校舎の裏手、給食室とプールのあいだに、やたら窓の低い平屋が一棟だけ建っている。屋根はトタンで、外壁のモルタルは剥がれ、入口の引き戸には南京錠がかかっている。用務員さんに聞くと「倉庫」だと言う。でも掃除用具は別の場所にあるし、体育の道具は体育倉庫に入っている。じゃああの建物には何が入ってるんだ、と誰かが言い出す。
そこから始まる怪談が、この記事で扱う話だ。
保健室の空きベッドでもなければ、旧校舎の開かずの教室でもない。学校の敷地の隅に、あるいは通用門を出てすぐの雑木林の際に、独立した一棟として建てられていた「隔離室」「隔離病舎」――そこにまつわる怪異を、制度の歴史ごと掘り返していく。
- 「倉庫」と呼ばれている建物は、たぶん倉庫ではなかった
- 明治三十一年九月、学校に「消毒」という言葉が正式にやってきた
- 人家から離せ、三棟建てよ――避病院という建物の仕様
- 「あそこへ運ばれたら帰ってこない」――避病院が徹底的に忌まれた理由
- 目を裏返される日――トラホーム検査の記憶
- 検温、ツベルクリン、そして数字で選り分けられていく子どもたち
- 完全再話――名簿に赤い線が引かれていた話
- 消毒液の匂いは、廊下の突き当たりから来る
- 鍵のかかった旧棟に、部屋番号のない一室がある
- 「まだ寝てなさい」――寝かされたままの子どもの声
- 名簿から消された児童、出席簿の墨消し
- 白い布と、屍室と呼ばれた部屋
- 体温計だけが人肌になっている
- 校門の外にあった建物が、いつのまにか敷地の中にある
- 体験談一・元用務員が語った、鍵を渡されなかった建物のこと
- 体験談二・教育実習生が資料室で見た茶色い帳簿
- 体験談三・卒業から二十年後、同窓会で人数が合わなかった夜
- 体験談四・廃校の解体前夜、蔵書整理に入った町職員の話
- 掲示板で繰り返されてきた「うちの学校にもあった」という報告
- 「土地由来説」で片づけていいのか、という反証
- 現実に、子どもは分けられた――学校が隔離の現場になった記録
- なぜこの建物だけが、こんなに怖いのか
- なぜ、いま語られ直しているのか
- それでも、あの引き戸は開けないほうがいい
「倉庫」と呼ばれている建物は、たぶん倉庫ではなかった
この話が他の学校怪談と決定的に違うのは、元になった建物が実在の制度に紐づいて全国に何千と建てられていた、という点にある。トイレの花子さんも二宮金次郎像も、怪異の側が先にあって場所が後から割り当てられていく。ところが隔離室の怪は逆なんだよな。まず建物があった。用途があった。
子どもが実際にそこへ入れられたのだ。そして用途が消え、建物だけが残った。
残った建物に、後の世代の子どもが名前のない恐怖を貼りつけていった。順番がまるきり逆なんだ。
だから語られ方も独特で、まず「あの建物は何なのか」という問いから始まる。花子さんは呼び出すものだが、隔離室は正体を突き止めるものだ。上級生が「あそこ、昔の病院の跡なんだって」と言い、別の子が「違う、伝染病の子を入れとくとこだった」と言い、また別の子が「入ったまま出てこられなかった子がいる」と続ける。どの説明も断片的で、どれも決定的な証拠がない。
証拠がないまま、しかし妙に具体的な細部だけが受け継がれる。窓に鉄格子があった、内側から釘が打ってあった、床に排水口がある、便所が病室ごとに分かれている、天井裏に古い名簿が積んである。そういう細部だ。
そして厄介なことに、その細部の半分くらいは史実として正しい。隔離のための建物には、実際に排水口があり、消毒室があり、病室ごとの区分があり、そして屍室があった。子どもたちが口伝えで積み上げた「怖い建物像」は、明治から昭和にかけての防疫施設の仕様書と、恐ろしいほど一致してしまうことがある。これがこの怪談を他と違う手触りにしている。噂の輪郭を辿っていくと、噂ではないものに手が触れるんだ。
明治三十一年九月、学校に「消毒」という言葉が正式にやってきた
まず制度の話をさせてほしい。ここが分かっていないと、後の怪談の細部が全部ただの雰囲気になってしまう。
日本の学校衛生が国の仕事として動き出すのは明治二十四年、三島通良が文部省の学校衛生事項取調嘱託に就いたあたりからだ。明治二十九年には文部省に学校衛生顧問と学校衛生主事が置かれ、専門家による顧問会議が組織される。そこから一気に制度が積み上がっていく。
明治三十年一月に「学校清潔方法」、同年三月に「学生生徒身体検査規程」、明治三十一年一月に「公立学校ニ学校医ヲ置クノ件」。そして明治三十一年九月に「学校伝染病予防及消毒方法」。日本学校保健会がまとめた学校保健史のコラムでも、この四つが明治期の柱として並べられている。
この最後の「学校伝染病予防及消毒方法」が、本記事の主役の法的な出生届みたいなものだ。学校という場所が、伝染病に対して何をどうすべきかを国が定めた。患者が出たら届け出る。出席を停止する。教室を消毒する。
必要なら休校する。そして、隔離する。学校という空間に「隔離」という機能が公式に埋め込まれたわけだ。
前年の明治三十年四月には伝染病予防法が公布されている。コレラ、赤痢、腸チフス、痘瘡、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア、ペストといった法定伝染病の枠組みが固まっている。学校の規則はその上に乗っかる形で作られた。
ここで注意しておきたいのは、明治期の学校が近代医療の最前線だったわけではない、ということだ。むしろ逆で、学校は「子どもが密集する危険な場所」として警戒されていた。町に赤痢が出れば、まず疑われるのが小学校だった。実際、学校を経由した集団感染は繰り返し起きている。だから学校に医者を置き、身体検査を義務づけ、清潔方法を定め、伝染病が出たら即座に切り離す仕組みを作った。
学校医制度そのものも、明治二十七年に東京市と神戸市で先行して置かれたのが最初とされ、そこから全国へ広がっていった。
そして切り離した先が必要になる。それが隔離病舎であり、避病院だった。
人家から離せ、三棟建てよ――避病院という建物の仕様
避病院というのは、要するに伝染病専用の隔離施設だ。明治九年、清国のアモイから寄港した外国船を発端にコレラが国内に広がり、政府は本格的な防疫体制の構築を迫られる。同年には警視庁が避病院仮規則を出し、明治十二年の「虎列剌病予防仮規則」では各町村に隔離病舎の建設が義務づけられた。明治三十年の伝染病予防法によって、避病院は法的に「伝染病院」として位置づけ直される。
