校庭の隅に、石が立っている。学校の敷地というのは、そんなに広くない。教室があって、廊下があって、体育館があって、プールがあって、あとは土のグラウンドだ。子どもの動線は決まっている。だから校庭の隅というのは、六年間通っていても、実は一度も足を踏み入れない領域として残ることがある。
フェンス沿いの、鉄棒の裏の、体育館とプールに挟まれた三角形の空き地。
そこに石が立っており、背は自分より高い。表面はざらついていて、雨のあとは黒く濡れる。正面に何か彫ってあり、読めない。旧字体だからではなく、そもそも風化していて、彫りの底に苔が詰まっているからだ。台座があって、その台座の側面にも小さく字が並んでおり、名前のように見える。
並んでおり、ずっと並んでおり、先生に聞いても、たいてい答えは返ってこない。「昔からあるんだよ」で終わる。用務員さんに聞くと「戦争の碑らしいよ」と言われる。校長先生に聞くと「地域の方が大切にされているものだから、近寄っちゃだめ」と言われる。誰も由来を説明できない。
説明できないのに、掃除当番のローテーションにはちゃんと入っており、落ち葉を掃け、と言われる。こういう学校は、全国にあり、というか、たぶんあなたの母校にもあり、忘れているだけだ。
落ち葉を掃いていたら、名前を呼ばれた
これは、ある地方都市の小学校で語り継がれていた話として流通しているものだ。細部は語り手によって変わる。変わりながら、骨格だけがずっと同じ形をしており、十一月の掃除当番だった。校庭の隅、体育館の裏手にある石碑の周辺が、その週の担当区域だ。誰もやりたがらない。
イチョウとサクラが混ざって生えているので、落ち葉の量が尋常じゃない。しかも石碑の周りは玉垣みたいな低い石の囲いがあって、その内側に葉が吹き溜まる。竹箒だと囲いに引っかかる。手で拾うしかない。その日の当番は四人。
うち二人はサボって、遊具のほうへ行ってしまった。残ったのは、女子ひとりと男子ひとり。仮にAとしておく。Aは女子のほうだ。Aは囲いの内側に入って、しゃがんで落ち葉を集めていた。
白い玉砂利が敷いてあって、落ち葉と混ざっており、砂利ごと拾ってしまうから、いちいち選り分ける。指先が冷たい。もうすぐチャイムが鳴る。そのとき、後ろから名前を呼ばれ、フルネームで、苗字と名前を、ひとつづきに、はっきりと。子どもの声ではなく、かといって、担任の声でもず、大人の男の声だ。
低くて、かすれていて、少しだけ嬉しそうな響きがあったと、Aは後に語っている。呼ばれ慣れていない人が、久しぶりに人の名前を呼んだときの声だった、と。振り返ると、誰もいない。もう一人の男子は、五メートルほど離れたところで箒を持ったまま立ち尽くしており、顔が白い。「今の、聞こえた?」
男子は首を横に振らず、縦にも振らず、ただ、口だけを動かして、こう言い、「呼ばれてたの、お前じゃない」
男子には、別の名前が聞こえており、聞いたことのない苗字だった。四文字か五文字の、いまどきあまり見ない苗字。それが呼ばれて、そのあとに「ハイ」という返事が聞こえた、と男子は言った。返事の声は、子どものものだったという。二人は箒を放り出して逃げ、翌日、担任に叱られて、落ち葉を拾いに戻され、囲いの内側は、きれいに掃かれていた。
誰かが夜のうちにやったのだろう、と担任は言った。地域の遺族会の人が、月に一度は掃除に来てくれているから。Aはそれを聞いて、少しだけ安心し、安心した上で、一つだけ気づいてしまった。玉砂利の上に、落ち葉が一枚もなかったのに、砂利がところどころ、へこんでいた。人が長い時間しゃがんでいた跡みたいに。
雨に濡れると、名前が増える
もうひとつ。こちらは、もっと広く分布している型だ。碑の側面や裏面には、たいてい戦没者の名前が刻まれており、何十人、多いところでは百人を超える。学校に立っている碑なら、その名前の多くは、その学校を出た人たちだ。乾いているとき、風化した碑の文字は読めない。
ところが雨が降ると、彫りの溝に水が溜まって、その部分だけ色が濃くなる。文字が浮き上がる。これは物理現象だ。石屋さんに聞けば当たり前のことだと言われる。問題は、その「浮き上がった文字」を数える子どもがいる、という点だ。
雨の日、傘をさして碑の裏に回り、名前を数える。三十七人。翌週、また雨が降る。数える。三十八人。
増えており、増えた一人は、たいてい列の一番下にあり、しかも、その一人だけ、彫りが新しく見える。周りの名前はどれも溝が浅くて丸まっているのに、最後の一つだけ、角が立っている。そして怪談の作法として、その最後の名前は「読んではいけない」ことになっている。読むと、次の雨の日にもう一人増えるからだ。増えた分の名前が、読んだ人間のものになっている、という結末を持つバリエーションもある。
自分の名前が石に彫られているのを見てしまったら、もう戻れない。この話が学校怪談として優秀なのは、検証がほとんど不可能だからだ。碑の名前を正確に数え直そうとする子どもはまずいない。名前は旧字体で書かれていることが多く、読みにくい。そもそも「増えた気がする」というのは、記憶の側の問題であって、石の側の問題ではない。
でも、いったん「増える」と言われたあとで見に行くと、増えているようにしか見えなくなる。これが怪談の本体だ。石は何もしていない。
動かそうとしたら、重機が止まった
三つ目は、大人が語る型だ。子どもの怪談ではなく、工事関係者の口から出てくる話として流通する。学校というのは定期的に工事をする。プールを作る、校舎を建て替える、耐震補強をする、統廃合で校地を整理する。そのたびに、校庭の隅の碑が邪魔になる。
だいたいこういう流れになる。教育委員会が移設を決める。地元の遺族会に話を通す。業者が入る。基礎を掘って、クレーンで吊って、トラックで運ぶ。
技術的には難しくない。碑石そのものは重いといっても数トンだ。日常的にもっと重いものを吊っている業者にとって、なんということはない仕事のはずだ。ところが、当日になると動かない。エンジンはかかる。
アームも動く。ただ、碑にワイヤーをかけて吊り上げようとすると、そこで油圧が抜ける。何度やっても同じ。別の日に別の機械を持ってきても同じ。ワイヤーが切れた、という語られ方をすることもある。
玉掛けの資格を持ったベテランがかけたワイヤーが、荷重をかけた瞬間にぷつんといく。切れ口を見ると、刃物で切ったみたいにきれいだった、と。このパターンの怪談には、たいてい続きがあり、困った現場が、地元の年寄りに相談する。年寄りは「そりゃ、断りを入れてないからだ」と言う。神主か坊さんを呼んで、碑の前で祝詞なりお経なりをあげてもらう。
翌日、あっさり動く。そして、決まってこう締められる。「あのとき無理に動かしてたら、誰か死んでたな」
似た型の話は、学校の外にもたくさんあり、空港の敷地に残された鳥居が撤去できなかったという話。都心の一等地にある首塚を動かそうとして関係者が次々に倒れたという話。どちらも実際の出来事と噂話が何重にも重なっていて、どこまでが事実でどこからが後付けなのか、もう切り分けられない状態になっている。共通しているのは、「動かせない石」という構図そのものだ。
人間が土地を思い通りにしようとするとき、たった一つだけ言うことを聞かない点が残る。その点に、人は必ず物語を貼りつける。
碑の前で撮ると、一人多い
四つ目。これは短い。短いから強い。碑の前で記念写真を撮ると、必ず人数が一人多い。卒業アルバムの撮影で、地域学習で、清掃活動のあとで、子どもたちは碑の前に並ばされることがある。
並んで、撮る。あとで焼き上がった写真を数えると、クラスの人数より一人多い。多い一人は、たいてい列の端にいて、少しだけ後ろに下がっていて、少しだけ背が低い。顔は写っていない。ちょうど誰かの肩に隠れており、あるいは、光が飛んでいて白くなっている。
「じゃあ誰なのか確認しよう」となると、その写真はもうない。担任が回収した、とか、卒業アルバムの版下から差し替えられた、とか、そういう説明がつく。物証は必ず消える。これも怪談の作法だ。碑という被写体は、この型と相性がいい。
