ピアノが鳴ると、真下の理科室で骸骨が踊った
岩手県和賀郡の黒沢尻町。
この町の小学校では1948年ころ、ひとりでに鳴る音楽室のピアノに合わせて、真下の理科室の骸骨が踊ると語られたらしい。
載せたのは松谷みよ子の『現代民話考』第7巻だ。
月刊誌のムーが2024年8月号の記事で、この話を紹介している。
黒沢尻は、今の北上市の中心部にあたる。
町は1954年4月に周辺の村と合併して、北上市になった。
小学校の校名が町立に改まったのは1947年で、戦後の新しい学制が始まった年だった。
舞台は、新制の小学校。
骸骨が歌い、踊る話は古い。
同じ記事は、日本を含む世界の民話に、骸骨が歌ったり踊ったりする型があると書く。
多くは殺された人の骨で、歌や踊りで人を集めて犯人を告発する筋だという。
学校の怪談の骸骨は、罪を告発するために踊るわけではない。
問題は年号だ。
1948年ころの話が本になったのは、確かめた限りでは1987年6月の立風書房版だった。
四十年近いずれがある。
当時の記録というより、のちに集められた回想と見たほうが安全で、年号は目安と読むのが筆者の判断だ。
その巻の副題には「笑いと怪談」とある。
目次には、校舎のいわれ、便所にまつわる怪、ピアノにまつわる怪、人形の怪、動く彫像、七不思議と、学校の話が章ごとに並ぶ。
骸骨の話がどの項に入っているかは、確かめられなかった。
ここでは、人体模型はまだ主役ではなかった。
理科室のガイコツがうごきだし、トイレには花子さんがあらわれる
1990年11月。
講談社から『学校の怪談』が出て、紹介文に「理科室のガイコツがうごきだし、トイレには、『花子さん』があらわれる」と書かれた。
著者は中学校の教師だった民俗学者で、放課後に生徒から聞いたうわさ話をまとめた。
毎日小学生新聞は、1週間で100あまりの話が集まったと伝えている。
翌1991年には、ポプラ社が同じ題の読み物シリーズを出した。
日本民話の会が編んだこの版は、1994年までに1巻から15巻、スペシャル3巻が出ている。
ある教育社会学者は、当時の学校の図書室に関連本がずらりと並んでいたと振り返る。
一大ブーム。
ところが、怪異の出る場所を調べた研究では、理科室の影は薄い。
その教育社会学者の調査では、圧倒的に多いのがトイレで、次が普通教室だった。
理科室や音楽室などの特別教室は、それほど多くなかったという。
人体模型は怪談の花形なのに、場所の統計では目立たない。
この食い違いは、あとで考える。
先に、映画の話をしておく。
東宝の『学校の怪談』が公開されたのは1995年7月8日で、配給収入は15億円、その年の邦画の4位に入った。
理科室の人体標本も、子どもたちに襲いかかる。
映画の解説によれば、旧校舎の理科室で霊の力を受けた模型は、内臓が本物に変わって動き出す。
腸を剥がされたのをきっかけに暴れるが、最後は熊の剥製の下敷きにされる。
撮影には約300万円する本物の人体模型が使われたという。
画面の中の模型は、よく歩いた。
怪談の型は、本や投稿でどんどん増えていく。
ポプラ社版の第9巻には、「遊ぼうよ」と声をかけられて遊んだ子が骸骨模型にされて死ぬ話が載る。
金曜の夜12時にカランコロンと音を立てて通る骸骨があり、その音を聞くと呪われる話も同じ巻にある。
月刊ムーの記事は、そう紹介している。
別の本の投稿には、広島県から寄せられた話がある。
夜12時に学校へ行き、理科室で骸骨模型や人体模型が踊るのを見ると、人体模型の胃の中に吸い込まれるという。
民俗学者の編んだ『学校の怪談』の赤本が載せた投稿だと、同じ記事に書かれている。
骸骨は踊り、人体模型は飲み込む。
個人ブログがまとめた型も、体の部位に結びつくものばかりだ。
人体模型に「何が欲しいの」と聞くと、「内臓をくれ」と迫られる。
