日本の公立学校の職員室には、机の島がきれいに並んでいる。学年ごと、教科ごと、校務分掌ごと。座席表を見れば誰がどこに属しているかが一目で分かるようにできている。
そして、そのどの島にも属していない机が、たいてい一つある。
窓際のいちばん端か、出入口のすぐ横か、あるいはコピー機の排紙トレイが半分かぶさっているような位置。引き出しの中は前任者の消しゴムのかすが残ったまま。名札が貼ってあっても漢字で書いてあって、本人には読めない。
そこがALTの席だ。
外国語指導助手。学校で英語の授業を手伝う外国人。多くの学校で、職員室にいる唯一の外国人だ。そして多くの場合、来年の三月にはいなくなっている人。
この記事は、その席に座った人たちだけが見たと語る「もう一人」の話だ。日本人の教員には見えていない生徒。名簿にない子。何年も空いている席に座っている誰か。ALTが名前を呼んでしまって、職員室が静まりかえった、という話。
先に断っておくと、この型の怪談は、たいてい「言葉が通じなかっただけ」で説明がつく。つくんだけど、それでも消えない。むしろ制度の実態を調べれば調べるほど、なんでこの型が生まれたのかが分かってきて、そっちのほうが薄ら寒い。順番に見ていこう。
- 一九八七年八月、八百四十八人が日本に降りてきた
- その前には「モンブショウ英語フェロー」がいた
- 契約は一年ごと、最長で五年。誰も長くはいられない
- 「先生と打ち合わせをするな」――偽装請負が教室に作った沈黙
- 毎年三月に始まる、来年の自分を探す作業
- 読めない紙が回ってくる場所に、一日中座っている
- 型その一 英語の時間だけ、人数が一つ多い
- 型その二 「あの席の子は誰?」と聞いてしまう
- 型その三 分校の名簿にない生徒に話しかけられる
- 型その四 日本語が読めないはずの人が、古い掲示物を読み上げる
- 型その五 ALTだけが、あの教室に入るのを嫌がる
- 体験談その一 三年目の彼女が、最後の日に打ち明けたこと
- 体験談その二 受け入れ側の教員が「言えなかった」話
- 体験談その三 生徒が、教室のいちばん後ろから見ていたもの
- 上履き、掃除、金次郎――外から見ると学校は全部おかしい
- 掲示板とSNSでは、この話はどう転がったか
- 「言葉が通じなかっただけ」――この反証は、ちゃんと強い
- 六部を泊めた家の話と、まったく同じ形をしている
- 名前を呼べる人は、たぶん一人しかいない
- なぜこの話は消えないのか
一九八七年八月、八百四十八人が日本に降りてきた
まず制度の話からいく。ここを飛ばすと、この怪談は「外国人が幽霊を見た」という平凡な話にしかならない。
ALTを日本の学校に大量に送り込んでいる仕組みを、JETプログラムという。正式名称は「語学指導等を行う外国青年招致事業」。始まったのは昭和六十二年、つまり一九八七年度だ。総務省(当時の自治省)、外務省、文部科学省(当時の文部省)、それに一般財団法人自治体国際化協会が協力して、実際に人を雇うのは地方公共団体、という妙な建て付けになっている。
初年度の招致対象国は四か国だけだった。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド。参加者は八百四十八人。一九八七年の九月に、この八百四十八人が全国に散っていった。当時の呼び名はALTではなくAETだった。
アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー、英語指導助手。まだ英語しか想定されていなかったからだ。
開始の経緯もなかなか生々しい。この事業は、そもそも外国語教育を改善するために立ち上がったものではない。一九八〇年代の日米貿易摩擦のさなか、対米黒字の削減策の一環として、当時のレーガン大統領と中曽根康弘首相の会談で合意された、という経緯が繰り返し語られている。財源は地方交付税の地域振興費。
自治省には「地方自治体を国際化したい」という別の思惑がある。その政策目的にうまく乗る形でJETが立案された、と研究者の古川和人は分析している。文部省は主管ではなく、発言力もそこまで大きくなかった。
つまりこの制度は、最初から「英語教育のための人材配置」と「地域の国際交流」という二つの目的を抱えている。しかも後者のほうが制度の重心だった。教育の側から見ると、目的が最初から少しぼやけている。この曖昧さが、後の現場のややこしさに全部つながっていく。
数字の推移も押さえておきたい。一九八九年(平成元年)には招致対象言語がドイツ語とフランス語にも広がり、八か国から千九百八十七人。一九九二年には二千六百九十九人。一九九七年には南アフリカを含む二十七か国、五千三百三十二人だ。ピークは二〇〇二年で、四十か国から六千二百七十三人。
この年には小学校で「外国語会話等」が入ったのに合わせて、小学校専属ALTが二十人規模で新設されている。
その後、実施主体である自治体の財政が苦しくなって減少に転じ、二〇一一年には四千三百三十人まで落ちた。二〇一〇年には事業仕分けで「見直し事業」に分別されている。そこからまた盛り返して、二〇一七年度が四十四か国・五千百六十三人。令和元年度(二〇一九年度)が五十七か国・五千七百六十一人。令和四年度が五十か国・五千七百二十三人だ。
令和七年度(二〇二五年度)は五十四か国・五千九百三十三人で、累計参加者は八万六百七十九人になった。参加国は延べで八十を超えている。
現在の受け入れ側は、四十六都道府県と十八の政令指定都市を含む、およそ千の地方公共団体等。令和五年度のALTだけで五千三百五十五人、二十八か国から、九百三十の自治体等が任用している。要望があれば私立学校にも配置される。
ここまでが表側の数字だ。世界最大規模の人的交流事業、というのは誇張ではない。
その前には「モンブショウ英語フェロー」がいた
JETには前身がある。ここも面白いので寄り道させてほしい。
いちばん古いのは一九六九年から一九七六年まで続いたフルブライト助手制度だ。在日合衆国教育委員会と文部省が組んで、各都道府県の英語担当指導主事の助手としてアメリカ人を招致した。主に現職の英語教員の研修に使った。数十人規模の、ごく小さい制度だったわけだ。
