五月の連休が明けたあたりの、あの妙にそわそわした空気を覚えているだろうか。教室の後ろに貼り出された表。日付と時刻と、自分の名字。放課後になると先生がカバンを持って職員室を出ていき、住宅地図をちらちら見ながら自転車をこいでいく。あれが家庭訪問だ。
先生が、生徒の家に来る。玄関を開けて、靴を脱いで、上がってくる。今の感覚だと結構すごいことをやっていたと思う。学校という場所の人間が、生徒の生活圏の内側まで物理的に入ってくるわけだから。しかもそれが行事として制度化されていて、毎年五月に、全国のほとんどの小中学校で一斉にやっていた。
それが、ここ十年ちょっとで消えた。本当に消えた。統計で追える範囲でも、群馬県では公立小中の五割超が廃止していて、宮崎市に至っては市立小学校四十六校のうち実施しているのが三校しかない。学校行事というのは案外しぶといもので、運動会も卒業式も名前を変えながら生き残るのに、家庭訪問だけは丸ごと蒸発した。
そして面白いことに――というか、気味の悪いことに――行事が消えかけるのと前後して、家庭訪問にまつわる怪談が急に語られるようになった。訪問予定表どおりに行ったのに誰も出てこない家。表札はあるのに、その家族は数年前に転居しているか、死んでいる家。担任が知らない子どもの手を引いて、次の家に向かって歩いていくのを見た、という目撃談。
この記事は、その両方の話だ。家庭訪問という行事がどう生まれてどう死んだかという、行政資料と新聞報道で追えるほうの話。そして、その死にかけの行事が生み落とした怪談のほうの話。先に結論めいたことを言っておくと、この二つは無関係じゃない。むしろ、行事が消えかけているからこそ、この怪談は語りやすくなった。
そもそも家庭訪問はどこから来たのか
家庭訪問というのは、実は相当古い。起源をたどると明治にぶつかる。
一八九一年、明治二十四年に公布された小学校教則大綱には、学校と家庭が連絡を取り合うことが児童の教育に有益だ、という方針が示されている。ただし当時の文脈は今とまったく違う。この頃の就学率は、男子でおよそ六十七パーセント、女子に至っては三十二パーセント程度でしかなかった。三人に二人の女の子が学校に来ていない。だから教師が家に行く目的は、まず「学校に来させること」だった。
つまり最初の家庭訪問は、面談じゃなくて説得だったわけだ。うちの子は畑を手伝わせなきゃいけない、女に学問はいらない、そういう親を訪ね歩いて、学校に寄越してくださいと頭を下げる仕事。今の家庭訪問のイメージとはずいぶん違う。教師が家の敷居をまたぐ理由が、そもそも「そこに来ていない子どもがいるから」だった。
この「来ていない子を家まで見に行く」という原型は、後々までしぶとく残る。というか、後で書くけれど、二〇二〇年代に家庭訪問が全滅しかけたときに最後まで残ったのがまさにこの機能だ。全員一律の訪問はやめても、不登校の子や欠席が続く子のところには行く。百三十年経っても、教師が家に行く一番強い理由は変わっていない。
戦後になって、家庭訪問は性格を変える。昭和三十年代以降、学校と家庭の距離を縮める手段として全国に定着していった。四月の下旬から五月にかけて、学級の全員の家を回る。学校での様子を伝え、家庭での様子を聞き、通学路を確認し、住所を頭に入れる。学級経営の方針を説明する。日本大百科全書の項目でも、児童生徒の家を訪ねて学校での様子や成績の状態を親に報告し、学校と家庭の連携を図る行事、と説明されている。
重要なのは、これが法律で義務づけられた行事ではないということだ。学校教育法にも施行規則にも「家庭訪問をせよ」という条文はない。文部科学省が家庭訪問を義務化したことは一度もない。にもかかわらず、日本中の小中学校がほぼ例外なく、毎年五月に同じことをやっていた。誰も命じていないのに全国が足並みを揃えていた行事。これは日本の学校のかなり不気味な特性で、後で怪談の話をするときにも効いてくる。
昭和の家庭訪問は、どういう空気だったか
当時を知っている人の証言を読むと、あの行事がどれだけ特殊な緊張感を帯びていたかがよくわかる。
母親は前日に家中を念入りに掃除する。普段より高級な茶と菓子を用意する。子どもは授業が短縮されるのを喜びつつ、先生が菓子に手をつけませんようにと祈る。あとで自分が食べるためだ。たいていの先生は手をつけないが、友達のところでは担任がしっかり食べて悔しがった、というような話。ある元校長が書き残しているエピソードだけれど、この解像度がやたら高いのがいい。
あの行事の本質は教育的な面談じゃなくて、家の見栄と、子どもの菓子への執着だった。
保護者にとっては、うちはちゃんとした家です、というアピールの機会でもあった。だから掃除する。だから良い菓子を出す。玄関に何を置くか、通す部屋をどこにするか、そういうことを本気で考える家がいくらでもあった。
教師の側の証言はもっと生々しい。六十年以上前、広島県の中国山地の中学校に新任で赴任した教師の回想がある。島根県境の集落から四人の生徒が通ってきていて、そこまで生徒に先導されて自転車で一時間かけて家庭訪問に行く。すると保護者が「先生様、この地によくおいでになった」と満面の笑みで迎えて、いきなり地酒を出してくる。当時、出されたものは全て飲み食いするのが常識だと先輩教師に教わっていたので、断らない。
一杯が二杯になる。そのまま酔って次の家に行く。次の家でも同じ歓待。四軒目でついにぐったりして、保護者と生徒に介抱され、軽トラックに自転車ごと積まれて下宿まで送り届けられた。
この話、今やったら確実に懲戒案件だ。本人も回想の中でそう書いている。でも当時はそれで教育上の問題にすらならなかった。家庭訪問というのは、そういう温度の行事だった。地域と学校の距離が近くて、教師が「先生様」と呼ばれて、家に上がって飲み食いすることが関係づくりだと真顔で信じられていた時代の産物。
もう少し新しい世代の教師のブログも残っている。家庭訪問は別に大変じゃない、どんな話が出てくるか楽しみだ、大変なのは道がわからないことと時間が遅れることだ、あとコーヒーがよく出てくるので腹の調子がおかしくなることだ――という、身も蓋もないやつ。基本スタイルは笑顔で「こんにちは」から入って、話すより聞かせてもらうこと。菓子が出たら基本的に食べて帰りたい、ショートケーキなら絶対に手をつける。
この正直さが逆に信用できる。
この「出されたものを飲む」という文化は、後年ちょっとした事件を生む。二〇二四年四月、ある教員がSNSに書いた話がそこそこ広まった。前任校で家庭訪問をしていたとき、トイレに行きたくなったので途中でコンビニに寄った。何も買わないのは悪いと思ってレッドブルか何かを買った。そうしたら後日、勤務時間中に休憩していたと地域から通報された、という。
訪問先で毎回お茶を飲んだらトイレに行きたくなるに決まっているだろう、という当然の抗議つきで。
この投稿には教員から山ほど反応がついた。尿意を考えてお茶を固辞したら「うちのお茶が飲めんのか」と言われた、一軒飲んだら次も断れなくなった、コンビニのない時代は学校まで戻ってトイレに行っていた、一切飲みませんと徹底したら軽い脱水症状になった――そういう話がぞろぞろ出てきた。迎える側も行く側も大変だわ、という一言で締められていて、たしかにそのとおりだと思う。