昭和期には「隔離病舎」という呼び方が一般化した。平成十一年の伝染病予防法廃止と感染症法の施行を経て、機能は感染症指定医療機関へ引き継がれた。ちなみに東京では、避病院という語が方言では死病院に聞こえて紛らわしいという理由で、明治十九年に改称されている。当時の人が言葉の響きにどれだけ怯えていたかが分かる話だ。
問題は建物の作り方だ。宮崎県が公表している明治期の感染症対策資料には、設置基準として「軽易な建物でもよいから三棟建てること」、もしくは「一棟を三区画に分け、軽症・重症・快復期の患者を分けて収容する」という指示があったことが記されている。ここが重要なんだよな。軽易な建物でよい、と国が言っている。つまり避病院は最初から仮設として設計されていた。
しっかりした病院を建てるのではなく、隔離できさえすればいい建物を、人家から離れた場所に、安く早く建てる。それが原則だった。
具体例を見るともっと生々しい。富山県魚津町で明治四十二年に建てられた新病舎は、玄関脇に炊事場がある。廊下の両側に片側五室ずつ計十室の病室が並ぶ構造だった。しかし診察室も医師詰所も備えていなかった。医者が常駐する場所すらない。
それが避病院の実態だ。
さらに踏み込んだ記録がある。東北大学の関連サイトに掲載された竹原万雄によるコラムは、明治三十三年、福島県岩瀬郡仁井田村に設けられた赤痢の隔離病舎の記録を紹介している。赤痢患者二十四名が入院し、同時入院の最多は十三名。職員は事務員一名、予防委員二名、看護婦一名、使丁二名。医師は常駐せず、隔日程度で診察に来ていた。
そして施設の構成が、病室三室のほかに、消毒室、看護婦室、そして屍室である。
屍室だ。三部屋の病室に対して、遺体を安置する部屋が最初から設計に入っている。これは異常な設計思想ではなく、当時としてはごく当たり前の実務だった。伝染病の遺体は普通に運び出せない。消毒し、限られた手順で処理しなければならない。
だから建物の中に置き場が要る。要るから作る。それだけの話なのだが、百年後の子どもがその図面を見たら、間違いなく怪談が一本生まれる。
ちなみに仁井田村のこの隔離病舎は、記録上は院内感染ゼロ、死者は入院当日の一名のみと、運営としてはかなり健闘している。県の検疫官からは便器置場の改良や汚染物焼却の徹底といった改善指導を受けたともある。管理が杜撰で人が死んだ場所、という怪談的な図式は、少なくともこの記録には当てはまらない。この点は先に断っておきたい。
「あそこへ運ばれたら帰ってこない」――避病院が徹底的に忌まれた理由
では、なぜ避病院はあれほど恐れられたのか。医療施設なのに、なぜ人々は必死で抵抗したのか。
科学研究費の助成を受けて岡山大学医学部客員研究員の木下浩らが進めている「隔離病舎は誰のものか」という研究は、市町村立の隔離病舎・避病院の実態を、建築場所、構造、設立年代、内部での医療行為。そして患者側の受容という観点から掘り起こそうとしている。この研究の紹介文には、資料から浮かび上がる姿として「人民に忌避される存在としての避病院・隔離病舎」という表現が置かれている。忌避される存在。
これが公式研究の言葉として出てくること自体が、この施設の位置を物語っている。
静岡県立中央図書館が公開している明治期のコレラ関連資料には、その忌避が実力行使に発展した例が記録されている。吉原では患者の移送ルートが変更されたことで西本町の住民が抗議行動を起こし、さらに東本町、裏町、本町の住民が警察の措置を不当として警察署へ押しかけようとした。同種の衝突は全国で起きており、コレラ一揆、コレラ騒動と呼ばれている。防疫にあたる行政や警察と、住民が正面からぶつかった。
資料は背景として、当時の警察が日常的に強権的であったこと、そこから生まれた不信が流言を増幅させたことを指摘している。
つまり避病院への恐怖は、病気そのものへの恐怖と、権力に連れて行かれることへの恐怖が二重になっている。役人と巡査が来る。戸口に消毒液が撒かれる。家族が引き離される。荷車か戸板に乗せられて、村外れの建物へ運ばれていく。
そして多くの場合、帰ってこない。帰ってきても、あの家はコレラの家だという記憶が残り続ける。医学的な隔離が、社会的な隔離とほとんど区別のつかない形で作動していた。
この構造を頭に入れた上で、もう一度学校に戻ってきてほしい。学校の敷地の隅、あるいは隣接地に、そういう性格を帯びた建物が建っていた。あるいは学校そのものが、流行期には臨時の収容所として使われた。子どもが列に並ばされ、名前を呼ばれ、選り分けられ、一部だけが別の建物へ連れていかれる。これが実際にあった風景なんだよな。
怪談が生えないほうがおかしい。
目を裏返される日――トラホーム検査の記憶
隔離室の怪談を語る上で外せないのが、トラホーム、いまでいうトラコーマの検査だ。この経験は戦前戦中の学校を通った世代にとって、ほとんど共通のトラウマみたいな位置にある。
トラホームはクラミジアによる感染性の結膜炎で、放置すれば瞼の変形から角膜を傷つけ、失明に至る。日清戦争後の明治二十八年頃には帰還兵を介した蔓延が記録され、学校でも重点的な対策対象になった。北海道大学の紀要に収められた研究は、一九一〇年代の学齢児童のトラホーム罹患状況と学校での対応を扱っている。地域によっては児童の三割、四割が有病と判定された記録もあり、これは例外的な数字ではなかった。
検査の光景がまた強烈だ。学校医、あるいは巡回の眼科医が来る。児童が一列に並ぶ。順番が来ると、医者がガラス棒や指で上瞼をひっくり返し、裏側の濾胞を見る。判定されると洗眼と点眼の対象になった。
多くの学校では洗眼所や洗眼台が設けられ、休み時間や放課後に該当児童が集められて処置を受けた。
硫酸銅の棒で瞼の裏を擦る処置も広く行われていて、これは痛い。
子どもの証言としてよく残っているのは、この痛みと、みんなの前で「そっち」に分けられる恥ずかしさだ。
学校によっては、トラホーム児童だけを集めた特別の学級や、専用の教室が用意された。これは差別のためというより、処置の効率と感染防止という理屈で組まれている。しかし理屈がどうであれ、子どもの側から見れば「別の部屋に集められる子」というカテゴリが学校に存在した、という事実だけが残る。目を洗う匂い、瞼を裏返される感触、隔てられた部屋。この記憶の層が、後の隔離室怪談の下地になっている。
検温、ツベルクリン、そして数字で選り分けられていく子どもたち
戦時期から戦後にかけて、学校を支配したのは結核だった。
大正期には学校看護婦の配置が進み、大正十一年には大阪市が一校一名の看護婦配置に踏み切っている。昭和四年の文部省訓令で学校看護婦の規程が明確化され、昭和十六年には養護訓導として教育職員に位置づけられた。戦後の昭和二十二年に養護教諭と改称され、同年の学校教育法施行規則で保健室の設置が義務づけられる。
