校庭というのは、たぶん日本人の記憶の中でいちばん「平らな場所」だ。白線が引かれていて、朝礼台があって、隅っこに鉄棒とジャングルジムがある。何もない。何も起きない。そういう場所として、俺たちはあそこを覚えている。
でも、あの平らな土の下に、穴が空いてる学校が実際にある。しかも一校や二校じゃない。全国に、たぶん数え切れないほどある。戦争のときに掘られて、戦争が終わって、埋められたり塞がれたりして、そのまま忘れられた穴だ。そして不思議なもので、そういう学校にはだいたい「あの辺には近づくな」という話が残っている。
誰が言い出したのかわからない。先生も知らない。でも子どもたちだけが知っている。校庭の一角、体育館の裏、プールの脇、飼育小屋の向こう。そこに何かがあった、という感触だけが、世代を越えて引き継がれていく。
この記事は、その穴の話だ。校庭の下に埋められた防空壕――学校の敷地に残る戦争の穴と、そこから語り継がれた怪談の全部だ。制度としての防空壕がどうやって学校に入り込んだのか、どんな形をしていたのか、戦後どこへ消えたのか。そして、消えたはずの穴からどんな怪談が生えてきたのか。ぜんぶ書く。
長くなるけど、たぶん途中で止まらないと思う。
- そもそも、なんで学校の下に穴を掘る必要があったのか
- 国民学校という装置と、校庭に開いた最初の穴
- 二年かけて子どもが掘った地下教室、無窮洞という異常な達成
- 学校が壕になった日、そして壕が墓になった日
- 東京の学校の地下には、行政が作った部屋があった
- 穴はどこへ消えたか、消えていないかもしれない
- 地面が突然なくなる日、そして子どもが吸い込まれる話
- ここから本題、地面の下から始まる学校怪談
- 朝礼台の真下から地鳴りがした話
- 体育の時間、砂場で足首を掴まれた話
- 用務員室の奥の鉄扉と、開けなかった生徒会長の話
- お芋をねだる女の子、投稿サイトに残る話
- 別バージョンが山ほどある、というのが逆に不気味なんだよな
- 掲示板とSNSでは、この手の話はどう扱われてきたのか
- 全部が本当だとは思わない、その理由を並べておく
- 埋め戻された穴が、いま何を語っているのか
そもそも、なんで学校の下に穴を掘る必要があったのか
まず前提から潰しておきたい。「戦争中だから防空壕を掘った」って一行で済ませると、実はいちばん大事なところが抜け落ちるんだよな。日本の防空体制の根っこには防空法という法律がある。1937年に作られて、何度か改正されている。で、決定的なのが1941年11月の改正だ。
ここで何が入ったかというと、退去禁止と消火義務。条文でいうと第八条ノ三が退去禁止、第八条ノ五が消火義務にあたる。しかも懲役や罰金の罰則付きだ。つまりこの国は、空襲が来たときに逃げることを法律で禁止したわけだ。逃げるな、留まれ、火を消せ――それが国の方針だった。
1941年12月7日、真珠湾攻撃の前日に内務大臣の通牒が出て、退去禁止が全面適用されている。この日付の並びが、もうそれだけで背筋が寒い。もっと言うと、その方針は改正の前からあった。1937年12月の防空指導一般要領の段階で、老幼病者以外は避難させないという線が引かれている。1938年3月、1940年12月の通達でも同じことが繰り返された。
要するに、最初から国民を都市に縛りつける設計だったってことだ。なんでそんなことをしたのか。当時の陸軍軍務課長だった佐藤賢了が議会で述べた言葉が残っている。空襲の実害は大したものではない、それよりも狼狽混乱、さらに戦争継続意志の破綻となるのが最も恐ろしい、という趣旨のことを言っている。要は、爆弾より人心の動揺のほうが怖い、と。
都市から労働力が流出するのも困るし、反戦感情が広がるのも困る。だから「空襲は怖くない」という嘘を国策として流し込んだ。この文脈が入ると、防空壕という言葉の意味がガラッと変わる。1940年の段階では、防空壕は安全な場所に作るものだった。ところが改正後は、家の床下に作るのが原則になっていく。
1942年7月の防空待避施設指導要領では、床下に簡易で構築容易なものを、という指示が出ている。安全な場所への避難所じゃなくて、消火に出動するための一時待避所へと性格が変わったんだよな。呼び名も面白い。当時は防空壕という言葉をあえて避けて「待避所」と呼ばせようとした形跡がある。逃げ込む場所じゃなくて、ちょっと避けて、すぐ出て火を消しに行く場所。
言葉のレベルで逃走を禁じていたわけだ。この設計思想のまま、話は学校に降りてくる。
国民学校という装置と、校庭に開いた最初の穴
1941年、小学校が国民学校に変わった。国民学校令だ。名前が変わっただけじゃない。心身を鍛えて国のため天皇のために身を捧げる、という目的が正面から掲げられた。儀式と集団訓練の比重が上がり、勤労作業が教科の学習と同じくらい重く扱われるようになる。
働き盛りの大人が戦地に取られていくから、その穴を子どもが埋める。広島の記録には、1942年に佐伯郡八幡村、いまの広島市佐伯区で、児童が用水路の掘削のような土木工事に従事させられていた話が残っている。学校というのは、この時期すでに労働力の供給源になっていたんだ。そこに防空の要請が重なる。空襲警報が鳴ったとき、子どもをどこへ入れるか。
答えは、いま子どもがいる場所に穴を掘る、だった。三重県が集めた戦争体験の文集に、めちゃくちゃ具体的な記述がある。ある学校では、海に続く松林に防空壕を掘った。丸太棒を打ち込んで、寄せ集めの板で土の崩れを防いで、杉皮で屋根を作った、という程度のものだ。そこに何を入れたかというと、天皇の写真と詔勅、それに重要書類。
人間じゃない。まずは御真影が入る。これが当時の優先順位だ。じゃあ生徒はどうしたか。生徒用の避難穴は「たこつぼ」と呼ばれた。
直径も深さも九十センチくらいの円柱形の穴だ。松の根と笹竹が縦横に走る粘土質の地盤を、スコップと移植ごてで掘る。そこに低学年と高学年が二人一組で入る。膝をかがめて、身動きも取れないまま、時間が過ぎるのを待つ。九十センチの穴だ。
想像してみてほしい。今の小学生を二人、そこに突っ込んで、頭の上に爆弾が落ちてくるかもしれない状況で、じっとさせる。それが学校の防空だった。そして校庭そのものも消えていく。戦況が悪くなると、運動場は畑に転用された。
全校生徒が学年ごとに決められた時間、運動場に一列横隊で並んで、さつまいもやかぼちゃを作る。警報が出れば防空頭巾をかぶって通学団別に運動場へ集合し、走るように家へ帰る。帰れないときは壕かたこつぼへ。この訓練が繰り返された。校庭に穴があった、という言い方はたぶん正確じゃない。
校庭が穴だらけだった、というほうが近い。しかも、それは全国どこの学校でも起きていた。
二年かけて子どもが掘った地下教室、無窮洞という異常な達成
学校の防空壕の話で、どうしても外せない場所がある。長崎県佐世保市にある無窮洞だ。旧宮村国民学校の校長の発案で、教師と児童が掘った防空壕。記録には「本工事ハ昭和十八年八月二十九日超シ、同二十年八月十五日炊事場ヲ未完成ノママ停止セリ」とある。1943年8月29日に始まって、1945年8月15日、終戦の日に炊事場を未完成のまま止めた。