これが一九七七年に文部省へ引き継がれ、MEF制度になる。モンブショウ・イングリッシュ・フェロウズ、日本語だと文部省英語フェロー。中学・高校の英語担当指導教員の補佐役として、「外国語としての英語教育」を修得したアメリカ人などを招く仕組みだ。ここが重要なところで、MEFは応募要件がきっちりしていた。英語教授法をちゃんと修めていることが重視されていて、参加者の専門性は相当高かったと和田稔は記録している。
もう一つ、同じ時期に文部省がやっていたのがBETS制度、ブリティッシュ・イングリッシュ・ティーチャーズ・スキームだ。こちらは教育というより日英間の国家交流が目的で、性格としてはJETに近い。
一九八六年度の時点で、MEFとBETSを合わせて三百七人が招致されていた。そして翌年度からJETが始まると、この二つは廃止された。三百七人が八百四十八人になり、さらに数千人規模になっていく。
ここで起きた質的な変化を、教育行政の研究者はわりとはっきり指摘している。MEFは「英語教育の改善充実」という単一の目的に絞られ、来る人も英語教授法の専門家だった。JETは「地域レベルの国際交流の推進」という壮大なゴールを掲げ、応募要件は学士号があればよく、専攻は問わない。つまり教員免許も教授経験もない、二十代前半の若者が、いきなり日本の教室に立つことになった。
JETプログラムのALTの大半は今でも教員免許を持っていない。原則としてT2、つまり授業の主導権を持たない側として契約されている。
質を落としたと責めたいわけじゃない。人数を桁違いに増やして、地域に散らして、日本中の子どもが生の英語に触れられるようにする、という設計は、それはそれで一つの見識だ。ただ、この設計変更によって、ALTという存在は「専門家」から「毎年やってきて毎年帰っていく若い外国人」へと性格を変えた。怪談の芯になるのは、まさにここだ。
契約は一年ごと、最長で五年。誰も長くはいられない
JETの参加者は、特別職の地方公務員等として任用される。雇用契約は一年ごと。合意すれば更新できるが、更新は最大四回、つまり最長で五年までと決まっている。
五年経ったら、どんなに優秀でも、どんなに生徒に慕われていても、その人は必ずいなくなる。制度としてそう作られている。
しかも実際には五年いる人のほうが少数派だ。一年で帰る人、二年で帰る人がふつうにいる。毎年八月ごろに新規招致者が二千人前後まとまって来日し、東京でオリエンテーションを受けてから全国に散っていく。逆に言えば、毎年それに近い人数が入れ替わっている。
来日前後の研修も制度化されている。母国では大使館や領事館が募集・選考を担当し、出発前オリエンテーションをやる。日本に着けば来日直後オリエンテーションがある。その後も各種研修、日本語講座、メンタルヘルスサポート、災害・緊急サポートまで一通り用意されている。制度としては、驚くほど手厚い。
ただし、そのどれもが「一年目の人」を前提に組まれている。二年目、三年目に何が引き継がれるかというと、あまり多くはない。
そして肝心なのは、日本人教員のほうも入れ替わるという点だ。公立学校の教員は数年ごとに教育委員会の人事異動で学校を移る。年度末の二週間前くらいに、来年度は別の市の学校です、と言われる。ALTから見ると、去年いっしょに授業を作った先生も、自分の担当窓口だった主任も、四月にはいなくなっていることがある。
実際、JETのALTが体験談として書いているのは、八月から翌年八月までの新しい契約に一月の時点でサインさせられ、四月に誰が担当になるか分からないまま署名した、という話だ。日本人教員は四月から翌年三月の年度で動き、ALTは八月から翌年八月で動く。この半年ずれが、引き継ぎの断絶をさらに深くする。
つまり、この学校で何が起きたかを長期にわたって知っている外国人は、構造上、存在しえない。それがこの制度の設計だ。
覚えておいてほしい。この記事で扱う怪談は、全部このことの上に立っている。
「先生と打ち合わせをするな」――偽装請負が教室に作った沈黙
もう一つ、もっと生々しい話をする。
ALTの雇用形態は大きく三つある。JETプログラムによる任用、自治体による直接雇用、そして民間の業者を通じた配置だ。三つ目がさらに「労働者派遣」と「業務委託(請負)」に分かれる。
問題になったのは業務委託だ。民法上、請負契約や業務委託契約では、発注者が受託者の労働者に直接の指揮命令をしてはならない。指揮命令をした瞬間、それは実質的に労働者派遣であり、労働者派遣法違反、いわゆる偽装請負になる。
ところが学校の授業というのは、ティーム・ティーチングでやる。日本人教員とALTが二人で教室に立つ。当然、授業前に打ち合わせるし、授業中に「ここもう一回言って」と頼むし、終わった後に「次はこうしよう」と話す。これが全部「指揮命令」に当たってしまう。
二〇〇七年三月、大阪労働局が大阪府内の六市の教育委員会を偽装請負の恐れがあるとして指導した。文書指導が高槻市教委、口頭指導が堺、枚方、東大阪、松原、寝屋川の各市教委。当時の報道によると、各市教委は英会話学校などとの業務委託契約でALTの供給を受けている。学校側は直接指揮命令ができない立場だった。
にもかかわらず教諭が授業前に進め方を打ち合わせたり、授業中に説明が不十分と判断してその場で改善を求めたりしていた。労働局は「教諭の補助的存在として指揮命令されるなら不適切。学校側から独立して授業を行えることが重要」とコメントしている。
文部科学省も繰り返しこの問題を扱っている。平成十七年に各都道府県・指定都市教育委員会あてに「外国語指導助手の契約形態について」を発出する。平成二十一年と平成二十六年には厚生労働省側と疑義照会のやり取りをしている。
その回答文書には、こう書かれている。担当教員がALTに対して指導内容や授業の進め方に係る具体的な指示や改善要求を行う場合、それが授業の前だろうが中だろうが後だろうが労働者派遣に該当し、請負契約では実施できない、と。
さて、この法解釈を現場で守ろうとすると、何が起きるか。
受託した業者はALTに向かってこう言うことになる。先生と話をするな。授業の打ち合わせをするな。
横浜の弁護士が事務所だよりに書いている実例が生々しい。業務委託にしたせいで協働授業が成り立たなくなり、ALTは「テープレコーダー代わり」になる。発音の見本をやるだけ。担当した弁護士に、あるALTはこう言ったという。多くのALTは、立ったり座ったりするだけ。
