- 午前8時30分、鉄の門が動きはじめた
- 期末試験の朝、駅から学校まで生徒があふれていた
- 200メートル手前から、彼女は走りはじめた
- 誰も、すぐには何が起きたか分からなかった
- 「あと10分早ければ」と校長は言った
- 法廷で争われたのは「門を閉めるのは業務か」だった
- 門扉は溶かされ、その日のうちに消えた
- 「遅刻は諸悪の根源だ」という投書が新聞に載った時代
- 東の千葉、西の愛知、そして丸刈りの地図
- この事件で、全国の校門は開いた
- 遺族の三十余年と、毎年ひとつだけ先に置かれている花束
- 事件の4か月後、『学校の怪談』が書店に並んだ
- 採集その一、五時のサイレンと一緒に閉められる校門
- 採集その二、まとめブログのコメント欄で起きた接続
- 採集その三、校門に座りこんでいた白い人影
- 採集その四、正門脇の電話ボックスに背を向けて立つ女学生
- 派生していく「閉まる門」の型
- 高塚高校は心霊スポットになっていない、という事実
- なぜ、規則が人を殺す話はこんなに怖いのか
- 門は、また閉まっている
午前8時30分、鉄の門が動きはじめた
重さ約230キログラム。高さ1.5メートル。長さ6メートル近く。
それが学校の門扉の実測値だと言われても、たぶんピンとこないと思う。
軽自動車の半分弱、と言えば少しは伝わるだろうか。
レールの上を横に滑る、鉄製のスライド式の門。押せば動く。動きはじめたら、簡単には止まらない。
1990年、平成2年の7月6日、金曜日の朝。
兵庫県神戸市西区美賀多台にある兵庫県立神戸高塚高校で、その門が閉められた。
午前8時30分、チャイムの鳴りはじめと同時に。
そして門扉とコンクリートの門柱のあいだに、登校してきた一年生の女子生徒の頭が挟まった。
彼女は15歳だった。同日午前10時25分、搬送先の神戸大学医学部附属病院で死亡が確認されている。
死因は、頭蓋骨粉砕骨折などによる脳挫滅。
この事件のことを、いまの高校生はほとんど知らない。
でも、なぜか「学校の門にまつわる怖い話」は、いまでもネットのあちこちに残っている。
閉まる校門。遅刻したら挟まれる門。命日に坂をのぼってくる女子生徒だ。
そういう話が語られるたび、コメント欄には必ず誰かが書き込むんだよな。
「昔、規則で無理やり校門を閉めようとしたら、遅刻してきた生徒が圧死した事件があったよね」と。
事実と怪談が、三十年以上かけてゆっくり混ざっていった珍しい例だと思う。
だからこの記事では、まず事実のほうを、朝の分刻みで全部たどる。
そのうえで、その事実がどうやって「校門の怪談」に転化していったのかを追いかける。
なお、この記事では当該の教諭も亡くなった生徒も実名では書かない。
判決と報道で確定している範囲の事実だけを扱う。それが、この事件に対して取れるいちばん誠実な距離だと考えている。
期末試験の朝、駅から学校まで生徒があふれていた
まず、当日の学校の状況から押さえておきたい。
神戸高塚高校は1984年に開校した、まだ新しい県立高校だった。
場所は神戸市西区。当時ものすごい勢いで開発が進んでいた西神ニュータウンのど真ん中である。
人口が急増したせいで学校も膨れ上がり、事件当時の全校生徒はおよそ1500人。完全なマンモス校だ。
当時同校の教員だった女性が、のちに地元紙の取材にこう答えている。
本来なら二校を設立する予定だったのに、少子化を見込んで一校しか開校しなかった。
その結果、消防署から「これだけの人数では助けられない」と言われるほど生徒がひしめき合っていた、と。
教員の数は生徒の増加に追いつかず、学校は管理で秩序を保つしかなくなっていた、というのがその人の見立てだ。
最寄りは神戸市営地下鉄の西神中央駅。
駅から学校までは徒歩十分ほどだが、当時は並木もまだ小さく、生徒が歩道からあふれ出すような通学路だったという。
毎朝、その細い道を千人規模の高校生が一斉に流れていく。
そして1990年7月6日は、一学期の期末試験の初日だった。
これが効いている。試験日だから部活動の朝練習がない。
朝練のある生徒はふだんもっと早く登校するから、その分だけ、8時30分ぎりぎりの時間帯に人が集中する。
当時の教員の言葉を借りれば、生徒は「ぎゅうぎゅう詰めで地下鉄の駅から学校になだれ込んだ」。
午前8時すぎから、校門付近には3人の教諭が立っていた。
遅刻指導の当番である。この学校では毎朝、通用門のあたりに教諭が立ち、登校してくる生徒の服装と時間をチェックしていた。
やり方はこうだ。
チャイムが鳴る3分前から、2人の教諭が門の外側でハンドマイクを持つ。
「あと3分」「あと2分」。
「1分しかないぞ、早く走れ」。
時計を見ながら、秒単位で数えていく。報道によれば、当日は「あと4秒前」という声も飛んでいた。
証言によっては、拡声器で「10、9、8」とカウントダウンしていたという記述も残っている。
その声に追い立てられて、生徒は走る。
そして残る1人の教諭が、チャイムの第一音と同時に門扉を押して閉める。
間に合わなかった者は遅刻。1周400メートルのグラウンドを2周走らされる。雨の日はスクワット系の柔軟体操を数十回。
この「門締め」が始まったのは、事件の3年前、1987年のことだった。
遅刻してくる生徒が急増したことへの対策として、当時の校長の承認のもとで決まったものだ。
つまり、門を勢いよく閉めるのは一人の教師の暴走ではない。学校が組織として決めた指導だった。
200メートル手前から、彼女は走りはじめた
以下は、刑事裁判の検察側冒頭陳述と、多数の目撃生徒の証言をもとに再構成した、その朝の数分間である。
事件の前日、彼女は一緒に登校していた同級生の少女と、いつもより一本遅い電車に乗っていた。
それでも、門が閉まる1分か2分前には学校に到着できていた。
だから当日も、同じ電車で間に合うと踏んでいたらしい。
同級生の証言によれば、当日その電車になったのは、バスケットボール部の先輩から写真を受け取る約束があったからだという。
ただし、その先輩は「そんな約束をした記憶はない」と証言している。
しかも同じ電車で登校したはずのその先輩は、門限には十分間に合っていた。門に立っていた教諭と短い会話を交わす余裕さえあった。
このあたりの食い違いは、いまも完全には解けていない。
ネット上に一時期出回った「彼女は遅刻の常習犯だった」という話は、当時の教員が明確に否定している。
「女子生徒はふだん、遅刻するような生徒ではなかった」というのがその証言だ。
