冬の教室のまんなかに、火があった。今の学校を思い浮かべると、たぶんこれがいちばんピンとこない。エアコンのリモコンがあって、設定温度は先生が握っていて、暖かさは天井から降ってくる。そういう暖房しか知らない人からすると、鋳物の塊がゴウゴウ唸って、赤黒くなって、そこに子どもが自分の手で燃料を放り込んでいたなんて、ちょっと信じがたい話だと思う。でも本当にあり、しかも全国で、何十年も。
だるまストーブ。石炭ストーブとも呼ばれる。ズンドウ。ルンペン。呼び方は土地によってばらばらだけど、教室の中心に火を置いて、その火の世話を子どもにやらせるという学校文化が、昭和のあいだずっと続いていた。
石炭当番、ストーブ当番、コークス係。バケツを持って石炭小屋へ行って、真っ黒になって帰ってきて、新聞紙をねじって、マッチを擦る。それが冬の朝の仕事だった。そして、火のあるところには必ず話が生まれる。誰もいない教室でストーブだけが燃えていた。
石炭小屋に閉じ込められた子がいた。石炭のはぜる音にまじって誰かが呼んでいる。火に手をかざしている子が、数えると一人多い。この記事は、その両方を書く。失われた学校文化の細部と、そこから立ち上がった怪談と、そして怪談ではなく現実に起きていた事故の記録を、まとめて一本にする。
- 教室のまんなかに、火があった時代の話をしよう
- 石炭バケツは十五キロ、そして廊下にぶちまける
- 新聞紙をねじる指、スギッパ、松ぼっくりの宿題
- ストーブの上は、教室でいちばん熱い政治だった
- 煙突がずれると、教室は一瞬で黒くなる
- 誰もいない教室で、ストーブだけが赤い
- 石炭小屋の扉が、外から閉まった
- 燃える音にまじって、名前を呼ぶ声がする
- 火に手をかざす子が、一人多い
- 宿直の夜、火を落としたはずのストーブが
- 煙突掃除の日に、落ちてきたもの
- 北の話は湿っていて、西の話は乾いている
- 体験談その一――東北の分校で、朝いちばんに火を見た子
- 体験談その二――北海道の旧校舎、石炭小屋の中で数えた音
- 体験談その三――平成の教室で、まだ石炭を燃やしていた
- 記録として読む――一酸化炭素は、匂わない
- 記録として読む――煙突、火の始末、そして木造校舎
- だるまストーブはどこへ行ったのか
- 懐かしむ声と、それを疑う声
- なぜ火のそばに、話が生まれるのか
教室のまんなかに、火があった時代の話をしよう
まず物としてのだるまストーブから。鋳鉄製で、腹のあたりがふくらんでいて、脚が生えている。上部に取り外しのできる蓋、正面に焚き口、その扉には回転式の空気調整穴が付いている。下のほうに火格子と灰の取り出し口。背中側から煙突が出て、教室の天井近くを横に這って、窓の上の丸い穴から外へ抜ける。
目分量で幅と奥行きが五十センチ、高さが九十センチくらい。学校用は「尺五」と呼ばれる大きめのやつだった、という証言もある。一般化したのは大正五年ごろからで、そこから昭和三十年代まで、日本の学校の冬はだいたいこれで乗り切っていた。もっと前をたどると、明治から大正の教室は火鉢だった。ただ火鉢というのは広い部屋には向かない。
四十人五十人が入る教室のまんなかに火鉢を置いたところで、暖まるのは半径一メートルの子どもだけだ。それで大正の途中から薪ストーブが入り、やがて石炭のだるまストーブに置き換わっていく。面白いのは、関東大震災のあと東京で鉄筋の校舎が建ちはじめたとき、蒸気暖房のセントラルヒーティングが導入されたという話だ。
当時の記録によると、室温を欧米並みの十七度から十九度に設定してみたら、家庭との温度差が激しすぎて子どもが風邪をひくようになった。それで十三度まで下げたという。今の基準だと教室は十八度以上が望ましいとされている。当時の学校が「暖かすぎる」と判断された十七度が、現代の下限とほぼ同じというのは、ちょっと立ち止まる話だと思う。それだけ家が寒かったということでもある。
燃料は戦前から昭和三十年代までが薪と石炭。三十年代後半からコークスへの切り替えが進む。コークスというのは石炭を高温で蒸し焼きにして、揮発分を飛ばした固体燃料で、煙が少なくて火力が強くて長く燃える。学校からすれば理想的だった。ただし火力が強すぎて、ストーブの胴体が本当に赤くなる。
北海道のある人の回想では、巨大な折りたたみ式の反射板でストーブを囲まないと近寄れないくらいだったという。そのコークスが、東京では思わぬ形で終わる。東京瓦斯がコークス製造を昭和五十一年三月で打ち切ったのだ。ガス製造の方式が変わって、副産物としてのコークスが出なくなった。当然、東京中の学校の暖房が一斉に燃料を失う。
ガス暖房に切り替えるには三百億円規模の金がいる、しかも燃料費が三倍かかる、という試算まで出たらしい。学校の暖房というのは、国のエネルギー政策の末端にぶら下がっていた設備なのだと、この一件でよくわかる。
石炭バケツは十五キロ、そして廊下にぶちまける
で、その火の世話を誰がしていたかというと、子どもだった。ここが今から見ると一番びっくりするところだと思う。手順はどこの学校でもだいたい似ている。まず朝、当番は普通より早く登校する。三十分から一時間くらい早い。
校舎の横、あるいは体育館の脇、あるいは渡り廊下の先にある石炭小屋、石炭置き場、貯炭場へ行く。ここに石炭かコークスが山になって積んである。スコップですくって、専用のバケツに入れる。学校によっては用務員さんが前の日のうちに教室ごとに小分けしてくれていて、当番はそれを受け取るだけ、というところもあった。このバケツが重い。
北海道のある人の証言では、スチール缶いっぱいで十キロから十五キロあったという。それを小学一年から三年の子どもが、軍手もなしで運んでいた。当然、手は真っ黒になる。服も黒くなる。そして転ぶ。
転ぶと廊下に石炭が盛大にぶちまけられる。「ドバアアアアア」と擬音付きで書き残している人がいるのが、なんというか、現場感がすごい。一年生のときは六年生に手伝ってもらって、二年生から自分たちで運んだ、という学校もある。石炭小屋そのものも、なかなかの場所だ。冬場は雪が積もっているし、屋根があっても中は真っ暗で、石炭の粉が舞っている。
「ちょっと嫌な仕事だった」と書いている人が複数いる。灯油に切り替わったあとの世代でも、保管庫は薄暗くて灯油臭くて恐ろしく寒い場所にあった、と証言している。要するに、燃料の置き場所というのは学校の中でずっと「行きたくない場所」だったわけだ。この感覚は、後で怪談の話をするときにすごく効いてくる。放課後の仕事もある。
ストーブの周りを掃除して、中に溜まった灰を掻き出して、校庭の隅に捨てに行く。火が残っていれば水をかける。翌朝すぐ使えるように整えておく。そこまでが当番の責任だった。ある人は、この後始末を忘れた朝に担任から六十センチの大きなそろばんで頭を殴られたと書いている。
「決められたことは必ず守れ」「学校が燃えたらどうするんだ」。今なら完全にアウトだけど、教師の側からすれば、木造校舎で火の始末を怠るということが本当に致命的だったという事情もある。
新聞紙をねじる指、スギッパ、松ぼっくりの宿題
着火が、また難しい。ここは体験者の証言がびっくりするほど一致していて、みんな「コツが要った」「個人差が大きかった」と言う。基本の順番はこうだ。まず焚きつけを用意する。新聞紙、細い枝、細く割った薪。