ほら、髪の毛の色はこう、目はこう、鼻はこう、外国人だよ、という風に見世物になっていることもある。
それでも自分の立場を守るために、多くのALTは強くものを言えない、と。
考えてみてほしい。教室に大人が二人いて、片方はもう片方に話しかけてはいけない。コミュニケーションを教える授業で、二人の教師の間のコミュニケーションが法的に封じられている。
この状態のALTは、職員室にいても誰とも実務の話ができない。授業以外の校内の情報が入ってこない。行事の意味も、生徒の事情も、去年何があったかも、誰も教えてくれない。
「日本人には見えていないものが、ALTには見えている」という怪談の型は、この構造をそのまま反転させたものだ。情報が遮断された人間だけが、別のものを見る。
毎年三月に始まる、来年の自分を探す作業
待遇の話も避けて通れない。ここが分かっていないと、ALTがどれだけ不安定な足場に立っているかが伝わらない。
JETによる任用は、条件としてはいちばん安定している。年収は制度改定を経て、一年目がおよそ三百三十六万円、二年目が約三百六十万円、三年目が約三百九十万円、四年目と五年目が約三百九十六万円という段階制になっている(いずれも税引き前)。往復の渡航費、社会保障費の半分などは任用団体が負担し、住居費を持ってくれる自治体もある。
問題は民間派遣のほうだ。労働組合であるゼネラルユニオンが二〇二二年に実施したALTの労働条件調査では、JET・直接雇用と派遣とのあいだに年間百万円以上の収入格差があることが分かっている。同じ学校で同じ授業をやっていて、この差だ。
具体的な数字も出ている。京都府立高校に入っているある派遣会社の月給は、二〇二三年度が二十四万円。その後の年度で二十二万五千円、さらに二十一万円へと下がっていった。ボーナスが出る年と出ない年がある。組合は月給二十五万円への引き上げを求めて団体交渉を重ねている。
もっとしんどいのは、契約そのものの構造だ。教育委員会は毎年入札でALTの供給業者を決める。だから同じ学校で三年連続で働いていても、雇用主である派遣会社は毎年変わりうる。あるALTはこう証言している。年度末になると、どこの会社が契約を取ったのか自分たちで探しにいかなければならない、と。
京都府立高校で働くイギリス出身のALTは、二月ごろになると各地の派遣会社に片っ端から問い合わせる日々が始まる、と語っている。京都府教育委員会と契約する予定はありますか、と。契約が決まったと分かるのは、例年三月の押し詰まったころ。自力で探し当てられなければ、四月から無職になる。
直接雇用ならいいのかというと、そっちにも別の穴がある。二〇二〇年四月に会計年度任用職員制度が始まって、それまで特別職非常勤職員として労働組合法の適用を受けていた層が、一般職の会計年度任用職員に切り替えられた。結果として労組法が適用されなくなり、団体交渉権が大きく制限された。
都立高校でALTとして働いてきたアメリカ人二人が所属する労働組合は、これを憲法二十八条違反だとして東京都などを訴える。二〇二六年一月に東京地裁で請求を棄却され、控訴している。原告の一人は、この法律における自分の立場を知ったとき、日本社会における自分の立場を失ったように感じた、と語った。
雇い止めに遭っても交渉ができない。裁判で争う足場も細い。会計年度、という名称そのものが「一年ごとですよ」と最初から宣言している。
制度として、誰も長く居つけないようにできている。悪意があるわけではなくて、コストと法解釈の積み重ねが、結果としてそうなった。
そしてこの「毎年入れ替わり、誰も長くいない」という事実こそが、これから話す怪談の骨だ。
読めない紙が回ってくる場所に、一日中座っている
制度の話が続いたので、いったん情景に戻る。ALTがどういう空間に置かれているかを、ちゃんと想像してほしい。
朝、職員室に入って「おはようございます」と言う。返事がないことがある。悪意ではなく、単にみんな一時間目の準備で手が離せないだけだ。でも本人にはそれが分からない。声が届かなかったのかな、と思いながら自分の机に向かう。
朝の打ち合わせが始まる。全員が立つので、いっしょに立つ。教頭が連絡事項を読み上げる。半分は分からない。方言が混じるから分からないこともあるし、聞き取れても知らない単語が出てきてそこで止まってしまうこともある。
分からないまま「以上です」で終わり、みんな席に戻る。この描写は、実際にALTとして十年京都で過ごした作家が小説に書いたものだ。
あまりに正確なので、元ALTや受け入れ側の教員が「これはうちの職員室だ」と反応している。
回覧板が回ってくる。漢字がびっしり並んでいる。判子を押す欄がある。読めないまま押す。
行事のたびに校内の空気が変わるが、その行事が何のためのものかを説明してくれる人はいない。全校朝会で校長が長い話をしている。生徒が校庭に整列して、何かを黙って見ている。慰霊の日なのか、開校記念日なのか、避難訓練の前振りなのか、判別する手がかりがない。
昼は給食を生徒と食べる。中学校だと、日本語を話すなと指示されていることがあるので、会話は「好きな色は?」「好きな食べ物は?」の反復になる。一年生の一学期は過去形をまだ習っていないから、昨日のことすら聞けない。
授業のない時間は職員室にいる。日本語ではこれを「デスクワーミング」と呼ぶ英語表現がそのまま定着していて、要するに机で待機していることだ。何をしていいか分からないので、メールを打ったり手紙を書いたりする。それを見た日本人教員が「もっと積極的に仕事をしてほしい」と思い、ALT側は「何をしていいか分からないので指示を待っている」と思っている。
島根大学の大谷みどりが行った調査には、このすれ違いがそのまま採録されている。
小学校のALTに対する調査では、問題を抱えていると答えた人の四割強が「日本人教員がめったに英語で話さない」を挙げ、ほぼ同数が「日本人教員が英語を理解できない」を挙げ、次に多いのが「日本人教員がめったに話しかけてくれない」だった。「ALTの強みを活かそうとしない」が三割、「意見を尊重してくれない」が一割七分。自由記述からは、疎外感を感じているALTの姿がはっきり浮かび上がってくる。