英字紙の報道では、高校入学以来はじめての遅刻だった、とまで書かれている。
門から200メートルほど離れた歩道で、前を歩いていた生徒が走り出した。
彼女と同級生も、それを見て走り出す。
校門の15メートル手前で、二人は一度立ち止まっている。
そのときチャイムが鳴った。
そしてまた走り出した。
門扉の直前には、すでに複数の生徒の固まりができていたのだ。
もう間に合わないと判断して足を止めた生徒たちである。
彼女はその集団を追い抜いた。同級生を置き去りにして、前へ出た。
彼女の約50センチ左後ろにいて、一部始終を見ていた男子生徒の証言がある。
校門の1歩か2歩手前で、彼女は前屈みになり、顔を下に向け、体を小さくした。
その男子生徒自身は、もう無理だと思って足を止めていた。全力疾走している彼女が間に合うようにも見えなかったのだ。
それでも彼女は速度をゆるめなかった、という。
門扉を押していた教諭は、生徒の固まりの陰から身を屈めて飛び込んできた彼女に気づかなかった。
当の教諭は、過去に20数回この門締めを担当していた。
その経験のなかで、生徒のカバンを挟んだこと、スカートを挟んだこと、門を押し戻されたことがあったのだ。
だから彼は、門に入る生徒の列が一瞬途切れたのを見た。そのあと、頭部を地面のほうへ向けるようにして前傾姿勢をとり、勢いをつけて押した。
重い門を一気に閉め切るための姿勢である。前は、よく見えていなかった。
メリッ、というような音がした、と目撃した生徒は語っている。
彼女の耳と口から血が噴き出した。
誰も、すぐには何が起きたか分からなかった
ここからの数十秒が、この事件のいちばん救いのない部分だ。
彼女が挟まれたあとも、門扉には力が加えられ続けていた。
後ろから駆け込もうとしていた男子生徒が、とっさに門扉の前方をつかんで押し開いた。
ところが門を押していた教諭は、その行動を「門をこじ開けて校内に入ろうとしている」と勘違いしている。
これは検察側の冒頭陳述にも明記されていることだ。
彼がようやく事態に気づいたのは、その男子生徒を注意しようと門扉の前方に回り込んだときだった。
「女の子が倒れている」
生徒の一人がそう声を上げて、初めて教諭は気づいた。
倒れた彼女は、耳と鼻から血を流しながら痙攣していた、と目撃した生徒は証言している。
教諭は彼女の頭を手で支え、その場にいた教員に養護教諭を呼びに行くよう指示した。
救急車が呼ばれ、彼女は神戸大学医学部附属病院に搬送される。
死亡が確認されたのは午前10時25分。事件発生からおよそ2時間後だった。
のちの実況見分で、門扉はヘルメットが割れるほどの速度で押されていたことが判明している。
彼女の頭部には、計算上、最大で3.5トンに相当する力が加わった可能性があるとする試算もある。
そしてこの日、期末試験は予定どおり実施された。
門を閉めた教諭は、その試験の監督も務めている。
生徒から彼女の容体を尋ねられた学校側は、「重傷だが生命に別条はない」と説明していた。
さらに、現場の地面に付着していた血液は、警察の現場検証の前に学校の手で洗い流されていた。
ホースで流した、とされている。
これは捜査に支障を与えるふるまいで、のちに学校の隠蔽体質として厳しく批判されることになる。
「あと10分早ければ」と校長は言った
翌日、全校集会が開かれた。
そこで当時の校長が語った言葉が、この事件を象徴する一言として、いまでも引用され続けている。
「あと10分早く来ていれば、事故は起きなかった」
「これを機に、自分の行動を考え直してほしい」
これは英字通信社の1990年7月22日付の配信記事にも、ほぼ同じ趣旨で記録されている。
死んだ生徒の落ち度として語り、生き残った生徒への訓戒として使ったわけだ。
2020年、事件から30年の追悼集会で、当時この学校の2年生だった女性がこう語っている。
自分は家族を持ったけれど、あの子の時間は止まったままだ。
当時校長が言った「あと10分早ければ」という言葉への違和感は、いまも消えない、と。
7月20日には全体保護者会が開かれた。
その冒頭で、学校側は保護者にこう釘を刺している。
保護者会はもともと本校では一切公開していないはずのもので、その内容がマスコミに流れ、生徒がひどく困っている、と。
この保護者会の模様はカセットテープに録音されていた。
ところが兵庫県側は、公文書の公開等に関する条例において録音テープは公開請求の対象にならないと説明する。さらに、会議の反訳書も全体保護者会の会議録も「初めから存在しません」と回答している。
学校はテープを処分した。だがPTA側が保管していた。
その音声が公開されたのは、事件から8年後のことである。
7月21日、兵庫県警による実況見分。教諭は業務上過失致死の容疑で取り調べを受ける。
7月26日、兵庫県教育委員会が処分を発表した。
門を閉めた教諭は懲戒免職。
管理責任を問われ、当時の校長は戒告、教頭と教育長は訓告、教育次長2名が厳重注意。
そして校長から出されていた辞表が、同日付で受理された。
ただし、門を閉めることを言い出した教員や、生徒指導部長への処分はなかった。
教諭は懲戒免職を不服として申し立てを行っている。
9月、教育委員会から新しい校長が着任した。
その校長は、事件の説明を含む今後の保護者会の開催を打ち切ると宣言している。
11月16日、学校側が安全管理上の過失を全面的に認めるかたちで、兵庫県が遺族に損害賠償金6000万円を支払うことで示談が成立した。
県教委によれば内訳は、学校事故で死亡した場合に支払われる日本体育・学校健康センターの死亡見舞金1400万円に、他府県の事例を参考に算定した慰謝料・葬祭費など4600万円を加えたものである。
一方、文部省はこの事件を「一教諭と一生徒の問題であり、学校側に何ら問題はない」という認識を示した。
校長と兵庫県教育委員会は、その意向を受けて教師個人の責任を主張することになる。
なお、遅刻者にグラウンド2周やスクワットを課していた理由については、翌1991年4月の転勤者への辞令交付オリエンテーションで、新校長がはっきり説明している。
「8時35分の出席確認に間に合わないようにするため」だと。
教室でのホームルームは8時35分開始。だから校門で捕まえた遅刻を出席簿や調査書に反映させるには、罰を課して教室に戻れないようにする必要があった。
つまりあの罰走は、体力づくりでも反省の機会でもなく、記録上の遅刻を確定させるための手続きだったということになる。
法廷で争われたのは「門を閉めるのは業務か」だった