一方で、家庭訪問でしか起きないことがあったのも事実だ。ある若手教員が書いている話がすごくいい。玄関で靴を脱ぎかけたら、肉の焼ける匂いが暴力的に鼻に届く。通されたのはダイニングテーブルの真ん中で、目の前に白飯とサラダと味噌汁と、でかいステーキ。担任している子は「えっ先生も一緒に食べるの」と目を丸くしたあと「やったあ」と笑った。
必死に辞退したが、自分が来る時間に合わせて用意されたのは明らかで、断るほうが失礼だと思って食べた。
食事が終わったあと、祖母がぽつりと言う。この子はね、「先生が学校ではお母さんやねんて」と、一緒に寝るときに何度も言うんですよ、と。その子は幼い頃に母親と死別していて、事情があって祖父母のもとで育てられていた。教師のほうは、なりたてで何も深く考えずに、学校では自分が母親代わりだよという意味のことを言ったのを覚えていた。その何気ない一言が家で何度も話題になっていたことを、そこで初めて知る。
仏壇の前の写真立ての中で、アルバムの中と同じ笑顔の母親が写っている。
この教師は帰り道、自転車で風を切って泣いている。学校に戻ってから真っ赤な目を同僚に悟られないよう、少し遠回りして帰ったという。そして最後にこう書いている。あれは、とあるウイルスによって世界が一変する前の記憶だ、と。
そう、ここからが本題になる。
二〇一〇年代、行事が静かに削られはじめる
家庭訪問がいつ死にはじめたのかを一日に特定するのは無理だ。でも、ゆるやかな地滑りの開始地点はだいたい見える。
首都圏では二〇〇〇年頃から廃止の動きが見えはじめていた。共働き世帯の増加で、平日の昼間に保護者が家にいることが前提にできなくなった。加えて、そもそも一日に四軒か五軒しか回れないという効率の悪さがある。学級三十五人を回ろうとすると、七日から九日かかる。その期間、学校は午前授業か四時間授業にせざるを得ない。
子どもにしっかり勉強させろと言っているそばから授業を削るのはどうなんだ、という声が校内から出はじめる。
二〇一一年には三鷹市が一律の家庭訪問をすでにやめている。この時点ではまだ珍しい判断だった。
流れが変わるのが二〇一八年前後だ。働き方改革関連法が成立したあたりから、各自治体の教育委員会の報告書に「教師の負担を軽減するため、家庭訪問を見直します」という記述が急増する。これは複数の教育情報メディアが指摘していることで、たしかに時期が一致している。
背中を押したのが、二〇一九年一月二十五日の中央教育審議会答申だ。正式には「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」という、名前だけで疲れるやつ。第二百十三号答申。ここで学校や教師が担ってきた業務が仕分けされて、これは学校がやらなくていい、これは教師以外がやるべき、という整理が示された。
この仕分けの発想が全国の教育委員会に降りてきて、じゃあうちの学校で削れる業務は何だ、という洗い出しが一斉に始まる。
そのリストに、家庭訪問はほぼ必ず載った。
数字で言うとどれくらい教員が追い詰められていたかというと、令和四年度の教員勤務実態調査では、中学校の教諭のおよそ三十六パーセントが週六十時間以上働いていた。いわゆる過労死ラインだ。国の指針で定められた時間外在校等時間の上限を通常期に超えていた割合は、小学校で六十五パーセント、中学校で七十七パーセントにのぼる。三人に二人、四人に三人という水準。
この状態で「五月に一週間かけて全家庭を回りましょう」と言われても、そりゃ無理だという話になる。
京都新聞のインタビューに答えた教員の言葉が端的だった。現場は過労死レベルの働き方をしている、やめられることはやめないと教育が崩壊する、と。同じ記事には逆の立場の教員も出てくる。生活上の課題を抱えている子どもの支援に家庭訪問は欠かせない、と。同じ職員室の中で真っ二つに割れる。これは今も続いている。
群馬県の調査が突きつけた数字
家庭訪問の消滅について、たぶん日本で一番くっきり数字が出ているのが群馬県だ。
きっかけは二〇二二年十二月二十三日に出された提言だった。群馬県と県内市町村の教育委員会職員、それに学校長らでつくる協議会が、教職員の負担解消に向けた取り組みを県教委に提言した。この提言は「学校向け」「教育委員会向け」「保護者・地域向け」の三つに分かれていて、それぞれで多忙化解消のためにできることが例示されている。
そして「学校向け」の、廃止できる業務の筆頭に挙がったのが「定例的な家庭訪問」だった。並んでいるのは「夜間の電話対応」と「夏休みの水泳指導・プール開放」。読売新聞が二〇二二年十二月二十九日に報じている。提言では、家庭訪問については来校形式やオンライン面談に代えることができる、としつつ、児童生徒の安全に関わることなど必要な訪問は引き続き実施する、と但し書きがついていた。
その二カ月後、二〇二三年二月八日に上毛新聞が県教委の調査結果を報じる。県内の公立小中学校の五十五・六パーセント、二百四十四校がすでに家庭訪問を廃止していた。半数超。翌九日の記事では、六割近くが既に廃止しているという書き方になっている。廃止の理由として挙がっていたのが、教員の働き方改革と、家庭環境の多様化だ。
さらに衝撃的なのが、同年二月十九日の上毛新聞のコラム「三山春秋」に書かれた数字だ。県教委による教職員の業務状況調査で、公立小中学校の八十三・四パーセントが家庭訪問を廃止または縮小していることが明らかになった、とある。加えて、廃止・縮小を考えている学校が六・六パーセント。合計すると九十パーセントになる。五月の恒例行事が、県全体でほぼ絶滅していたことになる。
このコラムの書き出しがまた良くて、筆者の母親が小学校の教員で、家庭訪問は新年度最初の大仕事だった、という個人的な思い出から入っている。カーナビも地図アプリもなかった三十年以上前、期間中は毎日、住宅地図を開いて効率的なルートづくりを手伝った、と。この「住宅地図を開いてルートを作る」という作業は、この記事の後半で怪談の話をするときにもう一度出てくる。覚えておいてほしい。
群馬の後を追うように、全国で同じことが起きていた。読売新聞が二〇二二年十一月一日に報じたところでは、大分県竹田市がコロナ禍で多くの学校が家庭訪問を中止したものの特段の不都合はなかったとして、その年度から全十七小中学校で家庭訪問を廃止している。神戸市では希望する家庭にだけ訪問する学校が増えた。
そして通学路の安全確認などのために、家の場所だけ確認して回る「表札訪問」に切り替えた学校も少なくない、と書かれている。
表札訪問。この言葉、行政用語としてはただの業務名なんだけれど、怪談の文脈に置くと途端に不穏になる。人と会わずに、表札だけを見て回る仕事。
コロナ禍がとどめを刺した
決定打は二〇二〇年だ。
二〇二〇年二月末の全国一斉休校要請から、学校は完全に平常運転を失った。文部科学省の調査によると、五月十一日正午時点で休校している学校は全体の八十六パーセント。小学校で八十八パーセント、中学校で八十八パーセント、高等学校で八十九パーセント。公立学校の休校終了予定日は五月二十五日から三十一日までが八十パーセントで最多だった。
