夏休み前の教室ってさ、五時間目あたりで空気が変わるんだよな。窓の外はセミが割れそうな音で鳴いていて、教室の後ろの掃除ロッカーだけが妙に暗い。給食のあと、誰かが小さい声で「なあ、知ってる?」と言い出す。この「知ってる?」の一言が、当時の小学校では最強のカードだった。
そいつが持っているのは、たいてい薄い文庫だ。カバーはボロボロで、角が丸くなっている。表紙にはやたら目のでかい子どもの絵。それを机の下に隠して、まわりに三人か四人が集まる。ページをめくると、たった二ページで一話が終わる。短い。短いのに、読み終わったあと廊下に出るのがちょっと嫌になる。
あの本が、日本中の小学校で同時多発的にめくられていた時期がある。ざっくり言えば一九九〇年代だ。あの十年で、日本の子どもの怖い話は根こそぎ作り替えられた。もっと正確に言うと、バラバラだったものが「揃えられた」んだよな。この記事は、その揃えられ方の話だ。
「知ってる?」が全国同時に成立した、あの異常な十年
まず、ここを押さえてほしい。学校の怖い話そのものは、九〇年代の発明じゃない。全然違う。校舎に幽霊が出るとか、理科室の人体模型が動くとか、そういう話は戦後ずっと、たぶん戦前からあった。学校という建物が生まれた瞬間から、子どもはそこを怖がっていた。
でも決定的に違うのは、それが「共通言語」じゃなかったということだ。
九〇年より前、A小学校で語られていた怖い話と、県境をまたいだB小学校の怖い話は、まったく別物だった。名前も違う、姿も違う、出る場所も違う。子どもが転校すると、自分の学校の怪談がまったく通じなくて驚く、みたいなことが普通に起きていた。怪談って、要するにその土地その校舎のローカルな持ち物だったわけだ。
それが九〇年代の途中で、恐ろしい勢いで統一される。花子さんは全国どこでも「三階の女子トイレの三番目、おかっぱ、赤いスカート」になり、テケテケは全国どこでも「上半身だけの女が肘で追いかけてくる」になった。北海道の子と沖縄の子が初対面でも同じ話ができる。これ、よく考えるとかなり異様なことなんだよ。口伝えで広がるはずのものが、口伝えの速度を思いっきり超えている。
なんでそうなったか。答えはわりとはっきりしている。本と、映画と、テレビと、ゲームと、雑誌の投稿欄が、同時に同じキャラクターを配りはじめたからだ。子どもは自分の学校の怪談を語っているつもりで、実は全国共通の台本を読んでいた。標準化ってやつだ。工業製品みたいな言い方で申し訳ないけど、実際そういうことが起きた。
で、この標準化には明確な起点がある。そこから行こう。
一九九〇年十一月、講談社の棚に爆弾が置かれた
すべての発火点は、一冊の児童書だ。
常光徹『学校の怪談』。講談社KK文庫。刊行は一九九〇年十一月。挿絵は楢喜八。この組み合わせがとにかく強かった。
まず判型がいい。KK文庫というのは子ども向けの小さい文庫で、ランドセルの隙間に入る。値段も子どもの小遣いで届く。学校に持ってきても没収されにくいサイズ感だ。これ、地味だけどめちゃくちゃデカい。ハードカバーの立派な民話集だったら、あんな広がり方はしていない。
そして中身。一話が短い。ページを開いてすぐ始まって、すぐオチる。日直の日誌みたいな淡々とした文章で、余計な説明をしない。「これは私の友だちの話だが」みたいな距離感で書いてあって、フィクションともノンフィクションともつかない。この「つかなさ」が効いた。子どもは読み終わったあと、それを自分の話として語り直せるんだよな。
楢喜八の挿絵もヤバかった。あの絵、上手いとか下手とかの問題じゃなくて、なんかこう、正しく気持ち悪い。白目のバランスとか、人物の輪郭のよじれ方とか、子どもの脳に直接刺さる種類の不気味さがあった。テキストだけならここまで残っていないと思う。あの絵とセットで記憶に焼かれている人、たぶん相当いる。
このシリーズは一気に版を重ねた。第一期だけで全九巻、一九九〇年から一九九七年にかけて出続けている。その後も「みんなの学校の怪談」が一九九五年十二月に出て、二〇〇五年からは「新・学校の怪談」、二〇〇九年以降は「K峠のうわさ」「百円のビデオ」といった特別編集版、二〇一〇年代にはアルファベットを冠したシリーズ、そして二〇一五年七月に集大成の「ベストセレクション」。
二十五年間、途切れずに出続けたシリーズなんだよな。児童書としては化け物みたいな寿命だ。
学校の図書室に入ると、この本は常に貸出中だった。返却されたそばから次の予約が入る。図書委員が「またこれか」という顔をする。書店の児童書コーナーには、平積みの上に棚差しがずらっと並んで、背表紙の数字が増えていく。夏になると入口のワゴンに移動して、扇風機の風でカバーがめくれていた。あの光景、覚えている人多いと思う。
民俗学者が「子ども向け」を書いたことの、とんでもない意味
ここで著者の話をしたい。常光徹という人は、ただの児童文学作家じゃない。民俗学者だ。しかも、もともと中学校の教員をやっていた人で、生徒から聞いた話を延々と採集していた。のちに国立歴史民俗博物館に籍を置く。つまり、フィールドワークの人なんだよな。
その証拠に、児童書と並行して学術書も出している。『学校の怪談 口承文芸の展開と諸相』、ミネルヴァ書房から一九九三年。のちに角川ソフィア文庫で『学校の怪談 口承文芸の研究I』として読めるようになる本だ。同じ素材で、片方は小学生向け、片方は研究者向けを書いている。この二本立てが、後々ものすごく効いてくる。
なにが効いたか。学校の怪談に「学問のお墨付き」がついたことだ。
それまで、子どもの怖い話なんて大人にとってはゴミだった。くだらない、嘘つき、そんなこと言っていないで勉強しろ。それが標準的な反応だった。ところが民俗学者が真面目に採集して、口承文芸として分析して、本にした。すると急に、これは日本の民俗のひとつなんですよ、という顔ができるようになる。教育的な言い訳が立つ。
この言い訳の存在は、めちゃくちゃデカい。だって、学校の図書室に怪談本を入れるかどうか判断するのは司書や教員だからだ。「オカルト本」なら入らない。でも「民俗学に基づく口承文芸の紹介」なら入る。実際、この本は全国の学校図書館に大量に入った。行政のフィルターを通り抜けたんだよな。