丸二年だ。中は幅がおよそ五メートル、奥行きが二十メートル。底面積は七十坪ほど。五百人から六百人の生徒が避難できる規模とされている。この時点でもう普通じゃない。
町内会が家の裏に掘る穴とは桁が違う。しかも中身がすごい。教壇を備えた教室がある。トイレがある。炊事場がある。
食料倉庫がある。御真影を奉じるための部屋がある。映画を上映する設備の話まで残っている。空襲で地上が使えなくなっても、地下で授業を続けるつもりだったってことだ。じゃあ誰が掘ったのか。
ここが一番きつい。小学四年生以上の生徒がツルハシで掘り進め、女子生徒がノミで壁面を整えた。記録には「爆薬ヲ用ヒズ、職員生徒児童ノ手ヨリ、つるはし、のみ、かなづち、くわ、ヲ使用セリ」とある。外部の労力も入れず、火薬も使わず、手道具だけで岩盤を二年削り続けた。十歳の子どもがツルハシを振るう。
それを二年やる。これはもう教育でも防空でもなくて、労働だ。しかも当時の子どもたちは、たぶんそれを誇りに思っていた。お国のために掘っている、と信じさせられていたわけだから。無窮洞は2002年、佐世保市制百年を記念して一般公開された。
いまは無料で見学できる。俺はこの場所を「怖い場所」として紹介したくない。ここにあるのはお化けじゃなくて、記録だ。ただ、日本のどこかの学校の地面の下に、こういう空間がまるごと残っている、という事実だけは頭に入れておいてほしい。この記事の後半で出てくる怪談の、いちばん現実的な土台がここにある。
学校が壕になった日、そして壕が墓になった日
ここからは、いちばん重い部分になる。手短にはしない。ただ、面白がる書き方はしない。広島の本川小学校は、爆心地から四百十メートルの位置にある。鉄筋コンクリート三階建てだったおかげで倒壊は免れたけれど、外形を残して焼き尽くされた。
児童およそ四百人、教職員十人などが犠牲になり、奇跡的に助かったのはごくわずかだったと伝えられている。翌日から臨時の救護所になり、校庭では大量の遺体が火葬された。校庭で火葬された、という一行が持つ重さを、ちょっと考えてほしい。運動場だ。朝礼をやって、鬼ごっこをする場所だ。
そこが火葬場になった。本川小学校は1988年に地下室を残して平和資料館になり、いまも公開されている。同じ広島の袋町小学校も鉄筋三階建てで、被爆後に避難所と救護所になった。ここには「伝言の壁」が残っている。安否を確かめるために、生きている人が壁に書きつけた文字だ。
それが層になって残っていて、いまは平和資料館の展示になっている。壁に文字を書く。それしか手段がなかった。長崎の山里小学校は、爆心地の北およそ七百メートル。被爆したとき、馬渡校長の班は防空壕を掘っていて、古賀教頭の班は学校の水田で草取りをしていた。
つまり被爆の瞬間、この学校の大人たちは穴を掘っている最中だった。児童数は千五百人を超えていたが、当時は隣組単位の自学学習だったため多くが自宅にいて、およそ千三百人が亡くなったとみられている。教職員は二十八名が犠牲になった。山里小学校には、教職員と婦人会によって掘られた防空壕の跡が被爆遺構として保存されている。校内に原爆資料室もある。
学校の敷地に残る防空壕跡が平和教育の教材になっている、いちばんはっきりした例だ。そして広島湾の似島。ここは陸軍の検疫所があった島で、原爆投下後、八月六日からの二十日ほどで推定一万人の被爆者が運ばれた。あまりの数に処理が追いつかず、穴を掘って六十体から八十体ずつまとめて土葬したり、防空壕に担ぎ込んだりしたと戦災誌にある。戦後、その壕の入口はコンクリートで塞がれた。
中に何が残っているのか、正確なところは分からない。市による発掘は過去に三回行われていて、1970年代の陸軍馬匹検疫所跡からは推定六百十七体、2004年の調査では推定八十五体が確認されている。返還できたのはごくわずかだ。近年も広島大の大学院生が独自に発掘を続けていて、県警が人骨と特定した例もある。コンクリートで塞がれた穴。
中に何が入っているか分からない穴。この記事の後半で扱う怪談のモチーフが、ここに全部揃っている。そして似島の場合、それは噂じゃなくて事実だ。沖縄はさらに徹底している。学校の校舎や敷地は日本軍に接収され、陣地や病院になった。
南風原町にある沖縄陸軍病院南風原壕群二十号は、全長がおよそ七十メートル、高さも幅も一・八メートルほど。入口から中央にかけて湾曲しているのは、入口から撃ち込まれる銃弾を避けるためだ。最初は内科で、戦況が悪化すると外科になり、いちばん広い場所が手術場になり、幅九十センチの寝台が二段に組まれた。ここにひめゆり学徒が看護補助として動員された。
この壕群は1990年、全国で初めて自治体指定の文化財になった防空壕系の戦争遺跡だ。いまは予約制で見学できる。ちなみに自治体による戦争遺跡指定の最も古い例は1977年の沖縄県伊江島とされている。沖縄の学校壕については、沖縄県立埋蔵文化財センターが県内全域の戦争遺跡詳細分布調査を出していて、南部編から離島・那覇市編まで巻を重ねている。学校の敷地内やすぐ隣に壕が記録されている例は、地味に多い。
東京の学校の地下には、行政が作った部屋があった
地方の話ばかりに聞こえたかもしれないので、都市部の話をする。2025年3月、墨田区のすみだ郷土文化資料館の調査で、設計図が見つかった。戦時中に東京都区部の国民学校の地下に「防護室」と呼ばれる市民向けの防空施設が行政の手で整備されていたことが、これで裏付けられた。空襲を体験した人たちの証言はもともとあったんだけど、図面が出てきたことで話が確定した形だ。
これ、地味に重要なポイントで、学校の防空壕には二系統あるってことなんだよな。ひとつは学校が自前で掘った穴。校庭のたこつぼ、裏山の横穴、無窮洞みたいな大規模なやつ。もうひとつは、行政が地域住民のための公共施設として、学校の建物に組み込んだ空間。後者は学校のものですらない。
学校はただ、場所を提供させられただけだ。だから戦後、学校側にその記録が残っていないことがある。作った主体が違うんだから当然だ。この「誰も持ち主が分からない穴」という状態が、後々じわじわ効いてくる。そしてもうひとつ、2025年2月には東京都北区の滝野川小学校で、老朽化した倉庫の解体工事中に防空壕の入口が出てきた。
入口はおよそ二・五メートル四方で、赤レンガで縁取られていて、いまも塞がれたままだ。学校の日誌の1944年から1945年の記録に「防空壕ヲ整備」という記述があり、文書と現物が一致した。この件の続きが、けっこう現実的で切ない。区は保存の予算がないと説明していて、区内には文化財指定された防空壕がひとつもない、という状況だった。土地の権利関係、維持費、戦争関連構造物の管理責任。
全部が絡まっていて、簡単に「保存します」とは言えない。地元では説明板だけでも設置できないか、という声も出ている。慶應義塾大学の日吉キャンパスの下には、有名な日吉台地下壕がある。1944年から海軍の機関が移ってきて、最初は大学の校舎や寄宿舎、それに生徒が疎開して空いた国民学校を間借りしていた。その後、寄宿舎の地下から本格的な掘削が進む。
