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「入ってはいけない一角がある」――全国2233校がいまも名義だけ持っている「学校林」と、その奥で百年語り継がれた怪談のすべて

校舎の裏に、学校名義の森がある

自分の出た小学校か中学校を思い出してほしい。校舎があって、グラウンドがあって、体育館があって、その向こうに山があった人は少なくないはずだ。で、その山、誰の山だったか知ってるか。

けっこうな確率で、学校の山だ。

「学校林」という。小学校、中学校、高等学校が、学校の基本財産をつくるため、あるいは児童生徒の教育や体験活動のために保有している森林のこと。林野庁の定義もだいたいこの通りで、学校が直接持っている場合もあれば、国有林や公有林に分収林契約を結んで設定している場合もある。要するに、日本の学校というやつは、けっこうな数が山を持っていた。今も持っている。

そしてここからが本題なんだが、その山の多くは、もう誰も管理していない。どこからどこまでが学校の分なのか、境界すら分からなくなっているところが山ほどある。ある県の調査では、学校がアンケートに「学校林を所有していることを初めて知った」と回答している。別の学校は「学校林の場所が把握できない」と書いている。冗談みたいだが、これは公の調査資料に載っている実際の回答だ。

つまり全国のあちこちに、学校の名義になっていて、誰も入らず、境界も分からず、中に何があるか誰も確認していない森が、いまも普通に存在している。

こういう場所に怪談が生えないわけがない。というか、実際にめちゃくちゃ生えている。「学校林の奥に入ってはいけない一角がある」「記念樹の下に何か埋まっている」「先生が絶対に近づかせない斜面がある」。この手の話は、学校林を持っている学校の生徒の間で、驚くほど似た形で語られてきた。

この記事では、まず学校林という制度が何だったのかを、数字と法令と年号ごと徹底的に押さえる。そのうえで、その上に積もった怪談を全部拾う。どっちが欠けてもこの話は成立しないんだよな。制度を知らないと怪談がただの与太話に見えるし、怪談を知らないと制度がただの林政史になる。両方あって初めて、あの森の気味の悪さが説明できる。

長い。かなり長い。だが最後まで読むと、たぶんもう学校の裏山を同じ目では見られなくなる。

まずは数字の話をさせてくれ、5692校から2233校へ

学校林の全国統計は、公益社団法人国土緑化推進機構が握っている。この団体は1950年、昭和25年から学校林活動の推進をやっていて、1974年、昭和49年からはほぼ5年ごとに「学校林現況調査」という全国調査を続けている。林野庁と文部科学省の指導のもと、各都道府県の緑化推進委員会を通じて全国の学校に調査票を配り、集計する。日本の学校林の実態を数字で押さえられる資料は、事実上これしかない。

その数字が、なかなかえげつない。

1974年の調査では、学校林を持つ学校は全国で5276校、面積は28665ヘクタール。1980年がピークで、5692校、29179ヘクタール。約5700校が山を持っていたわけだ。当時の日本の小中高の数を考えると、10校に1校近くが森林所有者だった計算になる。

そこから下がる。1985年に4750校、28430ヘクタール。1991年に4514校、23889ヘクタール。1996年に3838校、25460ヘクタール。2001年に3312校、21030ヘクタール。2006年に3057校、20106ヘクタール。2011年に2677校、17777ヘクタール。2016年に2492校、16756ヘクタール。

そして直近、令和3年、2021年の調査で2233校、16473ヘクタールになった。

1974年と比べて、学校数は42.3パーセント。半分以下だ。小学校に限ると1327校で、1974年の3030校に対して43.8パーセント。中学校はもっと激しくて528校、1974年比31.7パーセント。三分の一を切っている。高等学校だけは350校で60.1パーセント、面積に至っては7752ヘクタールと1974年比100.9パーセント、つまり微増している。

これは林業科を持つ農林高校が大面積の実習林を抱えているからで、教育の中身が生きている学校林は高校に偏っているということでもある。

学校林の「箇所数」は2021年時点で2908箇所。一つの学校が複数の学校林を持っている例があるので、学校数より多くなる。2016年調査時からは345箇所、11パーセントの減少。減少幅は前回調査より大きくなっている。

全国のすべての学校に占める学校林保有校の割合は6.4パーセント。面積の広い地域は東北、中部、九州で、保有面積の上位5道県は北海道、高知、長野、鹿児島、山形。

ただし高校の大面積実習林が混ざると分かりにくくなるので、小中学校に限って1校あたりの保有面積を見ると、和歌山が16.3ヘクタール、岡山が16.1ヘクタール、北海道が14.5ヘクタール、群馬が14.3ヘクタール、香川が13.0ヘクタール、大阪が12.2ヘクタール、福島が12.0ヘクタールと続く。県全体の森林面積が小さい香川や大阪が上位に来ているのは、国有林を利用協定で使っている事例があるからだ。

ここで覚えておいてほしい数字がある。2021年調査で、学校林の今後の方針を「現状維持」と答えたのが71パーセント、2076箇所。「廃止もしくは面積縮小」が21パーセント、601箇所。縮小廃止の理由で最も多かったのが「当初の目的を喪失、もしくは達成」で268箇所、次が「管理が負担」で157箇所、その次が「借地・分収契約、利用協定の期限切れ」で88箇所だ。

そして、学校林を利用できない理由。最も多いのが「森林の管理が行き届かず、利用が困難」で668箇所、次が「学校林への距離が遠い」で499箇所。

管理が行き届かないから使えない。使わないから管理しない。距離が遠いから見に行かない。見に行かないから何があるか分からない。この循環が半世紀近く回り続けた結果が、いまの学校林だ。

なぜ学校が森を持ったのか、明治の「学校樹栽」から始まった

そもそもなんで学校が山を持つことになったのか。ここを押さえないと、怪談の方も薄っぺらくなる。

きっかけの一つは、アメリカから来た。1885年、明治18年に、アメリカで植林活動をやっていた教育家ノースロップが来日する。彼が文部次官と会談した際に、アメリカのアーバーデイ、つまり植樹の日と、学校単位の植林活動の情報がもたらされた。もとをたどればジュリアス・スターリング・モートンという人物がネブラスカで始めた運動だ。

これを受けて動いたのが、当時の文部次官、牧野伸顕。1895年、明治28年に、尋常師範学校校長諮問会の席上で次官訓示としてアメリカの学校植林の話を伝達し、小学児童による「学校樹栽」を奨励し始める。目的は二つあった。一つは不毛の山林を有効活用して学校の基本財産を増やすこと。もう一つは、みんなで木を植えるという行為が児童の規律性や自然への愛好心、ひいては愛郷心や愛国心を養うのに効くという教育的な狙い。

この二本立てが、その後百年以上にわたって学校林につきまとうことになる。

方法論をつくったのは本多静六だ。のちに東京帝国大学教授になる林学博士で、日比谷公園の設計でも知られる人物。牧野から委嘱されて『学校樹栽造林法』を著した。面白いのは、本多が「木一本首一つ」と言われた時代の厳しい山仕事としての植林ではなく、修学の記念として風景を楽しみながら山に入り、健康づくりを兼ねた運動会のような、レクリエーション要素のある植林活動を推奨したことだ。

費用をかけずに誰でも気軽に参加できる方法を論じた。百年の長計としての森づくりは、楽しくないと続かないと踏んだわけだ。この判断はたぶん正しかった。だからこそ全国に広がった。

制度の整備も一気に進む。1897年、明治30年4月12日、当時の内閣総理大臣松方正義と農商務大臣大隈重信によって提出された法律第46号「森林法」が成立する。近代日本の山林政策の根本になる法律で、御料林、国有林、部分林、公有林、社寺林、私有林を「森林」と定義し、保安林制度を規定した。

同じ年の5月28日には、文部省の普通学務局長と専門学務局長から地方庁あてに「小学校等に於ける樹栽の為官有地の貸下払下方」という通牒が出される。これで学校植林の推進が全国一斉の国家政策になった。

地方の動きも早い。静岡県知事の小松原英太郎は牧野の訓示を受けて、1895年7月30日付で郡長に対し「小学校生徒をして樹栽せしめその実施状況を翌年1月31日までに報告すべし」という訓令を発し、あわせて樹栽に関する規程を定めている。鹿児島県知事の加納久宣も同年9月6日付で「学校林となすべき官有地の調査実地」を訓令し、県下10郡合計3443町歩という報告を得たうえで、翌年1月に学校規定を制定した。

県知事が「学校林にできる官有地を全部調べろ」と言っている。この時点で、学校林は完全に行政の事業になっている。

1899年、明治32年には国有林野法と森林資金特別会計法が成立し、国として管理経営する必要のない林野を民間に払い下げる「国有林野特別経営事業」が始まる。この払い下げの受け皿の一つが、小学校の基本財産としての学校林だった。

1906年、明治39年5月5日には農商務省訓令として「基本財産林・模範林・学校演習林・学校樹栽林・樹苗圃及林業講習の状況報告様式」が府県道庁あてに発せられ、毎年の報告が義務づけられる。1907年、明治40年3月18日公布のその年の予算には、農商務省山林局の予算として「植樹奨励費」が新設された。国庫による民有林への奨励助成事業の嚆矢だ。