もっと言うと、この本には「あなたの学校の話も教えてください」という構えがあった。読者が持っている話を吸い上げて、次の巻に載せる。この循環がとんでもない装置になる。子どもは自分の学校のローカルな話を投稿する。それが本になって全国に配られる。すると別の学校の子がそれを読んで、自分の学校の話として語り出す。翌年、その子が「うちの学校にはこんな話がある」と投稿する。
……気づくよね。これ、伝承のフィードバックループだ。もともとローカルだったものが、いったん中央に吸い上げられて、標準版として全国に再配布される。図書館の本という形で。そして再びローカルに定着する。三巡もすれば、日本中の学校が同じ話を「うちの学校の話」として持つことになる。
書き手が意図してやったことじゃない。民俗学者としては、消えゆく口承を記録しているつもりだったはずだ。でも記録という行為そのものが、対象を変質させた。観察が対象を変えるやつだ。学校の怪談の標準化は、ここから始まっている。
なお、三浦佑之による書評ではこの著作が口承文芸研究として評価される一方、子どもの側の視点や学校という枠組みの文化的な意味づけについて、もっと踏み込んだ論証が要るんじゃないかという趣旨の指摘もされている。当時から、この本の位置づけは一筋縄じゃなかったということだ。
一九九五年七月八日、旧校舎が銀幕に建った
本が土壌を作った。そこに火をつけたのが映画だ。
『学校の怪談』、一九九五年七月八日公開。監督は平山秀幸、脚本は奥寺佐渡子。東宝配給。夏休み映画としてぶち込まれた。
内容はこうだ。小学二年生の美夏が忘れ物を取りに学校へ戻る。取り壊し予定の旧校舎に誘い込まれて行方不明になる。姉の亜樹と友だちが助けに行くけど、校舎に閉じ込められて怪奇現象に襲われる。シンプルだ。シンプルで、完璧だった。
なにが完璧かというと、舞台設定だ。「取り壊し予定の旧校舎」。これ、当時の日本中の小学校に実在した。木造で、廊下がきしんで、使われていない教室に椅子が積んである、あの棟。子どもは全員それを知っている。映画のなかの旧校舎と、自分の学校の旧校舎が、脳内でつながる。帰り道でもう怖い。
そして映画の怖がらせ方が、意外に容赦なかった。子ども向けなのに、暗い。人体模型は普通に走るし、ピアノは勝手に鳴るし、水道からは大量に何かが出る。でも同時に、子どもたちが知恵と勇気で切り抜けるジュブナイル冒険譚の骨格がしっかりある。怖いけど、ちゃんと帰ってこられる。この配合が絶妙だった。
配給収入は十五億円。一九九五年度の邦画で四位。夏休み映画として完全に当たった。
だから当然、続く。翌年の『学校の怪談2』は一九九六年七月二十日公開、平山秀幸続投、脚本も奥寺佐渡子。田舎の小学校の肝試しで、四月四日の四時四十四分にまつわる怪異が起きる話だ。配給収入は十六億円、この年の邦画二位。一作目を上回った。岸田今日子がブルーリボン賞の助演女優賞を獲っている。子ども向けホラーとして始まったシリーズが、映画賞の対象になるところまで来たわけだ。
三作目は監督が交代する。『学校の怪談3』、一九九七年七月十九日公開、監督は金子修介、脚本はしまだみちる。運動会で転んだ生徒が鏡の世界に吸い込まれるという、これはこれで独特の一本だ。配給収入十一億五千万円、邦画五位。数字は落ちたけど、まだ十分に大作の域にいる。
四作目『学校の怪談4』は一九九九年七月十日公開、平山秀幸が戻ってきた。台風の日に海から死者が帰ってくるという噂が現実になり、町の子どもたちが消えていく。配給収入七億一千万円、邦画十位。ここでシリーズは一区切りになる。
この四本の数字の推移が、そのままブームの体温を表している。九五年に着火して、九六年にピーク、九七年から緩やかに冷え、九九年には熱が抜けている。四年で山を越えた。ブームってそういうもんだよな。
ついでに言うと、花子さん単体の映画も走っている。松竹版の『トイレの花子さん』が一九九五年に公開されて配給収入四億五千万円、東映版の『新・トイレの花子さん』が一九九八年。しかも解釈が真逆で、松竹版の花子さんは子どもを守ってくれる存在寄り、東映版は日本人形の悪霊寄りだった。同じキャラクターが、同じ数年のあいだに、まったく違う人格で全国に配られている。
この「同一キャラの多重解釈が同時流通する」状態こそ、キャラクターが本物のブームに乗った証拠なんだよ。
木曜の夜七時三十分、テレビが本気で子どもを怖がらせにきた
映画は夏だけだ。でもテレビは毎週来る。
『木曜の怪談』。フジテレビ系、一九九五年から一九九七年。最初は木曜の十九時三十分から二十時五十四分という一時間半枠、のちに十九時五十四分からの一時間に縮小された。ここ、大事なんだけど、十九時三十分というのは完全にゴールデンタイムなんだよな。家族が晩飯を食っている時間だ。そこに怪談を毎週流すという編成が、そもそも異常だ。
番組はオムニバス形式で、一回に二本か三本のドラマをやる。なかでも人気だったのが『怪奇倶楽部』。滝沢秀明の初主演作で、今井翼も出ていた。ふたりは後にタッキーと翼のユニットとしてデビューする。ほかにも『MMR未確認飛行物体』『悪霊学園』『妖怪新聞』といったシリーズが並んだ。
この枠の巧妙さは、怪談をアイドルの入口にしたことだ。怖いものを見たい子どもと、かっこいい子を見たい子どもの両方を、同じ時間に捕まえた。翌日の教室では、昨日のあれ見た?という会話が確実に発生する。テレビの怪談が、そのまま学校の会話の燃料になる。
この時期、テレビの怪談は一本だけじゃない。心霊体験の再現ドラマ枠、投稿された怖い話を映像化する番組、夏になると必ず組まれる特番。番組表の隅々に怪談が染み込んでいた。子どもは意識しなくても、週に何度も怪異のフォーマットを浴びていたわけだ。
浴び続けるとどうなるか。話の「型」が体に入る。前フリがあって、変な音がして、振り返ると何かがいて、翌日確認しに行くと痕跡がある。この構成が全国の子どもに刷り込まれる。すると、自分で怖い話を作るときも自然にその型で作る。個人が語る話まで、テレビの文法に寄っていく。ここも標準化の一部だ。
スーパーファミコンのカセットに閉じ込められた放課後