地域によっては杉の枯れ葉を使う。福島のある人はこれを「スギッパ」と呼んで、自宅から持参していた。兵庫の但馬では豆殻を持って行った。豆殻というのは大豆を脱穀したあとの殻で、これがよく燃える。しかも殻に大豆が残っていることがあって、ストーブの蓋の上でそれを焼いて食べると香ばしくて美味かった、という話まで残っている。
四国の山あいの学校では、そもそも近くに炭鉱がないから石炭ではなく薪で、生徒が自宅から薪を持ってきていた。薪のない商家の子は金を出していたらしい。千葉のある小学校の校長先生は、コークスが足りなくなると「松ぼっくりを拾ってくる」という宿題が出たと書いている。冬のはじめに全校で松ぼっくりを集める。今考えるとすごい光景だ。
学校の暖房の一部を、児童の労働と地域の自然物で賄っていたわけだから。新聞紙の扱いにもコツがある。一枚ずつ剥がして、くしゃくしゃにして空気を含ませる。あるいは逆に、固く固くねじって棒状にする。前者は火がつきやすいけど早く燃え尽きる。
後者は火持ちがいい。どちらを選ぶかは学校ごとの流儀があったらしい。共通していたのは「いかに紙を少なく使って木を燃やすか」という美学で、紙をたくさん使うのは下手くそのやることだった。そして最大の関門が、木の火を石炭に移すところ。ここで焦って大きい塊を放り込むと、火が押し潰されて消える。
消えたら最初からやり直し。だから粉になった小さい欠片から始めて、少しずつ大きくしていく。当番の朝は、この作業を煙にまかれながらやる。目が痛い。手が黒い。
教室は寒い。マッチの火花が怖くて、マッチ棒を長く持っていられない子は本当に苦労した。たまにラッキーな日があって、用務員さんが十能に火種を入れて持ってきてくれることがあった。十能というのは炭を運ぶ小さいスコップ状の道具で、これに赤い熾火が乗っている。それをストーブに移せばあとは楽勝だ。
この「たまに来る救いの手」が当番の記憶に強く残っているのが、なんとも人間くさい。兵庫の但馬では、そもそもその日ストーブを焚いていいかどうかが職員室前の旗の色で示されていたという。たしか白旗が使用可だった、と回想されている。冬でも暖かい日には焚かない。石炭の割り当ては一回分だけで、追加はない。
だから節約しながら使って、終業時にちょうど燃え尽きるように火加減を調整する。余った石炭は教室の床下の格納庫にしまっておいて、必要なときに出す。小学生がやっている作業として、なかなか高度だ。
ストーブの上は、教室でいちばん熱い政治だった
火がついてしまえば、あとはストーブが教室の中心になる。物理的にも、社会的にも。まず上に何を載せるか。定番はやかんだ。金網で囲まれたストーブの上に大きなやかんを置いて、湯気を出して教室の乾燥を防ぐ。
給食のない時代は、その湯を飲んだり弁当を温めたりした。「シンシンと鳴るストーブに、やかんからの蒸気の音が静けさのなかに響いていた」という表現を残している人がいて、これがたぶん当時の教室の音そのものだと思う。弁当の話は、この文化のクライマックスと言っていい。アルマイト製の弁当箱。アルミの弱点である腐食と傷を補うために表面処理をした、あの銀色のやつ。
専用の金網の籠がストーブの上にあって、そこに弁当箱を並べて積み上げる。ここで熾烈な場所取りが起きる。中央に置くと熱すぎてご飯が焦げる。だから中央に近い二段目くらいがベストポジションで、取り合いになった、と福井のある人が書いている。そして四時間目。
教室じゅうに、ご飯の焦げる匂いが広がってくる。授業どころではなく、おかずの匂いも混ざる。たくあん、煮物、佃煮。四国の人の回想では「香りはたいていお新香が発していた」とあって、香の物とはよく言ったものだ、と結んでいる。中学で弁当になった人の証言だと「おかずによっては匂った」とだけ書いてあって、こっちはこっちで正直だ。
牛乳もストーブで温めた。瓶詰めの牛乳を直接ストーブに乗せると割れるから、大きなやかんやタライに水を張って、湯煎にする。ただし全員分を同時に温めるキャパシティがないので、休み時間の短い間に少しずつ入れ替えて、給食の時間に間に合わせる。先生が手伝うこともあった。「牛乳は裏切らなかった」と書いている人がいて、給食の他の献立への評価と対照的なのが笑える。
北海道では、そもそも牛乳が凍っていたから温めるしかなかった。給食の食パンを煙突に貼り付けてトーストにする、という技もあった。ストーブの天板に直接乗せてもいい。放送委員が放送室の唯一のストーブでパンを焼いていた、というのは千葉の人の証言で、本人は「至福の時間であった」と書いている。干し芋を焼いた学校もある。
要するに教室の中心に調理設備があったようなものだ。濡れた手袋も干した。雪合戦をして濡れた手袋を、ストーブを囲む柵に引っ掛けて乾かす。北海道ではこれが日常だった。柵はそもそも安全のためのものなのに、いつのまにか物干しになり、遊具にもなった。
ある人はケイドロの「刑務所」としてストーブの柵を使っていたと書いている。冬になって火が入ると刑務所は閉鎖されて、用具置き場に移転する。そして席順。ストーブに近い席の子は顔が真っ赤になるくらい熱い。遠い席、特に廊下側のドアの脇や日の当たらない窓際は、ほとんど恩恵がない。
この不平等があまりに露骨だから、多くの学校で「一週間ごとに席をローテーションする」という運用が生まれた。席替えの理由が視力でも身長でもなく、暖房の輻射熱の分配だったというのは、今の学校ではまず起きない話だ。教室の中に温度の勾配があるということが、そのまま人間関係の勾配になっていた。休み時間にストーブの周りに集まるのも、人気者の周りに人が集まるのも、構造としては同じである。
煙突がずれると、教室は一瞬で黒くなる
この暖房方式には、はっきりした弱点があった。煙突だ。教室の煙突は、ストーブから真上に出て、天井近くを水平に何メートルも這って、外壁の丸い穴に抜けている。ブリキの薄い筒を何本もつないだもので、つなぎ目は差し込んであるだけだ。だから、子どもが遊んでいてぶつかると、あっさり外れる。
岐阜のある人の証言では、休み時間に煙突にぶつかって継ぎ目が外れて、石炭独特の臭い煙が教室じゅうに充満したという。風の強い日は、逆流する。煙突というのは上昇気流で引くものだから、外の風の向きや強さによっては、引きが止まって煙が室内に押し戻される。「風が強い日は煙が逆流して教室中が黒い煙に巻かれる」と、ある人ははっきり書いている。これは事故というより日常的なトラブルだった。
煤も溜まる。煙突の掃除用の蓋を開けると、驚くほどの煤が詰まっている。夏のあいだ煙突を外して放っておくと、鳥が巣を作ることもあった。だから冬の使いはじめには必ず点検が要る。この点検を怠ったまま火を入れると、詰まった煙突は排気を通さない。
排気が通らないということは、燃焼で出たものが全部教室に来るということだ。そして、いたずら。雪玉を煙突に投げつけてくっつける。靴底をストーブに擦りつけて溶かす。コップの水をストーブにかけて水蒸気爆発を起こして自滅して火傷する。
掃除当番が湯をストーブに注いだら灰が爆発的に舞い上がって、教室じゅうが降灰で真っ白になった、という北海道の証言もある。その後、雑巾がけで床を何往復もするはめになった。有名な「煙事件」もある。福島のある小学校で、先生に叱られた男子がやけくそになって石炭をどんどんくべはじめ、他の男子も面白がって全員でくべた結果、教室が黒煙で満たされた。
