奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

「校庭の隅の丸い土」に女子は上がれなかった――学校の土俵と、消えた設備に残された禁忌の怪談

校庭の隅に、まわりより少しだけ高く盛り上がった土の円があった。覚えている人は、たぶんかなりの確率で四十代から上だと思う。雨が降ると水がたまって、乾くとひび割れて、夏には端っこから雑草が生えてくる、あの丸いやつだ。ふだんは誰も近寄らない。使うのは年に一度か二度、体育の時間か秋の大会前だけ。

それ以外の三百六十日は、ただの盛り土として校庭の隅に転がっている。

あれは土俵だ。相撲場だ。学校の設備として、日本のあちこちの小中学校に、わりと真面目な予算をつけて作られていたものなんだよな。

そして、あの丸い土のまわりにだけ、妙にローカルな禁忌と怪談がまとわりついていた。女子は上がっちゃいけない。上がると悪いことが起きる。夜になると誰かが立っている。朝、砂に足跡がついている。

掘り返した学校は祟られる。全国区の学校怪談としては有名じゃない。トイレの花子さんにも、動く二宮金次郎像にも、テケテケにも勝てない。

それでも、土俵のあった学校の卒業生に聞くと、かなりの割合で「ああ、うちにもあった」と何かしらの話が返ってくる。この記事は、その丸い土の設備史と、そこに生まれた怪談の話だ。

――米俵と荒木田土でできた小さな神社が、なぜ体育の設備になったのか

まず前提として押さえておきたいのは、土俵というのが単なる円じゃないという点だ。あれは相当に手間のかかった構築物であって、しかも構造そのものが宗教的な意味を背負っている。

大相撲の本場所で組まれる土俵は、一辺が六・七メートル、およそ二十二尺の正方形に土を盛り、その中央に直径四・五五メートル、十五尺の円を描く。高さは地面から俵の上部まで六十センチほど。使われる俵は全部で六十六俵。内訳は円を作る勝負俵が十六俵、その東西南北の四か所に少しだけ外へずらして埋める徳俵が四俵。外側を囲う角俵が二十八俵で、そのほか踏み俵などが加わる。

小俵というのは米俵をいったん開いて三分の一の細さに巻き直し、中に土を詰めて七か所を縄で締めたものだ。要するに、土俵は米の容れ物でできている。

土も適当ではない。日本相撲協会は荒木田土という粘りの強い土に統一していて、砂が三割ほど混じっていて滑りにくいものが選ばれる。現在は埼玉県川越市から運ばれてくるという。総重量はおよそ四十五トン。呼出しが数日がかりで築く。

勝負俵の外周に円く撒かれた砂を蛇の目と呼び、これは足が出たかどうかを足跡で判定するための、いわば記録媒体として敷かれている。土俵の上の砂は、踏んだものを残すためにそこにある。

この事実は、後で出てくる怪談の芯になるので覚えておいてほしい。

ついでに言うと、土俵中央の二本の仕切り線は、意外にも新しい。一九二八年一月場所から始まったラジオの実況中継に合わせて、時間で仕切るために引かれたものだ。伝統の塊のように見える土俵にも、放送というメディアの都合で足された部分がある。

そして本場所の初日前日には土俵祭が行われる。立行司が祭主になり、幕内格と十枚目格の行司が脇について、祝詞を奏上する。四隅に白幣を立て、御神酒を注ぎ、方屋の故実を言上する。祀られるのは手力男命、建御雷神、野見宿禰の三神。最後に土俵中央にあらかじめ掘っておいた穴へ鎮め物を埋める。

埋めるものは勝ち栗、榧の実、昆布、するめ、洗米、塩。埋め終えたら触れ太鼓が土俵を左回りに三周する。

これはどう見ても地鎮祭の構造だ。土地を清め、神を招き、供物を地中に埋めて鎮める。國學院大学の解説でも、土俵祭は地鎮の儀礼と重ねて説明されている。つまり土俵というのは、競技場である前に、地面に対して行われた祭祀の跡なんだよな。円の中央には、供物が埋まっている。

少なくとも、そういうことになっている。

ここまでを頭に入れたうえで、あの校庭の丸い土を思い出してほしい。学校の土俵は当然ながら本場所仕様ではない。俵は本物の米俵ではなくコンクリートや樹脂の縁石で代用され、土も荒木田土とは限らず、屋根がついている学校のほうが珍しい。それでも形はきっちり同じだ。丸い。

盛ってある。中央がある。そして子どもたちには「あれは神聖なものだから、遊びで上がるな」と教えられる。

設備としては安上がりなのに、扱いだけが神社並みという、この落差が全部の始まりだと思っている。

「相撲が体育だった時代」の予算が、校庭に丸い土を残していった

なぜ校庭に土俵があるのか。答えは単純で、相撲が学校体育の種目だったからだ。

近代日本の学校は、明治以降くり返し武道を教育に組み込もうとしてきた。剣術や柔術と並んで相撲も、体操とは別系統の身体教育として扱われる時期があった。戦後にいったん武道は学校から締め出される。だがその後段階的に復活し、学習指導要領のなかで格技という枠が置かれ、さらに武道という名称に変わり、二〇一二年度からは中学校保健体育で武道が必修になった。

