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校長先生の銅像は、なぜ戦争のあいだに校庭から消えたのか

校庭の隅に、上に何も載っていない台座が立っている。背丈ほどの高さで、表には誰かの名前や校訓が彫られたままだ。像だけが、いつのまにか消えた。

愛知県の知立にあった小学校の沿革に、こんな記述がある。1939年に東郷元帥の銅像が建ち、台座には校訓の「至誠一貫」が刻まれる。1943年6月に像は供出されて土台だけが残り、戦後の1949年には、その場所に「心に太陽をもて」の塔が建つ。

三重県の羽津小学校にも、似た話がある。日中戦争で戦死した人の遺族の寄付で、1938年に楠公の銅像が建った。像は戦時中に回収されて台石だけが残り、百周年の記念事業として、その台石の上に記念碑を建てる計画が立った。

持っていかれたのは銅だけ。台座は置き去りにされた。同じ空白は、記録をたどるだけで、あちこちの学校に見つかる。

校長先生の像も、そうした空白のひとつになる。生きているうちに胸像が建った校長もいれば、村じゅうで巨石を運んで碑を建てた校長も、台座だけを残して像を手放した校長もいる。像を溶かしに来る国に抗議した校長と、地面の下へ隠した校長もいた。

銅像という置物は、明治まで日本になかった

銅像を屋外に立てる習慣は、明治になって西洋から入ってきた。それまでの日本には、寺の大仏を除いて、偉人の像を雨ざらしの屋外に立てて仰ぐという発想そのものが、なかったらしい。美術史家の平瀬礼太が書いた『銅像受難の近代』を、新聞の書評はそう紹介している。

靖国神社の大村益次郎像や上野の西郷像が建つと、銅像は一気に増え、設置に許可が必要になるほどだった。交通の邪魔になる像があり、市民に倒されて引き回された像まである。伊藤博文の像がそうで、本人はまだ生きていた。

銅像は人の形をしている。だから、持ち上げられもするし、からかいや攻撃の的にもなる。書評はそう読んでいた。時代の都合が変われば、偉人の評判も像の扱いも変わる。

校庭に立つ像といえば、二宮金次郎が有名だ。校長や教育者の像は、少し事情が違う。モデルが、同じ学校で子どもたちを教えた本人だからだ。

校長が生きているうちに、胸像は建った

神戸高等工業学校の初代校長、廣田精一の胸像ができたのは、病気で校長を退く年にあたる1929年のことだ。退任を惜しんだ在校生と職員と卒業生が、寄付を集めて像を作らせた。

作ったのは彫刻家の北村西望。のちに文化勲章を受け、長崎の平和祈念像の作者として知られる人だ。同じ胸像はもう1体鋳造され、廣田家に贈られた。それが私立電機学校に据えられたのは、廣田がその学校の創立者のひとりでもあったからだ。

2体の胸像は、戦時中に金属不足を補うため、国へ供出された。電機学校のほうは、供出の前に石膏型が取られ、石膏の像が代わりに立っていた。戦後の1956年、残った石膏像を原型にして2体が改めて鋳造され、神戸大学と東京電機大学に据えられる。1965年に、神戸大学の胸像は六甲台キャンパスへ移された。

除幕式では、廣田本人が謝辞を述べた。この像は彫刻家の魂が込められたもので、職員と卒業生と生徒がつくる学校の精神を人格にしたものだという。自分はモデルになっただけで、これはもはや廣田ではない。神戸大学の解説は、その言葉を伝える。

台の裏には、謝辞のなかで詠まれた歌が刻まれる。「此すがた、我にはあらじ、いや高く、校風揚ぐる、神とこそ見れ」。歌の「神」は、魂や精神の意味だという。足元には「規律」「持続」「執守」という3つの徳を掲げた碑文も埋め込まれている。

