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下が抜けていた頃の怪談――学校から汲み取り便所が消えた五十年と、設備が変わるたび作り替えられてきた便所怪談の全記録

赤い紙も青い紙も、便器の下に穴がないと成立しない

「赤い紙がほしいか、青い紙がほしいか」

この一行だけで背中がすっと冷える世代がいる。放課後の校舎、いちばん端のトイレ、しゃがんだ姿勢、そして頭の上か足の下かも分からない場所から降ってくる声。どっちを答えても死ぬ。赤なら血まみれ、青なら血を抜かれて真っ青。答えなければ答えないで別の何かが来る。

正解のない問いというやつだ。

でも、ちょっと考えてほしい。あの怪談、いま成立するだろうか。

令和の小学校のトイレを想像してみる。乾いた床、明るいLED、白い壁、暖房便座、扉の内側にはちゃんとトイレットペーパーが二巻きセットされている。紙がなくて困る場面自体がまず起きない。声が聞こえてくる「下」もない。便器の下にあるのは封水と排水管であって、外の世界に通じる暗い穴ではない。

赤い紙青い紙も、「紙をくれ」も、便器から伸びる手も、覗く顔も、全部そうだ。あれらは例外なく「下が抜けている便所」を前提に組み立てられている。便器の真下に深い槽があり、その槽は壁の外側にある汲み取り口へつながっていて、つまり便所の底は外界と地続きだった。だから手が伸びてくるのがリアルだったし、尻を撫でられるのが冗談ではなかった。

その前提は、五十年ほどかけて静かに壊されたのだ。汲み取り式から水洗和式へ、和式から洋式へ。学校という場所は日本でいちばん遅れて便所が近代化した施設のひとつで、そのぶん、設備が変わるたびに怪談がどう作り替えられたかの記録がはっきり残っている。これはその全記録だ。設備史と怪談史を、一本の線で結んでみたい。

便器の下には、外へ出る道があった

まず構造の話をしておく。ここを押さえないと以降が全部ぼやける。

汲み取り式便所には大きく二系統ある。ひとつは直下式。便器の穴の真下がそのまま便槽で、しゃがんで下を覗けば底が見える。もうひとつは無臭便槽と呼ばれたタイプで、便器と便槽のあいだをU字形のパイプで結び、水を張って臭気を遮断する。後者のほうが臭わないので昭和三十年代以降に普及した。

だが、子どもが落ちたときに便器を外しても手が届かず、かえって助からない構造でもあった。

そして直下式にも「半穴」と「全穴」がある。便器の穴が便器の半分ほどしか開いていないものと、便器とほぼ同じ大きさでぽっかり開いているもの。後者を子どもの頃に使っていた人の回想がいくつも残っている。「吸い込まれるような、小さな子どもならそのまま落ちてしまうような穴だった」「とにかく下を見ないように、一秒でも早く出ることしか考えていなかった」という書き方をされる。ブラックホールに喩えた人までいる。

便槽の反対側には汲み取り口がある。屋外の地面に開いた蓋つきの穴で、ここにバキュームカーのホースを突っ込んで吸い出す。この口の大きさが、実は怪談の物理的な根拠になっている。一九八九年に福島県田村郡都路村で起きた、いわゆる便槽内怪死事件の現場で計測された数字がよく知られている。便器側の開口が直径およそ二十センチ、屋外の汲み取り口が直径三十六センチ、便槽そのものは横幅約百二十五センチ、高さ約五十センチ。

大人がひとり、膝を折ってようやく収まる箱だ。

この事件については、警察は覗き目的で侵入して出られなくなった事故死と結論した。遺族や友人の側は納得せず四千筆を超える署名を集めて再捜査を求め、却下された。二〇〇四年に時効が成立して未解決のままになっている。ここでは誰かを犯人と決めつける話は一切しない。肝心なのは別のことだ。

つまり、大人が便槽に入り込むという事態が、現実に起こりうる構造だったという一点である。

事実、昔は泥棒が便槽から屋内に侵入する事件がそれなりにあった。覗き目的で外の汲み取り口から潜り込む者もいた。便所の底は外に開いていて、そこから何かが入ってこられる。子どもが「下から手が出る」と怖がったのは、迷信でも何でもなく、建物の仕様を正確に把握した恐怖だったのだ。

学校の便所は、はじめから別棟だった

では学校はどうだったか。

明治期の学校建築の規定をたどると、便所の扱いがよく分かる。明治二十三年の小学校令改正のあとに出た小学校設備準則には、便所は校舎外に、男女を分けて設置すると書かれている。明治三十二年の改正では、別棟とし、井戸から四間離すこと、という距離規定まで入る。四間はおよそ七メートル強。井戸水が汚染されるのを防ぐためだ。

裏を返せば、便槽から地下水に染み出すことが当然の前提だったということでもある。

数の基準もある。明治二十八年刊の学校建築の解説書では、大便所は男子百人に三、女子百人に五、小便所は男子百人に四、といった目安が示された。明治三十二年の準則では男子百人につき大便所二、小便所四とされる。文献によって数字に幅があるのは改正のたびに動いたからだが、いずれにせよ「百人に数個」という水準だ。

小便器という陶器の器具はまだなく、準則には注壁と尿溝という語が見える。酸やアルカリに強い素材を張った壁に向かって用を足し、足元の溝に流れて溜まる。そういう造りだった。

つまり学校の便所は、成立の時点から「校舎の外にある別の建物」である。渡り廊下を通るか、いったん靴を履いて出るか。昼でも薄暗く、夜は真っ暗で、木の壁は隙間だらけ。怪談の舞台としては、これ以上ないくらい条件が整っていた。校庭の隅の一棟だけが妙に古い、という配置は、平成に入ってからも各地に残っていた。

五百人分の糞尿を、どう始末するか

学校の便所には、家庭の便所にはない固有の問題がある。人数だ。

昭和三十年代に書かれた記録に、こんな計算が出てくる。児童数が五百名を超える学校では、一人一日一リットルとして一日五百リットル、月二十五日で一万二千五百リットル。一斗缶で七百個ぶんである。これを毎月どこかへ運び出さなければならない。

