山の分校の話をしよう。廃校の話じゃない。いまも子どもが通っていて、朝になれば給食が運ばれてきて、放課後には二人か三人の児童がランドセルを揺らして山道を下りていく、生きている学校の話だ。怪談の舞台としての学校といえば、たいていは都会の大きな校舎か、それとも打ち捨てられた無人の廃校が思い浮かぶ。けれど本当に足の裏がひやりとする話は、そのどちらでもない場所から出てくることが多いんだよな。
全校児童が片手で数えられて、教員が二人しかいなくて、いちばん近いコンビニまで車で四十分かかる。そういう学校で、しかも現役で子どもが通っているところで起きた話。これがいちばん逃げ場がない。
- 「全校児童六人」の学校は、いまも日本のあちこちにある
- 「へき地五級」という等級が、教員の生活に何をしていたか
- 「わたり」と「ずらし」――一人の教員が二学年を同時に回す教室
- 「夜になるとオルガンが鳴る」――東北のある分校で語られた話
- 「弾いているのは誰か」を、子どもたちはどう埋めてきたか
- 「音楽室のピアノ」の血筋は、思ったより古いところまで遡る
- 「出席簿の数が合わない」――七人目の児童という話型
- 「七人目」の別バージョンは、地域ごとにこんなふうに枝分かれしている
- 「峠まで送ってくる者がいる」――下校の道で起きること
- 「転んだら、わざと座り直せ」――送り犬という古い作法の残存
- 「校舎裏に墓がある」のは、たいてい本当のことだ
- 「冬のあいだだけ建つ学校」があった時代の、分校の中の分校
- 「今日はバスが来ない」――統廃合が生んだ、いちばん新しい怪談
- 「オルガンの前に、子どもが座っていた」――ある元教員が語った夜
- 「わたしの学年は三人だったはずなのに」――卒業生が三十年後に気づいたこと
- 「バスのミラーに、知らない子が映っていた」――運転手が続けた確認作業
- 「宿直の夜、廊下を走る音がした」――宿直制度が残した記録
- 「これ、全国で同じ話が出てくるよな」――ネットで起きた合流
- 「作り話だろ」に対する、いちばん厳しい反証と、それでも残るもの
- 「小さいほど怖い」という、この題材の一番の芯
「全校児童六人」の学校は、いまも日本のあちこちにある
まず前提を共有しておきたい。分校とかへき地校というのは、失われた過去の風景じゃなくて、法律にきちんと定義のある現在進行形の制度だ。昭和二十九年、つまり一九五四年に「へき地教育振興法」という法律が制定されている。
山間地や離島など、交通条件および自然的・経済的・文化的な諸条件に恵まれない地域の学校を国が指定して、教員住宅の建築費やスクールバス・スクールボートの購入費を補助し、そこで働く教員には特別な手当を出す。
そういう枠組みなのだが、文部科学省の資料を読むと、寄宿舎の建築補助や複式学級への対応、通学費の補助といった項目まで並んでいて、要するに「そこに学校を維持するのは普通にやっていたら無理だから、国が金を積んで無理やり成立させている」という構造がよくわかる。
分校というのは、本校から分離して設けられる教育施設のことで、かつては分教場と呼ばれていた。設置基準もあって、小学校の分校は五学級以下、中学校の分校は二学級以下という規模の枠がある。交通機関の不便な地域や離島など、通学が困難な遠隔地に置かれることが多い。要するに、本校まで子どもの足で通わせるのが物理的に無理だから、集落の近くにもう一つ小さい学校を建てる。
それが分校であって、教室が二つと職員室が一つ、それに小さな体育館兼講堂。トイレは外にあって、給食は本校から運搬されてくるか、地元の女性が交代で作る。そういう規模の建物が、集落から少し離れた、川沿いか山の中腹の平場に建っている。
数字も見ておきたいのだが、京都教育大学の紀要に載った藤岡秀樹の論文によれば、二〇一五年度の段階でへき地指定を受けていたのは小学校で二千七校、中学校で千八校。そのうち三級以上の高度へき地校が小学校四百一校、中学校二百三十校ある。複式学級は小学校で四千九百十学級、中学校で百七十七学級。ちなみに二〇〇五年度は複式学級が小学校六千四百六十七学級だったから、十年で二割以上減っている。
たしかに減ってはいるものの、いまだに小学校だけで二千校がへき地指定を受けているという事実のほうが重い。日本の小学校のかなりの割合が、こういう場所にある。そして怪談は、そういう場所でこそ、濃く煮詰まる。
「へき地五級」という等級が、教員の生活に何をしていたか
へき地校には等級がついている。一級から五級までの五段階に、それより軽い準へき地学校を加えた六段階だ。数字が大きいほど条件が厳しい。この等級は感覚で決めるものじゃなくて、文部科学省令の基準を参照しながら、へき地の程度を点数化した基準点数に調整点数を加減して、都道府県が合計点で判定する。
陸地の学校なら医療機関や商店や駅までの距離、離島の学校なら本土からの海上距離、定期船の運航回数、必要な施設が島外にしかないかどうか。そういう項目を積み上げていく。離島は加点要素が多いので、同じような不便さの山間校より高い等級がつきやすい。
そして等級に応じてへき地手当が出る。北海道の二〇一八年四月時点の例では、準へき地で本俸の四パーセント、一級で八パーセント、二級で十二パーセント、三級で十六パーセント、四級で二十パーセント、五級では二十五パーセントが加算される。四分の一である。つまり基本給に四分の一上乗せしないと人が行かない場所、という意味でもある。
この等級は高度へき地修学旅行費の補助基準にも使われるので、要するに「その学校の孤立度を国が公式に採点した数字」として機能してきた。
