毎年何度も歌わされて、正直ちょっと退屈ですらある校歌。あの歌に、自分たちが教わっていない一節が隠されているらしい。そう聞いた瞬間に背筋がひやりとするのは、学校という場所が「大人だけが知っていて、子どもには教えない領域」を確かに持っているからだ。校歌三番の怪談は、その不信感を実に上手くつついてくる。
しかも題材が歌詞、つまり言葉だ。だからこの話は言霊の感覚と簡単に結びつく。ただ怖がらせるだけじゃなく、「歌う」という行為そのものへの畏れを呼び起こしてしまう。三番の正体も語り手によってころころ変わる。隠された事故の記憶だったり、名簿の不整合だったり。校歌という素材がそれだけ抽象的で、どんな恐怖のモチーフでも接続できる懐の深さを持っているということだ。
この先も、どこかの学校で校歌の三番が見つかった、忘れられていた、そんな些細な実話を吸い込みながら、この怪談は形を変えて生き延びていくと思う。
で、ここからが本番だ。この話、調べていくと土台のかなりの部分が現実なんだよな。
校歌は昔、国の許可がないと歌えなかった
この怪談の一番おいしいところは「学校が意図的に一節を隠している」という設定だ。そんなことが本当にあるのか、と思うだろう。それが、あったのだ。しかも制度として。
二〇二〇年に人文書院から出た須田珠生の研究書『校歌の誕生』が、この話をまるごと扱っている。同書によれば、戦前の日本では、学校が校歌を作ったら文部省に認可を申請しなければならなかった。作詞者名、作曲者名、歌詞、楽譜、歌詞の説明などを添えて提出する。学校は道府県を通じて事前に申請し、文部大臣の認可を待った。書評によれば、明治二十七年には学校内で使う唱歌すべてが認可を要するようになったとされる。
認可を受けた校歌を選んだ例として、明治二十六年の東京市下谷区忍岡尋常高等小学校が挙げられている。
同書が根拠に挙げるのは、校歌の申請を制度化した文部省訓令と、俗曲の蔓延を防ぐために唱歌の統制を強めた文部省訓令だ。ただ、それぞれの訓令が何年何月に出たものかまでは、今回の調査では一次資料で確定できなかった。制度があったこと自体は複数の研究で裏が取れる。ただ条文の番号と年月を突き合わせるには、もう一段深い資料が要る。
つまり戦前の校歌は、学校が勝手に決めた歌ではない。国が中身を審査して通した歌だ。歌詞に何を書けて何を書けないかを、学校の外にいる誰かが握っていた。校歌が全国の学校に行き渡ったのは昭和五年ごろとされるから、この認可制のもとで普及したことになる。「歌詞は上から管理されている」という怪談の前提は、想像じゃなくて歴史だった。
「歌える番数」を実際に削られた歌がある
じゃあ、歌詞が削られた実例はあるのか。ここでうってつけの一曲が出てくる。「われは海の子」だ。
近畿大学の図書館紀要に載った音楽教育史の論考によると、この歌は明治四十三年の『尋常小学読本唱歌』に載った。終戦後、七番の歌詞が削除される。さらに昭和二十二年の文部省著作の教科書では、曲そのものが消えた。そして昭和三十三年、歌唱共通教材が定められた際に復活するのだが、このとき三番までに制限された。
歌える番数を公的に切り詰められた歌が、実在するわけだ。しかもかなり有名な唱歌である。学校で習うのは三番まで、その先にはもう歌われなくなった歌詞がある。この構図、校歌三番の怪談とほぼ同じ形をしている。怪談が現実を後追いしたのか、同じ経験から並行して生まれたのか。どちらにせよ、この話型が全国の学校ですんなり受け入れられた理由の一端は、ここにあるとみていい。
教科書を墨で塗りつぶした日付は、記録に残っている
削除の話をするなら、墨塗り教科書に触れないわけにいかない。奈良県立図書情報館が開いた戦争体験文庫の資料展の図録が、通達の名称と日付をきちんと拾っている。
昭和二十年九月二十日、文部省が「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」を出す。削除の指示は三分類だった。バツ印は削除すべき教材、三角印は要注意の教材、そして「替」は語句や文章を修正するもの。翌昭和二十一年一月二十五日には第二次の通牒として「国民学校後期使用図書ノ削除修正箇所ノ件」が出ている。
同じ昭和二十一年一月十一日には、修身、国史、地理の授業停止に関する文部次官通牒が出た。その前段には、一九四五年十二月三十一日付の連合国軍総司令部の指令がある。二月十二日には該当する教科書の回収が指令された。
子どもが自分の教科書に墨を塗る。それが学校でいっせいに行われた。書かれていたはずの言葉が黒く消され、その下に何があったかは塗った本人しか知らない。教室で「消された歌詞」の話が説得力を持つのは、日本の学校がわりと最近まで、そういうことを実際にやっていたからだ。
なお、校歌の歌詞が戦後に改訂された具体例、つまりどこの学校がいつどう直したかまで特定できる事例は、今回は見つけられなかった。制度として削除と修正が行われたことは確実だが、個別の校歌に落とし込んだ記録には到達できていない。
十八番まである校歌が、実在する
三番があるかないかで揉めるのが馬鹿らしくなる学校もある。長野県の諏訪清陵高校だ。
同窓会の公式サイトによると、この学校には第一校歌が八番まで、第二校歌が十番まである。合計十八番。フルコーラスで歌うと十分を超える。郷土紙の連合が配信した記事では、序章と終章を含めて全二十番、制定は一九〇三年とされ、創立百三十周年に合わせてギネス記録への登録申請を計画していると報じられた。
