廊下のいちばん奥、体育館へ渡る手前あたりに、なぜか畳敷きの部屋がある学校がある。札は外されているか、あっても墨で「宿直室」とだけ書かれている。中には押し入れがあって、たいてい古い跳び箱や運動会の万国旗が突っ込まれている。今の子どもからすれば、ただの物置だ。だが、この部屋はもともと物置ではない。
ここには毎晩、大人がひとり寝ていた。
日本中の学校に、夜通し校舎に泊まる大人がいた時代が、たしかにあった。制度としての名前は宿直、あるいは日直と合わせて宿日直という。始まりは明治の半ばで、終わったのは昭和五十年代の初めごろだ。およそ八十年から九十年、この国の学校には夜になると布団を敷く人がいた。宿直室というのは、そのために作られた部屋である。
そして怪談が生まれるのは、たいていこういう部屋だ。人が長く寝起きし、ある日ぱたりと使われなくなり、それでも壊されずに残っている部屋。誰もいないはずの布団がへこんでいた、宿直日誌に知らない筆跡が混じっていた、深夜に電話が鳴った、見回りに出た先生が戻らなかった。全国どこの学校でも、驚くほど似た形で語られてきた話がある。この記事では、その怪談の中身と、それを生んだ制度そのものを、まとめて一本にする。
昭和四十三年、秋。ある宿直の一夜
まず、いちばん典型的な一夜を、時系列で再現しておきたい。以下は複数の語りから共通部分を抜き出して組み直したもわけだ。特定の学校の記録ではない。
その年の秋、山あいの小学校に赴任して半年の若い男性教員に、月に二度目の宿直が回ってきた。木造二階建て、教室は十、児童は二百人足らずの学校だった。職員室は一階の中央にあり、その東側の突き当たりに宿直室があったのだ。四畳半の畳の間で、押し入れがひとつ、小さな流しと火鉢がある。窓は雨戸を閉めると外がまったく見えなくなる造りだった。
午後五時、最後の職員が帰る。教頭が「電話だけは頼むな」と言い残して自転車を漕いでいった。彼は職員室の鍵束を受け取り、宿直日誌の綴りを机の上に置いた。表紙の背は擦り切れ、綴じ紐が二度ほど結び直されている。前の週の宿直者の欄には、天候、来校者、火の元異常なし、とだけ書いてあった。
文字は角ばっていて、几帳面な人の字だと思った。
夕食は用務員の夫婦がおかずを持ってきてくれたのだ。焼いた魚と、味噌汁と、白い飯。風呂も沸かしておいたから入れ、と言われて、彼は恐縮しながら頭を下げた。用務員の住まいは校地の隅にあって、宿直室からは五十歩ほど離れている。夫婦が引き上げると、校舎はいっぺんに静かになった。
日が落ちるのが早い季節で、六時にはもう窓の外が真っ暗だった。
最初の見回りは午後九時と決まっていたのだ。懐中電灯とマッチを持って、彼は廊下へ出た。木造校舎の廊下は、歩くたびに板が返事をする。踏んだ場所ではなく、二歩か三歩先が鳴ることがある。理科室、家庭科室、便所、階段、二階の各教室と続けて、窓の掛け金をひとつずつ確かめていく。
二階の西端の教室で、彼は掛け金がひとつ外れているのを見つけて閉め直した。昼間の換気の閉め忘れだろうと思った。
宿直室に戻って日誌を書く。九時三十分、校内異常なし。窓一箇所施錠せしを確認す。書き終えて、火鉢に炭を足して、彼は布団を敷いた。ラジオを小さくかけたが、山あいなので雑音が多い。
消して、横になった。眠りは浅く、何度か目が覚めた。そのたびに、校舎のどこかで木が鳴っていたのだ。
二度目の見回りは深夜零時である。これは形式的なもので、たいていは一階だけ回って戻る。彼も同じようにした。ところが玄関の土間まで来たとき、下駄箱のあたりで音がした。上履きが落ちる音だ。
懐中電灯を向けると、床に片方だけ、白い上履きが転がっていた。棚から落ちただけだと考えて、彼は拾って戻した。妙なのは、拾ったときにその上履きが、少しあたたかかったことだったわけだ。
宿直室に戻ると、電話が鳴っていた。当時の学校の電話は職員室に一台だけである。彼は走って受話器を取った。何も聞こえない。もしもし、と二度言った。
三度目に言おうとしたとき、受話器の向こうで、遠くの誰かが読み上げるように、名前が呼ばれた。自分の名字だったのだ。彼は反射的に返事をしてしまった。すると通話は切れた。
翌朝、局に問い合わせたが、その時刻の記録はないと言われたのである。それだけならまだ気味が悪い程度で済んだ。彼が本当に恐ろしくなったのは、宿直室に戻ってからだ。自分が抜け出したときのまま、布団はめくれていた。ただし、めくれた布団の脇の畳に、もうひとつ人の寝ていた跡があった。
畳の目に沿って、体の形にうっすらと湿りが残っていたのだ。押し入れの襖は、たしかに閉めたはずなのに、指一本ぶんだけ開いていた。
彼は朝まで座って過ごした。日誌の最後の行に、異常なし、とだけ書いたのだ。書いてしまってから、それが嘘だと自分でわかった。だが、あの欄にほかに何を書けばいいのか、彼にはわからなかった。何十年もあとになって彼が語ったところによれば、いちばん怖かったのは幽霊ではないという。
あの日誌が、代々の宿直者に同じ「異常なし」を書かせてきた綴りなのだと気づいたことが、いちばん怖かった。
そもそも、なぜ大人を学校に泊まらせたのか
ここからは制度の話だ。怪談の骨組みは、ぜんぶ制度でできている。
学校の宿直がいつ始まったのかについては、かなりはっきりした答えがある。文教大学の青木純一が二〇一七年に発表した「学校宿直制度の実態とその検討」の第二報によれば、学校に宿日直制度が成立するきっかけは、天皇の写真である御真影の「奉護」だった。一八九〇年、明治二十三年ごろから国家主義的な空気が強まり、各地の学校に御真影が下付されていく。それを守る役目として、各地の学校で宿日直が始まった。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースにも、同じ趣旨の回答が残っている。『学校ことはじめ事典』を引きながら、一九五〇年代までは教員の宿日直制が常識だったこと、その制度が御真影と勅語謄本の保管警備に発端していたことが説明されている。
