校庭の隅に、四角いコンクリートだけが残っている
小学校の校庭の、いちばん端っこ。鉄棒の裏とか、飼育小屋の脇とか、体育倉庫と塀のあいだの妙に草が伸びた場所。そこに、用途のわからない四角いコンクリートの塊が埋まっている学校が、いまでも日本中にけっこうある。
高さは地面から十センチか二十センチくらい。一辺は一メートル半とか二メートルとか。角が丸くなっていて、表面には小さな穴がいくつか空いていたりする。花壇にしては形が変だし、朝礼台にしては低すぎる。子どもは当然、そこで遊ぶ。ケンケンパの陣地にしたり、缶蹴りの隠れ場所にしたり、鬼ごっこのタッチポイントにしたりする。
でも、たいていの学校で、その塊には妙な言い伝えがついてまわるんだよな。あそこには乗っちゃいけない。あそこで転ぶと大きな病気になる。あそこの上でジャンプすると、夜、階段が一段増える。掘ると出てくるものがあるから絶対に掘るな。先生に聞いても「昔の何かの跡だよ」としか答えてくれない。教頭先生だけが本当のことを知っていて、聞くと顔色が変わる。
で、その「昔の何か」の正体は、たいていの場合、はっきりしている。奉安殿だ。
戦前の日本の学校に、ほぼ必ず建っていた小さな建物。天皇と皇后の写真、つまり御真影と、教育勅語の写しを納めておくための建物。子どもが毎朝、毎夕、最敬礼をした建物。火事になったら子どもより先に中身を助けろと本気で言われていた建物。そして敗戦の翌年、夏休みのあいだに全国からいっせいに消された建物だ。
この記事は、その話をする。制度の話であり、建築の話であり、火事と死者の話であり、消された記憶の話であり、そして最終的には、いま校庭の隅で語られている怪異の話になる。長くなるけど、たぶん途中で止められないと思う。
「陛下の写真」が、県庁に配られた日から全部がはじまった
そもそもの発端は、写真そのものが珍しかった時代までさかのぼる。
明治のはじめ、写真師の内田九一が明治天皇を撮影した。それが「御真影」と呼ばれるようになる元になった一枚だ。で、明治六年、奈良県の知事だった四条隆平という人物が、その写真を県庁に下賜してほしいと申し出た。理由は、新年と天長節に県庁に掲げて、県民に広く拝ませたいから。つまり最初期の御真影は、学校のものじゃなくて役所のものだったわけだ。
そこから徐々に、御真影は学校へ降りていく。明治二十年に沖縄県の尋常師範学校へ下付されたのが府県立学校への最初の例だとされている。明治二十二年には高等小学校への下付通知が出る。そして明治二十四年十一月、文部省が「最モ尊重ニ奉置」せよという訓令を出した。ここが決定的だ。ただ配るだけじゃなくて、「いちばん丁重な扱いをしろ」と国が命じた。
この一文が、後の奉安殿という建築を生むことになる。
面白いのは、御真影が「贈られたもの」ではなくて「貸されたもの」だったことなんだよな。宮内省からの貸与品という建前だった。自分のものじゃなくて、預かりもの。しかも預かっているのは、当時の感覚では現人神そのものの姿だ。返せと言われたら返さなきゃいけない。傷つけたら、失くしたら、燃やしたら、どう責任を取るのか。
この「預かりもの」という設定が、後から効いてくる。ものすごく効いてくる。
学校の校長が宿直をするようになった理由のひとつも、これだと言われている。夜のあいだ、誰かが学校に泊まって御真影を見張る。校長室の隣に置く。職員室の脇に置く。とにかく人の気配がある場所に置いて、火が出たらすぐ持ち出せるようにしておく。
明治の学校の夜は、それだけで十分こわい。木造校舎、ランプか裸電球、宿直室に布団を敷いた校長が一人。廊下の奥に、絹の袱紗にくるまれた「神様の写真」が一枚だけ置いてある。
大正から昭和へ、小さな神殿が全国の校庭に生えていく
最初のうち、御真影は校舎の中の一室に置かれていた。奉安室とか奉護室とか呼ばれた部屋だ。金庫を買って入れる学校もあった。ところが、これがどんどんエスカレートしていく。
きっかけのひとつは火だ。当時の校舎は木造で、火が出たらまず助からない。もうひとつは地震。大正十二年の関東大震災で、校舎ごと燃えたり潰れたりした学校がたくさん出た。そのたびに「御真影はどうなったのか」が問題になる。
だから、校舎とは別に、耐火耐震の独立した建物を建てる、という発想になった。これが奉安殿だ。大正の終わりから昭和のはじめにかけて、全国の学校の敷地に、小さな神殿みたいな建物がぽこぽこと生えはじめる。
普及が一気に加速したのは昭和十年ごろだと言われている。昭和八年には奉安殿の建築デザインを競うコンペまで開かれた。学校の校庭に置く小さな箱を、建築家が本気で設計する時代になっていたわけだ。
規格もかなり細かく決まっていた。内寸で奥行き八十五センチ、高さ一メートル半、幅一メートル二十。鉄筋コンクリート造で、壁の厚さは二十五センチ以上。内部の板張りはキリかヒノキ。棚の高さは五十センチくらい。この数字を見ると、いかに「絶対に燃えない箱」を作ろうとしていたかがよくわかる。壁厚二十五センチの鉄筋コンクリートって、そのへんの防空壕より頑丈だからな。