十八番あるということは、日常の式典では絶対に全部歌わないということでもある。この学校の生徒は、公式に存在するのに歌ったことのない歌詞を大量に持っている。校歌三番の怪談が前提にしている「知らない歌詞がある」という状態は、珍しくもなんともない。むしろ古い学校ほど当たり前に起きている。
三番が歌われなかった実例も、報道の形で見つかる。秋田魁新報が二〇二三年四月十四日に、旧・秋田県立鷹巣農林高校について、校歌の三番がなぜ歌われない時期があったのかを取り上げた記事を配信している。ただしこの記事の本文は確認できなかったので、理由も時期も未確認のままだ。見出しから言えるのは、三番が歌われない時期が実在した学校がある、というところまでになる。
校歌を書いた人たちは、とんでもない数を書いていた
校歌がどういう手つきで作られてきたかも、数字で見るとかなり異様だ。
土井晩翠の作詞した校歌は、平成十六年の時点で二百九十三校ぶんが確認されている。仙台の文化施設が公開している資料に出てくる数字だ。相馬御風はもっと多い。富山国際大学の紀要に載った調査によれば、新潟県内で百四十四校、県外で六十三校。北原白秋も各地の校歌を書いている。福岡県柳川市の公開資料によれば、柳川尋常高等小学校、いまの柳川市立矢留小学校の校歌は昭和十一年四月三十日の作。作曲は山田耕筰だった。
一人の詩人が三百近い学校の校歌を書く。当然、内容は似通ってくる。地域の名所や川の名前を差し替えれば成立するような構造にもなる。それだけの量産のなかで、三番まで書いたのにほとんど歌われず忘れられた歌詞が生じたとしても、何も不思議はない。怪談が想像する「封印」より、現実に起きたであろう「放置」のほうがずっとありふれている。
校歌をめぐって現実に揉めた話のほうが、生々しい
校歌が実際に事件になった例もある。京都国際高校の校歌が、二〇二四年八月二十三日の全国高校野球選手権大会の決勝で韓国語で斉唱された。歌詞のなかの「東海」という語について、テレビ局が日本語字幕を「東の海」と表記したことで、批判の投稿が集中した。同校は二〇〇三年に学校教育法上の学校として認可され、翌年から日本人生徒を受け入れて校名を変えている。
もっと事務的で、それゆえ怖い例が高知県にある。高知国際中学校・高等学校は統合してできた学校で、平成三十年度から令和四年度までは前身校の校歌を使うと決めていた。その期限が来て、二〇二三年五月に在校生へアンケートを取ったところ、現行の校歌が良いが三百十五人、新しい校歌が良いが三百十六人、どちらでも良いが四百十三人。ほぼ真っ二つに割れた。結果として、教育委員の選択によって決めるという方針に変わっている。
これは県教育委員会の行政文書に残っている。
歌が一人の意思で決まらない。誰かが決めた版だけが残り、選ばれなかった版は書類の中で眠る。校歌をめぐる現実は、怪談が用意した「顧問が口をつぐむ」という演出よりも、はるかに散文的で、はるかに残酷だ。
一方、失われた校歌を掘り起こす動きもある。ある財団が二〇一九年から、東日本大震災の被災三県で閉校した学校の校歌を採譜し、歌詞を採り直して新たに録音する取り組みを続けている。二〇一九年一月には、統合で閉じた小学校の校歌を卒業生およそ八十人で録音した。同年十二月には震災遺構として校舎が残る学校の校歌を、翌年二月にはさらに二校ぶんを収録している。自治体にも同種の保存事業がある。
歌そのものが消えかけているのは、怪談の中じゃなくて現実のほうだ。
「歌ってはいけない一節」は、探しても出てこない
最後に、いちばん肝心なところを正直に書く。この怪談の背骨になっている「わらべ歌には歌ってはいけない禁忌の一節がある」という前提は、裏づけが取れなかった。
検索して上位に出てくるのは、意味がわかると怖い歌、本当は怖いわらべ歌といった調子の個人ブログばかり。地域名も伝承名も特定できない。国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースで歌にまつわる事例を当たると、三十件あまりが出てくる。だが中身は雨乞いの歌、蛙の声を止める歌、呪歌や神歌、歌う首、歌い骸骨、和歌の徳といった類型ばかりだった。
「この一節だけは歌ってはならない」という形の伝承には行き当たらない。
「かごめかごめ」の解釈にしても事情は同じだ。徳川埋蔵金説、遊女説、日光東照宮説、囚人説、天の岩戸説。有名どころが山ほどあるのに、誰がいつ言い出したのかを辿れる一次資料は確認できない。日本語版の百科事典ですら、多くの説に提唱者不明と注記している。歌そのものの文献上の初出は江戸期までさかのぼれて、文政年間の随筆や文化十年の歌舞伎の外題に姿を見せる。
全国に広まった現在の形は、昭和初期に千葉で採録されたものが伝播したとされる。歌は古い。解釈は新しい。
例外的に出所を辿れる解釈もある。「通りゃんせ」の「帰りはこわい」を被差別部落と結びつける読み方は、森達也の『放送禁止歌』に記述がある。その解釈によって大阪で放送から外された経緯まで書かれている。誰がどこで書いたかがわかる説は、実はごく一部しかない。
こうして並べると、校歌三番の怪談の立ち位置が見えてくる。国が歌詞を認可していた事実、番数を切り詰められた唱歌、教科書を墨で塗った日付。この三つは記録で確認できる。一方、「歌うと何かが起きる禁忌の一節」のほうは、どれだけ探しても出所に行き着かない。確かなものと確かでないものが、ちょうど半分ずつ混ざっている。だからこの怪談はよくできているのだと思う。
土台の半分が本当なら、残り半分の作り話は、驚くほど自然に立ってしまう。