像の側は、モデルの手を離れて学校の精神になる。当人はそう整理してみせた。生きている人が、自分の像の前で、これは自分ではないと言い切ったわけだ。

旭川師範学校にも、初代校長の像がある。山下直平の像で、1928年3月に同窓会の至誠会が寄付し、講堂の中に置かれた。戦時中に一時所在が分からなくなったが、戦後に見つかり、いまは北海道教育大学旭川校の構内で、屋外に置かれている。

置かれたのは、かつての師範学校の玄関の近くで、向かって右側にあたる。像を置いた講堂は、木造校舎の最後の棟とともに、1972年に解体された。

巨石を村じゅうで引いた校長の碑

岡山県の津山に近い広野小学校の校門を入ると、高さ4.2メートルの石碑が目に入る。「松本譲先生頌徳碑」といって、初代校長をたたえる碑だ。建ったのは1936年。

松本譲は、浜田藩の武士の出身だ。幕末に藩の飛び地のある美作へ逃れ、津山の教員伝習所で学び、35歳で明知小学校の初代校長になる。校名が広野小学校に変わってからも校長を務め、1905年に後進へ道を譲るまで、30年その席にいた。

1913年に亡くなると、河原で村葬が営まれ、後にも先にもない規模だったと、土地では語られる。碑の巨石は、谷の奥から村人が総出で運んだという。題字は、のちに首相になる平沼騏一郎が書いた。

碑は、はじめ山ぎわにあったが、新しい校舎を建ててグラウンドを広げる工事で、いまの校門の近くへ移される。石の碑は、台座だけになった像とは別の道をたどった。

朝会で校長が語った、消えた像のこと

大阪の布施第四小学校で、1937年3月11日の朝、用務員が台石の上にあるはずの像がないことに気づく。校庭の楠公像だ。青銅製で重さは60貫、約225キロ。教育後援会の寄付で建てたもので、台石には陸軍大将の揮毫で「七生報国」と刻まれていた。

登校した子どもたちが、像のない台石を見て騒ぎだす。朝会で、校長は訓示した。銅像がなくなっても悲観してはいけない。私たちは大楠公の精神に敬礼しているのだ、と。

当直の教員は、責任を取って辞表を出した。当時は鉄や銅の値上がりで、小学校の二宮尊徳像や村の半鐘の盗難が相次いでいたという。像は数日のうちに、大阪市内の古物商の家で見つかる。30数片に叩き潰されていた。犯人は4人捕まった。

銅の値打ちは、国が回収を言い出すより前から、人の手を動かす。像は、人の形をした金属でもある。

校長の引くリアカーに乗った銅像

金属類回収令が公布されたのは、1941年8月30日だ。この令の段階では、銅像は回収の対象に入っていなかったと、東京大学の文書を調べた研究ノートは書く。像が正面から狙われるのは、もう少しあとの話だ。

学校は先回りした。横須賀の走水小学校には、1942年9月ごろの記録写真が残る。日の丸を掲げた金次郎の銅像を、校長がリアカーで引いて運び出す場面だ。島根の荘原小学校でも、同じ年の2月5日に金次郎像が供出され、台座と柵だけが残った。供出の代わりに、陶や石の像を置いた学校もある。

流れが変わるのは、1943年3月5日。閣議が「銅像等ノ非常回収実施要綱」を決める。銅像は原則すべて回収する。除くのは、皇室に関するものと神像、信仰の対象の仏像、国宝や重要美術品、国民が特に崇敬する中心の像だけだ。

要綱には、回収は「飽迄愛国心ノ発露ニ依ル如ク措置スル」とも書かれた。命令という形をとらず、自分から差し出す形にせよという意味だ。新聞は、政府の方針だとは書かせてもらえない。個々の像が「応召」「出陣」したという記事だけが、載り続ける。

銅像は人の形をしている。だから「応召」という言葉が使えた。像のほうが、自分の意思で戦争に行くことにされたわけだ。読売新聞は3月9日に、銅像500体が「応召」する見込みだという予想記事を載せた。

研究ノートは、言葉を2つに分ける。政府の命令によらず、自分から差し出すのが献納だ。命令を受けて回収に応じるのが供出で、新聞では、供出のほうも「出征」「出陣」「応召」と書かれることが多かった。

