- シャッターの桟に、十円玉が一枚
- 玄関の上がり框に、ガラス瓶がひとつ
- 十三万軒が、二万軒になるまで
- 始発に乗って、問屋街へ
- 十円で売って、取り分は二円
- 「あのくじ、当たりは入ってないんだって」
- 宝引から当てもんへ
- 型抜きは、削りすぎると割れる
- もんじゃの鉄板と、ソースせんべいの刷毛
- 通学路の地図には、載っていない一軒
- 灯りが点いている店
- 障子の向こうの部屋
- 二階の窓から見ている誰か
- 食べると死ぬ駄菓子
- 店ごと消えた、という話
- 代替わりしたら、別人だった
- 三十円を握って、毎日通った側の話
- 店番をさせられていた、孫の側の話
- 閉店の日に立ち会った、大人の側の話
- コンビニが来た年から、数え始めるといい
- 「あの店、まだあるかな」と検索する大人たち
- ショッピングモールの中にある「駄菓子屋」
- いまも開いている土間
- 棚の下の段は、菓子じゃなかった
- 十円で買えたものを、思い出せる限り並べてみる
- 泣いている子を、座らせておく場所
- 「あの店の裏を通ると、名前を呼ばれる」
- シャッターの内側に残されたもの
- あの角を曲がると
シャッターの桟に、十円玉が一枚
学校の正門から坂を下って、二つ目の角。灰色のシャッターが下りたままの平屋がある。庇の下には「た」の一文字だけ読めるプラスチックの看板。下半分が割れて、風の吹くたびにカタカタと鳴った。
ガラス戸の桟に、十円玉が一枚のっていた。錆びた色になるまで置かれていたから、置かれてから何年も経つ。近所の人に聞いたら、卒業生がたまにやるんだという答えが返ってきた。
閉めてから十五年以上。それでも小銭を置いていく大人がいる。賽銭に近い。店だった頃の記憶が、どこかで宗教に化けている。
この家が何の店だったかを、いまの小学生は知らない。ここに何があったかを話せるのは四十代から上だけ。もう少し経てば、この角は最初から空き家だったことになる。
地図の上では、まだ生きている。ネットの地図サービスには屋号と電話番号がいまも登録されていて、営業時間の欄だけが空白のまま何年も放置されている。番号は繋がらない。登録を消す権限を持つ人間がもう誰もいないせいで、とっくに畳んだ店がデータの上だけで営業を続ける形になった。
玄関の上がり框に、ガラス瓶がひとつ
いまの形の駄菓子屋が生まれたのは戦後だ。江戸期にも一文菓子屋という呼び名の商売はあったけれど、あれは雑穀と水飴の安菓子を売る店で、学校の前に並ぶ商売とは別の系統に属する。
形を決めたのは、戦争で夫を亡くした女たちの数だった。働き口はない。子どもは食べる。手元にあるのは自分の家の玄関だけ。
そこで始まったのが軒先商いだった。上がり框にガラス瓶をひとつ置いて、飴玉を何銭かで売る。棚もレジもいらない。仕入れは問屋から少量ずつ、現金で。
近所の子が一人買いに来ると、翌日には三人になった。子どもの口コミは大人の商圏調査より速い。瓶が二つになり、三つになり、土間に板を渡して棚になった。看板を出す頃には、もう店と呼ばれていた。
第二の波を作ったのは年金世代だ。高度成長が終わり、持ち家のある老夫婦が小遣い稼ぎに軒先を開ける。家賃はゼロ、人件費もゼロ、仕入れだけが原価。団塊ジュニアが学校に溢れていた時代、それでも十分に回った。
だから店主は高齢の女が多かった。若い男がやる商売ではない。座って釣り銭を渡していられる人間、家にいる時間が長い人間、それが婆さんだったというだけの話だ。
十三万軒が、二万軒になるまで
数字で見ると、この商売の消え方は異様に速い。ピークは一九七二年前後で、全国に十三万軒ほどあったとされる推計がある。一九八七年には約二万軒。十五年で六分の一になった。
経済産業省の商業統計をもとにした報道では、菓子小売業の事業所数が二十年で七割以上減り、二〇一四年には約一万四千になっていた。この数字には駄菓子屋以外の菓子店も入る。純粋な駄菓子屋だけを数えれば、もっと少ない。
同じ時期にコンビニは増え続けた。一九七四年に国内一号店が開き、そこから四十年で五万店を超える。子どもの菓子を売る場所の総数は減っていない。減ったのは、子どもだけを相手にする場所だった。
一九八〇年代の町には、まだどこにでもあった。大分県で集められた住民の記憶では、ひとつの校区に四軒も六軒もあった地区が珍しくない。学校、公園、神社、その三点を結ぶ線の上に必ず一軒はあった。
いま同じ校区を歩いても、一軒も見つからない場所のほうが多い。
始発に乗って、問屋街へ
仕入れ先は問屋街。大阪なら松屋町、東京なら台東区の蔵前と浅草橋、名古屋なら西区の明道町。玩具と花火と駄菓子を同じ通りで揃えられる場所が、全国に数えるほど存在した。
明道町の由来は古い。名古屋城の築城に集まった職人へ菓子を売ったのが始まりという話が残る。下級武士が内職で旅人に菓子を売り、それが菓子製造の集積になった。昭和の初めには製造所が百三十を超えていた。
関東大震災も効いている。被災地の子どもへ菓子を送る動きと、東京から流れてきた職人の受け入れ。あの震災のあと、名古屋の菓子は一段と厚みを増した。
名古屋の問屋街を支えたのは学校の子どもだけではない。嫁菓子という風習があった。婚礼のとき、花嫁の生家から親族が大量の駄菓子を家の二階から撒く。近所の人間が拾いに集まる。その菓子をまとめて買う場所が明道町だった。
駄菓子屋の店主は、月に一度か二度、始発に近い電車でそこへ出た。段ボールを台車に積み、紐で縛り、電車で持ち帰る。車を持たない老人には重労働だった。