ここが怪談的にはめちゃくちゃ効いてくる。五級のへき地校に赴任した教員は、たいてい教職員住宅に入る。学校のすぐ隣か、同じ敷地の中に建っている木造かブロック造の平屋。単身赴任も多くて、夜、集落の家々が灯りを落としたあと、その一帯で起きている人間は自分ひとり、という状況が日常的に発生する。街灯は集落の中心に数本あるだけで、学校の周りは真っ暗。
携帯電話の電波は入ったり入らなかったりする。
校舎の窓ガラスが月明かりで白く光っていて、そこに何かが映っていても、確かめに行くには懐中電灯を持って外に出るしかない。この物理的条件を制度が作っている、というのが分校怪談の骨格なんだよな。
「わたり」と「ずらし」――一人の教員が二学年を同時に回す教室
複式学級についても押さえておきたい。二つ以上の学年の児童を一つのクラスに編成するのが複式学級で、編制基準は明確だ。一年生を含む場合は二学年合計で八人以下、一年生を含まない場合は十六人以下。この人数を下回ると、二学年がひとつの教室に入る。三年生と四年生が同じ部屋にいて、黒板が二つあって、教員が真ん中に立っている。
授業のやり方には専門用語がある。「わたり」と「ずらし」だ。わたりは、教員が二つの学年のあいだを物理的に行き来すること。三年生に課題を出して自習させているあいだに四年生を直接指導し、四年生が問題を解き始めたら三年生側に渡る。ずらしは、その往復がうまく噛み合うように、学年ごとに指導の段階や時間配分をあらかじめずらして組んでおくこと。
導入・展開・まとめの山を互い違いに配置する。
上手い教員の複式授業は、二本の川が交互に流れているみたいに見えるらしい。
で、この構造には副産物がある。教員が三年生を見ているあいだ、四年生は誰にも見られていない。その逆もあって、教室の半分は常に、大人の視線が届いていない空間になる。全校で六人しかいない学校では、その「見られていない側」の人数が二人とか三人になる。子どもが「さっき、誰かが後ろの席に座ってた」と言い出したとき、それを否定できる大人が教室にいない。
分校の怪談で「いないはずの子が混ざる」系の話がやたら多いのは、たぶんここに理由がある。人数が少なすぎて、逆に人数の把握が個人の記憶頼りになるからだ。三十人の教室で一人増えても誰も気づかないが、六人の教室で一人増えると全員が気づく。そして全員が気づくのに、誰も名前を言えない。
「夜になるとオルガンが鳴る」――東北のある分校で語られた話
ここから怪異の本体に入る。分校怪談の中心にあるのは、間違いなくオルガンだ。ピアノじゃなくて、オルガンなんだよな。足踏みオルガン、いわゆるリードオルガン。分校の規模では音楽室という独立した部屋を持てないことが多くて、教室の後ろか、講堂の隅か、廊下の突き当たりにオルガンが一台置いてある。
カバーがかかっていて、蓋を開けると鍵盤が黄ばんでいる。ペダルを踏むと風が入って音が出る。
電気が要らないわけで、ここが決定的に重要で、停電しても、電源を落としても、風さえ送れば鳴る楽器がそこにある。
語られてきた話の型はこうだ。ある東北の山間部の分校に、若い女性教員が赴任してくる。全校児童は四人で、教員は彼女と、五十代の主任の二人だけ。主任は集落に自宅があるので夕方には帰る。彼女は敷地の隅の教職員住宅に住んでいる。
赴任して二週間ほど経った、六月の雨の夜のことだった。彼女は夕食を済ませて、翌日の教材研究のために職員室に戻ろうとした。住宅から校舎までは、傘をさして二十歩ほど。
渡り廊下も何もない、砂利の敷かれた通路だ。
鍵を開けて中に入った瞬間、彼女は音に気づいた。オルガンだ。それも、曲になっていない。ドとレのあたりを、二つか三つの音だけ、ゆっくり順番に押している。ぽう、ぽう、ぽう、と、ふいごの音が混ざった湿った響きが、暗い廊下の奥から届いてくる。
彼女は最初、主任が忘れ物を取りに来ていて、ついでに触っているんだろうと思った。だから普通に「お疲れさまです」と声をかけた。音が止まったが、返事はない。
廊下の照明のスイッチは、入口を入って左手の壁にある。彼女がスイッチを入れると、蛍光灯が二回ほど瞬いてから点いて、廊下の突き当たりまでが白く照らされた。オルガンはそこにあって、緑がかった灰色のカバーがかかったままだ。カバーは外されていないし、誰もいない。彼女はしばらくその場に立っていた。
雨が屋根を叩く音だけがしていた。
そして、彼女が振り返って職員室のドアに手をかけたとき、背後でまた、ぽう、と一音だけ鳴ったのだ。カバーをかけたままの、こもった音で。
翌朝、彼女は主任にそのことを話した。主任は湯呑みを持ったまま少し黙って、それから「あー」と言った。「それ、うちの子らも言うんですよ。あんまり気にしないほうがいい」。彼女が「以前に何かあったんですか」と訊くと、主任は「何もない。
何もないから、逆に困るんです」と答えた。この「何もない」という返答が、この話をずっと語られ続ける話にしていると思う。因縁話がついていないのだ。
誰かが死んだわけでも、事故があったわけでもない。ただ鳴るだけで、理由なしに鳴る。
「弾いているのは誰か」を、子どもたちはどう埋めてきたか
理由がないと、子どもは理由を作る。分校のオルガン怪異には、地域ごとに違う説明がくっついている。ここが面白いところで、同じ現象に対して、集落の歴史に合わせた別々の答えが用意されてきたわけだ。
いちばん多いのが「昔ここに通っていた子が弾いている」型。戦争中か戦後すぐに病気で亡くなった児童がいて、その子がオルガンを習いたがっていた、あるいは唯一の得意なことだった、という前置きがつく。この型の特徴は、その子の名前がだいたい伝わっていないことだ。「三年生の女の子」「よその集落から来ていた子」といった、輪郭だけの存在として語られる。名前がないぶん、どこの分校にも移植できる。