ここまで来ると、もう国家事業である。日露戦争の戦勝ムードとメディアの宣伝効果も乗って、学校林は全国に広がっていった。

具体例を一つ。長野県の山辺学校、いまの松本市の里山辺小学校のあたりだ。明治30年、1897年に児童が植林を始めた。最初は1500本程度。ところが吉田頼吉という校長が赴任して「植林規定」を設けると、年に20000本以上という本格的な植林が始まる。規定にはこうある。植林は生徒に林業の実験的練習をさせ、かつ将来の学校財産の一部とすることを目的とする。

植林地は村の共有山から便利な地を選び、組合管理長から共有山管理部長に交渉して借りる。植林は毎年春に高学年の生徒が行い、毎回、父兄に援助してもらう。樹種は主に落葉松。苗数は毎年およそ2万本以上。毎年秋に下草刈り、枝打ちをし、境焼をして野火を防ぐ。伐採は植林初年からおよそ10年目に間伐、20年目に全伐する。

明治38年、1905年11月22日の日誌には、里山辺高等小学校、里山辺尋常小学校、開校したばかりの入山辺尋常小学校の合同で、入山辺村一ノ沢へ落葉松25000本を植えた記録が残っている。分担は児童が15000本、各区から4名ずつ出た大人の手伝い人が10000本。一人あたりの割当は高等小学校4年で120本、3年で100本、2年で75本、1年で50本。尋常小学校4年が30本、3年が20本。

天候は晴、穏やか、午後二時に業を終りて帰校す。

植林地は入山辺村の山にあった。里山辺財産区の「一ノ沢」「熊ノ平」「詫沢」、入山辺財産区の「菖蒲沢」「寺社平」といった地名が日誌に出てくる。学校からは5キロメートル以上、標高差は450メートルほど。小学校3年生が、片道5キロの山道を歩いて登り、一人30本の苗を植えて、また歩いて帰る。それを毎年やる。

規定通り、10年後の大正3年、1914年には間伐の記録がある。しかし大正元年、1912年に吉田校長が村中に配った文書には、こんなことが書かれている。学校生徒が汗水垂らして植えた所ですら、野火をつける者がある。充分成長せざる内より盗伐をする。可愛らしい子どもが一本植えては家のため、二本植えては村のため、三本植えては国のためといって植えたのだ。それをマア何という非道の強欲だろうか。

一年に一度位は是非共植林地を見廻ってもらいたい。

つまり明治の終わりから大正の頭にはもう、学校林は盗伐され、野火をつけられ、誰も見回りに行かない場所になりかけていた。校長が村人に「頼むから見に行ってくれ」と印刷物を配るレベルで。百年前からこの構図なんだよな。

愛林日、皇紀二千六百年、そして焼け跡

大正期に入ると、学校林の政策的な優先順位は一度下がる。1918年、大正7年の市町村義務教育費国庫負担法をはじめとする国庫負担制度の導入で、教育費の管理は国と行政村の間の問題になり、学校基本財産の管理も公学資産の一部として行政村に編入されていく。造林の方も、公有林野官行造林法によって町村単位の造林を進める方が山林局にとって重要になった。

研究者の区分で言えば、明治後期までの「設置完成期」に対して、大正中期は「設置衰退期」ということになる。

ところが昭和恐慌が来る。1929年、昭和4年の世界恐慌に端を発する農山村の極度の疲弊。この状況下の1933年、昭和8年に、大日本山林会を中心とする愛林日設定委員会が、毎年4月2日から4日までを「愛林日」と定め、全国一斉の愛林行事を催すことを提唱した。

翌1934年、昭和9年の第一回愛林日には、筑波山麓の鬼ヶ作国有林、茨城県桜川市真壁町大字羽鳥にあたる場所で、当時の農林政務次官、農林次官、山林局長らの出席のもと、初の全国規模の植樹行事が実施された。

この場所は長いこと分からなくなっていたのだが、1980年代に緑化運動の関係者が国有林の森林調査簿と造林台帳を洗い直し、昭和12年度の第3次検訂施業案編成時のものと推定される調査簿の備考欄に「第1回愛林日植栽地」の文字を発見。さらに昭和11年度の造林台帳から造林基本図のトレーシングペーパーが見つかり、コピー機にかけたところ地図上に「第1回記念植栽地」の文字が浮かび上がった。

現地確認では、当時青年団として行事に参加していた地元の男性の指し示した場所と、書類調査で判明した場所が完全に一致した。そこには樹齢52年生のスギとヒノキが見事に成林していたという。1986年、昭和61年4月23日に「全国緑化事業発祥之地」の記念碑除幕式が行われている。

なお、この記念植樹の際に農林大臣の参加が予定されていた窪地は、地元で「大臣窪」と呼ばれていた。植えた木の場所も、その呼び名も、地元の記憶と役所の帳簿の両方が残っていて初めて特定できた。逆に言うと、どちらかが欠けていたら、あの山の中の一角がなぜそこだけ杉林なのか、誰にも説明できなくなっていた。この構図はあとで効いてくるので覚えておいてほしい。

そして1938年、昭和13年4月1日に国家総動員法が公布されると、その前後から学校林に関する施策と奨励が一気に強まる。愛林日は国家行事になり、学校林の造成が大日本山林会や帝国治山治水協会、山林局によって周到に準備された。この時期に全国の学校林の調査が行われていて、その数、5064箇所、総面積37496町歩。同年3月10日には「小学校林造成に関する建議案」が可決される。

『初等中等諸学校の学林』『山村青年読本』といった書籍も出版された。1938年の農林省山林局の資料によれば、全国の初等中等諸学校の学校林面積は50025町歩に達していた。

1940年、昭和15年の皇紀2600年記念では、26県で合計12082町歩の学校林が造成された。帝国治山治水協会は学校林の普及を定款に掲げ、「国土愛護」「愛郷愛国」を前面に出した『学校林』を出版し、学校林を通じた勤労奉仕を小学校だけでなく青年教育、社会教育へと拡大させていく。戦争が激化すると「大東亜戦争記念造林」として18336町歩の造林が計画された。

ここは正直、かなり生々しい時期だ。ある小学校では愛林日を含む年5回から6回の作業に児童と青年学校生徒が動員されていた記録が残っている。別の小学校では、部落有林野の統一条件として集落に貸し出されていた林野が、大東亜戦争記念のために学校林地として供出されている。木を植えるという行為が、国家資源の造成と、その造成のために勤労奉仕をする担い手の育成という、二重の意味を負わされていた。

いま学校林の奥に残っている杉やヒノキの一部は、この時期に、動員された子どもたちが植えたものだ。当時十歳だった子は、今生きていれば九十代半ば。もう証言を聞ける人が本当に少なくなっている。

緑の羽根と学校植林五ヶ年計画

敗戦。国土は焼け、山は禿げていた。終戦当時の日本には、国有林で約30万ヘクタール、民有林で約120万ヘクタール、あわせて約150万ヘクタールの造林未済地があった。岩手県の県土に匹敵する広さだ。食糧難のせいで苗畑が農業生産に転用され、苗木の生産すら困難だった。

ここで学校林が復活する。1947年、昭和22年に森林愛護連盟が結成され、1949年、昭和24年には第一次学校植林五ヶ年計画が始まる。1950年、昭和25年1月30日に国土緑化推進委員会が結成され、これに呼応して24県で緑化推進委員会が結成された。同年4月1日、緑化運動史上初の試みとして東京都をはじめ20都道府県で「緑の羽根」募金運動が始まる。

4月4日には山梨県甲府市で第1回全国植樹行事ならびに国土緑化大会が開催され、天皇皇后両陛下が「緑の羽根」を胸につけてご臨席された。以降、両陛下のご臨席が恒例となり、これが今日まで続く全国植樹祭になる。

同じ1950年9月14日には、初の全日本学校植林コンクールの表彰式が行われた。これは連合国軍総司令部の民間情報教育局にいたアイヴァン・ネルソンという人物が、学校林の活動が進むよう新聞社に取り上げてもらってはどうかと提案したのがきっかけで、国土緑化推進委員会と読売新聞の間で協議が進められて実現した。第一回の主催者は読売新聞社、西日本新聞社、中部日本新聞社、国土緑化推進委員会。後援は文部省と農林省。

1957年からは植林だけでなく環境緑化の部門も新設され、学校林を持たない都市部の学校にも門戸が開かれた。のちに全日本学校植林・緑化コンクール、さらに全日本学校関係緑化コンクールへと名前を変えていく。

この時期の熱量は、当事者の記録を読むとよく分かる。北陸のある村の中学生が昭和31年、1956年4月17日につけていた日記にはこうある。朝、雨が降りそうな天気だったけど、みんなが山に集まって植林をやり始めた。そして苗を担いで植えるところまで行くと、途中から雨が降り出し、瞬く間に土砂降りになった。完全に出来ないまま10時ごろ解散した。昼からはからりと晴れて、弟たちは美山の祭りに行った。