連合艦隊司令部地下壕、海軍航空本部地下壕、海軍省人事局地下壕、軍令部第三部待避壕、艦政本部地下壕。大規模なものだけで五つ確認されている。矢上キャンパスの地下にも運輸省の航空試験所地下壕があって、小規模な壕群を含めれば相当な数だ。日吉台地下壕保存の会が大学の許可のもとで定例見学会をやっている。一方で民有地部分は2013年の宅地造成で東側入口が壊された。
横浜市の行政地図では遺跡として登録されていて、破壊は文化財保護法違反になる。明治大学の生田キャンパスは、旧陸軍登戸研究所の跡地だ。偽札の印刷工場だった五号棟、輸送前の偽札を保管していた二十六号棟の跡地は、いまは駐車場と案内板になっている。防火水槽が二基残っていて、片方は花壇として使われている。
斜面に残る弾薬庫は、実際には薬品などの倉庫だったと推定されていて、校舎裏のものは花卉園芸同好会の部室として使われていた時期があるらしい。弾薬庫が園芸部の部室。この、施設が本来の意味を失って別の使われ方をしていく感じ。これ、学校怪談の温床としてはかなり典型的なんだよな。
穴はどこへ消えたか、消えていないかもしれない
戦争が終わって、日本中に穴が残った。じゃあどうしたか。国はこれを「特殊地下壕」と呼んでいる。旧軍または地方公共団体などが戦時中に築造した地下壕という定義だ。国土交通省が実態調査をやっていて、2023年3月時点で全国に七千八百六十か所が把握されている。
このうち危険または危険のおそれがあるとされたのが三百二十四か所。国の補助要件を満たすものが四十か所で、そのうち二十三か所が2026年度までに対策予定という段階だった。都道府県別だと、鹿児島県が千四百九十でぶっちぎりの一位。次いで広島県が七百七十九、大分県が五百八十五、長崎県が五百四十一、千葉県が三百五十七。政令市分は別カウントで五百二か所あって、熊本市だけで二百十五を占める。
ここでいちばん大事なのは、これが「把握されている数」でしかないってことだ。把握されていない穴のほうが、たぶんずっと多い。たとえば川崎市。市として把握・管理している壕は十六か所で、中原区に限ると公式に管理されているのは井田伊勢台特別緑地保全地区と井田長瀬特別緑地の二か所だけだ。市は二年に一度のペースで地図をもとにした現地確認調査をやっている。
ただ市自身が、登録数と現存数は必ずしも一致していないし、行政が把握しきれていない壕もある、と認めていて、住民からの情報提供を呼びかけている。横浜の話も生々しい。保土ケ谷の切通しに残る謎の穴を追った地域メディアの取材記事によれば、それは戦時中に行政が作った公共の防空壕だった。石垣に四角い入口が刻まれ、岩盤に向かって円形のトンネルが十メートルほど伸びている。
入口はコンクリートで塞がれているが、内部は空洞のままだ。塞がれる前は、開いた穴がゴミの不法投棄場所になって近隣が困っていたという。同じ区内の寺の境内では壕が二基埋め戻され、別の寺には横穴が現存していて、出口が昭和十九年十一月の日付が入った石板で塞がれている。昭和十九年十一月の石板。これ、そのまま怪談の小道具として通用するやつだ。
でも実在する。埋め戻し事業には金がかかる。ある集計では1998年度から2009年度にかけて、およそ五十三億円をかけて百九十五か所が処理された。鹿児島県は平成十九年度から二十三年度にかけて五年間の緊急対策事業をやっていて、十一市町の六百二十か所を処理している。内訳は鹿児島市が二百十六、鹿屋市が百二十二。
県が半分を補助する形だった。戦争遺跡という枠組みで見ると、日本全国におよそ二万から三万か所あるとされている。ただ2019年の毎日新聞の調査では、全数調査を実施した県は六つにとどまっていた。全体像を誰も把握していない。NHKが全国六百か所以上の戦争関連施設を調べたところ、およそ二割がすでに現存していなかった、という調査結果も出ている。
三次元データ化やVR再現で記録を残そうとする動きはあるけれど、物としては消えていく一方だ。つまり現在の日本は、こういう状態にある。地面の下に無数の穴があって、そのうち何か所かは行政が把握していて、大半は把握されていなくて、毎年少しずつ潰されたり忘れられたりしている。学校の下の穴も、その一部だ。
地面が突然なくなる日、そして子どもが吸い込まれる話
怪談の前に、リアルな危険の話をきっちりやっておきたい。ここを飛ばすと、この記事はただの煽りになる。防空壕の多くは素掘りだ。コンクリートで巻いてない。木の支保工が入っていたとしても、七十年、八十年経てば当然腐る。
じゃあどう壊れるか。地質の専門機関がまとめた崩壊プロセスは三段階に整理されている。第一段階は、天井や壁に亀裂と緩みが生じて、部分的な崩落が始まる状態。シラス、砂岩、安山岩と、地質によって壊れ方が違う。第二段階は劣化の加速。
地下水の浸入で天井がドーム状に崩れたり、壁の下部が水に洗われて抉れたり、上に硬い層があって下が柔らかいキャップロック型の崩壊が起きたりする。地すべりに近い理屈だ。そして第三段階、天井の崩落が地表まで到達して、地面が抜ける。陥没だ。鹿屋市では2000年に降雨をきっかけとした陥没事故が起きている。
上に載っている土の厚さによって、崩壊までの時間が数年なのか数百年なのか変わる。厄介なのは人間の側の要因で、上で工事をして土かぶりを減らしただけで、それまで安定していた壕が一気に抜けることがある。校庭でこれが起きたらどうなるか。想像しなくていい。想像したくない。
もうひとつの危険が空気だ。閉鎖された地下空間は酸素が薄くなる。有機物の腐敗や地質によって有毒ガスが溜まることもある。鹿児島県は地下壕の危険性として、崩落事故と一酸化炭素中毒、酸素欠乏を明記している。指宿市は市の公式な注意喚起の中で、崩落の危険と一酸化炭素中毒の危険があるとしている。
そのうえで、まだ確認されていない箇所がある可能性にも触れ、子どもの遊び場にさせないよう住民に見守りを呼びかけている。
そして実際に、子どもが死んでいる。鹿児島では中学生四人が洞窟状の空間で一酸化炭素中毒により亡くなる事故が起きていて、現場には焚き火の跡があった。暗い穴の中で火を焚けば、酸素は減って一酸化炭素は増える。地下ではそれが逃げない。中学生が知っているはずのない物理だ。
だからこの記事の立場ははっきりしている。防空壕跡には入るな。塞がれた入口を開けようとするな。学校の敷地に残る壕は、見学会や資料館という形で正式に公開されているものだけを見に行けばいい。無窮洞も南風原の壕も本川小学校も、ちゃんと見学できる。
危険を冒す必要はどこにもない。怪談として面白いかどうかと、実際に近づいていいかどうかは、まったく別の話だ。
ここから本題、地面の下から始まる学校怪談
さて。ようやく怪談だ。学校の怪談というジャンルの中で、防空壕系はちょっと特殊な立ち位置にある。トイレの花子さんみたいに全国共通のキャラクターがいるわけじゃない。人体模型が歩くみたいな、道具が主役になるわけでもない。
防空壕系の怪談は、場所そのものが主役になる。そして、その場所はたいてい「見えない」。埋められている。塞がれている。コンクリートで蓋をされている。