次に多いのが「先生が弾いている」型。こっちは主体が大人であって、かつてこの分校に一人で赴任していた教員がいて、任期の途中で亡くなった、あるいは町に戻れないまま年を取って死んだ。その人が今も夜になると学校に来て、明日の音楽の授業の準備をしている。だから曲になっていないのであり、音階の確認をしているだけだから、ドとレしか鳴らない。この説明の巧みさは、ちゃんと「なぜ曲じゃないのか」に答えているところだ。
怪異の細部に理屈を通してくる。
三つめが「オルガンそのもの」型。これは人格を持ち出さない。分校のオルガンは戦前から同じ個体が置かれていることがあって、実際に明治や大正の製造銘板がついている楽器も珍しくない。長く使われた道具には気が宿るという、付喪神の発想がここに接続される。弾いているのは誰でもなくて、オルガンが自分で鳴っている。
だから止めようがないし、供養しようもない。この型は年配の語り手に多いと言われている。
四つめ、これはやや新しい層だと思うが「風」型。分校の建物は隙間が多くて、谷から吹き上げる風が窓のわずかな隙間から入って、リードを鳴らす。物理的には起こりうる話で、実際そうやって説明する教員もいる。ただし、この説明を受け入れた子どもは必ず次の質問をする。じゃあなんで、決まって一つずつ、順番に鳴るのか。
風なら和音になるはずじゃないのか。
合理的な説明が、かえって怪異の輪郭を精密にしてしまうという、怪談によくある逆流がここでも起きている。
「音楽室のピアノ」の血筋は、思ったより古いところまで遡る
オルガン怪異の系譜を整理しておきたい。学校で楽器が独りでに鳴るという話型そのものは、都市部の「音楽室のピアノ」怪談として広く知られている。オカルト誌の記事などでは、この系統の古い事例として一九四九年ごろの群馬大学の講堂にまつわる話を引くことがある。結核を患いながらピアノに打ち込んでいた女性が亡くなり、深夜にピアノの音がするようになった、という筋だ。
戦後まもない時期には、すでにこの型が成立していたことになる。
学術的な裏付けとしていちばん頼りになるのは、民俗学者の常光徹の仕事だ。常光は一九九〇年に講談社の児童向け文庫から『学校の怪談』を刊行して、これがトイレの花子さんを全国区にする火付け役になった。その一方で研究書として『学校の怪談――口承文芸の展開と諸相』をまとめていて、こちらは二〇一三年にミネルヴァ書房から復刊されている。
四六判で四百十八ページあり、世間話、昔話、伝説・俗信の三部構成で、子どもから直接聞き取った話を口承文芸として分析している。学校の怪談を「子どもが作り出す語り」として正面から扱った最初期の研究であり、いま出回っている学校怪談の分類の多くは、直接間接にこの仕事に負っている。
もう一つの基礎資料が、松谷みよ子の『現代民話考』だ。全国から寄せられた現代の民話を主題別に編んだ大部の仕事で、その第七巻が「学校」にあてられている。もとは立風書房から出て、二〇〇三年十月にちくま文庫版が刊行された。四百八十ページあって、第一章が「笑いと怪談」、第二章が「子どもたちの銃後」という構成で、後者は戦時下の学徒動員や学童疎開の記憶を集めている。
ここに、天井が落ちる話、血が滴る話、階段の数が増減する話、人形が動く話といった学校怪異の原型が並んでいる。分校や分教場を舞台にした話も、この巻には混じっている。
ここで押さえておきたいのは、都市部のピアノ怪談と分校のオルガン怪談は、同じ木から分かれた枝だけれど、育ち方がまるで違うということだ。ピアノ怪談は「音楽室」という専用の閉じた部屋を必要とする。大きくて動かせない黒い塊が、夜の校舎の中で孤立している状況が怖い。対してオルガン怪談には専用の部屋がない。廊下や教室の隅に、無防備に置かれている。
カバーをかけただけで、子どもの手の届く高さにある。
日中はみんなが触っていた楽器が、夜だけ別のものになる。この「日常との距離の近さ」が、分校型の怖さを決定づけている。
「出席簿の数が合わない」――七人目の児童という話型
分校怪談の二本目の柱が、人数の話だ。これは全国に分布していて、変奏がとにかく多い。
基本形はこうで、全校児童が六人の分校で、朝の会のときに教員が名前を呼んでいく。六人とも返事をするのだが、その日の欠席者の確認をしようとして出席簿を見ると、覚えのない名前が一行増えている。あるいは、集合写真を撮って現像したら、写っている頭の数が七つある。あるいは、遠足の帰りにバスの中で人数を数えたら、行きは六人だったのに帰りは七人になっている。数え直すと六人に戻り、もう一度数えると七人になる。
この話型がへき地校で特に強く語られるのには、はっきりした理由がある。人数が少ないと、確認の作業が具体的になるからだ。三十五人学級では、担任は毎朝ひとりずつ顔を見て数えたりしない。名簿を上から読んで、返事の有無で機械的に処理する。ところが全校六人の分校では、教員は本当に一人ずつ顔を見る。
誰がどこに座っているか、今日誰が風邪気味か、全部わかっている。
その状態で「一人多い」という事態が起きると、逃げ場がなくなる。人数を把握できるはずの規模で、把握が壊れる。この落差こそが怖いところだ。
もう一つ、複式学級という構造が効いている。さっき書いた「わたり」の最中、教員は必ず片方の学年に背を向けている。三年生の机のあいだを回っているとき、四年生の側は視界から外れている。子どもたちのほうも、自分の学年の課題に集中していれば、隣の学年の様子は見ていない。教室の中に、誰も見ていない領域が常時発生する。
その領域に一人ぶん、余分な席がある。