碑には名前が彫られている。名前が彫られているということは、そこに「もういない人」の一覧があるということだ。写真に一人多いという怪異は、要するに「一覧に載っている誰かが、列に混ざった」という物語だ。石に彫られた名前は、写真に写るための順番待ちをしている。そういう構図が、無意識のうちに共有されており、さて。
ここまでが怪談だ。ここからが、その怪談が寄生している本体の話になる。
そもそも、あの石は何なのか
学校に立っている石碑は、ざっくり言って何種類かに分かれる。そして種類ごとに、まったく違う歴史を背負っている。ここを混同したままだと、「学校の怖い碑」の話はいつまでも霧の中だ。一番多いのが忠魂碑だ。次が戦没者慰霊碑。
そこに殉職教員の碑、事故で亡くなった児童生徒の碑、動物の慰霊碑が続く。そして最後に、まったく怖くない開校記念碑や校歌碑や周年記念碑があり、順に見ていく。忠魂碑からだ。
忠魂碑という、日露戦争が学校に置いていったもの
忠魂碑は、戦争で死んだ地域の人を顕彰し、慰霊するために建てられた石碑だ。一部は日清戦争のあとに建てられたが、全国的に一般化したのは日露戦争のあとだった。それ以前は「招魂碑」という形で建てられることが多かった。なぜ日露戦争が分水嶺なのか。単純な話で、死者の数が桁違いだったからだ。
国内に十万を超える軍人遺族が一気に発生した。村単位で見ても、それまでは戦死者が出ても数人だったのが、十数人、数十人という規模になる。地域が地域として、その死をどう処理するかを考えざるを得なくなった。そこに主体として登場したのが、帝国在郷軍人会だ。明治四十三年に発足したこの組織が、町村単位での建碑の中心になった。
会員が勤労奉仕で土台を積み、地域から寄付を集め、碑を建てる。除幕式をやり、以後は毎年、碑の前で慰霊祭を営む。運営管理はその後、遺族会などに引き継がれていく。全国どこでも、だいたい同じ流れをたどった。ここで一つ、面白い問題が起きる。
建てる場所だ。明治後期、国は神社の境内に招魂碑や忠魂碑の類を建てることを禁じていた。理由は複雑だが、要するに国家の戦死者祭祀は靖国神社に一元化したかったからだ。地方の村が勝手に戦死者を祀るのは、その体系を乱すことになる。だから境内はだめだと言う。
言われた側は、どうしたか。境内じゃない場所に建て、公園、寺院、そして境内のすぐ外側の民有地。書類上は境外だが、実質的には神社の一部みたいな場所だ。国の規制は、建碑そのものを止めることはできなかった。そして大正六年以降、国は小学校の敷地に忠魂碑を建てることを、府県の認可という形で認めるようになる。
ここが決定的で、学校が、戦死者の記憶を置く場所として、公式に許可されたのだ。考えてみれば当然の帰結でもある。近代の村にとって、まとまった空き地を持ち、地域の全員が定期的に集まり、かつ公的な性格を持つ場所は、学校しかなかった。役場は狭い。神社は禁じられており、寺は宗派の問題がある。
学校の校庭なら、広くて、平らで、みんなが集まれて、しかも子どもがいる。子どもがいる、という点が重要だ。忠魂碑は単なる墓標ではなく、教育装置だった。一九二〇年代、在郷軍人会は「思想善導」や「尚武心の向上」を旗印に、戦没将兵への感謝の念を強調していく。国民精神を作興するという国家の意図が、地域の慰霊行事と重ね合わされていった。
碑の前で頭を下げる、というのは、その具体的な作法だ。ある地域の記録では、児童は毎朝登校するとき、忠魂碑に一礼してから運動場に入っていた、とあり、毎日だ。六年間、毎日。そして日中戦争が始まった頃から、忠魂碑の意味づけがさらに変わる。慰霊から崇敬へ。
死者を悼む対象から、神格化された英霊を敬い感謝する対象へ。昭和十四年には、あれほど禁じられていた神社境内での忠魂碑建立が、ついに承認される。それは、忠魂碑がただの慰霊対象ではなく、神社神道と同格の「宗教ではない国家祭祀」の対象物として位置づけ直されたことを意味していた。学校の隅に立っているあの石は、こういう歴史の産物なのだ。地域の悲しみと、国家の意図が、ちょうど重なった場所に置かれた石。
靖国に入れなかった人たちの、行き場
もう一つ、忠魂碑を理解するうえで欠かせない論点があり、靖国神社に合祀されなかった死者の存在だ。近代日本の戦没者祭祀は靖国神社を頂点に組み立てられていたが、その合祀基準は思っているよりずっと狭かった。西南戦争では、病没した兵士は原則として戦死扱いされず、合祀されない。日清戦争では、台湾での病死や事故死、帰還後に発病して亡くなった者の名が公式の記録から漏れた。
輸送に従事した軍夫の多くも合祀されていない。訓練中の跳弾に当たって死んだ者、馬に蹴られて死んだ者も同様だ。ある軍艦の沈没事故では三百人以上が犠牲になったが、公務死ではあっても戦死とは認定されず、靖国には祀られなかった。だが、村はそうは考えない。村にとっては、村から出ていって帰ってこなかった者は、みんな同じ死者だ。
戦って死んだか、病気で死んだか、事故で死んだかなんて、家族の側からしたら関係ない。息子が帰ってこなかった、という一点しかない。だから村は、国の基準とは無関係に、自分たちの死者の名前を石に彫った。つまり忠魂碑には、国家の慰霊システムからこぼれ落ちた死者が、かなりの数含まれている。国家的な戦没者慰霊と、地方における一般国民の慰霊。
この二元的な構造こそが、日本近代の慰霊の実態だった。碑の裏に並んでいる名前の列を、もう一度想像してほしい。あの中には、国が「戦死者ではない」と判定した人が混ざっている。国の帳簿に載らなかった人の名前が、村の石には彫られている。怪談としてこれ以上のお膳立てはない、と思わないだろうか。
呼ばれても答えのない名前。数えるたびに数が合わない一覧。子どもたちが直感的に感じ取っていた不穏さは、案外、的外れではなかったのかもしれない。
石が地面に埋められた三年間
一九四五年十二月十五日、連合国軍最高司令官総司令部が日本政府に対して覚書を出す。いわゆる神道指令だ。正式名称は長い。国家神道および神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに弘布の廃止に関する件、という。国家神道の廃止と政教分離を求めるものだった。
この指令そのものは、忠魂碑を名指しで撤去せよとは書いていない。だが占領政策全体の方向として、軍国主義的な記念物は排除の対象になり、政府はこれを受けて通達を出す。昭和二十一年十一月二十七日、内務省警保局長通達「忠霊塔忠魂碑等の措置について」。学校およびその構内、公共建造物およびその構内または公共用地にある忠魂碑等を撤去する、という方針が示された。学校の校庭に建っている忠魂碑は、これで全部アウトだ。
では、実際に何が起きたか。撤去といっても、粉々に砕くわけにはいかない。地域の人にとっては、身内の名前が彫られた石だ。だから各地で、非常に日本的な処理が行われ、埋めたのだ。ある村では、碑石の部分だけを取り外し、その付近の地面に埋め、基台は残したままにした。
ある小学校では、校庭の空き地に埋められている。ある町では、近くの田んぼの深いところに埋められた。またある土地では、地元の人たちが夜のうちに碑を運び出して、寺に預けたり、神社の敷地に隠したり、山の頂上まで運んで移したりしている。北陸のある町では、こんな証言が残っている。
終戦の翌年に小学校の校庭から撤去された碑を、翌年の三月、卒業を控えた六年生百五十人ほどが総出で、倒した状態のまま縄で引っ張って、一キロほど離れた寺まで運んだ。道にはまだ雪が残っており、何十分かかったかも覚えていない、と当時の児童は語っている。その碑は表面を塗りつぶされ、表裏を反転させて、「平和塔」と刻み直された。戦後の平和のシンボルとして、寺に建て直されたのだ。
同じ石が、忠魂碑から平和塔になり、字を裏返しただけで。この話を、単なる転向として笑うことはできないと思う。石は重い。新しく作る金も、戦後すぐの村にはない。だが名前は消したくない。