だから便槽の容量は常に足りなかった。狭い便槽に溜まりすぎて便器から溢れる、雨水が入り込んで嵩が増す、地下水が汚染される。当時は井戸水を使う学校も多かったから、最後のは洒落にならない。近隣の農家に汲み取りを頼むのが基本線だったが、農家にだって需要の波がある。肥料として引き取ってもらえる時期と、もう要らないと言われる時期がある。

村の資金で各戸に肥溜め桶を設置した地域があり、PTAが自分たちで汲み取り作業をしていた地域もあった。保護者が学校の便槽を汲むのである。

ハエ対策も切実だった。窓枠に金網を張る。便壺を暗くする。この「便壺を暗くする」という工夫が個人的にはいちばん不気味だ。光が入るとハエが集まるから、わざと底を見えなくする。

結果として、子どもがしゃがんだ真下には、意図的に作られた闇が広がることになった。

家庭の便所でも同じことが起きていた。電球のワット数をわざと低いものにしていた、という回想がある。便器の中がよく見えないようにする配慮だったのではないか、と本人は書いている。便所が暗いのは偶然ではなく、設計だったわけだ。

掃除も過酷である。昭和三十年代の学校便所の掃除は、基本的に水拭きか逆性石鹸を含ませた雑巾で拭くだけ。月に数回、教師が塩酸を使う。三十年代の終わりごろから取り扱いの危険性を理由に塩酸は清浄剤に置き換わっていく。家庭の汲み取り便所では、ダイアジノンという殺虫剤を水で薄めて便槽にぶちまける工程があった。

当時それをやらされた人の証言に、母親のアドバイスがそのまま残っている。「中の山を崩すようにまくのよ」。

的確に山を崩すには、しっかり中を見ながらまかなければならない。子どもに底を凝視させる作業である。

そして昭和三十年に長野の小学校で行われた便所掃除当番のアンケートでは、「好き」と答えた児童は一人もいなかった。これは当たり前すぎて笑ってしまうが、同時に、便所という場所が子どもの生活のなかでどういう位置を占めていたかを端的に示している。

バキュームカーが来るまでと、来てから

日本のし尿処理が機械化されるのは戦後である。

一九五〇年、GHQの指導のもとで政府の資源調査会が「屎尿の資源科学的衛生処理に関する件」という勧告書を出した。汲み取りの機械化収集と、嫌気性消化処理方式による科学的処理を推す内容だ。これを境に、柄杓と肥桶による汲み取りが、ホースで吸い上げる方式へ切り替わっていく。東京都は一九五七年にし尿機械化収集計画を開始し、一九六〇年に完了した。

現場の感覚は、ある汲み取り業者の回想がいちばん生々しい。一九四八年に馬を買って七年ほど荷馬車を使い、荷台に肥桶を三十六本積んだ。馬が暴れると積み荷が片寄って大変だった。一九五二年ごろに二トン積みのオート三輪を買い、肥桶を十二本積めるようになった。そしてバキュームカーを購入したのは一九六一年。

値段が高くて、二十五万円ほどを工面するのに土地を売ったという。

当時のホースはビニールではなくゴムで、重いので肩に担いで運んだ。ただ、慣れたら「こんなに良いものはない」。あっという間に吸い込んで便壺をきれいに保てるからだ。

一方で、吸い取ったものをどこへ捨てるかという問題は残り続けた。農村還元処分、海洋投棄、山林や砂地への素掘り投棄。一九五五年から一九六二年にかけて、清掃法上の特別清掃地域における農村還元処分の割合は三十五・七%から十三・七%に落ちた。逆に海洋投棄が九・八%から二十一・七%に、その他の不衛生処分が七・八%から十五・二%に増えた。

一九五六年に政府が「し尿処理基本対策要綱」を五カ年計画として打ち出し、海洋投棄の原則廃止と総水洗化を目標に掲げる。

数字で見ると、水洗化の歩みの遅さがよく分かる。トイレの水洗化率は一九六三年で九・二%、一九七八年で四十五・九%、一九九九年で八十三%、二〇一七年で九十四・五%。汲み取り便所を使っていた人口比は、一九七四年で七十・六%、一九七九年で四十七・九%、二〇一九年で四・六%。下水道普及率は統計を取り始めた一九六一年度末で六%、一九九五年度末にようやく五十%を超え、二〇一二年度末で七十六・三%である。

つまり、一九七四年の時点でも日本人の七割は汲み取り便所を使っていた。これは記憶の補正が効きやすいところで、「昭和はぼっとん便所」というより、「昭和が終わるころまで半分近くがぼっとん便所」と言ったほうが実態に近い。

学校はさらに遅い。岐阜県を例にとると、昭和三十八年、つまり一九六三年の時点でまだ小学校の九十%が汲み取り式だった。東京オリンピックの前年である。新幹線が走りはじめる直前の日本で、岐阜の小学生の十人に九人は、便器の下に穴が開いた便所にしゃがんでいた。

「赤い紙やろか、白い紙やろか」は、もともとこちらが唱える呪文だった

さて、怪談の側に戻る。

赤い紙青い紙の原型として最有力なのが、京都に伝わるカイナデという便所の怪だ。大正十四年、一九二五年刊の『口丹波口碑集』に記録がある。口丹波、つまり京都府丹波地方南部では、節分の夜に便所へ行くとカイナデというものが来て尻を撫でる、と言われていた。子どもはそれが嫌で昼のうちに用を済ませた。どうしても我慢できず行かなければならないときは、「赤い紙やろか、白い紙やろか」と唱えてから入ればよい。

柳田国男監修の『総合日本民俗語彙』にもカイナデ(カイナゼとも)は京都府下でいう便所の怪として載り、同じ唱え言が記されている。

ここが決定的に面白いところだ。もともとこの台詞は、こちらが唱える防御の呪文だった。それが学校怪談に移植される過程で、話し手と聞き手が入れ替わる。向こうから問われ、こちらが答えさせられ、どう答えても死ぬ。呪文が尋問になったのである。

もうひとつの系譜が赤マントだ。昭和初期から流布した怪人譚で、赤いマントを着た何者かが現れて人を襲う。一九三六年から三七年ごろの東京の小学校で便所に赤マントが出たという記録が松谷みよ子『現代民話考』にある。一九三九年二月二十一日付の『やまと新聞』に赤マントの名が登場していることも確認されている。