この必修化のとき、学校が選べる種目として柔道と剣道と並んで相撲が明記されている。日本相撲連盟が中学校体育向けの相撲指導の手引きを出しているのも、この流れのなかの話だ。

ただし現実には、必修化後も相撲を選ぶ中学校は少数派にとどまった。理由ははっきりしていて、土俵がないからだ。柔道は畳、剣道は体育館の床で足りるが、相撲は専用の設備を土から作らなければならない。すでに土俵を持っている学校だけが相撲を選べる。そして土俵を持っている学校は、たいてい戦前からの伝統か、自治体の政策で作られたかのどちらかだった。

自治体の政策として作られた例で分かりやすいのが、神奈川県秦野市だ。神奈川新聞の報道によると、秦野市は一九八二年、子どもの健全な体の発達を目的として、市内の小中学校すべてに土俵を設置した。全校である。今から見るとかなり思い切った施策だが、当時はそういう空気があったのだろう。ところが四十年経った現在、市内の小中学校で土俵が残っているのは上小学校ただ一校になった。

残った理由も報じられていて、児童の相撲大会が地域の年中行事として定着する。保護者会と地元の住民が補修に手を貸してきたからだという。二〇二一年四月十二日には五年ぶりの補修が行われ、その年の五月には二年ぶりの大会が開かれた。

東京にも学校の相撲場は残っている。江戸川区の小岩小学校には約百八十平方メートルの相撲場がある。更衣室とトイレとシャワーまで備えて学校開放事業の対象になっている。学校の敷地内にありながら、地域のスポーツ施設として運用されているタイプだ。

そして、消えていくほうの例。熊本県山江村の山田小学校には屋根付きの土俵があった。だが、熊本日日新聞によると、二〇二四年十月五日に行われた子ども相撲大会がこの土俵での最後の大会になった。参加したのは山田小と万江小の三年生以上、合わせて二十三人。屋根の傷みが激しく、土俵ごと撤去することが決まっていた。

保護者や地域の人が詰めかけて、最後の取組に声援を送ったという。

こういう撤去は今、全国で同時多発的に起きている。理由は複合的だ。屋根や柵の老朽化、耐震や安全基準、校庭の面積の再配分、そして何より競技人口の減少。二〇二三年のアールケービーの報道では、中学生の相撲部員が二十年前の千四百八十四人から六百五十五人へと半分以下に減ったとされる。大相撲の新弟子合格者も、その年は五十三人で過去最少になったと伝えられている。

比較のために出されていた数字が一九九二年の二百二十三人で、いわゆる若貴人気の絶頂期だ。四分の一以下ということになる。福岡県のように、県内の中学校に相撲部がひとつもないという地域も出てきた。

さらに象徴的なのが全国中学校相撲選手権大会の扱いだ。日本中学校体育連盟が全国中学校体育大会の実施競技を絞る方針を出し、相撲は対象から外れることになった。個人戦の優勝者に日本相撲連盟から贈られてきた中学生横綱という称号は、その舞台を失う。地域の代替大会は模索されているが、少なくとも「中学の部活で日本一になる」という回路は細くなる。

要するに、校庭の土俵は、相撲が学校教育の主流の一角にいた時代の遺物なんだよな。使わなくなった設備が、撤去されるまでの数年から数十年、校庭の隅に放置される。使われないのに壊されない。その宙ぶらりんの期間が、怪談の温床になる。学校怪談は、機能を失った設備によく取り憑くからだ。

使われていない旧校舎、封鎖された三階のトイレ、鍵のかかった第二音楽室、そして誰も上がらなくなった土俵。

――「女子は上がっちゃだめ」と言った先生も、たぶん理由を知らなかった

土俵のある学校で育った人に話を聞くと、ほぼ必ず出てくるのがこれだ。女子は土俵に上がれない。

言い方は学校によって違う。「女の子は上がっちゃいけないことになってる」と事務的に言われた学校もあれば、「上がると神様が怒る」と脅された学校もある。体育の授業では女子も普通に相撲を取らせていたのに、大会のときだけ女子は観客席、という運用の学校もあった。教員が明確に禁じたのではなく、上級生から下級生へ「あそこ、女子は入っちゃだめなんだよ」と申し送りされていただけ、というパターンもかなり多い。

ここで面白いのは、禁じている側もたいてい理由を説明できなかったという証言が一致する点だ。「相撲だから」「昔からそう」「テレビで見たことないだろ」。理由の説明として機能していない。にもかかわらず、規則としてはやたら強い。小学校という場所は本来、児童を性別で施設から排除する仕組みを持っていない。

上がってはいけない場所というのがそもそも少ない。屋上とボイラー室と、あとは土俵。

そこに性別という条件がつくのは、学校の論理からすると異物なんだよな。

では、その異物はどこから来たのか。大相撲の女人禁制がそのまま降りてきた、というのが素朴な答えになる。ただ、その大相撲の女人禁制自体が、思われているほど古いものではない、という指摘が研究の側から出ている。

北海道教育大学の紀要に載った相撲の女人禁制の伝統を検討した論文は、かなりはっきりした立場を取っている。要旨としては、相撲の女人禁制は古代以来の伝統ではなく、明治期以降に相撲界が自らの社会的地位を引き上げるために構成したものだ、というものだ。根拠として挙げられるのは、まず日本の古い史書に登場する相撲の記事のなかに采女による女相撲があること。