さらに、御真影の下付にあたっては奉安所の設置と「奉衛規則」の整備が必須条件とされ、その奉衛規則には非常の際の警護や搬出の手順とともに、教員の宿日直制が必ず規定されたという。
つまり順番はこうだ。学校に持ち込んではいけないほど重いものを置いた。置いた以上、夜も誰かが番をしなければならない。だから宿直室という部屋が要った。奉安殿という校庭の小さな建物の話はこの媒体でも別に扱っているので深追いしないが、あれは要するに「夜も人を張り付けなければならない理由」の物体化である。
写真一枚のために、日本中の学校が毎晩ひとりぶんの睡眠を差し出していた。
火災が起きたときに何を最優先で運び出すかも、規則で決まっていた。児童ではなく御真影である。実際に、明治から昭和にかけて、火災の際の持ち出しをめぐって命を落とした校長の記録がいくつも残っている。長野県で大正十年に校長が焼死した例や、失火のあと責任をとって自ら命を絶った例が知られている。ここでは深く立ち入らないが、宿直という当番が単なる戸締まり係ではなかったことは押さえておきたい。
責任の重さが、あの四畳半に詰め込まれていた。
戦後になると、御真影は回収され、奉安殿は壊された。守るべき対象がなくなったのだから、宿直も消えてよさそうなものである。ところが消えなかった。青木の研究はここもきちんと書いていて、戦後は学校施設の管理そのものが宿日直の目的になったと整理している。木造校舎は火に弱い。
物資も乏しい。電話は職員室に一台しかない。誰かが泊まっていないと、そもそも夜のあいだ学校と外部が接続されない。
理由は入れ替わったが、部屋と当番はそのまま残った。
法令の側から見た宿直――どこまでが労働だったのか
ここで数字と条文を押さえておくと、この制度の異様さが立体的になる。
戦後の宿日直は、労働基準法の枠組みで扱われる。根拠は労働基準法第四十一条第三号と、労働基準法施行規則第二十三条だ。監視または断続的労働に従事する者について、労働基準監督署長の許可を受けた場合に労働時間の規制を適用除外にできる、という仕組みである。宿直と日直はこの枠に入れられた。裏を返せば、宿直は法律上「ほとんど働いていない時間」として扱われていた。
その許可基準を具体的に定めたのが、昭和二十二年九月十三日付の発基第十七号という通達である。宿日直の世界ではいまだに「十七号通達」と呼ばれ、現役で効いている。内容はおおむね四つだ。まず勤務の態様として、常態としてほとんど労働をする必要のない勤務に限る、とされる。許可されるのは定時的巡視、緊急の文書または電話の収受、非常事態に備えての待機などを目的とするものだけだ。
この一文が重要である。定時的巡視、電話の収受、非常事態への待機。深夜零時に廊下を回り、鳴った電話を取り、火が出たら知らせる。宿直の教員が実際にやっていたことは、この通達の文言そのままだ。学校の怪談で語られる要素も、ほぼ同じ三つに収まる。
見回りの怪、電話の怪、そして待っているあいだの部屋の怪。制度が指定した動作の上に、怪談が乗っている。
手当の基準も定められた。宿直勤務一回についての宿直手当の最低額は、その事業場で宿直に就くことが予定されている同種の労働者に支払われている賃金の、一人一日平均額の三分の一以上でなければならない。つまり日給のおよそ三分の一である。回数の限度もある。宿直勤務は週一回、日直勤務は月一回が限度だ。
ただし十八歳以上で宿日直を行いうる者全員に回してもなお足りず、労働密度が薄い場合には、これを超えて許可して差し支えないとされた。
最後に、宿直勤務については相当の睡眠設備の設置が条件になる。畳と押し入れと布団が制度上の要件だったわけである。学校の宿直室に必ず畳が敷いてあり、必ず押し入れがあった理由は、情緒でも慣習でもない。眠れる場所を用意しなければ許可が下りなかったからだ。あの部屋の間取りは、通達が設計している。
金額の実感も見ておきたい。栃木県には現在も「公立学校職員の宿日直手当支給規則」が生きていて、制定は昭和三十四年八月二十八日である。現行の額は宿直勤務または日直勤務一回につき四千七百円、勤務時間が五時間未満なら二千三百五十円と定められている。寄宿舎の介護業務を伴う場合は七千七百円、農場管理を伴う場合は六千八百円など、上乗せの区分もある。一晩泊まって数千円という水準は、いまも昔もそう変わらない。
昭和四十年代に地方の県立高校で宿直をしていたという証言では、一晩の宿直手当は八百円ほどだったという。同じ人が、宿直は月に二度回ってきたと書いている。当時の初任給の水準を思えば、割に合うとはとても言えない。しかも問題は金額ではなかった。宿直明けの朝、そのまま授業に立つのが当たり前だったのである。
宿直は法律上、労働時間の規制の外に置かれる。だから宿直明けに休みが保証される仕組みも、当然のようになかった。深夜零時と午前三時に校舎を回り、緊張で眠れないまま朝を迎え、八時半には教壇に立つ。その先生の一時間目は、どんな授業だっただろうか。教員の労働問題として宿直が槍玉に上がるのは、必然だったと言っていい。
宿直室という部屋の設計図
部屋そのものをもう少し細かく見る。宿直室の間取りは全国でよく似ている。四畳半から八畳ほどの和室で、畳敷き。押し入れがひとつあり、そこに布団と枕を仕舞う。小さな流しがつくことが多く、湯を沸かしたり茶碗を洗ったりできる。
暖房は火鉢か、昭和三十年代以降ならだるまストーブや石炭ストーブだ。夏は蚊帳を吊った。夜具は学校の備品で、干すのは用務員の仕事だった。