登校日については、設定していないが三十三パーセント、週一回程度以下が二十七パーセント、週二回程度以上が二十一パーセント、設定に向け検討中が十九パーセント。
つまり五月、家庭訪問のシーズンに、そもそも学校が開いていなかった。
この時期、文科省は矢継ぎ早に事務連絡を出している。この記事の軸として押さえておきたいのが、令和二年五月十三日付の事務連絡だ。文部科学省初等中等教育局健康教育・食育課が出した「新型コロナウイルス感染症に対応した小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校等における教育活動の再開等に関するQ&Aの送付について」という文書。
この中の問二十六で、児童生徒の学習状況の把握について、登校日の設定や家庭訪問の実施、電話、電子メール等の様々な手段を通じて学習の状況や成果をきめ細かく把握すること、と書かれている。問六十三では、児童生徒の心身の状況把握のために家庭と連携することが求められ、児童虐待防止の観点も含めた家庭との連絡体制の構築が必要だとされている。
ここがねじれているところだ。国は家庭訪問を禁止していない。むしろ「家庭訪問の実施」を、状況把握の手段のひとつとして名指しで挙げている。禁止どころか推奨に近い。にもかかわらず現場では、感染対策として対面接触を減らす方向に一気に振れた。国の文書に書かれた「家庭訪問」の三文字は、あくまで並列された選択肢のひとつでしかなく、電話とメールという同じ列に並んだ瞬間に、わざわざ足を運ぶ理由が消えた。
そして一度やめてみたら、誰も困らなかった。ここが一番大きい。
大分県竹田市の例がまさにそれだ。コロナで中止した、特段の不都合はなかった、じゃあやめよう。宮崎でUMKテレビ宮崎が取材したときも、コロナ禍をきっかけに家庭訪問をやめたという小学校が多く、理由として保護者の負担軽減と教員の働き方改革を挙げていた、と報じられている。京都市教育委員会も、二〇二〇年の一斉休校を機に年度始めの家庭訪問を実施する学校は減少した、と説明している。
行事というのは、続いている間は誰も理由を問わない。一度止まると、再開する理由を誰かが説明しなければならなくなる。そして家庭訪問の場合、説明できる人がいなかった。義務でもないし、法的根拠もないし、成果が数字で出るわけでもない。再開の理由を用意できないまま、静かに消えた。
玄関先、自宅確認、そして誰にも会わない訪問へ
今の家庭訪問がどうなっているか、具体例で見たほうが早い。
栃木県の下野新聞が二〇二四年六月三十日に報じた宇都宮市城山西小の例。以前は対面で家庭訪問をしていたが、コロナの感染拡大時に、家の場所や通学路を確認する「自宅確認」に変更した。二〇二三年度からは希望制で面談を復活させている。ただし希望者の家でも、家には上がらない。玄関先で児童の様子などを報告する。そして希望しなかった家については、ポストに訪問を知らせる書類を入れて回る。
この最後の一行が地味に効いてくる。教員が家の前まで行く。誰も出てこない。ポストに紙を入れて、次の家に行く。それが正規の業務として設計されている。
宮崎の例はもっと徹底している。UMKテレビ宮崎が二〇二五年五月に調べたところ、宮崎市の市立小学校四十六校のうち、家庭訪問を行っているのはわずか三校だった。四十三校がやめている。県教育委員会によれば、こうした傾向は他の市町村でも見られ、家庭訪問を実施しない学校が多くを占めているという。
宮崎市の宮崎南小学校では、二〇二四年度から家庭訪問の代わりに、四月末から五月中旬にかけて保護者との個人面談を行っている。森康彦校長のコメントが実務的で説得力がある。家庭訪問はどうしても教員が各家庭を回る移動時間があったが、個人面談のほうがたっぷり時間がとれて、ゆっくりと子どもについて話す時間が確保できるようになったのが最大のメリットだ、と。
同校では多いときで教員が半日に七軒回る必要があったという。半日で七軒。単純計算で一軒あたりの持ち時間は移動込みで三十分ちょっと。実際に話せるのは十分あるかどうか。それが個人面談だと、落ち着いて十分話せる。
現場の教員のコメントもリアルだ。マップに住所を入れ込んで、どういう順路で行くかを確認する作業が大変だった、次の家庭にすぐ行くというプレッシャーもあった、個人面談のほうが余裕がある、と。この「マップに住所を入れ込む」という作業――住宅地図にせよ地図アプリにせよ――が、家庭訪問という行事の裏側にずっとあった。三十五軒の住所を地図上に落とし、最短経路を組み、時間割に落とし込む。
あの訪問予定表は、そうやって作られていた。
京都市の状況は少し違う。京都市教育委員会によると、家庭訪問の実態を調査したことはないものの、二〇二〇年の一斉休校を機に減少しており、現在、小学校は半数程度、中学校は三分の一以下の学校が実施しているという。全児童生徒対象の家庭訪問をやめた学校では、希望する家庭だけ行ったり、校内での個人面談に切り替えたりしている。
徳島でも同じことが起きていて、徳島新聞は二〇二六年四月二十四日に、県内の小学校で個人懇談への切り替えが増えていると報じている。コロナ禍をきっかけに変更する学校が出はじめて広がった、という説明も他県と同じだ。一方で、緊急時に備えた自宅の確認などを目的に家庭訪問を重視する学校もある、と両論併記になっている。
移行先のバリエーションもだいぶ増えた。学校での三者懇談。希望者のみの家庭訪問。オンライン面談。夏休みなどにずらしての家庭訪問。そして「地域訪問」――教師が学区を歩いて回り、地理や土地柄を確認するだけの形式。宮崎県教委によれば、個人面談とは別に、教員が子どもたちの自宅周辺を見回る学校もあるという。
地域訪問。学区を歩く。人の家には入らない。表札を確認する。ポストに紙を入れる。
家庭訪問という行事は、こうして「人と会う行為」から「場所を確認する行為」へと変質した。行事の名前は残っているのに、中身から人間が抜けている。この変質が、後半で扱う怪談の温床になる。
先生たちの本音
家庭訪問をめぐる教員側の本音は、きれいに二つに割れている。
やめたい派の言い分はシンプルだ。時間がない。地方の中学校に勤めるベテラン教員が週刊ポストの取材に答えた話が、廃止派の論点をほぼ網羅している。家庭訪問をやると、その期間は四時間授業にせざるを得ない。子どもにしっかり勉強をと言っているのにそれはどうなのか、という意見がひとつ。共働き家庭だと、学校側が決めた時間に家にいなければならないことを嫌がるケースもある。
そして残念ながら、今のご時世では先生という存在があまり親から信頼されていない。先生と話しても意味がないという親も増えているし、そういうなかで家庭訪問をしたくないという先生も少なくない、と。
この「先生と話しても意味がない」という一文が刺さる。行事が消える理由は、忙しさだけじゃない。行事の前提になっていた信頼関係が先に消えていた。
一方で、同じベテラン教員は家庭訪問の意義もはっきり語っている。生活指導主事という立場が長かったからそう感じるのかもしれないが、家庭訪問はすごく大事だ、と。家庭の様子、保護者の人柄を知って、すぐに話ができる関係を作っておくと、生徒に何かあったときにスムーズに対処できる。もしものケースがなければ無駄になるかもしれないが、保護者と教師が信頼を築く機会は今後もあったほうがいい、と。