設置場所も指定があった。校長室、職員室、宿直室、その他に近い「清浄な位置」。つまり、人がいる場所の近くで、かつ汚れていない場所。校庭の隅に建てるなら、掃除が行き届く、日当たりのいい、参道みたいな導線が引ける場所が選ばれた。
建てるお金は、たいてい地域が出した。岡山県の旧上齋原村では、昭和四年の御大典記念事業として村費六百円を投じて奉安殿を建てている。青年団、在郷軍人会、農業補習学校の生徒が総出で建設にあたった。そして当時の写真には、子どもたちが石材や木材を運んでいる姿が写っている。
つまり、その建物は、子どもたち自身が石を運んで建てたものだったんだ。自分で運んだ石でできた建物に、翌日から毎朝おじぎをする。この構図、あとで効いてくるから覚えておいてほしい。
朝の校門で、子どもたちは毎日おじぎをしていた
さて、じゃあ実際そこで何をやっていたのか。ここが本題だ。
朝、子どもが校門をくぐる。制服なり着物なりを整える。ここで「服装を正して」というのがまず来る。襟を直す。帽子を脱ぐ、あるいはかぶり直す。ランドセルや風呂敷の位置を直す。だらしない格好のまま前を通るのは論外だった。
そして奉安殿の正面に立つ。腰を九十度に折る。これが最敬礼だ。ふつうのおじぎじゃない。上半身を直角まで倒して、しばらく止める。頭を下げているあいだ、目線は地面の一点。
これを、登校時にやる。下校時にやる。それだけじゃなくて、日中にたまたま前を通るときも、そのたびにやる。校庭で遊んでいて、ボールがそっちに転がったら、拾いに行く前にまず最敬礼だ。学校朝会では全校児童が奉安殿と大麻奉斎所に向かって最敬礼をする、と規定に書いてある学校もあった。
北九州市の平和のまちミュージアムの解説によれば、礼が不十分だと教員から厳しい指導が入ることが多かったという。浅い、雑、早い。そういう理由で叱られる。子どもの側からすれば、その建物は「間違えると怒られる場所」として身体に刻まれていく。
考えてみてほしいんだけど、六年間、毎日二回、同じ場所に向かって直角のおじぎをするんだ。年間二百日として、六年で二千四百回。多い子はもっと。それだけ繰り返せば、もう理屈じゃない。その建物の前に来ると身体が勝手に折れる。それが正常な状態になる。
そして、身体が勝手に反応する対象って、人間にとってはもう「怖いもの」なんだよな。理屈より先に身体が動くものは、理屈で解除できない。
四大節の朝、講堂の空気が完全に凍る
年に四回、この建物が主役になる日があった。四大節だ。一月一日の四方節、二月十一日の紀元節、四月二十九日の天長節、十一月三日の明治節。
これは休日じゃなかった。式典の日だ。子どもは休みなのに学校に行かなきゃいけない。しかも遊びに行くんじゃない。いちばん緊張する行事に行く。
流れはだいたいこうだ。まず、御真影が奉安殿から講堂に運ばれる。運ぶのは校長か、それに準ずる立場の教員。白い手袋をはめている。素手で触れることは許されない。絹の袱紗に包まれた箱を、両手で、胸のあたりの高さで、まっすぐ前を見て運ぶ。歩幅もゆっくり。途中で立ち止まったり、よろけたりは絶対に許されない。
講堂には全校児童が整列している。御真影が入ってくると、号令がかかって、全員が最敬礼。頭を下げたまま止まる。この「止まる」時間が長い。
御真影は正面の紅白幕の奥に安置される。幕が引かれて、天皇と皇后の写真が現れる。ここでまた最敬礼。
そして教育勅語の奉読がはじまる。校長が白手袋のまま巻物を捧げ持ち、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」と読み上げていく。全文で三百十五字。読み上げには数分かかる。そのあいだ、子どもたちはずっと頭を下げたままだ。
ここが一番きつい。鼻をすすってはいけない。身じろぎしてはいけない。咳をしてはいけない。冬の一月一日、暖房のない講堂で、鼻水が垂れてきても拭けない。夏場は逆に汗が目に入る。倒れる子が出る。倒れた子はどうなるかというと、これも「不敬」の空気の中で処理される。
証言のなかには、この時間が本当に怖かったと語るものが多い。何かをすると怒られる、じゃなくて、何かをしてしまったら取り返しがつかない、という種類の恐怖だ。子どもだって空気は読む。大人がここまで緊張しているということは、ここは間違えたら終わる場所なんだと理解する。
読み終わると、校長は勅語を巻き戻して、また捧げ持って下がる。唱歌を歌う。式が終わる。御真影がまた奉安殿へ戻される。全員がまた最敬礼をする。
この一連の流れが、年に四回。加えて、日常の登下校の礼。加えて、朝会。学校生活の骨格そのものに、その小さな建物が組み込まれていた。
場所によって、ぜんぜん違う顔をしていた
全国どこも同じだったかというと、これがけっこう違うんだ。ここが調べていて一番面白いところでもある。
まず、独立した建物じゃない学校がある。校舎の中に金庫みたいな箱を据えつけただけの「奉安庫」タイプだ。令和になってから東京都の目黒区で見つかった例が有名で、区内の小学校の職員室の入り口付近に、黒くて重い金庫がずっと置かれていた。縦六十二センチ、横九十七センチ、高さ百二十一センチ。重さは数百キロ。扉には鳳凰が描かれていて、開けると内側に桐の紋章が出てくる。