問屋が廃業すると、店も連鎖して閉まる。仕入れ先が一軒減るたび、取り扱える種類が減る。棚が寂しくなると子どもが来なくなり、来なくなると仕入れが減る。この縮小は一方向にしか進まなかった。
松屋町は今も問屋街として残る。ただし主な客は駄菓子屋ではない。イベント業者、学校行事の担当者、景品を探す町内会。卸す先が小売店から行事に変わった。
重さが問題だった。段ボール十箱分の駄菓子は見た目より軽いが、台車に積んで駅の階段を上り下りするとなると七十過ぎの体にはこたえる。だから頻度が落ちる。月二回の仕入れが月一回になり、やがて二か月に一度になって、そのぶん棚の隙間が目に見えて広がった。
十円で売って、取り分は二円
この商売の数字を知ると、多くの人は驚く。駄菓子の仕入れ値は、小売価格のおよそ八割だ。十円のものを八円で仕入れる。一本売って二円。
百本売って二百円にしかならない。千本売って二千円。子どもが一日に落とす金は三十円から百円で、一日に三十人来て、粗利は千円に届くかどうか。これで家賃を払ったら即座に潰れる。
だから持ち家でしか成り立たなかった。土間を店にして、家賃を計上せず、人件費も数えない。年金か遺族年金が別にあって、店の売上は補助線にすぎない。その構造が崩れた瞬間に店は消える。
消費税も効いた。うまい棒は一九七九年の発売から四十二年以上、十円のまま売られていた。二〇二二年に十二円へ、その後さらに十五円へ上がる。
東京の雑司ヶ谷にある上川口屋は、この値上げを機にうまい棒の仕入れをやめている。十三代目の店主の言い分は明快だった。十二円に税を乗せると十三円になる。子ども相手にその勘定は面倒すぎる。
十円という数字には、会計上の意味があった。一円玉の釣りを出さずに済む。子どもが暗算できる。財布を持たない小学生が、握った小銭のまま計算できる。この三つが同時に崩れた。
二〇二四年の時点で、上川口屋が十円で売れるものは四種類しか残っていなかった。水飴、バラのキャラメル、きなこ飴、風船ガム。かつて百種類を並べていた店の、これが現在地だ。
「あのくじ、当たりは入ってないんだって」
校区ごとに必ず流れていた噂がある。あの店のくじには最初から当たりが入っていない、という話だ。言い出したのは決まって、何十回引いても外した子どもだった。
この噂が強かったのは、当てもんの構造そのものが疑いを生むように出来ていたからだ。台紙に貼られた小さな紙をめくると番号が出る。一等の景品は棚の一番高い場所に吊るされ、誰も取れないまま何年も色褪せていく。あの景品が動かない事実は、子どもの目には証拠に見えた。
実際の仕組みは単純だ。問屋から届く当てくじは、一束ごとに当たりの本数が決まっている。メーカーが封入した状態で束になっていて、店主は中身を知らない。
つまり店の側が抜くとすれば、束を開けて番号を照合する手間がいる。十円の商売でそこまでやる人間は、まずいない。手間賃のほうが高くつく。
ただし、噂がまったくの嘘だったとも言い切れない。一等の景品は店主が自分で用意する方式の商品が昔はあった。仕入れた景品を出し惜しみする店、当たりが出ても別の菓子で代替する店、そういう話が各地に残る。
景品表示法の側から見ると、当たりのないくじを当たりありと称して売るのは不当表示にあたる。ただ、この法律が本格的に露店や小売の景品くじへ向けられるようになったのは、ずっとあとの時代だ。昭和の店先は、法の網の外側でのんびり回っていた。
面白いのは、当たりを引いた子の証言がまったく信用されなかった点だ。「俺、一等出したことある」と言った子は、たいてい嘘つき扱いされて終わる。当たりは存在しない、という共同の信念のほうが、実物より強かった。
この構造は怪談の作り方とよく似ている。誰も見ていないものが確実に在ると信じられ、見たと言う者が排除される。駄菓子屋のくじは、小学生が最初に触る陰謀論だった。
束には値段が付いている。当てくじは一束いくらで卸され、その束を売り切ったときに店側へいくら残るかが、最初から逆算して設計されていた。途中でやめると赤が出る。売れ残った台紙を捨てる店と、半年でも一年でも棚に貼り続ける店の差が、あの色褪せ方の違いになった。
宝引から当てもんへ
当たり付き菓子の起源は、はっきりしない。石川県立図書館が調べた記録では、なぜ当たりを付け始めたかを明記した資料は見つからなかったと結論されている。
分かっているのは、射幸心を煽る子ども向け商品が明治期から存在した点だ。ガラガラ煎餅、糸引き飴、紙の当てくじ。仕組みはすでに完成していた。
源流として名前が挙がるのが宝引だ。室町から江戸にかけての賭博で、細い縄を何本も束ね、景品を付けておき、参加者に引かせる。正月の座敷で大人が銭を賭けてやっていた遊びだった。
幕末には飴を景品にした「あめ宝引」が現れ、子どもが参加するようになる。明治に入って賭博の取り締まりが厳しくなると、大人の賭場から締め出された仕組みが子どもの遊びに偽装されて生き延びた。当てもんの本質は、縮小された賭場だ。
糸引き飴を思い出してほしい。何十本もの糸が箱から垂れ、どれを引くかを自分で決める。引いた先に何が付いているかは分からない。宝引の縄が糸になり、景品が飴になっただけで、形はほぼそのまま残った。
子どもは学校で九九を覚えるのと並行して、確率と損切りと自己責任を十円単位で体に入れていた。親は誰もそれを教育とは呼ばない。