PTAの人達といっしょに。

中学生全員とPTAが朝早く直接山に集合し、山裾に一列に並んで斜面を上に向かって一斉に掘っては植え、掘っては植えをやる。1学年1クラスの小さな中学校でも学校植林コンクールに参加し、表彰されると校長が朝礼で誇らしげに報告した。植えたのは唐松で、後年は見事な唐松林になったが、時代が変わって利用価値がないまま伐採され、その山全体が開発されて現在は運動公園になっているという。

山口県の農村の中学校では、春と秋の年2回、弁当と水筒を持って一日がかりで学校林の手入れに行った。学校から歩いて1時間近く、町でも外れの奥深い行き止まりのような場所。小学校のうちは保護者が手入れをするが、中学からは生徒がやる。斜面を上から降りながら下草を刈り、木の下枝を払っていく作業は、慣れている大人でも危険で楽ではない。地面は前に刈り取った下草や払った下枝でフカフカで、足元が悪い。

雨上りだとズルズル滑る。鎌など持ったこともない生徒も全員参加だった。昼に弁当を食べると、みんな「ああ、えらい、まだ昼からもせんといけんのか」とひっくり返ってぼやいた。午後3時ごろにやっと終わり、整列して点呼、重い足を引きずって学校まで戻り、ホームルームがあってようやく解散。

その人が40年以上たって書いている。町中の山が荒れ果て、鹿が我が物顔に木を食い荒らして、山の道も獣道もよく分からない状態だという。でも山の木は大きく育っただろう。大きくなったら木を売って学校の用具を買うとか、校舎の新築に使うとか言われていた。校舎はかなり前に新築されたが、鉄筋コンクリートだから学校林の木を使ったなんて話は聞いていない。材木を売ったという話も耳にしていない。

考えてみると、学校林の話は一度も聞いたことがない。今はどうなっているのだろう。やっぱり荒れたままに放置されているのだろうか。

これ、怪談じゃない。ただの回想だ。でも俺はこの文章が学校林について書かれた文章の中でいちばん怖いと思っている。自分が植えて、自分が刈って、汗をかいて、疲れて、文句を言いながら守った山が、四十年後には「今はどうなっているのだろう」になる。その山は消えていない。まだそこにある。ただ、誰も何も知らないだけだ。

北海道の七飯町峠下中学校の記録もいい。昭和25年4月に学校林に落葉苗木1500本を植樹、という一行が沿革に出てくる。以降、毎年のように補植や手入れの記載がある。昭和39年11月10日の「学林植林」と裏書きされた写真には、山の中腹で学生服と学生帽の生徒たちが大勢でロープを引いている姿が写っている。この中学校は平成2年に閉校した。

地元の郷土資料館の担当者は、五年ほど前に隣接する畑を営む人から、学林の伐採が進んだせいで水が流れてきて畑に水が溜まる、と言われて久しぶりに「学林」という言葉を聞いた、と書いている。

学校が消えても山は残る。山は残るが、手入れをする理由の方が先に消える。

木を売って校舎を建てる、という約束はどこへ行ったか

学校林の建前は、ずっと「基本財産」だった。2021年調査でも、学校林が設置された当時の目的として最も多かったのは「基本財産や建築・燃料資材利用」で59パーセント、2035箇所。「林業教育」の22パーセント、752箇所と合わせると、伝統的な学校林の目的が圧倒的多数を占める。

じゃあ実際に木を売って学校の役に立ったのか。2011年調査の数字が残っている。木材利用の実績があると答えた学校林は全体の19パーセント、665箇所。内容で最も多かったのが「木材を売却して学校運営に寄与」で9パーセント、308箇所。「校舎の建築・改築に使用」はわずか1パーセント、49箇所だ。

つまり、基本財産のつもりで設定された学校林が2000箇所以上あるのに、実際に校舎の材として使われたのは50箇所に満たない。売って金にした例も1割に届かない。約束のほとんどは果たされなかった。

もちろん、きちんと回った例もある。岩手県の雫石町の御明神地区学校林は、丁寧に制度が組まれた事例だ。ここの山はもともと村の入会地だったが、地租改正で官有地に編入されて入会権が否定された。1899年に国有土地下戻法が公布されると下げ戻しを申請し、1901年に不許可となると行政裁判所に告訴、1902年に勝訴して、岩手大林区雫石小林区から上野と御明神の両区に4674町が下げ戻された。

この土地が村有地になり、村が営林事業を始める。その最初の事業として、当時は「学林」と呼んだ学校林が1905年から運営されることになった。

御明神小学校樹栽台帳の造林計画には、学林を「学校基本財産ト為シ、其ノ利子ノ収入ニ依リテ学校ヲ経営セントスル」とある。教育費が村の総予算の半分近くを占めていた村財政の窮乏が背景にあった。174町3反4畝5歩とされていた学林は、実測の結果200町2反1畝5歩として経営されることになり、年度ごとの植栽予定面積、一人一日で行うべき割当作業量、整地・植付・下刈に必要な人夫数まで細かく施業案が立てられた。

植栽人夫には5年生以上の男女生徒が充てられた。

戦後、雫石町は1964年に「学校施設設備基金条例」を定めて収益の管理を規定している。町の所有地に設定した第1種学校林では、土地所有者である町が収益の10分の1、造林者である学校林管理会が10分の9を分収する。国有林に設定した第2種学校林では、土地所有者の営林局が10分の2、契約上の造林者である町が10分の8を取り、さらにその10分の8のうち町が10分の1、管理会が10分の2に分ける。

収益は基金に積み立てられ、図書や遊具、太鼓、ステージ幕といった内部設備、中庭の造成などの資金に充てられた。1990年には35年ぶりに植樹祭が行われ、5年生と6年生の児童と教職員が伐採跡地に植林作業をしている。

こういう例はある。あるにはあるんだが、全国的に見るとこれは少数派だ。研究者の分析では、財産としての学校林は1960年代から1970年代にかけてフェードアウトしていったとされる。昭和の大合併で旧町村が学校設置主体としての権限を失い、義務教育費国庫負担金などの補助金制度によって中央から地方への統制が復活すると、新しい市町村にとって学校整備に必要なものは補助金であって地域社会の力ではなくなった。

全国各地に「基金条例」が出現するのは、財産としての学校林の実質的な終わりを意味していた。

そして木材価格が落ちる。2011年調査で「木材価格の低迷」を利用上の問題点に挙げた学校林は10パーセント、338箇所だった。伐って出す費用の方が売値より高いなら、誰も伐らない。伐らないなら手入れもしない。

そして誰も来なくなった

いまの学校林がどうなっているか、いちばん率直に出ているのは高知県が令和7年度に実施した学校林の活用状況調査だと思う。高知は学校林の保有面積が全国上位の県だ。その県で、学校林を「活用していない」と答えた学校が62校あって、その理由の自由記述にこう並んでいる。

教育課程に学校林を活用できる内容がなくなったため活用できていない。女子生徒のトイレ対応が課題。以前から学校林を活用していない。学校行事として行っていない。本校の教育目標と異なっているため、学校林の活用は考えていない。学校の統合により所有している学校林の場所が遠くなった。教育委員会で事業化されていない。事業が終了している。

そして、この二つ。

学校林を所有していることを初めて知った。

学校林の場所が把握できない。

さらに、学校林の管理に関する今後の方針を聞いた設問への回答が74校分あって、その内訳が、植樹や間伐等の整備を行いたいが10校で12パーセント、現状を維持したいが20校で25パーセント、管理が負担となることや活用する予定もないことから処分したいが14校で17パーセント、未定が33校で41パーセント。

未定が41パーセント。四割の学校が、自分のところの山をどうするか決めていない。自由記述には「学校で管理することは難しいので、自治体にお返ししたい」「令和7年度末で閉校のため、契約を解除する予定」「本校には複数の学校林があり、活用できているのは3か所である。児童数や協力者の人数を考えたとき、今かかえている学校林すべてを管理することは厳しい」とある。

全国の状況も同じ方向を向いている。2021年調査で、学校林の管理作業の担い手として最も多いのは教職員と保護者。市町村が管理作業に参加している学校林は14パーセント、405箇所。森林組合や林業団体が16パーセント、465箇所。市民団体やNPO法人は6パーセント、171箇所。そして管理の頻度は、学期や季節ごと、年に1回、数年に1回が多い。頻繁に管理されている学校林は少ない。

数年に1回。つまり、その間、山は誰も見ていない。

土地の所有形態も効いてくる。2021年調査では、学校林の土地の49パーセントが市町村の所有地で、都道府県有地と国有地を含めて77パーセントが公共の土地。次に多いのが財産区、生産森林組合、財団法人、共有林といった地域の共有林等の土地で9パーセント。国有林との分収林は463箇所あるが、これは2016年調査の516箇所から10パーセント減っている。分収契約や利用協定は期限が来る。

市町村合併や学校統廃合が絡むと、契約の延長ができなくなる。

さらに、山林一般の話として、2026年4月1日施行の改正森林経営管理法がある。所有者不明森林や放置山林への対応を強化する改正で、市町村が経営管理権を設定する際の公告期間が6か月から2か月に短縮され、共有林については共有者全員の同意ではなく持分の過半数の同意で経営管理権の設定ができるようになった。所有者の探索や境界の明確化を市町村に代わって行う「経営管理支援法人」を指定する制度も新設されている。