だったら、意味づけを変えて残すしかない。あの時代の人たちが選んだのは、そういう現実的で、ちょっと図太くて、たぶん誠実でもある落としどころだった。
掘り出された石
昭和二十七年四月二十八日、対日平和条約が発効する。占領が終わり、神道指令も効力を失う。そして、掘り出しが始まる。各地で、埋められていた碑が地面から引き上げられた。ある村では昭和二十六年ごろ、埋めた碑石を掘り出して元通りに再建した。
ある小学校では、昭和二十九年に発掘に着手し、その年の十二月に竣工している。ある地域では昭和三十三年四月、以前とまったく同じ位置に碑が建て直された。昭和二十八年、二十九年に再建された例は本当に多い。全国的な再建ブームと言っていい。ここで注目したいのは、再建された碑が、単なる復元ではなかったという点だ。
たとえば、戦前に十一人の名前が刻まれていた碑が、再建時には九十二人を合祀する碑になっていた例がある。当初十三人だった碑が、再建碑では百六十人になっていた例もある。差分は、その後の戦争で亡くなった人たちだ。日中戦争、太平洋戦争。戦前の碑には、まだ彼らの名前を彫る場所がなかった。
そして、再建された碑の性格も変わった。戦意高揚のための顕彰から、戦死者を悼み、平和を願うためのものへ。同じ形の石が、同じ場所に建て直されながら、意味は入れ替わっている。さらに面白い例もある。ある小学校では、戦前、忠魂碑の備え付け資料として軍から機雷一個と演習弾二個を下付されていた。
碑の脇に本物の兵器を並べて置いていたのだ。敗戦後、碑は解体されて近くの田に深く埋められた。戦後に発掘されて再建され、その後、校舎の鉄筋化と校庭拡張のためにもう一度移転することになる。そのときの整地作業中に、戦後に埋められた機雷が出てきた。そして、また碑の脇に据えられている。
学校の校庭を掘ったら兵器が出てきた、というのは、怪談ではなく実話として存在する。ちなみに、再建された碑が置かれた場所として、旧奉安殿の跡地が選ばれた例もある。神格を持っていた設備が撤去されたあとの空き地に、掘り出された石が据えられる。学校の敷地というのは、こうやって聖なるものの残骸を、上書きしながら受け止めてきた場所でもある。
石一つで最高裁まで行った話
学校の敷地にある忠魂碑をめぐって、日本の憲法学の教科書に必ず載る裁判が起きている。いわゆる箕面忠魂碑訴訟だ。経緯はこうだ。大正五年四月、在郷軍人会のある村の分会が、小学校用地に隣接した村役場の敷地内に忠魂碑を建てた。村は分会に対して、村議会の議決を経たうえで、碑の敷地を無償かつ無期限で貸すことにする。
慰霊祭のときには周囲の空き地も使ってよい、という許諾も出した。戦後、神道指令と政府通達を受けて、昭和二十二年三月末ごろ、分会員の手で碑石部分だけが取り外され、付近の地中に埋められる。基台はそのまま残された。数年後、遺族の間で再建の話が持ち上がり、昭和二十六年ごろ、埋められた碑石が掘り出されて元通りに再建される。
昭和三十年ごろからは、地区遺族会が主催して、毎年四月に碑の前で慰霊祭が営まれるようになった。神職と僧侶が隔年で交代して主宰する、神式と仏式のハイブリッドだ。そして昭和四十年以降、その小学校の児童数が急増する。校舎の建て替えと増築、校庭の拡張が急務になった。工事をするには、隣接する役場敷地内の忠魂碑をどこかへ移して、その土地を学校用地に組み込む必要がある。
市と遺族会が話し合い、碑を現状のまま、慰霊祭に必要な広さを確保する条件で、別の小学校の敷地内へ移設することで合意した。昭和五十年、移設が実施される。移設先は、その学校が仮運動場として使っていた土地の一部だった。移設された碑は、二重の石積みの基台の上に台石を置き、その上に幅約一メートル五十、厚さ約四十センチ、高さ約二メートル五十の碑石が据えられている。地面から碑石の最高部までは六メートル三十。
周囲は切石積みで囲まれ、正面と両側面の前部には御影石の玉垣が置かれている。背面と両側面の後部にはキンモクセイの生け垣。囲いの内側にはカイヅカイブキやマツやサツキが植えられ、白砂利が敷き詰められている。この描写、さっきの怪談を読んだあとだと、ぞくっとしないだろうか。白砂利。
玉垣もある。生け垣で囲われた聖域。
掃除当番が入っていくのは、まさにこういう空間だ。さて、この移設に市の公金が使われたことをめぐって、市民が訴訟を起こす。忠魂碑は天皇のために忠義を尽くして戦死した者を祀るための宗教施設であり、市が金を出して移設し、慰霊祭に関与するのは政教分離原則に反する、という主張だ。特に、子どもへの影響が大きい学校という場所にそれを置くことの是非も争われた。一審は昭和五十七年三月、原告勝訴。
碑の撤去が命じられ、控訴審は昭和六十二年七月、一審判決を取り消す。忠魂碑は軍国主義の宣伝ではなく、慰霊祭は社会的儀礼である、という判断だった。そして平成五年二月、最高裁が原告敗訴を確定させている。移設は学校用地として利用することを主眼とする世俗的な目的によるもの、という整理だった。十八年かかっており、石を一つ動かすのに。
この裁判が示しているのは、あの石が単なる「古い石」ではないということだ。宗教なのか、慣習なのか、教育なのか、地域の記憶なのか。誰も一言で答えられない。答えられないから、学校の先生も「昔からあるんだよ」としか言えない。子どもは、その答えられなさを敏感に嗅ぎ取る。
そして、答えのない場所には物語が湧く。
帰ってこなかった生徒たちの碑
忠魂碑と並んで学校に置かれているのが、戦没者慰霊碑だ。こちらはもっと直接的に、その学校に関わりのあった死者を悼む。戦争末期、中等学校以上の生徒や学生は軍需産業や食料生産に動員され、学徒勤労動員だ。昭和十八年以降に本格化し、昭和十九年八月には学徒勤労令が公布されて法的な根拠を得た。学校は事実上、工場への人員供給機関になった。
そして、動員先で死んだ。昭和十九年十二月の地震では、ある航空機工場で百五十人以上が亡くなり、そのうち九十人以上が動員学徒だった。昭和二十年六月の空襲では、ある工場で従業員と動員学徒あわせて二万二千人ほどのうち千人以上が死亡し、三千人ほどが負傷した。そして八月六日の広島。
市内の中学校三十九校から集められた一年生およそ八千人が、建物疎開の作業に動員されていた。当日だけで三千二百人ほどが亡くなり、一か月以内の死者は六千人に達したとされる。十二歳、十三歳だ。さらに学童疎開の死者がいる。昭和十九年八月、沖縄から本土へ向かった疎開船が撃沈され、千五百人規模の犠牲が出た。
多くが学童で、この事件は、当時、箝口令が敷かれて公にされなかった。
戦後、これらの死者を悼む碑が、母校の敷地に建てられていく。同窓会が建てる、遺族が建てる、教職員が建てる。忠魂碑と違って、こちらは戦後に建立されたものが多い。だから比較的新しく、字も読める。読めるがゆえに、そこに刻まれている年齢を見て、はっとする。
学校の敷地に建つ碑には、そういう種類のものがあり、石の見た目だけでは、どちらか判断がつかない。だから怪談は、両方に同じように貼りつく。この「見分けがつかなさ」が、あとで大事な論点になる。
子どもを助けて死んだ先生の碑
三つ目の類型が、殉職教員の碑だ。大正時代、東北のある小学校で、赴任してまだ二か月あまりの若い女性教員が亡くなっている。二十一歳で、川のほとりで児童に写生を指導していたところ、三人の子どもが深みにはまった。彼女は着衣のまま川に飛び込み、二人を救い上げる。三人目を助けようとしたとき、ほどけた袴の裾が頭にかぶさり、自身も足を取られて、その子どもと一緒に溺れた。
この出来事は全国的な反響を呼び、文部大臣が遺族に金一封を贈り、県知事が異例の顕彰をした。村葬には二千人以上が参列し、沿道には一万人以上が集まったという。翌年、彼女の命日にあたる日に、勤めていた学校の校門脇に殉職記念碑が建てられた。昭和の終わりには、その学校の敷地内に遺徳を顕彰する記念館まで建てられている。こういう碑は、全国に点在している。