一九四〇年ごろには東京を起点に東海道を経て大阪まで広がり、北九州にも達した。日本統治下の朝鮮半島に住む日本人小学生のあいだでも噂になっていた。

そして色を選ばせる型が現れる。『現代民話考』に残る採集例をたどると、昭和十年度の長野で「赤いマントがほしいか、青いマントがほしいか」、昭和十四年の京城、昭和十五年の福岡県。紙に変わるのはそのあとで、昭和十七年度の静岡県女子師範学校で「青い紙、赤い紙」、昭和十八年度の大阪府(現在の大阪市立木川小学校)で「赤い紙、白い紙」。

また一九三〇年代の奈良市では小学生のあいだで「赤い紙やろか、白い紙やろか」が広まっていたという記録もある。

マントが先か紙が先かについては、研究者のあいだで整理がついていない。中村希明は、物資不足でぜいたくな純毛のマントを血で汚す話が子どもにリアリティを失い、紙に置き換わったのだという読み方を示した。一方で三原幸久は逆向きの筋を想定している。まず「赤い紙、青い紙」があり、そこから「赤いマント、青いマント」が生まれ、さらに独立した赤マント譚になった、という筋だ。

採集年代を並べる限り、マントを選ばせる型のほうが先行して見えるので、中村説のほうが素直ではある。ただ、口承の話に厳密な前後関係を求めること自体が無理筋という指摘もあって、決着していない。

いずれにせよ確かなのは、この怪談が戦前生まれで、花子さんよりずっと古いということだ。そして舞台は最初から便所だった。

厠神は、赤と白の紙人形を供えられる神だった

なぜ色つきの紙なのか。ここで民俗のほうから一本の線が伸びてくる。

便所には神がいる、というのは日本各地に広く分布する信仰だった。厠神、便所神、雪隠神、せんち神、閑所神、お部屋神。呼び名は地域によって違う。正月に灯明をあげるほかは特別な祭りがない土地も多いが、神体を置く土地もある。仙台付近では男女の土人形。

金沢市では家の新築時に便壺の下に男女一対の人形を埋める。群馬県利根郡新治村須川では正月の御幣でセッチンヨメゴという人形を作る。

そして重要なのがここだ。厠神を祀るのに紙製の人形を供える土地が多く、茨城県真壁郡では青と赤、または赤と白の紙人形を便所に供えたという。

この一致は偶然ではないだろう、という説がある。もともと人間の側が神に紙を供える行為だった。それが「紙をやるから妙なことをするなよ」という取引の言葉に変わる。さらに立場が逆転して、便所の側が「赤い紙をやろうか、青い紙をやろうか」と言い出す。供物が脅迫に化けたわけだ。

カイナデのように家庭内の怪異だったものが公共の場である学校に持ち込まれるとき、「節分の夜」という条件が脱落した、という見方も添えられている。季節限定の家の怪が、いつでも出る学校の怪になった。

厠神は出産と深く結びついた神でもある。飛騨地方では厠神の手伝いがないと出産が軽くならないといい、壱岐島では産神は厠神と箒神だとされた。厠を掃除すると産が軽い、きれいな子が生まれるという俗信は全国に広い。出産後三日目に雪隠参りといって、生児が産婆に抱かれて厠神に参る風習が東日本を中心に見られる。栃木県小山市では、便所に赤飯や塩を供え、桑などで作った長い箸で汚物を挟んで赤ん坊に食べさせるまねをした。

丈夫に育つとされたからだ。

禁忌も多い。厠で唾を吐いてはいけない。犯せば厠神が怒って目や歯に祟る。青森では、厠神は右手で小便を、左手で大便を受けるので、唾を吐かれると口で受けねばならないからだと説明される。和歌山では、厠神は盲目で人に見られるのを忌むから、入る者は必ず灯を携え、咳払いをしてから入れ、と伝える。

南方熊楠も同じ趣旨を和歌山で聞いたと書き残している。

厠神は盲目とか手無しだとも言われ、厠で倒れたり怪我をすると死ぬという地方もあった。

中国由来の紫姑神信仰も重なる。厠で本妻に殺された妾の紫姑を厠神として祀り、正月十五日に紫姑卜という占いをする。女性を模した人形を用意し、「小姑可出戯」、お妾さん出てきて遊びましょう、と唱えて交信する。これがこっくりさんや花子さんの遠い祖先ではないかという意見がある。「花子さん、遊びましょ」という呼びかけの形式を思い出すと、ちょっと背筋が伸びる。

仏教側では烏枢沙摩明王が東司の守護神とされ、禅宗の寺を中心に祀られてきた。神道では『古事記』でイザナミが大便から土の神、小便から水の神と穀物の神を生んだ神話に則って、埴山姫と罔象女らを便所の神とする。排泄物が新たな生成をもたらすという発想が、日本にはずいぶん古くからある。

国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースを使って、日本トイレ研究所が要約部に便所関連語を含む伝承を数えた集計がある。それによると「便所」を含む伝承が百九十四件、「トイレ」を含むものが五十件、「厠」が三十四件、「雪隠」が二十一件、「閑所」が一件。

内容では「便所の中で何者かに危害を加えられる」が三十件で最多。次いで「特定の時間、時期に便所へ行くと不吉な目に遭う」が二十二件、「出産関連」が十六件だ。「便所で唾を吐くと病む」が十五件、「咳払いをせずに入ると病む」が十件。地域では岡山県が十四件で最多で、そのすべてがサス神、センチ神、不動様と呼ばれる便所の神に関するもの。山形県は十二件で、そのほとんどが難産で亡くなった女性の幽霊ウブメだった。

面白いのは、この集計で「便所」「厠」「雪隠」を含む古い層の伝承には吉と凶の両方があることだ。「トイレ」という語を含む近現代層は、五十件中四十六件が純粋に怖いだけの話だった。神が消えて、怪異だけが残った。

便壺から伸びる手は、もとは河童の手だった

さて、手の話である。

昔の便所怪談の定番は、間違いなく「手」だった。汲み取り便所の深い穴の下から、にゅうっと長い手が伸びてきて、無防備な尻を撫でまわす。カイナデもこの型だ。そして日本の古い伝承では、その手の正体はしばしば河童である。