逆に言えば、それだけ「誰の山か分からない」「どこからどこまでか分からない」森が全国に積み上がっているということだ。

学校林も例外じゃない。というか、学校林は名義が学校や市町村になっている分、相続で行方不明にならないだけマシに見えて、実は最悪の性質を持っている。担当者が異動する。校長が替わる。教育委員会の事業が終わる。関わっていた地元の人が亡くなる。書類は残るが、書類を読む理由が消える。そして「うちの学校、山を持ってるらしいですよ」という伝聞だけが残る。

こういう土地に、話は生える。

ここからが本題。生徒たちが語り継いだ「入ってはいけない一角」

さて、ここからが怪談パートだ。

学校林を持つ学校で語られる怪談には、驚くほどはっきりした型がある。全国の別々の学校で、互いに面識のない生徒たちが、ほとんど同じ構造の話をしている。俺の見るところ、大きく四つの型に分かれる。記念樹型、祠型、防空壕型、そして「もともとあったもの」型。順番に、それぞれの型の完全な形を再話していく。

その前に、全部の型に共通する「基本形」を先に提示しておく。

学校林の下草刈りか植樹の行事で、生徒たちが山に入る。学年ごとに区画を割り当てられて作業をする。ある区画で作業していると、そこだけ様子が違う一角に行き当たる。周りは杉かヒノキの人工林でまっすぐ植わっているのに、その一角だけ木の並びが乱れているか、逆に不自然にきれいな円形の空き地になっているか、下草の生え方が明らかにおかしい。生徒の誰かが「あそこ何?」と聞く。

引率の教員が、いつもと違う声で「そっちは行かなくていい」と言う。理由は言わない。作業が終わって山を下りる。それだけ。

これがベースだ。ここに「何があったのか」の説明が乗ると、四つの型に分岐する。

重要なのは、この基本形が実は怪異でもなんでもないという点だ。学校林の中に一箇所だけ性質の違う場所があること、教員がそこを避けさせることには、あとで書くようにほとんどの場合ちゃんとした現実的な理由がある。だがその理由は生徒には説明されない。説明されないまま行事が終わり、翌年は違う学年が入り、また同じ場所を避けて帰る。理由が伝わらずに回避行動だけが継承される。

これは民俗学が「禁忌の形骸化」と呼ぶ現象そのもので、実のところ、日本の山に無数にある「入ってはいけない場所」のかなりの割合がこうやってできている。

記念樹の下には何かある

一つ目の型。植樹祭や記念植樹の記念樹をめぐる話だ。

話はだいたいこう始まる。うちの学校林には、開校何十周年かの記念に植えた木がある。他の木より一回り大きくて、根元に小さな石碑か、木の札か、コンクリートの標柱が立っている。その木の下に何かが埋まっている。

「何か」の中身は語り手によって違う。いちばん多いのはタイムカプセルだ。何年か前の卒業生が埋めた。何年後かに掘り出す約束だった。でも掘り出されていない。誰も取りに来なかった。理由は、その学年に何かがあったから。

このバリエーションが厄介なのは、事実としてのタイムカプセル未回収がめちゃくちゃ多いことだ。千葉県の大多喜町立大多喜小学校では、生け垣の整備をしていたら、昭和47年度の卒業記念に埋めたとみられるレンガの構造物が見つかった。10年後に掘り起こす予定だったのが、忘れ去られて半世紀。

大分県中津市の旧山移小学校では、1974年に校友会が創立100年を記念して校庭の石碑「清流の碑」に埋め込んだカプセルを、2018年の閉校を経て2024年に開封したが、中は水浸しで作文も教科書も塊になっていて手に取ることすらできなかった。

三重県紀北町の西小学校では、1976年9月28日に埋めた記念品を50年後の2026年に掘り出すことになり、記念碑をクレーンで吊ってどかしてショベルカーで掘ったが、記念碑の下を50センチ掘っても何も出てこない。焦りが広がったところで、ややグラウンド側を10センチほど掘ったらオレンジ色のふたが顔を出した。石川県羽咋市の邑知小学校では、卒業生が代わる代わる掘ったが土中の木の根に阻まれ、一時は諦めかけた。

そして、見つからなかった例も普通にある。あるブログの書き手は、小学校の卒業式のあと、学校近くの山にタイムカプセルを埋めた。何年か後に同級生が集まって掘り出そうとしたが、人ひとりが縦に入るくらいの深さまで掘っても出てこない。途中で目印に埋めたらしい「6年◯組」と書かれたプレートは出てきた。場所は合っている。だがカプセルがない。正午から夕方暗くなるまで掘って、結局見つからなかった。

書き手はあとで気づく。埋めた場所の正確な目印がなかった。木の側に埋めた気はするが明確な印はつけていない。それに、あの山に埋める許可は取ったのだろうか。近くに神社もあるのだが、先生は土地の管理者や神社に確認していたのだろうか。

学校林の記念樹の話は、この「掘り出されなかったタイムカプセル」の記憶と、記念植樹という行為そのものが持つ儀礼性が合流したところに立っている。

そして記念植樹には実際、儀礼性がある。全国植樹祭では天皇皇后両陛下のお手植え、お手まきが行われる。1977年、昭和52年からは全国育樹祭が始まり、これは全国植樹祭を開催したことのある都道府県で、両陛下がお手植えされた樹木を皇族殿下がお手入れするという行事だ。つまり「特定の人が植えた特定の一本の木」を、何十年も追いかけて手入れし続ける制度が国レベルで存在している。

富山県では、かつて植えられたスギを、後年の行幸の際にお召列車の車窓から自ら眺めたという話まで残っていて、その場所は今も地域住民の有志によって管理されている。

一本の木に人間の記憶を託して、その木の下を掘り返さずに何十年も置いておく。これを繰り返してきた文化が、日本にはある。子どもがそれを見て「あの木の下には何か埋まっている」と考えるのは、むしろ論理的に正しい。実際、埋まっている。たいていは水を吸ってふやけた作文だが。

この型のいちばん怖いバージョンは、こうだ。「掘り出す年が来たのに、誰も来なかった」。卒業生が集まらなかったのか、学校がなくなったのか、あるいはその学年の名簿がどこかで途切れているのか。記念樹だけが太り続けて、根が石碑を持ち上げて傾かせている。それが放置された学校林の中にあると、確かに絵としては完成しすぎている。

学校林の奥の祠

二つ目の型。学校林の奥に古い祠がある、という話だ。

これは全国どこでも聞ける。基本の筋はこうだ。学校林の中に、木でできた小さな祠がある。屋根の部分が朽ちて傾いているか、地面に半分埋まっている。中には何も入っていないか、石が一つ入っている。近づいてはいけないと言われている。触ってはいけない。写真を撮ってはいけない。

体験談の形で語られる典型はこうだ。友人が「じいちゃんが昔この学校の生徒で、裏山に小さな祠があるって話してくれた。三人で確かめに行こうぜ」と言い出す。夜、校門に集合する。各自懐中電灯を持ってくるはずが、一人が忘れてくる。山自体はそこまで大きくないのに、何分探しても祠は見つからない。しばらくして、懐中電灯を忘れた方が何かにつまずいて派手に転ぶ。

悲鳴の方に驚いて振り向くと、木片のようなものが地面に埋まっている。だが木片につまずいた程度であそこまで体勢は崩れない。照らしてみると、それは屋根の形をしている。

「なあ、この埋まってるやつ、もしかして祠じゃないか」

この話がやたらリアリティを持ってしまう理由は、山に祠が「実際にある」からだ。それも、めちゃくちゃある。

日本の山仕事の民俗には、山の神の信仰が深く根を張っている。猟師、木樵、炭焼きといった山民にとっての山の神は、田の神のように季節ごとに去来するのではなく、常にその山にいる神だ。一年に12人の子を産むとされるほど生殖能力の強い神で、山民の産土神でもあった。この神は禁忌に厳しい。

そして、その禁忌がまさに「山に入ってはいけない日」の形をとる。

一般には12月12日、1月12日など12にまつわる日が山の神の祭日とされ、この日は山の神が木の数を数えるから山に入ることが禁じられる。破ると木の下敷きになって死ぬ。地域差はかなり大きい。山梨県では毎月17日が山の神の日で、山の神が弓を引くから矢に当たらないよう山に入ってはいけない。福島県では毎月17日、山の神が木を数えるので入ると怒る。山形県では17日に山に入ると自分も数えられてしまう。

広島県では正月20日、山へ行くと木に間違われてその年のうちに死ぬ。鳥取県では2月9日と10月9日、木に数え込まれると死ぬから山に行ってはいけないし、山の果実を取ってもいけない。兵庫県では12月9日。鹿児島県では正月と5月と9月の16日が「山ん神講」で、入ると怪我をする。長崎県には、正月16日に山に入った人が山の神に殺されて帰ってこなかったから山に入ってはいけない、という直球の伝承がある。

長野県南佐久郡では大晦日の入山が忌まれていて、これを破ると「ミソカヨー」あるいは「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえる。何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らない、という。山の神か鬼の仕業とされている。