子どもが確認できない。確認できないから、噂だけが残る。これが強い。民話研究の分野では、松谷みよ子の現代民話考の第七巻、学校の巻に、軍隊や戦争にまつわる学校の怪談が二十八話収録されている。明治期から戦後までを拾ったものだ。
中身を見ると、沖縄の小学校で兵士の隊列が校庭を歩いていたという目撃がある。空襲の犠牲者を偲んで植えられた椿が本来と違う色に咲いたという話、防空壕や校舎から空襲警報のサイレンが聞こえるという話なども並んでいる。学校の怪談を口承文芸として研究した常光徹の仕事もこの分野の基礎になっている。
怪談研究者の吉田悠軌は、戦後八十年という節目に、子どもたちが語る学校の怪談から戦争の影が消えつつあるという議論を展開している。彼の指摘で刺さるのは、学校というのは戦争という負の歴史に子どもが最初に触れる場所であり、同時に学校そのものが戦争被害の現場だった、という二重性だ。学校に防空壕があった、空襲の犠牲者を安置する場所だった、というのはよく耳にする言説だ、と彼は書いている。
もうひとつ面白い指摘がある。落武者や旧日本兵という幽霊像は、一目で幽霊だと判別できる便利な表象なんだ、という話だ。いちいち来歴を説明しなくても、見た瞬間に「悲惨な死に方をしたんだろうな」と分かる。防空頭巾やモンペも、まったく同じ機能を持っている。説明不要の記号なんだよな。
そして吉田は、時代が下るにつれて戦争怪談が減っていることをデータで示している。ポプラ社版の学校の怪談シリーズでは全巻に戦争関連の話が載っていたのに、読者投稿コーナーではほとんど消える。講談社版では初期の三巻に限られ、その後は完全に消える。戦後八十年、記憶をとどめる人がいなくなったら、学校の怪談から戦争の影も消えるのではないか。彼の問題提起はそこで終わる。
俺の実感としては、たぶん半分当たっていて半分外れている。戦争由来だと分かる形での怪談は確かに減った。でも、由来が分からなくなったまま、場所への禁忌だけが残っているケースがめちゃくちゃ多い。「あそこは入っちゃダメ」だけが生き残って、理由が抜け落ちている。それは消滅じゃなくて、変質だ。
じゃあ具体的にどういう話が語られてきたのか。集めた中から、読み物として成立するものを順に見ていく。
朝礼台の真下から地鳴りがした話
これは関東のある市立小学校で、1990年代半ばに児童だった人が同窓会の席で話したという体裁で、複数の掲示板や個人ブログに形を変えて残っている話だ。細部は語り手によってブレるので、共通する骨格を中心に書く。その小学校の校庭は、中央よりやや南側の一角だけ、雨が降ると水の引きが妙に悪かった。周りが乾いてもそこだけ黒く湿っている。
用務員のおじさんが定期的に山砂を入れて均していたけれど、しばらくすると同じ場所がまた凹んでくる。子どもたちの間では、そこは「ぬかるみ」と呼ばれていて、ドッジボールのコートを引くときも自然に避けられていた。問題の日は、二学期の始業式だったという。全校児童が校庭に並んで、校長の話を聞いていた。九月なのにまだ暑くて、何人か倒れそうになっている子がいた。
そのときだ。足の裏から、地面越しに低い音が伝わってきた。音というより振動だったと語り手は言う。ゴ、という単発の音じゃなくて、ゴゴゴゴ、と持続する低音。何かが地面のずっと下を通っていくような感じ。
近くに地下鉄はない。工事もしていない。地震にしては、揺れが上下でも横でもなく、ただ音だけが下から来る。前の列にいた子が振り返った。後ろの列の子も顔を上げる。
ざわっとしたけれど、先生たちは何も言わず、校長は話を続けており、振動は十秒くらいで消えた。
その日の帰り、語り手は友達と二人でぬかるみのところに行った。しゃがんで、地面に耳をつけてみたらしい。子どもがやりそうなことだ。何も聞こえず、土の匂いがしただけだった。でも隣にいた友達が、急に立ち上がって走り出した。
追いかけて、どうしたのか聞いたら、その子は泣きそうな顔でこう言ったという。誰かが下から、こっちの耳の位置に、耳をくっつけてきた、と。語り手はそれを笑い話として話していた。あいつ怖がりだったから、と。ただ話の最後に、彼は妙に事務的な補足をした。
数年前に母校の改修工事があって、校庭を掘り返したら防空壕の跡が出てきたらしい、という話を親から聞いた、と。位置は聞かなかった。聞かないほうがいいと思った。そう言って話を終えたそうだ。この話が繰り返し語り直されてきたのは、たぶんオチが弱いからだ。
誰も死んでいないし、何も出てこない。ただ、地面の下に空間があった、という事実だけが後から確認される。その順番が怖い。
体育の時間、砂場で足首を掴まれた話
もうひとつ、地方都市の中学校の話として流通しているものがある。これは2000年代のネット掲示板の学校怪談スレッドに投稿されたものが元で、その後まとめサイトを経由して何度も再掲された。その中学校のグラウンドの端に、使われていない砂場がある。もともとは走り幅跳び用だったらしいが、いつからか使用禁止になっていて、周りをロープで囲われていた。理由は「危ないから」としか説明されていない。
ガラス片が混ざっているとか、猫のトイレになっているとか、生徒はそれぞれ勝手な理由を想像していた。三年生の春、体育の授業で体力テストがある。その日は普段使う砂場が改修中で、仕方なく古いほうの砂場を臨時に使うことになった。教師が朝のうちに砂を掘り返して、レーキで均していたという。投稿者は五人目くらいに跳んだ。
踏み切って、着地して、そこで動けなくなった。右の足首を、砂の中から掴まれていた。砂に足がめり込んで抜けない、という感覚じゃなかったと彼は強調している。指で、親指と他の指で、足首の内側と外側を挟まれている感触がはっきりあった。しかも冷たかった。
四月の砂場は日が当たっていて温かいのに、掴んでいる部分だけが冷えている。声も出せずに固まっていたら、後ろで待っていた同級生が「早くどけよ」と言った。その声で我に返った瞬間、手は消えた。足を抜いて、砂を掘ってみたけれど、当然何もない。そのあと投稿者は、担任にそれとなく砂場のことを聞いた。
担任は少し考えて、あそこは昔穴があったから地盤が緩いんだ、と答えたそうだ。穴って何ですかと聞いたら、戦争のときのやつ、とだけ言って、話を切り上げられた。この投稿の面白いところは、教師の反応がやたら現実的なことなんだよな。怪談の中で大人はたいてい「知らない」か「隠す」かのどちらかなんだけど、この話の担任は普通に事実として答えている。地盤が緩い。
だから使用禁止。それだけの話かもしれない。それだけの話かもしれないけど、投稿者は足首を掴まれている。このスレッドには当時、似た報告がいくつもぶら下がった。プールサイドで足を引っ張られた、体育館の床下から手が出た、といったものだ。
学校の怪談で「足を掴まれる」というモチーフはもともと定番だけど、それが防空壕の記憶と結びつくと、掴んでいる側の像が急に具体的になる。下にいる、埋められた、出られなかった誰か。そういう読み方が自動的に発生してしまう。
用務員室の奥の鉄扉と、開けなかった生徒会長の話
三つめは、西日本のある高校の話として、卒業生の回想という形でブログや個人サイトに散発的に書かれてきたものだ。その高校は戦前からある学校で、旧制中学の校舎を戦後もしばらく使っていた。語り手が在学していた頃には新校舎になっていたけれど、敷地の隅に古い平屋がひとつだけ残されていて、用務員室と物置に使われている。生徒会の役員だった語り手は、文化祭の資材を出し入れするために、その平屋に何度も出入りしていた。