正月の遊びだ。宝引は座敷に大人が集まって銭を賭ける正月の娯楽で、子ども向けの菓子とは本来まったく縁のない場所で回っていた。それが下に降りてきた。取り締まりが厳しくなるたび、賭けの仕組みは金額を下げ、客の年齢を下げながら、生き残れる場所へ移っていく。
型抜きは、削りすぎると割れる
当てもんの中でも型抜きは別格の扱いを受けていた。花や鳥の絵型が浅く刻まれた板状の菓子を、爪楊枝や画鋲の先で少しずつ削り、輪郭の線に沿ってきれいに抜く。割らずに抜ければ景品が出る。
全盛期は昭和三十年代だった。東京の子どもの間で流行っていたものを関西でいち早く製造したのが、大阪の西成にあるハシモトという会社だ。創業は昭和十年頃、もとは和菓子店だった。
テレビが普及すると、子どもの時間の使い方が変わる。昭和四十年代に入ると製造業者が次々と廃業し、型抜きを作る会社はどんどん減った。いまも作り続けているのは国内で一社だけ。三代目が継いでいる。
削りの実際はかなり残酷だ。菓子は乾燥した砂糖と澱粉の塊で、中心に近づくほど脆くなる。星や扇のような角のある形は、最後の一押しでまず割れる。プロのモデラーが本気で挑戦しても失敗する程度には難しい。
店先には、削り粉の落ちた新聞紙が敷いてあった。子どもは座り込み、息を止め、周りは黙って見ている。あの数分の集中は、教室では一度も起きなかった種類の集中だった。
景品は大きくない。型抜きの当たりで手に入るのは十円か二十円の菓子か、せいぜい五十円の駄玩具で、費やした時間に見合う額ではなかった。それでも子どもはやる。割れた瞬間に周りから上がる声と、抜けたときの短い沈黙が、景品よりはるかに大きな報酬だった。
もんじゃの鉄板と、ソースせんべいの刷毛
食べ物の記憶は、味より器具のほうが残る。駄菓子屋のもんじゃは、店の土間に置かれた小さな鉄板で焼いた。紙コップに入った薄い生地を子どもが自分で流し、ヘラで押さえつける。
具はキャベツの切れ端と天かすと、当たりくじで手に入れたベビースターくらい。ソースの匂いだけが強烈で、味は正直たいしたものではなかった。それでも順番待ちの列ができた。
ソースせんべいは、薄い丸い煎餅にウスターソースへ近い液を刷毛で塗り、二枚重ねて渡す形式が基本になる。梅ジャムを乗せる地域もあった。刷毛は洗われていない。
粉末ジュースの歴史も駄菓子屋と絡んでいる。一九五〇年代に家庭向けの大ヒット商品として広まり、甘味料のチクロが問題視された昭和四十年代半ばに市場が崩れた。生き延びた先が十円の小袋だった。
子どもは袋を公園で破り、水道の水を直接注いで飲む。粉を先に口へ入れてから水を飲み、口の中で泡立たせる遊びをやる者もいた。飲む行為そのものが遊びとして設計された最後の世代だ。
ヨーグルと呼ばれた白いクリーム、木のへらで掬うあの十円の菓子も同じ系統にある。食べる時間より、蓋を剥がす瞬間のほうが商品価値だった。
保健所は来なかった。土間の鉄板で子どもが自分で焼くもんじゃは、いまの衛生基準に照らせば営業許可の下りる余地がほとんどない。当時は誰も問わない。食中毒の話を聞いた記憶がないという証言は各地に共通していて、真偽はともかく、そういう空気の中の商売だった。
通学路の地図には、載っていない一軒
学校と駄菓子屋の関係は、はじめから緊張をはらんでいた。寄り道禁止という校則を持つ学校は多く、通学路の指定図に店の位置がわざと書かれていない例すらあったらしい。
理由のひとつは衛生だ。量り売りの菓子、素手で掴む景品、洗わない刷毛。保健所の視点で見れば、あの店は毎日が綱渡りだった。
もうひとつは金銭だ。小学生が自分の判断で現金を使う場所は、当時ほかになかった。持ち金の多い子が奢る、奢られた子が返せない、そこから貸し借りが始まる。PTAが問題視したのは主にこの部分だった。
万引きの温床という言い方もされた。実際、あの店の構造は防犯の目で見れば穴だらけだ。店主は障子一枚隔てた奥の間にいて、土間の棚は死角だらけ。手を伸ばせば誰でも取れた。
それでも店は潰れなかった。子どもの側に、あの婆さんに見られているという感覚が常にあったからだ。姿は見えない。けれど奥から声だけが飛んでくる。
「そこの棚、触ったね」
この一言の破壊力を知っている大人は、いまも多い。見られていないと思っていた時間が、まるごと見られていた。学校の監視より、あの家の奥からの監視のほうが精度が高い。
回覧板にも載った。学校帰りに買い食いをさせないよう家庭でも指導してほしい、という趣旨の文書が、年度の初めに町内会を通って各戸へ配られる。効果は薄い。配る側の大人自身が子どものころに同じ店へ通っていたから、本気で止める気のある人間は少なかった。
灯りが点いている店
婆さんが死んだあとも、あの店の奥の灯りだけは夜になると点く。この形の話は、全国の校区で判で押したように語られてきた。
型としてはこうだ。店は葬式の翌日から閉まり、シャッターが下り、雨戸も閉め切られている。ところが夜の九時を過ぎたころ、シャッターと地面の隙間から、細い橙色の光が漏れていると誰かが言い出す。
確かめに行く役はたいてい六年生で、下級生を五、六人連れて自転車で乗りつける。隙間を覗き込むと、奥の間の蛍光灯ではなく裸電球のような弱い光が、土間の一部だけを照らしているのが見える。そこまで見たところで背後の下級生が悲鳴を上げ、全員が自転車を倒しながら逃げるところまでが型になっている。
翌日の教室で語られるとき、光の色だけが妙に細かく再現される。蛍光灯の白ではない、黄色くて、揺れていた。誰かが「ろうそくじゃないの」と言うと、全員が黙る。