木そのものへの禁忌もある。「Y」の字のような三又の樹木には神が宿るとして伐採を禁じ、その木を御神体として祀る風習がある。三又の木が女性の下半身を連想させるからとも言われるが、三又の木はそもそもバランスが悪くて伐採時に事故を起こしやすいから注意喚起のためだ、という現実的な説明もある。山の神は醜女とされ、自分より醜いものがあれば喜ぶというので、海の魚であるオコゼを供える習慣が広く残っている。

マタギはオコゼの干物を守り袋に入れて携行した。

そして重要なのは、これが過去形の話ではないことだ。主に東北と北海道では、12月12日、一部で1月12日には山林での作業を一切行わない林業者の慣習が今も残っている。森林組合がこの日に祈願祭や安全大会をやる。ある森林組合では旧暦の2月9日と10月9日を山の神の日として、業務を止めて役職員全員参加の安全大会を実施している。

つまり、こうだ。学校林として植林された山は、たいていの場合、更地に新しく作られた森ではない。もともとその土地の人が炭を焼き、薪を採り、下草を刈っていた里山を、公有地化なり払い下げなりの手続きを経て学校の名義にしたものだ。だから、山の神の祠は「先にあった」。学校林という制度の方が後から来たんだよな。

学校が山を持つ手続きをするとき、その山にあった祠をどうするかという項目は、書類のどこにもない。祠は誰の所有物でもないし、登記もされていない。移設するにも祀る人がいる。だから多くの場合、そのまま残る。残るが、祀っていた集落の講がやがて解散し、祭日を守る人がいなくなり、屋根が落ち、下草に埋もれる。

そこへ、山の神の禁忌を親から聞いた地元の生徒が入ってくる。「あの日は山に入っちゃいけないってじいちゃんが言ってた」という断片と、「あそこには近づくな」という教員の一言と、下草の中に半分埋まった木の屋根。役者は揃っている。

斜面の穴

三つ目の型。学校林の斜面に穴がある。

この型は他の三つより新しく、そして圧倒的に実話率が高い。防空壕だ。

茨城県北茨城市では、市立常北中学校の敷地内から防空壕が2箇所発見された。高台にある学校の法面に沿って残っていたもので、学校の草刈りを委託された業者が作業前に調べたときに穴が開いているのを見つけた。住民の証言から太平洋戦争中に掘られたものとされ、ともに入り口の高さが3メートルほど、奥に行くと狭くなる構造。内部の老朽化に加え、近くに住宅、直上にプールがあることから、市は埋め戻しを決めた。

埋める量は計120立方メートル、工事費は1578万円。国の「特殊地下壕等対策事業費」が使われた。

東京都北区の区立滝野川小学校では、正門脇にある老朽化した倉庫を解体していたところ、縦横約2.5メートルの穴が見つかった。入り口は赤レンガで囲われ、内部はレンガで塞がれていて、奥行きがどれだけあるかは不明。区立中央図書館の地域資料専門員が学校に残る記録を調べたところ、本土空襲が本格化した1944年11月に、滝野川警防団の分団長名で滝野川区長宛に出された「防空壕開鑿許可願」が見つかった。

正門近くに学校と警防団用の防空壕を掘るという内容だ。校内日誌には1944年12月1日に「防空壕設定」、同4日には「地下防空壕ヲ整備、電灯ヲツケ」と記されていた。

危険な地下壕は全国に数百箇所単位で把握されている。鹿児島県などでは県のサイトに、地下壕は経年劣化による陥没事故や壕内部での一酸化炭素中毒、酸素欠乏症を引き起こす恐れがあると明記され、埋戻しや壕口封鎖の安全対策が進められている。

国の補助制度である特殊地下壕対策事業は、戦時中に旧軍、地方公共団体、町内会等の公的機関が築造したもので、陥没や出水が顕著で建築物への危険度が増し放置しがたい地下壕を対象に、200万円以上の埋戻し等の事業費の2分の1を補助する。壕口封鎖への補助もある。自治体は住民に「まだ確認されていない箇所がある可能性があります」「地下壕が子どもたちの遊び場にならないよう地域で見守ってください」と呼びかけている。

そして、これは死人が出ている話でもある。2000年6月3日、鹿児島県鹿屋市で、旧海軍航空隊鹿屋基地の飛行場跡の東側を走る県道が陥没した。事前調査で防空壕はすでに埋塞していると結論されていた場所だった。前日から降り続いた激しい雨のなか、道路上と隣接する谷側の2箇所で大規模な陥没が発生し、翌日から捜索が開始されて、6月6日に陥没地を埋めた土砂の下から軽トラックとともに遺体が発見された。

裁判では事前調査の十分性が争われ、専門家からは、径66ミリのボーリング3本で幅2メートル以上、長さ30メートル以上の道路下の空洞が埋め尽くされていると主張するのはあまりに乱暴だ、という指摘が出た。もう一つの陥没箇所については、斜面の樹木を伐採して根を引き抜き、盛土工事を進めたことで地盤が緩み、新たに生じた多数の亀裂から雨水が浸透して空洞の劣化が急速に進んだと考えられている。

もともと軟弱な地盤の下の浅い空洞で、密生した樹木がなければ既に陥没していた可能性がある、とも。

木の根が、地下の空洞を支えていた。木を伐ったら落ちた。

学校林の防空壕型怪談は、この現実の上に立っている。斜面に半分埋まった穴があって、教員が「絶対に近づくな」と言う。理由は言わない。生徒はそこに幽霊を見る。だが教員が本当に恐れているのは、幽霊ではなく、酸素欠乏と落盤と、生徒が中に入った場合の学校の責任だ。

そしてこの型では、教員の「近づくな」が本物の警告だという点が重要だ。他の型の禁止には由来が失われているものが多いが、これだけは今も現役で危険なんだよな。

炭窯、塚、そして「もともとそこにあったもの」

四つ目の型。学校林の中に、明らかに人工の、しかし用途が分からない遺構がある、というやつだ。

これも実話率が高い。日本の里山には、想像以上の量の遺構が埋まっている。

たとえば炭焼き窯跡。福島県のある遺跡では、時期不明の木炭窯跡が4基密集して見つかっている。構造は煙出部、排煙口の石組部、焼成室、焚口部、前庭部に分かれ、作業場を伴うものもある。焼成室は横長の楕円形で、天井部までの高さは1.5メートルから1.6メートル前後と推定される。斜面地を利用した地下式構造だ。

出土した木炭の放射性年代測定と暦年較正の結果、16世紀後半から17世紀前半頃、室町時代から江戸時代初期にかけての遺構と判断された。福島県内には同じ構造の木炭窯跡が複数あり、いずれも山間部に単発で存在する。

こういうものが、山の斜面のあちこちにある。何十年か放置された学校林の中に、平坦な半円形の窪みと、石を組んだ跡と、黒い土の層があったら、それは高い確率で炭焼き窯跡だ。だが誰もそう教えてくれない。

塚もある。ある県の発掘調査では、丘陵の尾根上で長径約6メートル、高さ1メートル弱の塚が1基検出され、墳丘の上には安土桃山時代から江戸時代初期の火葬墓、裾には江戸時代中期以降の土葬墓が1基ずつ営まれていた。斜面の下方では江戸時代の土葬墓群が見つかり、各墓坑からは六道銭をはじめとする副葬品が出土している。

別の場所では、丘陵の先端に約500平方メートルの範囲で、約90センチ四方を石で囲んで火葬骨を納めた墓が3段の造成面に204基連なっていた。鎌倉時代から室町時代の遺跡とされている。

古墳も窯跡もある。丘陵の斜面に横穴墓が41基。尾根の頂部に前方後方墳。山の中の平坦地に須恵器窯。これらは、その地域では「昔からある山」の一部として、開発が来るまで誰も掘り返さないまま残っている。

そして、学校林として植林される山は、まさにそういう山だ。

明治期に学校林として払い下げられた官有地の多くは、もとは共有地の秣場だったり、上知令で官有地化された旧神社林だったりする。東京の八王子市堀之内にあった誨育学校の例だと、1878年、明治11年に学校所有の学校林として払い下げを受けたのは、村落の鎮守だった北八幡神社がかつて領有し、明治新政府の政策で官有地化されていた旧神社林だ。

住民の間では「尾崎の森」と呼ばれてきた場所で、大正末から昭和初期ごろまで樹齢数百年の針葉樹が多数生えていたという口伝がある。当時の地誌には北八幡神社の境内に大樹巨木ありと記され、隣接する山林についても山嶽岡阜にして杉樹甚だ多しとある。堀之内村はこの敷地を立木ごと払い下げてもらって学資金を捻出しようとした。

1875年、明治8年4月15日の払い下げ要求では、旧神社林のうち1反6畝8歩と、そこに生える390本の立木を要求している。アカマツは最大で目通り1丈1尺、およそ幹周330センチ、直径1.1メートル。スギは最大で目通り7尺、およそ幹周210センチ、直径70センチ。そういう大径木が混じっていた。

要求は三年間認められず、1878年に堀之内村と別所村が学区単位の連名で再要求し、ようやく認可された。9畝を学校敷地に、残りの1反7畝8歩を学校附属の「永世本校資本地」として、民有地第一種に編入する、という形で。