女子が先生を呼びに行き、飛んできた先生が「何をしたんだ、窓を全部開けろ」と叫んだ。犯人が特定できなかったのでクラス全員が校庭十周。雪が残っていて走りづらかった、という締めまで込みで、当時の学校のリアリティがぎゅっと詰まっている。不良が当番に当たった日に、先生に怒られた腹いせで椅子を壊して薪にした、という話もある。拳骨をくらったらしい。
火という道具は、子どもの手にあるとき、暖房であると同時に反抗の手段でもあった。
誰もいない教室で、ストーブだけが赤い
さて、怪談だ。ここからは話の型ごとに分けて書いていく。まず一番よく聞く形から。冬の放課後、あるいは日曜の午後。用事があって校舎に来た子が、廊下を歩いていて、自分の教室の前を通りかかる。
中は暗い。誰もいるはずがない。それなのに、教室の窓のすりガラス越しに、赤いものがゆらいでいる。おかしいと思ってドアを開けると、ストーブが燃えている。真っ赤に燃えている。
誰も入っていないはずの、鍵のかかった教室で。近づくと、ちゃんと熱い。煙突も熱を持っている。当番はもう帰っており、担任も帰っている。慌てて職員室に走って先生を連れてくると、火は落ちていて、灰は冷たい。
触っても冷たい。「見間違いだろう」と言われて終わる。でもその子は、ストーブの正面の空気調整穴が、自分たちが帰るときに閉めたはずの向きと違っていたことを、後になって思い出す。この型は、燃料が石炭でも石油でも成立する。石油ストーブの時代になってからも同じ話が語られていて、ただし細部が変わる。
石炭版だと「灰が冷たかった」が効くけど、石油版だと「タンクの油が減っていない」に置き換わる。北海道のある学校の話では、灯油が満タンだったことに気づいた先生のほうが青くなった、というオチが付いていた。
石炭小屋の扉が、外から閉まった
二番目。これは石炭ストーブの時代にしか成立しない、非常に土地に根ざした型だ。石炭小屋は校舎の外にある。木造かブロック造りの小さな建物で、片開きか引き戸で、たいてい外側にかんぬきか掛け金がついている。中は暗い。
窓はないか、あっても小さい。石炭の山があって、粉が舞っていて、冬は氷点下だ。当番の子が二人で入って、一人が先にバケツを持って出て、残った一人が戸口のところで手間取っているうちに、扉が閉まる。外から。掛け金の落ちる音がする。
叩いても誰も来ない。朝はまだ登校の時間帯で、みんな昇降口のほうにいるし、石炭小屋は校舎の裏だから声が届かない。中は真っ暗で、石炭の山を踏むとずるずる崩れる。どれくらい経ったかわからないころ、扉が開いて光が入る。用務員さんが立っている。
「なんでこんなところにいる」と言われる。バージョンによっては、掛け金は最初から下りていなかった、外からは開いていた、押せば開いたはずだ、と言われる。この型の怖さは幽霊が出るところではなく、「自分が出られないと思い込んでいた時間」の説明がつかないところにある。もっと不穏なバージョンもある。閉じ込められた子が、暗闇の中で、石炭の山のいちばん奥のほうから、こつ、こつ、と石炭を叩く音を聞く。
誰かが同じリズムで返してくる。助けが来て外に出たあと、大人に「奥に誰かいた」と言うと、大人の顔色が変わる。この学校の石炭小屋は、昔は別の用途に使われていた、という含みだけ残して話が終わる。何に使われていたかは語られない。語られないところが、この話型の生命線だ。
地方によっては、閉じ込められる場所が石炭小屋ではなく、教室の床下の石炭格納庫になる。但馬の学校のように、余った石炭を床下にしまう習慣があった土地では、床下版が語られる。床下だから、教室の授業の音が上から聞こえる。何十人分の足音と椅子の音がして、それなのに自分の声だけは誰にも届かない。
燃える音にまじって、名前を呼ぶ声がする
三番目。これは音の話で、たぶんいちばん静かに怖い型だ。石炭やコークスが燃えるとき、教室には常に音がある。ゴウという通気の音。ぱち、ぱちという細かい破裂音。
石炭が崩れて落ちる、ざらっという音もする。やかんの湯が沸く音。鋳鉄が熱で膨張してキンと鳴る音もある。この音の層のどこかに、人の声が混ざっている、という話。授業中ではない。
放課後、当番が二人で残って火の始末をしているときに起きる。灰を掻き出していて、ふと手を止めると、ストーブの中から自分の名前を呼ばれる。呼び方が独特で、フルネームでもなく、あだ名でもなく、家で親が呼ぶときの呼び方だ、という細部が付くバージョンがある。もう一人の当番に「今、呼んだ」と聞くと、呼んでいないと言う。二人とも黙って、もう一度耳をすます。
ゴウ、ぱち、ざら。そして、また呼ばれる。今度は二人とも聞く。音の話には、しばしば「返事をしてはいけない」というルールが付く。返事をすると、翌朝、ストーブの中に灰でできた人の形が残っている。
あるいは、返事をした子の名札が、次の日ストーブの灰の中から出てくる。名札という小道具が出てくるあたり、昭和の小学校の話らしい。この型は、伝播の仕方が面白い。「火の音に声が混じる」というのは、囲炉裏や竈のあった時代からある話型で、要するに古い民俗が学校の設備に乗り換えただけとも言える。ただ、学校版には「当番」という枠組みがあるのが決定的に効いている。
囲炉裏のそばには家族がいるけど、放課後のストーブのそばには当番二人しかいない。人数が少ないほど、話は怖くなる。
火に手をかざす子が、一人多い
四番目。数の合わない話。寒い日の休み時間、外に出ずに、みんなでストーブの周りに集まる。柵に手をかけて、火のほうへ手をかざす。輪になる。
そこに知らない子がいる。同じクラスの誰でもない。学年が上か下かもわからない。ただ手をかざしている。誰も不思議に思わない。
話しかけた記憶もない。休み時間の終わりのチャイムが鳴って、みんなが席に戻る。その子はいない。翌日、誰かがふと「昨日ストーブのところにいたの、誰だっけ」と言い出す。全員が「いた」ことは覚えている。
顔を覚えている者がいない。この、全員が共有しているのに誰も同定できない、という構造がこの話型の肝だ。バージョンによっては、写真が出てくる。学級だよりに載せる用に先生がストーブの周りを撮った写真に、名簿にない子が写っている。あるいは、卒業アルバムの冬の一枚に、同じ子が別の学年のページにも写っている。
写真という物証を持ち出すことで、話が急に現代的になる。デジカメが普及した平成以降のバージョンでは、この写真の要素がぐっと増える。もうひとつ、この型には「手が黒い」という細部が付くことがある。石炭当番をしていた子は当然手が黒い。だから輪の中に手の黒い子がいても誰も気にしない。
でも、その日は当番の日ではなかった。あるいは、その学校ではもう石炭を使っていなかった。手が黒いこと自体が時代錯誤である、と気づいた瞬間に怖くなる、という組み立てだ。この作りは相当うまいと思う。
宿直の夜、火を落としたはずのストーブが
五番目。教師の側の話。これは怪談の担い手が子どもから大人に移る、貴重な型でもある。宿直というのは、教員が交代で学校に泊まる制度だ。もともとは明治の終わりごろ、奉安殿に納めた御真影と教育勅語の謄本を火災や盗難から守るために始まった。
御真影が下付される学校には、奉安所の設置と奉衛規則の整備が義務づけられた。その規則の中に、非常時の警護と奉遷の手順、そしてそれに直接あたる教員の宿日直制が必ず書き込まれている。戦後、奉安殿が廃止され、御真影も勅語も管理対象でなくなったあとも、宿直は「学校管理」の名目で続く。一九五〇年代までは学校管理の常識として機能していて、地域によってはもっと後まで残った。その宿直の夜の話。