研究ノートは、銅像の供出を3つの時期に分けて見る。1941年12月の開戦のころは、所有者が自分の希望で差し出す時期。1943年3月の要綱からは、所有者の判断に任せて原則回収する時期。1943年12月の閣議決定からは、所有者が残したいと申し出ても、国のほうから回収を命じられる時期だという。

その12月10日の閣議が決めた最終版のリストは、3つに分かれる。当然回収して差し支えない像が8344個。疑義はあるが回収すべき像が613個。疑義の中で存置してよい像が279個だった。

回収されたのは像だけではない。マンホールの蓋、鉄柵や手すり、寺の梵鐘、家庭の鍋や釜、洗面器、ブリキの玩具、火鉢。鉄道の線路にまで及んだという。

学校の日誌にも、供出の跡は残る。南アルプス市の博物館が紹介する国民学校の日誌には、1942年11月9日の日付で、供出した品を数え上げた記録がある。七輪3個、花瓶1個、火薬銃1個、鉄砲丸1個を供出した、と書かれている。別の学校では、1943年6月25日に「砲弾等の特別金属を供出」とあり、1944年以降は金属供出の記載が見られないという。1943年には、学生服の金属ボタンまで対象になったという。

襷をかけられた像と、魂を抜く式

1943年5月29日、香川の高松では、県内の学校の銅像を含む約70体について、旧高松城内の桜の馬場で「除魂式」が開かれた。像から魂を抜いてから、体を運び出す。そういう段取りになる。

浅野学園には、もっと生々しい記録が残る。財閥の総帥だった浅野総一郎の銅像は、1924年に校内の丘へ建った。高さ16尺、約4.8メートル。除幕式の日から、その丘は「銅像山」と呼ばれた。

建設費は、25万人が1人20銭ずつ寄付して集めた。除幕式の参加者は、5000人とも3万人とも伝わる。式の終わりには、飛行機が低空からビラをまいた。刷られていたのは、本人の座右の銘「かせぐに追ひつく貧乏無し」。

制作中には、顔の扱いで揉めた。原型を見た夫人が、眉間のコブが再現されているのに文句をつける。建設会の委員長が彫刻家の本山白雲にコブを取るよう求めると、忠実に作れと言われて作ったのにと断られた。委員長が本人に相談しても、芸術家の意思を尊重すべきだと言う。

1943年5月2日か3日、その像が金属供出のために解体された。校長が抗議し、像は急いで元の形に復元された。それから、出征する兵士を送るときのように赤いタスキをかけ、生徒が列をつくって見送る。

全校450名だったと伝わる。1年生と2年生は委員だけだったという説もある。胴のあたりで2つに切られた像がトラックで運び出されるとき、生徒たちは捧げ銃をした。あとには、塔のように高い台座だけが残る。

戦後の1958年11月23日に、再建された像の除幕式があった。新聞は戦前と同じ大きさだと報じ、長くそう信じられてきた。2020年に創立100周年の記念として、卒業生が提案した展望台が像の前に造られる。その工事の測量図で、像本体は3.85メートルしかないと分かる。戦前の5分の4で、像は戻っても、元のままとは限らない。

香川の旧十郷村には、実業教育に尽くした山下谷次の像が立った。亡くなった2年後の1938年、教え子や友人が寄進した像を、村会の議決を経て小学校の校庭へ建てる。1943年5月29日に撤去され、1952年の17回忌に建て直された。

台座の銘には、戦争のために像が政府に収められたことを、遺憾に堪えなかったと記す一文がある。再建を望んだのは、知友と卒業生だった。像は、その寄付でもう一度立った。

地面の下に像を埋めた校長

供出された像が、みな溶かされたわけではない。東京帝国大学は、学内の銅像47体を調べて文部省へ報告した。うち4体は残してほしいと申し出たが、返ってきたのは、1944年1月の「回収すべきもの」という通知だった。