つまりこの学校林の正体は、神社の森だ。

これは特殊な例じゃない。日本各地の学校林の由来をたどると、旧神社林、旧共有林、旧入会地、財産区有林、生産森林組合有林といった、コミュニティの記憶が濃く沈んだ土地に行き当たることが本当に多い。そこには当然、祠がある。塚がある。窯跡がある。境界の目印にされた大木がある。

学校林とは、そういう場所の上に、明治から昭和にかけての国家が「学校の財産」というラベルを貼り直した森だ。ラベルは貼り直せるが、地面に埋まっているものはそのまま残る。

体験談その1、下草刈りに行った中学二年生の話

ここからは、この手の話がどう語られるかを、視点を変えて三つ挙げる。細部の言い回しは語り口を整えているが、この型の話は全国でほぼこの形で語られている。

一つ目は、中国地方の山あいの中学校に通っていた男性の話だ。

彼が中学二年だった年の秋、恒例の学校林作業があった。年二回、春と秋。弁当と水筒と軍手と鎌を持って、朝八時に学校に集合し、そこから歩いて一時間。町の外れの、道が行き止まりになるあたりの山だ。自転車通学の生徒も学校に自転車を置いて歩く。全員参加で、逃げようがない。

その年は、いつもと少し違った。前の年に台風が来ていて、山の一部が荒れていた。倒れた木が斜面に何本も横たわり、下草がやたら濃くなっている。教員たちが朝から地図を広げて何か相談していた。地図というか、コピーの黒ずんだ、線の入った紙。あとから思えば、あれは公図か森林簿だったんだろう、と彼は言う。

作業区画は例年通り学年ごとに割り振られた。二年は山の中腹の東側斜面。斜面の上から下に向かって降りながら、下草を刈り、下枝を払う。地面は前の年に刈った草と枝でフカフカしていて、足を置くたびに沈む。前の週に雨が降っていて、うっかりすると滑る。彼は同級生二人と組んで、班の中では下の方を担当していた。

昼前、彼は列から少しはずれて、斜面の東の端まで降りた。理由はない。ただ、そこだけ草の色が違って見えたからだ。周りはススキとササが密集しているのに、その一角だけ、地面が見えるくらい草が薄い。直径にして七、八メートルくらいの、ゆるい円形。

近づくと、地面が平らだった。斜面の途中なのに、そこだけテーブルみたいに水平になっている。土は黒い。指で掘ると、指の腹が黒く汚れた。炭の粉だった、といまなら分かる。当時は分からなかった。

円の奥側、斜面の高い方に、石が並んでいた。人の頭くらいの石が三つ四つ、扇形に。その内側が窪んでいて、落ち葉が溜まっている。彼は窪みの落ち葉を鎌の柄でどけた。灰色の、焼けたような硬い土の面が出てきた。

そこで名前を呼ばれた。担任だった。四十代の、山のこともわりと知っている社会科の教員。彼が「先生、これ何ですか」と聞くと、担任は斜面の上から三秒くらいその場所を見て、それから「そこはいい。上に戻れ」と言った。

いい、というのがどういう意味なのか分からなかった。刈らなくていいという意味か、見なくていいという意味か。彼はもう一度「これ、何かの跡ですよね」と言った。担任は「戻れ」と繰り返した。声が少し大きかった。班の他の生徒が振り返るくらいには。

その日はそれで終わり、午後三時に作業を終えて、点呼をして、学校まで歩いて帰った。翌週の社会の授業のあと、彼は担任のところへ行って、もう一度あの場所のことを聞いた。担任は職員室の窓の外を見ながら、たぶん炭焼きの窯の跡だと思う、と言った。それだけなら別にいい。問題はそのあとだ。担任はこう続けた。

「あそこ、うちの山かどうか分からんのよ」

学校林の境界が分からない、という意味だった。台風で木が倒れて地形が変わったのもあって、どこまでが学校の分でどこからが隣の私有林なのか、教員たちにも判断がつかなくなっていた。生徒に刈らせて、それが他人の山だったら面倒なことになる。だから「そこはいい」だった。

彼は納得した。納得したが、同時に、これから毎年、あの円形の場所だけが刈られずに残っていくんだな、と思った。実際そうなった。彼が卒業するまでの二年間、あの一角は毎回、作業区域から外された。後輩たちには理由が伝わらない。伝わったのは「あそこは行かんでええって先生が言う」という一文だけだ。

その中学校は十年ほど前に統合で閉校した。学校林の登記がどうなったのか、彼は知らない。

体験談その2、境界を探しに入った教員の三日間

二つ目は、東北のある小学校で教頭をしていた男性の話だ。

きっかけは市の教育委員会からの一枚の照会だった。市有財産の見直しにあたって、各校が保有する学校林の面積と位置を確認したい、という内容。締め切りは一か月後。ようは「あんたの学校の山、どこにあってどれくらいですか」と聞かれたわけだ。

学校に残っていたのは、昭和三十年代の分収造林契約書の写しと、その添付図面のコピーだった。図面は等高線もない略図で、尾根と沢が線で描かれ、区域が斜線で塗ってある。基準になる地物は「◯◯神社ヨリ北西」「大杉ヨリ」といった記述。契約の相手方は当時の村。その村はとっくに合併で消えている。契約期間は五十年で、書類上はすでに満了していた。満了後どうしたかの記録はない。

教頭は、地元で長く林業をやっている七十代の男性に頼んで、一緒に山に入ることにした。学校から車で二十分、そこから徒歩。十一月の、朝の冷える日だった。

一日目は入り口が分からなかった。図面にある神社は実在したが、そこから北西に踏み込むと道がない。かつては作業道があったはずだが、二十年以上使われていない林道は、両側から灌木が倒れ込んで完全に塞がっていた。二人は途中で引き返した。

二日目は方向を変えて、隣の沢から尾根に上がった。斜面はスギの人工林で、明らかに間伐されていない。木と木の間隔が狭く、樹冠が閉じて、地面には光がほとんど入っていない。下草がないから歩きやすいが、その代わり足元は土が流れて根が浮いている。同行の男性が「これ、四十年は手ぇ入っとらん」と言った。

尾根に出たところで、境界の目印を探した。昔は、境界に杭を打つか、あるいは目立つ木に鉈で傷をつける「なた目」を入れるか、境界線上に特定の樹種を並べて植えるかした。同行者は幹を一本一本見ながら歩いた。三十分ほどして、一本のスギの幹に、樹皮が盛り上がってふさがりかけた古い傷を見つけた。「これだべ」と言った。傷はほぼ肉に埋もれていて、言われなければ節にしか見えない。

そこから傷のある木を数珠つなぎに追っていった。四本、五本、六本。七本目でぷつりと途切れた。そこから先はカラマツの林で、樹種が違う。所有者が違うということだ。だが、どこで切り替わっているのかの線は、地面のどこにも引かれていない。

三日目、教頭は一人で入った。同行者に付き合わせるのが申し訳なかったのと、正直、自分の目で確かめたかったからだ。前日に見つけた七本目の木から、傾斜のきつい斜面を東に降りてみた。この方角に沢があるはずで、沢が境界なら話が早い。

降りていく途中で、彼は木の並びが乱れている一角を通った。スギの人工林の中に、直径十メートルくらい、広葉樹だけが生えている場所がある。ケヤキかエノキか、葉を落とした太い木が四、五本。人が植えたようには見えないし、かといって自然に残ったにしては境目がはっきりしすぎている。周りのスギは全部同じ太さで、明らかに同じ年に植えられている。この一角だけ植えられていない。

中央に、石があった。

高さ五十センチほどの、加工された石。台座と、その上に載る細長い石。表面に何か彫ってあるが、苔と地衣類でほとんど読めない。かろうじて、下の方に「山」という字らしきものが見えた。台座の前に、平らな石が一枚置いてある。供え物を載せる石だろう。その上に何もない。

教頭は写真を撮って、その場を離れた。市に出す報告書には「学校林区域内に石造物一基を確認。詳細不明」と書いた。面積については、図面から読み取れる概算と、現地で確認できた範囲が一致しないため、確定できないと報告した。

後日、地元の郷土史に詳しい人に写真を見せたところ、山の神の碑だろうと言われた。この地域では、山仕事をする集落ごとに山の神を祀り、毎年決まった日に山に入らず、講の宿を持ち回りで開いていた。祀っていた講は昭和五十年代に解散している。碑の周りだけ植林されていないのは、植林したのが集落の人間だったからだ。自分たちが祀っている神の周りには、木を植えなかった。

教頭は、それを聞いてから、あの一角のことをうまく説明できなくなったという。石があった。碑だった。由来も分かった。何も怪しいことは起きていない。それでも、あの日、スギの暗い林の中から急に明るい広葉樹の空間に出て、真ん中に苔の石が立っているのを見た瞬間の、背中の感じだけが残っている。

「あそこは、学校の山であって、学校の山じゃないんです」と彼は言った。書類の上では学校林の中だ。でも、あの場所を作ったのは学校じゃない。学校が来る前からあの空間はあって、学校が来て周りに木を植えて、学校がいなくなっても、あの空間だけは残る。