千百三十度の高熱に六時間耐える、という触れ込みの耐火金庫だった。
つまり、その学校では戦後八十年近く、職員室の脇に奉安庫が置きっぱなしになっていて、誰も正体を知らないまま普通の金庫として使われ続けていたわけだ。これはもうそれだけで怪談の導入としてじゅうぶんだと思う。
兵庫県のある大学に残っている奉安庫は、分厚い金属を含む四重扉という構造で、中は五十センチ四方の木箱、上部に白い幕が垂れている。昭和十二年の製作。ここはキリスト教系の学校で、もともと御真影を預かることに消極的だったが、文部省の指導でやむなく応じたという経緯があった。
三重県では十基前後の現存が確認されていて、その作りがまたバラバラだ。土蔵造りのもの。棟木の上に鰹木を並べた完全な神社様式のもの。モルタル造りで外も内も木を貼ったもの。極端なのになると、大きな金庫のまわりに白壁を塗って建物っぽく仕上げただけ、というのもある。要は、金があるところは立派な社殿を建て、金がないところは金庫を壁で囲って奉安殿と呼んだ。
意匠も土地によって違う。ギリシャ建築風の柱を立てたもの、洋風の切妻、レンガ造り、そして王道の神社様式。北海道の札幌には対照的な二棟が残っていて、片方は神社の境内にあって書庫として使われている社殿風のもの、もう片方は大学の敷地にあって、いまは「マリア堂」としてマリア像を安置している。同じ用途で建てられたはずの建物が、片や神社、片やマリア像というのは、この建物の性格をよく表していると思う。
要するに、器としては「何を入れてもそれっぽく見える聖なる箱」だったんだよな。
富山県には、木造の体育館の中に組み込まれた形の奉安殿が残っている。千葉県では、明治中期に建てられたとされる相当古いタイプのものが平成二十八年に再発見されて調査対象になった。北海道では平成三年の時点で三十六棟が確認されている。沖縄では戦争遺跡として文化財に登録されているものがある。
さらに面白いのが、旧南樺太のケースだ。あそこは戦後にGHQの統治下に入らなかったから、撤去指令が届かなかった。結果として、郷土博物館などとして奉安殿がそのまま各地に残っている。日本国内では消されたはずの建物が、国境の向こうでは普通に建っている。
火が出たら、まず何を持って逃げるか
ここからが重い話になる。
御真影は貸与品だ。焼いたら国に対して責任を負う。この「責任」が、時代が進むにつれてどんどん重くなっていった。
記録に残っている事例をいくつか挙げる。明治三十一年、長野県の上田尋常高等小学校で失火があり、御真影が焼けた。当時の校長は割腹自殺をしている。大正十年、同じく長野県の埴科郡南条小学校で火災があり、校長が御真影を持ち出そうとして焼死した。昭和八年、沖縄県の第一大里小学校で火災があり、御真影が焼失し、当時の校長が同じく自ら命を絶っている。
これらは、いわゆる美談として語られた。教育界の鑑として新聞に載り、修身の教材になり、他校の教員に「かくあるべし」として示された。そして次の火事のとき、次の校長は、その先例を意識しながら燃えている校舎に向かって走ることになる。
ここは慎重に書きたいところなんだけど、こうした事例を「立派な行いだった」と単純に称えることも、「愚かだった」と切り捨てることも、たぶん両方とも当時を見誤ることになる。当時の教員にとって、それは選択肢のある問題じゃなかった。焼いたら人生が終わる、という制度と世間が先にあって、その中で人が動いていた。近年の研究では、こうした殉職の美談がどう作られ、どう流通したかそのものが分析の対象になっている。
つまり、話が広まる過程で誇張されたり、あとから整えられたりした部分もあるという指摘だ。
そして戦争が本格化すると、これが制度として明文化される。
昭和十六年、東京市の防空実施計画に「命に代えて御真影・勅語謄本の安全を計る」という趣旨の条文が入る。命に代えて、だ。
昭和十八年九月の「学校防空指針」では、学校防空の主眼として、第一に御真影と勅語謄本と詔書謄本の奉護、第二に学生生徒および児童の保護、と順番が明記された。文章の順番として、子どもより写真が先に来ている。
さらに文部省の担当者は、非常時の「奉遷所」をあらかじめ決めておくこと、警備班の奉護係が常時奉安所を警備することを求めていた。空襲が来たらどこへ運ぶか、誰が運ぶか、を平時から決めておけ、ということだ。
そして実際に、御真影は疎開した。人より先に、山の中へ運ばれた。
山の中に掘られた、写真のための防空壕
沖縄には、御真影のためだけに掘られた防空壕が残っている。
名護市と東村の境にある大湿帯という集落の近く。県道から脇道に入って、車一台がやっと通れる道をたどり、T字路の先から獣道を三分ほど歩くと、山の斜面に開いた穴がある。御真影奉護壕だ。空襲が激しくなると、本島各地の学校から御真影を集めて、この壕に納めた。