勤務形態も一様ではない。一つの学校に常駐するベーススクール型、数校を定期的に回るスクールビジット型、たくさんの学校をぽんぽん訪問するワンショット型がある。三つ目がいちばんしんどい。一日に何校も掛け持ちし、学年もばらばら、各学校・各学級で雰囲気が違いすぎる。生徒の顔と名前が一致するころには、もうその学校を離れている。
そして、山間部や離島の小規模校を回るALTがいる。日本の公立小中学校は、令和五年度の時点で平成元年度と比べて二割以上減った。直近十年でも九パーセント以上減っている。児童生徒数は平成元年度比で四割減。小学校と中学校が各一校しかない市町村が全国の一割三分にのぼる。
複式学級のある学校、本校から離れた分校、そういう場所を車で回るALTがいる。
放課後、その分校で一人になることがある。日本人の教員が全員出張や会議で本校に行き、ALTだけが残される。誰もいない校舎。日が傾いて、廊下の端が見えなくなる。何かの音がする。
誰に聞けばいいのか分からない。
制度的な孤立というのは、こういう手触りをしている。
型その一 英語の時間だけ、人数が一つ多い
さて、本題だ。ALTが語ると言われる怪異には、いくつか繰り返し出てくる型がある。一つずつ見ていく。
いちばんよく語られるのが、これだ。
ALTが授業のはじめに人数を数える。アクティビティでペアを作らせるので、偶数か奇数かを確認する必要がある。三十人だと聞かされていたクラスで、数えると三十一人いる。もう一度数える。やはり三十一人。
ALTが担任に「一人多いよ」と言う。担任は「いや、今日は一人休みだから二十九人だよ」と答える。
ここで話がねじれるのがこの型の妙味だ。人数が合わないのではなく、二重に合わない。ALTの数えた数と、担任の把握している数のあいだに、二人分の空白がある。
面白いのは、この現象がALTの授業でしか起きないとされる点だ。国語でも数学でも起きない。英語の時間だけ。理由づけとして、しばしばこう語られる。日本人の教員は生徒を「クラスの名簿」として認識しているが、ALTは名簿を読めないから「そこにいる体」を数えるしかない。
名簿に載っていないものは、名簿を読める人間の目には最初から入っていない。
もう一つの変奏として、ペアワークで必ず一人あぶれる、という形がある。偶数のはずのクラスで、必ず誰か一人が相手を見つけられずに立っている。ALTがそこへ行って「じゃあ先生と組もう」と言うと、その生徒はいない。もう一周教室を回ると、今度は別の生徒があぶれている。
学校怪談として、この「人数が一人多い」は日本語圏でも独立して膨大に語られている。クラス写真を数えたら一人多い、係決めで黒板に書かれた名前を数えたら一人多い、名簿にない苗字が一つだけ残る。ALT型は、そこに「数える主体が外国人である」という一枚を足しただけ、とも言える。だがその一枚で、話の温度がまるで変わる。
型その二 「あの席の子は誰?」と聞いてしまう
二つ目の型は、席の話だ。
ALTが教室に入ると、窓際の後ろから二番目の席にいつも誰かが座っている。授業には参加しない。ノートも出さない。ずっと外を見ている。
ALTは最初「不登校気味の子なのかな」と思う。数か月経って、あるとき職員室で担任に聞く。あの窓際の後ろから二番目の子、何ていう名前ですか、と。
担任が固まる。その席は、ずっと空席だから。
この型の変奏はいくつもある。ALTが「あの子だけ挨拶を返してくれない」と言う版。ALTが英語の名札カードを配ったとき、一枚余ることに気づく版。もっと厭なのは、ALTが「あの子の名前、教えてくれた」と言い出す版だ。担任が「誰から?
」と聞くと、本人から、と答える。
そしてよく語られる続き。担任が古い名簿を引っ張り出してくると、確かにその席の出席番号に名前がある。何年か前に亡くなった生徒の名前。以来ずっと、その席には机を置いたままにしてある。
この「机を置いたままにする」というのは、実際に日本の学校でしばしばある慣行だ。年度途中で子どもが亡くなったとき、その学年が卒業するまで机と椅子を残して、花を置いておく。ALTは、その慣行を知らない。知らないから、その席を「誰かが座っている席」として見る。
外側から来た人間だけが、慣行を慣行として処理できずに、そこにあるものをそのまま見てしまう。この型の怖さは、そこにある。
型その三 分校の名簿にない生徒に話しかけられる
三つ目は、巡回型のALTに紐づく話だ。
月に一度だけ回る山あいの分校がある。児童は八人。複式学級で、三年生と四年生が同じ教室にいる。
ALTがその日の授業を終えて、校庭に出て車に荷物を積んでいると、一人の子が寄ってきて英語で話しかけてくる。発音がやたらといい。しかも、その分校ではまだ習っていないはずの表現を使う。
ALTは嬉しくなって「君、上手だね。名前は?」と聞く。子どもは名前を言う。手を振って校舎の裏へ回っていく。
翌月、ALTがその名前を出す。あの子、すごく英語が上手ですね、と。教員は「そんな名前の子はいません」と答える。八人の名簿を見せられる。その名前はない。
この型で必ず添えられるのが、ALTだけが会っている、という条件だ。その分校の教員も、ほかの子も、その子を見ていない。というより、ALTは月に一度しか来ないから、ほかの日にその子がいるかどうかを確認する術がない。
さらに厭な変奏では、ALTが翌年度に別の自治体へ移り、まったく別の県の分校で、同じ名前の子に会う。
背景として語られるのは、たいてい統廃合だ。かつてその地域に別の小学校があって、廃校になった。子どもたちは今の学校に移った。移れなかった子が一人いた、という筋。日本の公立小中学校が三十年あまりで七千校以上減った、という現実が、この型の下地になっている。
型その四 日本語が読めないはずの人が、古い掲示物を読み上げる
四つ目は、逆向きの型だ。これがいちばん気味が悪いという人が多い。
ALTは日本語の読み書きがほとんどできない。JETの応募要件に日本語能力は入っていない(日本語能力が求められるのは国際交流員のほうだ)。だから校内の掲示物は、彼らにとってただの模様に近い。
そのALTが、ある日、廊下の奥にある古い掲示板の前で立ち止まって、そこに貼ってある紙を声に出して読み上げる。しかも読み上げているのは日本語で、抑揚が完全に日本人のそれ。