ただし「保健室」という名称が公式文書に登場するのは昭和二十九年で、それ以前は医務室、衛生室、学校診療室などと呼ばれていた。北海道教育大学の紀要論文が整理しているとおりだ。
そして結核対策である。昭和二十三年の予防接種法で痘瘡、ジフテリア、結核などが法定接種となる。昭和二十六年の結核予防法で三十歳未満へのビーシージー接種義務、患者登録制度、医療費公費負担が整備された。ここから、日本の子どもは全員がツベルクリン反応検査を受ける時代に入る。
前腕にツベルクリンを注射する。四十八時間後に発赤の径を測る。陰性ならビーシージーを接種する。陽性なら、径の大きさによっては精密検査へ回される。胸部レントゲンを撮り、要観察や要治療の判定が出た子は、養護学級や養護学園、あるいは林間学校や転地療養へ送られることがあった。
数字で線が引かれる。腕に浮かんだ赤い輪の直径という、本人にはどうにもできない数字で、行き先が変わる。
この「数字で分けられる」感覚が、隔離室怪談のもう一つの背骨だ。学校というのは、身長も体重も座高も視力も、全部数えて記録する場所である。数えられ、記録され、線を引かれる。線の向こう側に行った子は、しばらく教室から消える。戻ってくる子もいれば、戻ってこない子もいる。
戻ってこない理由を、教師は詳しくは説明しない。この空白に、子どもは自分で物語を入れるしかない。
完全再話――名簿に赤い線が引かれていた話
ここからは、隔離室怪談の中でもっとも完成された型として各地で語られてきた話を、細部まで再現する。これは特定の実在校の記録ではなく、複数の学校で聞かれる構成要素を、いちばん整った形で並べ直した再話だと思って読んでほしい。
舞台は、木造校舎から鉄筋校舎への建て替えを終えたばかりの小学校だ。新しい校舎はコの字型で、真ん中に中庭がある。中庭の奥、体育館との継ぎ目の日陰に、一棟だけ古い平屋が取り残されている。周りをぐるりと植え込みで囲まれていて、正面から見ると木の陰に隠れてよく見えない。全校朝会のときに背伸びすれば屋根のトタンが見える、その程度の存在だ。
児童のあいだでは「第二倉庫」と呼ばれている。実際、入口の脇に手書きの木札で「第二倉庫」と書いてある。でも誰も中に入ったことがない。用務員も鍵を持っていないと言う。持っているのは校長と、教頭と、あと事務室の金庫の中にある予備の鍵だけらしい。
この「鍵の所在だけがやたら詳しく語られる」という特徴は、隔離室怪談にほぼ共通している。
ある年の秋、六年生の男子四人が中庭掃除の当番になった。落ち葉を集めているうちに、そのうちの一人が植え込みの隙間から平屋の裏側に回れることに気づく。回ってみると、裏側には窓が四つ並んでいた。どれも磨りガラスで、しかも異様に位置が低い。大人の腰より下だ。
四人がしゃがんで顔を近づけると、外側から板が打ちつけられている窓が二つ、残り二つは板がない。板のない窓のガラスは、下のほうが少しだけ割れていた。
そこから中を覗いた子が「なんもない」と言った。次に覗いた子が「布団あるよ」と言ったのである。三人目が覗いて「ベッドじゃない、たたんだマットだよ」と言い、最後に覗いた子が黙り込んだ。何が見えたのか聞かれても答えず、掃除の途中で保健室に行って、そのまま早退した。この「四人目だけが答えない」という構造は、話者が誰であれ必ず入る。
四という数字が入るのも、学校怪談の定石どおりだ。
翌週、その子は学校に戻ってきた。友達に何度も聞かれて、ようやく話した。窓から見えたのは、壁際に並んだ低い寝台で、そのうち手前の一台に子どもが寝ていたのだ。上を向いて、掛布団を顎まで引き上げて、目を開けたまま天井を見ていた。髪型が古かったという。
丸刈りで、耳の上が白かった。そしていちばん怖かったのは、その子が首だけをゆっくりこちらに向けて、口を動かしたことだった。声は聞こえなかったのだ。
でも口の形は分かった。「まだ寝てなさい」。看護婦が言いそうな台詞を、寝ている子どものほうが言ったのだ。
話はここで終わらない。数日後、その子が担任に「昔、あの建物で子どもが寝てたことある?」と聞いた。担任は答えなかったが、放課後に職員室へ呼ばれた。教頭が出てきて、昔は伝染病が出たときに使う部屋だった、いまはもう使っていない、勝手に近づくな、とだけ言われたのだ。その帰り際、事務室の前を通ったときに、開いた戸棚の中に古い名簿が積まれているのが見えた。
表紙が茶色くなった帳簿で、いちばん上の一冊が開いたままになっていた。その見開きの、名前の欄のいくつかに、赤い線が引かれていたのだ。横線が一本、名前の上に真っ直ぐ。
赤い線が何を意味するのかは、誰も教えてくれなかった。転出なのか、退学なのか、あるいはそれ以外なのか。子どもは分からないまま卒業する。分からないまま卒業して、大人になってから思い出して、そこでようやく怖くなる。この「時間差で効いてくる」構造が、隔離室怪談の一番の持ち味なんだよな。
消毒液の匂いは、廊下の突き当たりから来る
再話でも触れたが、この系統の怪談で共通する感覚のトップは、視覚ではなく嗅覚だ。匂いから始まる。
語られるのはたいてい、クレゾール石鹸液の匂いである。あの茶褐色の液体を薄めたときの、鼻の奥に引っかかる独特の匂い。昭和の学校では便所や下足室、給食室周りの消毒に日常的に使われていて、四十代以上なら嗅いだ記憶がある人が多いはずだ。石炭酸、いまでいうフェノールの匂いとして語られることもある。
怪異としての典型はこうだ。放課後、誰もいない廊下を歩いていると、突き当たりのあたりから消毒液の匂いが流れてくる。その先には何もない。使っていない配膳室か、封鎖された渡り廊下か、屋外へ出る鍵のかかった扉があるだけだ。匂いは近づくと濃くなり、扉の前に立つと最も濃い。
そして扉に耳をつけると、内側で誰かが動く音がする。布が擦れる音、金属の器がぶつかる音、そして小さく咳き込む声。振り返ると匂いは消えている。
翌日、同じ場所へ行っても何も匂わない。
匂いを使う怪談は他にもあるが、消毒液が選ばれるのには理由がある。消毒液の匂いは「いま誰かが処置をした」ことの痕跡だからだ。血の匂いは事件の結果を示すが、消毒液の匂いは進行中の管理を示す。まだ続いている。まだ誰かが手当てされている。
そのニュアンスが、無人の校舎という設定と噛み合ったときに、独特の居心地の悪さを生む。誰もいないのに、誰かの世話が続いている。