分校でこの話が繰り返し語られてきたのは、それが物理的にあり得る配置だからだ。
「七人目」の別バージョンは、地域ごとにこんなふうに枝分かれしている
この話型の派生を、一つずつ見ていきたい。どれも独立した話として成立している。
まず挙げたいのが名簿追記型で、北陸から東北の日本海側でよく語られる形で、出席簿ではなく学校沿革誌や在籍簿に名前が増える。教員が年度末に書類を整理していると、在籍していないはずの児童の名前が、古い名簿の欄外に鉛筆で書き足されている。筆跡は歴代の誰のものでもない。消しゴムをかけると消えるのだが、翌年また同じ場所に同じ名前が現れる。この型の恐ろしさは、怪異が公文書に手を出してくるところだ。
学校という組織の記録の内側に、記録されない存在が居座っている。
次が給食追加型で、これは山間部の分校で採集例が多い。給食は本校から食缶で運ばれてきて、人数ぶんの食器が用意される。ところがときどき、配膳を終えたあとに一人ぶん余る。数え間違いだろうと片づけるのだが、その日は必ず、児童の誰かが「もう一人いた気がする」と言う。この型は生活のディテールが濃くて、食器の数という物理的な証拠が絡むぶん、話としての説得力が高い。
分校の給食は人数が少ないから、余ったぶんはすぐわかる。
三つめが下校人数型であって、分校では下校を集団でやることが多い。集落まで山道を一列で下りていく。先頭が最上級生、最後尾が二番目に年上の子。前後で人数を確認しながら歩く決まりになっている。その途中で、後ろから「もう一人いるよ」と声がする。
振り返ると誰もいない。この型は次に述べる山道の怪異と接続していて、二つの話型が合流した中間形態のように見える。
四つめが写真型で、運動会や卒業式の集合写真に、いるはずのない子が写る。これは分校固有ではなく心霊写真一般の話型と重なるのだが、分校版には特徴があって、写り込んでいる子の服装が明らかに時代遅れなことが多い。半ズボンに帽子、あるいは着物に近い上着。集落の古老に見せると「ああ、この格好は戦前だ」と言う。
この時代考証の一手間が入るのが分校版で、要するに「この学校は昔からここにある」という事実を怪異の根拠に転用している。
五つめが逆に減る型で、これは数が少ない。児童が七人いたはずなのに六人になっていて、しかも減った一人が誰なのか誰も思い出せない。名前も顔も出てこないが、確かに一人いたという感覚だけが残る。この型はかなり不気味で、しかも語りにくい。誰が消えたか言えないので、話として着地しないからだ。
それでも各地に断片的に伝わっている。
「峠まで送ってくる者がいる」――下校の道で起きること
分校の子どもは歩く。とにかくよく歩く。国の適正配置の考え方では、小学校の通学距離のおおむねの目安として四キロ、中学校で六キロという数字が長く使われてきた。近年はこの距離基準だけで判断するのは現代的でないとされて、スクールバス利用ならおおむね一時間程度、徒歩ならおおむね三十分から一時間程度を上限とする、といった時間での目安に置き換えられつつある。
だが逆に言えば、いまも「徒歩で一時間近く」が制度上の許容範囲に入っているということだ。
そして山道の一時間は、平地の一時間とはまるで違う。杉の植林地に入れば、昼でも薄暗い。沢を渡る箇所があり、片側が崖になった区間があり、獣の通り道と交差する場所がある。冬は日が短いから、四時に学校を出ると、途中で完全に暗くなる。この道で起きる怪異が、分校怪談の三本目の柱だ。
いちばん有名な型が「見送り」だ。下校中の子どもの後ろを、何かがついてくる。足音がする。振り返っても何もいない。歩き出すとまた足音がする。
歩調は常に子どもと同じで、速く歩けば速くなり、止まれば止まる。集落の入口、あるいは道端の地蔵のところまで来ると、足音は止まる。そこから先には来ない。だから、集落の子どもたちのあいだでは「地蔵さんまで我慢すればいい」という言い方が共有されている。
この型で決定的に重要なのが、その足音が必ずしも悪意のあるものとして語られないことだ。むしろ「送ってくれている」と解釈される。危ない道を、家まで無事に送り届けるために付き添っている。ただし条件があって、転んではいけないし、振り返って正体を確かめようとしてはいけない。礼を言ってはいけない。
この禁止の三点セットは、地域によって組み合わせが変わるが、少なくともどれか一つは必ず入っている。
「転んだら、わざと座り直せ」――送り犬という古い作法の残存
この見送り型が、まったくの新作じゃないことは、民俗学の資料を見ればすぐわかる。日本各地に「送り犬」あるいは「送り狼」という伝承がある。夜の山道を歩く人の後ろに、犬か狼の姿をしたものがついてくる。無事に歩いているあいだは何もしない。だが転倒すると襲われるとされ、地域によっては複数の犬が一斉にかかってくるとも言われる。
この伝承が優れているのは、ちゃんと回避策がセットになっているところだ。転んでしまったら、転んだのではなく自分の意志で座ったのだと見せかける。腰を下ろして「どっこいしょ」と声を出す。あるいは「よっこらしょ」と言って立ち上がる。つまり、倒れたのではなく休憩したのだという演技をする。
すると襲われないのだという。
国際日本文化研究センターの妖怪データベースにも、送り犬・山犬、送り狼・山犬として複数の採集例が登録されている。長野県には「迎え犬」という別系統もあって、こちらは高い場所で待ち伏せていて、通行人の頭上を飛び越えたり前に回り込んだりする。送り犬が結果的に守る側に回るのに対して、迎え犬は明確に危険な存在として区別されていた。
分校の下校怪談は、この送り犬の作法をほぼそのまま受け継いでいる。足音がついてくる。転ぶな。座り直せ。振り返るな。