近くにいた教員が「日本語読めるんですか」と聞くと、本人はきょとんとしている。何のこと?と。
読み上げられた紙は、たいてい古い。三十年前の学校行事の案内だったり、旧校舎の避難経路図だったり、卒業生の名前が並んだ賞状だったりする。掲示板の奥のほうに、剥がされないままずっと貼ってあった紙。
この型の背後にあるのは、「読めない人が読んだ」という単純な逆転だ。日本人はその掲示物を毎日通り過ぎているが、読んでいない。もう風景になっているからだ。読めないはずの人間だけが、その風景を文字として拾ってしまう。
ある版では、ALTが読み上げたのは掲示物ではなく、校舎の隅にある古い石碑の文字だったことになっている。碑文は旧字体で、日本人の若い教員でも読めない。
型その五 ALTだけが、あの教室に入るのを嫌がる
五つ目は、行動として現れる型だ。
ある教室、ある階段の踊り場、ある準備室。ALTがそこに入るのをやんわりと、しかし断固として拒む。理由を聞いても、うまく説明できない。「なんとなく」「空気が」としか言わない。
日本人の教員から見ると、それはただの古い理科準備室だったり、使っていない放送室だったりする。とくに曰くがあるわけでもない。ところが、ALTが替わっても同じことが起きる。前任のALTも同じ部屋を嫌がっていた。その前の人も。
三年分、四年分、五年分の外国人が、同じ部屋を避けている。しかも彼らは互いに引き継ぎをしていない。任期が重ならないから、会ったこともない。
この型は、任期の短さを逆手に取った作りになっている。ふつう「代々の教員が」という話だと、口伝えの可能性が疑われる。でもALTは一年か二年で入れ替わり、しかも前任者と会っていないことが多い。伝わりようがない、という設定が最初から効いている。
もっと洗練された版では、その部屋は毎年違う。日本人にとっては単に配置換えをしただけの部屋。ところが、ALTが嫌がる部屋は必ず「去年、何かをしまい込んだ部屋」なわけだ。
体験談その一 三年目の彼女が、最後の日に打ち明けたこと
ここからは、語られている体験談を三つ、視点を変えて紹介する。細部は語り手ごとに揺れるので、いちばん流通している形に整えてある。
一つ目は、ALT本人の視点。
北関東のある市に配属された女性が、三年目の任期満了の直前、送別会の帰り道で日本人の英語教員に打ち明けた話、という形で流れている。
彼女は一年目の秋、二年生のクラスで「自己紹介ビンゴ」という活動をやった。生徒がクラス中を歩き回って英語で質問し合い、条件に合う相手のサインをマスに書き込んでいく。ありふれた活動だ。回収したシートを職員室で採点していて、あるシートの右下のマスに、見覚えのない筆跡のサインが入っているのに気づいた。
漢字だった。彼女には読めない。ローマ字で書いてくれと指示したはずなのに、そこだけ漢字。しかも、ほかのどのシートにも同じサインがない。ビンゴのルール上、一人につき一マスしかサインできない。
三十二人が三十二枚のシートを持っていて、そのサインは一枚にしか現れていない。
彼女は担任にシートを見せた。担任はしばらく黙って、「これ、書き間違いだと思うよ」と言って返した。彼女は納得しなかったが、日本語で追及する語彙がなかったのだ。
二年目の秋、同じ活動を別のクラスでやった。同じサインが、また一枚だけ入っていた。
三年目、彼女はもう何も言わずに、そのシートだけをファイルに挟んで取っておいたのだ。任期が終わる前の週、それを職員室で広げて、いちばん親しかった教員に見せた。教員は三枚を見比べて、顔色を変えた。
彼女が最後に言ったのは、こういう言葉だったと伝わっている。三年間ずっと、私はこの子に自己紹介をされ続けていた。そして私は、一度もその子に自己紹介を返せなかった。
この話がよくできているのは、怖がらせようとする描写が一つも入っていないところだ。恨みもない。追いかけてもこない。ただ、毎年一枚だけ、名前を書いていく。
体験談その二 受け入れ側の教員が「言えなかった」話
二つ目は、日本人教員の視点で語られる形。
西日本のある中学校で、英語科の主任をしていた男性教員の話として流通している。
その学校には、三階の端に使われていない教室があった。もとは第二音楽室で、統廃合で楽器を移してから物置になっている。鍵はかかっていない。
新しく来たALTを校内案内したとき、その教員は何気なくその部屋のドアを開けた。ALTは廊下で立ち止まったまま、中に入ってこなかった。「ここは入らなくていい?」と英語で聞いてきた。教員は、ただの物置だよ、と答えた。
ALTは「分かった」と言って、それきり近づかなかったわけだ。
翌年、そのALTは帰国して、別の国から来たALTに交代した。校内案内で同じ場所に来たとき、新しいALTもまた、廊下で足を止めた。前任者とは会ってもいない。連絡先も知らない。
三人目のときに、教員は初めて意図的に試した。案内の順路を変えて、その教室を最初に見せた。何も言わずに、ドアを開けたのだ。
三人目のALTは、部屋の中を三秒ほど見て、「ここには荷物を置かないほうがいい」と言った。
その教員は、この話を職員室で誰にも言わなかった。言ったところで、ALTが替わるたびに同じことが起きているというだけの話で、証拠になるものが何もない。それに、と彼は言う。あの部屋を「何かある部屋」にしてしまったら、そこで働いている自分たちが困る。だから見なかったことにした。
この体験談は、受け入れ側の心理をよく突いている。日本人教員のほうも、実は薄々気づいている。気づいているが、そこにいるのは自分たちのほうで、来年もいるのは自分たちのほうだから、言葉にしないことを選ぶ。
体験談その三 生徒が、教室のいちばん後ろから見ていたもの
三つ目は生徒の視点。これがいちばん流通している。
小学校六年生の女子が、卒業前に書いた作文が元だ、という形で語られている。
その学年には月に二回ALTが来ていた。授業のはじめに必ず全員の名前を呼ぶ。日本語の名前は発音が難しいから、ゆっくり、一人ずつ。呼ばれた子は手を挙げて「ハイ」と言う。
ある回、ALTが名前を読み終えたあと、もう一つ名前を呼んだ。誰も知らない名前だった。教室が静かになった。