派生版では、光ではなく音が来る。釣り銭を数える金属の音、木の棚を引く音、あるいはラジオの野球中継。夏の話では決まってラジオになる。あの店の奥には、いつもナイター中継が小さく鳴っていたからだ。
もうひとつの派生は、光の理由が後から説明される型だ。電力会社が契約を切り忘れていた、遺族が月に一度掃除に来ていた、隣家の窓の反射だった。合理的な説明が付いた瞬間に話は死ぬ。それでも次の学年には、説明なしの初期型がまた戻ってくる。
伝播は速い。灯りの話は金曜の夕方に誰か一人が言い出すと、週明けの月曜には学年全体が知っていて、水曜には下級生まで届く。消えるのも速い。次の学期が始まる頃には誰も口にしなくなり、その代わり別の家の別の窓で、同じ構造の話が立ち上がっていた。
障子の向こうの部屋
駄菓子屋の建物は、店と住居が障子一枚で仕切られている構造が標準だった。土間が売り場、その奥に畳の間があり、家族の生活がそこで営まれている。
子どもの視点から見ると、あの障子は世界の境界線だった。向こう側には入れない。入ってはいけないと誰かに言われた記憶はないのに、全員が入らなかった。
だから噂は必ず奥の部屋に集まる。あの店の奥には婆さんの死んだ息子の部屋がそのまま残されていて、毎日ご飯が供えられているという話。奥に入った子が二度と出てこなかったという話。店主が一度だけ「入りなさい」と言った子どもがいて、その子は翌年に黙って転校していったらしい。
実際には、奥の間は単に生活空間だったにすぎない。煮物の匂いがして、テレビの音がして、仏壇があって線香が焚かれている。子どもが怖がった線香の匂いは、単に家族の誰かが死んでいるというだけの、どの家にもある匂いだった。
ただ、ある種の店は本当に薄暗かった。築百年を超える木造で、引き戸が錆びて開かず、昼の三時でも店内はワインセラーの奥のような暗さだったと書き残している人がいる。
そういう店では、店主の登場のしかたが恐怖の中心になる。声をかけても誰も出てこない。目を凝らしていると、暗がりの奥でぼやけた輪郭がゆっくり大きくなってくる。足が悪ければ、それが一分近く続く。
あの一分の体感が、のちに怪談の骨格として使い回された。暗い奥から、人の形をしたものが、時間をかけて近づいてくる。実体験を先に持っていた子どもたちは、話の部品を最初から手元に持っていた。
音で分かる。障子が開く前に、畳をこする足音と、立ち上がるときに柱へ手をつく音が必ず先に届いてくる造りだった。その間が長い。足の悪い老人が奥から土間まで出てくるのに一分近くかかり、その一分を子どもは黙って立ったまま待たされる。
二階の窓から見ている誰か
店の二階に誰かがいる、という型もよく出てくる。これは建物の構造から自然に生まれた噂だ。駄菓子屋の多くは二階建ての住居で、一階の土間だけが開放され、二階は完全に子どもの視界の外に置かれていた。
証言の形はだいたい決まっている。店の前で友達と話していて、ふと顔を上げると二階のガラス窓にレースのカーテン越しの人影が見える。手を振ると、影も動く。次に見たときには、もういない。
店主は一人暮らしだと全員が知っている。だから二階にいるはずの人間はいない理屈になり、そこから話が伸びる。娘だ、息子だ、死んだ旦那だ、あるいは店主がもう一人いる。
この噂が面白いのは、大人が聞くとだいたい解決してしまう点だ。実際には同居している家族がいたり、間借り人がいたり、仏間に飾られた遺影がカーテン越しに人影に見えていたりする。
それでも子どもは納得しない。納得しないというより、納得したくない。校区にひとつは説明のつかない窓が必要だという要請が、先にあった。
窓は磨りガラスが多い。昭和の住宅の二階は磨りガラスかレースのカーテンで塞がれていて、中の様子は輪郭までしか外からは見えない。輪郭だけが残る。顔が見えず、性別も年齢も分からない人影は見た子どもの側で自由に補完され、翌日には細部まで揃った話に育つ。
食べると死ぬ駄菓子
味の怪談も無数にある。最も広く流れたのは、特定の菓子を二種類同時に食べると死ぬという型だ。組み合わせは地域ごとに違い、梅ジャムと炭酸、酢だこさん太郎とガム、粉末ジュースと牛乳など、その都度もっともらしい理由が付けられた。
背景には実際の出来事もある。昭和四十年代、甘味料のチクロと合成着色料の安全性が問題になり、粉末ジュースの市場が一気に崩れた。親の世代には、あの手の安い菓子は体に悪いという実感が確かに残っていた。
「あんなもん食べたらいかん」という親の一言が、子どもの側で翻訳される。体に悪いが、死ぬに変換されるまでにさほど時間はかからない。
より具体的な型もあった。あの店の菓子には賞味期限の切れたものが混ざっている、店主が古い在庫を奥で詰め替えているという話。これは半分は当たっていて、回転の悪い店では確かに古い商品が棚の奥で眠っていた。
さらに凶悪な版になると、店主が意図的に何かを入れているという話になる。これは噂としては相当に広く流れたが、根拠になった事件はどこにも記録されていない。子どもが嫌いな婆さんという一点だけで、話は成立してしまう。
毒の噂には前史がある。一九八四年から翌年にかけて起きた菓子への毒物混入の事件は、テレビと新聞で連日扱われ、子どもも内容を断片的に知っていた。店は関係ない。それでも包装の破れた菓子を親が捨てさせる行動が家庭ごとに起き、その記憶が個別の店の噂へ流れ込む。
店ごと消えた、という話
いちばん怖い型は、幽霊が出る話ではない。店そのものが無くなる話だ。