彼の勤めていた小学校は、その三年後に統合された。学校林の面積は、いまも教育委員会の台帳で「約」がついたままだ。

体験談その3、廃校のあと、山を引き取った男の話

三つ目は、西日本の山村で、閉校した小学校の学校林を実質的に引き取ることになった六十代の男性の話。

彼の集落の小学校は、昭和三十年代には児童が百人を超えていた。彼自身もそこの卒業生で、五年生と六年生のときに学校林の下刈りに行っている。閉校は十数年前。児童数が一桁になって、隣の校区に統合された。

校舎は解体されて更地になり、グラウンドの隅に石の記念碑が残った。校歌が彫ってある。除幕式には卒業生が集まった。そのときまで、誰も学校林のことを話題にしなかった。

問題が出たのは、閉校から四年後だ。市から集落の区長宛に文書が来た。旧小学校が保有していた学校林の一部について、隣接地の所有者から苦情が出ている、という内容。倒木が隣地に倒れ込み、雨のたびに土砂と水が下の畑に流れ込む。管理者はどこか、という照会だった。

区長は市に聞いた。市は、学校林の土地自体は市有地だが、造林した部分の権利関係が分収契約になっていて、契約の相手方が旧村の財産区であること、財産区は合併時に整理されて実体がないこと、契約書に定めた期間はとうに過ぎているが更新も解除もされていないことを説明した。要するに、誰が管理するか決まっていない。決まっていないまま四十年が経っていた。

彼が手を挙げたのは、その山に自分が植えた木があったからだ。小学五年の春、担任と一緒に、斜面の下から上に向かって列になってヒノキの苗を植えた。一人二十本と決められていた。土を掘って、苗を入れて、足で踏んで固める。あれから五十年以上たっている。伐期は過ぎている。

最初に山に入ったのは、市の担当者と森林組合の職員と、彼を含む集落の三人だった。入ってみて、全員が黙った。植えたヒノキは太くなっていたが、間伐がされていないので細く高く伸びていて、幹の下半分に枝がなく、樹冠だけが空をふさいでいる。林床は真っ暗で、ササすら生えていない。台風で折れた木が何本も、他の木にもたれかかったまま宙に浮いている。いわゆる「かかり木」だ。これが一番危ない。

いつ落ちるか分からないし、下手に触ると人が死ぬ。

森林組合の職員が「これ、素人が入っちゃいけません」と言った。彼は「俺が植えたんだけどな」と言った。職員は「だからこそです」と返した。

その日、彼は一つだけ、思い出した場所を探した。植林のとき、担任が「あっちには行くな」と言った斜面があった。当時、生徒の間では「防空壕がある」と言われていた。子どもの噂だ。真に受けてはいなかった。

行ってみると、あった。

斜面に、幅一メートルくらいの横穴が開いていた。入り口の上部が崩れて土が落ち、半分ふさがっている。中は真っ暗で、奥行きは分からない。周りに一メートル四方くらいの窪みが二つ。彼は懐中電灯を持っていなかったので、スマートフォンのライトで照らした。土の壁に、道具で削ったらしい筋が横に走っていた。

森林組合の職員が来て、覗いて、すぐに離れた。「入らんでください。酸欠でいっぺんに死にます」と言った。

集落の年寄りに聞いて回ったところ、防空壕ではなく、戦時中に近くの鉱山関係で掘られた試掘坑ではないか、という話が出た。別の人は、それより古い炭鉱の跡だと言った。もう一人は、戦争のときに集落の女子どもがあそこに逃げたことがある、と言った。三つとも違う話だ。どれが本当かは分からない。分かる人はもういない。

市に報告したところ、特殊地下壕の対策事業に該当する可能性があるので調査したい、という返答が来た。調査には金がかかる。埋め戻すにも金がかかる。市有地であること、危険であること、しかし誰も住んでいないこと。この三つが揃うと、行政の中での優先順位は上がらない。彼が最後に確認したときには、入り口にトラロープが張られ、「危険 立入禁止」の板が針金で木にくくりつけられていた。それだけだ。

「不思議なもんでね」と彼は言う。「怖い話ってのは、あの穴のことだと思ってたんだよ。子どものころは。でも今になると、怖いのは穴じゃないんだ。あの山、俺が植えたんだよ。俺が植えたのに、俺のもんじゃない。学校のもんだったけど、学校はもうない。市のもんってことになってるけど、市は来ない。誰のもんでもないのに、ちゃんとそこにあって、木は勝手にでかくなって、隣の畑に倒れていく。そっちのほうがよっぽど怖いよ」

彼は今も年に二回、集落の何人かと山の入り口の道だけ刈っている。奥には入らない。

掲示板とSNSはこの話をどう転がしたか

ネット上でのこの話の広がり方には、はっきりした特徴がある。

まず、匿名掲示板の怪談スレッドに出てくる「学校林」型の投稿は、他の学校の怪談と比べて反応が独特だ。トイレの花子さんや音楽室のピアノなら「そんなの全国どこでもある」で終わるが、学校林の話には「うちの学校もあった」という具体的な追随レスがつく。しかも、追随してくる人たちが挙げる土地の名前が、東北、長野、高知、鹿児島といった、実際に学校林の保有面積が大きい地域に偏る。

話が広がるのではなく、「もともとあった話」が呼ばれて出てくる。この点で、都市伝説的な伝播とは伝わり方が違うんだよな。

次に、この話には必ず「地元民です」を名乗る書き手が現れて、話を現実に着地させにかかる。曰く、それは炭焼き窯の跡だ。曰く、あの石は山の神の碑で、うちの集落の講が祀っていた。曰く、あの穴は防空壕ではなく灌漑の水抜き坑だ。曰く、記念樹の下に埋まっているのは何期生かのタイムカプセルで、掘り出す年に卒業生が集まらなかっただけだ。

面白いのは、これらの着地が話を殺さないことだ。むしろ強化する。炭焼き窯だと分かった瞬間に「じゃあ誰がいつ焼いていたのか」という問いが立ち上がる。山の神の碑だと分かると「講はなぜ解散したのか」が残る。タイムカプセルだと分かると「なぜ誰も来なかったのか」が残る。合理的説明が一枚めくれるたびに、その下からもう一枚「分からないこと」が出てくる構造になっている。

これは学校林という対象そのものが持っている性質だ。制度としては全部説明できる。だが個々の場所については、記録が地面に追いついていない。

考察界隈でよく出てくる有力な指摘を、いくつか整理しておく。

一つは、学校林怪談の多くが「教員の態度」を怪異の核に置いている、という指摘。他の学校の怪談では、怪異は幽霊なり妖怪なりの姿を取るのに、学校林の話では最も怖い瞬間が「先生が理由を言わずに止めた」ところにある。これは学校という空間における権力の非対称性が、そのまま恐怖の形になった例だという読み方ができる。子どもは、大人が何かを知っていて自分に教えないという状態にとても敏感だ。

二つ目は、この怪談が「土地の記憶が学校という制度に接続された結果」だという指摘。日本の学校は、明治以降、地域の共有財産や神社の土地の上に建てられ、あるいはその土地を財産として取り込んできた。学校が来る前からあった土地の記憶が、学校の枠組みの中で語り直されるとき、それは「学校の怪談」の形をとる。学校林はその接続点がいちばん露骨に見える場所だ。

三つ目は、反証寄りの指摘で、これも無視できない。学校林怪談で語られる「不自然な一角」の大半は、林業の視点から見ると全然不自然じゃない、というものだ。植栽の年度が違えば木の太さは変わるし、土壌条件が悪ければそこだけ生育が悪くなって空きができる。岩が浅いところ、水が集まるところ、風の通り道には木が育たない。かかり木や倒木で林冠に穴が開けば、そこだけ光が入って下草が急に濃くなる。

地拵えのときに大きな切り株を残せば、その周りだけ植えられない。これらは全部、林業の現場では日常だ。子どもの目には「異常な一角」に見えるものが、山を仕事にしている人の目には「普通のムラ」に見える。

この反証はかなり効く。効くんだが、同時に、なぜ子どもの目にそう見えたかという問題は解けないままだ。子どもは林業を知らない。知らない子どもを、年に一度か二度、ろくに説明もせずに人工林の中に放り込むという行事設計そのものが、この怪談の生産装置になっている。

なぜこの話は怖いのか、そしてなぜ広まったのか

そもそも「学校の怪談」というジャンル自体には、はっきりした出自がある。

1990年に常光徹の『学校の怪談』が講談社KK文庫から出た。翌1991年にはポプラ社から日本民話の会・学校の怪談編集委員会編著の『学校の怪談』が出て、一大ブームになる。映画にもテレビドラマにもアニメにもなった。1993年にはミネルヴァ書房から『学校の怪談 口承文芸の展開と諸相』という学術書も出ている。

常光は大学生のころに民話に関心を持ち、休みを利用して全国を訪ね歩いて話を聞き集めていた。卒業後に中学校の社会科教員になると、語り手と出会う機会が減った。そんなとき、児童文学作家の松谷みよ子から「あなたの足元は?」と助言された。そこで放課後に自分の学校の中学生たちから話を聞いてみたら、一週間で百あまりの話が集まった。うわさ話や世間話の中でも、学校を舞台にした怪談が特に多かったという。