児童を助けて水死した教員、火災から子どもを避難させて逃げ遅れた教員、空襲のなかで児童とともに亡くなった教員。学校という場所は、教師が子どもを守って死ぬ、という物語を必要としてきた。そしてその物語を石に固定してきて、ここで正直に書いておきたいことがある。殉職教員の碑を、当時の国は美談として非常に強く利用した。教育者の理想像として、修身の教材として、動員のロジックとして。
個々の教員の行動が尊いことと、それが国家によって物語として消費されたことは、別の話だ。両方を同時に見ておかないと、あの石の前で何を考えればいいのか分からなくなる。学校怪談としては、この型の碑は「白い服の女の人が立っている」「先生が生徒を数えている」といった形で語られることが多い。優しい怪談になりがちだ。碑の由来が、まだかろうじて伝わっているからだろう。
由来が伝わっている碑は、怖い怪談にならない。逆に言えば、怖くなるのは由来が切れた碑だ。ここも重要な論点なので、覚えておいてほしい。
事故の碑は、学校の傷跡だ
四つ目の類型。学校行事で子どもが死んだときに建てられる碑だ。大正二年、長野県のある高等小学校が中央アルプスの山に集団登山をした。生徒二十五名、地元の青年会員九名、引率教師二名の総勢三十七名。悪天候に遭って十一人が亡くなり、この遭難は後に小説の題材になり、映画にもなっている。
現地には遭難記念碑が建てられ、平成十六年には風化で碑文が読みにくくなったため、脇に碑文をそのまま転載した副碑が建てられた。同じ学校で、その二十九年後、今度は修学旅行中の事故が起きる。昭和十七年九月、六年生二百六十三人が二班に分かれて日本海側の港町へ修学旅行に出かけた。後発の百五十五人が宿に着いた午後、旅館の目の前の海岸へ出る。地元の人は「今日は波が高い」と言っていた。
子どもたちは海を見渡せる突堤へ行き、コンクリートの割れ目にいたカニに夢中になる。そこへ北西から大波が来た。先頭付近にいた二十六人が海に落ち、教員や釣り人が飛び込んで二十一人を救助したが、五人の男子児童が亡くなっている。事故のあと、その学校では月命日に黙祷と墓参と法要が行われるようになった。八十年以上たった今も、慰霊行事は続いている。
昭和二十九年の十三回忌に、同級生たちの手で校内に慰霊碑が建てられた。
今では事故の日を慰霊の日と定め、朝登校してきた児童が碑に拝礼する。昭和四十年には、北海道で炊事遠足中の事故が起きている。六年生三百五十七名が海岸で炊事をしていて、男子児童たちが浜で見つけた鉄製の円筒を暖房用に燃やそうとした。直径三十六センチ、長さ六十五センチほど。それは戦時中に旧日本軍が使っていた爆雷の不発弾だった。
破片が十メートル四方に飛び散り、児童四名が死亡、三十一名が重軽傷を負った。慰霊碑は事故から十二年後に建てられ、現在は埋め立てられた旧海岸跡の公園にある。そして近年の例。平成二十九年三月、栃木県の山で登山講習会中に雪崩が発生し、高校の山岳部の生徒七人と教諭一人が亡くなった。五年後、学校の敷地に慰霊碑が建てられ、遺族の要望で「忘れない」という一文が刻まれている。
さらにその三年後、碑の背面に事故の経緯を記した金属プレートが取り付けられ、約千文字。そこには、講習会の主催者側に過失があったことが明記されている。亡くなった生徒と教員に落ち度がなかったこと、そして事故が「不注意による人災であったと指弾された」ことも書かれている。この最後の例は、学校の碑の歴史のなかでも異質だ。慰霊碑にはふつう、事故の経緯や責任は書かれない。
書かれるのは死者の名前と、悼む言葉と、建立者の名前くらいだ。責任を石に刻む、という選択は、慰霊の思想が変わりつつあることを示している。そして、ここに学校怪談の残酷な一面がある。この手の碑は、事情を知っている世代がいるあいだは、絶対に怪談にならない。誰もふざけない。
ところが世代が二回、三回と入れ替わると、事情を知る人がいなくなる。碑だけが残る。すると、忘れられた碑は怪談の素材になる。碑は、忘れられるまでの猶予期間を稼ぐための装置だ。そして猶予期間が切れたとき、怪談が始まる。
ウサギとニワトリの碑
最後の類型が、動物慰霊碑だ。これは日本独特の習俗と深く結びついていて、外国の人に説明しようとすると、たいてい途中で相手の顔が「?」になる。まず前提として、学校は動物を飼っており、それも制度として。戦前の理科教育では、当初、教室内では標本や模型や図画を使い、生きた実物は校外で観察させるのが主流だった。それが次第に、学校で動物を飼い、その世話そのものを教育内容に組み込む方向へ変わっていく。
おとなしくて人に慣れやすく、繁殖しやすくて飼育が容易だという理由でウサギが選ばれ、卵が得られるという理由でニワトリが選ばれた。尋常四年のウサギ当番は五人一組で毎日交代し、家から野菜の切れ端を持ってきて与え、掃除をし、当番日誌を書いた。昭和十一年時点のある小学校の校内図には、鳩舎、鶏舎、兎舎が二つ、虫舎、禽舎と、飼育施設がずらりと記載されている。飼育小屋は学校設備の正式な一部になっていた。
そして、動物は死ぬ。飼育記録のなかに、ウサギが死んだときに学級全員で相談して埋葬し、「兎のはか」という題で作文を書かせた、という記録が残っている。大正から昭和初期の話だ。ここで日本の習俗が効いてくる。日本には、動物に限らず、道具や人形にまで魂を認めて供養する伝統が根強くある。
針供養、人形供養、包丁供養。動物についてはさらに厚い。農耕に使われた牛馬のために馬頭観音や馬塚が全国に建てられ、鯨のための碑が捕鯨地に、鵜のための法要が鵜飼の地に、猫のための塚が養蚕地帯や港町にある。害虫とされる虫にまで供養碑を建てた例すらある。だから、学校が飼育動物のために碑を建てるのは、日本ではまったく自然な流れだった。
「動物慰霊碑」「飼育動物之碑」「動物たち感謝の碑」。
名前はさまざまだが、目的は同じだ。世話をした子どもたちの気持ちの落とし所を作る。もう一つ、理科教育の系譜に連なる碑もあり、解剖や実験に供された生き物のための碑だ。大学や研究機関には実験動物慰霊碑が置かれるのが一般的で、年に一度、慰霊祭が営まれる。これも日本ではごく普通の光景だが、海外の研究者が見ると驚くらしい。
動物実験そのものを批判する立場からは、慰霊祭の存在が実態を伴わない免罪符になっているのではないか、という指摘も継続的に出ている。この論争は今も続いていて、片方の言い分だけで片づけられる話ではない。軍事の文脈もあり、昭和三年、旧陸軍の獣医学校の敷地内に「動物慰霊之碑」が建てられた。教育研究の犠牲になった動物と、物言えぬ戦士として戦場に散った軍用動物を慰めるためのものだ。
敗戦後、学校が解体されてこの碑は荒廃したが、後に東京の寺院に移されて祀られ直している。碑の裏には、四十数万に及ぶ軍用動物と生死を共にした旧陸軍獣医部員五千余名について記されている。四十数万。馬、犬、鳩。さて。
学校の動物慰霊碑が怪談化するパターンは、独特だ。「夜になると碑のあたりからウサギが走る音がする」。「飼育小屋が撤去されたあとも、鶏の声が聞こえる」。「碑の前に置いたニンジンが翌朝なくなっている」。だいたい、そんな感じだ。
戦争の碑まわりの怪談に比べると、圧倒的に牧歌的で、少し切ない。そして現実の側では、学校から動物が消えつつある。ある府の教育委員会の調査では、ウサギやニワトリを飼育する小学校の割合が、平成十九年度には八割近くあったのに、令和四年度には二割あまりまで落ち込んだ。理由は複合的だ。長期休暇中の世話や病気への対応が教員の負担になること。
鳥インフルエンザの流行で鳥類の飼育が避けられるようになったこと。動物福祉の観点から、学校という環境での飼育は適切ではないという意見が力を得たこと。アレルギーのある児童への配慮が必要になったこと。飼育小屋が消え、動物がいなくなり、碑だけが残る。誰も由来を説明できない小さな石が、また一つ増えていく。
実際に語られてきた話を、三つ
ここからは、体験談として流通しているものを再話する。名前も学校名も特定しない形にしてある。一つ目。卒業生の回想として語られている話だ。その人が通っていたのは、山あいの小さな小学校で、全校で百人いなかった。
