- 八分前に、小さな揺れがあった
- 塀の下から出てきた、十八という数字
- 卸町のビルが潰れ、緑ケ丘の地面が動いた
- 遠見塚と旭ケ丘、二つの町の倒壊率
- 高さ3メートルが2.2メートルになった日
- 「既存不適格」という、終わらない猶予
- 2018年6月18日、午前7時58分34秒
- もう一人、塀の下で亡くなった人がいる
- 3.5メートルの塀は、最初から違法だった
- 3年前に、指摘はあった
- 塀の中には何が詰まっていたか
- 刑事責任は、どこにも着地しなかった
- 「天災だ」と「人災だ」のあいだで起きた議論
- 一斉点検が掘り起こした、12,652という数字
- それでも民間の塀は減らない
- ここから先は、塀の跡地で語られている話
- 「不謹慎だ」と怒鳴られるところから始まる
- なぜ、四十年後に同じことが起きたのか
- 塀は、まだ立っている
八分前に、小さな揺れがあった
1978年6月12日、月曜日。仙台の空はまだ明るかった。
午後5時6分ごろ、市内の人たちは軽い揺れを感じている。震度2ほどの、たいしたことのない揺れだ。台所に立っていた人は、条件反射でガスの火を止めた。テレビの前でくつろいでいた人は、顔を上げて、また戻した。その程度の揺れだったのだ。
その8分後、午後5時14分。宮城県沖の深さおよそ40キロで、マグニチュード7.4の地震が起きた。
仙台市内で観測された震度は5。今の階級でいえば5強から6弱に相当する。当時の日本には、人口50万を超える都市が直下に近い強い揺れを食らった経験がほとんどなかった。のちにこの地震が「都市型地震災害の典型」と呼ばれるようになるのは、そのためだ。
揺れている最中、仙台の街で何が起きていたか。映画館では支配人が「外へ出すな」と指示を出した。隣のビルとの間に60センチの隙間があって。そこに垂直の避難梯子が下がっていたのだが、余震のさなかに梯子を降りるほうが危ないと判断したのだ。別の映画館の前を通りかかった人は、ビルの屋上から貯水タンクの水が落ちてくるのを見ている。
その下にいた人たちが悲鳴を上げて走り出した。
信号も車も全部止まっていて、傷だらけの人たちが「おかあさぁーん」と泣きながら交差点を走っていった、という証言が残っている。
アーケード街の文具店では、店長が「そのまま店内でお待ちください」と客に声をかけた。店の外には大きな電球がぶら下がっていて、そっちのほうが危ないと分かっていたからだ。日ごろから社長に「建物は土台がしっかりできているので、かえって通りに出たほうが危ない」と言われていたらしい。
要するに、屋内にいた人たちは、わりと守られた。
守られなかったのは、外にいた人だ。
塀の下から出てきた、十八という数字
宮城県のまとめによると、県内の死者は27人。福島県でも石塀の倒壊で1人が亡くなっていて、合わせて28人という数え方をされることが多い。
問題は内訳だった。
県の災害概況では、こんな具合に並ぶ。ブロック塀の倒壊によるものが10人、石塀と門柱の倒壊によるものが6人。家屋の倒壊によるものが5人、記念碑や屋根や土砂の下敷きによるものが5人。地震のショックによるものが3人だ。
地震のあと現地を歩いた調査チームがある。名古屋大学系の、谷口仁士らによる1979年の被害調査報告だ。ブロック塀・石塀・門柱・石碑による圧死者が死者27人中18人。比率にしておよそ69パーセントに達したと書いている。
つまり、家が潰れて死んだ人より、塀が倒れて死んだ人のほうが圧倒的に多かった。
これは当時の常識をひっくり返す数字だった。それまでの大地震では、死因のトップは家屋の倒壊か、それに伴う焼死か、斜面の崩壊だったわけだ。塀なんてものは、地震被害の勘定に入っていなかったのだ。専門家すら、ほとんど注意を払っていなかった。同じ報告書に「比較的注意がはらわれていなかった小構造物の下敷によるもの」という、いかにも学者らしい、それでいてどこか呆然とした書き方が残っている。
年齢の内訳を見ると、もっと嫌な感じになる。県のまとめでは、幼児と小学生が9人、60歳以上の高齢者が11人。つまり死者の大半が、子どもか年寄りだった。
仙台市の公式な記録では、現在の市域(当時の泉市・宮城町・秋保町を含む)で死者16人、重軽傷者10,119人。そのうち11人がブロック塀の倒壊で亡くなっている。地元放送局が45年後に当時の映像とともに伝えたところでは、宮城県内でブロック塀の犠牲になった10人のうち、5人が小学1年生から3年生の児童だった。
5時14分。学校はとっくに終わっている。塾に行く途中か、友だちの家からの帰りか、自転車で遊びまわっていたか。低学年の子どもが、まだ外にいて当たり前の時間だった。
そして塀というのは、大人の胸から上くらいの高さで倒れてくる。小学1年生の目線は、その真下にある。
卸町のビルが潰れ、緑ケ丘の地面が動いた
ついでに書いておくと、1978年の宮城県沖地震はブロック塀だけの地震ではない。
仙台市の卸町団地では、286社の社屋のうち3社が全壊、262社が半壊した。原町苦竹や卸町では、鉄筋コンクリート造の3階建てや4階建てのビルが、せん断破壊で1階を潰されて倒れている。倒れたビルの多くが1階を柱だけにしたピロティ形式だったことは、当時の調査者たちに強い印象を残した。
丘陵地の造成地では斜面が崩れた。南光台、緑ケ丘で家屋の倒壊が相次ぎ、緑ケ丘地区の崩壊土砂量は1万立方メートル規模と推定されている。この地区はのちに集団移転が実施された。名取川の河口、石巻市内、福島県北部の亘理町周辺では液状化が起きた。東北石油の仙台製油所では屋外タンクが破損して重油が流出し、橋梁の被害は宮城県内だけで95カ所にのぼったのだ。
ライフラインの止まり方も、都市型災害の教科書のようだった。電気は全面供給停止から1日で85パーセント、2日でほぼ全面復旧。水道は約7千戸が断水して8日でほぼ復旧。都市ガスはガスホルダーと導管をやられて全面停止し、4日目で0.3パーセント、99パーセントまで戻るのに27日かかった。
停電で信号機が全部消え、夕方のラッシュと重なって、仙台駅前では午後11時ごろまで、国道45号線では11時半ごろまで渋滞が続いた。
被害額はおよそ2700億円。当時の宮城県の年間予算に匹敵する額だったという。
それだけの被害を出した地震の、いちばん大きな教訓として残ったのが、塀だった。ビルでも造成地でもなく、あの灰色の、誰も構造物だと思っていなかった壁だ。そこが、この地震のいちばん奇妙で、いちばん重要な点だと思う。
遠見塚と旭ケ丘、二つの町の倒壊率