室町期の説話集である義残後覚には、比丘尼が勧進相撲に加わる場面が出てくること。江戸期には女相撲が興行として広く行われ、しかも神道的な設えの土俵の上で取られていたこと。回向院で勧進相撲が行われていた同じ時期に、女相撲も並行して行われていたと推測されること。

つまり、江戸時代までの相撲は女人禁制ではなかった、というのがこの論文の見立てになる。転機は明治だ。明治初期に風俗取締りの観点から男女が組む興行が規制され、女相撲は見世物としての位置に押し込められていく。山形県では一八八二年に新しい形の興行女相撲が起こり全国を巡って人気を得たが、次第に衰退し、一九五六年に終わりを迎えた。

そして本場所の側は、一九〇九年に国技館が開館した。相撲を国技と称するようになる時期に、神事性と伝統を前面に出したブランディングを進めていったのである。女人禁制は、その過程で「もともとそうだったこと」として整えられていった、というわけだ。

この議論には当然反論もある。土俵祭の構造は明治以前から神事の体裁を備えていたし、地域の奉納相撲には古くから女性を入れない慣行が存在した土地もある。全部が明治の創作だと切って捨てるのは乱暴だ、という立場も根強い。ただ、少なくとも「日本中どこでも太古から女は土俵に上がれなかった」という単純な話ではない、という点については、賛否のどちら側からもあまり異論が出ない。

そこがこの記事の肝でもある。学校の土俵の女人禁制は、大相撲の慣行のコピーだ。そしてコピー元の慣行が近代に整えられたものだとすると、校庭の禁忌は、伝統の継承というより、伝統の模倣の模倣ということになる。理由を説明できないのは当たり前なんだよな。誰も由来を知らないまま、形だけが学校に持ち込まれ、児童の口から口へ引き継がれた。

そして理由のない禁止ほど、怪談を吸い寄せるものはない。

「女性は土俵から降りてください」で、記憶の答え合わせが起きた

学校と土俵と女人禁制が交差する場面は、怪談の外側にも実際に何度も起きている。

分かりやすいのがわんぱく相撲だ。東京青年会議所などが関わり、日本相撲連盟と共催で全国大会が行われるようになったのは、国技館が蔵前から両国に移った一九八五年のこと。ただ地区予選のほうはもっと前から動いていて、小学生の男女が混じって出場する地域もあった。ここで起きたのが、一九七八年、地区大会で優勝した女子児童が全国大会の土俵に上がれなかったという件だ。勝ったのに、上の舞台には行けない。

一九九一年にも、女子児童の決勝進出が認められなかった事例が伝えられている。女子だけの全国大会であるわんぱく相撲女子全国大会が創設されたのは、ようやく二〇一九年八月になってからだった。

そして誰もが覚えている二〇一八年四月四日。京都府舞鶴市の舞鶴文化公園体育館で行われていた春巡業の舞鶴場所で、午後二時ごろ、あいさつをしていた市長がくも膜下出血で倒れた。土俵に駆け上がって救命処置を始めたのは、観客席にいた女性たちだった。そこへ場内放送が入る。女性は土俵から降りてください。

一度ではなく、複数回。協会員が直接、降りるよう促す場面もあったと報じられている。

倒れた市長はおよそ二か月後に回復して公務に戻ったが、あの放送の音声は日本中に流れ、以後この一言はひとつの固有名詞のようになった。

翌四月五日には、兵庫県宝塚市の巡業をめぐって、市長が土俵上であいさつしたいと申し入れたが認められなかった。市長は翌六日、土俵の下からのあいさつのなかで、女性であるという理由でできないのは悔しい、という趣旨の発言をしている。

さらに四月八日、静岡県での巡業で行われた恒例のちびっこ相撲で、それまで参加していた女子児童が参加を控えるよう求められていたことが四月十二日の報道で表面化した。協会側は安全面への配慮を理由として挙げ、巡業のちびっこ相撲は基本的に男子児童を対象としたもので女子の参加は例外的なものだった、と説明した。ネットの反発は激しかったのだ。

舞鶴の直後というタイミングの悪さもあって、伝統の是非という議論を通り越して、子どものイベントにまで線を引くのかという方向に火がついた。

この一連の出来事が効いたのは、学校の土俵の怪談にとって、これがある種の答え合わせとして機能してしまった点にある。子どものころ、理由もわからないまま女子は上がるなと言われていた。あれは何だったのか。二〇一八年の一連の報道で、あの禁止には本家があり、本家は本気だった、ということが可視化された。すると記憶のなかの校庭の丸い土が、急に重くなる。

ただの盛り土だと思っていたものが、全国的な線引きの末端だったと分かる。怪談というのは、こういうふうに後から重さを獲得することがあるんだよな。

――全国区の学校怪談リストに、土俵だけが載っていない

ここから怪談の話に入る。最初に、この怪談群のいちばん奇妙な性質を指摘しておきたい。

学校の怪談の代表的な演目を並べたリストを見ると、校庭がらみだけでもかなりの数が並ぶ。夜になると人魂が浮かぶ校庭、戦国時代の落武者が現れて時折合戦をする校庭、下で転ぶと消えてしまうバスケットゴール、風もないのに揺れるブランコ、足を引っ張られるプール。そして薪の数が減ったり夜中に走り回る二宮金次郎像。学校の敷地にあるものは、たいてい何かしらの演目を持っている。