校庭の端、フェンスの向こうがすぐ杉林になっているあたりに、腰くらいの高さの石が据えてある。上面が平らで、周りをチェーンで囲ってあり、「入っちゃだめ」とだけ言われており、何の石なのか、誰も知らなかった。上級生も知らないし、先生も知らない。ただ、平らだから座りたくなる。禁止されているから、なおさら座りたくなる。
六年生のとき、その人は座った。放課後、誰もいない時間に。座って、五分くらいぼんやりして、立ち上がった。それだけだ。何も起きず、その日から、夢を見るようになったという。
同じ夢だ。校庭に人がたくさん並んでおり、大人ばかりで、みんな同じ格好をしている。列の一番後ろにその人が立っていて、前の人の背中を見ており、誰も喋らない。しばらくすると、前のほうから順番に、一人ずつ、名前を呼ばれていく。返事をした人から、列を離れて校門の外へ出ていく。
自分の番が近づいてくる。呼ばれる。返事をしようとして、口が開かない。そこで目が覚める。この夢は、中学に上がってしばらく続いて、やがて見なくなった。
大人になってから同窓会でこの話をしたら、同級生の一人が青くなって「俺も見てた」と言ったそうだ。その同級生も、あの石に座ったことがあり、後年、その人は郷土史の資料を調べた。石は、明治の終わりに建てられた招魂碑の台座部分である。碑石は戦後に外されて、どこかへ運ばれたか埋められたかして、台座だけが残っていた。上面が平らだったのは、そこに石が載っていたからだ。
名前が彫られていた部分は、もうその場所にはなかった。二つ目。教員が語った話として流通しているもの。赴任先の中学校に、中庭に面した場所に碑が三つ並んでいた。一つは在校中に亡くなった教職員と生徒のための碑。
一つは学校で飼育していた動物のための碑。そして最後の一つは、平べったい大きな石で、チェーンで囲われていて、生徒が入れないようになっていた。これが何なのか、記録がず、赴任二年目の夏、その教員は補習で夜まで学校に残っていた。廊下を歩いていると、中庭のほうで音がする。窓から見ると、平たい石のところに人影があり、しゃがんでおり、生徒が忍び込んだのかと思って、外へ出た。
近づくと、影はず、ただ、石の上に、水が撒かれたみたいに濡れた跡があった。その日は晴れていて、雨も降っていない。散水栓は反対側だ。濡れた跡は、人がしゃがんだ形をしており、膝の跡が二つ、その前に手をついた跡が二つ。翌日、その教員は職員室で年配の事務職員にこの話をした。
事務職員は特に驚かず、「あの石ね、拝んでる人がたまに来るのよ」と言った。近所のかなり高齢の人が、何年かに一度、朝早くに来て、あの石の前でしばらく手を合わせて帰るのだという。誰なのか、なぜなのか、聞いたことはない。学校としても、追い返す理由がないので黙認している。「じゃあ、あの石は何なんですか」と聞くと、事務職員はこう答え、「聞かないようにしてるの。
聞いちゃったら、管理しなきゃいけなくなるから」
三つ目。工事関係者の語りとして流通している話。統廃合で閉校になった小学校の校地を、地域の防災拠点に転用する工事があった。校舎は解体、グラウンドは整地して駐車場にする。設計図には、校庭の隅の碑を撤去して別の場所に移すことが書かれており、現場の職人が最初に驚いたのは、碑の基礎だった。
掘ってみたら、想定の三倍近く深かった。しかも周囲にびっしりと石が詰められていて、コンクリートではなく、人の手で積んだ野面石だ。抜こうとすると、周りの石が噛んで動かない。一日で終わるはずの作業が三日かかり、三日目、ようやく碑石が持ち上がった。その下から、缶が出てきて、ブリキの、大きめの菓子箱くらいの缶だ。
錆びていたが、蓋は開き、中に、油紙に包まれた金属板が入っていた。銅板で、名前が彫ってあり、名前と、地区名と、所属していた部隊の名前。現場は作業を止めて、教育委員会に連絡した。教育委員会は市の遺族会に連絡し、遺族会の人が来て、銅板を見て、その場で泣いたという。こういうものが碑の内部や基礎に納められている例は、実際にある。
ある小学校では、忠魂碑の中に、戦没者の名前と地区と所属部隊名を記した銅板が納められていることが、地域の記録として伝わっている。石は器なのだ。中身があり、「動かせない石」の怪談を、迷信だと笑い飛ばすのは簡単だ。だが、実務の現場からすると、あの手の石は本当に動かしにくい。基礎が深い。
中に何が入っているか分からない。関係者が誰なのか分からない。誰の許可を取ればいいのか分からない。そして、間違えたときに怒る人がおり、物理的にも、社会的にも、動かない。怪談は、その動かなさを説明するために生まれた言語なのかもしれない。
ネットの側で何が言われてきたか
学校の碑にまつわる話は、掲示板やSNSでも定期的に盛り上がる。そして、そこで交わされている議論のうち、いくつかはかなり鋭い。まず、繰り返し出てくる冷静な指摘。「怖いと噂されている石碑の大半は、単なる開校記念碑だ」というものだ。これは本当にその通りで、学校に建っている石碑の種類を実際に数えてみると、創立記念碑、周年記念碑、閉校記念碑、校歌碑、校訓碑あたりが多数派になる。
石材業者のカタログを見れば、学校向けの記念碑がずらりと並んでいる。横に寝かせた自然石に直接文字を彫るタイプ、角柱型、六角柱にタイル板を貼るタイプ。値段まで書いてあり、地域の名石を使ったものが人気らしい。つまり、あの怖い石の何割かは、単に「創立五十周年記念」と彫ってあるだけの石だ。子どもが読めないのは、書体が篆書や隷書で、しかも右から左に書かれているからにすぎない。
二宮金次郎像の台座だけが残っているケースも多い。像が老朽化して撤去されたり、近年は歩きながら本を読む姿が推奨できないという理由で下ろされたりして、台座だけが残る。台座には寄贈者の名前と年号が彫ってあり、これが「名前がいっぱい彫ってある謎の石」として怪談化する。奉安殿の基礎だけが残っている例もある。戦前、御真影と教育勅語を納めていた小さな建物で、戦後に大半が取り壊された。
基礎のコンクリートや石段だけが残り、その上に何か別のものが置かれたりする。こうした「実は正体がある」系の指摘は、オカルト系の掲示板でもわりと歓迎される。正体が分かったところで面白さが減らないからだ。むしろ、正体を突き止める過程のほうが盛り上がったりする。次に、より構造的な指摘。
「由来が語り継がれなくなった碑ほど怪談化する」という観察だ。これは経験則として、かなり当たっており、由来が現役で語られている碑は、怪談にならない。毎年慰霊祭が行われていて、遺族会の人が掃除に来ていて、朝礼で校長が説明する碑は、怖くならない。怖いのは、慰霊祭が途絶え、遺族会が解散し、誰も説明できなくなった碑だ。言い換えれば、学校の碑の怪談は、地域社会の記憶が切れたことの指標なのだ。
怪談が生まれた瞬間が、記憶が死んだ瞬間だと言ってもいい。そして三つ目。これがいちばん重い指摘になる。「本物の慰霊碑を怪談として消費するのはどうなのか」という批判だ。この論点は、学校の外でも繰り返し噴出してきた。
昭和四十六年に岩手県で起きた航空機の空中衝突事故では、多くの犠牲者が出ている。遺族の手で現場の山林が整備され、慰霊のための場所として維持されてきた。ところがネットやテレビの一部で、そこが心霊スポットとして紹介されるようになる。地元では、犠牲者を悼むための場所が肝試しの対象にされることへの不快感が強かった。
令和二年には、有名な動画配信者がその場所を心霊スポットとして紹介して批判を浴び、謝罪する事態になっている。その後、慰霊のための整備が進められ、名称も変更された。今では、心霊スポットとして騒ぐ声は目に見えて減った。学校の碑についても、同じことが言える。あの石に彫られている名前は、実在した人の名前だ。
二十歳で死んだ人の名前である。十三歳で死んだ人の名前だ。子どもが怖がるのは仕方ない。子どもは、意味の分からないものを怖がることでしか処理できない。だが、大人が面白がって「学校の心霊スポット」としてネタにするのは、また別の行為になる。