いまは落盤があって危険なので柵で囲われていて、中には入れない。かわりに、天然記念物に指定されているコウモリの重要な生息地になっている。神様の写真を守るために掘られた穴が、いまはコウモリの寝床になっている。この落差がなんとも言えない。
宮古島にも同じものがある。野原地区の御真影奉護壕だ。昭和十九年十月十日の十・十空襲をきっかけに、島中の学校の御真影を守るために掘られた。掘ったのは各学校の男性教員たちだった。内部には白木で組まれた神宮造りの棚が作られていたという。土の穴の中に、わざわざ白木の神棚を組んだんだ。
そしてここが一番ぞっとするところなんだけど、この壕は十二時間交代で守られていた。当番の教員は、勤務に就く前にまず拝礼をしてから壕の前に立ったとされている。
想像してみてほしい。空襲が来るかもしれない南の島の夜。山の中の穴の前に、教員が一人で立っている。中にあるのは写真が数枚。その前で、深く頭を下げてから、十二時間、立つ。
沖縄本島の壕については、米軍の進軍にともなって、まず天皇と皇后以外の御真影が焼却され、最後には天皇と皇后の御真影も焼却されたと伝えられている。敵の手に渡るくらいなら、という判断だったのだろうと解説されている。守るために掘った穴の中で、守っていたものを自分たちの手で燃やす。ここで一つの円環が閉じている。
語り継がれている三つの話
ここからは、いろんな土地で聞き取られた話や、地域の記録に残っている出来事をもとに、読み物として再構成した三つの話をする。それぞれ、細部は土地によって少しずつ違う形で伝わっている。
石を運んだ子どもの話
これは中国地方の山あいの村に伝わる話として語られているものだ。
昭和のはじめ、村に奉安殿を建てることが決まった。御大典の記念事業ということで、村の予算が下り、青年団と在郷軍人会と補習学校の生徒が総出で工事にあたった。尋常小学校の子どもたちも作業奉仕に駆り出された。川原から石を運び、山から木を出し、リヤカーを押した。夏で、みんな汗だくで、正直なところ子どもたちは楽しかったらしい。授業がなくなるからだ。
石を運びながら歌を歌ったり、誰が大きい石を持てるか競争したりしていた。
その中に、ひときわ大きな石を一人で担ごうとした男の子がいた。まわりが止めるのも聞かずに担ぎ上げて、数歩あるいて、足を滑らせた。石は落ちて、その子の足の甲を潰した。骨が砕けて、村の医者では手に負えず、隣町まで運ばれた。結局その子は足が悪くなって、まともに走れなくなった。
建物は無事に完成した。落成式があって、村じゅうが集まって万歳をした。足の悪くなった子も松葉杖で参列した。そして翌日から、その子は毎朝、その建物の前で最敬礼をすることになった。腰を九十度に折るのは、足の悪い子には相当きつい。それでも免除はされない。むしろ、お前が運んだ石でできているのだから誰よりも丁寧に礼をしろ、と言われたという。
村ではその後、その建物の前を通ると足が重くなる、という言い方がされるようになった。荷物を持っていないのに膝から下が急に重くなって、歩幅が狭くなる。だから自然と歩みが遅くなって、結果として丁寧な礼になる。大人たちはそれを「畏れ多いからだ」と説明した。子どもたちのあいだでは、別の説明が流れていた。石を運んだ子の足が、まだあそこにいる、という説明だ。
この話がどこまで実際にあったことなのかは、正直わからない。ただ、子どもが建設に動員された記録は各地に確かに残っていて、そこに怪我人が出ていないほうがむしろ不自然ではある。
十二時間、穴の前に立った先生の話
南の島に伝わる話。
十・十空襲のあと、島じゅうの学校から御真影を集めて山中の壕に納めることになった。穴を掘ったのは男の先生たちだった。授業のあと、あるいは授業のかわりに、鍬とツルハシで山を削った。掘り上がった穴の中に、わざわざ白木で神棚のような棚を組んだ。土と根っこと湿気の中に、真っ白な木の棚が一つだけ浮かんでいる、という異様な光景ができあがった。
守衛は十二時間交代だった。当番になった先生は、まず穴に向かって深く頭を下げ、それから所定の位置に立つ。夜の当番はきつい。灯りはつけられない。空襲の目標になるからだ。だから真っ暗な山の中で、音だけを頼りに十二時間立ち続ける。
ある先生の当番の夜、穴の奥から物音がした。木がきしむような、コトリという音。動物が入り込んだのかと思って中を覗いたが、暗くて何も見えない。懐中電灯をつけるわけにいかない。だから声をかけた。どなたか、と。返事はない。しばらくして、また、コトリ。
朝になって交代の先生が来たので、二人で中を確かめた。棚は無事で、箱も無事で、動物の痕跡もなかった。ただ、棚の上に置いてあった箱の向きが、わずかに変わっていたという。前の晩に自分が正面を合わせて置き直したのに、それが斜めになっていた。
その先生は誰にも言わなかった。言えばどうなるか、わかっていたからだ。管理不行き届きということになる。だから黙って箱の向きを直して、次の当番に引き継いだ。そして戦後になって、ずいぶん年を取ってから、孫にだけその話をしたという。