位置にも法則がある。職員室の隣、あるいは廊下の突き当たりが定番だ。ある教員の回想では、木造二階建ての校舎で職員室は一階中央、家庭科教室が廊下続きの北側にあり、その隣が宿直室だったという。用務員室やボイラー室、石炭小屋のすぐ横に置かれる例も多い。理由は単純で、火の元と鍵の管理が一箇所にまとまるからだ。
学校でいちばん危ない場所の隣に、いちばん無防備な畳が敷いてあった。
風呂については学校によって差が大きい。用務員の住居に風呂があって、宿直の教員がそれを借りるという形がよくある。長野県の小学校に新卒で赴任した教員の回想では、宿直の日には用務員が風呂を沸かしてくれ、夕食を振る舞ってくれることもあったという。別の証言では、用務員夫婦の自宅の隣が宿直室だったので、宿直というよりほとんど客扱いだった、晩飯がうまかった、とある。
真面目に見回りに出ようとすると「先生は若いから真面目だなあ」と笑われたそうだ。
蚊帳の話も、ずいぶん多く残っている。父親が教師だったので子どものころ一緒に泊まった、真っ暗な木造校舎を懐中電灯ひとつで回り、宿直室に蚊帳を吊って近くの小川で採ってきた蛍を放した、という回想がある。五十五年以上前のことだと本人は書いている。宿直室は、怪談の舞台であると同時に、そういう記憶の入れ物でもあった。恐ろしさと懐かしさが同じ畳の上に同居している。
そしてほぼ必ず、部屋にはもうひとつ備品があった。宿直日誌である。
宿直日誌――怪談がいちばん取り憑きやすい書式
宿直日誌は、宿直者が一晩ごとに記録を書き継いでいく綴りだ。書式はおおむね決まっている。日付、曜日、天候、宿直者名。就寝時刻と起床時刻。巡視の時刻と結果だ。
来校者や電話の記録。異常の有無。最後に押印か署名だ。それを次の宿直者が読んでから、その晩の勤務に入る。
現物は各地に残っていて、たとえば東京大学のアーカイブスには、農科大学が作成した明治三十五年の「宿直日誌」が所蔵されている。同じ綴りは明治二十四年から明治三十二年ぶんも所蔵されており、参照コードまで振られている。学校の宿直が明治期からきちんと文書化された勤務であったことが、こういう資料からわかる。虫損と汚れあり、という状態表記が、なんとも言えず生々しい。
日誌には、意外なほど生活が書き込まれる。何時に何を食べた、誰それが忘れ物を取りに来た、犬が校庭に入った、隣家に不幸があった。青木純一の研究も、宿日直が定着すると学校が夜間や休日でも比較的訪ねやすい場所になり、宿日直を通じて教員同士や児童生徒、地域住民との交流がしだいに増えていった、と指摘している。宿直日誌は警備記録であると同時に、学校と地域の交際記録でもあった。
さて、ここに怪談が入り込む。宿直日誌は、複数の人間が同じ紙面に、同じ書式で、順番に書き足していく文書だ。筆跡は毎回変わるのが当たり前である。だから「知らない筆跡が一行だけ混じっている」という異常が、この文書ではきわめて成立しやすい。誰が書いたか特定できないのに、書式だけは完璧に守られている一行。
これほど据わりの悪いものはない。
しかも日誌は、書かれなかったことを記録しない。何かがあった夜でも、書けることは限られている。異常なし、と書くしかない夜がある。読み返す側は、その「異常なし」の行間を読んでしまう。宿直日誌型の怪談が全国で語られるのは、この書式そのものが、書けなかった出来事の存在を暗示する構造になっているからだ。
日誌は、嘘をつかせる装置でもあった。
宿直室怪談の類型を、ひとつずつ
宿直室の怪談は、意外なほどきれいに分類できる。制度が指定した動作に対応しているからだ。ここでは代表的な五つの型を、それぞれ独立に見ていく。
布団型
いちばん多いのがこれである。宿直者が朝起きて布団を畳もうとすると、自分が寝ていた場所とは別に、もうひとつ人の寝ていた跡がある。畳が湿っている、体温が残っている、枕がふたつ並んでいる、というバリエーションが各地にある。押し入れから出したはずの布団が二組敷いてあった、という強い形もある。
この型の怖さは、痕跡だけがあって主体がいない点にある。足音や人影は、いちおう「見間違い」で片付けられる。だが布団のへこみは物証だ。朝の光の中で、覚めた頭で、はっきり見てしまう。しかも誰かがそこで眠ったという事実は、こちらが無防備に眠っているあいだに成立している。
見られていた、ではなく、隣で寝られていた。この距離の近さが、宿直室怪談を特別に不快なものにしている。
派生として、押し入れの襖が少しだけ開いているという形がある。閉めたはずの襖が指一本ぶん開いていて、その隙間から見られている気配だけがする。開けても布団と埃と古い木箱しかない。木箱の中身が大正期の出席簿だった、という尾ひれがつくこともある。宿直室が学校の記憶の物置になっていた事実と、この話はきれいに噛み合う。
日誌型
先ほど触れた宿直日誌をめぐる型である。基本形は、日誌を読み返すと、在籍したことのない教員の名前や、知らない筆跡の記録が挟まっている、というもの。もう少し凝ったものだと、自分がまだ書いていない日付の欄に、自分の筆跡でその夜の記録が先に書かれている。読むと、そこにはこれから起きることが書いてある。
別の系統では、日誌の中に一行だけ、勤務記録と関係のない注意書きが残されている型がある。扉を数えないこと、雨戸は開けなくてよろしい、三時の見回りは廊下の右側を歩くこと。いずれも意味がわからないのに、書いた人間の震えた筆跡だけが伝わってくる。禁忌の伝達が業務文書の形をとっているところが、この型の肝である。
日誌型が生き延びた理由は、実物が残っているからでもある。廃校や資料室から古い宿直日誌が出てくることは今でもあり、そこには本当に知らない人の字が並んでいる。物としての説得力が、話に信憑性を貸してしまう。怪談としては非常に強い立地条件だ。
電話型
深夜、職員室の電話が鳴る。宿直者が走って取ると、無言か、雑音しか聞こえない。切ろうとすると、自分の名字を呼ばれる。返事をすると切れる。翌日調べても、その時刻の着信記録は存在しない。