集落に入るまで我慢しろ。犬や狼という具体的な姿が抜け落ちて、正体不明の足音になっただけで、行動規範の部分は化石のように残っている。これは伝承の残り方として非常に典型的で、姿かたちより先に「どうすればいいか」が伝わる。
子どもに教えるべきことは、妖怪の生態学ではなく、山道での身の処し方だからだ。
そしてもう一つ、この山道の怪異の背後には神隠しの記憶がある。神隠しは、峠、坂、橋、村境、辻といった「境目」の場所で起きるとされてきた。時間帯も境目で、逢魔が時、つまり日が落ちきる直前が危ない。行方不明になると、集落の人々が総出で行列を作り、太鼓を叩きながら子どもの名を呼んで回った。「かやせ、もどせ」と唱えながら探す風習が各地にあった。
分校からの下校路というのは、まさに集落の境を越えて、日暮れどきに、子どもが単独か少人数で通る道だ。神隠しの条件を全部満たしている。怪異が発生するべくして発生する場所に、制度が毎日子どもを歩かせていた、とも言える。
「校舎裏に墓がある」のは、たいてい本当のことだ
分校怪談で頻出するのが、校舎裏の墓だ。これは怪談として作られたモチーフというより、単純に事実であることが多い。ここは冷静に押さえておきたい。
明治五年の学制発布のあと、全国に一気に小学校を作る必要が生じた。その際、多くの地域では新しく校舎を建てる金も土地もなかったので、既存の建物を転用した。いちばん多いのが寺で、寺子屋の系譜がそのまま学校になった例もあれば、廃仏毀釈で空いた寺の建物を校舎にした例もある。境内は集落の中心にあって、平場が確保できて、集会に使える広さがある。学校用地としての条件をほぼ満たしている。
そして寺の隣には、当然のように墓地がある。
山間集落ではこの傾向がさらに強い。平坦な土地が極端に少ないからだ。谷底の斜面に貼りついた集落では、平場は水田と寺と墓地くらいしかない。学校を作るとなれば、その中から選ぶしかない。結果として、校庭の縁が墓地に接している分校、裏山を少し登ると無縁墓が並んでいる分校、敷地の隅に苔むした五輪塔が一基だけ残っている分校が、全国にたくさんできた。
移転や区画整理の際に墓石だけ動かして、埋葬されたものはそのままにした、という話も地域史をあたるとちらほら出てくる。
だから「うちの学校の裏には墓がある」という子どもの証言は、多くの場合、超自然的な主張ではなく地理的な事実の報告だ。問題は、その事実が怪談の燃料として無限に使えることにある。ボールが墓地側に飛んだら取りに行ってはいけない。裏の斜面に一人で行くと帰ってこられない。夕方、墓のほうを向いて名前を呼ばれても返事をしてはいけない。
こういう禁忌が、実在の墓を核にして育つ。しかも大人はそれを完全には否定しない。
なぜなら、子どもが墓地の斜面に入って怪我をするのは実際に困るからだ。安全管理と怪談が同じ方向を向いてしまうと、その話は消えない。
「冬のあいだだけ建つ学校」があった時代の、分校の中の分校
分校の話をするなら、冬季分校に触れないわけにはいかない。これはもう制度自体が怪談じみている。
豪雪地帯の山間集落では、冬になると本校までの道が雪で埋まって、子どもが通えなくなる。だからといって数か月間、子どもを学校から切り離すわけにもいかない。そこで、冬のあいだだけ、集落の側に臨時の分校を開設する。それが冬季分校であって、本校から三、四キロ離れた場所に置かれることが多かった。校舎といっても専用の立派な建物ではなく、集落の集会所や、民家に近い造りの小屋を使うこともあった。
廃校をめぐって記録を残しているある調査によれば、昭和三十四年の時点で全国に五百校を超える冬季分校が存在し、新潟県と長野県に集中していたという。それが時代を下るごとに減っていって、最終的にはごく数校を残すだけになった。
長野県の贄川小学校桑崎冬季分校は、その典型として記録が残っている。昭和三十四年当時の児童は十六人。昭和四十二年に閉じられ、翌年には集落そのものが閉鎖されたと伝えられている。廃校後に内部を記録した人によれば、建物は学校というより古民家に近い造りで、炊事場に調理器具が残り、和室があり、教室にあたる少し広めの部屋があり、そして楽器のための部屋にピアノが置かれていたという。
戦前の教育を思わせる、右から左へ書かれた額もそのまま残っていたそうだ。
冬季分校というのは、怪異が発生するには理想的すぎる装置だと思う。まず、期間限定であること。十二月に開いて三月に閉じる。一年のうち八か月は無人だ。次に、建物が学校らしくないこと。
教室と居住空間の境界が曖昧で、台所があって畳の部屋がある。誰かが住んでいてもおかしくない構造をしている。そして三つめが雪で、積雪期の山中は音が死ぬ。雪は音を吸うので、外の物音がほとんど届かない。
そのぶん、建物の内側で鳴った音が異様にはっきり聞こえる。天井が軋む音、雪が屋根から落ちる音、そして誰も踏んでいないはずのオルガンのペダルが沈む音。
語り継がれている話の一つに、こういうのがある。冬季分校を開ける前日、教員が一人で下見に入る。八か月ぶりに鍵を開けて、雨戸を外して、ストーブに火を入れる。板の間には埃が積もっている。そこに、素足の足跡がついている。
小さい。子どもの足だ。窓は全部内側から閉まっていて、鍵も掛かっている。足跡は部屋の中央から始まって、オルガンの前で消えている。この話が語られるとき、必ず添えられる一言がある。
冬季分校は雪が来る前に閉めて、雪が消える前に開ける。だから、そのあいだにあの建物に入れる者は、雪の上を歩かなくていい者だけだ、と。
「今日はバスが来ない」――統廃合が生んだ、いちばん新しい怪談