ところが、土俵の項目がない。定番リストに載っていない。

これは怪談として弱いからではない。分布の問題だ。トイレも階段も音楽室も理科室も、日本のほぼすべての学校にある。だから話が全国に流通し、細部が磨かれ、定番化する。土俵は違う。

ある学校とない学校がある。しかも地域的に極端に偏っている。相撲が盛んな土地、奉納相撲の伝統がある土地、自治体が政策的に設置した市町村。そういうところに固まって存在し、それ以外の土地には一基もない。

だから土俵の怪談は、全国の子どもが共有する共通言語にならなかった。かわりに、その学校でしか通じないローカルな話として、校内で完結して伝承された。転校生に説明が要る怪談。他校の友達に話しても「え、土俵って何」で止まる怪談。この閉じ方は、実は民俗学的にはかなり面白い。

というのも、学校の怪談の研究では、口承文芸としての伝播と変異が主題になることが多いからだ。

常光徹の学校の怪談をめぐる一連の仕事は、まさに学校という空間で子どもたちが話を語り継ぎ、変えていく過程を追ったものだ。一九九〇年に始まった講談社の児童向けシリーズが、その後の一大ブームの起点になった。この時期に無数の学校怪談が全国規模で標準化されていったわけだが、土俵の話はそのネットワークに乗れなかった。乗れなかったぶん、各校のバージョンが独立して育ったのだ。

同じモチーフが、互いに知らないまま似た形に着地している例がいくつもある。それが逆に、この怪談群の不気味さを増している。

「夜の土俵に立つ大きな影」と、朝になると乱れている砂

土俵の怪談は、大きく五つの型に整理できる。順に見ていこう。

まず、夜の土俵に人影が立つという型。これが最も広く見られる。宿直や残業の教員、部活の遅い時間の生徒、体育館の窓から見下ろした位置にいた誰かが、暗い校庭の丸い土の上に、人が立っているのを見る。特徴として繰り返し語られるのが体格だ。とにかく大きい。

子どもではない。大人にしても横幅がおかしい。そして服装が語られない、あるいは腰のあたりだけが白く見える、と語られる。まわしを連想させる描写になっている。

二人立っていて向かい合っている、という証言もあれば、一人が中央でゆっくり四股を踏んでいた、という証言もある。共通するのは、見た者が「相撲」だと分かってしまう点だ。姿勢と間合いで分かる。だから怖い。

次に、朝になると砂が乱れているという型。これは前の型より地味だが、体験談としてはむしろこちらのほうが多い。前日にきれいにならして帰ったはずの土俵の砂に、朝来ると足跡がついている。しかも一方向ではなく、円の中で行き来したような、押し合ったような跡になっている。蛇の目の部分にだけ足跡が残っている、というバリエーションもある。

前述したとおり、土俵の砂は足跡を残すために敷かれている。

記録装置が置きっぱなしになっている場所で、記録が勝手に更新される。この構図は、怪談としてはかなり出来がいい。

三つ目が音の型。夜、校舎のなかにいると、外から四股を踏む音が聞こえる。どすん、どすん、という重い音。あるいは、すり足の砂を擦る音。柏手のような、乾いた音が二回だ。

相撲部の部室で聞いたという話も多く、この場合は「稽古の音がするのに人数が合わない」という形になる。

四つ目が女人禁制違反の型。女子が土俵に上がった、あるいは上がって遊んだ。その後、その子が高熱を出す、階段から落ちる、家族に不幸があるなどの災いに遭う。よくある形として、上がった当日の帰り道に転んで大怪我をする、というものがある。この型は語り口が説教くさくなりがちで、実際に児童の間では「上級生が下級生を怖がらせるための道具」として使われていた面が強い。

五つ目が撤去と掘削の型。老朽化した土俵を壊す、あるいは校舎の建て替えで校庭を掘り返す。すると工事が止まる。作業員が怪我をする。重機が動かなくなる。

埋まっていたものが出てくる。そして「あの学校、土俵をつぶした年に事故が続いた」という記憶だけが地域に残る。近年、実際に全国で土俵の撤去が進んでいるので、この型はいま最も更新されている。

――ならしたはずの土に残っていた、二人ぶんの足跡

ここから体験談を三つ紹介する。いずれも語りとして流通しているものを、聞き取りの体裁で整理したものだ。固有名は伏せる。

一件目は、東海地方の公立小学校に勤めていた男性教員の話として語られているものだ。時期は一九九〇年代の前半、まだ宿直に近い形で教職員が学校に泊まる運用が一部に残っていたころだという。

その学校の土俵は校庭の北西の角、体育倉庫とフェンスの間の少し窪んだ場所にあった。屋根はなく、周囲を低いコンクリートの縁で囲っただけの簡素なものだった。だが、地区の小学生相撲大会の会場になることがあったので、年に一度は業者を入れて土を入れ替えていたらしい。彼が泊まったのは秋の大会の三日前で、その日の放課後、体育主任と二人で土俵をならした。

トンボで表面を平らにして、蛇の目の砂を撒き直して、水を打って締めた。ならし終えたのが午後六時前。写真も撮った。翌朝の点検で崩れていたら直すつもりだった。

夜の十時ごろ、彼は職員室で翌日の資料を作っていたのだ。窓を開けると外が涼しかったので、換気のために少し開けたままにしていた。そこへ、砂を擦る音がした。ざ、ざ、という、リズムのある音。すり足の音だ。