初公判は1990年11月26日、神戸地方裁判所。
被告となった教諭は、一貫して無罪を主張した。
その主張はおおむね次のようなものである。
門扉の閉鎖は教員3人で行う共同作業であり、安全で合理的な方法だった。
学校から安全面についての指導も注意も受けていないから、刑法上の「業務」にはあたらない。
わずかな隙間に生徒が頭から走り込んでくることは予見できず、過失責任はない。
十分な安全策もないまま教師に校門指導をさせた学校にこそ責任がある。誤った教育理念を押しつけた学校管理者、兵庫県教育委員会、そして文部省の責任が問われるべきである。
事実関係そのものは争われなかった。
彼が門を閉め、その結果生徒が死んだこと自体に争いはない。
争点は二つに絞られた。校門指導が刑法上の「業務」にあたるかどうか。そして安全確認を怠った過失があったかどうか。
1993年2月10日、神戸地裁は判決を言い渡した。
業務上過失致死罪を認定。禁錮1年、執行猶予3年。検察の求刑は禁錮1年だったから、求刑どおりの刑に猶予がついた形だ。
判決はまず業務性について、門扉の閉鎖は反復継続して行われる行為である。その重量と構造からして、登校時に閉鎖すれば門扉と門柱のあいだに生徒を挟むなどして生命身体に危害を及ぼすおそれがある、として刑法上の業務にあたると判断した。
予見可能性については、三つの理由を挙げている。
門扉の大きさと構造からして、挟まれたのが頭でなくても死亡という結果が生じうること。
被告は過去に生徒に門扉を押し戻された経験があること。
遅刻者にはグラウンドを走らせる制裁がある。試験の日にも制裁があるのだから、生徒が閉まりかけた門に向かって走ることは予想できたこと。
弁護側は「信頼の原則」を持ち出した。門の外にいた他の2人の教師が生徒を制止してくれると思った、という主張である。
これは退けられた。
判決は、教員のあいだで安全確認などの役割分担はなく、当日も作業分担の打ち合わせはなかった、他の教員が危険防止のために門の外に待機していることは期待できなかった、と述べている。
そのうえで、こう断定した。
被告は生徒の動静を十分確認する注意義務があるのに、これを怠り、生徒が一瞬途切れたのを見て、もはや門に入ってくる生徒はいないと軽信した。門扉を後方から押して閉鎖したのだ。
被告の行為は教育に対する社会の不信を生じかねないもので、結果は重大である、と。
生活指導中の教師の過失責任が刑事裁判で認定されたのは、これが初めてだった。
それまで教師が業務上過失に問われたケースは、授業中や部活動中の事故で監督責任を認定したものに限られていたのである。
量刑理由のところでは、裁判長が学校側にも踏み込んでいる。
門扉を閉鎖して遅刻指導をすることを決めた際、危険性に十分な注意が及ばず、門扉の閉め方や危険防止の作業分担を決めず、担当教師の裁量に任せていた。
これは被告人の刑事責任とは別に、学校として生徒の安全に関する配慮が足りなかったことを示す、と。
この指摘が執行猶予の理由の一つになった。
ただし、管理教育そのものの是非について、判決は独自の判断を加えなかった。
遅刻者への罰走も、生徒への言葉の暴力も、生理の日でも水泳をさせていたことも、校門指導が当初5人体制だったのに3人に減らされていたことも、判決は正面からは扱っていない。
教諭は「判決には不服だが、自分や家族の心労を考えて控訴しない」として、大阪高裁には控訴しなかった。
有罪は確定する。
有罪確定にともない、教育職員免許法にもとづいて教員免許は失効し、地方公務員法および学校教育法の欠格事由にも該当した。そのため、本人が起こしていた懲戒免職不服申立ての審理も中止された。
ちなみに、ネット上の一部の記事には「二審の大阪高裁が控訴を棄却し、1999年に最高裁で確定した」と書かれているものがある。これは誤りだ。
1999年7月12日の最高裁第三小法廷の判決は、刑事裁判ではなく、後述する校門改修の公金支出をめぐる住民訴訟の上告審である。混同されて広まっている。
門扉は溶かされ、その日のうちに消えた
事件現場となった門扉は、その後3年近く、トタン板で覆われたままだった。
生徒は正門の西側にある小さな通用門から出入りしていた。
学校は事件直後から門扉を撤去しようとしていたのだ。
これに対し、保護者や一部の住民が「事件の風化を図っている」と反発する。
裁判所からも「判決前の撤去は好ましくない」という意見が出て、撤去は保留された。
そして有罪が確定すると、学校はふたたび撤去を進める。
撤去後の門扉を溶解工程に回すという決定は、PTAや保護者に説明されないまま記者会見で明らかにされた。
反対の声のなか、1993年7月30日、小競り合いの中で門扉は取り外された。
保存を求める要望は無視され、門扉はその日のうちに溶かされている。
代わりに設置されたのは、従前より小型で軽量な門扉だった。
この撤去と改修に公金を支出したのは不当だとして、住民が監査請求と訴訟を起こした。
第一次訴訟が1991年2月に神戸地裁へ、第二次訴訟が1995年10月に提起されている。
1999年7月12日、最高裁第三小法廷は学校側の措置を適法と認め、住民側の訴えを棄却した。
事件の現場だった鉄の塊は、こうして物理的に世界から消えた。
のちに触れるが、この「物がもう無い」という事実は、この事件が怪談として定着しなかった理由のひとつでもあると思う。
「遅刻は諸悪の根源だ」という投書が新聞に載った時代
事件は全国紙とテレビで大きく報じられ、テレビやラジオのワイドショーでも連日扱われた。
そして、日本の教育のあり方をめぐる全国的な論争になった。
海外の報道も速かったのだ。
1990年7月14日付でワシントン・ポストが「少女の死が日本の学校の規律をめぐる論争に火をつけた」という記事を掲載している。
記事は、彼女が数秒遅刻しただけで命を失ったこと、校庭で3人の教師が遅刻者を待ち構えていたこと、8時30分の鐘とともに500ポンドの鉄門がレールの上を走って閉められたことを淡々と伝えている。
7月22日には通信社の配信記事が、校長の「あと10分早く来ていれば」という発言を引用した。
同じ記事のなかで、文部省の担当者はこう語っている。
日本のシステムは質の高い人材を生み出すという点で経済的には効率的だが、同時に生徒の個性と柔軟性が抑圧されている、と。
興味深いのは、当時の日本社会の反応が決して一方向ではなかったことだ。