そして現代の層があって、それがスクールバスの怪談だ。
学校統廃合が進むと、通学距離が伸びる。歩ける距離ではなくなるので、自治体はスクールバスを走らせる。文部科学省の資料でもスクールバスやスクールボートの購入費が補助対象に入っているし、遠距離通学に対する補助制度は多くの市町村が持っている。分校が本校に統合されて、集落から本校まで四十分かけてバスで通う。そういう子どもがいま全国に大勢いる。
バスの怪談には、分校時代の徒歩通学とは違う質感がある。まず、バスは密室であって逃げられない。次に、乗客の顔ぶれが固定されている。毎日同じ子が同じ席に座る。だから異物が入ると即座にわかる。
そして三つめ、バスは決まったルートを走る。同じ場所を毎日通るわけで、その「同じ場所」に何かがあると、毎日それに遭遇することになる。
語られる型はいくつかある。停留所の怪というのがあって、集落の入口の停留所に、乗るはずのない子が立っている。運転手が扉を開けても乗ってこない。次の日、その停留所を通り過ぎるとき、また立っている。人数の怪というのもある。
乗車時に運転手が人数を数える決まりになっていて、学校に着いてから数えると一人多い。降りるときには元の数に戻っている。そしてミラーの怪だ。
運転手がバックミラーで車内を確認すると、最後列に一人多く座っている。振り返ると誰もいない。ミラーに戻すとまだ座っている。
この最後の型が、いま最も広がりを見せていると思う。バックミラーという装置が絶妙なんだよな。運転手は前を向いていなければならない。振り返ることは職務上できない。鏡越しにしか後ろを確認できないという制約が、怪異にとって完璧な条件になっている。
しかも、この話には統廃合の記憶がくっついていることが多い。閉じられた分校の集落を通るルートで、その停留所は、かつて分校の子が集まっていた場所で、というふうに。
学校がなくなっても、子どもが集まる場所の記憶だけが土地に残る。バスはその上を毎日通る。
「オルガンの前に、子どもが座っていた」――ある元教員が語った夜
ここからは、体験談として語られてきたものを紹介したい。いずれも語り手の特定を避けて紹介する。
一つめは、中国地方の山間部の分校に勤めていたという元教員の話。赴任したのは昭和の終わり頃で、全校児童は七人、教員は三人だった。彼女は独身で、敷地内の教職員住宅に住んでいた。秋の日曜日の夕方、翌週の校外学習の資料を作るために、彼女は一人で職員室にいたのだ。日が落ちるのが早い季節で、四時半には外がもう青黒くなっていた。
職員室は玄関を入ってすぐ右手にあり、ドアの上部がガラスになっている。そこから廊下の様子がぼんやり見える。彼女はふと視線を上げて、廊下の突き当たりのオルガンのあたりに、人影があることに気づいた。子どもの背丈で、オルガンの椅子に座って、こちらに背を向けている。日曜日である以上、児童が来ているはずがない。
彼女は最初、集落の子が遊びに来て、鍵の開いていた玄関から入ったのだと思った。
ドアを開けて廊下に出ると、人影はまだそこにいた。灰色っぽい上着を着ていて、髪が短い。「どうしたの」と声をかけた。返事はない。彼女が二歩進んだところで、その子は立ち上がった。
立ち上がって、こちらを見ないまま、廊下の横にある教室のドアのほうへ歩いていった。ドアは閉まったままだったのだ。彼女ははっきり覚えているという。その子は、閉まったドアの前で立ち止まらなかった。
歩く速度を一切変えずに、ドアの手前で見えなくなった。ドアに吸い込まれたのではなく、そこに至る一歩ぶん手前で、輪郭が薄くなって消えたのだ。
彼女はその場に立ち尽くしてから、職員室に戻って荷物をまとめ、鍵を掛けて住宅に帰った。翌日になって同僚に話すと、年配の同僚が「オルガンのとこですか」と即答した。「あそこはね、たまにいるんです」。彼女はそれから三年その分校に勤めて、二度、同じものを見た。二度とも日曜日の夕方だったという。
彼女がこの話をするときにいつも付け加えるのは、怖くはなかった、という一言だ。
ただ、こちらを一度も見なかったのが、いまでも引っかかっている、と。
「わたしの学年は三人だったはずなのに」――卒業生が三十年後に気づいたこと
二つめは、四国の分校を卒業したという男性の話。彼が在籍していたのは昭和五十年代で、当時の全校児童は九人。彼の学年は三人で、複式学級の上の学年として、下の学年と同じ教室で授業を受けていた。
異変に気づいたのは、卒業から三十年近く経って、実家の押し入れを整理していたときだった。卒業アルバムというほど立派なものではなく、大きめの紙を二つ折りにしただけの、手作りの記念誌が出てきたのである。当時の担任がガリ版で作ったものだ。そこに全校児童の名前が学年ごとに並んでいる。彼は自分の学年の欄を見た。
そこには四人ぶんの名前があった。
彼の記憶では、同学年は自分を含めて三人だ。名前も顔も、いまでも全部言える。だが記念誌には、聞いたことのない名前が四人目として書かれていた。姓も名も、この地域では珍しくない字面だが、まったく心当たりがない。彼は当時の同級生に連絡を取った。
二人とも「三人だったよ」と言った。だが一人は少し黙ってから、「でも、なんかもう一人いたような気もする」と言ったのだ。
彼は町の教育委員会に問い合わせた。分校は既に統合されていたが、本校に古い在籍簿が残っていた。そこには、彼の学年として三人の名前だけが記載されていたのだ。四人目の名前はどこにもない。つまり、公的な記録には三人、担任が手作りした記念誌には四人。
はっきり矛盾している。担任は既に亡くなっていた。彼は最終的に、担任が別の学年の児童の名前を誤って書き込んだのだろう、という説明で自分を納得させようとした。