彼は最初、野良犬か猫だと思ったという。ただ、猫にしては音の間隔が長すぎて、しかも重い。窓から見たが、街灯の届かない北西の角は真っ暗で、輪郭すら見えなかった。

懐中電灯を取りに行って戻ってきたときには、音は止んでいた。

翌朝、六時前に見に行ったのだ。土俵の中央、仕切り線を引いていたあたりを中心にして、砂が完全に乱れていた。片側から片側へ押し込まれたような、二人ぶんの足跡が円の中を往復していた。徳俵の外に、爪先だけが外へ出た跡がひとつ。彼はそれを見て、勝負がついた形だと思ったそうだ。

そのときいちばん怖かったのは、姿を見なかったことよりも、その足跡がうまいことだったと語っている。

自分が見てきた小学生の相撲の跡ではなかった。足の運びが、大人のものだった。

彼は誰にも言わず、トンボでならし直して、写真は消したのだ。大会は無事に行われ、その学校の児童は団体で三位だったという。土俵はその数年後、校庭の拡張工事のときに埋められた。埋めた、というのがポイントで、壊して撤去したのではなく、上から土をかぶせて平らにしたのだと彼は強調している。今もあそこの地面の下には、丸い形が残っているはずだ、と。

「三人でやっていた稽古」が、四人ぶんの音を立てていた

二件目は、九州の公立中学校の相撲部にいた男性の話として流通しているものだ。時期は二〇〇〇年代の半ば。地域の相撲熱が完全に冷める寸前で、部員は三年生一人、二年生一人、一年生一人の合計三人だったという。

その学校の相撲場は、体育館の裏手にあった。屋根付きで、柱が四本立っていて、周囲に低い観覧用の段が組まれていた。地元の氏神の秋祭りで奉納相撲をやる習慣がある。その会場としても使われていたので、学校の設備でありながら地域の施設という顔も持っていた。屋根の下は日中でも薄暗く、夕方になると照明が要る。

裸電球が二個ぶら下がっていて、スイッチは体育館側の壁にあった。

彼らの稽古は、顧問がいない日は三人だけで回していた。三人だと申し合いの回転が悪い。一人が取り、一人が待ち、一人が呼び出し役をやる。土俵の上には常に二人。単純な話だ。

問題の日は十一月の頭で、日が落ちるのが早くなっていた。五時半には真っ暗で、電球の光が届くのは土俵の上だけ。その日、三年生と一年生が取っていて、彼は二年生として外で待っていた。三年生が一年生を寄り切って、砂の外に出した。取組が終わって、二人が中央に戻ろうとしたとき、彼は妙なことに気づいたのだ。

音が、一拍多かった。

寄り切りのとき、砂を擦る音は二人ぶんのはずだ。ところが彼の耳には、三人ぶん、いや、四人ぶんに聞こえていた。ずっとそうだったのかもしれない。ただそのときだけ、最後の一歩が明らかにずれた。二人が止まったあとに、もう一歩だけ、どすん、と聞こえた。

彼は思わず三年生に「今の聞こえた」と言ったのだ。三年生は一瞬だけ黙って、それから「うちの相撲場、たまにそうなる」と答えたという。詳しく聞いても、それ以上は説明しなかった。ただ、卒業式の少し前に、三年生がこう言ったのは覚えている。この土俵は昔、地区の大会でよそから来た大きい人が倒れて運ばれたことがあるらしい。

その人が助かったのか死んだのかは、誰も知らない。

話がそこで止まっているのが、いちばん気持ち悪かった。

彼はその後、部員が集まらず相撲部が休部になり、卒業した。数年後に母校の前を通ったら、相撲場の屋根がなくなっていたのだ。柱の根元だけがコンクリートに残っていて、土俵の円もほとんど平らになっていた。そのとき彼が感じたのは怖さではなく、後ろめたさだったという。あそこにいた一人ぶんの音は、いま、どこにいるんだろう、と。

――掘り返した年の話を、当時の女子児童の側から聞く

三件目は、少し毛色が違う。北関東の小学校で、土俵の撤去に立ち会った当時の女子児童の記憶として語られているものだ。時期は二〇一〇年代の前半だという。

その学校では、土俵は完全に使われていなかった。彼女が入学したときにはもう相撲大会はなくなっていて、体育でも相撲はやらない。丸い土は校庭の隅にあって、ボールが転がっていくと拾いに行く場所、というだけの存在だった。ただし禁忌だけは生き残っていた。女子は上がるな。

誰が言い出したのか分からない。ただ、上級生が下級生に言い、その下級生がさらに下に言う。教員が明確に止めた記憶は、彼女にはないという。

四年生のとき、彼女は友達に誘われて上がった。理由は他愛ないもので、そこに上がって写真を撮ると背が高く見える、という当時の校内の流行だ。二人で上がって、ふざけて四股を踏んで、すぐ降りた。何も起きなかった。その日も、次の日も。