この記事はこう書いている。新聞への投書やラジオへの意見では厳しい校則そのものはおおむね支持されており、ただし極端に走ることへの警告が添えられていた、と。
そして実際に朝日新聞に載った、ある高校教師の投書を引用している。
遅刻は卑しむべき習慣であり、諸悪の根源である。生徒を甘やかすことは優しさではない、と。
1990年の日本では、それが新聞に載る意見だった。ここは押さえておきたい。
7月26日、ロサンゼルス・タイムズは懲戒免職と、教育関係者5人の処分、そして校長の引責辞任を報じている。
1993年2月の判決も、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、シアトル・タイムズなどが伝えた。
どの記事も、この事件を「ルールブック教育」の象徴として扱っている。
服装、外見、行動を、校内でも校外でも細かく縛る日本の学校。その極点として、海外のメディアはこの門扉を見ていた。
一方で、遺族のもとには心ない手紙と電話が届いた。
「遅刻するほうが悪い」
「自業自得だ」
そういう文面だったという。
事実に反する噂も流れた。あの子は遅刻の常習犯だった、という類のものだ。
事件後、親族の男性が学校に説明を求めて訪ねたことがある。
学校側は彼を敷地内に入れず、校門前で別の教諭が対応しただけだった、と伝えられている。
東の千葉、西の愛知、そして丸刈りの地図
この事件を「一人の異常な教師が起こした特殊な事故」として片づけると、何も見えなくなる。
背景には、1970年代後半から1980年代にかけて日本中を覆っていた管理教育がある。
「管理教育」という言葉自体、実はそれほど古くない。
1983年ごろ、学校解放運動を進めていたグループのミニコミ誌の上で生まれた造語だとされている。
つまりこの言葉は、最初から批判する側の言葉だった。「反管理教育運動」と表裏一体の用語なのである。
当時よく言われた言い回しが「東の千葉、西は愛知の管理教育」だ。
とくに愛知は有名で、なかでも1968年開校の愛知県立東郷高校が知られている。
軍事教練を模した訓練、林間学校、学校側による生徒会への積極的な介入。
その厳しい指導法は「東郷方式」と呼ばれ、1970年代に愛知県内に次々とつくられた新設校のモデルになった。
新設校というのがポイントだ。
戦前からの伝統校は、歴史と文化の蓄積があるから、管理せずとも進学実績を出せる。
一方、歴史も文化も持たない新設校は、管理教育によってそれに対抗しようとした。
神戸高塚高校が1984年開校の新設校だったことは、この文脈にきれいに収まってしまう。
管理教育のもとでは、生徒が死んでも指導は変わらなかった。
1982年4月、東郷高校では訓練を苦にした1年生の女子生徒が校舎4階から飛び降りて亡くなっている。
同じ1982年の5月、1977年開校の愛知県立尾西高校では、男子40キロ・女子30キロを歩かせる闊歩大会の最中に3年生の女子生徒が脱水症状を起こして死亡した。
同じ月に2年生の男子生徒も亡くなっている。その生徒は作文に「高校に入ってから一日として充実した日はなかった」と綴っていた。
頭髪の統制も凄まじかった。
1980年代半ばの調査では、全国の中学校の33.5パーセントで男子の丸刈りが校則として実施されていたのだ。3校に1校である。
愛知、静岡、兵庫、鹿児島などでは、ほぼすべての公立中学校が丸刈りを強制する「丸刈り地帯」が形成されていた。
そして神戸市は、都市部でありながら最後まで中学校の丸刈りを堅持しようとした自治体として知られている。
この事件を扱った弁護士の一人も、後年こう書き残している。
当時、学校の管理教育による人権侵害は一つの社会問題になっている。神戸市が行っていた男子中学生への丸刈り強制もその一つだった、と。
高塚高校の事件が起きた土地は、そういう場所だったわけだ。
なぜそこまで締め上げたのか。直接のきっかけは校内暴力である。
警察庁と法務省の統計をたどると、校内暴力事件の検挙・補導人員は1981年の1万468人がピーク、事件数は1983年の2125件がピークだった。
1982年に警察が処理した対教師暴力事件は843件で、その97.9パーセントが中学生によるものだった。
1983年3月に卒業式を行った全国1万758校の中学校のうち、生徒の暴力を警戒して警官が立ち入った学校が1225校、周辺をパトロールした学校が587校にのぼる。
この荒れを鎮めるために、学校は校則を厳格化し、時に体罰を使った。
そして荒れが収まったあとも、締めつけだけが残った。
1984年から1988年のあいだに、日本の学校における体罰の件数はおよそ1.5倍に増えている。法務省の報告にもとづく数字だ。
兵庫県には兵庫県高等学校生徒指導協議会という組織がある。事件当時の神戸高塚高校の校長は、前年度にその神戸支部長を務めていた。
同校の生徒指導部長は常任委員だった。
そして「全教師による校門や通学路での立ち番指導」は、この協議会で高く評価されていた取り組みだったのである。
さらに同校は、当時日本で5校しか採用されていなかった学校安全に関する「研究指定校」でもあった。
安全の研究指定校で、生徒が門に挟まれて死んだ。
これほど苦い皮肉もない。
門を閉めた教諭自身、有罪確定直後の1993年4月に出版した手記のなかでこう書いている。
兵庫県教委による指導体制強化の通達によって、他県に例を見ない厳しい生徒指導体制が確立した。
兵庫県の高校が生徒の非行や校内暴力で荒れていた状況へのやむにやまれぬ手段という面があったにせよ、専任の生徒指導部が校則によって生徒の非行を取り締まるという警察的活動を促進する素地がつくられたのも事実である、と。
そしてもう一節。この事件を語るとき、いちばん重く響く文章だと思う。
私は、校門事件当時は、校門を閉鎖して遅刻生徒を取り締まることは正しいと信じて疑わなかった。
しかしこうして尊い生徒の生命が失われてみると、他に方法はなかったのだろうかと考えさせられることがある。
当時そんなことを考える余裕は私にはなかった。
気がつくとそういうシステムの中に嵌め込まれ、そうすることが教師として当然の義務のように思い込まされてきた。
私は決められたことを忠実に実行しただけであったのだ。
もちろん、これは有罪判決を受けた当事者の手記であり、そのまま鵜呑みにはできない。
実際この本は、遺族や支援者から「基本的には自らの行動に問題はなかったという姿勢を貫いている」と厳しく批判された。
本人の主張の中心は、業務上過失致死罪が適用されるほどの過失はなく、報道と社会的制裁が行きすぎていた、というものでもある。