孫が「こわくなかったの」と聞いたら、その人はこう答えたそうだ。こわかったのは音じゃない。こわかったのは、もし箱が壊れていたら自分は終わりなんだ、と思ったことのほうだ、と。
夏休みのあいだに消えた建物の話
これは全国どこでも似た形で語られている話だ。
昭和二十一年の夏。子どもたちが夏休みで学校に来ないあいだに、奉安殿が消えた。九月の始業式の日、登校してきた子どもたちが見たのは、四角いコンクリートの基礎だけが残った校庭の隅だった。
鳥取県の記録を見ると、この「夏休み中に」というのは偶然じゃない。撤去は、児童に見られない時期を選んで行われていた。夏季休暇中に作業を済ませる。同年八月十日に撤去完了と報告している国民学校の記録が残っている。
だから子どもたちは、あの建物がどう壊されたかを知らない。ある日あって、次の日にはない。しかも先生は何も説明しない。あれはどこへ行ったんですか、と聞いても答えない。ついこのあいだまで、礼が浅いと叱られたのに。命に代えても守れと言われていたのに。
そして始業式で、先生が泣いた、という話が各地にある。何も言わずに、教壇でただ泣いた。あるいは逆に、いつも通りの顔で「今日から新しい教科書です」と言った。どちらのバージョンも伝わっていて、どちらのほうがこわいかは人によると思う。
この話に必ずついてくる後日談がある。撤去された奉安殿のうち、運び出されたものは神社や寺に払い下げられた。けれど、運ぶ手間も金もない学校では、壊してその場に埋めた。基礎だけを残して、上物を砕いて、穴を掘って、そこに落として、土をかぶせた。だから校庭の下には、砕かれた奉安殿が眠っている。
これは怪談じゃなくて、わりと事実に近い。教育勅語や御真影の一部が地中に埋められたという記録は複数の自治体に残っている。だからこそ、その上で毎日子どもが走り回っているという状況が、なんとも言えない不気味さを持つんだよな。
神社になり、納骨堂になり、金庫になった
撤去命令が出たのは昭和二十年十二月十五日のGHQの神道指令からだ。翌年六月二十九日、文部省の次官通牒によって、全国の学校から奉安殿を全面撤去せよという指示が出た。
ただ、現場の対応はかなりバラバラだった。鳥取県の記録によれば、昭和二十一年三月の時点で各学校に照会をかけたところ、撤去予定、改造、判断保留、撤去しない、と回答が四つに割れている。同年六月の校長会では、まず菊の御紋章を取り除け、屋根を改造しろ、という段階的な指示が出ている。要するに、いきなり壊すのではなく、まず「それっぽくない見た目」にしろということだ。
そして七月の次官通牒で、結局は全面撤去になった。
壊さずに済ませたケースも多い。というより、頑丈すぎて壊すのが大変だったという実務的な事情もあったらしい。壁厚二十五センチの鉄筋コンクリートを、重機のない時代に手で壊すのは正直しんどい。
だから、動かせるものは動かされた。埼玉県のさいたま市には、その転用例がまとまって残っている。昭和十四年建立の小学校の奉安殿が、自治会館の神輿蔵になっている例。しかも屋根には菊花紋章が掲げられたまま残っている。昭和八年ごろの奉安殿が、戦後に移築されて神社の境内社になった例。昭和十三年ごろの鉄筋コンクリート造の奉安殿が、そのまま神社の本殿になっている例。
昭和二十一年に譲り受けて社殿にした、と由緒に書いてある神社もある。
三重県では、神殿や稲荷社になったもの、寺の納骨堂になったもの、単なる倉庫になったものが確認されている。納骨堂というのがまた効くんだよな。天皇の写真を入れるために作られた耐火の箱が、いまは人の骨を入れる箱になっている。用途としては完璧に理にかなっている。頑丈で、湿気に強くて、中に棚があって、扉が厳重なんだから。
北海道では、宮司が「壊すのは惜しい」と判断して神社に移した例と、女子校の校長がGHQに直訴して残した例が並んで残っている。後者はマリア堂になった。天皇の写真を守るために建てられた箱に、マリア像が立っている。
鳥取県では、昭和二十一年七月に払い下げられた旧国民学校の奉安殿が、地域の青年会場まで住民の労力奉仕で運ばれ、その後も一度移動して、いまも倉庫として使われている。
こういう転用例を並べていくと、ひとつのことに気づく。この建物は、中身を入れ替えても機能するんだ。御真影でも、神様でも、マリア像でも、神輿でも、遺骨でも、村の書類でも。要は「大事なものを入れて、人が頭を下げる箱」という形式だけが残って、中身は時代に応じて差し替えられている。
いま残っている奉安殿を、実際に見に行くとどうなるか
現存する奉安殿を実際に訪ねた人の話には、共通するパターンがある。
まず、想像より小さい。写真で見ると神社みたいだけど、実物は物置よりちょっと大きいくらいのサイズだ。大人が両手を広げたら端まで届きそうな幅しかない。この「小ささ」が最初に来る違和感だ。あれだけ大量の礼を集めた対象が、これしかないのか、と。
次に、中が見えない。神社に移築されたものは書庫や倉庫になっているから、鍵がかかっている。文化財指定されているものは保護のために近づけない。だから訪ねても、外から見るだけになる。閉じた扉の前で立ち尽くすことになる。