ところが、記念誌に載っている他の全学年の名簿を突き合わせると、その名前はどこにも重複していなかったのだ。どの学年にもいない子が、彼の学年にだけ一人、書き足されていた。
彼はいまでもその記念誌を持っている。人に見せると必ず「印刷ミスでしょう」と言われる。彼自身もそう思いたいのだという。ただ、彼はガリ版というものが手書きであることを知っている。誰かが鉄筆で、一文字ずつその名前を切ったのだ。
ミスで生まれる名前ではない。書いた人間が必ずいる。それが誰なのかは、もうわからない。
「バスのミラーに、知らない子が映っていた」――運転手が続けた確認作業
三つめは、九州の中山間地でスクールバスを運転していたという男性の話。統廃合で分校が三つ閉じられて、その集落の子どもたちを本校まで運ぶ路線を、彼は十年近く担当していた。乗車するのは全部で十一人。朝は集落を三か所回って拾い、夕方は逆順で降ろす。
彼の勤務にはルールがあって、乗車のたびに人数を確認して運行日誌に書き込むことになっていた。少人数だから間違いようがない。ところが、ある年の秋から、夕方の便でだけ数が合わなくなった。学校前で十一人を乗せて、走り出してしばらくして、癖でミラーを見る。数えると、十二人いる。
最初は数え間違いだと思った。走行中に正確に数えるのは難しい。だから彼は、次の日から停車中に数えるようにした。それでも十二人だった。彼が勇気を出して後ろを振り返ると、十一人しかいない。
座席には空きがある。彼はもう一度ミラーを見た。十二人だった。最後列の窓側、いつも誰も座らない席に、一人多く座っていたのだ。
彼はそのことを子どもたちには言わなかった。かわりに、降車のたびに一人ずつ名前を呼んで降ろすようにした。三つの集落で順に呼んで、全員降りる。最後の集落で最後の子を降ろすと、バスは空になる。彼は毎回、空になったバスのミラーを見た。
誰もいなかった。だから彼は、これは走っているあいだだけの話だと考えることにしたのだ。降りる場所がないから乗っているのだ、と。
彼がその路線を離れたのは、定年ではなく体調の問題だったという。最後の運行の日、彼は空になったバスの最後列まで歩いていって、その席の前で立ち止まった。何か言おうとして、結局何も言わなかったそうだ。「言ったら、次の運転手さんに移ってしまうかもしれんと思ったけん」。彼の言い方はそういうものだった。
「宿直の夜、廊下を走る音がした」――宿直制度が残した記録
四つめは、もっと古い層の話。かつて学校には宿直制度があって、教員が交代で校舎に泊まっていた。火の元の管理と、当時貴重だった備品の防犯が主な目的だ。この制度は昭和四十年代から段階的に廃止されて、いまはほとんど残っていない。だが分校では、廃止が遅れた地域がある。
集落から離れていて、警備会社の機械警備も入らないからだ。
北関東のある分校で宿直をしていたという元教員の話が伝わっている。宿直室は職員室の隣にあって、畳が四畳半。布団を敷いて寝るだけの部屋で、夜十時を過ぎると、集落の灯りが全部消える。窓の外は完全な闇だ。彼が宿直を始めて半年ほど経った冬の夜、午前二時ごろに目が覚めた。
廊下を、誰かが走っていた。
音は明確なもので、上履きで木の床を蹴る、あの独特の音。子どもの体重の音だ。それが廊下の端から端まで、往復していた。行って、戻って、また行く。彼は布団の中で動けなかった。
動けないまま数えていて、七往復までは数えたという。それから音が止んで、止んだあと、宿直室のすぐ外で、誰かが立ち止まる気配がした。
彼はそのとき、ある行動を取った。返事をしたのだ。思わず「はい」と言った。教員の反射だったと本人は説明している。廊下で名前を呼ばれたときの、あの返事。
すると、外の気配が消えた。彼はそのまま朝まで眠れず、六時に起きて廊下を見に行った。床は乾いていて、何の跡もなかったのだ。ただ、廊下の突き当たりのオルガンのカバーが、少しずれていたという。
彼はこの話を長く誰にも言わなかった。定年後、地元の公民館での集まりで初めて口にしたところ、同席していた別の元教員が「その分校、宿直で走る音を聞いた人は何人もいる」と言った。しかも、その全員が「返事をしてしまった」と言ったそうだ。子どもの足音を聞いた大人は、どうしても返事をしてしまう。職業がそうさせるのだ。
この一点が、この話をただの物音の怪から、逃れがたい構造の怪に変えている。
「これ、全国で同じ話が出てくるよな」――ネットで起きた合流
分校怪談がインターネットに乗ったのは、二〇〇〇年代前半だ。当時の匿名掲示板のオカルト板では「死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?」という連続スレッドが立ち続けていて、そこに学校を舞台にした投稿が大量に流れ込んでいた。分校ものも一定数あった。ただし正直に書いておくと、この時期の投稿は、まとめサイトを経由して転載されるうちに元スレッドの番号やレス番が失われていることが多い。
同じ話が別のスレッド名で再投稿され、投稿者名も日付も上書きされていく。だから「この分校怪談の初出はこのスレのこのレス」と特定できるケースは、実はほとんどない。特定できると称している情報のほうを疑ったほうがいい。
その代わり、はっきり追えることがある。合流だ。二〇〇〇年代半ば以降、分校出身者や元教員が自分の体験を書き込むようになると、地域も年代もばらばらな話のあいだに、共通する細部があることが可視化された。オルガンが一音ずつ鳴る。人数が一人だけ増える。
足音が地蔵まで来て止まる。校舎裏に墓がある。これらが、互いに面識のない投稿者から次々に出てきた。