この地震のあと、東京都立大学の望月利男らが仙台市内でブロック塀の悉皆に近い調査を行い、1980年に報告をまとめている。地味だが、いま読むと背筋が寒くなる資料だ。
彼らは、倒れた塀と残った塀を並べて比較した。旭ケ丘という高台の造成地では、調査した200件のうち倒壊は24件で12パーセント。遠見塚(一部南小泉を含む)では、65件のうち17件が倒れて26パーセント。同じ市内でも、地形と地盤で倒壊率が倍以上違った。人工的に平らにした造成地の平均が5.51パーセント、旧広瀬川低地の平均が14.29パーセント。
地面がやわらかいところほど、塀がよく倒れた。
面白い(と言っていいのか分からないが)のは、擁壁の上に載った塀のほうが、地面に直接立つ塀より被害が小さかったという結果だ。当時は逆だと言われていた。理由は単純で、擁壁の上に立てる塀は、たいてい低い。旭ケ丘の調査では、7段積み以上の比率が、地盤上では63パーセントなのに擁壁上では29パーセントしかなかった。高くないから倒れにくい。
それだけの話だ。
そして報告の結論部分に、こう書かれている。倒壊をまぬがれて残っているブロック塀も、そのほとんどが建築基準法の規定を満たしていない、と。
欠陥の多い塀はこの地震で淘汰された。でも、生き残った塀も大半は違法だった。ただ、その場所の揺れがそこまで強くなかったというだけで。
報告はさらに踏み込む。全部を補強するのは無理だろう。基準に大きく抵触するレベルの低いほうから、10パーセントから30パーセント程度に絞る。それも通学路などに限定すれば、比較的現実的な対応がとれるはずだ、と。
1980年に書かれた文章だ。通学路のブロック塀に絞って対策しろ、と。
この提言が実現していれば、と考えたくなるが、話はそう簡単でもない。それは後半で書く。
高さ3メートルが2.2メートルになった日
宮城県沖地震のあと、国は動いた。ここは事実として押さえておきたい。
そもそもブロック塀に関する規定は、建築基準法施行令のなかにある。1950年(昭和25年)に制定された当初の施行令61条は「組積造のへい」について、高さは3メートル以下、壁の厚さは頂部までの垂直距離の10分の1以上、長さ4メートル以下ごとに控え壁、と定めていた。れんが積みや石積みの塀の話だ。
鉄筋で補強するコンクリートブロックの塀が条文として独立するのは、それから20年後になる。1970年(昭和45年)の政令333号、施行は1971年(昭和46年)1月1日。ここで施行令62条の8「へい」が新設された。高さは3メートル以下、壁の厚さは15センチ(高さ2メートル以下なら10センチ)以上、壁頂と基礎には横に、端部と隅角部には縦に、径9ミリ以上の鉄筋を配置。
壁の中には径9ミリ以上の鉄筋を縦横80センチ以下の間隔で。長さ3.2メートル以下ごとに控え壁。基礎の丈は35センチ以上、根入れの深さは30センチ以上。
同じ改正で、組積造の塀は高さ3メートルから2メートルに下げられ、基礎の根入れ20センチ以上が加わった。
つまり、宮城県沖地震の7年前に、ブロック塀の基準そのものは一応できていた。できていたのに、仙台の塀は倒れたわけだ。望月らの調査が示したとおり、残っていた塀のほとんどが基準を満たしていなかったからだ。そもそも塀を積むのに建築確認が要るという意識が、施主にも施工者にも乏しかった。
そこに宮城県沖地震が来て、18人が死んだ。
改正は1980年(昭和55年)の政令196号として公布され、1981年(昭和56年)6月1日に施行された。この日付にピンとくる人もいると思う。いわゆる新耐震基準の施行日と同じだ。建物の耐震設計が根本から書き換わったあの大改正のなかに、塀の条文も入っていた。
変わったのはこうだ。補強コンクリートブロック造の塀の高さは、3メートル以下から2.2メートル以下へ。控え壁の間隔は3.2メートル以下ごとから3.4メートル以下ごとへ(こちらは実務に合わせて少しゆるめられている)。組積造の塀の高さは2メートル以下から1.2メートル以下へ、と大幅に引き下げられた。
鉄筋の末端をかぎ状に折り曲げて定着させる規定も、縦筋を径の40倍以上基礎に定着させる場合のただし書きとともに整理された。
2.2メートルというのは、標準的なブロックを10段積んだ高さにあたる。それより上は積むな、というのが1981年に国が出した答えだった。
この数字は、いまも変わっていない。2000年(平成12年)の政令312号、2001年(平成13年)1月6日施行で、構造計算による適合の道が国土交通大臣の定める基準にひもづけられ、条文の表記が「へい」から「塀」になった。だが、2.2メートル、控え壁3.4メートル、鉄筋9ミリ、根入れ30センチという骨格はそのままだ。
だから話はここで終わるはずだった。基準ができた。子どもが18人死んだ代償として、基準ができたのだ。あとはそれを守っていけばいい。
「既存不適格」という、終わらない猶予
終わらなかった理由は、一言でいえば既存不適格という仕組みにある。
建築基準法は、法令が改正されても、すでに建っているものを直ちに違法とはしない。改正前の基準で適法に造られたものは「既存不適格」という扱いになる。建て替えや大規模な改修をするときに現行基準へ合わせればよい、とされる。財産権との折り合いをつけるための、まっとうな制度だ。
ただしこれ、塀と相性が最悪だった。
塀は建て替えられない。家は30年か40年で建て替わるが、塀はそのまま残る。むしろ家を建て替えるときに、外構だけ「もったいないから」と残されることすらある。しかも塀には持ち主がいて、その持ち主にとっては、倒れるまで何の不都合もない構造物だ。高さを削れば目隠しにならなくなる。
撤去には金がかかる。取り換えてもうれしいことは何もない。壊れていないものを直す動機が、どこにもない。
そのうえ、1981年より前に積まれた塀の多くは、そもそも当時の基準にすら適合していなかった。既存不適格ですらなく、最初から違反だったものが、時間の経過で「古い塀」という顔をして風景に溶け込んでいく。
学校も例外ではなかった。いや、学校はもっとややこしい。1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災を受けて、国は学校施設の耐震化に大きな予算をつけてきた。校舎と体育館だ。子どもが1日の大半を過ごす場所で、災害時には避難所にもなる。
そこを優先するのは、まったく合理的な判断だった。
その結果、塀は後回しになった。文部科学省が進めてきた耐震化の対象は校舎や体育館であって、ブロック塀は入っていない。校舎の耐震診断の書類には、敷地の塀の欄がない。予算の費目にもない。誰も塀を担当していなかった。