「背比べをしようか」と誘われて、断ると首を切られ、応じると背が1割縮む。
そして、模型を壊すと、壊した人の同じ場所が壊れる。
鉛筆が刺さったのは、人体模型の胃だった
2022年9月の個人ブログに、こんな話が載っている。
書き手は同じ小学校に通っていたという人で、前半の一部始終は自分で見たが、後半は男の子と仲のよい友人から聞いた話だと断っている。
体験した男の子は転校してしまい、確かめようがないとも書く。
まあ、そういう話だ。
理科の授業中、男の子は友だちと流行りの「バトル鉛筆」で遊んでいた。
突き飛ばされて人体模型にぶつかり、模型が倒れた拍子に、手にした鉛筆の先が模型の胃に刺さった。
先生が模型を起こしても故障は見つからず、男の子は何も言わなかったという。
小さな穴は、ぱっと見ではわからなかったそうだ。
その日の放課後、男の子は理科のノートを取りに教室へ戻る。
夕日の差す教室の隅に、友だちでも先生でもない背丈の人影が立っていた。
近づいてきた影は、傷つけられた模型で、「イッショニナロウ」と言ったという。
その夜、倒れている男の子を宿直の先生が見つけ、診断は胃潰瘍だった。
胃には小さな穴があいていて、模型は今も理科室に飾られている。
穴のあいた胃のまま、という締め。
ちなみに、男の子が影に会ったのは、理科室ではなく自分の教室だ。
刺さったのは、腹ではなく胃だった。
傷つけた場所と同じところが痛む。
この筋は、同じブログが挙げる「壊すと壊した人の同じ箇所が壊れる」という型を、そのまま実演している。
ブログによれば、倒れた模型を前に男の子の頭に浮かんだのは、高価かもしれない、弁償か、親に怒られる、ということだった。
胃の痛む理由は、そこに先にあったんじゃないか。
筆者の見立てを書いておく。
弁償への恐れと黙っていた後ろめたさが先にあり、怪談はその重さに形を与えただけだ。
ただ、この話は伝聞を重ねたもので、事実として確かめる手段はない。
語られたことだけが、確かな事実である。
絹でつくった五臓六腑が、仏の胎内に納められていた
京都の嵯峨にある清凉寺の本尊は、釈迦如来の立像だ。
北宋の985年に作られ、奝然という僧が日本へ持ち帰った。
1954年の修理で、胎内から夥しい数の納入品が見つかった。
その中に、絹で作った五臓の模型がある。
五臓は綾や錦や平絹の袋で、心、肝、肚、腎の袋には香が詰めてあった。
胆の袋には舎利が納められ、肺の袋には経典の一節が記されている。
寺は、この発見で生身の仏であることが実証されたと説く。
宋では、五臓を納めて像を生身にする風習が広く行われていたという。
これは教材ではない。
医学というより祈りの側の話で、人の形の内側に臓器を仕込む試みが、日本には10世紀からあったということだ。
その像は1955年に国宝に指定された。
人体模型の遠い祖先と呼ぶ人もいる。
幕末に入ってきた模型は、キュンストレーキと呼ばれた。
オランダ語で「人工の死体」の意だ。
フランスの解剖学者が1825年に発表した紙製の分解できる模型で、解剖用の遺体が足りない穴を埋めるために作られた。
長崎の資料では、医師のポンペが講義のために1860年にフランスから取り寄せている。
福井藩も1860年に男体を、長崎を通じて800余両で買ったといわれ、1869年に女体を買い足した。
福井市の博物館の解説は、解剖は頻繁にはできないので、模型で学ぶことが重要だったと書く。
男女一対がそろうのは福井だけで、ほかには長崎、金沢、九州の大学に男体が1体ずつ残る。
県の文化財にも指定された。
京都の島津製作所は、1875年に初代の源蔵が興した。
源蔵は仏具職人で、教育用の理化学器械から事業を始めている。
初代が亡くなった翌年の1895年に標本部ができ、植物模型や鉱石標本に続いて人体模型を手がけた。