それでも、「決められたことを忠実に実行しただけ」という一行は、この事件の一番怖いところをそのまま言い当てている。
怖いのは悪意ではなく、疑われなくなった規則のほうなんだよな。
この事件で、全国の校門は開いた
事件は制度を動かした。ここは事実として、きちんと書いておきたい。
文部省は1988年、静岡県の中学校で校則に合わない髪型の生徒の写真が卒業アルバムから外された問題をきっかけに、同年4月25日の会議で校則見直しを指示していた。
それでも変化は遅かった。
1990年7月の校門圧死事件は、その動きを一気に加速させる。
同年9月27日の都道府県教育委員会等指導事務主管部課長会議で、文部省初等中等教育局長は、校則の内容と運用が児童生徒の実態、保護者の考え方、地域の実情、社会の常識、時代の進展を踏まえたものになっているよう積極的に見直すこと、と述べた。
そして1990年11月、文部省は全日本中学校長会と全国高等学校長協会に委託して、校則の見直し状況を把握するための調査を実施する。
文部科学省がいまも公開している生徒指導関係の年表には、この調査について「神戸高塚高校女子生徒死亡事件を契機に」実施したとはっきり書かれている。
校則の見直し状況について国が全国調査を行ったのは、これが初めてだった。
翌1991年4月、調査結果は各都道府県教育委員会へ送付された。初等中等教育局の高等学校課長・中学校課長名で、引き続き校則の積極的な見直しを図るよう通知が出されたのだ。
結果として、全国の約8割の中学校・高等学校で校則の見直しが進められたとされる。
兵庫県教育委員会も各学校に校則の見直しを求めた。1991年には教育長通知を出して、画一的な指導を改め生徒に向き合う指導方針を定めた。
そして、「チャイムと同時に門を閉めて遅刻者を締め出す」という指導は、全国の学校から実質的に消えたのだ。
いま、朝の校門を秒読みしながら閉める高校は、まず存在しない。
2010年に文部科学省がまとめた教員向けの「生徒指導提要」は、教員がいたずらに規則にとらわれ、守らせることのみの指導になっていないか注意を払うべきだと明記する。校則は社会常識を踏まえて絶えず積極的に見直さなければならないとしている。
ここまでは、悲劇が制度を変えた話である。
ところがこの話には、あまり語られない続きがある。
2001年6月8日、大阪教育大学附属池田小学校に男が侵入し、児童8人が殺害され、教員を含む15人が重軽傷を負った。
事件当時、正門は施錠されていたが、自動車用の通用門は開いたままだった。
犯人は裁判で「施錠されていたら、門を乗り越えてまで侵入しなかった」という趣旨の供述をしている。
翌2002年12月、文部科学省は不審者侵入時の危機管理マニュアルを策定した。全国の学校に対して、登下校時以外は校門を施錠するよう求めた。
以後、文科省は侵入事件が起きるたびに「原則施錠」の通知を繰り返している。
つまりこうだ。
1990年、日本の学校は「生徒を締め出すために門を閉める」ことをやめた。
2001年以降、日本の学校は「外部の人間を入れないために門を閉める」ようになった。
門は、また閉まっている。
向きが反対になっただけで。
この反転を頭に入れておくと、後半の怪談の話がぐっと立体的になる。
遺族の三十余年と、毎年ひとつだけ先に置かれている花束
事件から20年の節目に、遺族は代理人弁護士を通じて手記を発表している。
そこにはこう書かれていた。
決して心が癒えることはありません。
今も変わらぬ供養を続けております。
この季節が近づくと、いろんな場面や雰囲気が突如よみがえり、例えようのない気持ちに包まれる。
何度か転居をした今も、娘の机の引き出しの中や、お気に入りだった赤いラジカセは、あの日のままにしています。
そして手記は、こう結ばれている。
限りなき未来ある命を一瞬にして失う悲しい事件が繰り返されることがないよう、切に願っています。
事件後、管理教育の見直しを求める教員、保護者、弁護士らが市民団体を結成した。
翌1991年1月には、当時の在校生や卒業生の父母を中心に、事件の原因究明を求める会も発足している。
1993年、彼らは神戸高塚高校がまだ新しい校門をわざわざ撤去したことを問題視して民事訴訟を起こし、裁判ニュースを発行しはじめた。
その後、会報は「高塚門扉」と名前を変えて発行され続ける。
長年その編集を担った女性は、当時中学3年生の長男がいた。亡くなった生徒と同世代である。
自分の息子が犠牲になっていてもおかしくなかった。その思いが活動を支えてきた、とその人は語っている。
会報は90号まで続いた。
2020年、事件から30年を機に、メンバーの高齢化を理由に会は活動に区切りをつける。
最後に発行された記念誌は、A4判で534ページ。会報から選んだ原稿と、複数のメンバーがつづった30年分の思いが収められた。
それでも、毎年7月6日午前8時30分の門前追悼は途切れていない。
2021年以降は有志が自発的に集まる形になった。
2020年の30年目には、大雨のなか卒業生や当時の教員が集まった。
2025年の35年目には、9人が門の前に立ち、静かに祈ったのだ。
この追悼の記録のなかに、ずっと気になっている一節がある。
毎年、門柱の右端に、朝早くから置かれている花束が一つあるのだという。
追悼のために集まった人たちが到着するよりも先に、もう置かれている。
誰が置いているのか、いまも分からない。
ご近所の方でしょうか、ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください、と会の記録には書かれている。
三十年以上、名乗らずに花を置き続けている誰かがいる。
これはどんな怪談よりも効く話だと思う。
2024年と2025年、2026年の追悼行事では、同校の卒業生である映画監督のドキュメンタリー作品が神戸で上映された。
東日本大震災で多数の児童が犠牲になった小学校の遺族が、学校の責任を問う裁判を闘った記録である。
校門の事件を高校生として体験した人間が、三十年後に別の学校事故の遺族を撮っている。
その連なり方に、この事件が終わっていないことがよく表れている。
現在の神戸高塚高校でも、毎年7月上旬に校長が校内放送で事件を全校生徒に伝えている。
2015年、放送を聞いた3年の男子生徒は地元紙にこう答えた。
「放送で初めて事件を知ったのだ。なぜ学校で人が死ぬのか、不思議に思った」
2年の女子生徒はこう答えている。