続けてこうも言っている。ただ、プライバシーへの配慮も重視されるなかで、家庭の込み入った事情に踏み込んだ話はしにくいことも悩みだ、と。ここも重要だ。家に上がっているのに、家の話ができない。行為だけが残って目的が抜けている状態。
若手教員への研修の記録も残っている。ある学校で家庭訪問前に若年教員を集めて研修をしたとき、目的は何かという問いに対して、ある教師が言った一言が秀逸だったという。まず、聴くこと。聴くことで、この先生には何でも話せるという信頼を持ってもらえる。それがないと、何を伝えても伝わらない――と。
研修では「訪問先でお茶を勧められたらどうするか」も議論になって、少しだけ手をつける派と絶対に手をつけない派に二分されたそうだ。指導した側の結論は、あまり固辞するのもよくない、正直に事情を伝えて感謝して少しだけいただくのがいい、というものだった。
元中学校教師が書いている、迎える側へのアドバイスもある。お茶よりペットボトルのほうが助かる、飲まなかったら持ち帰れるから。だから保護者は必ず「先生、持って帰ってくださいね」と言ってあげてほしい、と。あと、家に上がってもらう場合は「先生、足を崩してくださいね」と言ってあげてほしいとも書いている。
若い頃は足を崩すことができずずっと正座をし続けていて、話が終わって立ち上がろうとしたときに大変なことになった、という実感からのアドバイスらしい。
そして、不登校対応の文脈での家庭訪問はまったく別の重さを持っている。元小学校教員でスクールカウンセラーになった人が書いている記事が、この温度をよく伝えている。訪問を断られると担任としてはショックだ、これは本音だ、何とかしたくて連絡しているのでそこを断られると自分の関わり方が否定されたように感じる、と正直に書いている。
そのうえで、学校が本当に困るのは断られることではなく、連絡が完全に途切れることだ、と。長く欠席が続く子について、学校は安否と状況を確認する立場にある。連絡が完全に取れないと、先生は「確認する」ためだけに動かざるを得なくなり、そこで初めて訪問の頻度が上がる、と説明されている。
「確認するためだけに動く」。この表現は、後で怪談の話をするときにもう一度出てくる。
保護者たちの本音
保護者側も一枚岩じゃない。宮崎の取材で拾われた声は、圧倒的に廃止歓迎だった。掃除しなくてよかったり、お茶菓子を用意しなくてよかったり、手間が省けて楽になるのはうれしい。家庭で待っている緊張感がなくなり、先生方の負担もなくなったのですごくいい。まあ、そうだよなと思う。
京都新聞が拾った声はもっと複雑だ。京都市西京区の会社員女性、四十四歳。今も家庭訪問のある小学校に子どもを通わせている。子どもの学校での様子は知りたいが、個人面談でも聞ける、家庭訪問はなくていい、という立場。自宅に担任を迎えるのに仕事の調整や特別な準備が必要だったわけではなく、負担感はあまりないという。ただ、こう続けている。
家に先生を入れるのが嫌だという保護者もいると聞く、家庭訪問は子どもの背景を知っておきたい先生側の都合ではないか、と。
先生側の都合。この見立てはたぶん半分正しくて、半分は残酷だ。家庭訪問はもともと、教師が子どもの背景を知るための装置だった。学校では見えない部分を見に行く行為だった。それを「都合」と呼ばれてしまうと、行事の存在意義そのものが揺らぐ。
同じ市の南区に住むパート女性、三十九歳の話はもっと切ない。二年連続で希望制の家庭訪問を断った。理由は、三年前の家庭訪問のときに先生がとても疲れている印象を受けて、自宅まで来てもらうのは悪いと思ったから。断ったうえに個人面談もなかった年は、一年を通して担任と一対一で話す機会がなかったという。それでも本人は、友だち関係はよく、学習面で困っていることもない、特に問題はなかった、と振り返っている。
先生が疲れて見えたから遠慮する。遠慮した結果、一年間まったく話さない。誰も悪くない。誰も怠けていない。それでも接点はゼロになる。これが二〇二〇年代の学校と家庭の距離の取り方だ。
逆の声もある。大津市のアルバイト男性、四十五歳は、家庭訪問に代わって始まった個人面談に必ず足を運ぶ。子どもに何かあったときのために担任がどんな人か知っておきたいから、という理由。そしてこの人は、自分の小学校時代の思い出を語っている。その日に家庭訪問を受ける四、五人の子ども同士で遊ぶ約束をして、家から家へと先生を案内して回った、と。
これ、当時の子どもにとって家庭訪問がどういうイベントだったかを一発で説明している。先生が地域を移動していく。子どもたちがその移動に付き添う。行列ができる。学区の中を、担任と子どもの一団がぞろぞろ歩いていく。
覚えておいてほしい。この光景が、後で語る怪談の「型」のひとつと、ぞっとするほどよく似ている。
宮崎の取材で拾われた惜しむ声も紹介しておく。家庭訪問の場合は、先生が家庭環境や生活空間などを見るいい機会になると思うので、その辺が狭まってしまうのは残念だ、という保護者の声。そして教員側からも、家庭を見ることでわかる子どもたちの様子もあるので、子どもたちとの関わり方を考えるという点では家庭訪問ならではの良さがある、という声が出ている。
そして、これはもう少し重い話になるけれど、家庭訪問の消滅は虐待やネグレクトの発見という機能にも影響している。長野県教育委員会などが二〇二〇年七月から八月に県内の公立小中学校五百三十九校に行った調査では、感染対策で家庭訪問ができないことなどを理由に「不登校の支援が不十分になった」と回答した学校が一割、四十九校にのぼった。
同じ時期、児童相談所の現場でも自宅訪問が難しくなっていた。関係者によれば「コロナの感染不安」を盾に自宅訪問を拒絶するケースが目立ったという。群馬県中央児童相談所は二〇二一年から、感染不安を理由に訪問を拒む家庭にリモートで面会する取り組みを始めた。同所の富田昌志所長は、画面を通じて少しでも生活状況を把握し、保護者との信頼関係の構築に役立てたい、と語っている。
そもそも、教師が家に行くという行為が虐待発見の網の目として意識されるようになったのには背景がある。二〇一九年一月に千葉県野田市で小学四年生の女児が亡くなった事件を受けて、国は緊急の点検を実施した。二〇一九年二月一日から二月十四日までの間に一日も登校していない子どもについて、全国で状況を調べるというもの。対象は幼稚園から高校に加え、保育所や障害者通所支援事業所にも及んだ。
調査対象となった子どもの人数が最も多かったのは千葉県で、面会できなかった件数が最も多かったのは東京都だった。
面会できなかった件数。行政文書の中に、しれっとこの言葉が並ぶ。訪ねたのに会えなかった子どもが、数として存在している。
ここからが本題――家庭訪問という行事が生んだ怪談
さて。ここまでが現実の話だ。ここからは、その現実の隙間で語られてきた話をする。
家庭訪問の怪談には、いくつか繰り返し出てくる型がある。それぞれ独立して語られることもあるし、混ざって語られることもある。まずは型ごとに整理していく。