建築基準法12条に基づく定期点検という制度はある。一定の建築物について、所有者が定期的に調査して特定行政庁に報告する仕組みだ。しかしこれも、専門家によるチェックというより、外観の目視と打診が中心になる。そして後で見るように、外観からは分からないものが、塀の中には詰まっている。
1978年の18人と、1981年の改正と、その後の40年。制度は一度だけ大きく動いて、それきり止まっていた。
2018年6月18日、午前7時58分34秒
朝だった。
大阪府北部、北緯34度50.6分、東経135度37.3分、深さ13キロ。マグニチュード6.1。気象庁が最初の地震波を検知してから3.2秒後、7時58分41.9秒に緊急地震速報が出ている。最大震度6弱を観測したのは、大阪市北区、高槻市、枚方市、茨木市、箕面市。震源のすぐ近くには有馬・高槻断層帯が東西に走っている。
通勤と通学の、いちばん人が外にいる時間だった。
大阪府高槻市の市立寿栄小学校。校舎の北側に、道路に面したプールがある。そのプールの外周に、高さ約1.9メートルのコンクリートの擁壁が立ち、その上にコンクリートブロックが8段、約1.6メートル分積み上がっていた。道路から見上げると、全体でおよそ3.5メートル。長さはおよそ40メートル。
灰色の、なんの変哲もない、どこの学校にもありそうな塀だった。
塀の下、道路側には、緑色に塗装された歩行帯がある。グリーンベルトと呼ばれる、通学路の標示だ。車道と歩く場所を色で分けて、子どもを守るためのものだ。
その朝、4年生の女子児童が、そこを歩いていた。
彼女は児童会の代議員で、6月11日から2週間、登校してくる子たちにあいさつを呼びかける当番に当たっていた。だからいつもより10分ほど早く家を出ていたのだ。普段は1年生の弟と一緒に登校するのだが、この日は1人だった。
午前7時55分ごろ、通学路で見守り活動をしている68歳の男性に「行ってきます」と声をかけている。男性は「行ってらっしゃい」と返した。
その約3分後に、地震が来た。
擁壁とブロックの接合部分が折れ、塀は板のような一枚のかたまりのまま、道路側へ倒れたのだ。東端のわずかな部分だけがプール側に倒れ、残りは全部、通学路の上に落ちた。彼女がいたのは、校門まであと20メートルほどの地点だったという。
「女の子が壁の下敷きになった」。ほかの女児からの一報を受けて、学校の警備員たちが駆けつけた。塀を持ち上げようとしたのだ。上がらなかった。隣接するコミュニティセンターの男性職員も呼ばれて手をかけたが、やはり動かない。
「ジャッキがない」「防災庫の鍵はどこだ」。教職員や消防団員が次々に集まってきて、現場では大声が飛び交った。
あとから第三者委員会が試算したところによると、長さ1メートル、高さ1メートルぶんのブロック塀の重さは、鉄筋やモルタルを含めて約250キロ。倒れた40メートルぶんの総重量は、およそ16トンだったとみられている。
人間の手で持ち上がる重さではない。
救急隊が到着して救出し、病院へ搬送された。心肺停止の状態だった。9歳だったのだ。
もう一人、塀の下で亡くなった人がいる
同じ朝、大阪市東淀川区上新庄でも人が死んでいる。
80歳の男性が、民家のブロック塀の下敷きになった。彼は地元の市立小学校の児童の登下校を見守るボランティアを、20年ほど続けていた。杖をつきながら毎朝立っていた人だという。その日も、見守りの場所へ向かう途中だった。
一緒に歩いていたもう1人の男性も巻き込まれ、足に大けがを負ったが救出された。倒れた塀は男性の胸に落ちたのだ。近所の人が心臓マッサージをしたが、助からなかった。
その塀は石づくりで、30年から40年前からそこにあった。1995年の阪神・淡路大震災のときは、何ともなかったという。家主の女性は「台所にいたらどーんという大きな音がしてから揺れがきた」「お隣の人が『塀が崩れていますよ』と教えてくれて、初めて気づきました」と語っている。後に現場を見た人によると、残された基礎に鉄筋を通した穴は一つもなかった。
子どもを守るために立っていた人が、子どもを守るはずの通学路で、塀に殺された。
この地震による死者は最終的に6人(災害関連死1人を含む)、負傷者は400人を超えたのだ。そのうち2人が、ブロック塀の下敷きだった。
3.5メートルの塀は、最初から違法だった
高槻市は当日の夜に記者会見を開き、塀が建築基準法に適合していなかったことを認めている。
高さ3.5メートルは、施行令62条の8が定める2.2メートル以下を大きく超えていた。高さ1.2メートルを超える塀に義務づけられる控え壁も、一つもなかった。基準の数値を知らなくても、写真を見ればわかる。40メートルにわたって、垂直の板が一枚立っていただけだ。支えがない。
設置された時期については、当初、説明が揺れた。市は「遅くとも1977年」と言い、近隣住民は「20年ほど前に、プールが外から丸見えなのを女の子が嫌がるので目隠しとして積み増した」と証言し、報道もそのように伝えた。
決着をつけたのは、のちに第三者委員会が掘り出した1枚の写真だったわけだ。国庫補助金の申請関係書類のなかに、プール竣工当時の写真が残っていたのだ。それを見ると、ブロック塀はプールと同時に存在していた。塀は1974年、学校のプールが造られたときに、擁壁の上に一体で積まれていたことになる。
1974年。施行令62条の8は1971年に施行済みだ。当時の基準ですら高さは3メートル以下と決まっていた。3.5メートルは、その時点で違反だった。控え壁の規定も、当時からあったのだ。
つまりこの塀は、既存不適格ですらない。1981年の改正を待つまでもなく、造られた日から違法だった。そして違法な塀が、公立小学校の敷地で、通学路に面したまま、44年間立っていた。
3年前に、指摘はあった
ここが、この事故のいちばん苦しいところだ。
2015年11月、寿栄小学校で防災の講演が行われた。招かれた防災アドバイザーが、校内を見て、あのブロック塀の危険性を学校側に指摘している。約1カ月後には、改めてメールを送っている。1981年の法改正より前に造られたブロック塀には特に注意が必要だ、と念を押す内容だった。
学校はすぐには点検しなかった。翌2016年2月、別の用事で学校を訪れた市教育委員会の職員に、塀を確認してほしいと依頼したのだ。職員2人はその日のうちに、目視と打音による簡易な点検を行った。ひび割れ、傾き、劣化。どれも確認されなかった。
「問題なし」と判断された。
この2人は技術職ではあったが、建築士などの資格は持っていなかったのだ。控え壁がないことにも、高さが基準を超えていることにも、気づかなかった。