ゲームの話をしないと片手落ちになる。
『学校であった怖い話』。一九九五年八月四日発売、スーパーファミコン、バンプレスト。サウンドノベル形式で、主人公が放課後の校舎で六人の語り手から順に話を聞いていく。選択肢によって話が分岐して、単純計算で六人かける七話。隠しシナリオを含めると五十以上のシナリオがあるという、とんでもない物量のゲームだった。翌一九九六年にはプレイステーション版の『学校であった怖い話S』が出ている。
このゲームが面白いのは、タイトルに反して幽霊の話ばかりじゃないところだ。むしろ生きている人間の狂気を正面から扱う。校内の噂、集団の空気、いじめ、教師の裏側。子ども向けの皮をかぶった、かなり容赦のない話が入っている。ファミ通のクロスレビューは四十点満点で二十五点。数字だけ見れば飛び抜けていない。でも、遊んだ人間の記憶への残り方が異常だった。
そして、演出。登場人物に実写の人物写真を使ったことで有名なんだけど、これがものすごく効いた。ドット絵のキャラなら「ゲームの絵」で済む。実写だと「知らない人がこっち見てる」になる。ブラウン管の前で夜中にひとりでこれを進めるのは、けっこうな苦行だった。
このゲームは後に「アパシー」というシリーズ名で継続していく。舞台の鳴神学園が固有の宇宙として育っていって、二〇〇〇年代以降もファンが張り付き続けた。九〇年代の学校怪談ブームが生んだもののうち、いちばんしぶとく生き残った枝のひとつだと思う。
ゲームが果たした役割は、怪談を「聞くもの」から「進めるもの」に変えたことだ。本や映画やテレビは受け身でいい。でもゲームは自分で選択する。誰から話を聞くかを自分で決める。この能動性が、怪談との距離をぐっと縮めた。放課後の校舎という舞台を、自分の意思で歩く経験を、家のなかで得られるようになったわけだ。
二〇〇〇年秋、アニメが怪異を「図鑑」にしてしまった
ブームの締めくくりに近い位置にあるのが、テレビアニメだ。
『学校の怪談』、二〇〇〇年十月二十二日から二〇〇一年三月二十五日まで、フジテレビ系で放送。制作はスタジオぴえろ。全十九話で、これには総集編二話と未放送回一話が含まれる。主人公は小学五年生の宮ノ下さつきと、その弟の敬一郎。仲間と一緒に、封印が解けて暴れ出した妖怪を「霊眠」させていくという構成だ。
平均視聴率は十二・二パーセント、最高で十四・〇パーセント。深夜アニメじゃなくて夕方の一般向け枠で、この数字は堂々たるものだ。
で、このアニメが決定的だったのは、怪異を一話一体の「敵」にしたことなんだよな。天邪鬼、トイレの花子さん、赤紙青紙、ピアノお化け、ババサレ、うつしみ、穴まねき。毎週ひとつ、怪異が出てきて、名前があって、性質があって、弱点があって、決められた手順で封じられる。
これはもう、完全に怪異のカタログ化だ。妖怪図鑑の作法である。
ここで、伝承としての学校の怪談が持っていた本質的なあいまいさが、きれいに削ぎ落とされる。本来、噂というのは輪郭がぼやけているから怖い。誰が見たのか分からない、何なのか分からない、どうすれば助かるのか分からない。その不定形さが恐怖の中身だった。
でもアニメは、分からないままでは一話を終われない。だから名前をつけ、姿を固定し、対処法を用意する。結果として、怪異は「倒せるもの」になる。安心して怖がれるコンテンツに変換される。
これを堕落だと言う気はない。むしろ、あの時点で必然だったと思う。四年も五年も同じ題材を回してくると、素材は消費される。ぼんやりした噂のままでは商品として持たない。名前と設定を与えて、キャラクターにするしかない。ブームの後期に起きることって、だいたいこれだ。
ただ、結果として起きたことは押さえておきたい。九〇年代の終わりまでに、日本の学校怪談は「名前と姿と対処法がセットになったキャラクターの集合」になった。花子さんもテケテケも人体模型も、全部その体系に組み込まれた。かつて地域ごとにバラバラだったものが、全国共通の図鑑に収まった。標準化は、ここで完成する。
実は本当の主戦場はハガキだった
ここまでメジャーな媒体の話をしてきたけど、実は下から支えていた層がある。投稿だ。
九〇年代の子どもは、とにかくハガキを出していた。学年誌の投稿欄、少年誌のコーナー、オカルト雑誌の体験談募集。名前と学校名と学年が載るのが誇らしくて、みんなせっせと出していた。今のSNSの投稿みたいなノリだけど、決定的に違うのは編集部というフィルターを通ることだ。
投稿文化の土台は、実は八〇年代にできている。ホラー漫画誌の『ハロウィン』は一九八五年創刊で、翌年の一九八六年五月号ではもう読者投稿の怪談が漫画化されている。学校の七不思議を特集して、学校がらみの投稿を積極的に集めていた。占い雑誌『My Birthday』の増刊『わたしは幽霊を見た!』みたいな別冊もあった。
『ほんとにあった怖い話』は読者と漫画家と芸能人の体験談を並べ続けて、一九九一年にはビデオ版まで作られている。
廣田龍平の見立てによれば、この投稿文化の蓄積こそが学校怪談ブームの基盤だ。八〇年代を通じて花子さんの投稿が編集部に溜まっていって、それが一九九〇年前後に大衆媒体へ一気に浸透していく。土壌は先にできていたんだよな。
投稿がどう作用したかを具体的に言おう。ある子が自分の学校の話を書いて送る。編集部が採用する。ただし、そのまま載るわけじゃない。読み物として整えられる。長すぎる部分は切られ、分かりにくい前提は説明が足され、オチが弱ければ強化される。地域名の固有性は薄められることもある。つまり編集という工程で、話が磨かれて汎用化される。
そうやって磨かれた話が誌面に載って、全国の同学年の子どもが読む。読んだ子は、それを自分の学校の話として語る。次の号に、少し形の変わった同じ話が別の県から投稿される。編集部はそれを採用する。また磨かれる。また配られる。
これが何巡もするうちに、話は最適化されていく。生き残るのは、どこの学校でも成立して、短く語れて、オチが効く型だ。地域固有のディテールは邪魔だから落ちる。結果として、全国のどこでも通用する「最強に語りやすいバージョン」だけが残る。