そして、たいてい静かすぎる。境内の隅とか、集落のはずれとか、廃校になった学校の跡地とか、そもそも人が来ない場所にある。だから、写真を撮ろうとしてカメラを構えたときの、あの自分の呼吸だけが聞こえる感じになる。
ここで、多くの人が同じことを報告している。頭を下げたくなる、というやつだ。
べつに信心があるわけでもない、戦前を知っているわけでもない、下手すると奉安殿が何なのか調べてきたばかりの人が、その建物の正面に立った瞬間に、なんとなく礼をしてしまう。あるいは、しなかったことが気になって、帰り道でずっともやもやする。
これはたぶん建築の効果だ。あの建物は、正面に立つと自然に体が止まるように設計されている。参道みたいな導線があって、階段が数段あって、扉が正面にあって、そこだけ少し高い。人間の身体は、そういう配置に対して反射的に反応する。設計した人たちは、それを狙って作った。
八十年経っても、その設計はまだ動いているんだよな。
校庭の隅で、いま語られている怪異
さて、ようやく本題の怪異のパートだ。ここまで読んできた人なら、なぜこの建物にまつわる話が多いのか、もうだいたい察しがついていると思う。
いま全国の学校で語られている奉安殿がらみの怪異は、だいたい四つの型に分類できる。
ひとつめは、基礎の型だ。校庭の隅に残ったコンクリートの基礎そのものが怪異の中心になる。あそこに乗ると背が伸びなくなる。あそこで転ぶと入院する。あそこの上でジャンプすると、家に帰ってから誰かに足首を掴まれる。夜中にあそこだけ濡れている。雨が降っても、あそこだけ乾いている。冬にあそこだけ雪が積もらない。この最後のやつは実際にありえる話で、コンクリートの蓄熱の関係で周囲より雪が解けやすいことがある。
でも、それを知らない子どもにとっては十分に怪異だ。
ふたつめは、礼の型だ。いちばん多いのがこれだと思う。夜、誰もいないはずの校庭の隅で、誰かが深くおじぎをしている。近づくと消える。あるいは、通りかかると背中を押されて、勝手に頭が下がる。宿直の先生が見回りをしていると、基礎の前に子どもが並んで整列していて、全員が同時に腰を折る。顔を上げたところを見た人はいない。
この型がなぜ強いかというと、実際に何万回もそこで行われた動作が、そのまま怪異になっているからだ。幽霊が何をしているかというと、生前にやっていたことをやっている。奉安殿の前でやっていたことは、おじぎだ。だからおじぎをする。理屈が通りすぎていてこわい。
みっつめは、火の型だ。夜中の校庭の隅が、一瞬だけ明るくなる。焦げた匂いがする。白い手袋をした男の人が、何かを抱えて走っている。追いかけると煙のほうへ行って消える。あるいは、火事でもないのに非常ベルが鳴って、駆けつけると基礎の上に何も置かれていない、けれど地面が温かい。
これは殉職の記憶が形になったものだ。実際に燃える校舎に飛び込んだ人がいて、それが美談として語られた。その物語が、地域の記憶として残って、火の怪異になる。
よっつめは、埋まっている型だ。校庭の下に何かが埋まっている、というやつ。工事のたびに何か出てくる、掘ったら箱が出てきた、掘った作業員がその後おかしくなった、プールを作るときに何かが出て工事が止まった。この型は全国の学校にある「校庭の下には何かある」系の怪談と混ざりやすい。そして実際に、砕かれた奉安殿や埋められた教育勅語の謄本が地中にある学校は、それなりの数あると思われる。
面白いのは、この四つが混ざるとかなり完成度の高い学校怪談になることだ。校庭の隅の基礎。そこに乗ってはいけないという禁忌。夜になると誰かがおじぎをしている。年に一度、火の匂いがする日がある。そして掘ると出てくる。
これ、完全に「祟りの構造」なんだよな。祀られていたものが、祀られなくなった。祀り方を知っている人が死に絶えた。でも場所だけが残っている。日本の怪異の教科書みたいなパターンだ。
なぜ、この建物だけがこんなに怖いのか
理由を分解していきたい。
第一に、禁忌が身体に刻まれていたから。触ってはいけない、近づいてはいけない、正面を横切るときは礼をしなければいけない。この種のルールを何千回も反復した人間は、その禁忌を頭ではなく身体で覚える。そして身体で覚えた禁忌は、制度がなくなっても消えない。奉安殿の前で自然に頭が下がってしまう現代人の話は、そのまま「まだ効いている」という証拠になる。
第二に、中身を誰も見ていないから。奉安殿の中を実際に見た子どもは、ほとんどいない。扉が開くのは年に四回、それも大人が運び出すときだけで、そのとき子どもは頭を下げている。つまり、頭を下げているあいだに中身は出入りする。子どもの視界には決して入らない。見たことがないのに、毎日礼をする。これは怪異を育てるのに最高の条件だ。中身が空想で埋められるからだ。
第三に、死者が実際に出ているから。火事で亡くなった教員がいる。責任を取って命を絶った校長がいる。これは伝説じゃなくて記録だ。そしてその死は、建物と直接結びついている。建物が死者を生んだ、という因果がはっきりしている場所は、そう多くない。
