関与が認められ、裁定合議制が導入され、観護措置期間の延長が可能になり、検察官による抗告受理の申立ての道が開かれた。事実認定を丁寧にやるための道具立てが加わったわけだ。同時に、この改正をめぐる議論では犯罪被害者遺族の発言が大きな役割を果たしていて、その言説を分析した研究も出ている。この事件の遺族も、その流れの中にいた。
語りだけで組み立てられた「事実」の危うさ
研究者が指摘した点をもう一度取り上げたい。この事件では、決定的な物証がなく、事実認定がもっぱら「語り」によって支えられている。
語りとは、自白であり、目撃証言であり、いじめがあったという周囲の証言だ。それらは全部、人間の口から出てくる。記憶は変わる。圧力で変わる。時間で変わる。集団の中で変わる。十三歳と十四歳の少年が、親のいない部屋で大人に囲まれて話したことが、どれだけ堅い素材なのか。逆に、事件のあと友達同士で「一緒だったよな」と確認し合った記憶が、どれだけ信用できるのか。
物証がある事件なら、語りが揺れても軸が残る。この事件には軸がなかった。だから裁判体が変わるたびに、絵が変わる。家裁は不処分と保護処分に割り、高裁は七人と描き、地裁は自白は信用できないと言い、高裁は大筋で信用できると言い、最高裁がそれを固定した。四度ひっくり返ったという言い方をされるのは、そういうことだ。
そして、その揺れの真ん中で、十三歳の子どもが死んだという一点だけは、一度も揺れていない。
三十三年の距離から眺め直す
ここからは、この事件を三十三年ぶんの距離から改めて見てみたい。
まず、この事件の異常さは「結論が出なかった」ことじゃない。未解決事件なら世の中にいくらでもある。異常なのは、結論が何度も出て、そのたびに違う結論だったことだ。
一九九三年八月に家裁が三人を不処分にした。九月に三人に保護処分を出した。十一月に高裁が七人全員の関与を認定した。二〇〇二年に地裁が自白の信用性を否定して請求を全部退けた。二〇〇四年に高裁が自白は大筋で信用できるとして賠償を命じた。二〇〇五年に最高裁がそれを確定させた。
同じ材料から、これだけ違う絵が出てくる。証拠が薄いというレベルを超えて、この事件は「証拠が読み手の前提を映す鏡になってしまう」構造をしている。
なぜそんなことになったのか。原因は三つあると思う。
一つ目は、初動で子どもたちの口が塞がれたこと。学校が口止めをして、体育館にいた五十人が「見ていない」で固まった。事件直後の七十二時間に取れたはずの、まだ加工されていない記憶が、まるごと失われた。
二つ目は、少年事件だったこと。当時の制度は、七人が全面否認して総力戦になる事態を想定していなかった。事実を詰める道具が足りない部屋で、大人の刑事裁判並みの争いをやろうとした。
三つ目は、自白偏重の捜査。七人全員から自白を取った時点で、捜査は事実上そこで完成したことになってしまう。裏づけの物証を積む作業が薄くなる。そして全員が翻したとき、手元には何も残っていなかった。
この三つは、それぞれ別の主体の失敗だ。学校、司法制度、捜査機関。誰か一人の悪意ではなく、それぞれが自分の論理でやったことが重なって、真相にたどり着けない条件が完成した。事件の恐ろしさは、加害の残酷さと同じくらい、この組織的な無能力の重なりにある。
勝ち続けているのに、何も手に入らない
次に考えたいのは、遺族が置かれてきた立場だ。
彼らは民事で勝った。最高裁まで行って勝った。それでも一円も入ってこない。十年たてば権利が消えるから、また訴える。また勝つ。また入ってこない。また十年たつ。二〇二六年の判決で、金額は元本の倍近い一億一千二百六十万円に膨らんだが、それは「取れていない時間の長さ」を数字にしただけだ。賠償額が増えるほど、実は救済からは遠ざかっている。
この空転を制度の欠陥として見るなら、論点は二つある。
一つは財産開示と執行の実効性。相手の勤務先や口座を債権者が自力で探さないといけない仕組みでは、逃げる側が有利になりすぎる。
もう一つは、判決債権の時効管理を被害者側の努力に丸投げしている点だ。十年ごとに裁判を起こさないと権利が消える。高齢になった遺族に、それを続けろというのは酷だ。父親が提案している立替払い制度は、この二つをまとめて解決しうる案ではある。ただ、刑事有罪が確定していない事件でどう線を引くのかという問題が残る。この事件自体が、その線引きの難しさを体現している。
二つの束のどちらを手に取っても、物語は組める
そして、避けて通れないのが冤罪の可能性だ。
元少年側の主張には、無視できない中身がある。自白に秘密の暴露がないこと。物的証拠が一切ないこと。唯一の目撃証人が民事の一審・二審で虚偽を認めたこと。十三歳と十四歳が親の立ち会いなく取り調べられたこと。少年審判で三人が不処分になったこと。これらは全部、事実として存在する。人権団体や法律家団体が三十年支援を続けてきたのは、彼らが空想で動いているからじゃない。
同時に、遺族側の主張にも無視できない中身がある。七人が一度は認めたこと。いじめが長期間続いていた事実。事件後に生徒間で口裏合わせと見られる連絡があったとされること。仙台高裁が二度、少年審判の抗告審と民事の控訴審の両方で七人の関与を認めたこと。最高裁がそれを維持したこと。これも全部、事実だ。
どちらの束を手に取っても、それなりに整った物語が組める。だから議論が終わらない。ネットで「犯人は七人」と断定する人も、「全員冤罪だ」と断定する人も、実は同じことをやっている。自分が選んだ束だけを見て、もう片方を存在しないことにしている。
三十三年たって我々が本当に学ぶべきなのは、どちらが正しいかを叫ぶことじゃなくて、証拠がここまで薄い事件で人を断定することの危うさのほうだと思う。とくに、司法が「非行事実なし」と判断した人物まで含めて実名がネットに残り続けている現状は、それ自体が別の被害を生み続けている。
それでも動かないものが、ひとつある
はっきり言えることが一つある。
十三歳の子どもが、通っていた学校の用具室で、丸めたマットの中に逆さに突っ込まれた状態で死んだ。これは司法判断がどう転んでも動かない。彼は長い間いじめられていて、家族は学校に相談していて、学校は動かなかった。ここも動かない。
犯人が誰かという問いの手前に、「なぜ彼は守られなかったのか」という問いがあって、そっちには実はもう答えが出ている。誰も止めなかったからだ。十七人がいじめを見ていて、誰も止めなかった。相談を受けた学校が動かなかった。それは事実認定の争いの外側にある。
この事件が三十三年語られ続ける理由も、たぶんそこにある。誰が押し込んだのかは分からない。でも「見て見ぬふりをした人が大勢いた」ことだけは分かっている。読む側は、自分がその五十人の中にいたら声を上げられたか、と考えてしまう。たいていの人は、上げられなかっただろうと思う。その居心地の悪さが、この事件を手放させない。
父親は今も、朝いちばんに仏壇の前に立つ。次の十年もまた訴えると語っている。「この次の十年まで僕生きてんのか」という言葉も伝えられている。七十七歳の人が、十年後の裁判の心配をしている。
この状況を放置している側には、我々も入っている。事件を消費して、判決のたびにスレッドを立てて、また忘れる。そのサイクルの外に出る方法があるとしたら、こういう長い話を最後まで読んで、司法判断の食い違いをちゃんと区別して覚えておくことくらいなんだと思う。断定しないまま、忘れない。難しいけど、この事件にはそれが必要だ。