残したかったのは、元総長の浜尾新の像や、日露戦争の殊勲をたたえた市川紀元二の像など。市川の像の前では、毎年3月7日の命日に追悼式が開かれていた。それも、大学が挙げた理由のひとつだ。

4月には像が台座から外され、「出陣」と学内の新聞が伝えた。ところが、多くは溶かされずに終わる。戦後まで学内で保管され、少なくとも38体が残った。取り外しの「式」だけが目的になっていたと、研究ノートは見る。

政府の側も、取り外しを急いでいた。1943年11月の会議で、首相を兼ねる東条英機軍需大臣が問いただした。「回収スルコトニ殆ド問題ノナイモノハ既ニ取外シテヰルカ」。外して公共の場から像が消えることが、目的のように扱われる。

壮行式は各地で開かれる。1943年9月2日には高知公園で板垣退助の像の壮行式があり、10月8日には青山学院で本多庸一の像が赤い襷をつけて出陣した。鹿児島市では1944年4月19日に島津三公の像の壮行式が開かれたが、像は結局溶かされないまま終戦を迎えた。

仙台城跡の伊達政宗の騎馬像は、供出されたものの、溶かされないまま終戦まで上半身が放置されたという。三越のライオン像は、いったん供出されたが、社員が残っていることに気づいて戻された。溶かす側の手が、追いつかなかった例もある。

1944年5月末の報告では、回収の対象になった像の約80%が回収済みで、6月末にはほぼ全部が終わる見込みだった。目標は600トンだ。6月16日には、存置か回収かを審査してきた委員会の停止が閣議で決まる。ただ、その80%の中に、溶かされずに外されただけの像がどれだけ混じっているのかは、この数字からは分からない。

新潟には、もっと思い切った校長がいた。竹内式部の銅像のあった学校の校長、櫛平朔だ。県の回収課長から電話で督促され、銅像が人目にさらされていることが支障になると言われる。

櫛平は、銅像の2倍の量の銅を用意した。像のほうは、地下に埋めたという。供出は免れた。1978年に書いた文章『竹内式部先生銅像の縁起と異聞』に、本人がそう明かしている。

地面の下に像が眠っていた。そう書くと怪談の導入みたいだが、本人の回想に出てくる話だ。像を守った理由が、そこにどう書かれているかは、ここで引いた資料からは分からない。

台座の上に、別の人が立った

戦後は戦後で、像の受難が続いた。連合国軍総司令部が、封建的だったり軍事色が濃かったりする銅像の撤去方針を打ち出したからだ。寺内正毅元帥の像が外された台座には、3人の裸婦の像「平和の群像」が載ったという。

高知県の夜須小学校では、1954年3月に、ノーベル賞を受けた湯川秀樹の胸像が建った。戦時中からあった楠公の胸像に代わるもので、玄関の右側に置かれ、その左側には、先ほど触れた二宮尊徳の像が立つ。除幕式には本人が出席し、児童700名と中学生200名と町民約300名が集まる。

湯川はあいさつで、こんなに立派な胸像を建ててもらって感慨無量だと述べ、続けて、自分はあたり前の人間にすぎないと語った。根気よく勉強を続けただけだ、とも言った。廣田の「これは自分ではない」に、よく似た言い方だ。

旧制岐阜中学の構内では、1940年4月28日に胸像の除幕式があった。像になったのは配属将校の広部広大佐。漢口攻略戦で戦死した人だ。胸像は戦時下の金属回収で供出され、校舎も1945年7月の岐阜空襲で焼けた。

戦後の1959年7月12日、校門前でガリレオの胸像の除幕式があった。贈ったのは、1932年に卒業した人たちの会「昭七会」。台座は、広部の胸像のものを転用している。

同じ学校を1932年に出た作家の小島信夫は、この胸像を下敷きにしたとみられる場面を描いた。『釣堀池』に収められた「ガリレオの胸像」だ。作中で彫刻家は、軍人の像が消えた台座にガリレオの胸像を据える許可を、校長の家へ求めに行く。