それまでの石膏の模型は重かったため、紙に樹脂を塗った素材に替えて特許をとり、138のパーツに分解できる模型まで出した。
のちにこの技術は、マネキンに転用される。
全盛期の1937年には、国内生産の85%以上を島津製のマネキンが占めたという。
標本部は、理化学器械と並ぶ二大部門になった。
筆者の見立てを書く。
人体模型は、解剖できない死体の代用品として日本に入ってきた。
名前からして「人工の死体」なのだから、夜の理科室で模型に死体を見てしまう感覚は、的外れではない。
子どもが由来を知らなくても、道具が最初から死体の代わりだった重みは、形に残っている。
昭和の夜の校舎には、まだ大人がいた
夜の校舎には、長いあいだ人がいた。
1950年代までは、教員の宿日直が常識だったと、国立国会図書館の資料は書く。
もとは明治の御真影と勅語謄本を守るための制度で、戦後は施設の管理だけが目的になった。
校舎に泊まって見回る、宿直の教員。
廃止の動きが広がるきっかけは、宿日直の教員への殺人事件や暴行事件だ。
国の予算で警備員が置かれるようになった1960年代後半から、実施率は急に下がった。
1980年代の初頭には、ほぼ全国の学校で廃止されている。
研究者の論文が、そうまとめている。
用務員も、校舎に住み込むのが普通だった。
1980年代前半までは、校内の専用室や構内の住居で暮らす人が多かったという。
深夜の校舎の巡回は、その仕事のうちだった。
機械警備が広まると、国公立の学校で住み込みの用務員はほぼ姿を消した。
さっきの個人ブログの話で、倒れた男の子を見つけたのは宿直の先生。
宿直は、1980年代初頭までに学校から消えた制度だ。
ブログは、話の起きた時期を書いていない。
筆者の見立てでは、この配役は、宿直がまだあった時代の古い型から受け継がれたものだ。
もう一つ、向きの話をする。
投稿サイトの解説記事は、誰も触れていないのに模型が姿勢を変えている、という噂を真っ先に挙げる。
2021年の投稿に、新潟県の塾の教室が舞台のものがある。
窓際の模型の向きが、気づくと変わっていた。
語り手は、自分でいくつか理由を挙げている。
最初から勘違いしていた、講師が通りがけに向きを変えた、カーテンを開けた拍子にぶつかって台座が回った、の三つだ。
どれも頼りないと自分で認めながら、そうだと言い聞かせようとしている。
筆者に言わせれば、この三つのほうがありそうだ。
模型は、触れる位置に置かれた教材だ。
昨日の最後に動かした人の記憶が抜けているだけで、翌朝の向きは違って見える。
確かめる記録はないので、これは筆者の見立てにとどまる。
でも、夜に誰も見ていない部屋ほど、「夜に動いた」の一言で済ませやすい。
ムーの記事は、理科室を死の雰囲気に満ちた部屋だと書く。
ホルマリン漬けの動物、剥製、人体模型が並び、骸骨模型は人が死んで骨になることを子どもに強く意識させる。
本来動かないものが動いたら、という考えも呼ぶので、動いているだけで怖い、と記事は結ぶ。
理科室の統計が低くても、人体模型の怪談が強いのは、この二重の怖さのせいかもしれない。
本物の頭蓋骨は、生物講義室の標本棚の奥にあった
2016年7月、鹿児島市の県立鶴丸高校。
生物講義室の標本棚を整理していた教諭が、奥から頭蓋骨のような骨を見つけた。
動物の骨だろうか、というのが最初の反応だったと、日本経済新聞は書く。
歯学を教える卒業生に見てもらい、人骨の可能性が出たのは2017年1月だった。
県警などの鑑定で、約50年前に死亡した女性の骨とみられると分かった。
事件性はなく、引き取り手もなかったため、市が法律に基づいて火葬し、市営墓地に埋葬している。
報じられたのは2018年6月。
怪談系のニュースサイトは、学校の怪談の設定が現実に出てきたようだと書いた。