とはいえ、単純に「怪談にするな」と言えば済む話でもないと思う。忘れられて草に埋もれ、誰にも顧みられないまま倒壊するのと、怪談として語り継がれて少なくとも存在だけは記憶されるのと、どちらがマシなのか。これは本当に難しい。怪談は、記憶が切れたことの指標であると同時に、記憶を細々とつなぐ最後の糸でもある。現実に起きているのは、こういうことだ。
ある県には五百四十六基の忠魂碑があり、多くは明治以降、在郷軍人会などによって建てられたものだ。戦後、清掃や草刈りを担ってきたのは遺族会だった。だがその遺族会の会員は、ピーク時に二万五千人いたのが、いまは四千人を切った。解散した地区も多い。管理が行き届かない碑が増えており、破損してもそのまま。
草が伸び放題で近づけない碑もある。全国で見ると、厚生労働省の調査では、把握されている一万基以上の慰霊碑のうち、ひび割れや倒壊の危険があるものが七百八十基あった。前回調査より四十六基増えている。日本遺族会の会員世帯数は、昭和四十二年に約百二十五万世帯だったのが、平成の終わりには約五十七万世帯まで減った。
国は移設や埋設の費用を半額補助する制度を設けているが、上限は五十万円で、利用実績は全国でわずか八基にとどまっている。管理する人がいない。金もない。動かすには遺族の同意がいるが、その遺族がもういない。だから碑は立ったままになる。
あるいは、傾いたままになる。学校の怪談は、この現実の上に立っている。
なぜ、学校にばかり碑があるのか
ここまで並べてくると、答えはもう見えており、近代日本において、学校は地域で最も公的な空間だった。役場より広く、神社より中立で、寺より宗派を問わない。誰もがそこを通り、誰もがそこに子どもを預け、地域の運動会も、選挙の投票も、災害時の避難も、学校で行われた。だから、地域が何かを「みんなのもの」として置きたいとき、置き場所は学校になる。
戦死者の名前も、殉職した教員の記憶も、事故の教訓も、飼っていた動物への感謝も、全部そこに置かれた。しかも学校には、次の世代が毎年供給される。碑を建てる人が期待したのは、子どもたちがそれを見て育つことで、忠魂碑に一礼して登校する。慰霊祭で並ぶ。掃除当番で落ち葉を掃く。
そうやって記憶が引き継がれていくはずだった。ところが、その連鎖が切れ、切れた理由は複数ある。敗戦によって忠魂碑の意味づけが否定され、いったん地面に埋められたこと。再建されたあと、学校が碑について子どもに説明する枠組みが失われたこと。政教分離をめぐる議論があって、公立学校が宗教性を帯びうる石碑に積極的に関わりにくくなったこと。
遺族会が高齢化して消えていったこと。そして、地域社会そのものが薄くなったこと。碑は残り、説明する人が消え、これが、学校の校庭の隅に「誰も由来を説明できない石」が立っている理由だ。
廃校になると、石だけが残る
そして今、新しい局面が来ており、統廃合だ。少子化で学校が消えていく。校舎は解体されるか、別の施設に転用される。グラウンドは駐車場や公園や太陽光発電所になる。廃校の活用事例はたくさん紹介されているが、活用がうまくいかずに再び遊休化する例も少なくない。
そのとき、碑はどうなるか。いくつかのパターンがあり、地域のコミュニティセンターや公民館の敷地に移されるパターン。近くの神社や寺に引き取られることもある。そのまま元の場所に残されるパターン。そして、行方が分からなくなるパターン。
戦前に小学校の校庭に建てられた忠魂碑が、戦後の混乱を経て再建される。その後に学校が統合されて、いまは公民館の敷地の一角に立っている。こういう例は、全国に本当にたくさんある。碑の前にはかつて校庭が広がっていたのに、今は駐車場だ。碑の側から見れば、風景だけが何度も入れ替わったことになる。
そして残された碑は、誰の管理下にあるのかがはっきりしない。
学校のものだったのか、地域のものだったのか、遺族会のものだったのか。建てた組織はとっくに存在しない。土地は自治体のものかもしれないし、私有地かもしれない。ある自治体では、遺族会が市に管理の移譲を求めたが、市は「民間で建立した碑の維持管理は民間が行うのが基本」として断っている。この宙ぶらりんの状態が、いちばん怪談を呼ぶ。
所有者不明。管理者も分からない。由来不明。触ってはいけない気がするが、なぜいけないのかは誰も言えない。そういう物体が、公共空間にぽつんと立っており、災害伝承の分野でも、同じ問題が指摘され続けてきた。
過去の津波や洪水の記憶を伝えるために建てられた碑が、時とともに忘れられていく。ある物理学者は、昭和初期に東北の海岸を歩いている。三十数年前の大津波の記念碑がすでに壊れていたり、新しい道ができて人が通らなくなり忘れられていたりする様子を書き残した。工学の分野では、津波の到達点を示す石碑があるにもかかわらず、生活の便を優先してその海側に住宅が建てられた例が数多く報告されている。
この状況を改善しようとして、国土地理院は平成三十一年に自然災害伝承碑という新しい地図記号を制定した。地形図に碑の位置を載せることで、忘れられないようにするという試みだ。令和六年の時点で、六百を超える市区町村の二千二百基あまりが公開されている。石に彫っておけば伝わるだろう、というのは、たぶん人類の最も古い願いの一つだ。そして、その願いはだいたい裏切られる。
石は残るが、意味は残らない。残らないから、代わりに怪談が生える。
なぜ、この型の怪談は生まれるのか
最後に、分析のパートをやっておきたい。学校の怪談というジャンルが今の形で確立したのは、そんなに昔ではない。民俗学者が中学校の教員をしていた時代に生徒から聞き取った話をまとめて出版したのが平成二年。翌年には児童書のシリーズが刊行され、一大ブームになり、映画やドラマにもなって、全国的なフォーマットとして定着した。もちろん、それ以前から学校では怪談が語られていた。
だが「学校の七不思議」という統一規格が全国に行き渡ったのは、この時期以降だ。学校怪談の舞台として圧倒的に多いのはトイレだ。次いで、音楽室、理科室、階段の踊り場、体育館、旧校舎。民俗学的には、これらはすべて「境界」だと説明される。教室という中心ではなく、中心と中心のあいだ。
柳田國男以来の日本民俗学は、村と山、昼と夜、生と死といった境界に怪異が現れると繰り返し論じてきた。その枠組みを学校建築に当てはめたわけだ。別の説明もある。怪異が現れるのは、子どもたちが日常的に利用頻度の高い場所であり、かつ「条件づけしやすい場所」だという見方だ。三番目の個室、四時四十四分、真ん中の階段。
条件を細かく指定することで、子どもは恐怖を管理可能なサイズに切り分けられる。怖がりたいけれど、怖がりすぎたくない。その調整弁として、条件づけが機能する。さて、校庭の隅の碑は、この枠組みのどこに入るのか。まず、境界性は満点だ。
校庭の隅というのは、学校という囲いの最も外側で、フェンス一枚向こうはもう学校ではない。しかも碑の周囲は、玉垣やチェーンで囲われて、そこだけ別の区画になっている。学校の中にある、学校ではない場所。入ってはいけないと言われる場所。二重の境界だ。
次に、条件づけもしやすい。掃除当番のときに。雨の日に。写真を撮るときに。碑の裏に回ったときに。
行動が限定されるから、恐怖もきれいに区切れる。だが、この二つでは説明しきれない要素があり、碑には、名前が彫ってある。これが、他の学校怪談の舞台と決定的に違う点だ。トイレの個室に名前は書かれていない。音楽室の肖像画には作曲家の名前があるが、それは死者としての名前ではなく、人体模型には名前がない。
碑にだけ、実在した死者の固有名が、消えない形で刻まれており、固有名は、呼びかけの装置だ。名前があるということは、呼べるということでもある。呼べるということは、答えがありうるということだ。「掃除当番が名前を呼ばれる」という怪談の型が生まれるのは、必然と言っていい。碑は、名前を呼び合うためのインターフェースとして設計された物体だからだ。