金曜日に友達と行った店へ、月曜日にもう一度行く。角を曲がると、そこには更地がある。基礎のコンクリートすらなく、雑草の生えた土だけが広がっている。近所の大人に聞くと、あそこには昔から何も無いと言われる。
この型は、実際の再開発と区別がつかないところに不気味さがある。道路拡幅で立ち退いた店、区画整理で消えた店、耐震の問題で解体された店。行政の都合で一週間のうちに更地になる建物は、現実に存在した。
大田区のある菓子店は、親子二代で七十年続いた末に解体された。近くを通りかかった人が、外観がまるごと消えていることに気づいて初めて閉店を知ったという記録が残る。
つまり店ごと消える体験は、怪談ではなく日常だった。子どもの生活半径では、予告も説明もなく風景が一枚入れ替わる。あの体験を言語化する枠が怪談しかなかったから、全部そちらへ流れ込んだ。
更地は白い。解体直後の土地は砕いたコンクリートが撒かれていて、周囲の家並みより明るく、そこだけ光が余っているように見える。匂いも変わる。線香と砂糖と埃の混ざった土間の匂いが消え、代わりに湿った土と重機の油の匂いが数日だけ角に居座った。
代替わりしたら、別人だった
長く続いた店では、途中で店主が替わる。婆さんが入院し、娘が店番に入り、やがて娘がそのまま継ぐ。子どもの目にはこれが不可解な現象として映った。
顔が違う。声が違う。おまけに前より愛想がいい。それでも店の名前は同じで、棚の配置も同じ。ここから生まれるのが、店主がすり替わっているという型だ。
この噂には妙にリアルな細部が付くことが多かった。前の婆さんは左手の指が一本欠けていた、新しい人は両手が揃っていた。前の人は自分の名前を覚えていた、新しい人は初対面のように扱う。
代替わりの際に屋号ごと売買される例も現実にあった。建物と在庫と看板を引き継いで、血縁のない人間が同じ名前で営業を続ける。子どもは契約の話を知らないから、同じ店で別人が立っている事実だけを受け取る。
化けた、と子どもは言う。あの婆さんは本当は前から化け物で、寿命が来たから別の形に変えただけだ。この解釈は、生物としての老いをまだ知らない年齢では、いちばん筋が通っている。
屋号は資産だった。校区の子ども全員が場所と名前を覚えている状態は、小売の商売として見ればかなり強い無形の資産にあたる。だから名前は残す。建物と在庫と看板をまとめて引き継ぎ、血縁のない人間が同じ屋号で店を開け続ける例は各地にあった。
三十円を握って、毎日通った側の話
一九八〇年代前半に関東の郊外で育った人から聞いた話を、ほぼそのまま書く。校門を出て五十メートルの場所に、木造の平屋の店があった。
朝、母親から百円玉をもらえる日は月に二、三度しかなく、ふだんは十円玉を三枚だけ財布代わりのポケットに入れて登校していた。授業中はずっとその三十円で何を買うかを考えている。時間割より、放課後の配分のほうが真剣な計算対象だった。
店には常に序列があった。六年生が土間の真ん中に座り、低学年は棚のいちばん端で待つ。順番を抜かすと殴られはしないが、次の日からくじの台紙を触らせてもらえなくなる。
店主の婆さんは八十近くで、耳が遠く、声をかけても三回に一回しか反応しない。その代わり万引きの気配だけは異様に察知した。障子の向こうから「そこの子」と一言飛んでくる瞬間の、土間の空気の凍り方を、この人は四十年経っても覚えていた。
一度だけ、くじで一等を引いたことがあるという。棚の上で埃をかぶっていた大きなプラモデルの箱が下ろされ、婆さんは無言でそれを手渡す。おめでとうも、よかったねも、一切なし。
家に持って帰ると、母親が最初に疑った。どこで盗んできたのかと詰められ、店まで一緒に行って確認させられる。婆さんは一言、当てたよ、とだけ言った。
それ以来、この人はあの婆さんを怖いとは思わなくなったらしい。恐怖が消えた理由を本人はうまく説明できず、ただ「証言してくれたから」とだけ言っていた。学校の先生でも親でもない大人が、自分の側に立った初めての経験だった。
店は一九九〇年代の半ばに閉まる。婆さんが施設に入り、建物はそのまま数年残り、やがて駐車場になった。最後に買ったものが何だったかは、どうしても思い出せないという。
店番をさせられていた、孫の側の話
別の証言は、店の内側から来ている。九州の地方都市で、祖母の駄菓子屋の店番を小学四年から六年まで任されていた人の話だ。
平日の午後四時から六時まで、祖母が夕飯の支度をする間、土間に座って釣り銭を渡す係だった。同級生が客として来る。この構図が地獄だったと本人は言う。
まず、同級生は必ずまけろと言ってくる。三十円のものを二十円にしろ、当たりを出せ、奥から新しい箱を出せ。断ると翌日の教室で扱いが変わる。十歳の人間関係に、商取引が直接持ち込まれた。
祖母から教わったのは三つだけだった。釣り銭は必ず相手の手のひらに置くこと、まけないこと、そして泣いている子には何も売らずに座らせておくこと。三つ目の理由は説明されなかった。
実際、泣きながら来る子はいた。家で叱られた子、友達と喧嘩した子、成績表を持って帰りたくない子。祖母はそういう子を土間の端に座らせ、麦茶を出して、何も聞かずに三十分ほど放っておいた。
この人が言うには、あれは商売ではなく、たぶん監視の代替だ。当時は共働きが増え始めていて、鍵っ子が校区に何十人もいた。夕方の二時間、どこにいるか分からない子どもを土間へ集めておくこと自体に、地域としての用途があったらしい。