長野県史の民俗編には、こんな話が採録されている。河童が毎晩便所に出て人の尻を撫でていたずらするので、ある晩、河童の手を掴んで引き抜いてしまった。河童は一度逃げたが、あとで戻ってきて「手を返してくれ」と言う。「悪いことをしないなら返してやる」と言って戻してやったら、お礼にそれから毎晩魚を届けにくるようになった。

『旅と伝説』に載る別の話はもう少し陰惨だ。亭主に死に別れた女房が、夜中に便所で尻に触る手を切り落とした。翌日、便所から血の跡が点々と残っていた。訪ねてきた老人が手を譲るように頼む。その老人が河童で、反省しているので手を返してやると、お礼に薬の製法を教えてくれた。

地方に伝わる家伝薬の由来譚としてよくある型である。

注目したいのは、この古い型では被害と恩恵が反転することだ。尻を撫でられるという「負」が、手を切って返すことで薬の秘法という「正」に転じる。集計でもこの反転型が十二件確認されている。学校怪談になったあとの便所の手は、もう何も与えてくれない。ただ引きずり込むだけになる。

学校の便所に手が出た記録はかなり早い。日本文学研究者の一柳広孝によれば、一九〇二年ごろ、熊本県の学校でトイレから手が出てきてお尻を撫でる話が残っているという。学制発布から三十年、近代学校が全国に整備されてまもなくの時期である。

そして昭和初期の一件が、この系譜のなかでは異様に完成度が高い。李家正文『厠考』(一九三二年)が紹介する、東京・世田谷瀬田の小学校の話だ。

一九三〇年六月中旬、八歳の女児が校長のもとへ駆け込んできた。三人で便所に行ったのに、個室に入った一人が出てこない。「まだいるの」と声をかけると「ええ」と返事がある。しかし待っても出てこないので、扉を開けて覗いた友だちまで消えてしまった、というのだ。校長は笑い飛ばし、実験してみようと訴えてきた本人を同じ個室に入れる。

どうせ窓から抜け出して驚かせるつもりだろう、という腹だった。

「誰かいますか」と声をかける。「今入っています」と扉ごしに返事が響く。数分待って「まだいますか」と訊ねる。「ええ、まだいますわ」。その瞬間、校長は勢いよく扉を開けた。

見えたのは、窓の外からこちらへ伸びる白く細長い手だった。何かを掴もうとしていたその手は、気配に気づいたのか外へ引っ込んだ。床には気を失った女児が倒れていた。

手、開かずの扉、問答。のちの便所怪談を構成する三要素が、一九三〇年の一話にすでに全部入っている。

三番目の花子さんは、最初は白い手だった

花子さんの話をしよう。

最古の関連記録とされるのは、松谷みよ子『現代民話考7 学校・笑いと怪談・学童疎開』に収められた、岩手県和賀郡の一件である。一九四八年ごろ、体育館のトイレで奥から三番目に入ると、下から白い手が出て「三番目の花子さん」と呼ぶ。

読み返してほしい。これは「呼び出すと返事をする少女」の話ではない。下から手が出る話だ。つまり花子さんの最古層は、カイナデや河童の手とまったく同じ、汲み取り便所の系譜に属している。名前だけが先に付いたのである。

現在よく知られている、三階の女子トイレ、入口から三番目の個室、三回ノックして「花子さん、いらっしゃいますか」と呼ぶと「はい」と返る型。この呼び出し応答型が年代をはっきり遡れるのは一九六〇年代後半まで、というのがASIOS編・廣田龍平『謎解き「都市伝説」』(二〇二二年)の検証である。

資料上で「花子」の名が確認できるのは一九七九年の児童に関する調査報告書、一九八五年の小学生向け学年誌あたりからで、全国的にメジャー化したのは一九八九年以降になる。

そして一九九〇年十一月、民俗学者の常光徹が『学校の怪談』(講談社KK文庫)を刊行する。常光は当時中学校の教員で、児童文学作家の松谷みよ子に「足元の伝承を見つめてみたら」と言われ、放課後に生徒から噂話を聞き取りはじめた。一週間で百あまりの話が集まったという。翌一九九一年にはポプラ社も同名シリーズを刊行し、映画やテレビが続いて一大ブームになる。

それまで「学校の七不思議」「学校の怖い話」と呼ばれていたものが、「学校の怪談」という名前で一括りにされた瞬間だった。

ここで起きたのは発生ではなく標準化である。地域ごとにばらばらだった話が、活字と映像を通して全国共通の型に整えられた。三階、三番目、三回ノック。おかっぱ、赤いスカート。この定型が固まったことで、どの学校でも自校版に翻訳できるようになった。

水洗化が、手を殺した

ここからが本題だ。

怪談・都市伝説研究家の吉田悠軌が、この分野でいちばん切れ味のいい指摘をしている。要約すると、こうだ。

汲み取り式の便槽の穴は、直接に建物の外へつながっている。だからこそ、外から来た不審なものが穴を通じて便器の上の尻へ手を伸ばしてくる、という恐怖にリアリティが生じる。これが水洗式になれば、外と便所をつなぐ通路が消滅してしまう。

日本の水洗便所は一九五〇年代から普及しはじめる。だが学校施設では比較的遅く、旧校舎に汲み取り式が残存していた。そういう事情もあって、一九七〇年代まではかろうじて「手」の便所怪談が語られていた。だが一九八〇年代になると、便槽の下から手が伸びる怪談はほぼ絶滅する。

代わりに前面に出てきたのが「扉」と「問答」だ。一人きりで便器に座ったときの体験ではなく、便所のなかで友人たちと一緒に霊と交信しようとするコミュニケーション体験へ移行した。そして、そういう行動をするのは圧倒的に女子が多い。学校の便所はもはや清潔な水洗式で、各階に配置されている。自殺や殺人があった個室という設定にはリアリティがないので、「三番目の個室」という一般的な扉が選ばれる。

紫姑卜めいた交信をするのだから、声を待つのではなくこちらから呼びかける必要がある。となれば相手に名前がないと不便なので、これも一般的な「花子」と名づける。

見事に筋が通っている。水洗化という設備の変化が、怪異の位置と作法を丸ごと作り替えたわけだ。

ただし、完全に死んだわけではないのが厄介なところだ。常光徹自身が対談でこうこぼしている。「トイレが昔の汲み取り式と違って水洗式になった現代でも、いまだに下から手が出てくる話が多いのが不思議な気もします」と。相手をした伝承文芸学者の飯倉義之はこう返している。便器の穴の向こう、もしくは水の向こうというのは違う世界で、そこから妖怪が出てくるという想像力も働くのだろう、と。