台座は像より長く残る。上に載る像が入れ替わっても、台座は同じ場所にある。

銅像の校長は、夜に歩いたのか

ここまで、校長の像に怪談がついたのかを探しながら書いてきた。正直に言うと、確かな記録は見つからないままだ。夜に歩く校長像の話を、学校の沿革や新聞で確かめることは、調べた範囲ではできなかった。

目にするのは創作ばかりだ。小説の投稿サイトには、初代校長の像が夜に走る話や、像の正体がたぬきだった話が載っている。どれも作り話で、実際に子どもたちが語った噂の記録とは違う。

子どもたちの間で本当に語られた話は、記録が少ない。2015年の京都新聞に、亀岡市出身の記者が母校の小学校を25年ぶりに訪ねた記事がある。

約30年前、児童の間では、体育館の床の穴に指を入れると引きずり込まれるという話が広まっていた。音楽室の肖像画の目は、夜になると動く。二宮金次郎像の薪を左右から数えて合わないと不幸になる、という噂もあった。校長の像は、その一覧に出てこない。

京都市学校歴史博物館の学芸員は、七不思議のような話が広がった時期を、1970年代から80年代の可能性が高いと話した。口承の文化で資料が少なく、きちんとした研究はまだない。背景には、郊外のニュータウンで学校が大きくなったことがある。育ちの違う子どもたちが同じ校舎に集まり、共通の話題が必要になったという。

もうひとつ、学芸員は「分からなさ」を挙げた。古くて暗い場所、入れない部屋、解明しようとすると罰が当たる設定。謎のまま残るから、話は続く。

校長像の怪談が本当にないのか、集め損ねているだけなのか。この記事の調べでは、決められない。

毎年二月の末に着替える校長像

校長の像が毎年のように姿を変える場所を、ひとつだけ知っている。京都大学だ。前身の第三高等学校で、折田彦市は校長を務め、その前身の学校もふくめると、在任は30年に及ぶ。

像は1940年に、三高の卒業生有志の寄付で作られた。戦時中の金属供出で失われ、石膏の像が代わりに置かれる。戦後の1950年には、旧制高等学校の廃止を記念して、同窓生の寄付で銅像が作り直された。作者は彫刻家の辻晋堂だ。

いつ頃からか分からないが、この銅像に落書きやいたずらがされるようになる。はじめはペンキの着色だった。遅くとも1986年には、顔が赤く塗られ、台座に「怒る人」と書かれていた。1991年には誰かが顔を青く塗り替え、台座に「怒らないで」と上書きする。

そこから落書きは「作品」になっていく。腕を取り付け、自転車を担がせ、像全体にダンボールのモアイを被せる。大学は1994年に像を掃除し、「どうかこの像を汚さないで下さい」という立て看板を横に立てた。すると今度は、像のほうに「この像を汚さないで」と落書きされる。

1997年3月、大学は像と台座を撤去し、図書館の地下書庫にしまった。13年半後の2010年10月に一般公開が再開され、2013年からは時計台記念館の歴史展示室に常設される。

本物が引っ込んでも、像は消えなかった。国公立大学の2次試験が始まる2月25日ごろ、キャンパスのどこかに、本物とは別の「折田先生像」が毎年のように現れる。2008年はてんどんまん、2009年はライダーマン、2012年は地デジカ、2024年はパックンフラワーだった。

横の看板の声明は、そのキャラクターの関係者の名義で出される。2017年には、大学の告示に似せた偽の文書まで貼られ、「折田先生」が「川田先生」と呼び替えられていた。置かれる場所も毎年変わり、総合人間学部の図書館前や、吉田南構内の正門付近に出たこともある。

壊される年もある。2006年2月に置かれた「折田大仏」は、のちに何者かに壊された。2007年の像も、3月19日未明に壊され、翌日に撤去された。

時計台記念館の展示室に立つ本物の像を、向かって左の台座のあたりまで近づいて見る。赤いペンキらしい跡が付いている。落書きの痕跡と思われる。1997年に撤去される前の姿が、そこだけ残った。

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