建築基準法12条に基づく法定点検は、市の施設について3年に1回実施されていて、直近は2016年度に行われていた。ただし、塀はその報告に含まれていなかったのだ。なぜ含まれなかったのか、市教委は事故当時「原因を究明しているところだ」としか言えなかった。
事故から4日後の6月22日、市教委の幹部は記者会見で「人災の可能性は否めない」と述べている。同じ日、市教委は市立小中学校59校の緊急点検の結果を公表した。寿栄小以外に15校で、建築基準法に適合しない疑いのあるブロック塀が見つかった。そのうち11校が、寿栄小と同じく、プールの基礎の上に塀を積んだ構造だったのだ。
つまり、あれは1校の特殊な失敗ではなかった。同じ設計思想の塀が、同じ市内に十数本あった。
誰か1人が怠けたからこうなったのではない。危険を指摘する人はいたし、指摘を受けて点検した人もいた。ただ、その点検が「ひび割れと傾きを見る」ことだと全員が思い込んでいて、「そもそもこの高さは合法なのか」を誰も測らなかった。組織のなかで、塀の合法性を確かめる役割が誰にも割り当てられていなかったのだ。
塀の中には何が詰まっていたか
高槻市は2018年7月、外部の専門家による学校ブロック塀地震事故調査委員会を設置した。委員長は関西大学の防災研究者。10月29日に答申が市長に提出され、調査報告書は170ページ近くになった。
報告書が明らかにした塀の中身は、想像よりひどかった。
倒壊の主な原因は、塀の脚部、つまり擁壁とブロックのつなぎ目の耐力不足とされたのだ。擁壁からブロックへ立ち上がる接合筋は46カ所あったが、必要な定着長さが確保されていなかった。計算上52センチ必要なところ、平均で13.8センチ。いちばん浅いところは8センチしかなかった。
さらに、その接合筋は、コンクリートブロックの空洞のなかで縦筋と重ね継ぎ手で継がれていた。施行令62条の6は、縦筋をブロックの空洞部内で継いではならないと明確に禁じている。溶接すれば継いでもよいという例外はあるが、この塀は溶接されていなかった。
接合筋には著しい腐食が見られ、13カ所は地震で破断したと推定された。そしてもう一つ、報告書は「台直し」と呼ばれる施工の痕跡を数多く見つけている。ブロックの空洞の位置と鉄筋の位置が合わないとき、現場で鉄筋を曲げて無理やり合わせることだ。設計でそんな指示が出るはずがない。つまり現場での施工不良である、と委員会は結論づけた。
そして答申は、いちばん重い一文を残した。
これらの不良箇所はブロック塀の内部構造にかかわるもので、外観目視など通常の点検手法では確認できない。法令に定められた範囲の点検に限った場合、この塀の安全性を確認することは不可能だった。したがって、法令に従って適切に点検していたとしても、地震によるブロック塀の倒壊が完全に防げるわけではない。現状、塀の大部分を破壊検査する以外に、所要の安全性を確認する方法はない。
だから、と答申は続ける。ブロック塀は、いかに適法に設置されていようとも、鉄筋コンクリートより経年劣化が早いと想定される。だから速やかに撤去して、より危険性の少ない囲障に更新するほうが優先される。そう考えるべきである、と。
点検を強化しろ、ではない。塀をやめろ、という結論だった。
同じ委員会は、寿栄小の塀に見られたような内部の劣化は他校でも確認されている。この学校だけの希少な事例と捉えるべきではない、とも書いている。実際、大阪府北部地震で倒れたのは寿栄小の塀だけだった。だがそれは、地震動の特性や震央からの距離や敷地の地盤構成といった、いくつもの偶然が重なった結果にすぎない。
高槻市は2018年11月5日、市の公共施設には今後ブロック塀を設置しないこと、既存のものはすべて撤去することを表明した。市長を4カ月の減給10分の1、副市長2人と教育長を2カ月の減給10分の1とする議案も、市議会に提出された。
刑事責任は、どこにも着地しなかった
大阪府警は事故の直後から、業務上過失致死の容疑で捜査を続けていたのだ。
だが、この容疑で立件するには、組織ではなく個人について、注意義務と予見可能性を立証しなければならない。誰が、いつ、何を予見できて、何をすべきだったか。それを特定の個人に結びつける必要がある。
塀は44年前に造られていた。施工した業者はすでに解散していて、担当者を特定できなかった。設計図などの文書は、市が定める保存期間を過ぎていて残っていなかったのだ。第三者委員会は構造の不備は認定したが、設計と施工のどちらに原因があったかまでは判断しなかった。判断する材料がなかったからだ。
2019年12月20日、府警は当時の市教委の幹部ら4人を業務上過失致死の疑いで書類送検した。施工業者については、容疑者不詳のまま送検されている。
そして2020年3月30日、大阪地方検察庁は、書類送検された4人全員を不起訴とした。理由は嫌疑不十分。起訴するに足りる事実認定ができなかった、という説明だった。
民事のほうは、もっと早く動いている。事故から3カ月あまりの2018年9月25日、市は遺族に解決金を支払って和解するための議案を市議会に提出し、可決された。金額は公表されていない。市長は市の管理責任を認めて謝罪している。
刑事責任を追及しきれなかったことについて、いろいろな受け止め方があるだろう。ただ、ここで書いておきたいのは、刑事罰というものが、個人の過失を切り出して罰する道具だということだ。44年間かけて何十人もの人が少しずつ見落とし、誰も引き継がず、誰も測らなかった結果として子どもが死んだとき、その全体を引き受ける被告人は存在しない。
制度の失敗は、法廷に出頭できない。
「天災だ」と「人災だ」のあいだで起きた議論
事故の直後から、ネット上では激しい言い合いが起きた。いま振り返ると、あの議論には典型的なパターンがいくつかあった。
まず出たのが「震度6弱なんだから天災だろう、学校を責めるのは酷だ」という意見だ。これは地震直後の数時間、つまり塀の寸法がまだ公表されていない段階で一定の支持を集めた。しかし当日の夜に市が高さ3.5メートルと控え壁なしを認めた時点で、この主張はほぼ消えた。2.2メートルという数字が明示されている以上、議論の余地がなかったからだ。
次に来たのが「なぜ点検で見抜けなかった」という点検業者と市教委への批判で、これは実際に書類送検にまでつながった。ただ、その批判にも反証がつく。第三者委員会が明らかにしたように、致命傷になったのは擁壁への鉄筋の定着長さと空洞内の重ね継ぎ手である。これは塀を壊さないと見えない。