進化みたいなもんだよな。編集部と読者が意図せず共同でやっていた、話の品種改良。学校の怪談が全国で同じ形になった直接の原因は、映画でもテレビでもなく、この地味な循環だと思っている。
しかも投稿には、映画やテレビにない強みがあった。「実話っぽさ」だ。誌面に県名と学年が載っている。同じ年ごろの実在の子どもが体験したことになっている。これのリアリティは、プロが作った映画より強い。子どもにとっては、隣のクラスの誰かが体験したのとほぼ同じ重みで届く。
そしてもうひとつ、忘れちゃいけない伝播経路がある。ラジオだ。吉田悠軌と大槻ケンヂの対談で、深夜ラジオが怪談の全国流通に果たした役割が指摘されている。稲川淳二がオールナイトニッポンで語った「赤い半纏」が一九七七年から七八年にかけて女子大生のあいだに一気に広まった、みたいな話だ。深夜放送で語られたネタが、翌日には全国の学校で共有される。この回路は七〇年代からずっと生きていた。
ただ、ラジオはアーカイブが残らないから検証が難しい。学校の怪談の伝播を解き明かす鍵はラジオにあるはずなのに、そこがいちばん記録の空白になっている。
花子さんは、もともと「花子さん」じゃなかった
さて、いよいよ標準化の実例だ。花子さんから行く。
いま花子さんと言えば、イメージは一つに固まっている。三階の女子トイレ、奥から三番目の個室、ノックして「花子さん、遊びましょ」と呼ぶ、おかっぱ頭で赤い吊りスカート。全国どこでもこれだ。
でも、ブーム前はこんなに揃っていなかった。
まず名前が違う。長野では「ゆきこさん」、千葉では「みーちゃん」と呼ばれていた記録がある。名前どころか性別も設定も違うパターンがあって、横浜では男子トイレに「ヨースケさん」が出るという話があった。兵庫では個室ごとに家族が割り当てられていて、一番目に父、二番目に母、みたいな家族構成になっている例まである。極めつけは山形で、記録されているのは頭が三つある体長三メートルの大トカゲだ。もはや別の生き物だろ。
つまりブーム前の花子さんは、「学校のトイレの特定の個室に、呼びかけると応じる何かがいる」という枠組みだけを共有した、無数のローカル変種の集合だった。名前も姿も、土地ごとに好き勝手だったわけだ。
じゃあ、いつから花子さんという名前が主導権を握ったのか。ここが面白いところで、記録に残る「花子さん」の初出はかなり古い。一九八三年の『岩手の俗信 第六集』に、便所に行って右から三番目に「花子さん」と言うと中から「ハイ」と返ってくる、という記述がある。さらに古い言及として、一九七九年に出た多摩川流域の水質調査の報告書に、中学生の作文の形で顔を出しているらしい。
環境調査の報告書に花子さんが紛れ込んでいるって、それ自体が最高に怪談っぽくて笑うんだけど。
こうした記録から見て、七〇年代の終わりまでには花子さんは既に相当広い範囲に存在していた。数多くの児童や教職員が知っていたはずだ、という見方が有力だ。
決定的な転機は一九九〇年前後にくる。石丸元章が「学校霊花子」という呼び方で押し出したのが大きかったとされている。ここから、たくさんある名前のうち「花子」だけが選ばれて、他の名前が消えていく。一九九〇年代の初めには大衆週刊誌でも盛んに取り上げられるようになった。それ以前は子ども向け媒体のなかだけの存在だったのが、大人の目に触れる場所に出てきたわけだ。
ここで起きたことを整理するとこうだ。もともと数十通りあったローカル変種のなかから、たまたま名前の響きがよくて、たまたま媒体に取り上げられた一種類が「代表」に選ばれた。代表が全国に配られる。配られた先で、地元の変種を駆逐する。ゆきこさんも、みーちゃんも、ヨースケさんも、山形の大トカゲも、花子さんに上書きされて消えた。
由来についても補足しておくと、民俗学の側からは江戸期から昭和初期の厠神信仰との接続を指摘する説がある。便所に人形や花を供えていた習慣があって、赤や白の配色や「花子」という名前がそこから来ているんじゃないか、という筋だ。これが正しいかどうかは断定できない。ただ、そういう長い時間のレイヤーが下に敷かれている可能性がある、という話は面白い。
そして九〇年代のメディア展開で、花子さんは決定的に変質する。守ってくれる存在として描かれ、日本人形の悪霊としても描かれ、アニメでは一話で封印される怪異のひとつになった。もう、トイレのドアの向こうの「よく分からない何か」ではない。設定を持ったキャラクターだ。
テケテケという名前は、たくさんあった名前のひとつでしかなかった
もう一体、標準化の分かりやすい標本がテケテケだ。
いま語られるテケテケは、下半身がなくて、上半身だけで肘を使って地面を叩きながら、テケテケと音を立てて猛スピードで追いかけてくる女、というやつだ。追いつかれると同じ姿にされる。だいたいこれで固定されている。
ところが、こいつも元は名前がバラバラだった。
松山ひろしの『呪いの都市伝説 カシマさんを追う』によれば、一九八〇年に沖縄で語られていた記録がある。しかも、その時点の話は少年だった。公園で遊ぶ子どもたちの前に上半身だけの少年が現れて、テケテケと言いながら近づいてくる。今の定番と、けっこう違う。
そして名前だ。常光徹のシリーズの十三巻には、各地からの投稿として鹿児島の「パタパタさん」、滋賀の「コトコトさん」、神奈川の「カタカタ」が並んで載っている。ほかに「ひじかけババア」「肘子さん」といった呼び方もあった。
面白いのは、一九九六年の調査で年代別に呼び名が違っていたという話だ。大人は「肘かけババア」、高校生は「肘かけ女」、小中学生は「テケテケ」。つまり同じ怪異が、世代ごとに違う名前で記憶されていた。上の世代は姿を名前にしていて、下の世代は音を名前にしている。
これ、標準化の進行がそのまま断面図で見えているようなもんだ。年長世代には統一名がなくて姿の描写で呼ぶしかない。若い世代はメディアで配られた「テケテケ」という統一名を持っている。九〇年代のメディア展開のあいだに、パタパタもコトコトもカタカタも肘かけババアも、全部テケテケに吸収された。
で、名前が一本化されると、話も一本化されるんだよな。名前が違えば話も少しずつ違っていた。パタパタさんにはパタパタさんの語り口があったはずだ。それが「テケテケ」に統一されると、テケテケの標準ストーリー、つまり線路の事故で下半身を失った女という起源譚がくっついて、全国の子どもがそれを唱えるようになる。細部の多様性が、まるごと落ちる。