これが電話型の基本形である。
この型が成立するには条件がある。学校に電話が一台しかなく、それが職員室にあり、宿直室からは距離があること。この条件は昭和の学校でほぼ満たされていた。電話が鳴れば、暗い廊下を走らなければならない。呼び出し音が鳴りやむ前に着かなければならないという焦りが、恐怖の土台になる。
走らされること自体が怖いのだ。
派生として、受話器から子どもの声が聞こえるという形、自分が今いる学校の職員室からかけている、と名乗る声の形がある。当直の交代を告げる電話が来て、来るはずのない交代要員が玄関に立っているというバージョンもある。いずれも、電話が「外の世界とつながる唯一の線」だった時代の産物である。線が一本しかないと、そこに何が乗ってきても逃げ場がない。
見回り型
定時的巡視は通達が定めた業務であり、同時に最も怪談化しやすい動作でもある。基本形は、宿直の教員が深夜の見回りに出たまま戻らない、というもの。朝になって職員が来ると、校舎のどこかで倒れている、あるいはどこにもいない。日誌には途中まで書きかけの一行が残っている。
もう少しよくあるのは、見回りの途中で「先を歩く誰か」に気づく型だ。懐中電灯の光の輪の外を、上履きの音だけが先行していく。追いつくと音が止まり、離れると再開する。二階の端まで行って戻ってくると、さっき確かめたはずの窓の掛け金が全部外れている。仕事をやり直させられる、という形の嫌がらせが、この型では繰り返し語られる。
この型には、はっきりした現実側の下敷きがある。木造校舎の床は、踏んだ位置と鳴る位置がずれる。夜間に温度が下がると木材が収縮して、無人の廊下で音が出る。それを知っていてもなお怖いのは、見回りが「異常がないことを自分で保証する」行為だからだ。何もなかったと書くために、何もないことを見に行かされる。
この構造が、じわじわ効いてくる。
二人宿直型
宿直がふたりで組まれることもあった。教員ふたり、あるいは教員と用務員という組み合わせだ。人数が増えれば安心かというと、怪談的にはむしろ逆である。二人宿直型の怖さは、相手が本物かどうかわからなくなるところにある。
基本形はこうだ。ふたりで見回りに出て、途中で手分けをする。合流地点で落ち合い、宿直室に戻って、布団を並べて眠る。翌朝、相手が「昨夜は途中から姿が見えなかったので、ひとりで戻って寝た」と言う。ではあのとき隣で寝ていたのは誰なのか。
合流したときに交わした会話の内容を、相手はまったく覚えていない。
別の形では、深夜に相方が起き上がって外へ出ていき、朝まで戻らない。翌朝ふつうに出勤してきた相方は、そもそも昨夜は宿直ではなかったと言う。当番表を確認すると、その夜の宿直はひとりだけと記されている。人数のずれという学校怪談の定番モチーフが、宿直という当番表つきの制度と結びつくと、こうなる。名簿があるからこそ、ずれが証明されてしまうわけだ。
語られてきた体験談から
ここでは、ネットや書籍で語られてきた宿直まわりの体験談から、性格の異なるものを紹介する。いずれも真偽を確かめる手段はない。読み物として受け取ってほしい。
ひとつめは、地方の県立高校で若いころ宿直をしていたという元教員の話だ。宿直は月に二度回ってきて、手当は八百円ほどだったという。深夜零時と午前三時に校内を回り、形式的に安全確認をする。緊張して眠れず、翌日の授業に確実に支障が出た。つらかった、と本人は書いている。
怪異らしい怪異は語られていないのだが、この人の記述でぞっとするのは別のところだ。宿直には何の意味もない、と本人が断言していることである。
意味のない当番のために、何十年ぶんもの夜が、日本中で消費されていた。
ふたつめは、廃止直前の時期に宿直を経験したという人の回想である。用務員夫婦の家の隣が宿直室で、晩飯がうまく、宿直というより客のような扱いだったという。真面目に夜の見回りに出ようとすると笑われるような空気があった。ところが一度、本当に火事が起きた。そのときの宿直者は真っ青になっていたそうだ。
自分の責任ではないのに、である。しかも通報は近所の住民からで、宿直の意味はまったくなかった。
この短い一節は、宿直という制度の建前と実態のずれを、これ以上ないほど正確に言い当てている。
みっつめは、宿直廃止後の世代の話だ。地方都市の大学に通いながら、近くの高校で宿直のアルバイトをしていたという人物の投稿がある。平日は複数人だが、休日は人手が足りず、ひとりで校舎に泊まることも珍しくなかった。昼と同じ建物なのに、夜の学校は静かすぎて怖い。それでも、いるだけで金がもらえるバイトは学生にとって天国だった。
蒸し暑い夏の夜、巡回を終えて仮眠しようとしたとき、外から水音が聞こえたという。
プールに人が入り込むのはこの学校ではよくあることだった。行ってみると誰もいない。戻ろうとすると校舎の窓に人影が見え、追いかけると教室の戸が閉まった。飛び込んで叫んでも、机が並んでいるだけだった。翌朝、交代に来た用務員にその話をすると、淡々とこう返されたという。
昔ここで溺れた生徒がいて、夏の夜になるとたまに自分の教室へ帰ってくる、と。
よっつめは、廃止後の校舎に残された宿直室そのものについての証言だ。平成の初めごろまで県立高校の夜間警備員をしていたという人によれば、宿直制度はもう終わっていたが、旧宿直室は資料室として残っており、そこだけ妙に空気が重かった。ある晩、巡回中にその部屋の戸の隙間から明かりが漏れていた。電気は完全に落としてあるはずだったのだ。
戸を開けると明かりは消え、部屋は真っ暗で、ただ床に、誰かが座っていたかのような、埃の薄い丸い跡がひとつ残っていたという。それ以来、その部屋の前を通るときは必ず会釈することにしている、と本人は書いている。
反証と、現実的な説明のほう