第四に、消され方が異様だったから。ここが一番大きいと思う。あれだけ絶対だったものが、ある夏休みのあいだに黙って消えた。しかも大人が説明しなかった。説明されなかった空白は、必ず何かで埋まる。子どもは物語で埋める。あの建物は本当は壊されていないんじゃないか。地面の下にまだあるんじゃないか。先生たちは何か隠しているんじゃないか。
第五に、痕跡だけが残っているから。壊すのが面倒だったせいで基礎が残った。その基礎には、名前も説明もない。名前のない構造物ほど、怪談に取り込まれやすいものはない。
そして第六に、これがいちばん本質的だと思うんだけど、あの建物は、恐怖の対象と敬意の対象が完全に一致していた場所だからだ。ふつう、こわいものには近づかないで済む。でも奉安殿は、こわいのに毎日近づかなきゃいけなくて、こわいのに頭を下げなきゃいけない。逃げることが許されない恐怖の対象。これって、怪異の定義そのものなんだよな。
制度の寿命より、禁忌の寿命のほうが長い
ここからは、上で書ききれなかった部分を、もう少し踏み込んで整理していきたい。
まず確認しておきたいのは、この一連の話が「昔の変な制度の話」で終わらないという点だ。奉安殿という建物は、たかだか二十年から三十年しか存在しなかった。大正の終わりに広まりはじめて、昭和十年前後にピークを迎えて、昭和二十一年に消えた。人間の一生から見れば、あっという間の話だ。
にもかかわらず、その痕跡はいまも全国の学校の校庭に残っていて、まったく無関係な世代の子どもがそこで遊びながら、意味のわからない禁忌を口伝えしている。
制度の寿命より、禁忌の寿命のほうが長い。これがこの話の核心だと思う。
もう少し具体的に考えてみる。昭和二十一年に奉安殿が撤去されたとき、その基礎を残した学校がなぜ多かったのか。理由はたぶん三つある。ひとつは物理的な理由で、鉄筋コンクリートの基礎を掘り返すのは重機のない時代には割に合わない作業だった。ふたつめは経済的な理由で、敗戦直後の学校に、そんな工事をする予算はない。みっつめは、これは推測だけど、心理的な理由だ。上物を壊すのは命令だからやる。
でも土台まで抉り取るのは、なんとなく気が引ける。
この「なんとなく気が引ける」が、たぶん決定的だったんじゃないかと思う。命令を出した側も、実行した側も、そこにあったものが何だったかを知っていた。数か月前まで、命に代えて守れと言われていたものだ。何千回も頭を下げてきたものだ。それを、ある日から「ないもの」として扱えという命令が来た。心の切り替えなんて、そんなに簡単にできるわけがない。
だから、基礎は残った。そして残った基礎は、名前を失った。
名前を失った構造物というのは、怪異にとって最高の住処だ。そこに何かがあったことは明らかなのに、それが何だったかを誰も言わない。子どもは大人に聞く。大人は答えない。答えないのは、忘れたからかもしれないし、説明が面倒だからかもしれないし、説明したくないからかもしれない。でも子どもにとっては、大人が答えないという事実そのものが情報になる。答えないということは、答えられない何かがあるということだ。
ここに、日本の学校怪談の生成メカニズムのひとつがある。学校怪談って、実は「校舎の構造の説明がつかない部分」に集中して発生するんだよな。使われていない階段。開かない扉。地下室への入口。理科室の人体模型。そして、意味不明なコンクリートの基礎。設計上の理由や歴史的な経緯が説明されていれば、それは単なる建物の一部で終わる。説明されないから、物語が生える。
奉安殿の場合、その説明が制度的に封じられた。ここが特殊だった。ふつうの「説明がない」は無関心の産物だけど、奉安殿の「説明がない」は、意図的な断絶の産物だった。国が消せと命じて、大人が黙り、記録から外れた。だから空白が特別に深い。
次に、恐怖の構造をもう少し丁寧に見ておきたい。
奉安殿にまつわる恐怖には、少なくとも三つの層がある。当時の子どもが感じた恐怖。当時の大人が感じた恐怖。そして現代の子どもが感じる恐怖。この三つは、別物だ。
当時の子どもが感じたのは、失敗の恐怖だと思う。礼が浅いと怒られる。動くと怒られる。倒れると大変なことになる。でも、その建物そのものが子どもに何かをするとは思っていない。こわいのは、その建物のまわりにいる大人の反応だ。
当時の大人が感じたのは、責任の恐怖だ。燃やしたら終わる。失くしたら終わる。しかも自分の意思ではどうにもならない要因、たとえば火事や地震や空襲によって、その終わりが来る可能性がある。宮古島の壕の前で、拝礼をしてから十二時間立ち続けた教員が感じていたのは、たぶん幽霊への恐怖じゃなくて、この責任の恐怖のほうだ。中の箱が無事であってくれ、という祈りに近い緊張。
そして現代の子どもが感じるのは、正体不明への恐怖だ。制度も、責任も、儀式も知らない。知っているのは、校庭の隅に変な塊があって、そこに乗ってはいけないという先輩からの申し送りだけ。
面白いのは、この三層が、まったく違う理由から発生しているのに、同じ場所を指しているということだ。八十年かけて中身が全部入れ替わったのに、恐怖の座標だけが動いていない。これはかなり珍しい現象だと思う。