ALTは手元の紙をのぞき込みながら、もう一度その名前を呼んだ。誰も手を挙げない。担任が「その名前はいません」と言った。ALTは紙を担任に渡した。担任は名簿を見て、少し困った顔をして、「うん、印刷のミスかな」と言って授業を進めたのだ。
作文を書いた子は、教室のいちばん後ろの席にいた。彼女はこう書いている。先生が名前を読んだとき、教室の右のうしろのほうで、たしかに何かが動いた。手を挙げたみたいに、空気が持ち上がった。私だけが見ていたわけだ。
手を挙げたのに誰も気づいてもらえないのは、たぶんすごく寂しい。だから私は、心の中で「ハイ」と言った。
そのあと何が起きたか、という続きはない。作文はそこで終わる。
この形が広く読まれているのは、怪異が「怖いもの」ではなく「返事を待っているもの」として書かれているからだ。ALTは名簿を読み上げただけで、何も見ていない。見たのは生徒のほうで、しかも彼女は逃げるのではなく応じている。ALTは、名前を呼ぶ役割を果たしただけ。名簿にない名前を呼べる立場にいたのが、たまたま外から来た人だった、という配置になっている。
上履き、掃除、金次郎――外から見ると学校は全部おかしい
ここで角度を変える。なぜ「外国人だけが見る」という設定が、こんなにしっくりくるのか。
答えの半分は、日本の学校が、外から来た人間の目には最初から異様に見えるからだ。
まず靴を脱ぐ。昇降口があって、下駄箱があって、外靴を上履きに履き替える。この習慣の由来は、明治の初等教育が寺などを間借りして始まったこと、木造校舎の床を守る必要があったことに求められる。上履き自体は一九一〇年代にズック型が登場し、一九五七年の販売冊子に「上履き」の語が確認できる、という記録がある。合理的な理由がちゃんとある。
でも、それを知らずに来た人間の目に映るのは、「校舎の入口に、内と外を分ける結界がある」という光景だ。日本の民俗にケとハレ、ウチとソトという区別があることを持ち出すまでもなく、そこには明らかに境界がある。境界があるということは、越えてはいけないものがあるということだ。
海外の日本アニメファンが下駄箱を「物語が始まる不思議なゲート」として受け取っている、というのは笑い話ではなくて、外側から見た構造の把握としてかなり正確なのだと思う。
次に掃除。生徒が自分の校舎を掃除する。班に分かれて、床、壁、机、そのあと図書室、体育館、便所、廊下。フランスから来た子はこれに面食らったし、インドの中学生も驚いていた。フィンランドの高校生は、小学二年生が自分たちだけで「学級会」という話し合いをしていることのほうにカルチャーショックを受けたという。
外の人から見ると、これは「子どもが毎日、建物に対して奉仕している」ように見える。実際そういう文脈で撮られたドキュメンタリー映画が海外で長期上映され、大きな反響を呼んだりしている。日本人にとってはただの掃除当番だ。掃除当番と儀礼のあいだに、線を引くのは実はけっこう難しい。
そして像だ。校門を入ったところに、薪を背負って本を読む少年の銅像が立っている。これが何なのか、ALTには説明されない。説明されても、腑に落ちないと思う。
二宮金次郎の像がなぜ全国の小学校にあるのか。文部省が命じたわけではない。幸田露伴が明治二十四年に書いた少年向け伝記の口絵が、薪を背負って読書する姿を定着させた。明治三十三年には修身の教科書に登場し、明治四十四年の文部省唱歌で「手本は二宮金次郎」と歌われた。昭和三年ごろから寄贈による建立が始まり、実際に普及したのは昭和六年から十五年ごろとされる。
昭和十六年九月以降は金属類回収の対象になって、寺の釣鐘といっしょに供出されてしまった像も多い。だから今立っているものの多くは戦後の再建か、供出を免れた石像・陶像だ。岡山県では備前焼の陶像が普及し、県内三百七校のアンケートで百七十四校に現存していた。東京二十三区の小学校では現存率が一割四分ほどしかない。
つまり、あの像は「文部省の命令で全国に置かれた」わけでもないし、「昔からずっとあった」わけでもない。地域差が大きく、由来もまちまちで、読んでいる本すら彫刻家によって違う。日本人ですら正確には説明できない。
説明できないものが校門に立っている。その像が夜に動く、薪の数が増えている、という学校の怪談が生まれるのは当たり前だ。日本の子どもですらそう扱っている。外から来た人間なら、なおさらだろう。
さらに、古い学校にはもっと分かりにくいものが残っている。奉安殿の跡地。忠魂碑。校地の隅の慰霊碑だ。奉安殿は教育勅語制定後の一九一〇年代から全国の学校に建てられた建物で、天皇皇后の写真である御真影と教育勅語の謄本を納めていた。
前を通るときは服装を正して最敬礼することが定められていた。敗戦の年の十二月にGHQが神道指令を出し、多くは撤去されたのだ。
撤去の通達は徹底していて、ある県の記録には「撤去は存置の形跡を留めない状態であること」と書かれている。それでも神社に転用されて残ったもの、基礎だけが敷地に残ったもの、収納庫として職員室で使われ続けたものがある。二〇二六年の今になって、職員室の古い金庫が奉安庫だったと判明した小学校もある。
日本人はそれを「昔からある石」として通り過ぎる。外から来た人は、そこに何かが祀られていたことを、知識ではなく形で読み取ってしまう。
この非対称性が、怪談を生む。日本人にとって説明が不要なものは、説明されないまま放置される。説明されないものは、外から来た人間にとっては全部「意味の分からない何か」になる。そして意味の分からない何かは、意味を与えられるのを待っている。
掲示板とSNSでは、この話はどう転がったか
この型は、いわゆる「ネットロア」としてはやや変わった育ち方をしている。
まず、日本語のオカルト掲示板で古くから語られてきた「学校の怪談」の膨大な蓄積がある。人数が一人多い、集合写真に知らない子が写っている、名簿にない苗字が残る。この基層は一九九〇年代から連綿とある。
そこにALTという役割が乗ってくるのは、比較的あとになってからだ。理由ははっきりしていて、ALTが日本中の小学校に当たり前にいる存在になったのが、二〇〇〇年代以降だからだ。小学校での外国語活動が本格化し、二〇〇二年に小学校専属ALTが創設される。ALT全体の人数は二〇〇二年度の約八千八百人から二〇〇六年度には一万一千人に急増している。