書き込みには「うちもだ」「同じこと言う人いるんだ」という反応が並んだ。
この合流が起きたことで、二つの相反する解釈が生まれた。一つは「共通しているのだから、本物の現象だ」という方向。もう一つは「共通しているのだから、話型として広まっているだけだ」という方向。前者は体験者に多く、後者は民俗学に触れたことのある層に多かった。オカルト系のまとめブログや個人サイトでは、この二つの立場が延々と交錯した。
「作り話だろ」に対する、いちばん厳しい反証と、それでも残るもの
反証側の議論も整理しておこう。ここは手を抜かずに書いておく必要がある。
第一に、オルガンの自然発音は物理的に起こりうる。足踏みオルガンはふいごに空気を溜める構造なので、ペダルを踏まなくても内部にわずかな残圧があることがある。木造校舎は温度差で軋み、気圧が変化する。谷風が窓の隙間から吹き込む。リードは非常に軽い金属片なので、わずかな空気の流れで振動する。
一音ずつ順番に鳴るように聞こえるのは、複数のリードが異なるタイミングで共振の閾値を超えるからだと説明できる。
実際、古いオルガンを保管している資料館などでは、無人の部屋で音がしたという記録がある。
第二に、人数の錯誤は認知の問題として説明できる。少人数集団の人数を数えるとき、人間はサビタイジングという知覚機能で四つ程度までは瞬時に把握できるが、それを超えると逐次的に数える必要が出る。六人や七人という数は、ちょうどその境目にあたる。しかも動いている子どもを数えると、重複や欠落が起きやすい。運動会や遠足のような興奮した状況では、なおさらだ。
第三に、記録の食い違いは事務的なミスで大半が説明できる。転入予定だったが結局来なかった児童の名前が名簿に残る。ごく短期間だけ在籍した子の記載が、正式な在籍簿に反映される前に手作りの記念誌に載ってしまう。親の仕事の関係で一学期だけいた子。これらは統廃合の混乱期には珍しくない。
第四に、山道の足音は反響と獣で説明がつく。杉の植林地は音を複雑に反射する。自分の足音が斜面に当たって遅れて返ってくると、後ろから誰かがついてきているように聞こえる。歩調に合うのは当たり前で、それは自分の足音だからだ。止まれば止まるのも当然のことだ。
獣が並行して移動していることも多い。鹿や猿は人の近くを平気で歩く。
この四つを並べると、分校怪談はほぼ解体できてしまうように見える。だが解体しきれない部分がある。それは、これらの説明が「なぜその話が語り継がれるのか」には答えていないことだ。オルガンが物理的に鳴るとして、なぜ人はそこに弾き手を想定するのか。人数を数え間違えるとして、なぜ「一人多い」という方向にばかり間違えるのか。
四人だと思っていたら三人だった、という話はほとんど流通しない。
増えるほうだけが残っていく。この非対称性は、物理でも認知でも説明できない。人間の側が、増えるほうを選んで語り継いでいるからだ。
「小さいほど怖い」という、この題材の一番の芯
最後に、なぜ分校の怪談がこれほど強いのかを考えたい。
大きい学校の怪談は、匿名性の怪談だ。三十五人学級の校舎で、あなたは大勢のうちの一人にすぎない。だから怪異に遭っても「たまたま自分だった」と思える。誰にでも起こりうることが、たまたま自分に起こった。そしてそれは、ちゃんとした逃げ道になる。
分校は違う。全校六人の学校で怪異に遭うということは、その六分の一を引いたということだ。しかも、翌日そのことを話す相手が五人しかいない。信じてもらえなければ終わりだ。共有できる相手の数が、そのまま恐怖の希釈率になる。
分母が小さいと、恐怖は薄まらない。
もう一つ、分校には「隠れる場所がない」という特性がある。物理的な意味でも、社会的な意味でもだ。校舎は小さくて、教室は二つか三つ。どこにいても誰かの視界に入る。集落の人間関係も同じで、誰が何をしているか全員が知っている。
その徹底的に見通しのいい空間に、見えないものが一つ混ざる。見通しがいいからこそ、混ざったものが際立つ。これは大きな学校では絶対に起きない怖さだ。
そして最も本質的なのは、時間の問題だと思う。分校は、いつ閉じられてもおかしくない場所として運営されている。児童数が基準を割れば統合される。集落から子どもがいなくなれば休校になる。二〇〇四年度から二〇二三年度までの二十年間で、全国の公立学校は延べ八千八百五十校が廃校になった。
二〇二一年度から二〇二三年度だけで千二十五校だ。都道府県別では北海道が突出して多い。
離島でも、令和六年度に四つの島の小学校が休校になった一方で、二年ぶり一年ぶりに再開した中学校もある。開いたり閉じたりを繰り返しながら、全体としては減っていく。
つまり、現役の分校というのは、消滅への予感を常に抱えたまま稼働している空間なんだよな。子どもたちは自分の学校がなくなることを知っている。教員も知っているし、集落の大人も知っている。全員が終わりを見ながら、毎朝授業を始めている。そういう場所で語られる怪談は、必然的に「残る」ことについての話になる。
オルガンは残るし、名簿の名前も残る。足音だって残る。
学校が閉じても、バスのルートが変わっても、あの席には誰かが座っている。
分校の怪談が本当に語っているのは、幽霊のことじゃない。いなくなるとわかっている場所に、それでも毎日通っていた子どもたちの、その通学路の記憶のことだ。だから怖い。そして、だから消えない。閉じられた校舎の怪談より、まだ子どもが通っている学校の怪談のほうが、ずっと後を引く。
まだ終わっていないからだ。今日も、山の中のどこかで、六人の児童が返事をしている。
数えたら七つ返ってきたとして、それを確かめられる大人は、その教室に一人しかいない。