さて、怖がるだけでは記事にならない。宿直室の怪異には、かなり素直な説明がつくものが多い。順に潰していく。
まず音だ。木造校舎は鳴る。木材は水分を含んで膨張し、乾燥すると収縮する。急激な温度と湿度の変化があると、その動きが音として出る。これが家鳴りである。
学校の廊下は長く、床板は薄く、天井裏は広い。日没後に外気温が下がっていく時間帯、つまり宿直者が最初の見回りに出るころは、建材が最も動く時間でもある。誰もいない二階から音がするのは、むしろ物理的に当然だ。
老朽化した木造校舎ならなおさらである。構造材の劣化、雨漏りによる含水率の変化、地盤の動きなど、音の原因はいくらでもある。廊下の板が、踏んだ場所ではなく数歩先で鳴るのも、根太と床板の当たりが緩んでいれば普通に起きる。夜の見回りで背後の音に振り返る、という体験の大半は、これで説明がついてしまう。
次に、金縛りと幻覚だ。宿直の睡眠は、条件が極端に悪い。夕方から夜にかけて一度仮眠し、零時と三時に叩き起こされ、また横になる。江戸川大学の睡眠研究の解説によれば、金縛りの正体は入眠期に出現するレム睡眠であり、夕方や夜に長めの仮眠をとってからしばらく覚醒し、夜遅くや明け方に再入眠する、という眠り方でとくに起きやすい。宿直の勤務パターンは、この誘発条件をほぼ完璧に満たしている。
さらに悪いことに、金縛りの最中に見えるものはすべて幻覚である。恐怖や不安に関係する脳の部位が活性化するため、体験には強い恐怖感が伴う。仰向けで寝ているときに起こりやすいことも指摘されている。畳に布団を敷いて仰向けで寝る、途中で二度起こされる、という宿直の一夜は、悪意があるのかと疑うほど金縛り向きの設定になっている。
押し入れの隙間から見られている気配、というあの感覚も、ここに含めて考えるのが妥当だろう。
布団のへこみについても、説明は難しくない。畳に敷いた布団は、朝には人の形に湿りが残る。寝返りで位置がずれれば、跡がふたつに見えることもある。押し入れから出したときの折り皺が、別の人型に見えることもある。加えて、宿直室は代々の宿直者が同じ布団を使う部屋だ。
前の宿直者の跡が消えないまま残っているという、身も蓋もない可能性が常にある。
電話については、当時の設備事情を思い出したい。学校の電話は交換手を介する回線であることも多く、混線や誤接続は珍しくなかった。呼び出し音だけ鳴って切れる現象も、機械的な要因でいくらでも起こる。深夜のいたずら電話も、当時からごく普通にあった。名前を呼ばれた、という部分については、極度の緊張と睡眠不足のもとで雑音を意味のある音として聞き取ってしまう、いわゆる聴覚のパレイドリアで説明できる。
そして最大の要因は、記憶そのものだ。宿直の体験談の多くは、四十年から五十年後に語られている。人間の記憶は再生のたびに書き換わる。恐ろしかった夜の記憶は、語られるたびに整理され、細部が補われ、話として完成していく。宿直室怪談が全国で似た形をしているのは、共有された制度と、共有された語りの型が、両方から記憶を成形しているからだと考えるほうが自然である。
宿直はどうやって終わったのか
ここが、この記事でいちばん資料に基づいて書ける部分である。
戦後の宿直は、しばらくのあいだ当たり前の勤務として続いた。だが一九五〇年代の終わりごろから、廃止を求める声が高まりはじめる。理由は複合的だ。まず、御真影がなくなった以上、教員が泊まる必然性が薄い。次に、宿直明けにそのまま授業に立つ勤務は、教育の質そのものを損なう。
さらに深刻だったのが、安全の問題である。
青木純一の研究は、宿日直中の教員に対する殺人事件や暴行事件をきっかけに、宿直廃止の動きが大きく広がったとはっきり書いている。
守るために置いた人が、いちばん無防備だった。これが宿直という制度の致命的な欠陥である。夜の学校は、外から見れば無人の大きな建物だ。そこに大人がひとり、四畳半で寝ている。しかも学校は高台や郊外にあることが多く、塀も低く、どこからでも入れる構造をしていた。
守衛の訓練を受けていない教員が、警棒も持たず、電話一台だけを頼りに一晩を過ごしていたわけである。
宿直問題は国会でも取り上げられた。そして決定的だったのが予算だ。青木の整理によれば、警備員配置のための国の予算が付く一九六〇年代後半になると、宿日直の実施率は急速に低下していく。教員が泊まるのをやめても学校を無人にしないで済む、という代替手段に金がついた瞬間、制度は一気に崩れた。運動や理念だけでは制度は終わらない。
代わりを買う金が出て、はじめて終わる。
同じ時期、教員の勤務時間をめぐる争いも激化していた。昭和四十一年には静岡県と長野県で、四十二年には群馬県で、四十三年には北海道や新潟県や京都で、超過勤務手当をめぐる訴訟が相次いで提起されている。昭和四十一年度には教職員の勤務状況の実態調査も行われた。この流れの先に、昭和四十六年五月に成立したのが、いわゆる給特法である。教員の勤務時間をどう数えるかという問題が、社会の議題になった時代だった。
宿直はその文脈の中で、真っ先に切られるべき対象と見なされた。
自治体の側の動きは、条例や規程にはっきり残っている。山梨県には昭和四十七年に制定された県立学校等の夜間警備委託規程があり、教育施設の夜間警備を警備会社に委託して火災や盗難から守ることを目的に掲げている。長野県松川町には昭和四十九年九月一日制定の「町立小・中学校の日宿直廃止に伴う学校施設設備管理規程」がある。
この規程は、無人化の期間中は原則として学校内に立ち入ることができないと定め、校長に防災計画や緊急連絡方法、全鍵類の保管と開錠施錠に関する取り決めを作らせている。
つまり昭和四十九年前後というのは、ひとつの節目だ。実際、教員や卒業生の証言でも「昭和四十九年から廃止になった」という記憶が繰り返し語られる。長野県で新卒として勤務した教員の回想でも、夜間と休日には宿直の先生がいたので忘れ物を取りに行けた、四十九年に学校の無人化で廃止になった、と記されている。全国一律の廃止日があったわけではないが、体感としてはこのあたりで潮目が変わった。