穴が塞がれても、穴の記憶が残る。あるいは、水面という新しい境界が穴の役割を引き継ぐ。怪談は設備に縛られるが、設備に殺されきりもしない。

設備ごとに、怪異がどう位置をずらしたか

主要な便所怪談を、どの設備を前提にしているか一つずつ見ていこう。ここが本稿のいちばんの核心だ。

赤い紙・青い紙。前提は「紙がない」という状況である。汲み取り式の学校便所に紙が常備されていた例はほとんどない。子どもは自分でちり紙を持参するか、新聞紙やわら半紙を揉んで柔らかくして使った。持ってくるのを忘れれば詰む。

そこに声が降ってくるから怖いのであって、ホルダーに二巻きセットされた個室ではこの怪談は起動しない。

加えて、赤マント由来の系譜を引いている。そのため、声の出どころが上とも下とも特定されていない点も汲み取り時代の空間感覚に合っている。木の壁は隙間だらけ、天井は高く、便槽は外に通じている。どこからでも声は来た。

紙をくれ。これは対面性の怪談だ。紙のない個室で「紙をくれ」と声がする。渡すと手ごと引かれる。逆に、便器の中から「紙をくれ」と手が伸びてくる型もある。

異説として、上から紙を渡してはいけない、下から渡せば助かる、赤い紙しか受け取らない、といった細則が付く。この「上から」「下から」という指定は、個室の仕切りに上下の隙間がある構造を前提にしている。木造の便所の仕切りは上も下も大きく開いていた。

そして便器の中から手が伸びる型のほうは、言うまでもなく下が抜けている前提だ。

便器から伸びる手。汲み取り式の核心そのもの。白い手に足首をつかまれる、尻を撫でられる、引きずり込まれる。花子さんの最古層もここに属する。

水面に映る顔。これは和式水洗の時代の怪異である。和式便器には手前側に小さな溜水部があり、しゃがむと視界のすぐ下で水面が光る。この面積の小さい水たまりに知らない顔が映る、という話が成立するのは、汲み取りでもなく洋式でもない中間期だ。汲み取りには水面がなく、洋式では溜水が広く深く、しかも座ると自分の体で見えない。

天井から覗く顔。洋式化以後に増える型。洋式便器に座ると視線が上を向く。和式でしゃがんでいたときは下向きだった首が、上を向いた。それだけで怪異の待ち伏せ場所が変わる。

個室の天井、ドアの上端、隣室との仕切りの上。上を見たら顔があった、という話は、姿勢が変わったから生まれた。

三番目の個室。これは鉄筋コンクリート校舎の定型を前提にしている。戦後の小学校建築は一九五〇年代から鉄筋三階建てが標準化した。各階の端に便所が置かれ、個室が横一列に三つ以上並ぶ配置が全国で共通化した。屋外の別棟に二つか三つしか個室がなかった時代には「三番目」という指定が機能しない。

全国どこでも三番目が存在するようになったから、全国共通の怪談として流通できた。標準設計が標準怪談を作ったのである。

開かずの個室。使用禁止の札、板で塞がれた扉、鍵の掛かったまま開かない一室。これは設備の老朽化と修繕予算の不足そのものを反映している。壊れた便器がそのまま放置され、札一枚で封じられる。その札に子どもは理由を求め、理由を与えるのが怪談だ。

三時ババア、四時ババア。時刻と個室番号を掛け合わせる数字儀式型。特定の時刻に特定の個室へ入ると老婆が出る。これは設備よりも、放課後という時間帯の無人化に依存している。昼は満員、夕方は無人という学校の人口密度の落差が生む型で、だから設備が変わっても生き延びた。

学校の便所が「3K」と呼ばれた三十年

さて、怪談の側を離れて、現実の学校便所がどう扱われてきたかを見る。

一九九六年十一月、トイレ関連企業が集まって「学校のトイレ研究会」という組織が発足した。発足時の文書には、こう書かれている。住宅やデパート、オフィス、駅のトイレが改善されていくのに対し、学校のトイレはソフト・ハード両面で改善が進まない。校舎の老朽化もあって子どもたちから「5K」と揶揄されている、と。5Kは汚い、くさい、暗い、怖い、壊れている。

もともとは臭い・汚い・暗いの3Kで、そこに怖い・壊れているが加わった。

この「怖い」が公式の課題として挙げられているのが、なかなか味わい深い。怪談の舞台であることが、行政文書レベルで施設の欠陥として認識されているわけだ。

実態のほうも相当だった。二〇一〇年に、あるトイレ改修の前後で公立小学校の五、六年生百六十六人にアンケートを取った調査がある。「トイレへ行くのを我慢したことがある」児童にその理由を尋ねると、「トイレが汚くて臭うから」が最多、次いで「和式便器が嫌だから」「人がいると恥ずかしいから」。改修後は我慢する児童が二割減った。

さらに、「うんちをしているとからかわれる」という回答が改修前は七人いたのに対し、改修後はゼロになっている。

汚い密室で用を足すことで「あいつは汚いところを利用している」という認識が同級生のあいだに生まれ、からかいの連鎖が起きる。研究会の事務局長はそう分析している。男子トイレで大便をするのは恥ずかしいという奇妙な常識は、昭和の学校でもすでにあった。個室のドアの上から馬鹿にされ、ひどい場合は水をかけられる。

だから男子は学校で大便をしない、という不文律ができ、断水の朝に女子便所を見たら全個室に大便がしてあって衝撃を受けた、という回想まで残っている。女子には隠れる先がなかったということだ。

健康への影響も指摘されている。二〇一八年に日本小児栄養消化器肝臓学会に出席した医師を対象にした調査では、九割以上が学校でのトイレの我慢は体に悪影響を及ぼすと回答した。二〇二三年に洋便器率の高い自治体の公立小学校を対象に、こんな調査が行われた。便秘やそれに起因すると思われる腹痛の訴えで児童が保健室に来ることが「ある」と答えた学校が八十八・三%にのぼっている。