冬の宿直は、当直の教員が校舎を見回って火の元を確認する。教室を一つずつ回って、ストーブの灰を確認して、扉を閉める。全部見終わって、宿直室に戻って布団を敷く。夜中、廊下に出ると、どこかの教室の窓のガラスが赤い。行ってみると、火が落ちているはずのストーブが赤い。
中を覗くと、燃えている。慌てて水をかけようとすると、すっと消える。灰を触ると冷たい。翌朝、当直日誌にどう書くか、という細部が付くバージョンがある。書けば頭がおかしいと思われるし、書かなければ嘘になる。
結局「異常なし」と書く。そして次の宿直の教員が同じものを見て、同じように「異常なし」と書く。日誌を何年分もさかのぼって読んでいくと、特定の教室について何も書かれていない冬の日が、規則的に並んでいる。ここまで来ると、もはや怪談というより記録の怖さだ。実際、宿直日誌というのは各地の学校の金庫や書庫に眠っている。
群馬のある小学校では、一九四二年から戦後一九四七年まで続く「当宿直日誌」が印刷室の奥の金庫で長く保管されていた。中身は朝礼の訓話や運動会といった日常の記述に、玉砕や沖縄戦や食料不足の記述が混ざっている。怪異が書かれているわけではない。でも、夜の校舎に一人でいた教員が毎晩何かを書き残していた、というその事実の重さが、この話型を支えている。宿直から怪談が生まれた例は、ほかにもある。
ある人の証言では、宿直の見回りをしている教員が、ほっかぶりをした上半身だけの姿が廊下を平行移動していくのを何度も目撃している。それが理由で当直制がなくなった、と語られていた。もちろん制度としての宿直廃止の理由はそれではないが、そう説明される程度には、宿直の夜には何かがあると信じられていた。
煙突掃除の日に、落ちてきたもの
六番目。これは比較的マイナーだけど、地域によっては強く残っている型。冬のはじめ、ストーブを据え付ける日がある。倉庫からだるまストーブを運び出して、教室の定位置に置いて、煙突をつなぐ。このとき、夏のあいだに煙突に溜まった煤と、鳥の巣を落とす。
棒を突っ込んで叩くと、上から黒いものがどさっと落ちてくる。煤と、羽根と、乾いた小枝。その中に、あるものが混ざっている。ボタン。名札。
髪の毛もある。
あるいは、小さな骨。骨が出てくるバージョンは、たいてい「鳥の骨だろう」と大人が言って片づける。片づけるのだけど、その後で、その教室のストーブだけがどうしても燃えない、という展開になる。何度火をつけても消える。当番を替えても消える。
用務員さんが来ても消える。結局、その年はその教室だけ石油ストーブが臨時で入る。この話型の面白いところは、「火がつかない」ことが怪異として扱われている点だ。ほかの型はだいたい「火がついていないはずなのについている」なのに、これだけ逆になる。石炭の着火が本当に難しかった時代の子どもにとって、火がつかないことは日常の失敗であると同時に、何かに拒まれている感覚でもあったのだと思う。
もうひとつ、春に片づける側の話もある。三年生のある日、木造校舎の階段下の扉を開けて覗いたら、だるまストーブがぎっしり詰まっていた、という回想がある。これは怪談ではなく実話だが、読んでいてぞくっとする。冬のあいだ教室の中心にいた鉄の塊が、春には全部まとめて階段下の暗がりに押し込められている。その光景そのものが、もう十分に怪談の入り口だ。
北の話は湿っていて、西の話は乾いている
地域差の話をしたい。学校のストーブ怪談は、燃料と気候によってかなり顔つきが違う。北海道と東北では、話がとにかく寒くて長い。石炭ストーブが最後まで残ったのがこの地域で、平成に入ってからも木造校舎で石炭のだるまストーブという学校があった。北海道のある人は、平成になってから「石炭ストーブってどんだけ昭和よ」と思ったと書いている。
トイレも汲み取り式の和式だった。この地域の怪談は、冬の暗さと雪の重さが前提にある。夕方四時にはもう暗い。石炭小屋の前は吹きだまりになっている。だから閉じ込めの話や、雪を掃く音の話や、校舎の外から窓を見上げる話が多くなる。
越後の分校を舞台にした、宿直の夜明け前に雪を掃く音がして、雨戸を開けてはいけないという話などは、この系統の完成形だと思う。東京と関東は、話が短くて説明的だ。ここは石炭からコークス、コークスからガスと石油へ切り替わるのが早かった。昭和五十年前後にはもう開放型石油ストーブが標準になっている。だから石炭固有の怪談は薄く、代わりに「煙突用の穴だけが残っている」というモチーフが出てくる。
築四十年の鉄筋校舎の天井近くに、丸い穴が塞がれた跡だけがある。誰も由来を知らない。そこから何かが出る、という話。これは設備の記憶が建物にだけ残っているという、都市部らしい怪談の形だ。近畿と中国地方、特に日本海側は、石炭ストーブが昭和四十五年ごろまで残った。
但馬では、国のエネルギー政策の転換で昭和三十五年に始まった原油の輸入自由化を受けて、昭和四十五年に石油ストーブに置き換わったと記録されている。この地域の怪談には、豆殻や床下格納庫といった、独特の小道具が入る。四国と九州の山間部は、そもそも石炭ではなく薪だった。有力な炭鉱がないから、生徒が家から薪を持ってくる。だから怪談の主役も石炭小屋ではなく、薪置き場や、ストーブ係の当番になる。
四国の話には「ストーブ係が火を絶やしてはいけない」という緊張感が濃く出ていて、火の番を怠ったときに何かが起きる、という型が多い。年代差もはっきりしている。石炭当番の実体験がある世代、つまり昭和二十年代から四十年代に小学生だった人たちの話には、手順の細部が異様に詳しい。一方、石油ストーブ世代の話は、給油当番の暗い保管庫と、灯油の匂いに寄っていく。
そしてエアコン世代になると、教室の暖房そのものが怪談の舞台にならなくなる。天井から出てくる暖気は、怖くない。
体験談その一――東北の分校で、朝いちばんに火を見た子
以下、複数の証言をもとに再構成した体験談を三つ置く。学校名と個人名は伏せる。一つめは、昭和四十年代前半、東北の山あいにあった分校に通っていた男性の話だ。当時小学四年生。分校は木造の平屋で、教室は二つ。
複式学級で、二学年が同じ部屋にいた。冬は雪が深く、朝は真っ暗なうちに家を出る。その日は石炭当番だった。相方の子が風邪で休むという連絡が前の日にあったので、一人でやることになっていた。いつもより早く着くと、校舎の鍵はまだ開いていない。
宿直の先生が開けてくれるのを待つ。そのあいだ、なんとなく教室の窓を外から見上げ、すりガラス越しに、赤いものが動いていた。先生が来て鍵を開けてくれたので、一緒に教室に入り、ストーブは冷たかった。灰も冷たい。前の日の当番がちゃんと始末していた。
それだけの話なのだが、彼が今も引っかかっているのは、そのとき先生が何も聞かなかったことだという。窓を見上げていた自分に「どうした」とも言わず、鍵を開けて、教室に入って、ストーブの蓋を開けて、中を覗いて、それから何も言わずに職員室に戻っていった。そのあと彼は一人で新聞紙をねじって、薪を組んで、いつもより時間をかけて火をつけ、火がついたときに、心底ほっとした。