仮に有資格者が丁寧に外観点検をして、高さ超過と控え壁なしを指摘する。それに基づいて補強していたとしても、脚部が同じままなら同じように折れていた可能性は残る。「ちゃんと点検していれば防げた」という言い方は、半分は正しく、半分は幻想だった。
三つめに出たのが、もっとも過激で、もっとも筋の通った意見だ。既存不適格という制度をやめて、基準を遡って適用し、違反している塀は全部撤去させればいい、という主張である。
これには具体的な反証が立つ。まず、所有者の数が多すぎる。学校や役所の塀なら設置者が明確だ。だが、住宅の塀は個人の財産で、しかも相続や空き家化で所有者が分からなくなっているものが相当ある。次に費用だ。
補助制度を見ればわかるが、撤去だけで1メートルあたり9千円から1万3千円、フェンスへの建て替えまで含めると1メートルあたり数万円かかる。
高槻市が市立小中学校だけで撤去した塀の総延長は約13.3キロだった。
これを全国の民家に広げたときの総額と工期を考えると、法律で命じても物理的に追いつかない。
そして第三の反証がいちばん身も蓋もない。仮に全部撤去を命じたとして、命令を出すのは自治体の建築部局で、その人員は今の点検業務でもすでに手いっぱいなのだ。制度を厳しくしても、執行する人間がいなければ紙の上の話で終わる。
結局、国が取った選択は折衷案だった。避難路の沿道にある一定規模以上の塀だけを耐震診断の義務付け対象に加え、それ以外は補助金と啓発で自主的な撤去を促す。強制と放任のあいだで、いちばん行政コストの低いところに線を引いた。
この線引きが正しかったかどうかは、まだわからない。わかるのは、次に強い地震が来たときだけだ。そして、そのときにまた人が死んだら、たぶん同じ議論がもう一度起きる。
一斉点検が掘り起こした、12,652という数字
事故の翌日、文部科学省は全国の学校設置者にブロック塀等の安全点検を要請した。官房長官が点検を指示したのが事故当日。そこから全国が一斉に動いた。
2018年8月10日に公表された結果は、たいがいの人にとって予想外だったと思う。
調査対象は国公私立の幼稚園、認定こども園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校の計51,082校。このうちブロック塀等を持つ学校が19,953校。外観に基づく点検が完了していたのが19,421校で、塀を持たない学校と合わせて98.1パーセントが点検済みとされた。
そして、安全性に問題があるブロック塀等を有する学校が、12,652校。
全学校の24.8パーセント。約4分の1だ。塀を持っている学校に限れば、6割以上で問題が見つかったことになる。応急対策が完了したのは10,140校で、問題のある学校の80.1パーセント。内部の点検が必要とされた9,535校のうち、点検が完了していたのは2,635校、27.6パーセントにとどまった。
文科省は「安全性に問題がある塀が多い印象を受けた」とコメントし、背景として、阪神・淡路や東日本を受けて校舎本体の耐震化が優先されてきたことを挙げた。予算と人手を校舎に集中させた結果、敷地の外周が置き去りになった、という自己診断だ。
なおこの数字は、外観からの点検だけによるものだ。つまり高さ、厚さ、控え壁、基礎、傾きやひび割れという、目で見て分かる範囲。第三者委員会が「外観では分からない」と言った内部の鉄筋については、ほとんど手つかずだった。12,652という数字は、たぶん、氷山の見えている部分でしかない。
その後、撤去と改修は進んだ。2020年9月1日時点では、全学校51,082校のうち75.3パーセントにあたる38,477校が「塀がない、または撤去済み」、16.3パーセントにあたる8,320校が「改修によるものを含む安全確認済み」で、合計91.6パーセントが安全対策を実施済みとなった。事故前におおよそ6割だったと言われる水準からすれば、たしかに大きく前進している。
制度も動いた。2018年11月30日に公布された建築物の耐震改修の促進に関する法律施行令の改正政令(平成30年政令323号)が、2019年1月1日に施行されている。地震で倒壊したら避難路をふさぐおそれのある「通行障害建築物」に、建物に附属する一定規模以上のブロック塀等が追加された。
前面道路に面する長さが25メートルを超え、高さが一定の算定値を超えるものが対象だ。自治体が耐震改修促進計画に定めた避難路の沿道にあれば、所有者に耐震診断とその結果の報告が義務づけられる。
塀が、初めて「耐震化の対象物」として法律の文面に載った。1978年から数えて41年目のことだ。
それでも民間の塀は減らない
問題はここからだ。
学校の塀は、設置者が自治体だから撤去できる。予算をつけて議会を通せば済む。高槻市は市立小中学校のブロック塀を、総延長にして約13.3キロ、2022年度末までに全部撤去した。公民館などその他の市有施設についても、高さ80センチ以上のものは2022年度までにおおむね撤去する。2028年度までに完了する見込みだらしい。
民間の塀は、そうはいかない。
高槻市は民間所有のブロック塀の撤去にも補助金を出している。1平方メートルあたり1万3千円、上限300万円。同じような制度は全国の自治体にある。呉市は通学路や緊急輸送道路に面する塀の除却に3分の2、上限15万円。鳥取県は避難路沿いの塀に3分の2、上限30万円。
大垣市も、新発田市も、川口市も、城里町も、藤枝市も、それぞれ要綱を作って窓口を開いている。
それでも申請は伸びない。
高槻市の担当者は2026年の取材に対して、地震直後は「自分のところで人が亡くなるような事故があったらどうしよう」という危機意識が高かった。だが、時間の経過とともに当事者意識が低くなっている、と語っている。市は2026年度に申請100件、補助額2600万円を目標に掲げ、職員が一軒ずつ訪問して説明した。留守なら資料を投函するという、ひたすら地道な周知に切り替えた。「根気強く説明を続けていくしかない」。
塀の持ち主にしてみれば、当たり前の話なのだ。自分の塀は倒れたことがない。1995年の地震でも無事だった。上新庄の塀と同じだ。無事だったという事実が、安全であることの証明のように感じられてしまう。
そして2024年1月1日、能登半島地震が起きた。輪島市内にはブロック塀の倒壊が多数あった。現地に入った調査者は、無筋のブロック塀は耐震性能がないから倒れる。それは人が巻き込まれた瞬間だけ注目されてすぐ忘れ去られる。そしてまた無筋のブロック塀はつくり続けられている、と書いている。