「入学後、インターネットで事件を知った。同年代がここで亡くなったことがショック」
インターネットで事件を知る。
そしてインターネットには、事件の事実と一緒に、怪談も置いてある。
事件の4か月後、『学校の怪談』が書店に並んだ
ここからが、この記事のもうひとつの主題だ。
1990年11月8日、講談社KK文庫から、民俗学者による『学校の怪談』の第一巻が刊行された。
著者は当時、東京の公立中学校の教員でもあった人物で、子どもたちから直接聞き集めた怪談を、民俗学の手つきで整理した本である。
これが爆発的に売れ、続刊が次々と出て、1990年代半ばには映画シリーズ、のちにテレビドラマやアニメにまで展開していく。
「学校の怪談」という言葉が全国の子どもの共有語になったのは、この本以降のことだ。
つまり1990年という年は、日本で実際に「学校が生徒を殺した」年である。同時に「学校の怪談」が全国区のジャンルとして立ち上がった年でもあった。
7月に事件、11月に本。この4か月の並びは、たぶん偶然でしかない。
それでも、あとから並べてみると妙に据わりが悪い。
この本が繰り返し論じているのは、学校怪談が「境界」に出るということだ。
トイレの個室。特別教室。移動教室だ。校舎の裏。
子どもが一人になる場所、日常の中心から外れた場所、規律の届きにくい場所に、怪異は現れる。
なかでもトイレは、個室でありながら完全には仕切られておらず、下半身をさらしてかがむ場所である。学校の規律と秩序から逸脱した空間として位置づけられている。
その論じ方を借りるなら、校門はどうなるか。
校門は、学校という空間の最大の境界だ。
外と内を分ける唯一の正規の通り道であり、しかも通過には時刻という条件がついている。
花子さんが「内側に閉じこめられた怪異」だとすれば、校門の怪異は「内側に入れてもらえない怪異」になる。
実際、日本の学校怪談には、門にまつわる話の系統がちゃんとある。
それを三件、ちゃんと読み物として採集しておきたい。
採集その一、五時のサイレンと一緒に閉められる校門
まず、いちばん形のはっきりしている一本から。
2002年3月20日の午後4時44分、インターネットの匿名掲示板の「学校であった怖い話」というスレッドに、255番目の書き込みとして投稿された話である。
投稿者は自分の通っていた高校の出来事として、こう書いている。
その高校では、五時のサイレンが鳴ると同時に、用務員が急いで校門を閉める習慣があった。
下校のチャイムすら鳴っていないのに、正門だけを閉めてしまう。
生徒は裏口の狭い通用路から帰らなければならず、とにかく不便だった。
なんでこんなことをしてるんですかと先生に聞いても、答えは返ってこない。
「学校の決まりだから」としか言わない。
納得できずに部活の先輩に聞いたところ、言い伝えというか、噂のようなものを教えてもらえた。
この学校には昔、自ら死を選んだ生徒がいた。亡くなったのは自分の家でのことだったが、いじめを受けていて、学校はまともに対処してくれなかったらしい。
そして命日になると、その生徒が坂をのぼって校門の前まで来る。
中に入られたら復讐される。だから校門を閉めるようになった。
投稿者の世代はいつも裏口から帰っていたので、自分では見ていない。
ただ、その生徒は女子で、乱れた長髪に凄まじい目をして、坂をのぼってくるのだという。
いかにも噂という感じだった、と投稿者は書く。
それでも、毎日校門が閉められているという事実と、質問すると返事に詰まる教師たちの様子が、妙にリアリティを与えていた。
しかも、裏口でばったり会ったという生徒までいた。
つまりその霊は、五時のサイレンと一緒に学校のまわりをうろついていることになる。
そう考えたら、けっこう怖かった、と投稿者は締めくくっている。
この話の構造を見てほしい。
中心にあるのは霊ではなく、「毎日不自然に閉められている校門」という物理的な事実だ。
そして教師はその理由を説明しない。あるいは説明できない。
怪談は、その説明の空白を埋めるために生まれている。
規則があって、理由が語られなくて、そこに死んだ生徒の話がはめこまれる。
これは校門圧死事件の構造と、気味が悪いほどよく似ている。
採集その二、まとめブログのコメント欄で起きた接続
この話には続きがある。それも、怪談の伝播を考えるうえでかなり貴重な続きだ。
2015年7月21日、この投稿が怖い話のまとめブログに転載された。
2002年の書き込みが、13年後に別の場所で読み直されたわけだ。
そしてコメント欄の、いちばん最初の書き込みがこれだった。
「昔、規則で無理やり校門を閉めようとしたら、遅刻してきた生徒が圧死する事件あったよね」
次の書き込みは「なにそれこわい」。
そのまた次で、別の読者が学校名を伏字にして事件名を挙げ、内容を要約している。
以後コメント欄は完全に、怪談ではなく校門圧死事件の話題に乗っ取られた。
規則に従っている人間が自分を正義だと勘違いすることが最悪の暴力を引き起こす、と書き込む人がいる。
いや、ルールを守った生徒が損をしないようにするのが管理者の責任なのだから、教師の側にも言い分はある、と反論する人がいる。
それに対して、子どもの過失を見守れない大人のほうが問題だ、と返す人がいる。
その日は期末考査の日で、電車が遅れたせいで十数人が門に殺到したんだよな、と事実を補足する人がいる。
別の読者は、コメント欄が当時の別の事件よりも校門圧死事件の話題で埋まっていることに驚いた、と書いている。
そのなかに、この記事の主題そのものを言い当てているコメントが二つある。
ひとつめ。
「神戸の校門圧死事件のほうが、怪談できていてもおかしくないような」
ふたつめ。それへの返信。
「あれ、逆に単純明快すぎてなぁ」
これは相当に鋭い。
校門圧死事件は、怪談になる資格を十分すぎるほど持っている。
若い女の子が、学校の門で、頭を潰されて死んだ。朝のチャイムと同時に。血は洗い流された。門扉は溶かされて消えた。
素材としては満点に近い。
なのに怪談にならない。
理由は、このコメントの言うとおりだ。単純明快すぎるから。
誰が何をしたかが、判決文まで含めて全部わかっている。
怪異が入り込む余白がない。
そのかわりに何が起きたかというと、「事件そのものが怪談として扱われる」ようになった。
匿名掲示板の怖い話のスレッドで、実話として貼られる。怪談まとめブログのコメント欄で語られる。
オカルト系の解説動画で、心霊ではないのにオカルト枠として紹介される。