ある日、いちばん奥の物置の棚を動かしたら、壁に扉があった。鉄製で、蝶番が壁側に埋め込まれている。塗装は分厚く塗り重ねられていて、緑がかった灰色。取っ手はなく、代わりに横棒が渡されて、両端がボルトで壁に留められており、明らかに、開けさせないための処理だった。語り手は用務員のおじいさんに聞き、おじいさんは、あれは開かんよ、と言った。
じゃあ何なんですかと重ねて聞いたら、こう答えたという。昔、防空壕に降りる階段があった。戦後に埋めたけど、扉だけ残してある。扉ごと壊すと壁が持たんから、そのままにしとる、と。これを聞いて、語り手は少しがっかりしたらしい。
中身がないなら怖くない、と思ったそうだ。埋まっているんだから。でも、その年の冬に妙なことがあった。夜遅くまで生徒会室で作業していて、帰りに平屋の前を通ったとき、中から音がした。金属を軽く叩くような音だ。
カン、カン、と等間隔。防犯上まずいと思って窓から覗いたけれど、灯りは消えていて誰もいない。翌朝、用務員のおじいさんに言ったら、おじいさんはしばらく黙って、ああ、たまに鳴るな、と言った。たまに鳴る。それだけ。
原因を確かめる気配もなかった。語り手はこの話を、怪談としてではなく、あの学校のちょっと変な思い出として書いていた。そして最後に、こう付け加えている。卒業して十年以上経ってから、あの平屋が取り壊されたと聞いた。壊すときに何か出てきたのかどうかは、誰も教えてくれなかった、と。
塞がれた鉄扉というモチーフは、防空壕系の学校怪談で最も頻出する。そしてこれは、フィクションでも何でもない。北区の滝野川小学校で出てきたのは赤レンガで縁取られた入口だったし、横浜の保土ケ谷ではコンクリートで塞がれた入口の内側に十メートルの空洞が残っていた。似島では遺体を運び込んだ壕の入口が戦後にコンクリートで封じられている。塞がれた入口は、日本中に実在する。
お芋をねだる女の子、投稿サイトに残る話
四つめは、怖い話の投稿サイトに実際に載っている話だ。学校の敷地内ではなく、学校の近くの山という設定だけど、防空壕と子どもという組み合わせの典型なので取り上げたい。投稿者は当時中学生で、二十年ほど前の出来事として書いている。学校の近くの山に古い防空壕があって、彼と友人たち計五人はそこを秘密基地にしていた。まあ、やっちゃいけないことなんだけど、当時はそういう場所が普通にあるわけだ。
ある秋の日、彼らはそこでさつま芋を焼こうとし、火をおこそうとしたところで、五人全員が同時に体が動かなくなった。息苦しさもあったという。ここ、後で考えると本当にまずい状況で、閉鎖空間での焚き火は一酸化炭素中毒に直結する。それはさておき、彼が見たのは、現代の服装ではない女の子だったそうだ。女の子は、お芋ちょうだい、と言い、彼らは飛び出して逃げ、あとで確認したら、それぞれが見ていたものは違っていた。
腕のない男性を見た者もいれば、赤ん坊を抱いた女性を見た者もいる。全員が別々のものを見て、全員が動けなくなり、その後、彼らはある先輩に相談した。先輩はその防空壕に日本酒と菓子を供えて、こういうのにはこうするんだぞ、と言ったという。それ以降、変なことは起きていない、と投稿は締めくくられている。この話の妙な生々しさは、お芋ちょうだい、という一言に全部集約されている。
呪いでも警告でもない。腹が減っている。それだけだ。戦時中の子どもの霊が出てくる話は無数にあるけれど、たいていは無言で立っているか、消えるかのどちらかだ。何かを欲しがるパターンは少ない。
だからこそ引っかかる。供養して収まった、というオチも興味深い。防空壕系の怪談は、除霊とか浄化ではなく、供える、拝む、線香を上げるという穏当な解決に落ち着くケースが多い。相手が恨んでいる霊ではなく、単に置き去りにされた死者として認識されているからだと思う。
別バージョンが山ほどある、というのが逆に不気味なんだよな
防空壕の学校怪談には、いくつもの型がある。ひとつずつ見ていきたい。まず、草が生えない一角の話。校庭やグラウンドの端、あるいは校舎裏の花壇で、そこだけ何を植えても育たない場所がある、というパターンだ。芝生を張っても枯れる。
ヒマワリを植えても背が伸びない。理由として語られるのは二種類ある。下に壕があって埋め戻した土が締まっていないから、という現実的な説明。そして、そこに埋まっている人が嫌がっているから、という怪談的な説明だ。子どもたちの間ではもちろん後者が支持される。
この型が根強いのは、証拠が視覚的だからだ。毎日見える。
目の前に、説明のつかない事実がある。次に、地面から声が聞こえる型。放課後の誰もいない校庭で、地面に耳をつけると人の声がする。何を言っているかは分からない。複数人の声が重なっている、と語られることが多い。
似た変形として、雨の日にだけ聞こえる、というバリエーションもある。地下水が動くと音が伝わりやすくなる、という理屈をつけている語りもあって、これがまた妙に説得力を持ってしまう。三つめが、サイレンの型。誰もいないはずの時間に空襲警報のサイレンが鳴る。あるいは、旧校舎の一室から、当時のラジオ放送のような音が漏れる。
松谷みよ子が収録した戦争関連の学校怪談にも、防空壕や校舎から空襲警報が聞こえるという話がある。かなり古い型ということになる。サイレンというのは記憶の引き金として異常に強いから、これは実際に体験者が語り継いだものが混じっていてもおかしくない。四つめは、防空頭巾の子どもの型。校庭の隅、あるいは廊下の突き当たりに、防空頭巾をかぶった子が立っている。
目が合うと消える。誰にも見えていない。追いかけるとどこかへ入っていく、というパターンだと、行き先はたいてい壕の跡地とされている場所だ。防空頭巾は、さっき触れたとおり「説明不要の記号」として機能する。見た瞬間に、時代と死因が伝わってしまう。
五つめが、モンペ姿の女性の型。こちらは子どもより大人の霊で、しばしば先生に対して現れる。夜の職員室、宿直室、あるいは保健室。何かを探しているような素振りを見せることが多い。子どもを探している、と解釈されるのが定番だ。
学童疎開の記憶と重ねて語られることもある。六つめは、朝礼中の地鳴り型。さっき体験談として紹介したものだ。全校児童が集まっている時間に、地面から音がする。この型の特徴は、目撃者が大量に発生することにある。
ひとりの体験じゃなくて、学年全体が「あのとき何か聞こえたよね」と共有できてしまう。だから学校内での定着率がやたら高い。七つめが、鉄扉と開かずの間の型。用務員室の奥、旧校舎の階段下、ボイラー室の隣。塞がれた扉があって、その向こうに階段があって、その先に壕がある。
開けてはいけない、という禁止がセットになる。学校の怪談における開かずの間の系譜に、防空壕という具体的な中身が接続された形だ。八つめは、体育の時間に足を掴まれる型。プール、砂場、体育館の床下。水と砂という、足元が不安定な場所で起きるのがポイントで、これは物理的な怖さと怪異が地続きになっている。