予定表どおりに行った家に、誰も出てこない
一番よく聞くのがこれだ。骨格はこうなる。
担任が訪問予定表に従って家を回っている。何軒目かで、表に書かれた時刻ちょうどにインターホンを押す。応答がない。もう一度押す。応答がない。ノックする。中で人の気配はする。テレビの音がする、水が流れる音がする、廊下を歩く足音がする。でも誰も出てこない。翌日、その子に「昨日いなかったの」と聞くと、その子は「先生、うちに来ましたか」と不思議そうな顔をする。母親はずっと家にいた、と言う。
時間になっても誰も来なかったのでずっと待っていた、と。
この型のポイントは、失敗が双方向であることだ。先生は行った。家族は待っていた。それでも会っていない。同じ時刻に、同じ住所で、二つの出来事がすれ違っている。
バリエーションとして、家の外観がおかしい版もある。表に書かれた住所に行くと、たしかにその番地に家はあるのだが、明らかに人が住んでいない。庭が荒れている。ポストが郵便物であふれている。カーテンがない。それでも表札には、担任が名簿で見た名字が入っている。翌日確認すると、その子の家は同じ町内の別の場所だと言われる。そして先生が行った番地に、そんな表札の家はない。
表札の家族が、数年前に転居しているか死んでいる
さっきの型を一段深くしたのがこれだ。
担任が訪問した家で、普通に応対されて、普通に話をして帰ってくる。何もおかしなことはない。ところが後日、その家がもう何年も空き家だったことがわかる。あるいは、応対した母親が数年前に亡くなっていたことがわかる。近所の人に聞くと、あそこは相続人もいなくて長らく誰も住んでいない、と言われる。
この型は、家庭訪問固有のものというより、日本の怪談の中でもかなり古いパターンの応用だ。「表札のない家」という話が知られている。集配のルートの端にひとつだけ表札のない家があって、その家には郵便物が来ることがある。前を通るたびに老婆が門の脇に立っている。先輩に聞くと、その住所への正式な配達は自分が引き継いだ日以降、一件も残っていないという。一週間後、その家から若い夫婦が出てくる。
先月からここに住み始めたんです、と女性が言う。以前はどなたが住んでいたのかと尋ねると、不動産屋から聞いた話では、長年空き家で相続人もいなくて、少なくとも十五年以上は誰も住んでいなかったらしい、と。
家庭訪問版はこの構造をそのまま借りている。ただし郵便配達員と教師では、決定的な違いがある。配達員はポストまでしか行かない。教師は家に上がる。上がって、座って、茶を出されて、飲む。存在しない家族と、四十分ほど会話をして帰ってくる。
もうひとつよく語られる派生が「あみちゃん」型と呼べるものだ。元になっているのは、集合住宅の真下の部屋に住んでいた母子家庭の女の子が、ある日から突然いなくなり、代わりに老夫婦が住んでいて、しかも何年も前からここに住んでいると言われる、という話。一週間前にすれ違って挨拶したはずなのに。そして後日、大家と警察に確認すると、その部屋は何年も前から空き家で誰もいない、と言われてしまう。
家庭訪問版では、これが担任の視点になる。先週まで名簿にいた子の家に行くと、まったく別の家族が出てきて、この家に十年住んでいますと言う。学校に戻って名簿を確認すると、その子の欄がない。
担任が、見知らぬ子どもを連れて次の家へ歩いていく
個人的に一番きついのがこれだ。
家庭訪問の日の夕方、児童が自宅の窓から外を見ると、担任が学区の道を歩いている。次の家に向かっているのだろう。ただ、担任の隣に子どもがいる。手を引かれているのか、並んでいるのか。制服とも私服ともつかない格好で、顔がよく見えない。同じクラスの誰でもない。翌日、担任にあの子は誰ですかと聞くと、担任は「昨日は一人で回っていたよ」と答える。
この型が怖いのは、視点が反転している点だ。他の二つは教師の視点で語られる。教師が家に行って、家が変だった、という構造。でもこの型だけは、生徒の視点から教師が観察される。しかも家の中から、外を歩く教師を見ている。生徒の生活圏に入ってきたはずの教師が、生活圏の中を、知らない者を連れて移動している。
そして、この型には現実側の元ネタらしきものがある。さっき紹介した大津市の男性の思い出――家庭訪問を受ける子ども同士で遊ぶ約束をして、家から家へと先生を案内して回った――がそれだ。昭和から平成にかけて、家庭訪問の日に子どもが担任を先導して学区を歩く光景は、実際にあちこちで見られた。広島の山あいの中学校でも、生徒に先導されて自転車で家庭訪問に行っている。
つまり「担任が子どもを連れて学区を歩く」というのは、怪異でもなんでもなく、ごく普通の風景だった。普通の風景だったからこそ、そこに一人だけ知らない子が混じっていたときの気持ち悪さが際立つ。怪談というのはたいてい、そういうふうにできている。
家庭訪問のあとに、家族が一人増えている
これも派生としてよく語られる。担任が帰ったあと、その家では家族の人数が合わなくなる。食卓に茶碗が一つ多い。風呂の湯が減っている。夜中に廊下を歩く音がする。母親は「先生、うちに何か置いていったのかしら」と言う。翌年、その家の子が転校していく。
この型は、来訪者が何かを置いていくという、日本の民間伝承の古い層とつながっている。座敷童子の来訪や、旅の僧が家に一夜の宿を借りる話の反転版。家庭訪問という近代の制度が、訪問者にまつわる古い物語の器をそのまま借りている、と考えると納得がいく。
訪問予定表に、いない生徒の名前がある
最後にもうひとつ。教室の後ろに貼り出された訪問予定表に、クラスにいない生徒の名字が書かれている、という型。担任に聞くと、そんな名前は書いていないと言われる。翌日見ると、その行は消えている。あるいは逆に、自分の名前がどこにもない。何日探しても見つからない。そして自分の家には、その年、誰も来ない。
これは学校の怪談の中でも王道中の王道、「知らない生徒」型の応用だ。放課後の誰もいない教室に一人だけ座っている子がいて、普通に会話してバイバイするけれど、教室から出た途端に相手が誰だったか忘れてしまう、という話がよく知られている。すぐに戻っても誰もいない。家庭訪問版はそれを、名簿と予定表という書類の上でやる。
学校の怪談における「書類」の力は独特で、時間割や名簿や座席表といった紙の上に異物が混ざるという発想は、学校という制度が紙で回っていることを子どもがよく知っているから成立する。
語られてきた話――三つ
ここからは、実際に語られてきた形に近い形で三つ書く。いずれも匿名の語りとして流通しているもので、細部は語り手によって揺れる。特定の学校や人物を指すものではない。
一軒目、四時十五分の家
これは二十年ほど前に小学校で担任をしていたという人の話として広まっているものだ。
その年、赴任したばかりで学区の地理がまったくわかっていなかった。だから家庭訪問の前の週は、毎晩職員室に残って住宅地図を広げ、児童三十二人の住所を全部書き込んで、四日間で回るルートを作った。ベテランの先輩が「初任は絶対に道に迷うから、一軒あたり移動十分は見ておけ」と言うので、そのとおりに組んだ。