彼女はそれで「なんだ、嘘じゃん」と思ったという。

翌年、校庭の排水工事に合わせて土俵の撤去が決まった。夏休み中の工事だったが、プール開放で登校していた彼女は、フェンス越しに作業を見ていた。重機が丸い土を削っていく。土は思っていたより硬くて、何度も刃が跳ねていた。掘り返された断面から、彼女の記憶では、二種類の土の層が見えた。

上のほうが黒っぽく、下が茶色っぽい。そして中央のあたりを掘ったとき、作業員が手を止めて、しゃがんで、何かを拾い上げた。

黒くて、丸くて、かたまりのようなものだった、と彼女は言う。距離があったので詳細は見えていない。作業員はそれを掌に乗せて、しばらく見て、そのまま脇のバケツに入れた。あとで先生に聞いたら、木の実か何かじゃないの、と流された。

彼女がそれを思い出したのは、それから何年も経って、大相撲の土俵祭に鎮め物が埋められるという話をテレビで知ったときだ。勝ち栗、榧の実、昆布、するめ、洗米、塩。乾いた木の実が、土の中で年月を経て黒くなる。あの黒いかたまりが何だったのか、確かめる手立てはもうない。彼女の学校の土俵に、そもそも鎮め物が埋まっていたのかどうかも分からない。

ただ、市が政策で設置した土俵に土俵祭をやった記録は珍しくないし、地域の氏子や神職が関わって土俵開きを行った学校も現に存在する。

そのあとの話がこれだ。撤去の年の二学期、彼女の学年では骨折が四件出た。うち二件は同じ日の同じ休み時間だった。教員が全校集会で注意喚起をするくらいには目立ったのだ。そして子どもたちの間では、あっという間に理屈がついた。

土俵をつぶしたからだ。神様が怒っている。彼女は最初、それを馬鹿にしていたという。前の年、自分が上がっても何も起きなかったからだ。

ただ、彼女が本当に嫌だったのは別のことだった。噂が回るうち、あるとき同級生に「そういえば、あんた土俵に上がったよね」と言われた。四年生のときの、二人で写真を撮ったあの日のことだ。誰も覚えていないと思っていた。彼女はそのとき、自分がこの話の登場人物にされたことを理解した。

怪談の怖さって、幽霊じゃなくて、名指しなんだと思う、と彼女は語っている。禁忌というのは、破った人間を後から必要とする。

土俵はもうないのに、犯人だけが残った。

彼女はいま、その学校の跡地に何が建っているかを知らない。ただ、校庭の隅に丸い土がないことだけは知っている。

「学校ごとに違う顔」を持つ、土俵怪談のバリエーション

同じ土俵の怪談でも、学校が違えば話の顔つきがまるで変わる。ここからは、確認できている主なバリエーションを、ひとつずつ見ていく。

最も古い層にあると思われるのが、土俵の下に人が埋まっているという型だ。誰が埋まっているかは学校によって違う。工事中に事故で亡くなった人夫、戦時中にこの土地で亡くなった人、昔この場所で行われた奉納相撲で命を落とした力士。そして名前のない「大きい人」。共通するのは、埋葬されたのではなく「そのまま上から土を盛られた」という語られ方をする点だ。

土俵は盛り土だから、この連想は避けようがない。

丸く盛られた土のかたまりを、古墳や塚と結びつけるのは、日本語話者の感覚としてはほとんど反射に近い。実際、土俵の中央に供物を埋めるという事実が広く知られるようになってから、この型は「埋まっているのは人ではなく供物だ」という穏当な形に収束していく傾向がある。

次に、上がった女子が祟られる型の細部差。関西で聞かれるものには、上がった女子が翌日から相撲の夢を見る、というバリエーションがある。夢のなかで、自分より遥かに大きな相手と組んでいて、負けないかわりに勝てもしない。これが何日も続いて、やがて夢を見なくなったころ、身近な誰かが体調を崩す。祟りが本人を避けて周囲に向かうという構造で、これは学校怪談としてはかなり残酷な形だ。

本人が無事なぶん、罪悪感が長く残る。

三つ目に、四人目の型。前に紹介した体験談と同系統だが、これはもう少し明確な形で語られる学校がある。稽古中や大会中、写真を撮ると必ず一人多い。集合写真で数が合わない。ビデオを再生すると、土俵の外周にもう一人立っている。

この型は昭和後期のカメラの普及と、平成のビデオの普及に沿って更新されている。近年はスマートフォンの動画で語られるようになった。媒体が変わっても、余る一人という核は動かない。

四つ目に、一人相撲型。誰もいない土俵の上で、一人だけが相撲を取っている。組んでいる。押されて後退する。投げられて倒れる。

相手は見えない。これは怪談として不気味なだけでなく、実は日本の神事にそのままの形が存在する。愛媛県今治市の大三島にある大山祇神社の御田植祭では、一人角力と呼ばれる神事が行われ、力士が目に見えない稲の精霊を相手に三番勝負を取る。

決まっているのは結果のほうで、精霊が二勝することによってその年の豊作が約束される。見えない相手と相撲を取る光景は、日本ではもともと異常ではなく祭なんだよな。学校の土俵で誰かが一人で組んでいるという目撃談が生まれたとき、それを受け取る側にはあらかじめ土台がある。だからこの型は、聞いた瞬間に妙な納得感を伴う。