失われたものは、けっこう大きい。土地ごとの語りには、その土地の事情が反映されていたはずなんだよ。近所の踏切、地元の事故、あの角の暗さ。そういう手触りが、全国標準版になった瞬間に消える。代わりに手に入ったのは、日本中どこでも通じる共通言語だ。
得と損の両方がある。どっちが良かったとは言わない。ただ、あの十年で確実に何かが均されたことは事実だ。
教室にいた側の証言を三つ、じっくり聞いてみる
数字と刊行年だけ並べても、あの時代の質感は伝わらない。当時教室にいた側が、どういう体験をしていたのか。ネットに散らばっている回想や、同世代の語りに何度も出てくるパターンから、代表的な型を三つ再構成してみる。特定の誰かの話というより、あの時期の子どもが確実に通った道の話として読んでほしい。
ひとつめは、図書室の争奪戦の記憶だ。
学校の図書室に例の文庫が入る。最初は一冊。すぐに足りなくなって、司書の先生が三冊追加する。それでも足りない。貸出カードの裏が名前で真っ黒になって、新しいカードが貼り足される。休み時間の図書室に走っていって、棚の定位置が空っぽなのを見て舌打ちする。返却された瞬間を狙って張り込む子まで出てくる。図書委員が「予約は口頭では受け付けません」と黒板に書く事態になる。
で、やっと借りられた子は、教室でヒーローになる。休み時間、そいつの机に人が集まる。読み聞かせが始まる。上手いやつは声色を変えて、オチの直前で溜める。読み終わったあと、誰かが「これ、うちの学校にもあるよ」と言い出す。すると全員がその話を知っていることになる。実際には、その本を読んだ全員が今この瞬間に知ったばかりなのに。この、記憶が遡って書き換えられる感じ。
あれが伝承の生まれる瞬間だったんだと、今なら分かる。
ふたつめは、トイレに行けなくなった子の話だ。
この時期、学校のトイレに行けなくなる子が本当に出た。原因ははっきりしている。当時の小学校のトイレは、今と全然違ったんだ。多くが和式で、床がタイルで、いつも湿っていて、電気が薄暗い。窓が高いところに一つだけあって、日中でも影が濃い。掃除の水が流れて、換気が悪くて、独特の匂いがする。あそこは元から怖い。設計思想が完全に怖い側に振れていた。
そこに花子さんの話が入る。三番目の個室を数えるという儀式が加わる。すると、行くたびに数えてしまう。数えるつもりがなくても数えている。一、二、三。三番目のドアが閉まっているとアウトだ。息を止めて通り過ぎる。休み時間ごとに友だちを連れていく。ひとりで行くのが無理になる。
きつかったのは、五時間目の途中で行きたくなったときだ。廊下に誰もいない時間帯。あの静けさのなかでトイレに向かうのは、小学生には相当なミッションだった。走って行って、いちばん手前の個室だけ使って、手も洗わずに走って帰る。あの全力疾走の記憶を持っている人、めちゃくちゃ多いはずだ。
そして家では言えない。親に「トイレが怖い」なんて言ったら笑われるか、心配されるかのどちらかで、どっちも嫌だ。だから黙って、自分のなかで処理する。この「大人に言えない」という部分が、実は怪談の核心だったりする。
みっつめは、夏休みの映画館の記憶だ。
夏休みに入って、親か祖父母に連れられて映画館に行く。当時の映画館はまだ入れ替え制じゃないところも多くて、冷房がガンガンに効いていて、ロビーは湿った匂いがした。パンフレットを買ってもらって、劇場に入ると、席が子どもだらけだ。同じ学校の顔も何人かいる。
本編が始まって、旧校舎が映る。ここで、場内の空気が変わる。だってあれ、自分の学校とほぼ同じなんだ。木の廊下、飴色の階段の手すり、使われていない教室、裏庭の焼却炉。スクリーンのなかの建物と、自分の通っている建物の区別が、だんだん怪しくなる。
怖い場面では、あちこちで悲鳴が上がる。上映中に子どもがしゃべるのは今なら怒られるけど、あの頃の子ども向け上映はそんなもんだった。むしろ全員で怖がるのが正しい作法だった。
問題は帰り道だ。映画館の外に出たら、まだ明るい。この落差が最高だった。明るいのに怖い。頭のなかでさっきの旧校舎が再生され続けている。そして翌日、学校に行く。旧校舎の前を通る。誰も何も言わないけど、全員が同じことを考えているのが分かる。二学期の初日、あの棟の前を通るときの、あの妙な緊張感。あれは映画館から持ち帰ってきたものだった。
この三つに共通しているのは、怪談が単体で怖かったんじゃなくて、日常の空間と結びついたときに怖かった、ということだ。図書室、トイレ、旧校舎。全部、毎日いる場所だ。そこに物語が上書きされる。だから逃げられない。学校の怪談の本当の強度は、この上書きにあった。
ブームを冷ややかに見ていた人たちの言い分
さて、ここまでブームの熱を書いてきたけど、当然それだけじゃない。批判もあったし、研究者の視線もあった。
まず、いちばんストレートな批判。「これは子どもの伝承じゃなくて、出版社が作った商品だ」というやつだ。
この指摘には根拠がある。実際、あれだけの規模で本が売れて、映画が四本作られて、テレビが枠を組んで、ゲームが出て、アニメが放送されたわけだ。子どもが自然に語り継いだものが、勝手にそうなるはずがない。編集者がいて、プロデューサーがいて、企画会議があった。子どもの口伝えという「素材」を、大人が商品に加工したんじゃないのか、と。
しかも標準化の結果として、地域固有の伝承が実際に失われている。ゆきこさんもみーちゃんもパタパタさんも、いなくなった。これを文化の破壊だと言う人がいても、まあ、おかしくはない。
ただ、この批判にはちょっと単純すぎるところもある。純粋な子ども文化があって、それを大人の商業が汚した、という図式だ。この図式、綺麗すぎるんだよな。
ここに切り込んだのが吉岡一志の研究だ。教育社会学の側から学校の怪談を扱った人で、「子ども文化論再考」という論文で、学校の怪談をめぐる教師と子どもの関係を検討している。彼の関心は「怖い話が子どもにとってどういう意味を持つのか」というところにあった。