九つめとして、掘ったら出てくる型がある。工事で校庭を掘ったら壕が出てきた、遺品が出てきた、という話。これは怪談というより実話の領域に片足を突っ込んでいて、実際に滝野川小学校の事例のようなことが起きている。学校の怪談としては「そのあと事故が続いた」「工事が中断した」といった尾ひれがつく。十番目に、これは少数派だけど、壕が校舎になった型がある。
この学校の校舎はもともと壕の資材で建てられた、あるいは壕の上に建っている、という語り。旧校舎から新校舎への建て替えの記憶と混ざって語られることが多い。最後に、消えた像の型。二宮金次郎像が夜に動く、走る、水を飲む、という怪談はどこの学校にもあるけれど、防空壕文脈だと変形する。台座だけが残っている学校で、あそこにあった像はどこへ行ったのか、という問いになる。
答えは実は歴史のほうにあって、金属供出だ。1941年頃から金属回収の強制力が強まり、多くの金次郎像が供出されていった。1943年には学生服の金属ボタンまで対象になった。横須賀市の旧走水小学校には昭和十二年十月十五日の寄附記録が入った台座が残っていて、1942年9月に校長がリアカーで像を運び出す写真が残っている。その後は陶製の像に置き換えられた。
台座だけが残っている学校の風景は、怪談の舞台であると同時に、戦時経済の痕跡でもある。
掲示板とSNSでは、この手の話はどう扱われてきたのか
ネット上での防空壕系学校怪談の扱われ方には、はっきりした傾向がある。2000年代の匿名掲示板の全盛期、学校の怪談スレッドや洒落にならないほど怖い話のスレッドでは、防空壕ネタは「地味だけど本物っぽい」というポジションだった。派手な祟りも呪いも出てこないから、まとめサイトで上位に来ることは少ない。でもスレッド内では妙に信用される。
理由は単純で、自分の学校にも似た話がある、という書き込みが必ずぶら下がるからだ。面白いのは、そういう「うちの学校にも」レスの中身が、地域によってバラバラなことだ。関東の投稿者は塞がれた入口の話をする。九州の投稿者は横穴の話をする。沖縄の投稿者は、そもそも壕が塞がれずに残っている前提で話をする。
この地域差が、逆に話の信憑性を上げていた側面がある。全国共通のテンプレじゃなくて、その土地の地形と歴史に沿った形で語られているからだ。一方で、心霊スポット紹介系のサイトでは、防空壕はもっと雑に扱われてきた。旧日本軍の霊が出る、兵隊の霊がさまよう、といった説明が定型文のように貼られる。実際には民間人用の待避壕でも「日本兵の霊」ということにされてしまう。
これは吉田悠軌が指摘した、旧日本兵という便利な表象の弊害がそのまま出ている形だ。誰の霊なのか調べるより、日本兵ということにしたほうが分かりやすい。近年のSNSでの反応は、少し様子が変わってきている。戦後八十年という節目もあって、防空壕関連の投稿には怪談としてではなく歴史資料として反応がつくことが多い。
似島の壕をコンクリートで封じた話が拡散されたときも、リプライの多くは怖い、ではなく、まだ中に遺骨があるのではないか、平和教育で扱うべきだ、といった内容だった。中には、封鎖されたのは戦後であって直後ではない、と時系列を訂正する書き込みもあった。話を正確にしようとする動きが自発的に出るのは、このジャンルの健全なところだと思う。
滝野川小学校の防空壕発見が地域メディアで報じられたときも、反応の中心は保存の可否だった。予算がない、文化財指定の前例がない、という行政側の事情を踏まえた上で、せめて説明板をという現実的な提案が出ていた。怖がるより、どう残すかを考える。ネットの反応がそっちに寄っているのは、たぶん語り手の世代が変わったからだ。考察界隈では、防空壕怪談を「記憶の物理的な保管庫」として読む見方が支持されている。
学校というのは、子どもが最初に歴史を教わる場所であると同時に、その歴史の現場そのものでもある。教室で戦争を習って、休み時間に戦争の跡の上で遊ぶ。この二重性が、怪談を生む温床になっているという読みだ。
全部が本当だとは思わない、その理由を並べておく
ここは冷静にいく。防空壕系の学校怪談には、はっきりした反証がいくつもある。まず、地盤の話。埋め戻された壕の上は、実際に沈む。締め固めが不十分だと、時間をかけてじわじわ沈下する。
そこだけ水が溜まる。水が溜まれば土が締まって固くなり、根が張りにくくなる。草が生えない一角には、ちゃんと土木的な説明がつく。むしろ、草が生えないからそこに壕があると推定する、という調査手法すら成り立つ。次に、音の話。
地下に空洞があると、音の伝わり方が変わる。空洞は共鳴箱として働くから、地表の音が意外な場所で大きく聞こえたり、遠くの振動が特定の場所だけに集中したりする。地下鉄も工事もない場所で地鳴りがした、という体験は、地下水の移動や小規模な土砂の落下で説明できる範囲に十分収まる。むしろ、地鳴りが聞こえる場所には空洞がある可能性が高い、という順序で読むべきなんだよな。
足を掴まれる話も、砂場の物理で説明できる部分が大きい。掘り返して均したばかりの砂は、下の層と上の層で締まり方が違う。着地の衝撃で足が沈み込むと、周囲の砂が寄ってきて足首を締めつける。冷たく感じるのは、日の当たっていない深さの砂に触れているからだ。指で挟まれた感触というのも、砂が非対称に寄ればそう感じ得る。
塞がれた鉄扉の向こうから音がする話も、金属と気温の関係で説明がつく。鉄は温度変化で伸縮する。日中に温まった扉が夜に冷えると、留め具との間で応力が解放されて音が出る。等間隔で鳴るのは、冷却が一定のペースで進むからだ。カン、カン、という音は、廃屋や旧校舎では珍しくもなんともない。
そして、いちばん大きな反証。学校に防空壕があったという話自体が、事実として広く成立しすぎているという問題だ。1944年頃から学校の校庭には大量に壕が掘られている。つまり、日本のかなりの数の学校に、実際に壕の跡がある。だから「うちの学校の下にも壕がある」という証言は、ほとんどの場合において正しい。
正しいがゆえに、怪談の裏づけとして機能してしまう。これは危うい。壕があったのは本当だ。だからといって、そこで人が死んだとは限らない。多くの学校の壕は、幸いにも使われないまま、あるいは使われても被害を出さないまま戦争が終わっている。
にもかかわらず、壕がある学校には自動的に「ここで大勢死んだ」という物語が接続されやすい。これは死者に対して失礼な想像だし、実際に犠牲が出た学校に対しても失礼だ。本川小学校や山里小学校のように、本当に多くの児童と教職員が亡くなった場所がある。そこと、たまたま穴があっただけの学校を、同じ怖い話の器に入れて混ぜてしまうのは、やっぱり違う。もうひとつ、記憶の伝言ゲームの問題もある。
防空壕の話は、たいてい祖父母の世代から親の世代を経て子どもに伝わっている。三段階で伝わる間に、伝えた人の記憶違いや、聞いた側の誤解が積み重なる。似島の事例で、封鎖の時期が戦後だったのか直後だったのかで訂正が入ったように、細部は簡単にずれる。ずれた話がさらに拡散されて、いつのまにか定説になる。だからこそ、行政の実態調査とか、資料館の設計図発見とか、学校日誌の記述みたいな一次資料が効いてくる。