くじの仕組みも内側から見えていた。当てくじは問屋から封のされた束で届き、祖母が中身をいじる場面は三年のあいだ一度もない。当たりが出ない期間が続くと、祖母は自分の金で景品を買って台紙の裏へ足していたという。
だから「あの店は当たりが入ってない」という噂を教室で聞くたび、この人は黙っていた。反論すると店番をしている事実がばれる。中学に上がる直前に祖母が倒れ、店はそのまま開かなくなった。
閉店の日に立ち会った、大人の側の話
三つ目は、閉店の側から。二〇一〇年代に入ってから、自分の通った店の最後の日に居合わせた人の記録だ。
きっかけは地元の同級生グループの連絡だ。あの店が今月いっぱいで閉まるらしい、という短い一文が回ってきて、その週末に三十代と四十代の男女が七人ほど集まった。誰も子どもは連れていない。
店主は九十近い女性で、すでに立っているのがやっとだという。棚の半分は空で、残っていたのは糸引き飴と麩菓子と、箱の潰れたベビースター。冷凍庫の電源はとっくに落ちていた。
集まった全員が、当時のように十円玉と百円玉で買った。レジはなく、菓子箱の隣に置かれた古い煎餅の缶へ現金を入れる方式のまま。店主は一人ひとりの顔を見て、誰の子かを言い当てようとして、二人か三人しか当たらなかった。
閉店の理由は単純で、仕入れができなくなったからだ。長年取引していた問屋が三年前に廃業し、別の問屋は最低ロットが大きすぎて受けてくれない。ネット通販で買うという発想は本人にはなかった。
最後の客は近所の小学生だったという。名前も知らない子が二人、いつも通りに入ってきて、いつも通りに二十円分だけ買って出ていった。閉店の貼り紙は、その子たちが帰ったあとに出された。
シャッターを下ろす音が、思っていたより軽かったと記録には書かれている。建物は翌年に解体され、いまは三台分の月極駐車場になった。
コンビニが来た年から、数え始めるといい
店が消えた理由を並べると、怪談の入る隙間はほとんどない。第一はコンビニだった。一九七四年に国内一号店が開き、八〇年代には校区単位で見える距離に入り込んでくる。
コンビニは駄菓子屋の上位互換ではない。売っているものは違うし、単価も違う。ただし、子どもが小銭を握って一人で入れる店、という一点だけは完全に重なる。
棚の高さが違う。コンビニの菓子棚は大人の視線に合わせて設計されていて、小学生の背丈では上の段に何があるか最初から見えない。それでも子どもは行く。自動ドアが開き、明るくて、誰にも声をかけられず、何も買わずに出ても咎められない空間は強かった。
スーパーの菓子売り場も効いた。親の買い物に付いていき、十個入りの袋菓子を一袋だけ買ってもらう。単価あたりの量では圧倒的に得で、帰り道の三十円が意味を失う。
少子化はいちばん分かりやすい要因に見えて、実際には決定打ではなかった。子どもが半分になっても店が半分になるだけで、六分の一にはならない。現場の人間が口を揃えるのは、店主の高齢化と後継者不在のほうだ。
継ぐ側から見ると、この商売は成立しない。粗利二割、年商にして百万円台、休みは年に数日、立地は自宅固定。これを職業として選ぶ理由が見つからない。
問屋の廃業も連鎖的に効いた。小売が減れば卸が減り、卸が減れば小売の仕入れが細る。この二つは同じ速度で沈んでいった。
道路拡幅と区画整理も、数としては相当ある。学校の前の道は通学路として拡幅の優先順位が高く、木造の古い店舗が最初に立ち退きの対象になった。営業補償を受け取った時点で、高齢の店主が再開する理由はなくなる。
消費税は最後の一押しだった。十円という単価に三パーセントが乗った一九八九年、五パーセントになった一九九七年、八パーセントの二〇一四年。そのたびに値段の切りのよさが壊れ、釣り銭の計算が面倒になった。
放課後の動線が変わったことも大きい。学童保育の登録児童数は増え続け、二〇二六年五月の時点で全国で百六十万人を超えている。前年度からだけで三万人以上増えた。
学童に入った子は、下校後まっすぐ施設へ行き、夕方に親が迎えに来る。校門から家までのあいだを寄り道しながら歩く二時間そのものが、制度によって消えた。駄菓子屋が立っていたのは、まさにその二時間の上だった。
「あの店、まだあるかな」と検索する大人たち
いま駄菓子屋の名前を検索している人間の大半は、子どもではない。三十代から五十代が、自分の通った店の屋号を思い出そうとして検索窓に町名を打ち込んでいる。
出てくるのは地図サービスの古い情報と、閉店を知らせる個人のブログ。地図の口コミ欄には、十年前に書かれた「まだ営業してました」という一行と、その下に三年前の「解体されていました」が並ぶ。
閉店報告が拡散する現象は、二〇一〇年代の後半から目立つようになった。誰かが撮った最後の一枚が拡散し、行ったこともない人間が数万人単位で反応する。写っているのは自分の店ではないのに、全員が自分の店として見る。
この共有のされ方は、かなり特殊だ。駄菓子屋の外観は全国でほぼ同じ形をしていて、色褪せた庇、ガラスの引き戸、アイスの冷凍ケース、自販機、壊れたガチャガチャの台。部品の組み合わせが同一だから、他人の記憶の写真が自分の記憶として機能してしまう。
閉店した店の備品が話題になる例もある。店内に残されていた古い物が、片付けの過程で写真に撮られ、想定外の反応を集める。誰かが捨てようとしている粗大ごみが、別の誰かにとっては二十年ぶりに見る実物になる。
掲示板の側では、もう少し陰気な語られ方をしてきた。あの店の婆さんは死因が変だったという書き込みに、同じ校区の人間らしき匿名が反応し、細部が食い違いながら話が膨らんでいく。裏の取れない話ほどよく伸びる。