音の要素も定型がある。木の引き戸が滑る音、洗面器を置く音、ゴム長靴が濡れた床を踏む音。どれも「処置室で鳴る音」だ。ピアノや足音といった一般的な学校怪談の音と違って、この系統では医療行為を連想させる音が選ばれる。そこがこの怪談の輪郭を作っている。
鍵のかかった旧棟に、部屋番号のない一室がある
ここからは派生型を一つずつ見ていく。まずは、隔離室が「建物」ではなく「校舎内の一室」として語られる型だ。
戦後、独立した隔離病舎の必要性が薄れると、多くの学校で建物は解体された。しかし解体されずに用途変更された例も相当ある。物置になり、宿直員の休憩室になり、放送部の部室になり、そして最終的に何にも使われなくなった。あるいは、木造校舎の一角にもともと設けられていた「病室」「静養室」の類が、鉄筋への建て替え時に中途半端に生き残る。この、用途を失った小部屋を舞台にするのが第一の派生型である。
この型の怪談で語られる特徴は、部屋番号が飛んでいることだ。三年一組、二組、三組と並ぶ廊下の途中に、番号のない扉がある。扉には小窓がついていて、上半分が磨りガラスになっている。取っ手はあるが鍵穴が潰されている。あるいは扉の前に、なぜかスチール棚が押しつけてあって開けられない。
子どもたちはこの部屋を「四組」と呼ぶ。存在しない四組。三クラスしかない学年に四組があるという矛盾が、そのまま怪談の核になる。
怪異の中身は、扉の小窓に顔が映る、というのがもっとも多い。放課後、廊下を歩いていて何気なく小窓を見ると、磨りガラスの向こうに人の形の影がある。近づくと影は動かない。手をかざすと、向こうからも手をかざしたような形になる。しかし手の位置が高すぎる。
子どもの身長ではなく、大人の身長でもない。ちょうど、寝ている人を横から見上げたような位置にある。
もう一つの定型は「点呼」だ。誰もいないはずの部屋の中から、名前を読み上げる声が聞こえる。読み上げられているのは在校生の名前ではない。聞いたことのない名前ばかりで、しかも読み上げの間隔が妙に長い。返事を待っているのだ。
そして最後に、聞いている本人の名前が読み上げられる。返事をしてはいけない。返事をすると、翌日から出席簿の自分の欄に赤い線が引かれるようになる。
この派生型は、既存の「開かずの教室」怪談とかなり近い形をしている。ただし決定的な違いがあって、開かずの教室が事故や自殺を起源に語られるのに対し、隔離室型は病気を起源に語られる。事故は一度きりの出来事だが、病気は繰り返し起こる。だからこの型の怪異には終わりがない。慰霊すれば収まるという解決が用意されないんだ。
そこがじわっと嫌なところだ。
「まだ寝てなさい」――寝かされたままの子どもの声
第二の派生型は、隔離された子どもが「まだ療養中である」という設定で現れるものである。学校怪談としては珍しく、幽霊の側に自覚がない。
この型の怪異は、自分が死んだことを知らない。あるいは、隔離が終わったことを知らない。だから寝ている。ずっと寝ている。誰かが近づくと、静かにしろ、まだ寝ていろ、と告げる。
加害の意図がまったくない。むしろ規則を守らせようとしている。ここが不気味なんだよな。
具体的な語られ方はいくつかある。もっとも多いのは、放課後に鍵のかかった小部屋の前を通ると、中から「まだ寝てなさい」「まだ出ちゃだめ」という声が聞こえるというもの。次に多いのが、体育館裏や中庭で遊んでいると、誰もいない方向から「もう戻る時間だよ」と呼びかけられるというもの。声はいつも子どもの声で、しかもやけに落ち着いている。子どもが子どもに向かって、大人の役割の言葉を言う。
この配役のねじれが、この型の恐怖の中心にある。
そして、この型には必ず「返事をしてしまった子」のパートが付随する。返事をした子は、その日から具合が悪くなる。熱が出る。学校を休む。休んでいるあいだ、家の中でも同じ声が聞こえる。
「まだ寝てなさい」。治って登校しようとすると、また熱が出る。何日も続く。最終的に、家族が寺か神社へ相談に行くか、あるいは学校がその部屋を取り壊すかして、ようやく収まる。
医学史の観点から見ると、この型の怪異はかなり正確に隔離の本質を突いている。隔離というのは、患者を治すための処置ではなく、他者を守るための処置だ。だから隔離される側から見れば、自分は治療されているのか、それとも保管されているのか判然としない。「まだ寝てなさい」という言葉には、その両義性がそのまま入っている。休ませているのか、出さないようにしているのか。
子どもたちがこの台詞を選び取ったのは、ほとんど直感的な洞察だと思う。
名簿から消された児童、出席簿の墨消し
第三の派生型が、記録にまつわるものだ。これは近年になるほど語られる頻度が上がっている。
型としてはこうだ。学校の資料室、あるいは事務室の奥、あるいは倉庫の段ボールの中から、古い名簿や学籍簿が出てくる。開いてみると、いくつかの名前が塗り潰されている。墨で消してあるものもあれば、上から紙を貼ってあるものもある。赤い横線が引かれているだけの場合もある。
塗り潰された名前の数を数えると、必ず学年ごとに数人ずついる。そして、消された名前の隣の欄には、日付が書き込まれている。
ここから怪異が始まる。消された名前を声に出して読もうとすると、読めない。字は見えているのに、口が動かない。無理に読もうとすると、その夜に高熱が出る。あるいは、消された名前を鉛筆で書き写すと、翌朝その紙に別の名前が増えている。
増えた名前は、自分のクラスメイトの名前だ。しかもその子は、次の日から学校を休む。
さらに踏み込んだ型では、消された名前の一つが、自分の家族や親戚の名前と一致する。祖父母に聞くと、確かにこの学校に通っていた兄弟がいた、幼いうちに亡くなった、という話が出てくる。そして、その子が最後に過ごしたのが、学校の隅の建物だった、と。
この型が現代的なのは、怪異が「記録の欠損」として現れる点だ。姿を見せない。音も立てない。ただ、あるべきものがない。この不在の恐怖は、名簿を見る立場になれる年齢――つまり教育実習生や卒業生、あるいは廃校の整理を手伝った人――に語りやすい形をしている。
だから体験談の語り手が大人であることが多い。
子どもが体験する怪談ではなく、大人が後から気づく怪談として設計されている。
念のため断っておくと、旧学籍簿に横線や抹消が入っているのは、転出、除籍、死亡による記載整理として制度上ごく普通に行われてきた処理だ。事務手続きの痕跡が、後の世代には暗号のように見える。それだけの話でもある。
白い布と、屍室と呼ばれた部屋
第四の派生型は、先に触れた屍室の記憶と直結している。