2月10日、七尾市で、がれきを片付けていた60代の男性が倒れてきたブロック塀の下敷きになった。高さ1メートル30センチ、幅3メートル30センチの塀だった。搬送先で亡くなっている。石川県は災害ボランティアセンターに対し、活動場所の建物に倒壊のおそれがないか建築士の助言のもとで事前調査するよう求めた。
1978年、2018年、2024年。塀は、律儀に人を殺し続けている。
ここから先は、塀の跡地で語られている話
さて、ここまでは制度と数字の話だった。
ここから先は、そうではない話をする。地震で人が死んだ場所には、かなりの確率で、あとから別の種類の話が生えてくる。幽霊の話だ。
これは日本に限った現象ではないが、日本ではとりわけ記録が残っている。文芸評論家の東雅夫によれば、1923年の関東大震災のあとにも、実話をもとにした震災怪談が作品になっている。怪談は死者の話を生きている人が書いて生きている人が読む。亡くなった人の物語を生者が言葉にして、語り、共有することで、鎮魂や供養になる、という趣旨のことを東は述べている。
東日本大震災のあとはもっと明確だった。東北学院大学の金菱清ゼミが2016年1月に刊行した『呼び覚まされる霊性の震災学』の第1章は、学生の工藤優花がまとめた石巻のタクシードライバーの幽霊現象である。彼女は1年間で300人から400人に話を聞き、そのうちタクシー運転手はおよそ100人。あやふやなものを含めて証言したのが15人ほど、確信を持って断言したのは運転手4人だけだった。
その4件には共通点がある。目撃された人物が、全員、季節外れの冬服を着ていた。8月の深夜に厚手のコート。真冬の格好の小学生くらいの女の子。運転手にとっては、3月11日の記憶が身体の底にあるから、冬服イコールあの日、という回路が勝手につながってしまうのだろう、と工藤は分析している。
もう一つ、この調査が興味深いのは、証拠が残っているという点だ。タクシーは客を乗せた時点でメーターを実車に切り替える。消えた客のぶんは無賃乗車として運転手が自腹で肩代わりする。だから記録が残る。
宗教学の側からも研究が出ている。堀江宗正と高橋原の『死者の力』は、津波被災地の霊的体験を地域ごとに比較した。岩手のある市では、信号待ちで停車すると親子連れや大勢の人が海のほうへ横断歩道を渡っていき、渡り終えるのを待っていたら後続車に「青信号だぞ」と怒られ、気づくと誰もいない、という「信号待ち怪談」が知られていた。同じ市では「亡くなった人はどこにも行っていない。ここにいる」と語る人が多かった。
一方、宮城のある市では、浸水域の入り口のコンビニで誰もいないのに自動ドアが開き、足跡がつき、店員が辞めてしまって一時閉鎖に追い込まれた、という「コンビニ怪談」が語られていた。こちらの市では、死者が「ここにいる」と答えた人は1人もいなかったのだ。墓は津波で壊れ、寺の住職は避難し、住民はかさ上げか移転かで対立していた。死者の居場所も、生者の居場所も定まっていなかった。
同じ災害でも、死者を送り出す儀礼が残っている土地では死者は「身近な霊」として語られ、儀礼が壊れた土地では「未知の霊」として恐れられる。怪談の形は、その土地が死をどう処理できたかを映す。
そしてもう一つ、この話には学校という舞台装置が絡んでくる。常光徹が1990年に講談社KK文庫から出した『学校の怪談』。そして口承文芸の研究としてまとめた同名の著作は、子どもたちが学校という空間で怪談を作り、語り継ぐ構造を明らかにした。村の古老から昔話を聞く機会が消えていった時代に、語りの場として現れたのが学校だった、というのが大筋の見立てだ。
学校にまつわる怪異の記録はもっと古く、1902年ごろに熊本の学校でトイレから手が出ておしりをなでる話、1912年に岩手の小学校にざしきわらしが出た話が残っている。
学校がある。通学路がある。子どもが死んだ場所がある。献花台がある。
怪談が生えないほうが、むしろ不自然なのだ。
夕方五時過ぎ、角を曲がると誰かが立っている
以下に紹介するのは、ネット上の掲示板や怪談投稿、地元の語りとして流通している話を、こちらで文章の形に整えたものだ。場所や人物を特定できる情報は意図的に落としている。実話かどうかを検証する手立てはない。そういうものとして読んでほしい。
一つめは、東北のとある住宅街の話。
語り手は、1970年代の終わりにその町で小学生だった男性の、さらに次の世代にあたる人だという。曰く、自分が子どものころ、家の近所に「夕方の角」と呼ばれる曲がり角があった。丁字路で、片側が古いブロック塀、向かい側が生け垣。別に何の変哲もない。ただ、その角だけは、日が長い季節の夕方に通ると、必ず誰かが立っているように見えた。
小さい人影だという。ランドセルを背負っているようにも見えるが、色は分からない。夕方の逆光で、輪郭しか見えないのだ。近づくと消える、というより、いつの間にか「いなかったことになっている」。振り返っても誰もいない。
声をかけたという子の話は聞いたことがない。みんな、声をかける前に、なんとなく足を速めてしまう。
親にその話をすると、決まって嫌な顔をされた。あの角は昔、地震で塀が倒れたところだから、と言われて終わる。それ以上は何も教えてもらえない。ただ一度だけ、祖母が「あそこの塀の下から、子どもが出てきたのを見た人がいる」と言ったことがある。出てきた、というのが、助け出されたという意味なのか、そうでないのか、聞けなかった。
この語りが面白いのは、誰も「幽霊が出る」とは言っていないことだ。角に何かがいる、という事実の共有だけがあって、その正体については町ぐるみで言葉を濁している。1978年の6月12日、その町でも塀が倒れ、人が亡くなった。そのことを大人たちは知っていて、子どもには伝えないまま、「あの角は気をつけろ」とだけ言い続けた。禁忌は、説明を省くことで維持される。
怪談の古典的な形だ。
プール沿いの道で、フェンスが鳴る
二つめは、もっと新しい形式の話。ある地方都市の小学校の話として、SNSと掲示板の両方で流れていたものだ。
その小学校では、数年前に敷地の外周のブロック塀が全部撤去され、軽い金属製のフェンスに置き換えられた。理由は大阪の事故だ。予算がついて、夏休みのあいだに工事が終わり、9月の始業式のときには、校舎からプールのフィルターまで外から丸見えになっていた。子どもたちは「学校が裸になった」と言って笑っていたという。
話はその秋から始まる。
夜、警備の巡回でプール沿いの道を歩くと、フェンスがカタカタと鳴る。風の日ならおかしくない。だが、無風の晩にも鳴る。しかも、鳴るのはいつも同じ区間だけだった。もとのブロック塀が一番高かった、プールの北側の40メートルほど。