同じ調査で、トイレで課題に感じていることの一位は「トイレがくさい(湿式床)」の四十三・八%。最も課題に感じていることの一位は「洋式便器の数が足りない」の二十三・九%だった。

臭いの原因は和式便器そのものにもある。TOTO総合研究所の学校トイレ内の大腸菌汚染度調査では、一平方センチメートルあたりの大腸菌数が、和式便器まわりの床で八百二十CFU、洋式便器の下でわずか五CFU。和式は形状上、尿や便の飛散を防げない。加えて、水を流してブラシでこする湿式清掃は一見きれいになるが、濡れたまま放置することで菌を増やす。だから改修では洋式化と乾式化がセットで語られる。

洋式化率という物差しが、二〇一六年に生まれた

ここで押さえておきたいのは、国が学校トイレの洋式化率を把握しはじめたのが、驚くほど最近だということだ。

二〇一六年、国会で学校トイレの老朽化対策が問題になったとき、そもそも公立小中学校の洋式化の実態を文部科学省が把握していないことが判明した。これでは進捗の確認もできないというので実態調査が要請される。同年十一月十日、初めて「公立小中学校施設のトイレの状況調査」の結果が公表される。

平成二十八年四月一日現在。公立小中学校のトイレの全便器数は約百四十万個で、うち洋便器が約六十一万個、洋便器率は四十三・三%。和便器は約七十九万個で五十六・七%だ。洋便器のうち多目的トイレ等が約六万個だった。教育委員会の方針を聞き取ったところ、和便器より洋便器を多く設置する方針の設置者が全体の約八十五%だった。

この時点の都道府県格差がすさまじい。最高が神奈川県の五十八・四%、最低が山口県の二十六・七%。約二・二倍の開きがある。

次の調査は令和二年九月一日現在。小中学校の洋便器率は五十七・〇%で、四年間で十三・七ポイントの上昇。合計便器数は約百三十六万個とやや減っている(統廃合と個室の再編のためだ)。最高は富山県の七十九・三%で、四年間で二十五・〇ポイントも上げた。最低は島根県の三十五・三%。

東京都七十一・一%、神奈川県七十・五%に対し、大阪府は四十八・九%、山口県は三十七・一%。

都市部が一律に進んでいるわけではないのが面白い。

三回目は令和五年九月一日現在。小中学校の洋便器率は六十八・三%で、三年間でさらに十一・三ポイント上昇。全便器数は約百三十三万個、洋便器が約九十一万個、和便器が約四十二万個だ。幼稚園は八十二・〇%、特別支援学校は八十八・四%。和便器より洋便器を多く設置する方針の設置者は約九十二%に達した。

学校のトイレ研究会が二〇二四年度に実施した全国自治体アンケートでは、児童・生徒用トイレについて「すべて洋式化」「洋式が多い」の合計が七十五%。ただし床の乾式化は四十九%にとどまる。便器だけ和式から洋式に取り替え、床は湿式のまま残す改修が多いからだ。だから洋式化率が上がっても「くさい」は消えない。温水洗浄便座の設置は、バリアフリートイレでは五十六%だが、児童・生徒用では十五%。

家庭での普及率が八割を超えているのとの落差は大きい。

二〇二六年七月に公表された調査でも、「トイレ」が一位だった。児童・生徒のために改善が必要な場所として、公立小中学校の教職員の五十五%、高校の教職員の五十八%が挙げている。十年以上、この座は動いていない。

予算の話も少しだけ。トイレ改修に使える国庫補助として、工事費の上限七千万円を対象に三分の一を補助する「学校施設環境改善交付金」の大規模改造(トイレ改修)事業がある。ただ二〇一六年度当初予算では、自治体の申請に対して採択が大きく下回った。洋式化を含むトイレ改修への交付金が激減したとして、地方議員のネットワークが緊急声明を出す事態になった。

政府は二〇二〇年十二月、国土強靱化の中長期目標のうち公立小中学校トイレの洋式化率九十五%の達成時期を、当初の二〇三〇年度から二〇二五年度へ前倒ししている。

災害が、学校の便所の意味を変えた

洋式化を一気に押したのは、実は子どもの健康論だけではない。災害だ。

学校は避難所になる。二〇一六年の熊本地震では、熊本市だけで最大二百六十七か所の避難所が開設され、避難者は最大約十一万人にのぼった。市内全域で断水し、多くの避難所でトイレの洗浄水が断たれる。文部科学省がまとめた学校側への聞き取りには、生々しい記述が並ぶ。体育館内にトイレがないので屋外トイレを利用し、高齢者が往復するのに不便だった。

グラウンドで車中泊する避難者と共同で使うため行列ができた。

仮設トイレは二、三日目に十三基届いたが、全て和式で、高齢者から使いづらいとの意見があったのだ。

熊本市はマンホールトイレの整備計画を二〇一二年度に策定し、二〇一四年度から中学校への整備に着手していた。本震のあと、上下水道局の職員が整備済みの中学校四校に計二十基を設置する。洗浄水にはプールの水などを使い、ボランティアや学校関係者が協力した。利用者の評価は高かった。避難所の常設トイレも仮設トイレも和式が多いなか、マンホールトイレは便座が洋式で、しかも段差がない。

屋外に設置されるので靴の着脱が要らず、車中泊の避難者にも使いやすかった。

東日本大震災の宮城県東松島市矢本第一中学校では、マンホールトイレ九基を約九百人の避難者が使った。国土交通省のガイドラインは、マンホールトイレ一基あたりの使用想定人数を五十人としている。

そして、いちばん皮肉な事例がある。宮城県気仙沼市の松岩小学校だ。この学校は高台にあったため震災時に避難所として機能した。だが、耐震補強とトイレの水洗化を含む大規模改修が終わった直後の被災だった。水道が途絶え、水洗化したばかりの校舎内トイレがまったく使えない。

そのとき頼りになったのが、校庭に残っていた汲み取り式トイレである。平時と変わらず使えた。

夜は校庭に停めた車のヘッドライトで明かりを確保して使ったという。

このトイレは施設配置の都合でいずれ取り壊される予定だった。二〇一二年、そこに感謝しようという趣旨で、有志が掃除道具とペンキを持ち込み、汲み取り便所を塗り直すという活動が行われている。