五つ目に、鎮め物を持ち帰った子の型。撤去工事や補修工事のとき、掘り返された土の中から何かを拾って持ち帰った児童がいる。栗のようなもの、木の実、小さな包み、あるいは古い硬貨。持ち帰った子の家で不調が続き、戻すまで止まらない。戻すときには、もとの場所がすでに舗装されているので埋められない。

仕方なく近くの神社に持っていく、という後日談が付くことが多い。

地鎮の供物を掘り出すことへの忌避が、そのまま子ども版になった形で、地鎮祭と解体前のお祓いという実在の慣行が下敷きにある。

六つ目に、撤去の呪い型の変異として、担当者が代わる、という語り方がある。土俵の撤去を決めた校長がその年度で異動になる。次に来た校長も一年で替わる。工事を請け負った業者が翌年廃業した。因果関係としては何も言っていないのに、並べられると効く。

学校という組織は人が定期的に入れ替わる場所なので、この型はいくらでも材料が湧く。裏を返せば、いくらでも作れるという意味で、信憑性はいちばん低い。

七つ目に、二宮金次郎像との合体型。校庭に土俵と二宮像の両方が残っている学校では、この二つが結びつく。夜、走り回っている金次郎が土俵の前で立ち止まって一礼する。あるいは、金次郎が土俵に上がって四股を踏む。撤去された像の台座と、撤去された土俵の跡が並んでいる学校では、両方まとめて「あそこは何かある」という扱いになる。

学校怪談は空きスペースを好むので、同じ校庭に二つの遺構があれば、当然くっつく。

――「それ砂ならしてないだけでは」と掲示板は繰り返した

ネット上でこの話題が定期的に浮上するようになったのは、二〇〇〇年代以降のオカルト系掲示板や、学校の怪談を集めるスレッドの流れのなかでのことだ。ただ、最初期の議論では、土俵の怪談は単独のテーマとして立たなかった。校庭の怪談を挙げるスレッドのなかに、ぽつんと一行だけ「うちは土俵に女子が上がると呪われるってのがあった」と書き込まれ、数レス後には別の話題に流れていく。この扱いが十年以上続いた。

全国区の演目ではないので、共感するレスが集まらない。話が育たない。

流れが変わったのが二〇一八年だ。舞鶴の一件を受けて土俵の女人禁制が全国的な議論になったとき、その周辺で「そういえば小学校の土俵にも女子は上がるなってルールがあった」という証言が大量に噴き出した。ここで初めて、ばらばらだったローカルな記憶が横につながった。あれはうちの学校だけの変なルールだと思っていた人たちが、同じ経験をした人が全国にいたことを知る。この体験の共有が、怪談としての再発見を後押しした。

禁忌が実在したと分かった瞬間に、禁忌にぶら下がっていた怪談も現実感を取り戻した、という順番だ。

一方で、考察と反証もきっちり出ている。最も強いのが、砂が乱れているのは動物と風だ、という指摘だ。土俵の砂は柔らかくて乾いていて、猫やタヌキやアナグマにとっては最高の遊び場であり、糞をするにも都合がいい。夜間に動物が行き来した跡が、朝には人の足跡のように見えることは十分にある。とくに蛇の目の砂は薄く撒かれているので、輪郭がぼやけて大きな足跡に化けやすい。

また、屋根のない土俵は夜露と風の影響を受けるので、水を打って締めた表面が朝までに一様に崩れることも珍しくない。この反証は説得力があって、実際に体験談の多くはこれで説明がつく。

夜の人影についても、暗い校庭の中で相対的に明るい丸い面がひとつだけあるという条件が、視覚的に人型を作りやすいという指摘がある。土俵は周囲より高く、色が違い、輪郭が円で閉じている。そこに何かが立っていると認識するには、輪郭の一部が欠けるだけでいい。加えて、多くの学校で土俵は校庭の隅、体育倉庫やフェンスや樹木の近くに置かれている。日中に見慣れている物の影が、夜には別の解釈を許す。

四股の音についても、体育館の防水シートや金属屋根が夜間の温度差で立てる音、いわゆる建物の熱伸縮による音が候補として挙がっている。学校の建物は夜になると本当によく鳴る。

撤去の祟りに関しては、ほぼ全面的に否定的な検討が優勢だ。学校の骨折件数は季節と学年構成で大きく変動するし、土俵を撤去する学校というのは、そもそも校庭全体を改修している場合が多い。工事中の校庭は使える面積が狭く、遊具や導線が変わり、児童が慣れない環境で走る。事故が増える条件が揃っている。撤去したから祟られたのではなく、工事をしたから怪我が増えた、という説明のほうが素直だ。

それでも反証しきれない部分はある。ひとつは、複数の学校で独立に、同じ細部が語られているという点。とくに「大きい」「腰のあたりだけ白い」「二人向かい合っている」という三点セットは、互いに交流のない地域で確認されている。もうひとつは、体験者が相撲の作法を知らないのに、目撃した動きを相撲だと断定していること。何を見たかではなく、何だと分かってしまったかのほうが説明しづらい。

「四股は大地を踏み鎮める所作」だから、掘り返すのが怖い

なぜ土俵という設備が、これほど禁忌と怪異を吸い寄せるのか。背景を整理しておきたい。

まず四股だ。四股という語はもともと醜足と書かれた語に由来するとされ、その所作には地を踏み鎮めるという宗教的意味があると説明される。陰陽道の反閇のような、大地を踏むことで邪気を抑える一連の作法と近い位置にあると見る立場も根強い。つまり力士が土俵の上で足を上げて下ろすたび、そこでは踏み鎮めが行われている、という理解が前提として共有されている。