隔離病舎には遺体安置のための部屋が設けられていた。学校の敷地内、あるいは隣接地にその種の建物があった場合、当然その部屋も存在した。用途が終わったあと、建物は倉庫に転用される。転用された建物の一室が、なぜか他の部屋より天井が低かったり、床が土間だったり、排水溝が切ってあったり、窓が北向きに一つしかなかったりする。子どもはその違和感を的確に嗅ぎ取る。
この型の怪異は「白い布」として現れる。倉庫の奥に、白い布がかかった何かが置いてある。跳び箱かもしれないし、丸めたマットかもしれない。近づいて布をめくろうとすると、布の下から手が出て押さえる。あるいは、めくった瞬間に何もないのに布だけが盛り上がっている。
あるいは、翌日行くと布の位置が変わっている。
もう一つの定型が「線香の匂い」だ。消毒液の匂いと入れ替わりに、あるいは混ざり合って線香が匂う。これは前述の消毒液怪談と対になる要素で、消毒液が生きている者の管理を示すのに対し、線香は死んだ者の処理を示す。二つの匂いが同じ廊下でせめぎ合っている、という語り方をする話者もいて、これはかなり完成度が高い表現だと思う。
なお、実在の避病院・隔離病舎の遺構については、静岡県東伊豆町の隔離病舎、通称稲取隔離病棟の例がよく知られている。斜面に木造三棟が並び、中段の本棟に受付、診察室、炊事場があり、上段の二棟の隔離舎へ屋根つきの階段で繋がっていた。開設は昭和三十三年、稲取町立の施設として発足し、翌年の東伊豆町成立で町立となった。
結核や赤痢の患者収容を目的としている。昭和五十三年の伊豆大島近海地震で舗装路が分断されたことを機に規模を縮小、昭和五十七年に役目を終えている。廃墟愛好者の記録によれば、かつては寝台や消毒用の洗面器が残っていたが、現在は倒壊が進んで判別も難しいという。
面白いのは、この場所について「軍服姿の人物が医師と話す姿を見た」という噂が流通している点だ。ところが施設の開設は戦後である。時代が合わない。廃墟情報を扱うサイトの解説もこの矛盾を指摘している。つまり、隔離施設という器に対して、人は自動的に戦争の記憶を流し込んでしまう。
この誤配こそ、隔離室怪談の生成過程そのものなんだよな。
体温計だけが人肌になっている
第五の派生型は、道具にまつわる怪異だ。保健室怪談とも接触するが、隔離室型では道具の種類が違う。
語られるのは、水銀体温計、洗面器、金属製の膿盆、ガーゼの缶、消毒用のバット、そして木製の名札掛けだ。とくに体温計が多い。誰も使っていない箱に体温計が並んでいて、そのうちの一本だけが三十六度台を指している。振って下げても、翌日にはまた同じ数字に戻っている。あるいは、握ってみると人肌に温かい。
名札掛けというのも独特で、これは病室ごとに患者名の木札を差し込む仕組みのことだ。実際の隔離病舎では、病室と患者を対応させるためにこうした札が使われた。怪談では、空のはずの札差しに、一枚だけ札が入っている。文字は消えかけていて読めない。裏返すと日付だけが読める。
翌日見ると、札が二枚に増えている。
この型は、道具が持つ「使われた痕跡」に依存している。学校の備品というのは基本的に匿名で、誰が使ったか分からない。ところが医療器具は違って、必ず特定の一人に対して使われる。体温計は誰かの脇に挟まれていた。洗面器は誰かの吐瀉物を受けた。
膿盆は誰かの傷を拭ったガーゼを載せたのだ。匿名の学校空間に、名指しの記憶を持つ道具が紛れ込んでいる。その落差が怪異を呼ぶ。
校門の外にあった建物が、いつのまにか敷地の中にある
第六の派生型は、位置に関するものだ。これはかなりマニアックだが、語られる地域では執拗に語られる。
避病院や隔離病舎は原則として人家から離れた場所に建てられた。ということは、学校の隣に建っていたケースでも、多くは校地の外、通用門を出て坂を下りた先とか、川沿いの土手の裏とかにあった。ところが、学校の敷地は拡張される。校舎が増える。グラウンドが広がる。
プールができる。その過程で、かつて敷地外にあった隔離病舎の跡地が、いつのまにか校地の中に取り込まれる。
この型の怪談は、その取り込みを怪異として語る。夜、校庭の隅に見慣れない建物が建っている。翌朝行くと何もない。あるいは、体育の授業でグラウンドを走っていると、外周のフェンス際に古い平屋が見える。走り終わって振り返ると、そこはただの倉庫だ。
あるいは、校内の見取り図に載っていない建物が、古い航空写真にだけ写っている。
さらに凝った型では「境界が動く」ことそのものが怪異になる。かつて敷地の外だったものが中に入ったので、外に置かれていた何かも一緒に入ってきた、という理屈だ。塀の位置、門の位置、フェンスの継ぎ目。そういう境界の痕跡が語りの手がかりになる。フェンスの一部だけ色が違う、コンクリートの基礎だけが花壇の脇に残っている、桜の木が不自然に一列だけ古い。
こういう細部を根拠に、ここが昔の境界線だ、と特定していく語り方をする。
体験談一・元用務員が語った、鍵を渡されなかった建物のこと
以下は、この系統でよく共有される体験談の型を、それぞれ独立した読み物として再構成したものだ。特定の実在校や実在人物を指すものではない。
昭和五十年代の終わり、北関東のある小学校で用務員として働き始めた男性の話として語られているものがある。着任初日、前任の用務員から鍵束を引き継いだ。校舎、体育館、プール、給食室、倉庫。ひととおり説明を受けたあと、彼は中庭の奥にある平屋を指して「あれの鍵は」と聞いた。前任者は少し黙って、あれは開けないから要らない、と答えた。
彼は納得しなかったのだ。清掃の対象に入っていないのはおかしいし、消防の点検はどうするのか。教頭に聞くと、あそこは市の管理で学校の管轄ではない、という妙な回答が返ってきた。市に問い合わせろとまでは言われなかったが、要するに触るなということだった。
半年ほど経った十一月、日直で遅くまで残った日があったのだ。午後七時過ぎ、彼は職員室から中庭を見て、平屋の窓が明るいことに気づいた。オレンジがかった、白熱電球の色だった。あの建物には電気は来ていないはずだったのだ。彼は懐中電灯を持って外に出た。
中庭を横切り、植え込みを回り込んで、正面の引き戸の前に立った。南京錠はかかっていたのだ。錆びていた。触ると指に赤い粉がついた。
窓は暗かったのだ。職員室から見えた明かりは消えていた。それだけなら気のせいで済んだ。しかし彼は、引き戸の隙間から中の匂いが漏れていることに気づいた。埃の匂いではなかった。
彼が子どもの頃、便所の掃除のあとに嗅いだのと同じ、クレゾールの匂いだったのだ。三十年近く使われていない建物から、消毒液の匂いがした。