フェンスというのは、支柱の間隔ごとに鳴り方が変わるものだ。だが、その区間だけは、まるで誰かが向こう側から手を這わせているように、端から端まで順番に鳴っていく。
ある晩、警備員が懐中電灯を向けると、フェンスの向こう、プールの水面に、小さな手形のようなものが水滴になって浮かんでいた、という。翌朝には消えていた。
この話には、続きのバリエーションがいくつかある。もっとも流通しているのは、鳴っているのは「塀を探している音」だという解釈だ。もう塀はそこにない。ないのに、毎晩、あった場所の高さを手でなぞりに来る。だから軽いフェンスが揺れる。
怖がらせ方として、これはかなり上手い。倒れた塀が化けて出るのではなく、撤去された塀の不在が音を立てる、という構図になっている。実際に全国で1万校以上の塀が撤去され、フェンスに置き換わったという事実が、この話の下地にある。風景が一斉に書き換わった土地でだけ成立する怪談だ。
更地に立てられた花が、朝になると向きを変えている
三つめは、献花にまつわる話。塀が倒れて人が亡くなった場所には、たいてい花が供えられる。事故から数日はたくさんの花束が積まれ、やがて数が減り、命日の前後だけ増える。そうやって何年か経つ。
語り手は、そういう場所の近所に住んでいた女性だらしい。花はいつも、塀が立っていたほうを向いて置かれる。倒れた向きに背を向けて、つまり、事故の現場に正対する形だ。誰が決めたわけでもないが、みんなそうする。
ある年、彼女が朝早く前を通ると、前日に置かれていた花束の向きが、全部きれいに90度変わっていた。道路の先、子どもが歩いてきた方角を向いていたという。風で転がったのではない。倒れてもいないし、乱れてもいない。置き直したとしか思えない角度で、全部同じ方向を向いていた。
その日は驚いて、写真も撮らずに通り過ぎた。次の日、また同じことが起きたのだ。三日目には、彼女は花束の向きを元に戻してから出勤した。帰りに見たら、また変わっていた。
近所の人に話すと、「あそこはそういうことがある」と言われたのだ。ただし、怖い話としてではない。「登校の方向を見てるんでしょう」という言い方をされたという。彼女はそれ以降、花の向きを直すのをやめた。
これは、怪談としてはほとんど怖くない。むしろ、供養の話に近い。堀江らが記録した岩手の「信号待ち怪談」がそうであるように、共同体が死者をきちんと送れている土地では、怪異は恐怖ではなく、見守りや往来の形をとる。花の向きが変わるという現象は、その中間にある。
見守りの立ち位置に、誰かが立っている
四つめは、通学路の見守りボランティアをめぐる話だ。
日本中の通学路に、朝、黄色い旗を持って立っている人がいる。多くは高齢のボランティアで、何年も、何十年も、同じ交差点の同じ場所に立つ。立ち位置は決まっている。子どもから見える角度、車から見える角度、両方を満たす一点だ。
ある地域で、長年その役をつとめていた人が亡くなった。地震のときではなく、病気で。しばらく後任が決まらず、その交差点には誰も立たなくなった。
それから、朝の見守り当番に入った保護者たちが、妙なことを言い出した。交差点に着くと、自分が立つべき場所に、すでに誰かが立っている感じがする。姿は見えない。でも、そこには立てない。一歩ずらして立ってしまう。
複数の人が、示し合わせたわけでもないのに、同じ1メートルほどを空けて立っていた。
子どもたちは平気で、そこを通っていく。ある1年生が「おじちゃんにおはようって言った」と言ったという話が、保護者のあいだで回った。そのときはみんな笑った。笑ったあとで、しばらく誰もしゃべらなかったのだ。
大阪の地震で亡くなった80歳の男性は、20年ほど見守りを続けていた。杖をついて、毎朝、同じ場所へ向かっていた。この四つめの話が彼の話だと言いたいわけではない。ただ、こういう形の話が全国のあちこちで少しずつ語られている。それはたぶん、通学路というものに人がどれだけ立ち続けてきたかの裏返しなのだと思う。
誰かがいた場所には、誰かがいた形が残る。
十段目のブロックだけが、どうしても白い
五つめは、怪談としてはかなり短い。だが、この記事の題材ときれいに噛み合うので、最後に置いておきたい。
ある町の路地に、古いブロック塀があった。高さは目測でだいたい2メートル半。ブロックが13段積んである。誰が見ても高すぎるのだが、誰も何も言わない。持ち主の家は空き家になっていて、庭の木が道路まで伸びていた。
その塀の、下から10段目のブロックだけが、いつも妙に白かった。
周囲は雨だれと排気ガスで黒ずんでいるのに、その一列だけ、拭いたように白い。誰かが掃除しているわけではない。雨のあとでも、乾くと同じところが白く戻る。近所の子どもたちのあいだでは「あの白いところを触ると、次の地震で塀が倒れる」ということになっていた。もちろん誰も触らない。
大人になってから、語り手はその意味に気づいたという。ブロック1段は20センチ。10段でちょうど2メートル。建築基準法施行令が定める、控え壁も壁の厚さも基準が切り替わる高さだ。そして11段目から上、つまり2.2メートルを超える部分は、そもそも積んではいけない。
白い線が引かれていたのは、ちょうど、法律が引いた線の高さだった。
出来すぎた話だと思う。たぶん誰かが後から意味をつけたのだろう。ただ、それこそが怪談のやっていることでもある。制度の条文は誰も読まない。けれど「あの白い段を触るな」は、子どもたちのあいだで一晩で共有される。
数字を禁忌に翻訳したとき、はじめて情報は人の身体に届く。
「不謹慎だ」と怒鳴られるところから始まる
ここで、正直に書いておきたいことがある。
こういう話を集めて紹介することには、はっきりとした暴力性がある。
工藤優花は、石巻でフィールドワークを始めたとき、最初はファイルとペンを持って「幽霊のような不思議な体験をしたことありますか」と直球で聞いて回った。結果は散々だった。無視され、茶化され、大半は怒られたのだ。「不謹慎だ」「被災があったの分かって来てるんだろ」「お前、身内に亡くなった人がいて、そんなことを聞かれたら普通でいられるか」。怒鳴られて、やり方を変えたという。
この「怒鳴られる」という手続きを飛ばして書かれた怪談は、だいたい薄っぺらい。死んだ人の側に立っていないからだ。
高槻の事故について、私の知るかぎり、怪談らしい怪談はほとんど流通していない。ネットにも出てこない。理由は一つではないだろうが、大きいのは、あの事故が「まだ終わっていない」ことだと思う。