そして最終的な決着はもう少し遅い。青木の研究は、一九八〇年代の初頭にはほぼ全国の学校で宿直が廃止された、とまとめている。一九六〇年代後半に実施率が落ち始め、七〇年代を通じて減り続け、八〇年代初頭に消える。おおよそ十五年かけて、日本中の学校の畳の部屋から人が消えた。
地域差もかなり大きい。新潟県の阿賀野市には、平成十六年四月一日制定の「日宿直廃止に伴う学校施設設備管理規程」が残っている。合併に伴う整理という側面はあるにせよ、この種の規程が平成に入ってから制定されている自治体があること自体が、廃止の進み方が均一でなかったことを示している。
この規程では、校長が各室の管理責任者と鍵の保管者を定め、学校職員以外の者に鍵の保管を委嘱した場合には鍵保管委託料を交付するとされている。さらに、学校職員以外の者に「非常かけつけ人」を委嘱し、委託料を交付する規定まで置かれている。
この「非常かけつけ人」という言葉は、宿直という制度が何に置き換わったのかを端的に表している。かつては人がずっと現場にいた。今は誰もいない。異常があったときにだけ、外から人が駆けつける。常駐から、待機と急行へ。
これが二十世紀後半に日本の建物全般で起きた変化であり、学校もその流れに乗っただけだった。
誰が代わりに泊まったのか――宿直代行員と機械警備
教員が泊まらなくなったあと、しばらく学校は完全な無人にはならなかった。あいだに挟まったのが、宿直代行員である。
証言によれば、廃止後の五年ほど、大学生などがアルバイトで宿直代行員として宿直室に泊まっていた学校が少なくなかったという。仕事は夜の警備と見回りで、二人で組むこともあった。学生にとっては、いるだけで金がもらえる楽なアルバイトである。教員の負担は減り、人件費も安く済む。一見、うまい落としどころに見えた。
だがこの方式も長くは続かなかった。同じ証言では、宿直代行員が生徒を巻き込んで酒を飲んで騒ぐ、風紀を乱すといった問題があちこちで起きたとされている。学校側から見れば、管理責任の所在が曖昧なまま、夜の校舎に外部の若者を置いていることになる。結局、そこから全面無人化へ進んだ、というのが多くの学校がたどった道筋だった。宿直室から人が消えたのは、この段階である。
代わりに来たのが機械警備だ。日本の機械警備の出発点は、一九六六年に完成した国産初のオンライン安全システムである。契約先の建物に侵入や火災を検知するセンサーと制御器を設置し、異常信号を受けたら緊急対処員が現場へ急行する、という仕組みだった。開発の動機がまた興味深い。社員数の増加で管理が難しくなったこと、人件費の上昇で採算が悪化したこと、そして機械化によって人間の尊厳を守るという発想である。
人を夜通し立たせておくのはやめよう、という判断が、この産業の根っこにある。
一九六九年には、東京の施設からの異常信号がある事件の犯人逮捕につながり、機械警備の実効性が広く知られることになった。一九七二年には警備業法が制定され、業界そのものが法的な枠組みに乗る。学校が夜間警備を警備会社に委託する規程が各地で整備されるのは、まさにこの時期と重なっている。山梨県の規程が昭和四十七年、つまり一九七二年制定なのは偶然ではない。
こうして、学校の夜は人からセンサーへ引き渡された。窓や扉が開くことに反応する装置が入り、異常があれば警備会社に信号が飛び、対処員が車で駆けつける。宿直室は空になった。布団は処分され、押し入れには行事の備品が入り、畳はそのまま残った。多くの学校で、あの部屋だけが用途を失ったまま生き延びたのは、単純に和室が壊しにくかったからでもある。
用務員の宿直と、教員の宿直はどう違ったのか
ここで整理しておきたいのが、学校用務員との関係だ。宿直室の怪談はしばしば用務員の話と混ざるが、制度上は別のものである。
用務員は、かつて小使や給仕と呼ばれ、教員の身の回りの世話をすることが中心的な役割だった。呼称と職務は時代とともに変わり、一九七五年には学校教育法施行規則に「学校用務員は学校の環境整備その他の用務に従事する」と明記されている。現在は、児童生徒が安全で快適に学校生活を送るための教育環境整備という位置づけだ。
昔の学校では、用務員が校地内の住居に家族と住み込んでいることが珍しくなかった。つまり用務員は、宿直当番でなくても夜そこにいる。一方、教員の宿直は輪番制の一時的な泊まり込みである。この違いは大きい。用務員にとって学校は生活の場であり、宿直の教員にとっては年に十数回だけ夜を過ごす他人の家のような場所だった。
だから怪異の語られ方も違ってくる。用務員系の怪談は、亡くなったあとも掃除を続けている、明かりが消えない、といった「住み続けている」型が中心になる。対して宿直室の怪談は、初めてそこで寝る人間が、その部屋に蓄積された何かに遭遇する、という「訪問者」型が基本だ。前者は家主の話で、後者は泊まり客の話である。同じ廊下の同じ突き当たりの部屋なのに、語りの視点がまったく違う。
なお、宿直の見回りが実際にどれほど機能していたかについては、用務員の側からの醒めた証言もある。宿直の教員が真面目に回ろうとすると笑われた、という先ほどの話がそれだ。日常的に学校に住んでいる人間から見れば、月に一度の当番で回る人の巡視には、たいした意味がない。宿直が形式化していた実態は、この温度差にもよく表れている。
消えた部屋は、どこへ行ったか
宿直室のその後は、学校によってさまざまだ。いちばん多いのは物置である。畳の上に段ボールが積まれ、跳び箱の踏切板や運動会の用具が入り、鍵は職員室に一本だけ。次に多いのが資料室や郷土資料室への転用で、古い写真や卒業アルバム、昔の教科書が並ぶ。相談室やカウンセリングルームに改装される例もある。