「あれは、火がついていないことのほうが怖かった記憶なんです」と彼は言う。何かがそこにいたとして、火があれば大丈夫だと思っていた。だから朝いちばんに火をつける仕事に、意味があると信じていた。彼はその分校が閉校になったあと、一度だけ跡地を訪ねている。建物は取り壊されて、基礎だけが残っていた。
石炭小屋のあった場所に、石炭の粉が黒く染み込んだ地面が、まだ四角く残っていたそうだ。
体験談その二――北海道の旧校舎、石炭小屋の中で数えた音
二つめは、北海道の内陸部で昭和五十年代に小学生だった女性の証言。彼女の学校は、鉄筋の新校舎が建っていたのに、低学年だけが古い木造の旧校舎に残されていた。理由は単純で、教室が足りなかったから。旧校舎の暖房はコークスのだるまストーブだった。石炭当番は二人一組。
ある朝、彼女ともう一人の子が石炭小屋に入った。小屋は外開きの木の扉で、外側に木の棒を落とすタイプの掛け金がついており、相方が先にバケツを満たして出る。彼女がスコップを片づけていると、扉が閉まった。風だったのか、相方が閉めたのか、今もわからない。真っ暗になった。
掛け金の落ちる音がしたかどうかは、覚えていない。押しても開かなかった、というのが彼女の記憶だ。叩いても声を出しても、誰も来ない。石炭の山に足を取られて、二回転んだ。粉を吸って咳が出た。
そのうちに、小屋のいちばん奥のほうから、こつ、という音が聞こえる。石炭が崩れる音とは違う、乾いた、硬いものを叩く音だった。一回、間があって、二回。彼女は数えたという。四回まで数えて、それから数えるのをやめて、扉に体当たりを始め、扉は開き、押して開き、外には誰もいなかった。
相方はもう教室に行っており、彼女はバケツを持って教室に行き、何も言わずに火をつけた。「五年か六年、誰にも言いませんでした」と彼女は言う。言ったところで、掛け金が下りていなかったと言われるのがわかっていたから。実際、大人になって同級生に話したら、「あそこの掛け金、外からしか下りないんだから、閉じ込められるわけないでしょ」と笑われた。
それでも彼女には、暗闇の中で数えた四回の音のほうが、掛け金の構造より確かなものとして残っている。
体験談その三――平成の教室で、まだ石炭を燃やしていた
三つめは、平成の初めに北海道の道東で小学生になった男性の話。彼の学校は、三年生まで木造の旧校舎で、燃料は石炭だった。日直が石炭当番を兼ねていて、朝の会の前にバケツひとつぶんの石炭を汲みに行く。時代としてはもう平成なのに、である。彼の話で印象的なのは、怪談が「石炭という時代錯誤そのもの」に張りついていたことだ。
当時、テレビでは学校の怪談ブームが起きており、映画にもなり、児童書のシリーズも山ほど出ていた。同級生たちはそこで仕入れた話を教室で交換しており、でも彼らの学校には、テレビの中の学校にはないものがあった。石炭小屋と、だるまストーブだ。だから話が独自進化した。
彼らのあいだで語られていたのは、「ストーブの火に手をかざしている子が一人多い」という型の変種で、その一人多い子は、同じ学校の昔の児童だとされている。証拠として持ち出されたのは、校舎の廊下に掛かっていた古い集合写真だった。写真は白黒で、何十年も前のもので、子どもたちは今と違う服を着ている。その中の一人が、休み時間のストーブの輪に混ざっている、という話。
誰が言い出したのかは誰も知らず、四年生のとき、新校舎ができて全員が移った。暖房はFF式の温風暖房機になった。壁に付いていて、外の空気を吸って外に排気する、密閉式のやつだ。火は見えない。石炭小屋はそのまま残ったが、鍵がかかって誰も入らなくなった。
そして、ストーブの怪談は語られなくなった。「話す場所がなくなったんです」と彼は言う。輪になって手をかざす場所がなくなったから、輪の中に一人多いという話も成立しなくなった。怪談が消えるときは、こういう消え方をするらしい。
記録として読む――一酸化炭素は、匂わない
ここからは、怪談ではなく記録の話をする。石炭ストーブのある教室で本当に起きていたことを、怪談の材料としてではなく、事故の記録として扱いたい。まず前提として、開放型の燃焼器具を教室で使うということは、燃焼で生じたものが全部その部屋の空気に出るということだ。だるまストーブは煙突があるから半分は外に出るが、煙突の引きが弱ければ、あるいは詰まっていれば、室内に戻る。
石油ストーブの開放型に至っては煙突すらないから、全部室内に出る。一酸化炭素は、これがやっかいだ。無色で無臭。石炭の煙は臭いから気づくが、一酸化炭素そのものは臭わない。だから「臭くないから大丈夫」という判断が通用しない。
消防機関の検証によると、濃度と症状の関係はおおむねこうなっている。百から二百ppmで、強めの筋肉労働をしていると軽い頭痛。二百から三百ppmで頭痛と耳鳴り。七百から千ppmを三、四時間吸い続けると意識障害が起きる。問題は、この濃度が密閉空間だとあっという間に達することだ。
同じ検証では、幅三点三メートル、奥行き三点六メートル、高さ二点一メートルという六畳ほどの密閉空間で七輪を燃やしている。天井付近から濃度が上がりはじめ、約五十分で危険水準に達した。発動発電機だと約三十五分だった。教室は六畳よりずっと広いが、四十人が入っていれば酸素の消費も速い。密閉度が上がった現代の校舎ならなおさらだ。
学校の側にも、この危険は制度として認識されている。
学校環境衛生基準では、教室の一酸化炭素について長らく十ppm以下という基準が置かれていた。二酸化炭素は換気の指標として千五百ppm以下が望ましい、二酸化窒素は〇点〇六ppm以下が望ましい、とされる。そして重要なのが、一酸化炭素と二酸化窒素の検査は「燃焼器具を使用していない場合に限り省略できる」と書かれていることだ。裏を返せば、燃焼器具を使っている教室では必ず測れ、ということになる。
二酸化窒素の検査は開放型燃焼器具を使用している教室において行う、と明記されている。事後措置も定められていた。二酸化炭素が千五百ppmを超えたら換気を強化する。一酸化炭素が十ppmを超えたら原因を究明して適切な措置を講じる。二酸化窒素が基準を超えて室内が室外を上回る場合は、換気および暖房方法等について改善を行う。
この「暖房方法等について改善を行う」という一文が、実質的に開放型ストーブの退場を促す条文として効いていた。なお、この基準は近年さらに厳しくなり、令和六年の改正では一酸化炭素の基準が六ppm以下に引き下げられ、温度の下限も十八度に引き上げられている。温度についても書いておく。冬期は十度以上が下限で、望ましいのは十八度から二十度。十度以下が継続する場合は採暖できるようにする、とされている。
この「十度以下が継続する場合」という言い回しがすごい。教室が十度を下回ることが前提の文言なのだ。実際、だるまストーブの教室では、ストーブから離れた席は十度を切っていたはずだ。日本建築学会の報告でも、暖房機の近くが暑くて離れた場所が寒いという偏りが指摘されていて、頭の高さと床面で十度以上の温度差がある教室もあった。つまり、席替えのローテーションというのは、単なる公平感の問題ではなかった。
基準値を下回る席と大幅に上回る席が同じ部屋にあって、それを時間で分配していたのだ。今の目で見るとかなり乱暴な運用だが、当時それ以外に手がなかったのも事実だと思う。
記録として読む――煙突、火の始末、そして木造校舎