三日目の午後、四時十五分の家に問題があった。地図上では、川沿いの道から一本入った古い住宅地。行ってみると、たしかにその番地に家はある。木造の二階建て。門柱に表札もある。名簿と同じ名字だ。ただ、明らかに人の住んでいる家ではなかった。庭にひざ丈の草が生えていて、雨戸が全部閉まっている。
時間より三分早かったので、門の前で待った。四時十五分ちょうどにインターホンを押した。押した感触はあったが、中で鳴っている音は聞こえなかった。もう一度押した。同じ。仕方なく引き戸をノックした。そのとき、家の中から音がした。廊下を歩く音だ。スリッパの音だと思った。近づいてきて、玄関の内側で止まった。
「こんにちは。学校の者です」と言った。返事はない。人が立っている気配がする。すりガラスの向こうに、影のようなものが見えた気もするが、後から考えるとそれは自分の思い込みかもしれない。三分ほどそこにいて、諦めて次の家に向かった。次の家では時間が押していると言って謝った。
翌日、その子に「昨日、家にいなかった」と聞いた。その子はきょとんとして、「先生、来なかったよ」と言った。お母さんがずっと待っていた、四時十五分から五時まで待って、来なかったから学校に電話しようかと言っていた、と。
放課後に電話をかけた。母親が出て、平謝りされた。うちが場所をちゃんとお伝えしていなかったのかもしれません、と。住所を口頭で確認して、地図を見ながら照合した。番地が一つ違っていた。自分が行ったのは、名簿にあるのとは違う番地だった。
それだけの話なら、ただの見間違いだ。実際、そう思って忘れようとした。ただ、その週の日曜日に、どうしても気になって自転車でもう一度その家を見に行った。木造二階建て、庭に草、雨戸。門柱を見た。
表札がなかった。門柱に、四角い変色の跡だけが残っていた。長いあいだ表札がかかっていて、外された跡のように見えた。少なくとも三日前に自分が見たときには、そこに名字が入っていたはずだった。
この人は、その後も同じ学校に六年勤めたが、その家の前を通るルートは二度と使わなかったという。
二軒目、去年もいらっしゃいましたよね
これは保護者側から語られる話だ。
その家は母と娘の二人暮らしで、娘は小学校の三年生だった。二〇二〇年代の初めごろ、その学校はまだ希望制の家庭訪問を残していた。母親は、担任がどういう人か見ておきたかったので希望を出した。
指定された日、玄関先で十分ほど話す予定だった。時間ちょうどにチャイムが鳴って、若い女性の担任が立っていた。挨拶をして、学校での様子を聞いて、こちらからも家での様子を伝えた。話しやすい人で、結局二十分ほど話した。
最後に、担任がこう言った。「去年もお邪魔しましたよね。玄関のこの、木の傘立て、覚えてます」と。
母親は固まった。この家に引っ越してきたのは、その年の三月だ。去年、この住所に自分たちは住んでいない。しかも傘立ては引っ越しのときに買った新しいもので、前の家では使っていない。
「いえ、うち、今年からなんです」と言った。担任は「あら」と言って、少し考えて、「じゃあ、間違えました。すみません」と笑った。そして、その笑い方が変だったという。困った笑いではなく、思い出したことを訂正する笑いでもなく、何か聞いてはいけないことを聞いてしまったときの、あの一瞬息が止まる笑い方だった。
母親は後日、不動産屋に電話して、この部屋の前の入居者について聞いた。教えられるわけがないのだが、それでも聞いた。担当者は口ごもってから、「事故物件ではありませんので、そこはご安心ください」と言った。聞いていないことを先に否定された。
その年、娘は二学期の途中から学校を休みがちになった。理由を聞くと、「先生が、うちに来る前の道で誰かと話しているのが見える」と言ったという。母親は転校を考えたが、結局しなかった。四年生で担任が替わってから、娘は普通に通うようになった。
母親が今も引っかかっているのは、担任が「去年もお邪魔しましたよね」と言ったことではない。傘立てを覚えていると言ったことだ。存在しない訪問の記憶に、実在する新品の傘立てが混ざっていた。それが一番気持ち悪い、と。
三軒目、五人目の子ども
これは、家庭訪問の最終日に自宅の二階から見ていた、という児童の視点の話。
その学区は坂の多い住宅地で、担任は徒歩で回っていた。家庭訪問の週は毎日、四時ごろになると担任が坂を上がってくるのが二階の窓から見えた。誰かの家に入って、二十分くらいで出てきて、また次へ歩いていく。同級生が二人か三人、後ろをついて歩いていることもあった。当時はそれが普通だったので、何とも思わなかった。
最終日の夕方、四時半ごろ。担任が坂を上がってきた。後ろに子どもが四人ついていた。全員知っている顔だった。同じクラスの子たちだ。
ところが、坂の上のカーブを曲がるところで、五人になっていた。
最後尾に、もう一人いた。他の四人より少し背が低くて、色の薄い服を着ていた。半袖のような、袖のないような。五月にしては薄着だと思った。顔はよく見えなかった。うつむいていたのか、こちらから角度が悪かったのか。
その子は、他の四人とは離れて歩いていた。列に加わっているというより、四人と担任のかたまり全体から二メートルくらい後ろを、同じ速度でついていっていた。
窓を開けて「おーい」と呼んだ。四人が振り返って手を振った。担任も振り返って手を挙げた。五人目は振り返らなかった。そのまま歩き続けて、四人と担任が立ち止まっている間も歩いて、そのまま追い越して、坂の上へ消えていった。
翌日、四人のうち二人に「あの後ろにいた子、誰」と聞いた。二人とも「後ろに誰もいなかった」と言った。もう二人にも聞いた。一人は「いたかも」と言い、もう一人は「◯◯じゃない」と、同じクラスの別の子の名前を言った。その子は前日、風邪で休んでいた。
担任にも聞いた。担任は「昨日は四人ついてきていたね」と言った。そして、少し間を置いて、「なんで」と聞いた。その聞き方が、いつもの先生の聞き方ではなかったという。
この語り手は、大人になってからその学校の同窓会でこの話をした。四十人ほどいた席で、覚えている人は誰もいなかった。ただ、二次会で一人だけ近づいてきて、こう言ったという。「あの週、俺の家にも先生が来たんだけど、うちの母親が、玄関に子どもが二人立ってたって言ってた。俺は学校にいた」
掲示板とSNSでは、どう扱われてきたか
家庭訪問の怪談は、いわゆる「洒落怖」の名作リストには入っていない。花子さんやテケテケのような固有名詞を持った怪異もいない。にもかかわらず、微妙にしぶとく語り継がれている。この居心地の悪いポジションが、この怪談の特徴だ。
まず、匿名掲示板の学校怪談スレッドでは、家庭訪問ネタは「季節もの」として扱われてきた。四月下旬から五月にかけて、毎年一定量の投稿が湧く。夏の心霊スポットや、冬の学校の七不思議に比べると規模は小さいが、時期が来ると必ず出てくる。
投稿の傾向には、はっきりした二層構造がある。ひとつは、教師視点の「行った先が変だった」系。もうひとつは、児童視点の「先生が変だった」系。前者は数が多く、細部が実務的で、住宅地図やインターホンや訪問予定表といった小道具が丁寧に描かれる。後者は数が少ないが、読後感が悪い。教師が変だったという話は、幽霊が出る話より格段に処理しづらいからだ。