翌日、彼は教頭にそのことを話した。教頭は表情を変えずに、あそこは昔、伝染病の子を寝かせた部屋だったらしい、とだけ言ったのだ。そして、それ以上は自分も知らない、と付け加えた。彼はそれから定年まで十数年その学校で働いたが、あの建物には一度も入らなかった。取り壊されたのは平成に入ってからで、解体の日は年休を取って学校を休んだという。
体験談二・教育実習生が資料室で見た茶色い帳簿
平成の初め、地方の教育大学に通っていた学生が、母校でもある市内の小学校へ教育実習に行った。三週間の実習の最終週、指導教官から資料室の整理を手伝ってくれと頼まれた。資料室というのは名ばかりで、実質は古い書類と備品の物置になっている部屋だったのだ。
段ボールを開けていくと、昭和二十年代から三十年代の書類がまとまって出てきた。給食の献立表、保護者会の会計簿、運動会のプログラム。その中に、表紙が茶色く変色した帳簿が数冊混ざっていた。表紙には「養護記録」と書かれていた。開くと、児童の名前と、身長、体重、視力、そして「ツ反」という欄があったのである。
ツベルクリン反応のことだ。陰性、陽性、径の数字が几帳面な字で並んでいる。
彼女はそこで、いくつかの名前の欄が横線で消されていることに気づいた。赤ではなく黒のインクだった。線の右端に小さく日付が添えられているものもあったのだ。数えると、一冊のなかに十二名分あった。同学年ではなく、学年をまたいで散らばっていた。
彼女は指導教官にそれを見せたのだ。教官は帳簿を手に取り、少し眺めてから、これは処分でいい、と言った。個人情報だから、と。彼女は食い下がって、この線は何ですか、と聞いた。教官は、転校か、あるいは亡くなったんだろう、当時は珍しくない、と答えた。
それから、この学校は昔、裏に隔離の建物があったから、と続けたのだ。
その日の夕方、彼女は校舎の裏へ回ってみた。建物はもうなかった。代わりに小さな花壇があって、その端に苔むしたコンクリートの塊がいくつか埋まっていたのだ。基礎の跡だった。花壇にはマリーゴールドが植えられていて、当番の児童が水をやっていた。
彼女はそれを見て、なんとも言えない気持ちになったという。怖い話ではないのだが、彼女はこの話を毎年、実習の思い出として誰かに話してしまうらしい。
話さずにいられない、という言い方をしていた。
体験談三・卒業から二十年後、同窓会で人数が合わなかった夜
三つ目は、大人になってから怪異に気づく型の典型例だ。
ある年の秋、地方都市の小学校で創立百周年の記念行事が開かれた。卒業生が学年ごとに集まり、旧校舎の展示を見て回るという企画があった。展示のなかに、歴代の学級写真を年ごとに並べたコーナーがあったのだ。彼は自分の卒業年度のパネルの前で足を止めた。
六年三組。三十七人。前列にしゃがんだ男子の左から四番目が自分だった。彼は名前を思い出しながら一人ずつ顔を追っていった。そして、後列の右端に、顔の記憶がない男子が一人いることに気づいたのである。
制服も体操着も同じ、髪型も普通、特に目立たない子だ。しかし名前が出てこない。
同級生を呼んで聞いてみた。誰も分からなかった。四人で首をひねっているうちに、一人が「名簿あるんじゃないか」と言い出して、展示コーナーの端に置かれていた記念誌をめくったのだ。卒業生名簿が学年ごとに載っていた。六年三組の欄を数えると、三十六名だった。
写真は三十七人。名簿は三十六人。
騒ぎになりかけたが、当時の担任が来て、あの子は二学期の途中で転入して、三学期の初めに転出した子だ、と説明した。写真だけ写って、名簿の作成時にはもういなかったのだろう、と。合理的な説明だった。全員が納得しかけた。
ただ、そのあと彼は担任に個人的に聞いたのだ。転出先はどこだったのか、と。担任は少し考えて、療養所だったと思う、と答えた。それから、あの頃はまだそういう子がいたんだ、と言った。彼は詳しく聞かなかったのだ。
聞いてはいけない気がした、と彼は言う。帰りの電車で、彼はずっとその子の顔を思い出そうとした。展示で見たばかりなのに、輪郭がもう曖昧になっていた。名前のない子の顔だけが、記憶に定着しなかったのである。
体験談四・廃校の解体前夜、蔵書整理に入った町職員の話
四つ目は、廃校をめぐるものだ。
平成の終わり、中国地方のある町で、統廃合により閉校となった小学校の解体が決まった。町の教育委員会の職員が、蔵書と備品の搬出のため数日間校舎に入った。作業は日中だけの予定だったが、最終日、搬出のトラックが遅れて、片づけが夕方までずれ込んだ。
彼は一階の廊下の突き当たりにある、鍵のかかった扉の前で足を止めた。図面には「旧静養室」と記載されていた。鍵は職員室の鍵箱にあったのだ。開けてみると、六畳ほどの部屋だった。床は板張りで、真ん中がわずかに窪んでいた。
窓は北向きに一つだけ。壁際にスチール棚があり、埃をかぶった木箱がいくつか積まれていた。
木箱のなかには、金属製の膿盆と、ガラスの吸い飲みと、ガーゼの缶が入っていた。缶を開けると、中のガーゼは黄ばんでいたが、まだ形を保っていたのだ。彼はそれらを写真に撮って、廃棄品のリストに加えた。
作業を終えて廊下に出たとき、彼は自分の背後で扉が閉まる音を聞いた。振り返ると、扉は開いたままだったのだ。もう一度前を向いて歩き出すと、また同じ音がした。三度目に振り返ったとき、彼は部屋の中で何かが動いた気がした。棚の影のあたりだ。
彼は懐中電灯を向けた。何もなかった。ただ、部屋の空気が入ってきたのだ。その空気に、はっきりと消毒液の匂いが混じっていた。
彼は扉を閉め、鍵をかけ、鍵箱に戻して帰った。解体は翌月に始まり、校舎は更地になったのである。彼はいまも町の職員として働いているが、その部屋のことを人に話すときは必ず「あれは匂いだけの話です」と前置きするそうだ。姿は見ていない。音も気のせいかもしれない。
ただ匂いだけは説明がつかない、と彼は言い続けている。
掲示板で繰り返されてきた「うちの学校にもあった」という報告
この怪談が語られてきた場を整理しておきたい。まず前提として、隔離室・隔離病舎の怪には、花子さんや口裂け女のような明確な初出が存在しない。特定の投稿が全国に広がったのではなく、各地の学校で個別に発生した話が、後からネット上で照合された結果、共通する型があることが判明した、という順番をたどっている。
出版側の起点としては、常光徹が中学校教師時代に生徒から聞き取った噂をまとめた『学校の怪談』が一九九〇年十一月に講談社の児童向け文庫から刊行された。翌年にポプラ社が同名のシリーズを開始したことで、学校怪談というジャンル自体が確立した。常光の仕事は後にミネルヴァ書房や角川ソフィア文庫からも学術的な形で刊行されている。ただし、隔離室型が定番の七不思議として大々的に取り上げられた形跡は薄い。