もうひとつの記録は、火災だ。学校火災の統計を見ると、一九九五年から二〇一一年までの十七年間で、全国の学校火災は六千六百七十二件記録されている。構造別では耐火造が四千八百八十六件と圧倒的に多く、木造は四百六件、防火造が百七十三件。件数だけ見れば耐火造が多いのは当然で、母数がそうなっているからだ。目を引くのは、件数は昼間が圧倒的に多いのに、焼損床面積の拡大は夜間のほうが大きいという傾向だ。
昼は人がいるから早く見つかって早く消える。夜は誰もいないから、見つかったときにはもう広がっている。これが、宿直という制度の存在理由でもあった。夜の校舎に人がいて、火の元を見回るということには、はっきりした合理性があった。特に木造校舎の時代、教室ごとに火が置かれていた時代には。
担任が当番を殴ってでも後始末を徹底させた背景には、「学校が燃えたらどうするんだ」という、比喩ではない恐怖があった。近年の事例も参考になる。二〇二六年六月には、東京都内の小学校で授業中に火災が発生し、児童らがひさしに取り残されて十一人が搬送されるという事故が起きている。火元とされたのは音楽準備室で、使っていないはずのストーブが置かれていた。
ストーブの残骸には繊維片のようなものが付着していて、音楽教諭が私服を乾かしていたと説明したと報じられた。防火管理者の手続きに不備があったことも会見で明らかになっている。石炭の時代からずっと、ストーブの上や周りに物を置くという習慣は消えていない。弁当を温め、手袋を干し、パンを焼いていた文化の延長線上に、この事故がある。
一酸化炭素中毒についても、教室での重大事故が全国的な事件として記憶されている例は多くない。ただし、それは「起きなかった」ことを意味しない。煙突が外れて煙が充満した、逆流して黒煙に巻かれた、というレベルの出来事は日常的に起きていた。そのたびに窓を全開にして、教室から出て、しばらくしてから戻る。これは事故として記録されない。
頭痛や吐き気を訴えた子がいても、当時は「寒いところから急に暖まったから」で片づけられた可能性が高い。だからこそ、基準のほうが先に動いた。一酸化炭素の測定が義務づけられ、二酸化窒素の測定が開放型燃焼器具のある教室に限って課され、事後措置に「暖房方法等について改善を行う」と書き込まれた。これは統計に出てくる事故に対応したというより、統計に出てこない危険を制度で潰した、という性格が強いと思う。
だるまストーブはどこへ行ったのか
火の退場は、思ったよりゆっくりで、思ったよりばらばらだった。大きな流れとしては、昭和三十五年の原油輸入自由化がある。国のエネルギー政策が石炭から石油へ舵を切って、その十年ほどあとに学校の暖房も追いつく。但馬では昭和四十五年に石油ストーブへ転換した。日本で初めて石油ストーブを開発したメーカーが製品を出したのが昭和三十年だから、そこから学校に入るまで十五年かかった計算になる。
都市部の切り替えはもう少し遅い。横須賀市は昭和四十九年、東京は昭和五十年前後とされる。ただし東京は前述の通り、コークスの供給が昭和五十一年三月に止まるという事情に押されて、半ば強制的に切り替えざるを得なかった。切り替えのコストは三百億円規模、燃料費は三倍、という数字が当時ささやかれ、寒冷地は逆に長く残った。青森の弘前では昭和末期まで石炭を使っていたという記録がある。
北海道では平成に入ってからも、旧校舎に限って石炭のだるまストーブが現役だった学校がある。理由は単純で、寒冷地では暖房の火力そのものが違うし、石炭のほうが安く、しかも地域に石炭の供給網があったからだ。だるまストーブそのものは、鋳物メーカーの主力商品だった。学校用の「尺五」を作っていた老舗のブランドは、平成四年に製造を中止している。
だいたいこのあたりで、教室のだるまストーブは商品としても終わったことになる。置き換わったのは、石油ストーブの開放型、それから半密閉式、そしてFF式の温風暖房機だ。FFというのは強制給排気のことで、燃焼用の空気を外から吸って、排気も外に出す。だから室内の空気を汚さない。火も見えない。
この時点で、教室から「見える火」が完全に消えた。そのあとエアコンが来る。都市部では二〇一〇年ごろまでに公立小中学校の冷房設置がほぼ行き渡り、暖房もエアコンで済ませる学校が増えた。教室の暖房は、自分で作るものから、スイッチを入れるものへ、そして誰かが遠隔で管理するものへと変わった。面白いのは痕跡の残り方だ。
築四十年クラスの鉄筋校舎には、ベランダ側の天井近くに、丸い穴を塞いだ跡が残っていることがある。煙突を通していた穴だ。冬だけ栓を抜いて煙突をつなぎ、春には栓をする。その穴だけが遺跡のように残っている。市川のある小学校の校長先生は、この穴の由来を子どもたちに向けて書いていた。
誰も知らない丸い跡が、かつてそこに火があったことの、唯一の物証になっている。
懐かしむ声と、それを疑う声
ネット上でこの話題が出ると、反応はきれいに分かれる。圧倒的多数は懐かしむ声だ。石炭当番、バケツ、新聞紙、弁当の焦げる匂い、牛乳の湯煎、手袋を干した柵。この単語群を並べるだけで、ある年代から上の人はいっせいに反応する。掲示板やブログのコメント欄が、当番の手順を細かく訂正しあう場になることも多い。
「うちは豆殻だった」「うちはスギッパ」「うちは松ぼっくりを拾わされた」。地域の記憶が、思い出話の形で照合されていく。この照合作業自体が、失われた学校文化の民俗誌になっていて、正直かなり価値がある。次に多いのが、危険性への驚きだ。十キロ以上の石炭を軍手なしで一年生に運ばせていた、煙突が外れて教室が煙で満ちた、水蒸気爆発で火傷した、といった証言に対して、若い世代が素直に驚く。
「今なら大問題」「よく死人が出なかった」というコメントが並ぶ。これは正しい反応だと思う。実際、火傷は頻繁に起きていた。三つめが、怪談への反応。ここは意外と冷ややかだ。
「ストーブの怪談は聞いたことがない」という声がけっこうある。学校の怪談として定番化しているのは、トイレ、音楽室、理科室、階段、鏡、二宮金次郎あたりで、ストーブは主要キャラクターになっていない。ピクシブ百科事典やニコニコ大百科の学校の怪談項目を見ても、ストーブが独立した見出しで立っていることはまずない。この「定番になっていない」という事実は、実はけっこう重要だ。反証の一つめとして正面から扱いたい。
一九九〇年前後の学校怪談ブームは、児童書と映画とテレビによって全国の話型を平準化した。民俗学者が編んだ児童向けシリーズが売れ、映画が公開され、アニメにもなる。その過程で、どこの学校にもある設備に紐づいた怪談が生き残った。トイレはどこにでもある。音楽室にはベートーベンの肖像画がある。
階段はどこにでもある。ところが石炭ストーブは、ブームが起きた一九九〇年時点で、もうほとんどの学校から消えていた。だから全国版の学校怪談カタログに載れない。載れなかったから、増幅されなかった。つまり、ストーブ怪談は「弱い」のではなく、「メディアに乗るタイミングを逃した」というのが実態に近い。
石炭当番を体験した世代が子どもだったのは昭和三十年代から四十年代で、彼らが語り手だった時期の話は、活字にも映像にもほとんど残らなかった。残っているのは、五十年後にブログや掲示板に書かれた回想の中の断片だ。反証の二つめは、記憶の合成の問題だ。ここは正直に書いておきたい。石炭ストーブの体験を持つ人が今それを語るとき、その記憶はすでに何十年も経っている。