面白いのは、怪談を子どもだけの純粋な文化だと見なす発想そのものを問い直している点だ。学校の怪談は、教師と子どもの相互作用のなかで編まれてきたものであって、大人がいっさい関与しない子どもだけの世界なんてものは、そもそも存在しなかった。教師が語る、子どもが受け取る、子どもが変形する、また教師が耳にする。この編み合わせのなかで怪談は動いていた。
そして吉岡が指摘する、たぶんいちばん重い話がこれだ。二〇〇〇年前後を境に、教師が怪談を語らなくなった。自主規制だ。怖がらせるのはよくない、不安を煽るのはよくない、という判断が働くようになった。一方で子どもは、仲間内だけで怪談を共有するようになる。
結果として何が起きたか。教師と子どものあいだに分断線が引かれた。関係が「教育する側と される側」だけに痩せてしまって、雑談を通じた世代間のコミュニケーションが失われた。怪談って、要は雑談のなかでいちばん盛り上がるジャンルなんだよ。それが会話のメニューから消えると、大人と子どもが対等にダベる回路そのものが細る。
彼はトイレ怪談の機能についても指摘している。子どもは「特定の個室に入らなければ大丈夫」というルールを設けることで、恐怖の量を自分で調整していた。全部怖いんじゃなくて、条件付きで怖い。だから制御できる。そして仲間と一緒にその条件を確かめに行くことが、試練を越えて結束を確認する通過儀礼として働いていた。
これを踏まえると、九〇年代のブームの評価はもうちょっと複雑になる。商業化は確かに標準化を招いた。でも同時に、標準化されたおかげで、日本中の子どもが同じ通過儀礼を共有できたとも言える。転校しても話が通じる。学年が違っても通じる。共通言語というのは、それ自体が価値だ。
失われたローカルな多様性と、獲得された全国的な共通性。どっちも本当に起きたことだ。片方だけ見て断罪するのは、たぶん間違っている。
校舎が古かった、という身も蓋もない話
もうひとつ、あんまり語られないけど絶対に外せない要素がある。物理的な条件だ。
九〇年代の日本の小学校には、古い校舎が大量にあった。戦後の第一次ベビーブームに合わせて建てられた校舎が、そのまま使われ続けていたわけだ。木造の棟が残っている学校も普通にあった。木の床、きしむ階段、暗い廊下、天井の高い体育館、ボイラー室、焼却炉。
そして人口動態が効いてくる。少子化だ。子どもの数が減っていくと、教室が余る。使われない教室が出てくる。この「余裕教室」の存在が、怪談にとって最高の栄養だった。だって、誰も使っていない教室が学校のなかにあるんだぜ。なかには机が積んであって、鍵がかかっていて、窓から中が見える。ここに何もないと考えるほうが不自然だ。
さらに、統廃合と改築が進行していた。「取り壊し予定の旧校舎」というのは、映画のなかの設定じゃなくて、当時の日本の学校の現実だった。使われなくなった棟が、解体まで数年放置される。渡り廊下で本校舎とつながっていて、行こうと思えば行ける。行っちゃいけないことになっている。この配置が、子どもに何を想像させるかは説明するまでもない。
トイレの話もさっき書いた通りだ。和式で、タイル張りで、湿っていて、暗い。今の学校のトイレは、乾式で、洋式で、明るい色で、清潔だ。悪いけど、あそこに花子さんは棲めない。物件として不向きすぎる。
つまり、九〇年代の学校怪談ブームは、ちょうど「怪談が棲める校舎」が大量にあった最後の時期に起きている。あと十年遅かったら、これほど爆発しなかったんじゃないか。子どもたちがメディアから受け取った物語を投影する先が、目の前に実物としてあった。この一致がデカい。
出版事情も見ておこう。九〇年代前半は、児童書と雑誌がまだ元気だった時代だ。学年誌は各学年ごとに出ていて、部数もあった。少年漫画誌は全盛期を過ぎつつあったけど、それでも巨大だった。子どもに紙媒体でリーチする経路が、太く残っていた最後の時期でもある。
このあと、この経路は急速に細っていく。学年誌は順に休刊していって、上の学年から先に消えた。子どもの数が減り、紙が読まれなくなり、投稿ハガキという文化そのものが消滅する。九〇年代のブームは、その経路がまだ生きている最後のタイミングで起きたわけだ。
なぜ、よりによってあの時期だったのか
ここまでの材料を並べると、答えが見えてくる。九〇年代半ばに学校の怪談が爆発したのは、複数の条件がたまたま同じ時期に重なったからだ。
土台の第一は、八〇年代を通じて蓄積された投稿文化だ。ホラー雑誌やオカルト雑誌の読者投稿欄に、学校がらみの怖い話が何年も溜まっていた。素材はすでに大量に集まっていた状態だった。
第二に、その素材を学問の言葉で整理して、児童書という形で子どもに届けられる書き手がいた。教員経験のある民俗学者が、採集と再話の両方をやった。この人がいなかったら、素材は素材のまま散らばっていたはずだ。
第三に、児童向けの安価な文庫という流通形態があった。学校の図書室にも書店の棚にも入れて、子どもが自分の金で買えるサイズと値段。
第四に、映画会社が夏休み興行の目玉としてこれに賭けた。九〇年代半ばの邦画は、大作の当て方を模索していた時期だ。そこに「子どもも親も一緒に行けるホラー」というポジションが空いていた。
第五に、テレビがゴールデンタイムに怪談枠を作った。しかもアイドルを乗せた。怖いものとかっこいいものを一緒に届けた。
第六に、ゲーム機の性能とサウンドノベルというジャンルが、ちょうど噛み合った。文字と音と静止画だけで恐怖を作る形式が成立していた。
第七に、物理的な学校空間がまだ古かった。旧校舎も余裕教室も暗いトイレも実在していた。
第八に、これが意外と大きいんだけど、九〇年代半ばの日本の空気そのものがある。バブルが終わって、先行きが不透明で、大きな事件が続いた時期だ。世紀末という言葉が現実味を持って流通していた。大人の世界が不安定なとき、子どもの世界にも不安が染み出す。オカルトが力を持つのは、いつもそういう時期だ。第二次オカルトブームと呼ばれるのも、そういう文脈だよな。
この八つが同時に成立した年が、たまたま一九九五年前後だった。どれか一つでも欠けていたら、こうはなっていない。歴史って、だいたいそういう偶然の噛み合わせでできている。