つまり、日本人の書き手の多くが「小学校でALTの授業を受けた記憶がある」という状態になるまでに、時間差がある。
同時に、英語圏では在住外国人による怪談の共有が独自に進んでいた。日本の怪談を英訳して紹介するサイト、日本在住外国人向けのフリーペーパーが毎年十月に載せる「日本で体験した怖い話」特集、ALTが個人ブログに書いた赴任地の話。そこには、四という数字を避けて教室番号を飛ばす話、教室の隅に盛り塩がしてある話、夜十時に無人のコピー機が勝手に白紙を出す話、子どもの足音がする話などが、断片として散らばっていた。
日本語側の「学校怪談の型」と、英語側の「在住外国人の困惑」が、どこかで合流した。合流点になったのは、たぶん英語教科書のキャラクターをめぐる話題だ。中学英語の教科書に出てくるALTのキャラクターが、版が変わるたびに姿を消したり増えたりする。その話題が広がったとき、「そういえばALTって、実際に毎年入れ替わるよな」という気づきが、大量に共有された。設定と制度が奇妙に噛み合ってしまったのだ。
考察界隈での反応は、おおむね二方向に分かれた。一つは「制度こそが怖い」という読み。任期五年上限、一年契約、毎年の入札、半年ずれた年度。この構造自体を怪談として読む立場だ。もう一つは「これは外国人を透視能力者に仕立てる話で、褒めているようで疎外している」という批判。
後者はかなり真っ当な指摘だと思う。
「言葉が通じなかっただけ」――この反証は、ちゃんと強い
ここは正面から扱う。ALT怪談の大半には、地味だが強力な合理的説明がつく。順に見ていこう。
第一に、単純な言語の壁だ。ALTは日本語の名簿を読めない。日本語の連絡事項を理解できない。だから「この子は今日いない」「この席は今は使っていない」「この教室は物置にした」といった、日本人にとって当たり前の情報が、そもそも入ってこない。情報の欠落を、日本人は「見えていないもの」と勘違いする。
第二に、学校文化への不慣れ。日本の学校には、外から見ると意味不明な慣行が山ほどある。机を残しておく慣行、行事のたびに教室の配置が変わること、学年ごとに担当教室が入れ替わること。ALTがそれを知らないまま「去年はここにこの子がいた」と記憶していると、ズレはいくらでも生じる。
第三に、通級と特別支援学級の存在。これは反証としてかなり効く。通常の学級に在籍しながら、一部の時間だけ別の教室で指導を受ける「通級による指導」を利用している子は、令和五年度で全国二十万三千三百七十六人にのぼる。公立小学校で十六万六千四百三人、公立中学校で三万四千三百九十三人、公立高校で二千三百二十七人。直近十年で二倍以上に増えている。
特別支援学級の在籍者も三十九万五千人規模で、こちらも十年で二・一倍。交流及び共同学習として、特別支援学級の子が特定の授業だけ通常の学級に来ることもある。
つまり、あるクラスの「その日その時間の実在人数」は、名簿の人数とふつうに一致しない。国語の時間には二十九人で、英語の時間には三十一人になることが、制度上ふつうに起きる。日本人教員はその出入りを把握しているから何も感じない。ALTは把握していない。だから数えるたびに合わない。
第四に、単年度交代による記憶の断絶。これが決定的だ。ALTは一年か二年で替わる。日本人教員も数年で異動する。ある学校の五年前の出来事を正確に語れる人が、その学校にいないことがある。
誰も否定できない話は、否定されないまま残る。「前のALTも同じ部屋を嫌がっていた」という証言は、前のALTがもういないから検証できない。検証できない証言は、繰り返し語られるうちに事実のような手触りを持つ。
第五に、そもそも人間は同じ数を二回数えると間違える。三十人以上を目視で数える作業は、慣れていても一回や二回はずれる。教室を歩き回っている子がいればなおさらだ。
こう並べると、ALT怪談はほとんど全部説明がついてしまう。実際、私はほとんど説明がつくと思っている。
だが、それでこの話が終わるかというと、終わらない。なぜなら、この五つの説明のうち四つまでが、「ALTが情報から切り離されている」という同じ一点に還元されるからだ。反証をやればやるほど、ALTがどれだけ孤立しているかが浮かび上がる。怪談を否定する作業が、そのまま怪談の下地を再確認する作業になっている。
これは厄介な構造だ。合理的説明が、話をむしろ強くしてしまう。
六部を泊めた家の話と、まったく同じ形をしている
ここからが、この記事でいちばん書きたかったところだ。
日本には「異人殺し」という民間伝承の型がある。民俗学者の小松和彦が一九八四年に『現代思想』へ発表した論文「異人殺しのフォークロア」で分析する。のちに『異人論』としてまとめられた話型だ。
いちばん有名な形は「六部殺し」、別名「こんな晩」という。
ある村の貧しい百姓の家に、六部が一夜の宿を乞う。六部というのは「日本廻国大乗妙典六十六部経聖」の略で、写経した法華経を持って六十六か所の霊場を巡り、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のことだ。夫婦は親切に迎え入れ、もてなす。その夜、百姓は六部の荷物の中に大金があるのを見てしまう。欲しくてたまらなくなり、とうとう六部を殺して亡骸を処分し、金を奪う。
その金を元手に、百姓の家は急に裕福になる。子どもも生まれる。ところがその子は、いくつになっても口をきかない。ある夜、子どもがむずがるので父親が便所へ連れていく。かつて六部を殺した晩と同じような天候の夜だった。
すると子どもが初めて口を開いて、こう言う。
お前に殺されたのも、こんな晩だったな。
殺されるのが六部でない版もたくさんある。修験者、托鉢僧、座頭、遍路、行商人。共通しているのは、村の外から来て、村を通り過ぎていくはずの人間だということだ。折口信夫の言う「まれびと」の系譜にある存在。福をもたらす来訪者であると同時に、得体の知れない他者。
小松和彦の読みで肝になるのは、この伝説が「実際に起きた殺人の記録」ではない、という点だ。村の中である家が急に栄えて、そのあと不幸に見舞われる。村人はその落差に説明をつけたい。そこで、あの家は異人を殺して富を奪ったのだ、という物語が新たに語り出される。物語は、共同体の内部の矛盾を辻褄合わせするために作られる。
異人に対する潜在的な恐怖心と、排除の思想がそれを支えている。