もともと、そういう用途で作られており、慰霊祭で名前を読み上げるための石なのだから。だから怪談の中で、その機能が逆流する。読み上げられる側が、読み上げる側になる。もう一つ、碑ならではの要素があり、石は、変わらない。学校の建物は建て替わる。
木造から鉄筋になり、校舎の配置も変わる。プールができ、体育館が新しくなり、飼育小屋が消え、遊具が入れ替わる。教員は数年で異動する。児童は六年で全員入れ替わる。学校というのは、実は驚くほど流動的な場所だ。
そのなかで、碑だけが動かない。三十年前の卒業生が訪ねてきても、碑だけは同じ場所にあり、位置も、向きも、高さも、彫られた名前も同じだ。周りの全部が入れ替わって、それだけが残る。変わらないものは、だんだん異物になる。周囲が更新されるたびに、相対的に浮き上がっていく。
最初は風景の一部だったものが、いつのまにか「なんであれだけあそこにあるんだ」になる。学校の碑が怪談化する最大の要因は、たぶんこれだ。動かなさが、異物性を育てる。そして、その異物性の正体を大人が説明できない。「昔からあるんだよ」。
この一言が、怪談の許可証になる。子どもは、大人が説明を避けたものにこそ、物語を作る。
石の前で、何を考えればいいのか
学校の碑の怪談を、迷信として切り捨てたくはない。かといって、実在の死者を怖がらせのネタにするのも違う。たぶん、いちばん誠実な態度は、こうだ。怖いと感じたら、それを入口にしていい。ただし、入ったあとは調べる。
碑には、必ず情報が彫ってあり、建立年、建立者、そして多くの場合は死者の名前。書体が読みにくくても、拓本を取れば読める。読めなくても、地域の郷土資料室や図書館の郷土コーナーに行けば、市町村史に載っていることが多い。自治体が地域の戦争記念碑を調査して報告書を出している例もある。学校の周年記念誌には、たいてい校地内の碑の由来が一行くらいは書かれている。
そうやって調べていくと、その石が何を背負っているかが見えてくる。日露戦争のあとに村が集めた寄付。在郷軍人会の分会員が勤労奉仕で積んだ土台もある。占領期に地面に埋められた三年間。掘り出して再建したときの、遺族の気持ち。
学校が拡張されるたびに移された経緯。裁判になった土地。今、誰が草を刈っているのか。あるいは、もう誰も刈っていないのか。そこまで分かってから改めて碑の前に立つと、感じ方が変わる。
怖くはなくなる。だが、別の重さが来る。個人的には、そっちのほうがよほど怖いと思う。幽霊が出るより、名前が読めるほうが怖い。そして最後に、これだけは書いておきたい。
学校の校庭に立っている石の多くは、子どもに見せるために置かれたものだ。建てた人たちは、次の世代がそれを見て何かを受け取ることを期待していた。期待の中身は、時代によって全然違う。忠君愛国だったこともあるし、平和への願いだったこともあるし、事故を繰り返すなという戒めだったこともある。その期待の一部は、たしかに失敗し、誰も由来を説明できなくなったのだから。
だが、完全に失敗したわけでもない。子どもたちは、あの石を怖がってきて、怖がるというのは、無視しないということだ。意味は伝わらなかったが、「これは特別なものだ」という感触だけは、六十年、百年と伝わり続けた。怪談という、ずいぶん歪んだ器を使って。校庭の隅に、石が立っており、今日も掃除当番が落ち葉を掃いている。
名前を呼ばれるかもしれないし、呼ばれないかもしれない。ただ、あの石には確かに名前が彫ってあって、それは誰かの名前だ。それだけは、間違いない。ここからは、本編で書ききれなかった論点を、もう少し踏み込んで整理しておく。
「怖い碑」を種類ごとに見分ける実務的な方法
学校の敷地で石碑に出くわしたとき、それが何なのかを推定する手がかりは、実はかなりはっきりしている。まず形。砲弾型、あるいは上部が尖った縦長の角柱で、高さが二メートルを超えるものは、忠魂碑や忠霊塔の可能性が高い。特に六角形の塔身に砲弾型の碑身を載せた形は、戦前の忠魂碑の典型的な意匠だ。一方、自然石を横に寝かせて磨いた面に文字を彫ったものは、戦後の記念碑に多い。
創立記念碑や校歌碑はほぼこの形だ。次に文字。表面の題字が右から左へ読む横書きなら戦前、左から右なら戦後。これはかなり信頼できる。題字が「忠魂碑」「忠霊塔」「表忠碑」「招魂碑」ならまず戦争関連。
「慰霊之碑」「平和之礎」なら戦後の慰霊碑になる。「創立五十周年記念」なら記念碑。そして、揮毫者の肩書き。忠魂碑の題字は、陸軍大将や海軍大将、あるいは県知事の名で書かれていることが多い。石の側面や裏面に「陸軍大将某書」と彫ってあれば、それだけで戦前の軍関係だと分かる。
ある地域の慰霊碑では、当時の陸軍大臣の揮毫が刻まれている。さらに、周囲の設え。玉垣で囲まれ、白砂利が敷かれ、常緑樹が植えられていたら、それは今も祭祀の対象として扱われている印だ。逆に、雑草に埋もれて周囲に何もなければ、管理が切れており、怪談が生えるのは、後者のほうだ。そして、台座だけが残っているケースの見分け方。
上面が平らで、四隅にボルト穴やほぞ穴が空いていたら、そこに何かが載っていた証拠だ。銅像の台座か、碑石を外された基台か。二宮金次郎像の台座は、上面に足形のほぞ穴が二つ残っていることが多い。忠魂碑の基台は、碑石を差し込む長方形の溝が残る。この違いが分かると、校庭の隅の風景の読み方が一段変わる。
埋めるという処理が意味していたこと
本編で、占領期に忠魂碑が地面に埋められた話を書いた。この「埋める」という選択について、もう少し考えておきたい。命令は撤去で、撤去とは、その場所から取り除くことだ。破壊しろとまでは書かれていない。だから、地面に埋めれば、形式的には撤去したことになる。
地表からは見えなくなるからだ。これは、明らかに抜け道だ。だが、単なる面従腹背とも言い切れないところがある。日本の民俗には、古いものを処分するときに「埋める」という作法が数多くあり、古い神札を土に返す。使えなくなった道具を塚に埋めて供養する。
墓じまいをした石を土中に戻す。壊すのではなく、土に還す。そこには、モノに宿った何かを乱暴に断ち切らないための、緩衝としての手順という感覚がある。碑を埋めた人たちが、そこまで意識していたかは分からない。ただ、破壊ではなく埋設を選んだという事実は残る。
そして数年後、平和条約が発効すると、彼らはその場所を掘り返して、石を引き上げた。埋める時点で、掘り出すことを想定していた人が少なくなかったのだろう。埋設場所は、たいてい碑のすぐそば、あるいは近くの田んぼや裏山で、忘れないで済む距離だ。この一連の動きは、地域社会が国の方針と自分たちの感情のあいだで、どうにか折り合いをつけようとした軌跡として読める。占領軍の指示に逆らえば面倒なことになる。
だが名前の彫られた石を割ることはできない。だったら、しばらく土の中で待っていてもらおう。だから、学校の校庭を掘ると何か出てくる、という学校怪談には、意外なほど実体的な根拠がある。実際に出てくるからだ。碑が出てくる。
銅板が出てくる。奉安殿の基礎が出てくる。ある学校では、戦前に碑の脇に据えられていた機雷まで出てきた。子どもが「校庭の下には何かある」と直感するのは、迷信ではなく、何かはある。
慰霊の形が変わりつつある
近年の学校の慰霊碑には、明らかな変化が見える。一つは、責任の記述だ。従来、慰霊碑に事故の責任は書かれなかった。書かれるのは死者の名前と、悼む言葉、それに「二度と繰り返さない」といった抽象的な誓いくらいだった。ところが近年の学校事故の慰霊碑では、事故の経緯、主催者側の過失、亡くなった生徒に落ち度がなかったことまでが明記される例が出てきている。
これは、慰霊碑が「悼むための石」から「記録するための石」へ機能を拡張したことを意味する。もう一つは、遺族の主体性だ。かつての碑は、学校や同窓会や自治体が主導して建てるものだった。刻まれる文言も、当然そちらの都合で決まった。今は、遺族が文言を要望し、それが通る。