下が抜けている、というのは、災害時には水が要らないということでもある。怪談を生んだ構造が、非常時には最強のインフラになる。この逆説は、けっこう長く噛んでいられる味がする。

昭和三十年代、木の壁の隙間から声がした

ここからは、世代ごとに設備が違うことがはっきり出る語りを並べる。いずれも投稿や回想として流通している話を、聞き書きの形に整えたものだ。真偽を保証するものではない。ただ、設備と恐怖の対応関係は正確に現れている。

昭和三十年代後半、中部地方の小学校に通っていたという男性の話。校舎は木造で、便所は渡り廊下の先の別棟だった。個室は横に四つ。仕切りは板張りで、上も下も大きく開いている。便器は直下式の全穴で、しゃがむと足のあいだに真っ黒い口が開いていた。

底は見えない。ハエ除けのために窓に金網が張ってあり、その網が古くて赤茶けていたので、便所全体がいつも薄暗かった。

紙は各自の持参だ。ちり紙を折り畳んでポケットに入れておくのだが、彼はしょっちゅう忘れた。忘れた日は、友だちが一枚くれるまで個室のなかで待つことになる。

ある日の放課後、掃除当番を終えて一人で便所に入った。紙を忘れていた。しゃがんで、そろそろ困ったなと思っていたとき、仕切りの向こう側から声がしたのである。誰もいないはずの隣の個室だ。

「赤い紙やろか、白い紙やろか」

女の声とも、男の声とも、老人の声ともつかなかった。彼は返事をしなかった。というより、声が出なかったのだ。しばらくして、板の隙間から白いものがすっと差し込まれた。紙だった。

ちり紙ではなく、もっと薄くて固い、障子紙のような手ざわりだったという。

彼はそれを掴まなかった。ズボンを上げて、拭かないまま走って出た。翌日、同級生に話すと「それ赤い紙青い紙だろ」と言われ、そのとき初めてその怪談を知ったのである。彼が生涯で怪談を先に体験して名前をあとから知った、唯一の出来事だそうだ。仕切りの下の隙間から差し込まれた白い紙の色だけは、六十年経ってもはっきり覚えている。

昭和五十年代、水洗になったばかりの校舎で「紙をくれ」

同じ町の、二十年あとの話。

昭和五十年代前半、校舎が鉄筋三階建てに建て替えられ、便所は各階の東端に移った。和式だが水洗である。個室は三つ。床は水色のタイルで、掃除のたびに水を撒いてデッキブラシでこする湿式だった。彼女が入学した年に建物が新しくなったので、旧校舎の汲み取り便所は使ったことがない。

その学校で語られていたのは「紙をくれ」だった。三階の便所、奥から二番目の個室に入っていると、誰かが外から扉を叩いて「紙をくれ」と言う。渡してはいけない。渡すと手ごと引っぱられる。どうしても渡すなら、上からではなく、必ず下の隙間から差し出さなければならない。

彼女が言うには、この「上から渡すな」という禁則がいちばん怖かった。新しい校舎の個室は、扉の上がかなり広く開いていた。背伸びをすれば上から覗ける高さだ。だから実際、男子が女子便所の扉の上から顔を出して驚かせるいたずらが横行していて、教師がしょっちゅう叱っていた。怪談の禁則が、現実のいたずらの構造をそのままなぞっていたわけだ。

六年生の秋、彼女はクラスの子と二人で放課後に居残っていて、その便所に入った。奥から二番目には入るな、というのは全校の共通認識だったので、彼女は一番手前を使った。もう一人が二番目に入ったのだ。

用を足していると、こつ、こつ、と扉を叩く音がした。彼女は隣の子だと思って「なに」と答えた。返事がない。もう一度、こつ、こつ。

「紙をくれ」

低い声だった。同級生の声ではない。彼女は反射的に、便座の脇に置いてあったポケットティッシュを、下の隙間から押し出した。上から渡すな、と教わっていたからだ。ティッシュは滑って、隣の個室のほうへ消えていった。

それきり音は止んだ。個室を出ると、二番目の扉は開いていて、同級生はもう手を洗っていた。「紙くれた?」と聞くと、きょとんとされた。彼女はティッシュなど受け取っていないし、扉を叩いてもいない、と。

二人で床を探したが、押し出したはずのティッシュはどこにもなかった。水を撒いたあとの濡れたタイルには、二人ぶんの上履きの跡しかなかったという。

一九九〇年代、体育館の脇に一棟だけ残っていた

奈良県のある小学校に通っていた女性の回想。校舎内のトイレはすでに水洗になっていたが、体育館の横に、木造の汲み取り便所が一棟だけ残っていた。使おうと思えば使えたので、探検がてら入る子はそれなりにいた。そして当然のように、幽霊が出ると噂されていたのだ。

六年生のとき、友だちと二人で見に行った。放課後すぐ、まだ昼間で、便所のなかは電灯が点くので暗くもなかった。だから完全に油断していたという。

何の前触れもなく、壁の木目が動いた。二、三秒だった。二人ともしばらく無反応で、彼女は「木目が動いた」と認めたくなくて、そのへんを見回すふりをしていたのだ。それから、どちらからともなく顔を見合わせた。友だちのほうが先に頷いた。

二人は悲鳴を上げて走り去ったのだ。

翌日の休み時間、五、六人で確かめに行った。木目が動いたあたりを見ると、その部分だけ、前とは明らかに違う模様に変わっていた。曲線と、色の濃淡だけで肖像画を描いたような模様だったという。一人が数秒キョトンとしてから「ひっ」と息を飲み、それがきっかけで全員また走って逃げた。電気を点けたままにしたので、あとで先生に怒られた。

それでも当時は「勝手に消えたりするよりマシだ」と思ったそうだ。

彼女の子どもが同じ小学校に入学するころには、その便所はもう取り壊されていた。怖がらせてはいけないと思って、木目の件は子どもたちに一切話していない。末の子が卒業するのを前に、ようやく自分もあの思い出から解放される、と彼女は書いている。少なくとも、いつか孫が生まれてまた同じように育つまでは、と条件をつけて。