令和の学校に、花子さんはまだ住んでいるのか
じゃあ今どうなっているのか。二〇二〇年代の話だ。
まず、学校の怪談が完全に消えたわけじゃない。今の子どもも怖い話はする。それは確かだ。ただ、質が変わった。
いちばん大きな変化は、供給源がネットになったことだ。今の子どもが持ってくる怖い話は、学校で生まれたものじゃなくて、ネットで仕入れたものが多い。動画で見た話、まとめで読んだ話、実況を見た話。だから、話の出どころが学校の外にある。
これが何を意味するか。「うちの学校の話」という感覚が、成立しにくくなっている。ネットの怪談は最初から全国区で、しかも世界共通のやつもある。特定の校舎に紐づかない。かつての学校の怪談は、あの階段、あの音楽室、あの鏡と結びついていたから怖かった。今の怪談は、どこの学校でもない場所で起きる。
次に、校舎が変わった。改築が進んで、明るくて安全な建物になった。旧校舎はほとんど消えた。トイレは洋式化されて乾式になって、清潔で明るい。理科室の人体模型も、置きっぱなしにしなくなった。要するに、怪異の物件がなくなった。
さらに、時間が変わった。放課後に子どもだけで学校に残る時間が減った。安全管理の要請で、下校時刻は厳しくなり、校門は施錠され、外部の出入りは管理される。これは犯罪から子どもを守るために必要なことで、誰も文句は言えない。でも副作用として、「大人の目がない学校」という時間帯が消えた。学校の怪談は、あの隙間の時間に育つものだった。
それから、吉岡が指摘した分断線だ。教師が怪談を語らなくなった。かつては先生が「この学校には昔こういう話があってな」と教えてくれた。あれが伝承の縦糸だった。縦糸が切れると、学年をまたいだ継承が起きない。上級生から下級生へ、卒業生から在校生へという流れが細る。
そして、子どもの人間関係の構造も変わった。吉岡が「島宇宙化」という言葉で指摘しているやつだ。クラス全体で共有される話題が減って、小さいグループごとに閉じた話題を持つようになる。かつての怪談は、クラス全員が知っているからこそ機能した。全員が同じ階段を怖がるから、あの階段が怖い場所になる。共有がなければ、場所は怖くならない。
大槻ケンヂが言うところの、個人がそれぞれ好きな情報にアクセスする時代だから、かつての口裂け女やコックリさんのような社会的ブームは起こりにくい、という話ともつながる。全員が同じものを浴びる回路が、もうない。
そして、学校そのものが多様化した。私立と公立では造りも設備も違うし、同じ公立でも地域差がある。「学校」という言葉で全員が同じ建物を思い浮かべる時代じゃなくなった。共通の舞台がなければ、共通の怪談も成立しない。
じゃあ、学校の怪談は死んだのか。そうは思わない。形を変えて生き延びている。
まず、キャラクターとしての花子さんは完全に定着した。九〇年代に標準化されたおかげで、今の子どもも花子さんを知っている。ただし、怖がる対象としてじゃなくて、知識として知っている。ゲームのキャラとして、漫画のキャラとして、あるいは日本文化のアイコンとして。海外にも知られている。伝承としては痩せたけど、キャラクターとしては不死身になった。
もう一つ、ノスタルジーの対象になった。九〇年代に子どもだった世代が今、三十代から四十代だ。その世代が学校の怪談を語り直している。当時の本の復刊要望が出たり、編著の本が出たり、対談が組まれたりする。二〇二五年には九〇年代の学校怪談を検証する本が出て、当時を体験した世代と研究者が真剣に議論している。怪談が、体験から研究対象へ、そして懐かしさへと移った。
そして、いちばん本質的な話をする。子どもが怖い話をする理由は、たぶん一つも変わっていない。
怖い話は、子どもが自分たちだけで使える数少ない道具だ。大人が管理する空間のなかに、大人の知らない領域を作る道具。「あの階段は三段目を踏んじゃいけない」というルールを自分たちで決めることは、学校という与えられた空間を、自分たちのものに書き換える行為だった。恐怖の量を自分で調節して、仲間と一緒に確かめに行って、越えて、結束する。
その必要は消えていない。だから場所と道具が変わっただけで、機能は残っている。今の子どもが、ネットで拾った話を教室で共有して、特定の場所に紐づけ直しているなら、それはもう新しい学校の怪談だ。こっちには見えないところで、たぶん今も起きている。
総括――借り物の話で、本物の体験をしていた
ここから先は、上で書いたことをもう一段掘る。九〇年代の学校怪談ブームを、もうちょっと引いた場所から眺めてみたい。
まず改めて確認したいのは、あのブームが「日本の子どもの口承文化が、生きたまま産業に接続された、たぶん最後の大きな事例」だという点だ。
これ、けっこう凄いことなんだよ。口承文化というのは普通、産業と接続するタイミングでは既に死にかけている。民話も昔話も、採集されて本になる頃には、実際に語る人はほとんどいない。記録は死亡診断書みたいなものだ。
ところが学校の怪談は違った。一九九〇年に本が出た時点で、その話は全国の学校で現在進行形で語られていた。生きている伝承を、生きているうちに商品化した。だから、本が伝承に影響を与え、影響を受けた伝承がまた本に載る、という双方向の循環が起きた。片方向の記録じゃなくて、フィードバックループになった。
このループの帰結が標準化だ。そして標準化には、はっきりした勝者と敗者が出た。勝ったのは花子さんとテケテケ、そして人体模型、動くベートーヴェンの肖像、階段の段数、赤い紙青い紙、といったあたりだ。負けたのは、ゆきこさんであり、みーちゃんであり、ヨースケさんであり、パタパタさんであり、コトコトさんであり、山形の三つ頭の大トカゲだ。
なぜ勝者が勝ったのか。ここを考えると、けっこう見えてくるものがある。
生き残った怪異には共通点がある。まず、どの学校にもある設備に紐づいている。トイレ、階段、理科室、音楽室、体育館。これらは全国どの学校にもある。ローカルな地形や施設に依存する話は、他の学校に持っていけないから死ぬ。
次に、話が短い。休み時間のあいだに語り終えられる。長い物語は伝わらない。