そして本人も認めているケースが多い。「点火の方法はうろ覚えで間違っているかもしれない」。「どうやって運んだか記憶にないけど、たぶんバケツみたいなものに」。「一年の時からだったかは覚えていないんですが」。こういう留保が、良質な回想には必ず付いている。
逆に言えば、細部が異様にくっきりしている証言ほど、あとから補正されている可能性がある。さらに厄介なのが、思い出補正の方向性だ。
石炭当番の記憶は、たいてい肯定的に語られる。「自分で火をつけ、移して拡げ、コントロールするという知恵と工夫を学んだ貴重な体験でした」という但馬の人の言葉は美しいが、これは無事に済んだ人の言葉でもある。火傷をした子、煙で具合が悪くなった子、重いバケツを運べなくて泣いた子の記憶は、ネットの回想には出てきにくい。楽しかった記憶のほうが書かれる。
書かれた記憶だけを読むと、あの時代の教室が実際より安全で牧歌的に見えてしまう。そして怪談についても同じことが言える。「誰もいない教室でストーブが燃えていた」という記憶が、本当に当時のものなのか、それとも後から見た映画やドラマの映像と混ざっているのか、本人にも判別できない。冬の教室、赤く光る火、誰もいない廊下。この画は、映像作品で何度も反復されている。
反復されたイメージが、自分の記憶の空白にはめ込まれる。これは責められることではなくて、人間の記憶がそういうふうにできているというだけの話だ。だから、この記事に書いた体験談も、事実の報告としてではなく、そう語られているものとして読んでほしい。語られ方そのものが資料だ、という立場で書いている。
なぜ火のそばに、話が生まれるのか
最後に、いちばん大事な問いに答えたい。なぜ火のそばに怪談が生まれるのか。第一に、火は動く。教室の中で、自分の意志で動いて見えるものは、火だけだった。黒板は動かない。
机も動かない。窓の外の景色は動くが、それは外にある。教室の内側で、じっと見ていると形を変え続けるものは、ストーブの中の火だけだ。人間の目は動くものに顔を見つけるようにできている。雲にも、木目にも、シミにも顔を見る。
まして揺れて明滅する炎なら、なおさらだ。第二に、火には音がある。しかもその音が、規則的なようで規則的でない。ゴウという連続音の上に、ぱち、ざら、キン、という不規則な音が乗る。これは人間の聴覚にとって最悪の条件で、不規則な音の列の中には、いくらでも言葉が聞こえてしまう。
ホワイトノイズの中に人の声を聞くという現象は昔から知られていて、火の音はまさにそれだ。「燃える音にまじって声がする」という話型が世界中にあるのは、偶然ではない。第三に、火は境界を持つ。ストーブの周りには柵があった。柵の内側は熱くて危険で、大人が管理する領域だ。
柵の外側は子どもの世界だ。そして柵のすぐ外側、手をかざせる距離は、その両方に属する曖昧な帯になる。学校の怪談が生まれやすいのは、決まってこういう場所だ。トイレ、階段の踊り場、渡り廊下、地下室の扉の前。内でも外でもない場所。
ストーブの柵の内側というのは、教室の中に作られたもうひとつの境界だった。第四に、火は「番」を必要とする。これが学校のストーブ怪談の決定的な特徴だと思う。当番という制度があった。当番は、みんなより早く来て、みんなより遅く帰る。
つまり、誰もいない教室に一人か二人でいる時間を、制度によって強制的に作られていた。怪談というのは、たいてい一人になった人間が体験する。学校は基本的に集団の場所だから、一人になる機会は限られている。その限られた機会を、石炭当番という制度が毎日誰かに割り当てていた。これは怪談の生産装置と言っていい。
第五に、火は責任と結びついていた。当番は火をつける責任と、消す責任を負っていた。消し忘れたら学校が燃える。だから当番の心には、常に「ちゃんと消したか」という不安がある。この不安が、そのまま「消したはずのものが燃えている」という怪談に変換される。
心理学的に言えば、これは確認強迫に近い構造だ。鍵を閉めたか、火を消したか。人間はこの種の不安を昔から抱えてきた。学校のストーブ怪談は、その不安に子ども時代の顔をつけたものだ。第六に、火は消えた。
これがいちばん効いている。石炭ストーブは学校から完全に姿を消し、石炭小屋は取り壊されたか、物置になり、煙突の穴は塞がれた。だるまストーブは階段下の暗がりに押し込められ、やがて廃棄された。つまり、この怪談の舞台はもうこの世に存在しない。存在しないものについての話は、検証できない。
検証できない話だけが、怪談として生き延びる。そして最後に、これは学校怪談全般に言えることだが、火の記憶は身体の記憶だ。石炭当番をした人は、石炭の粉の匂いを覚えている。手が黒くなる感触を覚えている。新聞紙をねじったときの指の力を覚えている。
四時間目に漂ってきた焦げたご飯の匂いを覚えている。この身体感覚が残っているかぎり、その人にとって石炭ストーブの怪談は、抽象的な作り話ではなく、自分の指と鼻の記憶に接続された話になる。だからこそ、その世代の人たちは、この手の話を聞くと妙に静かになる。笑い飛ばさない。「うちの学校にもあった」と言う。
ここからは、本編で書ききれなかったことをまとめて掘る。総括と、追加の考察を厚めに置いておきたい。
石炭当番という「労働」を、学校はどう正当化していたのか
改めて考えると異常なことをやっている。小学生に、十キロを超える燃料を運ばせ、可燃物を扱わせ、火を管理させていた。しかも毎日。これが五十年以上、全国規模で続いていた。なぜ許容されていたのかというと、理由は三つあると思う。
ひとつは単純にマンパワーがなかったこと。教員数も職員数も限られていて、教室が四十も五十もある学校で、大人だけが全部のストーブを朝から焚くのは物理的に無理だった。用務員が低学年の分だけ焚いて、中学年以上は自分たちで、という運用が広く見られるのは、要するに手が足りなかったからだ。ふたつめは、当時の家庭でも子どもが火を扱っていたこと。竈があり、薪の風呂があり、火鉢があった。
学校で火をつけることは、家でやっていることの延長だった。ある人が「祖父母の家には竈が残っていたり、薪で沸かす風呂もあったので、火を使う経験がまったくないということはありませんでした」と書いているのが象徴的だ。今の子どもにマッチを持たせるのと、当時の子どもにマッチを持たせるのは、意味がまったく違う。みっつめは、教育的な位置づけだ。当番活動というのは、学校教育の中で「特別活動」という枠に入る。
役割を果たす、責任を持つ、協力する。石炭当番はその教材だった。実際、当時を振り返る人の多くが、これを肯定的に語る。火をつけ、移し、広げ、制御するという一連の作業を身体で覚えたことに、価値を見出している。ただし、ここには非対称がある。
ストーブの恩恵を受けるのはクラス全員だが、リスクを負うのは当番の二人だけだ。火傷をするのも、煙にまかれるのも、重いバケツを運ぶのも、当番。この非対称を「順番だから公平」と処理していたのが、当時の学校だった。今の学校がこれをやらないのは、安全基準が上がったからというだけでなく、リスクの分配の考え方そのものが変わったからでもある。
石炭小屋という空間の、学校の中での位置