毎年6月18日の午前7時58分、寿栄小学校の正門前には献花台が置かれる。市長と教育長と校長が花を供え、塀が倒れた現場に向かって黙祷する。近隣の住民が集まり、報道が来る。市長は毎年、事故を忘れた日は一日もない、と言う。5年目も、7年目も、8年目も、同じ時刻に同じ場所で同じことが繰り返されてきた。
あの場所には、公式の儀礼がある。追悼の枠組みがきちんと機能している場所では、怪談はうまく育たない。死者の居場所が決まっているからだ。堀江らの比較でいえば、あそこは「死者が行き来する共同体」の側にある。花を供える台があり、時刻が決まっていて、名前を呼ぶ人がいる。
逆に言えば、怪談が濃く生えてくるのは、追悼が宙ぶらりんになった場所のほうだ。塀が撤去されて更地になり、誰の土地だったかも曖昧になり、事故があったことを知らない人が住みはじめる。そういう場所で、しばらくしてから「あそこは何かある」が発生する。
怪談は、記憶が制度から漏れた分を引き受ける装置だと思う。
なぜ、四十年後に同じことが起きたのか
まとまりのある説明を最後に置いておきたい。同じ事故が40年後に繰り返された理由は、少なくとも四つの層に分けられる。
一つめは、制度の設計だ。1981年の施行令改正は、これから造る塀の基準を変えた。すでに立っている塀には触らなかった。既存不適格という考え方は財産権との折り合いとして必要なものだ。だが、塀に限っては、建て替えの契機がほぼ訪れないという性質がある。
建物は数十年で更新されるが、塀は更新されない。
結果として、規制の網は「これから」だけにかかり、「すでにある」ものは時間とともに老いていった。
寿栄小の塀のように、1981年を待たずに最初から違法だったものは、なおさら誰の視界にも入らない。
二つめは、点検の思想だ。法定点検も日常点検も、外観の目視と打診を基本に組み立てられている。ひび割れ、傾き、ぐらつき。これは劣化を見つけるための設計であって、違法を見つけるための設計ではない。だから、ぴかぴかで真っ直ぐな違法建築は、点検をすり抜ける。
寿栄小の塀は、傾いてもいなければ割れてもいなかった。「問題なし」という判断は、その点検の枠組みの中では、たしかに間違っていなかった。
間違っていたのは枠組みのほうだ。しかも第三者委員会が結論づけたように、鉄筋の定着や継ぎ手といった致命的な欠陥は、塀を壊さないかぎり見えない。
三つめは、予算と所管の問題だ。学校施設の耐震化予算は校舎と体育館に向かった。塀は文科省の耐震化事業の対象外だった。学校の施設は教育委員会の所管で、建築基準法の運用は建築部局の所管。同じ市役所のなかで、塀という一つの構造物が、どちらの担当表にも載らないまま40年を過ごした。
2018年の事故のあと、文科省は特定行政庁の建築部局との連携も可能であることを周知する事務連絡をわざわざ出している。
裏を返せば、それまで連携していなかったということだ。
四つめが、いちばん厄介な層だ。見慣れた風景、という問題である。
毎朝そこを歩く子どもは、塀を見ていない。塀のある通学路を歩いている、という認識すら持っていない。毎日通る見守りの人も、教職員も同じだ。人間は、動かないものを風景として処理する。危険とは「変化」のことだと脳が思い込んでいるから、44年間微動だにしなかった塀は、危険の候補にすら上がらない。
防災アドバイザーが2015年に危険性を指摘できたのは、彼がその風景の外から来た人だったからだ。外から来た人には塀が見える。中にいる人には見えない。そして外から来た人の指摘は、たいてい一度で終わる。組織のなかで引き継がれ、担当が変わり、記録が薄まり、やがて「点検して問題なしと判断した」という一行だけが残る。
四十年という時間の長さも、たぶん偶然ではない。1978年の教訓で基準が変わり、その基準の前に造られた塀が「古い塀」として残り続ける。コンクリートの中の鉄筋が錆びて細くなるのに、だいたい40年から50年かかる。寿栄小の接合筋は13カ所が腐食して破断したと推定された。1974年に施工不良を抱えて生まれた塀が、腐食で限界を迎えるころに、たまたま有馬・高槻断層帯が動いた。
制度の寿命と、材料の寿命と、記憶の寿命が、ほぼ同じ長さだった、ということだ。40年で人は忘れ、40年で鉄は錆びる。
塀は、まだ立っている
いまも日本中に、無数のブロック塀が立っている。
学校の塀は9割方片づいた。自治体の施設も進んだ。だが民間の塀、つまり普通の家の塀は、ほとんど手つかずだ。補助金の窓口は開いているのに、申請は伸びない。職員が一軒ずつ玄関をノックして、留守なら資料を投函して回るという段階まで来ている。
あなたの家の前の塀は、何段積んであるだろうか。ブロック1段の高さはだいたい20センチだから、11段を超えていたら、その時点で建築基準法の高さを超えている可能性が高い。控え壁はあるだろうか。塀の長さ3.4メートルごとに、直角に突き出した支えがあるか。表面に茶色いにじみが出ていないか。
あれは中の鉄筋が錆びて、錆汁がにじみ出したものだ。
もっとも、そこまで見ても、内部の鉄筋がどうなっているかは分からない。高槻の第三者委員会が言ったとおり、大部分を壊さないかぎり安全性は確認できない。だから彼らは点検の強化ではなく撤去を勧めた。塀をやめろ、というのは、専門家が40年かけてたどり着いた、もっとも正直な結論だった。
最後に、怪談の話に戻る。
夕方の角に立つ小さな影も、無風の夜に鳴るフェンスも、向きを変える花束も、誰も立てない1メートルも、どれも検証できない。私はそれらを信じろとは言わない。
ただ、これらの話が全部、同じ一つのことをやっているのは確かだと思う。風景になってしまったものを、もう一度「見える」状態に戻すことだ。
制度は忘れる。点検の書類は3年で更新され、担当者は5年で異動し、設計図は保存期間を過ぎて捨てられる。1978年に18人が死んだことも、1980年に「通学路に限定すれば現実的な対応がとれる」と書いた研究者がいたことも、行政の引き継ぎ資料には残らない。
残るのは、「あの角は気をつけろ」という一言のほうだ。理由も説明されず、根拠も示されず、ただ禁忌としてだけ伝わっていく一言のほうが、四十年もった。
それは学問的には劣った伝達手段だ。でも、少なくとも忘れなかった。
6月12日の午後5時14分に、東北のラジオはいまも「1978年6月12日、宮城県沖地震が発生した時間」とアナウンスを流す。6月18日の午前7時58分に、大阪の小学校の門の前で、大人たちが黙って頭を下げる。どちらも、忘れないための装置だ。
塀の下で死んだ人の数は、1978年に18人、2018年に2人、2024年に1人。まだ増える余地がある。次の地震が、どこかの町の見慣れた灰色の壁に当たるまでの、猶予の話をしているだけだ。