そして、参加できる。花子さんは「呼びかける」という手順がある。階段の話は「数える」という手順がある。子どもが自分で実行して確かめられる。聞くだけの話より、やれる話が強い。
最後に、名前がキャッチーだ。テケテケという音の気持ち悪さ。花子という、あまりにも普通で、だからこそ不気味な名前。名前は伝播の効率をそのまま左右する。
つまり九〇年代の標準化は、単に強い媒体が弱い伝承を潰したという話じゃなくて、伝播効率の高い形質を持った話が選抜されて全国に広がった、という話でもある。編集部の判断も、子どもの選択も、結局は「語りやすさ」という基準で働いていた。自然選択に近い。
もうひとつ、あのブームについて考えておきたいのは、大人の側の関与の質だ。
さっき、純粋な子ども文化を大人が汚したという図式は単純すぎると書いた。もう少し踏み込むと、あの時期の大人の関わり方には、わりと誠実な部分があったと思っている。
民俗学者が採集して、教育的な文脈を用意した。映画は子どもを馬鹿にしない作りだった。ちゃんと怖くて、ちゃんと子どもが主役で、ちゃんと自力で切り抜ける話だった。テレビの怪談枠も、安直な作りじゃなかった。ゲームに至っては、子ども向けの皮をかぶって人間の悪意を正面から描いていた。
これらに共通しているのは、「子どもは怖いものを処理できる」という前提だ。子どもを守るために怖いものから遠ざけるんじゃなくて、怖いものを与えて、それを乗り越える経験をさせる。これはかなり真っ当な子ども観だと思う。
そして、その前提が二〇〇〇年前後を境に反転する。ここが、いちばん大事だと思っているポイントだ。
吉岡が指摘した教師の自主規制は、単独の現象じゃない。同じ時期に、社会全体が子どもの扱いを変えた。学校の安全管理が強化され、不安を煽る表現が慎重に扱われるようになり、リスクを事前に取り除く方向に舵が切られた。それぞれには理由がある。実際に痛ましい事件があったし、対応は必要だった。誰も責められない。
でも、副産物として「子どもに怖いものを与えて乗り越えさせる」という回路が細った。恐怖は与えるものではなく、遠ざけるものになった。
学校の怪談が衰退した最大の理由は、たぶんネットでも少子化でも校舎の改築でもなくて、これだと思う。子どもと恐怖の関係についての、社会の基本方針が変わった。校舎が明るくなったのは結果であって原因じゃない。設計思想の変化が先にあった。
じゃあ、恐怖を遠ざけられた子どもたちはどうしたのか。答えは明白で、自分で調達しに行った。ネットに。
これが二〇〇〇年代以降のネット怪談の隆盛につながっている。管理された学校の外側に、誰も管理していない情報空間が現れた。そこには、大人が用意した安全なものじゃない、生の怖いものが転がっていた。子どもたちはそこへ行った。
構造としては、九〇年代の学校の怪談とまったく同じだ。大人の管理が及ばない領域を確保して、そこで恐怖を自分たちの手で扱う。場所が校舎の暗がりから、画面の向こうに移っただけ。
ただし、決定的な違いが一つある。学校の怪談には身体があった。実際にその階段を降りる。実際にそのトイレのドアの前に立つ。実際に友だちと肩を寄せ合う。恐怖が空間と身体に結びついていた。だから、乗り越えたときに残るものがあった。
ネットの恐怖には身体がない。画面を閉じれば消える。逃げるのは簡単だけど、逃げられるということは、乗り越える経験にならないということでもある。通過儀礼としての機能が、そこにはない。
九〇年代の学校の怪談が果たしていた、いちばん大事な役割はそこだったんじゃないか。恐怖を、身体と空間に結びつけて、仲間と一緒に処理する訓練。それは学校という閉じた空間だからこそ成立した。全員が同じ建物に、毎日、長時間いる。その条件が揃ってはじめて、共有された恐怖が生まれる。
言い換えれば、あのブームは学校という制度が持っていた副産物だったんだよな。全国の子どもを同じ規格の建物に集めて、同じ時間割で動かす。均質な空間を大量に作った結果、そこに均質な怪異が生まれた。標準化された怪談は、標準化された学校の子どもだったわけだ。皮肉な話だけど、たぶん本当だと思う。
そして今、学校は均質じゃなくなりつつある。建物も、制度も、子どもの過ごし方も多様化した。オンラインで授業を受ける選択肢もある。均質な空間が消えれば、そこから生まれていた均質な怪異も消える。理屈としては、まったく一貫している。
最後に、これを読んでいる同世代に一つ言っておきたいことがある。
子どもの頃に信じていた「うちの学校の怪談」は、たぶんほとんどが、本や映画やテレビから来た全国標準版だった。自分の学校固有の話だと思っていたものが、実は日本中の学校で同じように語られていた。これを知って、なんだよ作り物かよ、とがっかりする人もいるかもしれない。
でも、そこはちょっと違うと思うんだよな。
たとえ話の中身が全国共通だったとしても、あの階段を怖がりながら降りた足の感覚は本物だ。友だちを誘ってトイレに行った時間は本物だ。図書室の棚が空っぽで舌打ちした悔しさも、旧校舎の前で息を止めた緊張も、映画館を出たときのまだ明るい空も、全部本物だった。
怪談の真偽なんて、はじめから重要じゃなかった。大事だったのは、それを共有した相手と、共有した場所と、共有した時間のほうだ。話は借り物でよかった。借り物の話で、本物の体験をしていた。
そう考えると、あのブームが標準化を進めたことの意味も、少し変わって見えてくる。共通の台本が全国に配られたおかげで、日本中の子どもが、同じ夏に、同じ話で、それぞれの学校の暗がりを怖がった。それぞれの体験は全部違うのに、話だけが同じだった。あんな現象は、たぶんもう二度と起きない。
九〇年代の学校の怪談は、消えたんじゃなくて、役目を終えた。あの時代の子どもたちを一人残らず同じ暗がりに立たせて、そこから帰らせた。それで十分だと思う。
今でもたまに、夏の夕方に、古い小学校の前を通ることがある。改築されて明るくなった校舎を見上げると、なんとなく探してしまう。あの棟はどこに行ったんだろう、って。もうない。当たり前だ。でも、あの棟を怖がった記憶のほうは、なぜかいまだに残っている。
怪談が住んでいたのは校舎じゃなくて、こっち側だったんだな。そう思うと、少しだけ納得がいく。