学校の怪談を場所で分類すると、はっきりした傾向がある。強い怪談が生まれるのは、日常の動線から外れていて、大人の管理下にあり、子どもが立ち入る理由が限定されている場所だ。理科準備室、体育倉庫、焼却炉、飼育小屋、地下室、屋上、そして石炭小屋。石炭小屋がこの条件をどれだけ満たしているかというと、ほぼ満点だ。校舎の外にあり、窓がないか小さい。
日常的には入らない。入る理由は当番のときだけ。中は暗くて、床は不安定で、粉が舞っている。扉には外側から掛ける金具がある。そして、季節があり、冬しか使わない。
夏は空っぽで、放置される。この「季節性」が、他の怪異スポットにない特徴だ。焼却炉は一年中使う。体育倉庫も一年中使う。でも石炭小屋は、冬の三か月か四か月だけ生きて、あとは死んでいる。
生きている期間と死んでいる期間が交互に来る建物というのは、それだけで不気味だ。春に扉を開けたら、冬に置いたはずのないものが置いてある、という話が生まれる素地がある。さらに、燃料庫という機能そのものが、地下室やボイラー室と同じ系統の想像力を刺激する。エネルギーの供給源で、汚れていて、危険で、大人が管理していて、子どもは近づくなと言われる。学校という建物の中で、そこだけが工場に似ている。
学校は本来、清潔で明るく管理された空間であることになっているから、その中に工場的な場所があると、そこが異物になる。異物のあるところに話が集まるのは自然なことだ。
「火のそばの怪談」の系譜を、もう少し遠くまでたどる
火と怪談の結びつきは、学校が発明したものではない。もっとずっと古い。囲炉裏端の怪談というジャンルがある。冬の夜、火を囲んで年寄りが話をする。これは日本だけでなく、暖炉のある文化圏ならどこにでもある形式だ。
火は明かりであり、暖であり、集合の中心であり、そして話の場だった。「怪談は火のそばで語られるもの」という前提が、まずある。そのうえで、火そのものが怪異の主体になる話も古くからある。竈の神。囲炉裏の火を絶やしてはいけないという禁忌。
火を粗末に扱うと祟るという伝承もある。火の中に人の顔を見る話。燃える音に声を聞く話。これらは全国の民俗資料に大量にある。学校のだるまストーブは、この系譜の末端にいる。
ただし決定的に違うのは、火の管理者が子どもだったという点だ。囲炉裏の火は家の大人が守る。竈の火も同じ。ところが教室の火は、子どもが自分の手でつけて、自分の手で消していた。禁忌の担い手が子どもになった。
これは民俗の歴史から見ると、けっこう珍しい状況だと思う。だからこそ、学校のストーブ怪談には「当番が失敗する」という型が多い。火を絶やす。始末を忘れる。灰を捨て損なう。
そのミスが怪異を呼ぶ。これは、大人向けの火の禁忌譚を、子どもの当番活動に翻訳したものだと読める。伝承の構造だけがそのまま残って、担い手だけがすげ替わった。
エアコンの教室に、なぜ火の怪談が生まれないのか
現代の学校にも怪談はある。防犯カメラの映像に映らないもの、時間割にない授業、連絡網の存在しない番号。設備が変われば怪談も変わる。ではなぜ、エアコンの教室には火の怪談が生まれないのか。ひとつは、暖房が可視化されなくなったこと。
エアコンの暖房は、見えない。音も小さい。空気が動くだけだ。見えないものは、話の中心になりにくい。中心にならないものは、キャラクターにならない。
ふたつめは、管理主体が子どもから離れたこと。エアコンのリモコンは教卓の脇にあって、操作するのは先生だ。学校によっては職員室で一括管理していて、教室では触れない。つまり、暖房は完全に大人の領域に移った。子どもが暖房に対して負う責任がゼロになった。
責任がないところに、不安は生まれない。不安が生まれないところに、怪談は根を張らない。みっつめは、一人になる時間が消えたこと。石炭当番は、誰もいない教室に一人でいる時間を制度的に作っていた。エアコンにはそれがない。
朝の教室に一番乗りする理由が、子どもの側にない。学校が施錠管理を厳格にして、早朝の校舎に子どもがいる状況そのものを減らしたことも大きい。だから、教室の暖房にまつわる怪談は、たぶんもう新しく生まれない。すでにある話が、体験者の記憶の中で保存されるだけだ。そしてその体験者がいなくなれば、話も消える。
これは寂しいことだけど、怪談というのはそういうものでもある。設備と一緒に生まれて、設備と一緒に死ぬ。
記録と怪談のあいだに線を引くということ
この記事を書くうえで、いちばん気をつけたのは、事故の記録を怪談の材料にしないことだった。学校の怪談を扱う文章では、しばしば「この学校では過去に事故があって、それ以来」という定型が使われる。これは物語としては強い。でも、実際に事故があった学校にとって、これは最悪の扱われ方だ。亡くなった子がいたなら、その子は怪談の登場人物ではない。
煙にまかれて具合が悪くなった子がいたなら、その子は伏線ではない。だから本編では、一酸化炭素の濃度と症状の関係、学校環境衛生基準の数値、火災統計の件数、宿直制度の起源といったものを、怪談から切り離して置いた。これらは怪談の背景説明ではなく、それ自体として読まれるべきものだと思う。そのうえで、両者に関係がないとは言わない。関係はある。
ただし方向が逆だ。事故が怪談を生んだのではなく、日常的な危険の感触が怪談を生んだ、というのが実態に近い。煙突が外れて教室が煙で満ちる。逆流して黒煙に巻かれる。火傷する。
転んで石炭をぶちまける。この「毎日ちょっとずつ危ない」という感触が、子どもの中に火への畏れを作った。畏れがあるところに、話が育つ。逆に言えば、本当に大きな事故が起きた学校では、怪談は語られにくい。語ることが不謹慎になるからだ。
よく語られる怪談ほど、実際の悲劇からは遠い。これは学校の怪談全般に言えることで、覚えておくと話の読み方が変わると思う。
失われた学校文化の目録として、もう一度並べておく
最後に、この記事で拾った細部を、記録として並べ直しておきたい。これらは全部、誰かがどこかに書き残したから残っているだけの断片で、書かれなければ消えていたものだ。石炭小屋、貯炭場、石炭置き場という呼び名の揺れ。石炭バケツと、教室ごとの割り当て。十能に入れて運ばれてくる火種。
焚きつけとしての新聞紙、細い枝、細く割った薪、杉の枯れ葉、豆殻、松ぼっくり。職員室でマッチを借りる手続き。職員室前に立てられた、ストーブ使用の可否を示す旗。ストーブの上のやかんが湯気を出し、教室を加湿する。弁当保温箱と、金網の籠と、二段目のベストポジション。
四時間目に漂う焦げたご飯の匂いと、たくあんの匂い。瓶牛乳の湯煎と、休み時間ごとのローテーション。煙突に貼り付ける食パンもあった。柵に干した濡れた手袋。ストーブの近さで決まる席順と、一週間ごとの席替え。
放課後の灰の掻き出しと、校庭の隅の灰捨て場。床下の石炭格納庫。春に階段下へ押し込められただるまストーブの群れ。天井近くに残された、塞がれた丸い穴。こうして並べてみると、これはもう完全に一つの生活文化だ。
冬のあいだだけ現れて、春に消える、教室という部屋の第二の姿。その中心にあった鉄の塊が、赤く燃えていた。子どもたちはその周りに輪を作り、手をかざし、話をしていた。そして、その輪の中に一人多かったという話が、今も残っている。話としては地味だし、有名でもない。
全国区の学校怪談カタログには載っていない。でも、あの火のそばにいた人たちは、この話を聞くと少し黙る。黙って、たぶん、自分の手が黒かった朝のことを思い出している。火は消え、話だけが残った。それでいいのだと思う。