同じ店について「怖かった」と「優しかった」が並んで投稿されることも珍しくない。どちらも嘘ではない。学年が二つ違えば、同じ人間の対応はまったく違って見えた。
ショッピングモールの中にある「駄菓子屋」
レトロブームが来てからの十年で、駄菓子を売る場所自体は確実に増えた。商業施設の一角に入る量販型の店、観光地の横丁、駅前の複合施設。京都の二条駅には、昭和レトロを丸ごと再現した大型の駄菓子施設が二〇二五年に開いている。
量販型の店は、品揃えと清潔さでは昔の店を圧倒する。三百種類以上を並べ、カゴを持って選び、レジでまとめて精算する。会計は一円単位まで正確で、当たりくじの景品も透明なケースに入っている。
この形態を「本物の駄菓子屋ではない」と言う人は多い。その言い分の中心にあるのは品揃えではなく、大人の存在の仕方だ。昔の店には、値段を決める権限と、叱る権限と、まけてやる権限を同時に持った人間が一人座っていた。
量販型にその一人はいない。店員はいるが、権限はない。子どもは客として正確に扱われ、正確に扱われるからこそ、そこに関係は生まれない。
一方で、あの頃の店が理想化されすぎだという指摘も当然ある。不衛生だったし、依怙贔屓は日常で、気に入られない子どもは露骨に冷たくされた。くじで揉めれば店主の一存で決着し、上級生の暴力は黙認されていた。
昭和レトロ商品を集めた展示施設も各地にある。伊香保の玩具博物館、駄菓子屋の夢博物館のような形で、商品と店構えが資料として保存される方向に進んだ。売り場が展示室に変わった時点で、あの商売は歴史になった。
いまも開いている土間
それでも、昔のままの形で開いている店はまだある。東京の雑司ヶ谷、鬼子母神の境内にある上川口屋は、一七八一年の創業から二百四十年以上続く。十三代目の店主は八十を超え、いまも一人で店先に座る。
熱海の和田たばこ店は昭和二十八年の創業で、八十七歳の店主が駄菓子と一緒にレトロゲーム機を十五台ほど動かしている。中でも店主の自作という十円玉のゲーム機は昭和五十四年の完成で、当時二百台ほど世に出た機械だ。成功すると駄菓子の箱が一個出てくる。
福岡県北九州市の戸畑区には、百年続いた店を駄菓子屋カフェとして二〇二〇年に開け直した例がある。店主は子育てと親の介護が一段落したあと、地域に必要な場所を自分で作ろうとして改装に踏み切った。
この店の方針が、昔の駄菓子屋の性格をよく残している。万引きが起きても犯人探しはしない。子どもに罪はなく、責任は関わる大人の側にある、という立場を店主は明言している。
奈良県生駒市には、まほうのだがしやを名乗る店が二〇二一年に開いた。百円で一枚から三枚の店内通貨を渡し、その通貨でカレーや飲み物と交換できる仕組みになっている。家の事情に関係なく誰でも入れる形を、最初から設計に組み込んだ。
こうした店に共通するのは、菓子で利益を出す構造を最初から捨てている点だ。夜は大人向けの酒場にする、二階を貸す、寄付を受ける。土間で十円の菓子を売る行為を、別の収入で支える形に組み替えた。
営業時間は短い。いまも開いている昔ながらの店の多くは、午後の二時間か三時間だけ開け、体調の悪い日はそのまま閉めている。予告はない。行ってみたら閉まっていたという報告が地図の口コミに並び、その頻度が上がった頃に、たいていその店は閉まる。
全国の子ども食堂は七千か所を超えた。家族や親族以外の小学生以下の子どもと関わる機会が「ほとんどない」と答えた大人は、二〇二三年の調査で約七割に達している。
つまり、あの土間が担っていた機能を、いまは制度と善意が分担して埋めている。駄菓子屋は事業として復活したのではなく、福祉の器として再利用され始めた。
棚の下の段は、菓子じゃなかった
土間の棚は、たいてい三段か四段に仕切られている。目の高さに来る上の段には当てくじの台紙と箱菓子が並び、その下に十円の袋物が雑然と積まれ、いちばん下の段には菓子ではないものが入っていた。
駄玩具と呼ばれた一群だ。銀玉鉄砲、紙風船、水鉄砲、セルロイドの吹き戻し、ゴム風船、ビニールのパラシュート人形、指にはめる爪の形をした作り物。値段の幅は十円から五十円。
メンコとビー玉は、この段の主役として長く君臨した。メンコは一枚十円前後で、絵柄はその時期のテレビ番組と野球選手に寄っていく。ビー玉は袋詰めで売られ、大きいものや色の濃いものには校区ごとに独自の相場がついた。
勝負の結果として現物が移動するから、この二つには通貨に近い性格があった。強い六年生の家には、袋に入りきらないほどのメンコが溜まっている。負けた側は、翌日また十円を握って店へ補充に来る。
つまり店は、子ども同士の経済のいちばん上流に位置していた。誰がいくら持っているかを、店主は毎日の売上の内訳としてだいたい把握している。あの婆さんが怖かったのは、家の事情まで見えていたからでもあった。
季節ものも扱っていた。夏はカブトムシとクワガタが虫かごごと店先に並び、秋になるとスズムシの鳴く箱が置かれる。冬は花火の代わりに紙の凧や独楽が入り、その入れ替えで子どもは季節を覚えた。
十円で買えたものを、思い出せる限り並べてみる
ベビースターラーメンの十円袋は、どの店の棚にも必ず刺さっている。中身は砕けた即席麺そのもので、袋の底に溜まった粉を最後に口へ流し込むところまでが作法だった。値段の割に満足度が高く、腹を膨らませたい子の第一選択だ。