言っておくと、学校を舞台にした怪談自体はもっと古い。1902年ごろに熊本県の学校でトイレから手が出てきておしりをなでるという話が記録されているし、1912年には岩手県の小学校に座敷わらしが出たという話が残っている。「学校の七不思議」「学校の怖い話」という呼び方で伝わっていたものを、常光の著書が「学校の怪談」という名称で定着させた。

なぜ学校が怪談の舞台になるのか。研究者の間では長らく「抑圧説」が有力だった。管理教育と個性尊重という矛盾を抱えた近代教育の闇が怪談を生む土壌をつくったという議論だ。1980年代には学校が子どもを抑圧しているという言説が広く流布していて、その社会状況にこの説明はよく馴染んだ。

ただし、その後の実証研究では、小中学生へのアンケートをもとに反学校文化と怪談への志向の相関を調べても、明確な関係は出てこないという結果も報告されている。むしろ、怪談はコミュニケーションの道具であり、アイデンティティ形成に関わる、という読み方が提示されている。誰が言ったか分からないけれど、日常につながっている話だからこそ子どもは引きつけられる、と常光自身も述べている。

さて、そのうえで、なぜ学校林の怪談が特別に強いのか。俺の考えでは、理由は四つある。

一つ目。距離だ。学校の怪談の大半は校舎の中で起きる。トイレ、音楽室、理科室、階段、体育館。全部、毎日行ける場所だ。だから「見に行けば済む」。ところが学校林は違う。年に一度か二度しか行かない。歩いて一時間かかる。教員の許可なしには入れない。行きたくても行けない場所に、確かに学校の名前がついている。検証できない距離にある怪異は死なない。

二つ目。時間だ。学校林の木は、生徒より年上だ。五十年前の生徒が植えた木が、いまの生徒の頭の上にある。これは学校の中の他のどの物体にもない性質だ。校舎は建て替わる。机も椅子もピアノも入れ替わる。だが木は、植えた人間より長く生きる。生徒は、自分より前にここにいた誰かの労働の結果の下を歩かされる。しかもその誰かのことは何も教えられない。時間の層が可視化されているのに、層の中身が空白になっている。

ここに何かを入れたくなるのは、人間の脳の自然な動作だ。

三つ目。実物だ。他の学校の怪談は、証拠が出てこない。花子さんの遺体は出ないし、動く人体模型はただの模型だ。だが学校林では、実物が出る。炭焼き窯の跡が出る。石碑が出る。防空壕が出る。塚が出る。学校の草刈りを委託した業者が防空壕を発見したという実際のニュースがあり、倉庫を壊したら防空壕らしき穴が出たという実際のニュースがある。「怖い話をしていたら本当に出た」という展開が、この分野では現実に起こりうる。

怪談の信頼性を担保する物証が、地面の下に大量に埋まっている。

四つ目。これがいちばん大きい。誰も全体像を知らないという事実だ。

もう一度、数字を出す。全国に学校林を持つ学校が2233校。学校林の箇所数が2908。面積が16473ヘクタール。管理の頻度は「年に1回」か「数年に1回」が多い。利用できない理由の一位が「森林の管理が行き届かず、利用が困難」で668箇所、二位が「距離が遠い」で499箇所。

ある県では四割の学校が今後の方針を「未定」と答え、複数の学校が「場所が把握できない」「所有していることを初めて知った」と回答している。

つまり日本には、学校の名義になっていて、境界が不確かで、数年に一度しか人が入らず、中に何があるか誰も網羅的には把握していない森が、東京ドーム三千数百個ぶんある。

怪談というのは、たいてい「ないもの」を怖がる話だ。存在しない幽霊、実在しない女、開かない扉。だが学校林の怪談は逆で、「あるもの」を怖がっている。しかも、あることは間違いないのに、誰も中身を確認していないものを怖がっている。この構造は珍しい。そして、この構造が成立している限り、話は絶対に消えない。

誰も境界を知らない森が、まだ学校の名義で残っている

締めに、いくつか付け加えておきたいことがある。

まず、学校林はいま、ゆっくりとだが復活の芽も出ている。奈良県立山辺高校では、県立高で唯一の学校林、約70年前に植えられたヒノキ林の再生が進んでいる。適正な管理が続かず、間伐や枝打ちの実習もなくなって、十数年間手入れされずに放置されていた山だ。数十メートルに育ったヒノキの下にササやぶが生い茂り、薄暗い森になって、近くの畑の日照まで悪くしていた。

令和4年から教諭らが中心になって下草の刈り取りを始め、国土緑化推進機構の補助金を得て本格的な間伐に着手した。大型重機による伐採実習を行い、間伐材でベンチを作って地域に寄贈し、新たに植樹もした。教諭は、将来の選択肢として山や森に携わる仕事があることを知ってもらえれば、と話している。

国有林を使う新しい枠組みもある。2003年前後から本格化した「遊々の森」という制度で、学校などが森林管理署長と協定を結ぶことで、体験活動や学習活動のフィールドとして国有林を継続的に利用できる。協定期間は5年以内で更新可能、国有林の使用は無償、実施主体は立木竹の所有権を持たない。伐って売る権利がない代わりに、管理の責任も負わない。

学校分収造林が「将来伐採して収益を分ける」制度なのに対して、遊々の森は「使うだけ」の制度だ。2020年度末時点で全国151か所で協定が結ばれている。北海道の小学校や教育委員会、長野の町立小学校、岐阜や愛知の小学校など、名前を見ていくと、そこに山がある地域の学校がきちんと使っているのが分かる。

緑の少年団も生きている。1960年、昭和35年1月28日に国土緑化推進委員会が「グリーン・スカウト」の名称で結成を呼びかけたのが始まりで、1969年に「緑の少年団」と改称された。1974年に岩手県で行われた第25回全国植樹祭に初参加して全国的に注目され、1989年には全国緑の少年団連盟が設立されている。現在、47都道府県で約3000団、約31万人が参加している。

ただし学校林との結びつきで見ると、2021年調査で緑の少年団が結成されていたのは学校林保有校の20パーセント、452校。小学校では29パーセントだが、中学校は13パーセント、高等学校は0.3パーセントまで落ちる。

こうやって並べると、学校林は健全な方向に整理されつつある、という結論を書きたくなる。だが、それは違うと思う。

整理されているのは、使われている学校林だけだ。整備の補助金が取れて、教員に熱意があって、地元に森林組合があって、市町村が動く。そういう条件が揃った学校林は再生する。だが全国の学校林の大半は、その条件が揃わない。年に一回しか入らない。数年に一回しか入らない。今後の方針は「未定」。

そして、使われていない学校林は、廃止されて消えるわけでもない。廃止するには手続きがいる。所有権の整理、分収契約の解除、境界の確定、隣接地権者との立会い。全部、金と人手がかかる。だから、たいていの場合、何も起きない。何も起きないまま、木は毎年太る。倒れる。かかり木になる。土が流れる。隣の畑に水が出る。誰かが苦情を言う。役所が調べる。書類が出てくる。担当者が困る。そしてまた何年か経つ。

さっき数えた数字をもう一度出しておく。2233校、2908箇所、16473ヘクタール。

この中に、いま現在、人が一年以上入っていない場所がどれくらいあるか。誰も正確には答えられない。答えられる仕組みがない。学校林現況調査は五年ごとのアンケートで、回答するのは学校の事務担当者だ。担当者が実際に山に行って確認したうえで書いているわけじゃない。多くは、書庫にある古い書類を見て、そこに書いてある数字を書き写している。だから調査票には、学校が「所有していることを初めて知った」と書ける。

書ける調査なんだ、あれは。

そう考えると、この記事で紹介した怪談の型が、なぜ全部「見えないもの」ではなく「そこにあるもの」の話なのかが分かる。学校林の怪談は、幽霊の話じゃない。管理されていない土地の話だ。祠も、炭焼き窯も、防空壕も、記念樹も、全部そこに物理的に存在している。存在しているのに、その意味を知っている人間がいない。意味を失った物体は、放っておくと怪異になる。

というより、意味を失った物体の上に人間が新しい意味を貼るのが、怪談という営みそのものだ。

学校林の中には、明治の校長が二万本植えさせた落葉松があり、昭和十五年に皇紀二千六百年の記念として植えられた杉があり、戦後の学校植林五ヶ年計画で子どもが一人二十本ずつ植えたヒノキがある。誰も伐らないから、全部残っている。その足元に、その山がもっと前から持っていた祠と、窯の跡と、塚と、戦争中に掘られた穴がある。

上から順に、明治、昭和、戦後、そして現代の無関心が積み重なった森。誰の名義かは書類を見れば分かる。どこからどこまでかは、もう誰にも分からない。

「あそこには行くな」と言った先生は、もう学校にいない。言われた生徒は大人になった。木だけが太っている。

次にあなたが実家の近くを通ったら、学校の裏の山を見上げてみてほしい。あれ、たぶんまだ学校のものだ。

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