畳を上げて板を張り、机と椅子を置けば、それらしい部屋にはなる。
もちろん、単純に取り壊された学校も多い。宿直室が残ったのは、たいてい木造校舎か、昭和三十年代から四十年代に建てられた鉄筋校舎までだ。ちなみに木造校舎から鉄筋校舎への転換は、昭和二十五年に防火地域内の学校をすべて防火建築にすると決められたことと、その後の文部省の指導によって進んだ。昭和三十年代以降、地方でも木造校舎は稀になっていく。
宿直室が消えていく時期と、木造校舎が消えていく時期は、ほぼ重なっている。
だから「宿直室が残っている学校」というのは、二重に古い学校だということになる。木造か、初期の鉄筋か。廊下の突き当たりに、なぜか畳の間があり、押し入れがあり、小さな流しがある。その部屋を見つけたら、それは制度の化石だ。日本の学校が毎晩ひとりぶんの睡眠を差し出していた時代の、いちばん物理的な証拠である。
廃校になった校舎が宿泊施設として再利用されている例もあり、そこでは宿直室がそのまま客室として使われていることがある。廃校で「宿直ごっこ」をする、という企画記事が書かれるくらいには、宿直は懐かしいものになった。制度としては完全に死んでいるのに、体験としては商品になる。これも、ある種の後日談だと思う。
なぜ怖いのか、なぜ廃止後も語り継がれたのか
最後に分析をしておきたい。宿直室の怪談が持つ怖さは、他の学校怪談とは質が違う。理由は三つある。
ひとつめは、視点が大人だからだ。学校の怪談のほとんどは子どもが語り、子どもが体験する。トイレの花子さんも、人体模型も、十三段の階段も、主人公は児童生徒だ。ところが宿直室の話だけは、語り手が教員である。責任を負っている大人が、逃げられない立場で怖い目に遭う。
子どもの怪談における「先生に言えばなんとかなる」という最後の逃げ道が、ここでは最初から存在しない。
ふたつめは、業務であることだ。肝試しではない。行きたくて行ったのではなく、当番表で割り当てられて泊まっている。しかも異常がないことを確認し、それを文書に記録して、次の当番に引き継ぐ義務がある。恐怖から逃げると職務放棄になる。
この「逃げたら書類が破綻する」という縛りが、宿直室怪談の底に流れる圧迫感の正体だ。
みっつめは、部屋が眠るための場所だという点である。学校の他の怪異スポットは、基本的に通過する場所か、作業する場所だ。トイレも階段も理科室も、長居はしない。宿直室だけが、無防備になるための部屋である。畳に寝て、目を閉じて、意識を手放すことが業務の一部になっている。
最も警戒すべき建物の中で、最も無防備な姿勢をとらされる。この矛盾が、あの四畳半には最初から埋め込まれていた。
では、なぜ廃止後も語り継がれたのか。ここには構造的な理由がある。宿直が終わっても、部屋は残ったからだ。子どもたちは、使われていない畳の部屋を毎日見る。何のための部屋か誰も説明してくれない。
用途の説明がない空間は、必ず物語で埋められる。開かずの教室の怪談が生まれるのと同じ原理である。
しかも、この部屋には説明できる大人がいた。祖父母や親の世代には、宿直を実際にやった人がいる。うちのじいさんは学校に泊まってた、という話が、教室の噂話に妙なリアリティを与える。証言者がいる怪談は強い。宿直室怪談が全国で似ているのは、制度が全国一律だったからであり、証言者も全国にいたからだ。
そして最後に、寂しさの問題がある。宿直は、いま振り返ればひどい制度だ。手当は日給の三分の一、明けにそのまま授業、身の危険もある。廃止されたのは当然だし、戻すべきではない。それでも、あの制度がなくなったとき、学校から失われたものがある。
青木の研究が指摘したとおり、宿直があったから学校は夜も休日も訪ねやすい場所だった。忘れ物を取りに行けた。地域の人が寄れたのだ。教員同士が夜通し話せた。
無人化とは、鍵をかけて誰も入れなくすることだ。宿直室の怪談が、恐ろしいのにどこか懐かしい温度を帯びているのは、たぶんそのせいである。あの部屋の話をするとき、人は幽霊の話をしているようでいて、学校がまだ閉じきっていなかった時代の話をしている。消えない明かりの話も、へこんだ布団の話も、要するに「あそこには誰かがいた」という記憶の形を変えたものだ。
なお、念のため書いておく。現役の学校も廃校も、無断で立ち入れば刑法第百三十条の建造物侵入罪にあたる可能性がある。条文が定める法定刑は、三年以下の拘禁刑または十万円以下の罰金である。門が開いていても、学校側が立ち入りを認めていなければ侵入になる。関係者以外立入禁止の表示があるのに正門から堂々と入っても同じだ。
夜間の学校に肝試しで入るのは、怪談以前に犯罪である。絶対にやめてほしい。
話は昼間の資料館と、家の本棚で足りる。
ここからは総括と、本文で書ききれなかった論点の追加である。
まず、宿直という制度をもう一段抽象化して眺めてみたい。この制度の本質は「建物に人を常駐させることで安全を確保する」という考え方だった。センサーも通信網もない時代、建物を守る方法は人を置くこと以外になかった。学校だけではない。市役所も町役場も銀行も、宿直があった。
昭和四十年代までは、日本中のあらゆる建物に、夜そこで寝ている誰かがいた。学校の宿直はその一部にすぎない。
この「常駐による安全」という発想は、二十世紀後半に、ほぼ全面的に「検知と急行による安全」へ置き換わった。センサーが異常を検知し、信号が飛び、待機している人員が駆けつける。人はもう建物の中にいない。外で待っている。阿賀野市の規程にあった「非常かけつけ人」という言葉は、この転換をそのまま名詞にしたものだ。
宿直の廃止は、教員の労働問題であると同時に、日本社会全体の安全思想の転換の一場面でもあった。