つまりこの事件は、怪談に変換されたのではなく、怪談と同じ棚に置かれるようになったのである。
採集その三、校門に座りこんでいた白い人影
三件目は、実話怪談として投稿された体験談から。
2019年7月に怪談投稿サイトへ寄せられた、東京都江戸川区に住んでいた当時のことを語る、30代の女性の話である。
彼女はアルバイトの帰り、深夜に自宅近くを歩いていた。
できるだけ人通りのある道を選んでいたが、家が近づくとそうもいかない。
家のそばには、彼女自身の母校である中学校があった。
最初にそれを見たのは、春になったばかりの、夜はまだ肌寒い季節だったという。
いつものように深夜の道を歩いて母校の前を通ったとき、校門に人影があった。
膝を抱えた体育座りの格好で、膝に頭をうずめている。
白っぽい服を着ていて、顔は見えないが、細身で髪が長く、女性のように見えた。
失恋でもしたのかな、くらいにしか思わず、その日は家に帰ってすぐ忘れた。
ところが次のバイトの帰り、同じくらいの時間に学校の前を通ると、また同じ人影がいたのだ。
人影はその後も、毎日ではないが頻繁に現れた。
雨の日だろうとおかまいなしに、学校の前に座っている。
父親に話して様子を見に行ってもらっても、父親が行くと誰もいない。
友人に話しても、作り話だと思われて信じてもらえない。家まで同行してくれた友人がいた日に限って、人影は現れなかった。
そこで彼女は友人に頼んだ。人影が出た瞬間に電話をするから、すぐ駆けつけてほしい、と。
そしてその日が来た。
いつものように校門で座る人影を見て、その場で電話をかける。
すると人影は、彼女の目の前で消えた。
悲鳴を上げたが、電話の向こうの友人は当然信じない。途中で電話は切られ、彼女は一人になった。
急いで家に帰ろうと駆け出そうとした瞬間、肩を誰かに叩かれた。
反射的に振り向いた先にいたのは、悲しそうな顔をした女性だったのだ。
服装も髪型も、いつもの人影そのものだった。
「どうして声をかけてくれないの」
答えられずにいると、女性は一言ずつ近づいてくる。
「ずっと待ってたのに」
「私がいけないの」
彼女は振り切って家に飛び込んだ。
玄関で迎えた母親に、顔が真っ青だと言われた。そう言われると、体が異様に重かった。
その後しばらく高熱が続き、医者にかかっても原因はわからなかったのだ。
熱が下がってバイトに復帰した帰り道、びくびくしながら学校の前を通ったが、人影はもういなかった。
翌日以降も現れず、話しかけられたあの日を最後に、二度と遭遇することはなかったという。
いまでも時々、あの悲しそうな目を思い出す。
もしあのとき会話をしていたら、自分は連れて行かれていたのではないか。そう思うと怖くなる、と彼女は結んでいる。
この話も、校門の外側に居続ける女の霊、という型を踏んでいる。
「ずっと待ってたのに」という台詞が効いている。
待っている。入れないまま、外で。
採集その四、正門脇の電話ボックスに背を向けて立つ女学生
四件目は少し毛色が違う。高校ではなく大学の正門の話だ。
武道系のサークルに所属していた男性が、自身の体験として語っている。
その大学では、年に一度の学園祭のとき、各サークルの1年生と2年生が宿直で自分たちの部所を警護する決まりがあった。
冷やかしで押し入ってくる者がいるからだ。
武道系のサークルは狙われやすい大学の正門を担当することが多く、その夜も彼は同級生と正門付近にいた。
午後11時すぎ。
正門の端には電話ボックスがあり、その横に、背中を向けた女学生が佇んでいた。
同級生と少し会話をして、視線を戻す。いない。
「今、そこに女子生徒がおらんかった」「いた」
「どこに消えた」
「さあ」
二人で正門を出て左右を見渡したが、人っ子ひとりいなかった。
後日、先輩にこの話をすると、あっさり返された。
あの場所だろう、電話ボックスの隣。よく見るって聞くぞ。背中を向けて立ってる。
自分は見たことがないが、目撃情報はしょっちゅうある。
昔、あのあたりで車に撥ねられて死んだ女学生がいて、それ以来そこに立っているらしい。電話ボックスのガラスに姿が映ることもある。
大学の周囲は古戦場跡だったとされ、下宿街も含めて目撃談は無数にあったという。
この話で注目したいのは、霊が正門の「外側」に立っている点だ。
中には入らない。入ろうともしない。ただ背中を向けて、門のそばに立っている。
三件並べて読むと、校門怪談の骨格が見えてくる。
霊は門の外にいる。中には入れない。あるいは入ってこられると困る。
そして門は、なぜか毎日きっちり閉められている。理由は誰も説明しない。
派生していく「閉まる門」の型
ここからは、採集された話の周辺に散らばっている派生型を、ひとつずつ見ていきたい。
ひとつめは、命日型である。
先に紹介した五時のサイレンの話がこの型の代表だ。
死んだ生徒が命日に学校へ帰ってくるので、門を閉めて入れないようにする。
この型の面白さは、門を閉める主体が「学校」であることだ。
学校は怪異を排除する側にいて、生徒はその理由を知らされないまま不便を強いられる。
学校が生徒に説明しない、という部分がそのまま恐怖の材料になっている。
ふたつめは、無人の門が動く型だ。
誰もいないのに正門が勝手に閉まる、夜中に門扉のレールが鳴る、朝礼前でもないのにチャイムだけが鳴る。
機械的な設備が意志を持って動くタイプの怪談で、自動門扉が普及した1990年代以降に増えた。
門扉の重さ、レールの軋み、金属音。これらは実際に音が出る装置だから、話として成立しやすい。
みっつめが、足音型である。
誰もいない朝の校門から、走ってくる足音だけが聞こえる。
チャイムと同時に、砂利を蹴る音が近づいてきて、門のところでぷつりと途切れる。
この型は、事件の構図といちばん似ている。
だが不思議なことに、この型は具体的な採集例としてはあまり残っていない。
たぶん、直球すぎるのだと思う。事件を知っている人間には生々しすぎて、怪談として楽しめない。
よっつめは、染み型だ。
門柱に、何度塗り替えても消えない染みがある。
血の跡だという噂と、単なるコンクリートの経年変化だという説明が並走する。
学校怪談には「理科室の床に事故で怪我した子の血がシミになって残っている」という古典的な型があり、その校門版と言っていい。
ある人は、その染みを見に行く勇気がないまま、結局見つけられずに卒業したと語っている。
見つからなかったことで安心したような、拍子抜けしたような気持ちになった、と。
これは学校怪談の本質をよく表している。確かめないことで、話は生き延びる。