さらに掘るなら、この建物の「入れ物としての性質」についても考えたい。
さっき書いたとおり、奉安殿は転用が異常に効く建物だった。神社の本殿になり、境内社になり、納骨堂になり、神輿蔵になり、書庫になり、倉庫になり、マリア堂になった。これほど中身を選ばない宗教建築って、そうそうない。
なぜかというと、この建物は「特定の何か」のために設計されたんじゃなくて、「特定の扱われ方」のために設計されたからだ。耐火であること。頑丈であること。人がその前で立ち止まる導線を持つこと。正面に扉があって、それが厳重に閉じていること。少し高い位置にあること。この条件は、御真影に固有のものじゃない。畏れられるべき何か一般に適用できる仕様だ。
だから、御真影が抜けたあと、そこに何を入れても成立してしまった。仏舎利でも、遺骨でも、神輿でも、書類でも。極端に言えば、空っぽでも成立する。空っぽの奉安殿の前でも、人は頭を下げたくなる。
これは怪異論としてもけっこう重要なポイントだと思う。日本の怪異の多くは中身ではなく形式に宿る。何が祀られているかではなく、どう祀られているかが恐怖を作る。奉安殿は、その原理をこれ以上ないくらい純度高く示している例だ。中身が完全に消えてもなお、形式だけで八十年こわがられ続けている建物なんだから。
戦後の扱いについても、もう少し補足しておきたい。
撤去の過程を見ていくと、現場の混乱がよくわかる。全国一律に「はい撤去」とはならなかった。まず菊の紋章だけ外せ、という段階があった。次に屋根を改造しろ、という段階があった。この時点では、建物自体は残す前提の指示だ。それが数か月後には全面撤去になる。指示が二転三転している。
学校側の回答も割れている。撤去する、改造する、保留、撤去しない。撤去しないと回答した学校が実際にどうなったかまでは追いきれないけれど、少なくともその時点で「壊したくない」と考えていた現場が確実にあったということだ。理由はいろいろ考えられる。信念からの人もいたし、単に建物がもったいないと思った人もいたし、地域が金を出して建てたものだから勝手に壊せないと考えた人もいただろう。
そして、この「もったいない」が転用を生んだ。壊すのは惜しいから神社に持っていこう、という判断があちこちであった。結果として、消されるはずだった建物が、宗教施設や公民館という形で全国に散らばって生き延びた。命令に真っ向から反対したわけじゃなくて、実務的な判断の積み重ねで残ってしまった。歴史ってこういうふうに残るんだな、と思う。
いま、その残った奉安殿の多くは、文化財として登録されるか、地元の人にすら由来を忘れられているかの、どちらかの状態にある。前者は説明板がついていて、後者はついていない。そして怪異が生えるのは、当然ながら後者のほうだ。
由来を説明した瞬間に、怪異は少し弱くなる。これは怪談の宿命だ。あの塊は昭和十四年に建てられた奉安殿の基礎で、昭和二十一年八月に上物が撤去された、と説明板が立った瞬間、そこは不気味な塊から歴史遺産に変わる。乗ってはいけない理由が、祟りから文化財保護に変わる。
でも、その変換は完全には効かない。説明板を読んだあとでも、夕方に一人でその前に立てば、やっぱり気配は消えないんだよな。説明できることと、こわくないことは、別だからだ。
最後に、この話をどう受け取るかについて、少しだけ書いておきたい。
奉安殿と御真影をめぐる制度については、いまでも評価が分かれる。子どもより写真の保護を優先すると文書に書いてしまった判断について、当時の異常さの象徴だと見る立場がある。一方で、当時の人々の敬意や共同体の結束を、いまの物差しだけで断罪するのは公平でないと見る立場もある。石を運んで建物を作った村の人たちは、誰かに強制されただけの存在だったのか、それとも自分たちの誇りとしてそれをやったのか。
たぶん、その両方が同じ人の中に同居していた。
だから、この話をどっちかの結論に着地させるつもりはない。ここで書きたかったのは、評価じゃなくて構造のほうだ。ある建物が、どういう仕組みで人の身体に禁忌を刻み、その禁忌が制度の消滅後もどうやって生き延び、最終的に怪異という形に変換されたのか。その過程そのものが、恐ろしくもあり、面白くもある。
校庭の隅のコンクリートは、たぶんこれからも残る。掘り返す理由がないからだ。そして子どもは、これからもそこに乗って遊び、乗ってはいけないと誰かに言われ、なぜだめなのかを知らないまま卒業していく。八十年前に石を運んだ子どもがいて、その子が毎朝そこで腰を折り、ある夏に建物が消えて、いま別の子どもがその上でケンケンパをしている。
この連なりのどこかに、まだ誰かが立って頭を下げている気がする。夕方、誰もいない校庭を見たときに、視界の隅で何かが折れ曲がったように見えたら、それはたぶん気のせいだ。気のせいなんだけど、次の日からその場所を避けて歩くようになる。
そうやって、禁忌は次の世代に受け渡されていく。中身のないまま、形式だけが。
それがいちばん、こわい。