トイレ、理科室、音楽室、階段、二宮金次郎像といったラインナップに比べて、隔離室はあまりに地域限定的で、全国流通する型にならなかったのだと考えられる。
その代わりにこの怪談が息づいたのが、インターネット上の体験談投稿だ。一九九九年以降の匿名掲示板、とくにオカルト板の学校怪談系スレッドや、洒落にならないほど怖い話を集めるスレッド群で、「うちの学校の裏にあった建物」という書き出しの投稿が断続的に現れる。ただし、これらのスレッドは初期ログの散逸が激しく、どの投稿が最初だったかを特定するのは現実的に不可能に近い。
過去ログ倉庫や転載まとめサイトを辿っても、同じ本文が投稿日時と投稿者名を欠いた状態で複数箇所に転載されている。レス番号まで遡れるケースは限られている。この記事でも、特定の一件を初出として断定することはしない。
代わりに指摘できるのは、投稿の反復パターンだ。まず語り手が「これは怖い話じゃないかもしれないけど」と前置きする。次に、自分の学校の敷地に用途不明の建物があったことを述べる。上級生から聞いた説明を並べる。自分または友人が中を覗いた経験を述べる。
大人に聞いて曖昧に流された経験を述べる。最後に、大人になってから調べたら実際に隔離施設だったと分かった、と締める。
この五段構成が異様に安定していて、地域も年代も違う投稿が同じ構造を持っている。これは型が伝播したというより、同じ制度が同じ体験を全国で生産した結果だと考えるほうが自然だと思う。
反応として多いのは「うちの学校にもあった」という追随報告だ。この怪談の特徴は、否定的なレスがつきにくいことにある。花子さんや口裂け女には「そんなの嘘だ」というツッコミが必ず入るが、隔離室の話には入りにくい。なぜなら、建物の実在は否定できないからだ。怪異の部分は疑えても、建物があったこと自体は誰も疑わない。
だから議論が「あれは何だったのか」という調査方向へ流れていく。
この点で、この怪談は都市伝説というより郷土史のスレッドに近い性格を持つ。
「土地由来説」で片づけていいのか、という反証
一方で、この怪談には厳しい反証も存在する。
第一に、学校の敷地内あるいは隣接地に隔離病舎があったという言い伝えの多くは、確認を取ると裏づけが出てこない。避病院・隔離病舎は原則として人家から離れた場所に建てられている。子どもが日常的に密集する小学校の真横に建てるのは防疫上むしろ不合理だ。実際に隣接していた例がないわけではないが、全国の学校で語られる件数に対して、記録で確認できる件数は圧倒的に少ない。
多くは「校舎の隅の用途不明の建物」に対する後づけの説明である可能性が高い。
第二に、その用途不明の建物には、より平凡な正体の候補が山ほどある。宿直室、給食の残飯処理小屋、石炭置き場、焼却炉の前室、ポンプ小屋、消防団の器具庫、旧便所、農具倉庫、鶏舎、防火水槽の上屋。とくに戦前戦後の学校には、いまでは想像しづらいほど雑多な小屋が敷地内に建っていた。用途が終われば施錠されて放置される。
その放置された小屋の全部に、後の子どもたちが物語を貼っていったと考えれば、件数の多さは説明がつく。
第三に、消毒液の匂いという証言についても現実的な説明が可能だ。クレゾール石鹸液は昭和期の学校で日常的に使われている。便所、下足室、給食室周辺、プールの腰洗い槽まわりなど、匂いの発生源は校内に複数あった。染み込んだ木材やコンクリートは長く匂いを保持する。湿度が上がった日や、久しぶりに扉を開けた瞬間に匂いが立つのは、化学的にごく普通の現象だ。
第四に、名簿の抹消線については前述のとおり、事務処理としての除籍記載整理で十分説明できる。転出、転校、除籍、そして死亡。当時の乳幼児死亡率と学齢期の死亡率を考えれば、一学年に数名の抹消があること自体は統計的にまったく異常ではない。むしろ、それが異常に見えてしまう現代の感覚のほうが、歴史的には新しい。
とはいえ、こうした反証は怪談の価値を減らさないと思う。むしろ逆で、反証を並べたあとに残るものこそがこの怪談の本体だ。建物の正体が消防団の器具庫だったとしても、子どもがそこに隔離の物語を見出したという事実は消えない。なぜ子どもは、用途不明の小屋に「病気の子が閉じ込められていた」という筋書きを与えたのか。その問いのほうが、はるかに深いところに届く。
現実に、子どもは分けられた――学校が隔離の現場になった記録
怪談から少し離れて、現実の側の重い記録に触れておきたい。ここを書かずにこの記事は終われない。
昭和二十九年、熊本市の黒髪小学校で起きた出来事は、龍田寮事件として記録されている。国立療養所菊池恵楓園に付設された保育所である龍田寮には、ハンセン病患者の子どもたちが暮らしていた。この子どもたち自身はハンセン病ではない。にもかかわらず、地元小学校への通学が地域住民の反対によって阻まれた。
経過を辿ると、昭和二十八年十一月に園長が黒髪校を訪ね、翌年四月までの受け入れを申し入れ、校長は保護者会の了承を条件に承諾する。同年十二月九日に開かれた保護者会の総会でのアンケートでは、賛成四百二十名、反対七百九十五名、中立十四名。反対が六割を超えた。昭和二十九年三月一日、法務省、文部省、厚生省の三省が通学拒否は妥当ではないとの方針を示すが、同じ日に校庭で反対派の町民大会が開かれる。
四月八日、教育委員会が通学許可を通告すると、反対派は同盟休校に入った。一年生四人が登校したその日、全校児童千九百二十八人のうち登校したのは七十六人だけだった。
その後も調停案と再診断が繰り返され、五月一日にようやく三人が通学、一人は寮内分校からという形で決着する。しかし翌昭和三十年の春には、入学通知書の配布に反対する三名が市教育委員会の前で百五十五時間に及ぶハンガーストライキを行った。最終的に子どもたちは県内十か所の養護施設へ極秘に引き取られ、昭和三十二年十月に龍田寮は用途廃止が決定した。
この一連の出来事に、超常的なものは何ひとつない。あるのは、健康な子どもたちが病気ではないことを診断書で証明させられ、それでもなお学校に入れてもらえず、最後は名前を伏せて散り散りに預けられていったという事実だけだ。子どもが名簿から消えるというのは、比喩ではなかった。実際に、そうやって記録から見えなくなった子どもがいた。
隔離室の怪談で語られる「名簿から消された児童」というモチーフは、フィクションとしてはよくできている。しかしその背後には、こうした現実がある。怪談を面白がるのはいい。ただ、その面白さがどこから供給されているかは、たまには確認しておいたほうがいいと思う。実際に排除された人たちと、その家族が、いまも生きているのだから。