いつつめが、いちばん直接的な、挟まれる型である。
遅刻して駆け込むと挟まれる。閉まりかけの門をくぐると、何かに引っぱられる。
この型は実際にはほとんど採集できない。
理由ははっきりしていて、現実の事件が有名すぎるからだ。
怪談として語ると、必ず「それ実話じゃん」と突っ込まれる。
怪談は現実と距離があるときにいちばんよく機能する。距離がゼロになると、怪談は死ぬ。
高塚高校は心霊スポットになっていない、という事実
ここで、はっきり書いておくべきことがある。
事件のあった兵庫県立神戸高塚高校は、心霊スポットとして扱われていない。
神戸市の心霊スポットを網羅したサイトを見ても、兵庫県の学校系心霊スポットの一覧を見ても、この高校の名前は出てこない。
神戸市西区の怖い話として集められているのは、西神中央の商業施設の噴水のあたりに霊が集まっているという霊感のある人の話や、近くの小学校の七不思議、斎場前の女性の霊、廃ホテル、竹藪トンネルといったものばかりである。
15歳の女子生徒が学校の門で頭を潰されて死んだ現場が、心霊スポットになっていない。
これは、かなり珍しいことだと思う。
理由はいくつか考えられる。
まず、物がない。
事件を起こした門扉は1993年に撤去され、その日のうちに溶かされた。
怪談は物に憑くところがある。井戸、旧校舎、御神木、踏切。
消えてしまった物には、噂が引っかかるフックがない。
次に、追悼が続いている。
毎年7月6日の朝8時30分、門の前に人が立ち、花を供えて黙祷する。
学校も校内放送で事件を伝えている。
死者がきちんと悼まれている場所は、怪談になりにくい。
民俗学の側から言えば、学校怪談には「無名の死者を共同体が事後的に祀り直す」機能があると論じられてきた。
祀られていない死者が怪異になるのだとすれば、ここは逆だ。三十五年以上、名前を呼ばれ続けている。
そして三つめ。
この事件には、怖がるべき対象が最初からはっきりしている。
霊ではなく、規則のほうだ。
なぜ、規則が人を殺す話はこんなに怖いのか
ここまで書いてきて、自分でも整理がついてきた。
この事件が三十年以上語られ続け、しかも怪談の周辺をうろうろし続けている理由は、たぶん三つある。
ひとつめ。加害の形が、怪異とそっくりだから。
普通の殺意は、顔がある。恨みがあり、動機があり、人格がある。
だがこの事件の加害は違う。
門を閉めた教諭には、生徒を殺す意図はなかった。それどころか、自分が正しいことをしていると信じていた。
学校は、安全に関する研究指定校だったのだ。
校門指導は、県の生徒指導協議会で高く評価されていた取り組みだった。
校長も教頭も県教委も、誰も「生徒を殺そう」とは思っていない。
それなのに、生徒は死んだ。
意志を持たない何かが、淡々と人間を潰していく。
これは怪異の定義とほとんど同じだ。
「決められたことを忠実に実行しただけであった」という手記の一行が読む者の背筋を冷やすのは、そこに顔がないからである。
ふたつめ。舞台が、誰もが通った場所だから。
学校怪談がここまで栄えたのは、日本人のほぼ全員が「学校」という同じ間取りの建物で何年も過ごしているからだ。
三階のトイレ、音楽室の肖像画、理科室の人体模型。説明抜きで通じる共有財産がある。
そして校門は、そのなかでも全員が毎朝くぐる唯一の場所だ。
遅刻しそうになって走った経験、鞄を抱えて坂を駆け上がった経験は、たぶんこの記事を読んでいるあなたにもある。
だからこの事件は、他人事にならない。
「あと十歩遅かったら自分だった」という想像が、あまりにも簡単にできてしまう。
みっつめ。同じ構造が、いまも生き残っているから。
事件をきっかけに校則見直しの全国調査が行われ、8割の中学・高校が校則を見直した。
それでも、2017年には大阪府の公立高校で、生まれつき茶色い髪を黒く染めるよう強要されたとして生徒が訴訟を起こしている。
下着の色の指定、三つ編みの禁止、タイツの禁止。
2019年に地元紙が記事にしたところ、そういう校則が兵庫県内にもあることが読者からの反響で判明した、という話まである。
追悼を続けてきた当時の教員の一人は、2021年にこう言っている。
教育予算を増やさないと現場が回らない。管理教育の根底は今も同じだ、と。
怪談というのは、社会が処理しきれなかった不安の置き場所だ。
処理が済んでいれば、怪談にはならない。ただの歴史になる。
校門圧死事件がいまも怪談の隣に置かれ続けているのは、この社会がまだ、この事件を歴史にできていないからだと思う。
門は、また閉まっている
最後にもう一度、門の話をする。
1990年、日本の学校は生徒を締め出すために門を閉めていた。
その結果、15歳が死んだ。
社会は怒り、制度は変わり、秒読みしながら門を閉める指導は消えた。
2001年、大阪の小学校に男が侵入し、児童8人が殺された。
社会は怒り、制度は変わり、いま全国の学校は登下校時以外、門を施錠している。
防犯カメラの設置率は、2003年度の2割未満から、2023年度には6割を超えた。
門が閉まっている理由は、完全にひっくり返った。
だが、閉まっているという事実は変わらない。
そして2025年、東京都立川市の小学校で、無施錠だった正門脇の通用扉から酒瓶を持った男2人が侵入する。授業中の教室に押し入って教員が負傷する事件が起きている。
その学校の危機管理マニュアルには「正門は施錠しない」と規定されていた。
理由のひとつは、児童の遅刻への対応だった。
遅刻と、門と、安全。
三十五年たって、同じ三つの言葉がまた一緒に並んでいる。
今度は、閉めなかったことが問題にされている。
こういうのを見ていると、怪談が生まれるのも当然だよなと思う。
門というのは、そもそも二つの相反する意味を同時に持っている装置なんだ。
守るための壁でもあり、締め出すための壁でもある。
誰を守り、誰を締め出すかは、その時代の価値観が決める。
そして門自体は何も考えない。押されれば閉まる。230キログラムの鉄が、レールの上を滑っていく。
1990年7月6日の朝、その門の向こう側にいた誰かが、間に合わなかった。
いまも毎年7月6日の朝8時30分、神戸市西区の坂の上で、数人が門の前に立って黙祷している。
そして彼らが到着するより前に、門柱の右端には、いつも花束がひとつ置かれている。
誰が置いているのか、三十五年たっても、まだ分かっていない。
学校の怪談にはいくつも型があるけれど、いちばん怖い型はたぶんこれだ。
誰も名乗らないまま、毎年同じ日に、同じ場所に花が置かれている。