酢だこさん太郎は、赤い粉と酸味の組み合わせが強烈な魚肉の薄いシートで、好き嫌いがはっきり割れた。同じ系統のキャベツ太郎や蒲焼さん太郎と並べて置かれ、太郎のつく菓子だけで棚が一区画を埋めていた店もある。
ヨーグルは、丸い容器に入った白いクリームを木のへらで掬って食べる十円菓子だ。乳製品ではなく、原材料の大半は砂糖と油脂と酸味料になる。食べる時間の短さと、蓋を剥がす瞬間の儀式性が、そのまま商品価値だった。
十円ガムは当たり付きの筆頭だった。包み紙の内側か、噛んでいる途中で出てくる紙片に当たりの印があり、もう一個と交換できる。当たりの出やすさは商品ごとに違い、子どもの間では銘柄ごとの体感確率が共有されていた。
あたり付きのアイスは、冷凍ケースの中に別格の位置を占める。棒の先に焼き印で当たりと入っていれば、その場でもう一本もらえる。夏の終わりに当たり棒を十本ほど溜め込んだ子が、九月の最初の週に一気に換えに来る光景があった。
糸引き飴、麩菓子、きなこ棒、もち太郎、ミルクせんべい。名前を並べていくと、どれも原価が極端に低く、砂糖と澱粉と気泡でできている点が共通する。安さを成立させていたのは、中身を空気で嵩増しする技術だった。
泣いている子を、座らせておく場所
駄菓子屋を語るとき、監視と保護は裏表になる。店主は子どもの顔と名前を覚え、誰がどの家の子で、誰と誰が仲が悪いかまで把握していた。その情報量が、叱る力の根拠になっていた。
叱り方は学校とは違う。理由の説明がなく、手続きもなく、いきなり結論だけが飛んでくる。触ったね、置きなさい、帰りなさい。この三語だけで完結する指導を、子どもは反論の余地なく受け取った。
その代わり、記録に残らないという利点があった。学校で起きた問題は担任へ行き、担任から親へ行く。店で怒られた話はそこで終わり、翌日には普通に売ってもらえる。閉じた場所で完結する叱責は、子どもにとって安全だった。
駆け込み寺の側面も各地の証言に出てくる。学校でいじめられた子、家に帰りたくない子、傘を忘れて帰れない子。店主は理由を聞かずに土間へ座らせ、しばらく置いてから帰した。
いまの言葉に直せば、あれは地域の居場所だ。ただし当時、その機能を誰も制度として認識していなかった。運営費も補助金もなく、十円の粗利の裏側で無償の預かりが行われていた。
学校とPTAが店を敵視していたのは、この機能が見えていなかったからでもある。金銭トラブルと衛生と万引き、表に出る問題はすべて店の側の落ち度に見える。裏側で起きていたことは、統計にも議事録にも残らなかった。
「あの店の裏を通ると、名前を呼ばれる」
怪談の派生形の中で、地味に広く分布しているのが呼び声の型だ。店の裏手、たいていは物置とブロック塀のあいだの細い通路で、自分の名前を呼ばれるという話になる。
声の主は姿を見せない。振り返っても誰もおらず、店は普通に営業している。返事をすると、その日のうちに家族の誰かが怪我をするという条件が付く地域もあった。
実際の構造を知ると、この話はかなり自然に成立する。あの手の店は建物の裏に住居の勝手口と物干しがあり、家族が普通に生活している。奥から誰かが別の誰かを呼ぶ声が、塀に反射して通路の側へ漏れた。
同じ音源から、別の型も生まれている。夕方になると店の裏で女が笑う、あるいは鍋を叩く音がする、深夜にミシンの音が聞こえる。生活音を怪異として受け取る回路が、子どもの側には最初から用意されていた。
怖い場所として指定された通路には、その後も誰も入らない。数年経てば、なぜ入ってはいけないかを説明できる子がいなくなり、禁止だけが残る。校区の禁忌は、たいていこの手順で作られていた。
シャッターの内側に残されたもの
閉店した店の片付けは、家族にとって相当な難事になる。土間の棚には売れ残りが数百種類あり、帳簿は手書きで、問屋との取引は口約束の部分が多い。相続の手続きを進める段階で、商品の在庫が値の付かない厄介な残骸に変わる。
処分の過程で出てくるものには、時代の層がそのまま重なっている。昭和四十年代の未開封の駄玩具、色の飛んだ当てくじの台紙、値上げのたびに書き直された手書きの値札。棚の奥からは、とっくに製造中止になった菓子の空箱が出てくる。
こうした品が処分の直前に写真へ撮られ、共有される機会が増えた。捨てる側にとっては粗大ごみでも、見る側にとっては二十年ぶりに実物を見る機会になる。閉店の告知より、片付けの写真のほうが拡散する。
ここ十年で、駄菓子屋は記憶の対象から記録の対象へ移りつつある。個人が地域の商店を撮り歩き、屋号と住所と閉店年を残す活動があちこちで始まった。記憶は持ち主が死ねば消えるが、記録は残る。
大田区の菓子店を追いかけた記録には、その発想がはっきり書かれている。地域遺産として登録し、記憶ではなく記録として残す。店が消えたあとに残せるものは、もうそれくらいしかない。
あの角を曲がると
最初の家に話を戻す。シャッターの桟に置かれた十円玉は、この記事を書いている時点でまだそこにある。
周囲の住人に聞くと、置いていく人間は一人ではないらしい。春先と、夏の終わりに多いという。同窓会の時期と重なっているのかもしれない。
婆さんの名前を覚えている元小学生は、ほとんどいない。屋号も正確には出てこない。それでも、土間の湿った匂いと、障子の向こうから飛んできた声の高さだけは、全員が同じように再現できる。
怖い大人の記憶は、優しい大人の記憶より正確に残る。担任の顔はぼやけ、不審者の話は他人事のまま風化して、あの店の婆さんだけが妙な解像度で居座り続けた。
次の角を曲がれば、同じ形の家がもう一軒ある。そこも去年までは開いていた。