半年後の2018年12月、同じ鹿児島市の県立甲南高校でも、本物の頭蓋骨が見つかったと報じられた。
美術のデッサン室の棚に、牛の骨などと並んで20年以上前から置かれ、その年の6月にも生徒がモデルにしていたという。
30歳から40歳ほどの女性とみられ、頭頂部にはシールを貼ったような3、4センチ四方の痕があった。
教頭は、学校の備品だと思った、なぜ本物があったのかわからない、と話している。
ここからが広がり。
各地の教育委員会が、標本を調べはじめた。
佐賀県では2019年1月、佐賀西高校と神埼清明高校の頭蓋骨が、県警の鑑定で人のものと確認された。
三養基高校では、ホルマリン漬けの脳が人のものと確かめられている。
毎日新聞が伝えている。
数字は、報道のたびに変わった。
時事通信は2019年1月16日付で、石川、福井、愛知、大分、宮崎、鹿児島の6県16校で見つかったと伝えている。
日本経済新聞は1月末に、佐賀を加えた7県18校と報じた。
産経新聞が4月にまとめた数字では、秋田、群馬、新潟、大阪、和歌山、香川、熊本も入り、14府県になっていた。
食い違いに見えるが、調査の途中経過だったからだ。
産経の数には、鑑定が済んでいない例も含まれる。
大阪府は2019年2月26日に、高校12校と視覚支援学校2校で、人骨や臓器の標本が見つかったと発表した。
全身骨格が9体、頭蓋骨のほか、ホルマリン漬けの臓器や胎児の標本もあった。
ほとんどの学校では、いつ、どこから入ったのか記録がない。
愛知県大府市の桃陵高校の1体には、昭和47年購入の記録があった。
大分県の高田高校では、頭蓋骨の入った木箱に個人名と「昭和10年代に寄贈」の文字があった。
香川県の高校では、箱の「寄贈」の記載から、地元の病院の閉鎖で譲り受けたことがわかっている。
福井県の武生高校については、県教委が、頭蓋骨は明治時代からあったと伝えられていると説明した。
人骨のあった学校には、戦前の旧制中学の流れをくむ伝統校が多かった。
順天堂大学の解剖学の教授は、答えを明治に求める。
各地の医学校では、身寄りのない病死者の遺体で解剖実習をし、その骨で教育用の標本を作っていた。
明治中期に医学校が財政難で次々に廃校になり、標本が近くの学校へ寄贈されたのではないか、というのが教授の見立てだ。
もう一つの流れは、輸入。
国内の医療教材メーカーは、昭和40年代までインドから仕入れて大学病院などに売っていたと打ち明けた。
産経によれば、1980年ごろまでインドなどから輸入する業者がいたという。
2018年11月には、東京の足立区の住宅の敷地で、約500人分の人骨が見つかった。
かつて骨格標本を作る会社の事務所があった場所で、社長は、インドから輸入したと説明した。
社長は2019年4月に、廃棄物処理法違反の疑いで書類送検されている。
本物の骨が標本になる回路は、昭和の後半まで開いていた。
文部科学省は、事件性のない標本を保管しても法的な問題はないとしている。
そのうえで、事件性がないか、まず警察に相談してほしいと呼びかけた。
身元がわからない骨は、市が火葬して埋葬する。
念のため断っておくと、手元で読んだ報道に、骨が動いたという話は出てこなかった。
学校の怪談は本当だった、と誰かが書き込んだ
甲南高校の報道があった2018年12月6日、ネット上に書き込みが出た。
「どの学校にもよくある七不思議が、あながち嘘ではない気がして震える」という。
別の人は、半年前に卒業した高校で見つかったと思ったら今度は同じ市の別の高校だ、と驚いてみせる。
どちらの学校も戦前からの歴史がある、と書き添えている。
歴史があるだけに、この手の話は不気味だ、と。
愛知県の高校に通った父親から、骨格標本は本物で本人の名前まで記されていたと聞いていた、というブロガーもいる。
2019年2月の記事で、新聞報道が父親の話の裏づけになったと書いた。