Q&Aサイトにも、家庭訪問を題材にした「意味がわかると怖い話」がいくつか投稿されている。有名なもののひとつは、家庭訪問に来た先生の質問に母親が一切答えず、隣にいた祖母がすべて代わりに答えた、なぜ母親は言葉を発さなかったのか、という問題形式のもの。この話には後日談があって、質問者本人が「これは自分の話だ」と明かしている。
母親は重度の吃音で、先生と話ができないので、代わりに祖母に話してもらっていた、と。そして質問者は「今年は変わろうと思って家庭訪問のときにチャレンジしたけど、やっぱりまともに話せなかった」と書いている。
これ、怪談として消費されていたものが、途中で現実の話に反転する瞬間だ。ネットの怪談界隈ではこういうことが時々起きる。そして家庭訪問という題材は、この反転が起きやすい。なぜなら家庭訪問の怖さの半分は、超自然的なものではなく「家の中を他人に見られること」だからだ。
創作の分野でも、家庭訪問はホラーの題材として定番化しつつある。小説投稿サイトには、家庭訪問記録の形式を借りたモキュメンタリー作品が複数ある。ある作品は、失踪した二十三歳の教師が残した三年二組の家庭訪問記録という体裁で、二十一人の生徒の家庭を訪ねた記録が並ぶ。
読み進めるうちに、各家庭がおかしいことよりも、その状況で淡々と家庭訪問を続けている教師のほうが常軌を逸していることに気づく、という構造になっている。レビューでは「怖くて笑えて、怖い」と評されていた。
この作品が評価されている理由は、たぶん形式にある。家庭訪問記録という、実在する事務書類のフォーマットを使っている。学校には本当にこの手の記録簿があって、担任は訪問後に所見を書く。その書式の中に異物を混ぜると、それだけで怖い。さっき書いた「書類の力」がここでも効いている。
もう一本、サイコホラー短編として書かれた「家庭訪問」という作品もある。こちらに超常現象は出てこない。母子家庭で、母親の勤務時間の都合で訪問時刻が遅くなり、部活帰りの中学生が担任の車の助手席に乗せられて一緒に自宅へ向かう、という話。父が家を出たときに車も持っていったので、自分の家に車はない。大人の男性が運転する車の助手席に乗るのは小学四年生のとき以来だ、という描写から始まる。
そして自宅で、普段学校では言わない冗談を交えながら母親と笑顔で話す担任を見て、「まるで見知らぬ男の人に見えた」と感じる。
この一文が、家庭訪問怪談の核心を言い当てている気がする。家に来た先生は、学校にいる先生と同一人物なのか。
SNSでの反応は、廃止についての実務的な議論が大半で、怪談についての言及は多くない。ただし毎年五月になると「昔家庭訪問でこんなことがあった」系の投稿が回ってきて、その中に必ず数件、明らかに不穏なものが混ざる。多くは「今思うとあれは何だったんだろう」という締め方をしていて、断定を避けている。この慎重さが、逆にこの怪談の生々しさを保っているように思う。
考察と、その反証
なぜこういう話が生まれるのか。いくつか説がある。順に見ていって、それぞれに対する反論も書く。
一番よく言われるのは、住宅地図説だ。家庭訪問のルートは、住宅地図か地図アプリの上で作られる。三十軒以上の住所を紙の上に落として、線でつないで、時刻を割り振る。この作業は必然的に、実際の街と、紙の上の街のあいだにズレを生む。番地の振り方が古い住宅地は特にそうで、地図上の位置と現地の建物が一致しないことがざらにある。
だから「予定表どおりに行ったら違う家だった」という体験は、怪異でもなんでもなく、日常的に起きていた。それが語られるうちに脚色されて怪談になった、という説明。
これはかなり説得力がある。宮崎の教員が「マップに住所を入れ込んで、どういう順路で行くかを確認する作業が大変だった」と言っているのがまさにそれだし、住宅地図でルートを組んでいた三十年前の教員の話も残っている。
ただ、反証もある。この説だと「誰も出てこない」は説明できても、「表札に名簿と同じ名字が入っていた」が説明できない。番地を間違えた家に、たまたま同じ名字の表札がかかっている確率はそれなりに低い。もちろん、記憶の後付けということはありうる。人は後から辻褄を合わせる。名字が同じだったという記憶は、後から作られた可能性が高い。
二つ目は、空き家説だ。日本の空き家率は上がり続けていて、特に地方の古い住宅地では、外観だけでは住んでいるかどうか判断がつかない家がいくらでもある。管理されている空き家は雨戸が閉まっているだけで庭も荒れていない。そういう家の前に立ったときの、あの判断がつかない感じ。それが恐怖の正体だ、という説明。
これも強い。実際、空き家を舞台にした怪談は日本中にある。二十年近く放置された空き家のリビングで黒電話が鳴った、という群馬の話。長いあいだ誰も帰ってこない家に子どもが忍び込む話。空き家の玄関から子どもがこちらを覗き込んでいる、という合宿所の話。家庭訪問怪談は、この既存の空き家怪談のプールから素材を借りている可能性が高い。
反証としては、家庭訪問怪談の多くは空き家ではなく「普通に人が出てきた家」を舞台にしている点が挙げられる。誰も出てこないより、出てきた人がおかしいほうが、この怪談の主流だ。空き家説はその主流を説明できない。
三つ目は、教師の疲労説。過労死ライン超えの働き方の中で、四時間授業にして午後は延々と歩き回り、行く先々で茶を飲まされ、トイレに行けない。この状態の人間の認知は、普通に信頼できない。見間違い、聞き間違い、記憶の混濁。それを本人が後から怪異として整理した、という説明。
これもかなり効く。特に「家の中で足音がしたのに誰も出てこない」型は、疲労と緊張の中での聴覚の誤作動でほぼ説明がつく。ただ、この説の弱点は、児童視点の話を説明できないことだ。二階の窓から見ていた子どもは疲れていない。
四つ目、これが一番面白い説だと思うのだが、行事の消滅そのものが怪談を生んだ、という説だ。
家庭訪問がまだ全国で当たり前に行われていた頃、この行事の怪談はほとんど記録されていない。学校の怪談の古典的な収集を見ても、トイレ、旧校舎、理科室、音楽室、階段、体育館、プールといった校内空間が圧倒的に多い。家庭訪問はほぼ出てこない。怪談が語られはじめたのは、この行事が消えかけてからだ。
なぜか。行事が現役のうちは、家庭訪問は「みんなの共通体験」だった。共通体験は怪談になりにくい。全員が知っているから、細部の嘘がすぐバレる。ところが行事が消えると、それは「かつてあったらしい奇習」に変わる。先生が家に来て、上がり込んで、茶を飲んでいたらしい。今の中学生からすると意味がわからない。意味がわからない過去の慣習は、怪談の格好の器になる。
この説の反証としては、単に語られていなかっただけで存在はしていた、という可能性がある。子どもの怪談は校内で完結するものが記録されやすく、家庭という私的空間の話は共有されにくい。実際、家庭訪問の話は「うちの家の話」になるので、クラスで語りにくい。語りにくかったから記録が残らなかっただけで、家庭内では語られていた可能性はある。ここは検証しようがない。
なぜこの行事が、こんなに怖い話を吸い寄せるのか
構造の話をしよう。