なぜこの建物だけが、こんなに怖いのか
さて、分析に入ろう。学校の敷地には他にも不気味な場所がいくらでもある。それでも隔離室が特別なのは、いくつかの条件が重なっているからだ。
一つ目は、用途の不可視性だ。理科室は理科の部屋、音楽室は音楽の部屋、体育倉庫は体育の道具を入れる場所。学校のあらゆる空間は名前と機能が一致している。ところが隔離室だけは、名前も機能も子どもに開示されない。「倉庫」と書いてあるのに倉庫ではない。
この名前と実態のズレが、学校という徹底的に整理された空間のなかで、たった一箇所だけ発生する。
整理された空間の中の一箇所の乱れは、無秩序な空間の中の乱れより何倍も目立つ。
二つ目は、身体の記憶との接続だ。学校というのは、子どもの身体を測り、並べ、選別する装置でもある。身体検査、視力検査、聴力検査、ツベルクリン、歯科検診、そしてかつてのトラホーム検査。パンツ一枚で並ばされ、数字を告げられ、記録される。この「測られる」経験は、ほぼすべての人が共有している。
隔離室の怪談は、その延長線上にある。測られた結果、線の向こう側へ行かされた子どもの話なのだ。
だから他人事に感じられない。自分もあの列に並んでいたという記憶が、必ず一緒に呼び起こされる。
三つ目は、加害者がいないことだ。学校怪談の多くは、加害的な怪異が出てくる。花子さんは引きずり込むし、口裂け女は追いかけるし、赤い紙青い紙は必ず殺す。ところが隔離室の怪異は、誰も襲わない。ただ寝ている。
ただ待っている。ただ「まだ寝てなさい」と言う。そこには悪意も恨みもない。あるのは、忘れられたまま制度に従い続けている姿だけだ。恨む相手が明示されない恐怖は、解決の道筋が示されない恐怖でもある。
祓えない。慰霊しても終わらない。だって、その子は怒っていないのだから。
四つ目は、匂いという媒体の強さだ。視覚的な怪異は疑える。音も気のせいにできる。ところが匂いは、脳の記憶系に直接繋がっている。消毒液の匂いを嗅いだ瞬間、注射の痛みも、白い部屋も、待たされた廊下の冷たさも一緒に立ち上がってくる。
この怪談が匂いを主武器に選んだのは、極めて的確だった。
五つ目は、実在性だ。冒頭に書いたとおり、この怪談は建物が先にあった。だから「本当にあったのか」と調べていくと、本当にあったものに行き当たる。制度も、法令も、図面も、記録も残っている。調べれば調べるほど怖くなる怪談というのは、実はかなり珍しい。
普通は調べるほど嘘が見えて醒めていくものだ。この怪談は逆に進む。そこが底の深さになっている。
なぜ、いま語られ直しているのか
最後に伝播の話をしたい。この怪談は、ここ数年で明らかに語られる頻度が上がっている。理由は複数ある。
まず、校舎の建て替えと統廃合が進んだことだ。少子化により全国で廃校が生まれ、古い木造校舎や、敷地の隅の謎の小屋が、まとめて解体されていった。解体は記憶を掘り起こす。工事のフェンスの向こうで小屋が壊されるのを見た人が、そういえばあれは何だったのかと考え始める。同時に、卒業生が集まって思い出を交換する機会も増える。
そこで初めて、みんなが同じ建物を怖がっていたことが判明する。
次に、感染症をめぐる社会経験の更新がある。二〇二〇年前後の数年間、日本社会は隔離という言葉を日常語として扱った。濃厚接触、待機、施設療養、面会禁止。かつて教科書の中の歴史だった防疫が、生活の中に戻ってきた。その経験を通過したあとで昔の隔離病舎の話を聞くと、感触がまったく変わる。
他人事ではなくなる。
広島市が公開している近代以降の伝染病に関する展示解説も、昭和十四年の感染防止の指導内容が、令和の推奨事項とほとんど同じであることを指摘している。防疫の基本は九十年経っても変わらない。ということは、隔離される側の気持ちも、たぶん変わらない。
三つ目に、郷土史や近代史を掘る文化が広がったことがある。自治体史のデジタル公開、新聞データベースの整備、廃墟や近代遺構の記録活動。かつては現地の郷土史家しか知らなかった避病院の位置や設立年が、いまは調べればある程度出てくる。研究の側でも、前述の木下浩らによる隔離病舎の実態解明のように、これまで手薄だった市町村レベルの防疫施設に光が当たり始めている。噂と史料が突き合わせられる環境が整ってきた。
そして四つ目に、これがいちばん大きいと思うのだが、この怪談が「怖がる対象」を通じて「弔い」を代行しているという側面がある。避病院や隔離病舎で亡くなった子どもたちの多くは、まとまった形で記録されていない。慰霊碑もない。名前も残っていない。制度が消えれば建物も消え、建物が消えれば記憶も消える。
そこに残ったのが、子どもたちの語り継いだ怪談だった。
誰かがまだあそこで寝ている、という言い方は、突き詰めれば「忘れていない」という宣言でもある。
それでも、あの引き戸は開けないほうがいい
もう一度、冒頭の風景に戻る。校舎の裏、給食室とプールのあいだ、窓の低い平屋。南京錠。トタン屋根だ。剥がれたモルタル。
その建物の正体は、たぶん倉庫だ。九割方は倉庫だし、器具庫だし、ポンプ小屋だ。仮に本当に隔離病舎だったとしても、そこで何かが起きた証拠は出てこないだろう。学校の記録は残っていないか、あっても処分されている。市の資料にも一行しか載っていない。
そういうものだ。
けれど、あの建物の前に立ったときに背筋が寒くなる理由は、幽霊がいるからではないと思う。あそこに、自分と同じ年格好の子どもが一人で寝かされていた時間が実際にあったかもしれない、という想像が働くからだ。教室の音は聞こえただろうか。給食の匂いは届いただろうか。運動会の日はどうだったのだろう。
誰かが窓の外から名前を呼んでくれただろうか。
隔離という制度は、必要だからそこにあった。防疫は正しい。切り離さなければもっと多くの子どもが死んだ。それは間違いない。ただ、正しい制度の運用のなかで、たった一人で天井を見ていた子どもがいたことも同時に本当なんだよな。
その二つは矛盾しない。矛盾しないまま両方が残る。それを引き受ける言葉を、子どもたちは持たなかった。だから怪談にした。
だから、あの引き戸は開けないほうがいい。中には何もないから、というのが理由の半分。もう半分は、開けたところで、そこにいた誰かの名前は分からないままだからだ。分からないまま覗き込むというのは、けっこう失礼な行為だと思う。せめて、窓の低さの意味くらいは知っておいてから通り過ぎたい。
あれは、寝ている子の目線に合わせた高さなのだ。