同じ記事は、子どものころ友だちから聞いた学校の地下室に本物のミイラがあるという噂にも触れる。
ただ、その噂に根拠があったのかどうかは、書き手にもわからないと断っている。
骨格標本に愛称をつける学校は多い、と書く個人の投稿記事もある。
「ガイコツ先生」「太郎」「花子」といった名前だ。
その記事は、人の形をしたものには霊が宿るという形代や依り代の考えを引き、愛称が標本を物から誰かへ変えてしまうと論じる。
かつては供養や敬意の概念がないまま、理科室に本物の人骨が置かれていた、とも書いている。
愛称のくだりは、筋が通っている。
名前をつけた骨は、もう物とは呼びにくい。
一方で、後ろめたさが祟りの話に変わったという流れは、確かめる資料がなかった。
筆者はそこを事実として扱わない。
ムーの記事によれば、「本物の骨を使っている」という怪談は多い。
その場合の骸骨は、供養を求めてさまよったり、泣き声を響かせたりするという。
現実に出てきたのは、頭蓋骨であり、全身骨格であり、ホルマリン漬けの脳だった。
夜の廊下を歩いた模型は、一体もいない。
怪談と現実のずれが、ここにある。
夜歩く人体模型は、教材として作られた模型だ。
本物の骨は、棚の奥や箱の中に、ただ誰にも気づかれずに置かれていた。
歩く怪談と、歩かない骨。
筆者の見立てを書く。
2018年の報道が怪談を本当にしたというより、もともとあった「本物かもしれない」という疑いに、数字と学校名がついたのだ。
疑いの種は、明治の医学校と昭和のインド輸入に、実際にあった。
怪談が先か、実物が先かは、わからない。
国の目録に載っているかぎり、模型は理科室に立つ
1953年8月8日、理科教育振興法が公布された。
施行は翌1954年4月。
国は、理科の設備が政令の基準に届かない公立や私立の学校に、基準まで高める費用の半分を補助すると定めた。
条文に、人体模型の名前は出てこない。
けれど、文部科学省の教材整備指針には、人体の模型が例示されている。
小学校の指針は人体骨格、人体解剖、筋肉付きの腕の骨格、胎児発育などを挙げた。
中学校の指針も、人体解剖や人体骨格、脳、心臓、じん臓の構造などを並べる。
指針の一部改訂は、令和元年。
理科教育設備整備費等補助金の交付要綱は、補助対象経費の2分の1を国が持つと定める。
沖縄は4分の3。
小学校なら取得価格が1組1万円未満の設備は対象から外れる、とも書かれている。
安い備品は、そもそも対象に入らない。
誰が得をして、模型は残るのか。
筆者の見立ては、こうだ。
国の目録に載り、補助の対象になる設備は、学校が買い続ける理由を持つ。
目録に載り続けるかぎり、模型は理科室から消えにくい。
怪談の側から見れば、毎年、新しい子どもに会える棚が確保されているわけだ。
島津製作所の標本部は、1895年の発足後に人体模型を手がけた。
教材として入った模型が、怪談の主役として残る。
筆者は、これを国と怪談の奇妙な共存と見る。
2022年7月11日の官報は、鹿児島市の中学校で、推定10代から20代前後の女性の頭蓋骨が見つかったと伝えた。
官報によれば、2021年8月5日に甲東中学校の1階倉庫で見つかり、すでに火葬されて市営墓地に埋葬されている。
弁護士ドットコムの取材に、校長は、2階の理科室から出たと聞いていると答えた。
用途は理科の標本だろうが、実際には使っていなかったのではないか、とも話している。
骨は、段ボールのような箱の中で、新聞紙にくるまれていたという。
校長は、推測だと断ったうえで、近くにあった市立病院から渡ったのではないかという話にも触れた。
鹿児島市立病院は、病院史を調べたが、骨が渡った事実は確認できなかったと回答した。
使われないまま箱に収まっていた骨の来歴は、今もつながっていない。