この前提を裏返すと、こうなる。踏み鎮めが必要な場所には、鎮めるべき何かがある。

これは怪談の論理としてほとんど完璧なんだよな。土俵は毎年儀式で清められ、中央に供物が埋められ、上では絶えず地面を踏み鎮める所作が行われる。そこまでする必要があるということは、そこに何かがいる。子どもがそんな理屈を組み立てているわけではない。だが、大人が「あそこは神聖だから遊ぶな」と言う時点で、子どもの側は「何かいるから近づくなと言われている」と受け取る。

神聖と危険は、子どもの語彙のなかでは区別されない。

さらに、供物を埋めるという行為が決定的だ。土俵祭では中央に穴を掘り、勝ち栗、榧の実、昆布、するめ、洗米、塩を埋める。地鎮祭とまったく同じ構造で、土地に対して先に礼を尽くしておくという発想だ。この、先に何かを地面に入れておくという手続きの存在が、逆向きの禁忌をつくる。入れたものは出してはいけない。

掘り返してはいけない。そして学校の土俵は、いずれ必ず掘り返される。

老朽化するし、校庭は再編されるし、少子化で学校そのものがなくなる。撤去は前提として組み込まれている。禁忌と、それを破ることが確定している設備。この組み合わせが、撤去の祟り話を必然的に生む。

土地に対する記憶の問題もある。学校の土俵は、地域の奉納相撲と地続きの場合がかなり多い。神社の境内に土俵がある土地では、秋祭りの子ども相撲が学校の校庭に移ってきたり、逆に学校の相撲場が奉納の会場になったりする。全国には彌彦神社や大國魂神社のように立派な相撲場を持つ神社がある。そういう土地では、学校の土俵と神社の土俵が児童の頭のなかで同じカテゴリーに入る。

学校の校庭にある丸い土は、境内の延長になってしまう。そうなればもう、学校の規則ではなく神様の領分だ。教員が理由を説明できないのも当然で、そもそも学校の管轄外の理屈が持ち込まれているからだ。

――使われなくなった設備は、必ず何かを住まわせる

最後に、なぜこの怪談が怖いのか、そしてなぜ生き延びたのかを整理して終わりたい。

怖さの中心にあるのは、砂だと思っている。土俵の砂は、踏んだものを残すために撒かれている。判定のための記録装置なんだよな。誰もいないはずの場所に、記録するための装置だけが置きっぱなしになっている。そして朝、記録が増えている。

姿は見ていない。音も聞いていない。ただ、あったはずのない情報が地面に書き足されている。これは目撃談としてはいちばん間接的なのに、いちばん反論しづらい。

見間違いは否定できるが、跡は残る。

もうひとつが、名指しの構造だ。学校の土俵は、性別という条件で人を排除した、たぶん唯一の学校設備だった。屋上もボイラー室も理科室の準備室も、危ないから入るなだ。土俵だけが、あなたは駄目だと言う。理由の説明はない。

そして禁止は、必ず違反者を必要とする。上がった子がいる。その子が何かに遭う。あるいは、周りの誰かが何かに遭って、後から「あの子が上がったからだ」と接続される。

怪異が人を選ぶのではなく、人が語りのなかで役を割り振られる。三件目の体験談で語り手が言っていた、怖いのは幽霊じゃなくて名指しだ、という感覚は、この怪談の本質を突いている。

そして、なぜ広まったのか。あるいは、なぜ全国に広まらなかったのに消えなかったのか。

答えは、この怪談が設備の消滅そのものと結びついているからだと思う。トイレの花子さんは、トイレがある限り生き続ける。土俵の怪談は違う。土俵が消えていく過程でこそ語られる。秦野市が全小中学校に置いた土俵は一校を残して消えた。

山江村の屋根付き土俵は二〇二四年の秋に最後の取組を見届けて壊された。中学生の相撲部員は二十年で半分以下になり、中学生横綱という称号の舞台も畳まれる。

校庭から丸い土が消えるたびに、その学校の卒業生の記憶のなかで、あの禁忌が急に輪郭を持つ。もう確かめられないからだ。あそこに本当に何か埋まっていたのか。あの朝の足跡は何だったのか。上がるなと言われた理由は何だったのか。

全部、地面ごとなくなった。

学校の怪談というのは、たいてい、使われなくなった場所に取り憑く。旧校舎、封鎖された階段、鍵のかかった部屋。土俵はその究極形なんだよな。まだ校庭にあるのに、もう誰も使わない。使わないのに、上がってはいけないという規則だけが生き残っている。

機能を失った設備に、規則だけが残る。空っぽの円のなかに、規則の重さだけが溜まっていく。そこに誰かが立っていると言われたら、たいていの人は否定できない。

もしあなたの通っていた学校の校庭に、あの丸い盛り土があったなら、一度だけ思い出してみてほしい。誰があなたに、上がるなと言ったか。その人は、理由を説明できていたか。たぶん、していない。そして、その人にそれを言った誰かも、していない。

遡っていけば、どこかで理由は途切れている。途切れたところに、影が立っている。

タイトルとURLをコピーしました