すみだ郷土文化資料館が図面を見つけたことで、証言が裏づけられた。滝野川小学校では日誌の「防空壕ヲ整備」という記述と現物が一致した。噂と記録が突き合わされる瞬間だけが、この話を前に進める。
埋め戻された穴が、いま何を語っているのか
最後にこの章で言っておきたいのは、防空壕系の学校怪談が持っている、ちょっと独特の性格についてだ。普通の学校の怪談は、子どもを怖がらせるためにできている。トイレに行くな、夜の学校に来るな、鏡を覗くな。行動を制限する装置として働く。でも防空壕の怪談は、それだけじゃない。
あそこには入るな、という禁止は、実際に命を守っている。崩落する。酸素がない。一酸化炭素が溜まる。指宿市が住民に見守りを頼んでいるのは、まさにそこだ。
子どもの遊び場にさせないでほしい、と。怪談が禁止を担保している。行政の注意喚起より、幽霊が出るという噂のほうが、たぶん子どもには効く。地域社会が経験的に見つけた安全装置として機能してきた側面が、この怪談にはある。同時に、この怪談は記憶の器でもある。
学校の下に穴があった、そこに人が入った、という事実を、怖い話という形で保存してきた。教科書には載らないローカルな戦争体験が、七不思議のひとつとして生き延びている。歴史の教材としてはあまりに雑だけど、少なくとも忘却よりはマシだ。そして、戦後八十年を過ぎたいま、その器が壊れかけている。語り手がいなくなり、壕が埋められ、旧校舎が建て替えられ、怪談から由来が抜け落ちていく。
残るのは「あそこは入っちゃダメ」という理由のない禁止だけだ。それすら、いずれ消える。校庭の下の穴は、いまも日本中にある。国が把握しているのが七千八百六十か所。把握していないものは、たぶんその何倍もある。
あなたの母校の校庭にも、たぶん一つや二つは、埋められた穴があるかもしれない。そこに幽霊がいるかどうかは、俺には分からない。ただ、そこに人が入った時間があったことだけは、確かなんだよな。ここからは総括と、本文に収まりきらなかった追加の考察をまとめて置いておく。
学校の壕は三種類あった、という整理
取材を通していちばんはっきりしたのは、学校にあった防空壕を一括りにするのが間違いだ、ということだ。少なくとも三つの系統がある。一つめが、児童生徒用の待避施設。三重県の証言に出てきた「たこつぼ」がこれにあたる。直径も深さも九十センチほどの円柱形の穴を校庭や校地の隅に大量に掘って、そこに子どもを二人ずつ入れる。
極めて簡易で、防護力はほぼない。爆風と破片から身を伏せる程度の効果しか期待できない。にもかかわらずこれが標準になったのは、防空法改正後の思想、つまり「逃げるな、留まれ」という設計に完全に合致していたからだ。遠くへ逃がすためのものではなく、その場に留めるための穴だった。二つめが、学校施設としての本格的な壕。
無窮洞がその極北だ。幅五メートル、奥行き二十メートル、七十坪の空間に、教壇付きの教室、トイレ、炊事場、食料倉庫、御真影の部屋まで備えている。五百人から六百人を収容できる。これは避難所というより地下校舎だ。同じ系統として、裏山や崖に横穴を掘るタイプの学校壕は各地にあった。
地形が許す土地、つまり丘陵地や台地の縁にある学校ほど、この型を採用しやすかった。三つめが、行政が学校の建物に組み込んだ地域住民用の施設。墨田区の調査で図面が出てきた「防護室」がこれだ。学校が主体ではなく、行政が学校という頑丈な鉄筋コンクリート建築を選んで、そこに市民用の防空空間を仕込んだ。都市部の国民学校の校舎が鉄筋三階建てで作られていたことを思い出してほしい。
広島の本川小学校も袋町小学校も鉄筋三階建てで、当時、街の中でいちばん頑丈な建物のひとつが学校だった。だから防空の拠点にされたし、被爆後には救護所になった。この三系統は、戦後の運命も違う。一つめのたこつぼは、戦後すぐに埋められて痕跡も残らない。校庭を均せば終わりだ。
二つめの横穴系は、入口を塞いで放置されるパターンが多い。中の空洞はそのまま残る。三つめの建物一体型は、校舎の建て替えとともに消えるか、あるいは建て替え工事で突然発見される。滝野川小学校のケースは、この三つめに近い形での再発見だった。そして怪談との相性も系統ごとに違う。
たこつぼは痕跡がないから、草が生えない一角や地盤の緩みといった間接的な形でしか怪談化しない。横穴系は入口が残るから、開かずの穴、塞がれた鉄扉という強いモチーフを提供する。建物一体型は、地下室や旧校舎の開かずの間として語られる。怪談の型と、壕の物理的形式は、けっこうきれいに対応しているんだよな。
なぜ防空壕怪談は「静か」なのか
もうひとつ、集めた話を並べていて気づいたことがある。防空壕系の怪談は、他の学校怪談に比べて圧倒的に静かだ。トイレの花子さんは呼ぶと返事をする。人体模型は歩く。ピアノは勝手に鳴る。
音楽室の肖像画は目が動く。学校の怪談の主役たちは、だいたい能動的に動く。ところが防空壕の霊は、ほとんど何もしない。立っている。座っている。
声だけがする。地面の下から音が伝わってくる。足首を掴む、という数少ない能動的な行動ですら、掴んで引きずり込むところまではいかない。掴んで、離す。それだけだ。
お芋ちょうだい、という一言も、要求としてはあまりに慎ましい。これはたぶん、語り手の側の遠慮だと思う。相手が戦争の死者だと分かっているから、恐怖の対象として消費しきれない。祟る悪霊として描くことに、無意識のブレーキがかかる。だから話が地味になる。
その遠慮は、供養で解決するというオチの多さにも表れている。日本酒と菓子を供える、線香を上げる、手を合わせる。除霊とか浄化とか、そういう対決的な言葉が出てこない。相手を排除するのではなく、こちらから頭を下げる。防空壕怪談の解決法は、ほぼ例外なくこの形だ。
学校の怪談というジャンルの中で、これは相当に異質な性格だ。そして、その異質さこそが、この話が単なる作り話じゃなくて、実際の記憶に根を持っていることの傍証になっていると思う。完全な創作なら、もっと派手に、もっと分かりやすく怖くなるはずなんだ。
沖縄の壕だけが別の時間を生きている
本文でも触れたけれど、沖縄の学校壕は本土のそれとまったく違う位置にある。本土の学校壕は、多くの場合「使われなかった穴」だ。空襲警報のたびに子どもが入って、出てきて、それを繰り返して、戦争が終わった。もちろん実際に被害が出た場所もある。でも大半の壕にとって、最悪の日は来ないまま終わった。
沖縄は違う。学校の校舎も敷地も日本軍に接収され、陣地になり、病院になった。南風原の壕群二十号は、全長七十メートル、高さも幅も一・八メートルほどの空間に、幅九十センチの寝台を二段に組んで負傷兵を収容していた。入口から中央にかけて湾曲しているのは、入口から撃ち込まれる弾を避けるためだ。ここにひめゆり学徒が動員された。
この壕は避難所じゃない。前線の施設だ。沖縄の学校壕には、埋め戻すという発想がそもそも当てはまらない場面が多い。地上戦の現場そのものだからだ。だからこそ1990年に全国初の自治体指定文化財となり、いまは予約制で見学できる。