「忘れない」という一言が刻まれるのは、そういう変化の結果だ。そして三つ目は、慰霊の場をめぐる議論の変化だ。近年、沖縄では、ある特攻部隊の慰霊碑を地域内に移設する案が、地元住民の反対で否決される出来事があった。理由は「軍民ともに慰霊してきた先人の思いに反する」というものだった。誰を、どういう枠組みで慰霊するのか。
軍人だけを顕彰する形なのか、民間人を含めて悼む形なのか。碑の置き場所をめぐる議論は、今も続いており、学校の碑も、この議論の外側にはない。子どもが毎日通う場所に、どういう性格の石を置くのか。それは、その地域がどういう歴史認識を子どもに手渡したいかという問題と、切り離せない。だからこそ、かつて裁判にもなり、この論点に単純な正解はないし、ここで一方に肩入れするつもりもない。
ただ、あの石が政治的な議論の対象になりうるものだ、という事実は押さえておく価値がある。
動物慰霊碑がいちばん静かに消えていく
本編でも触れたが、学校の動物慰霊碑の行方は、他の碑よりさらに危うい。理由は簡単で、規模が小さく、公的な性格が弱いからだ。忠魂碑や戦没者慰霊碑には遺族会という当事者団体があり、事故の碑には遺族がいて、同窓会がある。だが、飼育小屋のウサギのために建てられた碑には、誰も当事者がいない。当時の児童は大人になり、当時の教員は異動し、飼育小屋そのものが撤去された。
しかも、動物慰霊碑は小さい。膝くらいの高さの、平たい石が多い。植え込みの中に埋もれてしまえば、誰も気づかない。学校の統廃合で校地が整理されるとき、こういう石はいちばん先に行方が分からなくなる。だが、この碑が担っていた役割は、決して小さくない。
学校で動物を飼うということは、学校で動物が死ぬということだ。子どもが、自分が世話をした生き物の死に立ち会う。あるいは、夏休み明けに登校したら小屋が空になっている、という形で死を知らされる。その体験をどう処理するか、というのは、教育のなかでかなり難しい部分だ。碑は、その処理装置で、埋める場所を決め、石を置き、名前を書き、手を合わせる。
作文を書かせた記録もあり、「兎のはか」という題で。大正から昭和にかけての、ある教室の話だ。いま、学校から動物が減っている。ある府の調査では、十五年ほどで飼育率が八割近くから二割あまりまで落ちた。教員の負担、感染症、動物福祉、アレルギー。
減った理由はどれも真っ当で、批判しにくい。動物福祉の観点から言えば、劣悪な環境で飼われるくらいなら飼わないほうがいい、というのは正論だ。実際、長期休暇中に世話が行き届かず衰弱する事例や、病気になっても治療されない事例が繰り返し報告されてきた。ただ、それによって「学校で命が終わる」という経験が消えたのも確かだ。
そして、その経験を受け止めるために置かれた石だけが、誰にも読まれないまま、植え込みの奥に残る。いつか誰かの子どもが、その石を見つけて、怖がるだろう。名前も彫っていない、苔むした小さな石を。それがウサギの碑だったなんて、誰も教えてくれない。
怪談が最後の管理者になる、という逆説
ここまで書いてきて、一つ、認めざるを得ない逆説がある。碑を守っているのは、実は怪談かもしれない、ということだ。管理する遺族会は消え、行政は民間の建立物には手を出さないと言う。予算はない。由来を説明できる人もいない。
誰も碑を必要としていない。それでも碑が撤去されずに残っているのは、なぜか。一つは、単純に金がかかるからだ。撤去には費用がいり、誰も金を出したがらない。だから放置される。
だが、もう一つの理由があると思う。触ると怖い、という感覚だ。はっきり言えば、迷信だ。石を動かして祟りが起きるわけがない。だが、担当者の立場になって考えてみてほしい。
由来の分からない石碑を、自分の判断で撤去する。もし後になって、それが誰かの大切な碑だったと分かったら。もし遺族が現れて怒ったら。もし工事中に事故が起きたら。そういうとき、人は「動かさない」を選ぶ。
動かさない理由として、「祟るらしいから」という説明はとても便利だ。誰も反論できないし、責任も発生しない。学校の校庭の隅で、動かせない石として扱われてきた碑は、そうやって生き延びてきた面がある。怪談が結界になって、乱暴な処分から石を守ってきた。由来を失った碑にとって、怪談は最後のセキュリティシステムだったのだ。
これは、皮肉といえば皮肉だ。だが、悪くない皮肉だと思う。意味が伝わらなくなっても、畏れだけは伝わる。畏れがあるかぎり、石は割られない。割られないかぎり、いつか誰かが調べ直す可能性が残る。
碑の下の銅板が出てきた工事の話を、もう一度思い出してほしい。もし現場が乱暴に基礎を砕いていたら、あの銅板は瓦礫と一緒に運ばれていった。慎重に掘ったから、出てきた。慎重に掘らせたのは、たぶん、あの現場に漂っていた「触りたくない」という空気だ。
それでも、怪談にしてはいけない一線
とはいえ、線は引かなければならないと思う。学校の碑を怪談として語ることと、実在の慰霊施設を心霊スポットとして扱うことのあいだには、はっきりした違いがある。前者は、多くの場合、由来が失われた石をめぐる子どもの想像力の産物だ。誰も傷つけない。むしろ、その学校の記憶の一部として機能する。
後者は違う。犠牲者が特定されていて、遺族が現に存命で、毎年その場所で手を合わせている施設を、肝試しの対象にする。これは、人が悼んでいる最中に横から入って邪魔をする行為だ。それを配信の素材にすれば、なおさら悪い。判断基準は、そんなに難しくない。
その碑の前で、今も誰かが手を合わせているか。年に一度でも慰霊祭が行われているか。遺族が存命か。答えがイエスなら、怪談の対象にしてはいけない。ノーなら、少なくとも直接の被害は生じない。
ただし、そのときも、彫られた名前が実在した人のものだという前提は忘れないほうがいい。そしてもう一点。学校の碑を語るときは、学校名と場所を特定しないという配慮が要る。今も子どもが通っている場所だからだ。心霊スポットとして名前が広まれば、夜間に見知らぬ大人が侵入してくることになる。
それは、単純に危ない。実際、廃校や学校の敷地への無断侵入は、怪談界隈でもたびたび問題になってきた。怖い話は、怖いままでいい。ただ、住所は要らない。
校庭の隅は、日本の近代がまだ片づいていない場所だ
最後に、全体を通しての感想めいたことを書いておく。校庭の隅の碑というのは、日本の近代がまだ片づいていない場所だ。日露戦争のあと、地域が死者をどう扱うかを模索し、国は靖国に一元化したがり、地域はそこからこぼれた死者を石に彫った。学校が、その置き場所になる。子どもたちは毎朝一礼し、やがて戦争が拡大し、意味づけは慰霊から崇敬へずれていった。
敗戦で全部ひっくり返り、石は地面に埋められ、数年後に掘り出され、新しい死者の名前を足して建て直された。学校が拡張されるたびに動かされ、あるとき裁判になり、最高裁まで行っている。遺族会が細り、慰霊祭が途絶え、由来を語る人が消え、学校が統廃合され、碑だけが駐車場の隅に残った。この百二十年ほどの経緯が、一つの石に全部積み重なっており、ほどけていない。清算されていない。
だから重い。子どもは、その重さを言葉にできない。できないから、「触ると呼ばれる」と言う。「雨の日に名前が増える」と言う。「動かそうとすると重機が止まる」と言う。
それは、たぶん、間違っていない。あの石は本当に動かないし、本当に名前が刻まれているし、本当に誰かを呼んでいる。呼んでいる相手は幽霊ではなく、次の世代だ。建てた人たちは、そう願って石を選び、金を集め、字を彫った。願いの中身には賛成できない部分もあるし、時代とともに書き換えられてもいる。
それでも、伝えたいという衝動そのものは、たしかにあの石に詰まっており、伝わらなかった。だから怪談になった。怪談になったおかげで、まだ残っている。校庭の隅に、石が立っており、掃除当番が今日も落ち葉を掃いており、名前が呼ばれるかどうかは分からない。ただ、あの石が何なのかを調べることは、誰にでもできる。
調べたら、怖くなくなる。怖くなくなった代わりに、もっと厄介なものが手に入る。それを受け取るかどうかは、あなた次第だ。