そう考えると、宿直室の怪談は「常駐の時代の最後の記録」として読める。人が建物の中で夜を過ごすことをやめた瞬間に、その記憶は怪談になった。もう誰もやらないことだから、語りとしてしか残らない。制度が現役のあいだは、宿直は単なる面倒な当番だった。それが終わってはじめて、あの夜の記憶は物語になる資格を得た。
廃止は怪談の終わりではなく、始まりだったのである。
次に、制度と怪談の対応関係をもう一度確認しておきたい。昭和二十二年九月十三日付の発基第十七号通達が、許可の対象として挙げたのは三つだった。定時的巡視、緊急の文書または電話の収受、非常事態に備えての待機である。そして宿直室の怪談の主要な型も、見回り型、電話型、そして布団型と日誌型に分かれる。前のふたつは通達の前のふたつに正確に対応し、あとのふたつは「待機」という何もしない時間に対応している。
これは偶然ではない。怪談は、制度が人にさせる動作の上にしか生えない。夜中に長い廊下を歩けと言われれば、廊下の怪談が生まれる。鳴った電話を取れと言われれば、電話の怪談が生まれる。畳の上で待機しろと言われれば、畳と布団の怪談が生まれる。
学校怪談を「子どもの想像力の産物」とだけ捉えると、この関係を見落とす。宿直室の怪談は、労働の形が物語の形を決めるという、かなり冷たい原理の見本になっている。
三つめの論点は、宿直日誌という書式の特異さについてだ。この文書は、複数の人間が交代で、同じ書式で、無期限に書き継ぐという性質を持つ。学級日誌や業務日報も似ているが、宿直日誌には決定的な違いがある。書き手が夜、ひとりで、誰にも見られずに書くという点だ。当日の目撃者は書き手しかいない。
だから記述の真偽を確かめる方法が原理的に存在しない。
こういう文書は、必ず「書かれなかったこと」の存在を意識させる。異常なし、という一行の裏に何があったかは、永遠にわからない。宿直日誌型の怪談が、知らない筆跡や意味不明な注意書きという形をとるのは、この構造の必然だ。もし宿直がふたり組で、互いに署名し合う書式だったら、日誌型の怪談はここまで発達しなかっただろう。孤独な記録者という設定が、怪談の余白を作った。
四つめに、宿直室という部屋の建築的な条件を、もう少し詰めておきたい。この部屋には、怪談に有利な特徴がいくつも重なっている。畳と押し入れという、視線を遮る収納があること。窓に雨戸があり、閉めると外がまったく見えなくなること。職員室や用務員室に隣接しており、壁一枚向こうの音が聞こえること。
火の元であるボイラー室や石炭小屋が近いこと。そして木造であること。
とくに押し入れは重要だ。押し入れは、部屋の中にある「見えない容積」である。閉じているあいだ、中身は不定になる。開けてみるまで何があるかわからない空間が、寝ている頭のすぐ横にある。日本の怪談が押し入れを繰り返し舞台にしてきたのは、この不定性のせいだろう。
宿直室は、その押し入れの前で仰向けに眠ることを制度的に要求する部屋だった。設計として、怖くならないほうがおかしい。
五つめに、この怪談群の倫理的な扱い方について書いておく。宿直をめぐっては、実際に痛ましい事件も起きている。宿日直中の教員が被害に遭った事件が廃止運動の契機になったことは、研究でも指摘されているとおりだ。だが、それを怪談の材料にするのは筋が違う。実在の被害者を怪異の起源に据える語り方は、当事者と遺族を二度傷つける。
この記事で個別の事件に踏み込まなかったのは、そのためである。
同じ理由で、「この学校の宿直室で人が死んだらしい」という形の噂も、扱いには慎重であるべきだ。学校史や新聞で確認できないかぎり、それは噂として記録するのが正しい。宿直室怪談の魅力は、特定の悲劇の再現ではなく、制度そのものが孕んでいた孤独と責任にある。誰も死ななくても、あの部屋は十分に怖い。むしろ、何も起きなかった夜が何万回もあったという事実のほうが、よほど怖い。
六つめは、いまの学校との接続だ。宿直はもうないが、教員が学校に長時間いる問題は解決していない。給特法をめぐる議論は今も続いており、勤務時間の外側をどう評価するかという問いは、昭和四十六年から形を変えて残っている。宿直が廃止されたとき、教員の夜は学校から切り離されたはずだった。だが実際には、夜遅くまで職員室に残る働き方が、宿直の代わりに定着した面もある。
宿直室の話をすると、年配の教員が決まって苦笑する。あんなもの意味がなかった、と言う。そのとおりだろう。だが、意味のない当番を八十年以上続けさせた仕組みが、いまも別の形で残っていないと言い切れるだろうか。この記事を怪談として読んでもらってかまわないが、そういう問いのついた怪談だということは、書いておきたい。
七つめ、最後に、この怪談の未来について。宿直を実際に経験した世代は、もう八十代から九十代にさしかかっている。直接の証言が聞ける時間は、あと十年もない。そのあとの宿直室怪談は、体験談ではなく完全な伝承になる。誰も本物を知らないまま、話だけが残る。
そのとき、この怪談はたぶん少し形を変えるだろう。
すでにその兆候はある。宿直室という言葉自体が通じない世代が増え、話の舞台は「使われていない和室」や「開かずの部屋」に一般化されつつある。制度の記憶が抜け落ちて、部屋だけが残る。それは怪談としては生き延びる道だが、記録としては敗北だ。だからこそ、いま制度の側を書いておく価値がある。
あの部屋がなぜ畳だったのか、なぜ押し入れがあったのか、なぜ日誌があったのか。全部、理由がある。
廊下の突き当たりの、あの部屋の前を通ったら、少しだけ思い出してほしい。あそこには毎晩、誰かが寝ていた。制度に命じられて、月に一度か二度、他人の建物で無防備になっていた大人がいた。布団がへこんでいるという話が全国で語られたのは、そこにへこませるだけの重さの人生が、実際に積み重なっていたからである。怪談の器の底には、たいてい、そういうものが沈んでいる。