学校の怪談の研究では、常光徹という民俗学者の仕事がよく参照される。この人は中学校の教員でもあった人で、一九九〇年から講談社KK文庫で子ども向けの『学校の怪談』シリーズを出す一方、一九九三年にミネルヴァ書房から『学校の怪談――口承文芸の展開と諸相』という学術書を出している。
この本の中で常光は、学校の中でも特に妖怪騒ぎの多い場所がトイレであることを指摘したうえで、トイレは学校の負の側面を象徴的に示す空間であり、学校の規律や秩序からはみ出た空間であり、絶えず学校の秩序を脅かしつづけている空間だ、と論じている。
そして、妖怪の出現は均質的な集団の緊張を束の間ときほぐし、日ごろうっ積したある種の負のエネルギーを巧妙に放出するための、子どもたちが創出したたくまざる文化装置だ、と結論づけている。この分析は、書評を書いた三浦佑之にも「説得力にとむ」と評価されている。
さて、この枠組みを家庭訪問に当てはめてみるとどうなるか。
トイレが「学校の中の、学校でない場所」だとすると、家庭訪問は「学校でない場所に、学校が出張してくる行為」だ。ベクトルが逆になっている。子どもにとって家というのは、学校の秩序が及ばない唯一の場所だった。制服を脱ぐ場所、成績が言語化されない場所、先生の目がない場所。その場所に、年に一度だけ、先生が入ってくる。
しかも入ってくるのは先生だけだ。ここが決定的に重要で、家庭訪問において、子どもの生活圏の内側に入る権限を持つのは担任だけだった。同級生も入れない。校長も普通は来ない。担任という一人の大人だけが、クラス三十五人の家の内部を、一週間で全部見て回る。
これはよく考えると、とんでもない情報の非対称性だ。担任は、クラスの全員の家の玄関を知っている。間取りを部分的に知っている。仏壇があるかどうかを知っている。冷蔵庫の音や、飼っている犬や、置いてある靴の数を知っている。子どもたちは互いの家を知らない。担任だけが全部知っている。
怪談は、こういう構造のところに必ず湧く。一人だけが全体を見渡せて、他の誰もが部分しか知らない構造。それは要するに、検証が不可能な構造ということだ。担任が「あの家はおかしかった」と言っても、確かめられる人がいない。子どもが「先生が知らない子を連れていた」と言っても、確かめられる人がいない。
もうひとつ。家庭訪問の怪異が発動するのは、たいてい「玄関」だ。上がってしまったあとではなく、まだ入っていないときでもなく、まさに敷居のところ。インターホンを押した直後。ノックの後。すりガラス越し。これは偶然じゃない。玄関は、家庭訪問という行事において、公と私が接触する唯一の点だからだ。
そして皮肉なことに、二〇二〇年代の家庭訪問は、その玄関だけの行事になった。上がらない。玄関先で五分から十分。あるいは、誰も出てこない家のポストに紙を入れて次に行く。行事が縮小した結果、怪異の発生する地点だけが残った。
古い民俗の話をすると、家の敷居や玄関は、日本の伝承では一貫して危険な場所だった。訪ねてくる者は、福をもたらすこともあれば、災いを置いていくこともある。座敷童子は家に憑いて、出ていくときには家を傾ける。旅の僧は一夜の宿の礼に幸をもたらすが、粗末に扱えば呪う。来訪者というのは、そもそも両義的な存在なんだよな。
家庭訪問は、この古い来訪者信仰の近代版だと考えると、いろいろ腑に落ちる。決まった季節に、外から人が来る。家では準備をする。掃除をして、良いものを用意して、待つ。来訪者は家の中を見て、評価して、去る。この構造は、来訪神の行事とほとんど同じだ。だから保護者が家を掃除して高級な菓子を用意していたのは、単なる見栄というより、来訪者を迎える儀礼の残滓だったのかもしれない。
そう考えると、「家庭訪問のあとに家族が一人増えている」型の怪談が生まれた理由も見えてくる。来訪者が何かを置いていくのは、伝承としてはむしろ正統な展開なのだ。
最後に、教師という存在そのものの両義性がある。教師は子どもにとって、権威であると同時に他人だ。名前も顔も知っているが、どこに住んでいるか知らない。家族構成を知らない。休日に何をしているか知らない。一方で教師のほうは、こちらの家を知っている。この非対称は、子どもにとってかなり不気味なはずだ。
さっき紹介した創作短編で、中学生の語り手が、自宅で母親と談笑する担任を見て「まるで見知らぬ男の人に見えた」と感じる場面。あれは怪談じゃないけれど、家庭訪問怪談の心臓部を正確に射抜いている。学校の中では先生という役割を着ている人が、家の中では役割を脱ぎかけている。その中間の状態を、子どもは玄関で目撃する。
なぜこの話は消えないのか
現実の家庭訪問は、ほとんど死んだ。群馬では公立小中の八割超が廃止か縮小、宮崎市では市立小四十六校のうち三校しか残っていない。京都市では小学校の半数、中学校は三分の一以下。大分県竹田市は全校で廃止。宇都宮では自宅確認とポスト投函になり、神戸では希望制になった。全国で同じことが起きている。
行事としては、これはもう戻らないと思う。教員の在校時間は指針の上限を超えたままだし、共働き世帯の比率が下がる見込みもない。家庭環境は多様化する一方で、ひとり親世帯も、外国につながる世帯も増えている。宮崎県教委が言うように、オンライン面談を含めた柔軟な方法を模索していくというのが現実的な着地点だろう。
でも、怪談のほうは残る。というか、これから増えると思う。
理由は単純で、行事が消えるほど、この話は語りやすくなるからだ。今の小学生は、先生が家に上がり込んで茶を飲むという状況を知らない。知らないものは怖い。「昔は先生が家に来て、部屋の中まで見ていったらしいよ」という一文だけで、もう半分怪談になっている。
そして、消えた行事は検証されない。家庭訪問がまだ全国で行われていた頃なら、「そんなことある?」と誰かが確認できた。同級生に聞ける。親に聞ける。今は聞ける相手がいない。行事そのものが伝聞になっている以上、その中で起きたとされる出来事も、まるごと伝聞の海に沈む。
もうひとつ。家庭訪問という行事は、消えたけれど完全には消えていない。ここが厄介だ。全員一律の訪問はやめても、不登校の子や、長く欠席が続く子のところには、今も教師が行く。安否と状況を確認する立場にある、という説明で行く。連絡が完全に取れないと、確認するためだけに動かざるを得なくなる、と現場の人が書いていたとおりだ。
つまり今、教師が家に行くのは、その家に何かがあるときだけになった。かつては全員の家に行っていたから、訪問は日常だった。今は、訪問されること自体が異常事態を意味する。
これは怪談的にはかなりまずい変化だと思う。玄関のチャイムが鳴って、そこに担任が立っている。かつてはそれが五月の風物詩だった。今は、そこに担任が立っているというだけで、何かが起きていることになる。
明治二十四年の小学校教則大綱から数えて百三十年余り。教師が家の前に立つ理由は、最初と同じところに戻った。そこに来ていない子どもがいるから、確認しに行く。
家庭訪問の怪談が繰り返し描いてきたのは、まさにその場面だ。予定表どおりに行った。ちゃんと押した。ちゃんとノックした。中に人の気配がある。それでも、誰も出てこない。
その光景が、行事としての家庭訪問が消えたあとの学校で、これからも実際に起き続ける。だから、この話は消えない。