壕の中に入って、当時の空間の狭さと暗さを体で確認できる。ガマの入壕体験は、修学旅行の平和学習プログラムとして定着している。つまり沖縄では、穴が塞がれていない。見える。中に入れる。
だから怪談の生まれ方も違ってくる。松谷みよ子が拾った話の中に、沖縄の小学校で兵士の隊列が校庭を歩くという目撃談があるのは象徴的だ。本土の怪談が「見えない穴の下から」来るのに対して、沖縄の怪談は「見えている場所から」出てくる。これは怪談の質の差というより、戦争の記憶の扱われ方の差だ。塞いだ地域と、塞げなかった地域――この差は決定的だ。
前者では記憶が地下に沈んで噂になり、後者では記憶が地上に残って教材になった。
統計の裏側にあるもの
数字をもう一度整理しておきたい。国が把握している特殊地下壕は2023年3月時点で七千八百六十か所。危険または危険のおそれがあるとされたのが三百二十四か所。国の補助要件を満たすものは四十か所しかなく、そのうち二十三か所が2026年度までに対策予定という規模感だ。つまり、危険と判定された三百二十四か所のうち、実際に手が入るのは一割にも満たない。
予算の制約、土地の権利、事業主体の要件。いろんな壁があって、危険と分かっていても放置されるものが大量にある。しかも国の補助制度は2026年度までの時限措置だ。東京都は財源確保、調査費の補助対象化、自治体負担の軽減、事業の延伸を国に要望し続けている。この制度が切れたら、どうなるのか。
地域別の偏りも大きい。鹿児島県が千四百九十で突出しているのは、シラス台地という掘りやすい地質と、南九州が本土決戦の最前線と想定されたことの合わせ技だ。掘りやすい地質は、同時に崩れやすい地質でもある。鹿児島県が平成十九年度から二十三年度にかけて五年間の緊急対策事業を組み、十一市町の六百二十か所を処理したのは、そういう事情がある。鹿児島市だけで二百十六、鹿屋市で百二十二。
それだけやってもまだ千四百九十が残っている。広島県の七百七十九、長崎県の五百四十一という数字も、被爆地であることを考えると重い。大分県の五百八十五は、旧軍施設の集中と地形の影響だろう。千葉県の三百五十七は、東京湾防衛の一環として掘られたものが多いと考えられる。政令市の分は別カウントで五百二か所あり、熊本市が二百十五を占める。
そして繰り返しになるけれど、これは把握された数だ。川崎市は自分で「登録数と現存数は必ずしも一致していない」「行政が把握しきれていない壕もある」と認めている。戦争遺跡全体としては全国に二万から三万か所あるとされていて、2019年時点で全数調査をやった県は六つしかなかった。この「誰も全体を知らない」という状態が、たぶんこの記事のいちばんの怖い部分だ。
幽霊の話じゃなくて、地面の下の把握できていない空洞の話として――そっちのほうがよほど現実的に怖い。
崩れ方のメカニズムを、もう少し詳しく
崩壊のプロセスをもう一度なぞっておく。第一段階では、天井と壁に亀裂が入って緩みが生じる。ここで部分的な剥落が始まる。第二段階では劣化が加速する。地下水が浸入して天井がドーム状に崩れる、壁の下部が水に洗われて抉れる、上に硬い層があって下が柔らかい場合にキャップロック型の崩壊が起きる。
第三段階で、天井の崩落が地表まで到達して陥没する。このプロセスの厄介さは、地表からは何も見えないまま進行することにある。地面の下で天井が少しずつ崩れて、崩れた土砂が壕の床に溜まっていく。空洞は少しずつ上へ移動していく。上に載っている土の厚さが十分にあれば、地表に達する前に土砂で埋まって止まる。
薄ければ、いつか抜ける。この「いつか」が数年後なのか数百年後なのかは、地質と地下水と土かぶりで決まる。人間の介入で一気に進むのも怖い。上で工事をして土をどけると、それまで釣り合っていたバランスが崩れて突然抜ける。2000年に鹿屋市で起きた陥没事故は降雨がきっかけだった。
雨が降っただけで、地面が消える。学校の校庭というのは、この観点から見るとけっこうリスクが高い。定期的に整地する。表土を入れ替える。遊具を設置するために掘る。
プールを作るために掘る。校舎を建て替えるために掘る。人間が地面に触り続ける場所だ。だから、校庭の一角が沈む、という現象は、怪談として語られる前に工学的に警戒されるべき兆候なんだよな。地下レーダーによる空洞調査という技術も普及していて、いまは掘らずにある程度の探査ができる。
空洞が見つかれば、エアモルタルの注入みたいな充填工法で埋める。熊本市の対策事業でも、こうした注入工法が使われている。草が生えない一角、水が引かない場所、朝礼中の地鳴り。怪談の題材として面白がられてきた現象は、そのまま空洞調査を呼ぶべきサインのリストでもある。この記事で扱ってきた話の大半には、そういう二面性がある。
記憶を保存する二つのやり方
戦後八十年を超えて、この国は防空壕をどう扱うかの分かれ道に立っている。一方には、埋める、塞ぐ、忘れるという方向がある。安全のためには合理的だ。危険な空洞を放置する理由はどこにもない。実際、埋め戻し事業は1998年度から2009年度にかけて約五十三億円をかけて百九十五か所を処理してきた。
もう一方には、残す、公開する、教材にするという方向がある。無窮洞は佐世保市制百年を機に一般公開された。南風原の壕は文化財になり、予約制で見学できる。山里小学校の防空壕跡は校内に被爆遺構として保存され、原爆資料室とセットで平和教育に使われている。本川小学校は地下室を残して平和資料館になった。
袋町小学校では伝言の壁が展示されている。この二つは、どちらが正しいという話ではない。危険度と、歴史的価値と、予算と、権利関係のバランスで、一件ずつ判断していくしかない。ただ、その判断のときに、いちばん抜け落ちやすいのが記録だと思う。滝野川小学校のケースで、区に保存の予算がないという話が出たとき、地元から出てきた提案は説明板の設置だった。
物として残せなくても、ここに何があったかを書き残すことはできる。NHKの調査で、六百か所以上の戦争関連施設のうち約二割がすでに現存していないと分かったとき、対策として出てきたのが三次元データ化とVR再現だった。物が消えても記録は残せる。そして、怪談もまた記録の一形態だ。精度は低い。
歪んでいる。事実と創作が混ざっている。でも、ゼロよりはずっとマシだ。校庭の隅に近づくな、という理由のない禁止だけが残った学校でも、誰かがその理由を掘り起こそうとすれば、たいてい何かが出てくる。学校日誌に「防空壕ヲ整備」と書いてあったりする。
資料館の書庫から図面が出てきたりする。この記事を書きながらずっと思っていたのは、そういうことだ。怪談は入口でいい。入口の向こうにあるのは、九十センチの穴に二人で膝を抱えて座っていた子どもの時間だ。ツルハシで二年間岩を削り続けた十歳の腕であり、校庭で焼かれた四百人であり、コンクリートで塞がれた壕の中の名前の分からない人たちでもある。
そこまで辿り着けたなら、その怪談は十分に役目を果たしている。
そして最後にもう一度だけ。防空壕跡には入るな。塞がれた入口を開けるな。崩れるし、空気がない。ちゃんと公開されている場所が全国にいくつもある。
行くならそっちに行ってくれ。地面の下にいる誰かに会いたいなら、それがいちばん確実な方法だ。