さて、ALTの話に戻る。
学校という共同体に、外から人が来る。一年か二年だけいて、去っていく。彼らは共同体の外部から情報と技術を持ち込む媒介者だ。生きた英語という「珍しい物品」を運んでくる。地域の祭りに呼ばれ、行事に参加し、歓待される。
名前を覚えられ、「ネイティブの先生」という一括りの呼称で呼ばれる。
そして、その人たちが村の秘密を暴く。かつてここに誰がいたか。何があったか。誰も口にしない席に、誰が座っているか。
構造として、六部殺しと同じだ。というより、異人訪問譚の骨格そのままだ。
決定的に違うのは一点だけ。六部殺しでは、異人が殺される。ALT怪談では、ALTは殺されない。任期が来て、帰るだけだ。
でも、共同体から見た機能は変わらない。「一定期間いて、いなくなる外部の人」という点で同じである。そして「その人がいなくなったあとに、話だけが残る」という点でも同じだ。
もう一つ、深いところで重なっているものがある。異人殺しの伝説が語られるのは、村落共同体が貨幣経済や都市化の波で解体しつつあった時期だった、という指摘がある。外部とつながって富を得る家が現れ、村の均質性が崩れていく。その不安が、異人殺しという物語の形をとった。
日本の学校も、いま似た局面にいる。児童生徒数は減り続けている。令和七年度の小学校在学者は五百八十一万二千人で過去最少、中学校は三百十万五千人で過去最少。学校の統廃合が進み、小学校と中学校が各一校しかない市町村が二百二十八ある。教員は不足し、非正規の職員が増え、外部人材の活用が政策として推進される。
会計年度任用職員は全国で約六十二万人、非正規の地方公務員は百十九万人を超える。
学校という共同体が、ゆっくり解体しつつある。その内側にいる人たちが感じている不安が、外から来てすぐ帰る人の目を借りて、物語になる。
異人が村の秘密を暴くのではない。村が、暴かれたがっているのだ。
名前を呼べる人は、たぶん一人しかいない
ここまで書いてきて、この型の中心にあるものが何なのか、だんだんはっきりしてきた。
名前を呼ぶことだ。
型のどれを見ても、決定的な瞬間には必ず「名前」が絡んでいる。名簿を読み上げて、そこにない名前を呼んでしまう。あの子は誰ですか、と聞いてしまう。分校の子に名前を教えられる。掲示物に並んだ卒業生の名前を読み上げる。
ビンゴのシートに漢字のサインが残る。
日本人の教員は、その名前を呼べない。呼べない理由は二つある。
一つは、知っているからだ。知っているから呼ばない。あの席に誰がいたか、あの部屋に何をしまったか、あの碑が誰のためのものか、みんな知っている。知っているからこそ、口に出さない。それは共同体の作法であり、思いやりでもあり、同時に忘却の装置でもある。
もう一つは、呼んだら自分がずっとここにいなければならないからだ。日本人教員は来年もこの学校にいる。ここで何かを「見た」ことにしてしまうと、その何かと一緒に一年を過ごすことになる。だから見ない。
ALTには、そのどちらの縛りもない。知らないから呼べる。そして、来年にはいないから呼べる。
異人が異界を見るというのは、たぶん超常的な感受性の話ではない。「見たあとで責任を負わなくていい立場」の話なのだと思う。旅の僧が村の秘密を暴けたのも、彼が翌朝には出ていく人間だったからだ。
そう考えると、ALTがこの型の主役に選ばれたのは、必然だった気がしてくる。任期一年、更新は最長五年、毎年入れ替わり、日本語の情報から切り離され、職員室の端に座り、来年の契約は三月まで分からない。制度が丁寧に、丁寧に、「見ても責任を負わない人」を作り出している。
なぜこの話は消えないのか
この怪談は、たぶん今後もっと語られるようになる。理由は三つある。
一つ目は、制度が変わっていないからだ。JETの一年契約・五年上限は変わっていない。派遣ALTの毎年の入札も変わっていない。会計年度任用職員をめぐる裁判は続いているが、一審は原告の請求を棄却した。「毎年入れ替わる」という前提は、当分のあいだ残る。
人が入れ替わり続ける場所には、検証されない記憶が溜まっていく。溜まった記憶は、いつか物語の形をとる。
二つ目は、学校のほうが空いていくからだ。児童生徒数は減り、学校は統廃合され、教室が余る。使われない教室、使われない校舎、廃校になった分校。人がいた形だけが残って、人がいない場所が増えていく。学校の怪談は、そういう空白に住み着く。
日中に数百人が満ちて夕方に空になる、という落差の大きさが学校を怪談製造機にしている、という指摘があるが、これから増えるのは「そもそも満ちない学校」だ。
三つ目は、この型が誰も傷つけない形で語れるからだ。ALT怪談には、加害者が出てこない。祟りもない。追いかけてこない。ただ、名前を呼ばれるのを待っているものがいて、それに気づけるのが外から来た人だけ、というだけの話だ。
だから語りやすい。学校という場所に対する後ろめたさを、誰も名指しせずに置いておける。
そして最後に、これは書いておきたい。
この記事で紹介した怪談はどれも、ほぼ確実に作り話だ。人数が合わないのは通級の子が出入りしているからだし、席が空いているのは机を残す慣行があるからだし、部屋を嫌がるのは湿気とカビ臭さのせいだ。合理的説明はきれいにつく。
でも、その合理的説明を全部並べ終えたときに残るのは、「日本の学校には、事情を何も知らされないまま職員室の端に座っている人が、毎年五千人以上いる」という事実のほうだ。彼らは打ち合わせを禁じられていることがある。回覧板を読めないまま判子を押している。三月まで来年の仕事が決まらない。生活費が足りなくて借金が増えている人もいる。
そして五年経てば、必ずいなくなる。
怪談は、いつも制度の影として生まれる。花子さんが便所に住み着いたのは、学校の便所が長いこと薄暗くて陰気な場所だったからだ。二宮金次郎が夜に走り出したのは、あの像が何なのか誰も説明してくれなかったからだ。
ALTが「もう一人」を見てしまうのは、彼らが霊感の強い人々だからではない。彼らが、この学校で何が起きたのかを教えてもらえない位置に、制度によって置かれているからだ。
見えないものが見えるのではない。教えてもらえないから、見えてしまう。
だからこの話は、たぶん当分消えない。教える側が、教えないままでいるあいだは。