木目が顔に見える、という現象自体はパレイドリアで説明がつく。ただ、木造の便所でしか起きないという点が重要だ。塗装された乾式の壁には木目がない。この怪異は、残った一棟の建材そのものに宿っていた。取り壊しと同時に、その怪異も物理的に消えたことになる。

令和、誰も座っていない便器が流れる

最後は新しい層の話。ある公立小学校で、二〇二〇年代に入って全面改修が終わったあとに出た噂だという。

改修後のトイレは明るい。床は乾式。便器はすべて洋式で暖房便座。手洗いは自動水栓だ。照明は人感センサーで、人が入ると点いて、しばらく誰もいないと消える。

ここまでは快適さの話だ。

噂になったのは、誰もいないのに水が流れる、という現象だった。放課後、掃除で誰もいないはずの時間に、個室のどれかが「じゃあ」と流れる。何度も起きる。不定期に起きる。子どもたちは当然、花子さんの新しい形だと言い合った。

改修で三番目の個室が三番目でなくなったから怒っているのだ、という説まで出たらしい。

種明かしをしてしまうと、これは設備の仕様である可能性が高い。長時間使用されない便器の封水は蒸発する。封水が切れると下水の臭気が上がってくるので、公共施設では一定時間ごとに自動で洗浄水を流すタイマー制御を入れることがある。センサー式の自動洗浄も、掃除の動きや光の反射で誤作動する。つまり「誰もいないのに流れる」は、臭わない便所を維持するための機能が正しく働いている音だ。

面白いのはここからで、この説明を知ったあとでも噂は消えなかったという。子どもたちは「タイマーだって聞いたけど、決まった時間じゃないときもある」と言う。実際、ランダムに流す設定にしている施設もあるから、その観察はたぶん正しい。

かつて怪異は、便器の下の穴という「外への通路」から来た。いま怪異は、制御プログラムという「見えない仕組み」から来る。ブラックボックスは穴の後継である。手が引っ込んだ場所に、システムが入ってきた。

消えた設備が、なぜ怪談だけ置いていったのか

まとめに入る前に、数字をひとつ置いておきたい。

教育社会学者の吉岡一志が、現代の学校の怪談を集めた資料を使い、怪異の出現場所を集計した調査がある。トイレが圧倒的に多く、実数で百五十三件、全体の二十八・三%。次が特別教室の十五・七%、教室が八・九%、通路が八・五%、体育館が六・三%、運動場が五・七%。音楽室は単独では七・二%、理科室は三・三%しかない。

学校の怪談といえば理科室の人体模型、というイメージがあるが、数のうえでは便所が二位以下を突き放している。

さらに面白いのは、トイレを舞台とする百五十三件のうち、場所が細かく限定されているものが百六件、六十九・三%に達することだ。二階の男子トイレのいちばん奥、新館のトイレ、北校舎の男子トイレ、体育館の裏の便所、プールのトイレ。どこのトイレでも出るわけではない。特定の一室にだけ出る。

吉岡はここから、常光徹が示した「トイレは境界空間だから怪異が出る」という民俗学的説明に留保をつけている。境界だから出るのなら全部のトイレに出るはずだが、実際にはそうならない。むしろ、条件を細かく設定しやすい建築だから怪異を置きやすいのではないか、と。

この読みは、設備史から見ると非常に納得がいく。個室が並び、階が分かれ、棟が分かれ、番号が振れる。学校の便所は、子どもが日常的に使う施設のなかでいちばん「座標を指定しやすい」場所なのだ。三階の、三番目の、という指定ができるからこそ、避けることもできる。避けられるから、怖がることが遊びになる。

そしてもうひとつ。怪談には安全教育の代替機能があったという見方も無視できない。汲み取り便所は実際に危険だった。子どもが落ちれば死ぬ。日本国内でも家庭の便槽への転落死は起きていたし、いまも汲み取り式が残る国では学校で同じ事故が起きている。

二〇一四年に南アフリカのリンポポ州で五歳の男児が学校の汲み取り式トイレの踏み板が壊れて転落した。四時間後に遺体で見つかった事件は、二〇一九年に最高控訴裁が教育当局に賠償を命じて広く報じられた。父親は、遺体発見時に「助けを求めるかのように汚物の中から片手が突き出ていた」と語っている。

便所から出る手の怪談を数十年ぶん読んだあとにこの証言を読むと、ちょっと言葉に詰まる。子どもが怖がっていたものは、比喩ではなかった。

設備は消えた。便器の下の穴は埋められ、床は乾き、扉は隙間を失い、水は自動で流れる。汲み取り便所を使ったことのない世代が、もう教員のなかにも多い。二〇一六年度時点の非水洗化人口は約六百九十万人、二〇二一年時点の非水洗化率は四%。汲み取りに対応した便器や便槽を製造する企業も数社しか残っていない。

なのに怪談だけが残った。三番目の個室は、その個室に何の由来もなくても三番目であり続ける。水面に顔が映るという話は、溜水の形が変わっても語られる。下から手が出るという話は、下に何もなくなっても語られる。

たぶん理由はこうだ。便所という場所の条件のうち、設備で変えられるのは臭いと明るさと清潔さだけで、変えられないものが二つ残っている。ひとつは、そこで人が服を脱いで無防備になること。もうひとつは、そこが共同空間のなかで唯一、鍵をかけて一人になる場所だということ。

明るくして乾かして暖めても、個室の鍵をかけた瞬間、あなたは大勢のいる建物のなかで一人だけ切り離される。学校という、集団でいることを強制される場所において、それは強烈な断絶だ。厠神が産と死の両方に関わる神だったのも、結局はそこに行き着く。古い伝承が便所を「ある秩序から別の秩序へ移行するのを媒介する、破壊と同時に生成を兼ねた極めて両義的な空間」と捉えたのも同じだ。

だから怪談は、設備が変わるたびに死んで、そのつど作り直される。手が使えなくなれば扉を使い、扉が隙間を失えば天井を使い、天井が塞がれればセンサーを使う。素材はいくらでも入れ替わる。核だけが動かない。

もし三十年後、学校の便所が全個室個別空調のブースになって、生体センサーで健康状態まで記録するようになったとしても、たぶん誰かが言い出す。三番目のブースだけ、記録に残らない時間があるらしい、と。

そうやって続いていくのだろう。便器の下の穴は、もうどこにもないのに。

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