- 蛇口に口をつけるのは、あの頃たしかに犯罪だった
- 発端は明治37年の一冊――「水抜き油抜き」という魔法の言葉
- 貝原益軒から陸軍戸山学校まで、禁水を支えていた三本の柱
- 戦後、それは「制度」として全国に配られた
- うさぎ跳びは、なぜ「効く」と信じられていたのか
- 汗が出て、血が減って、脳が煮える――熱中症の生理学
- 数字が語っていたこと――43年で170件、種目1位は野球
- 裁判所が一つずつ、言葉にしていった
- 「あの夏、自分たちは何をさせられていたのか」――四つの証言
- 潮目を変えたのは、青い缶と一冊のガイドブックだった
- 令和のグラウンドは、どこまで変わったのか
- 体育館裏に立っている、白い体操服の話
- なぜ、この指導は数十年も生き延びたのか
- それでも、体育館にはまだ空調がない
蛇口に口をつけるのは、あの頃たしかに犯罪だった
グラウンドの端に、コンクリートの流し台がある。上に蛇口が四つか五つ、横一列に並んでいる。夏の昼過ぎ、そこから出る水はぬるくて、鉄の味がする。おいしくはない。
でも、当時のあの水は、たぶん世界でいちばんうまい飲み物だった。飲めないからだ。
昭和の運動部にいた人なら、ほぼ全員が同じ景色を持っている。炎天下のグラウンド。汗が目に入って痛い。口の中がねばついて、唾を飲み込もうとしても唾が出ない。視界の端がチカチカする。
その状態で、あと十本のダッシュが残っている。そして、水道は使えない。使ったらどうなるかというと、怒鳴られる。運が悪ければ殴られる。運がもっと悪ければ、連帯責任でチーム全員が走らされる。
これ、比喩じゃないんだよな。全国紙の系列誌が2025年に30代から70代の男女500人にアンケートを取ったら、「今思えばおかしかった部活の謎ルール」の第1位が「練習中に水を飲んではいけない」だった。埼玉の57歳の男性は「野球部だったが、バテるからという理由で水は厳禁。当時はそれが当たり前だったのが恐ろしい」と答えている。高知の70歳の女性は「ソフトボール部で練習中の水は禁止。
ボールを拾いに行くふりをして蛇口にかぶりついた」。
拾いに行くふり。この一語がすべてを言っている。水を飲むという、生き物として当たり前の行為が、当時の日本の学校では隠れてやる違反行為だった。
そして、この違反行為を取り締まった結果、子どもが死んだ。日本スポーツ振興センターの災害共済給付のデータをもとにした集計がある。学校の管理下で熱中症により死亡した事例は、1975年から2017年までの43年間で170件だ。そのうち145件が運動部活動中だ。9割が男子で、7割が高校生。
1年生と2年生に多い。
170人。43年。単純に割れば年に4人ずつ、夏のグラウンドと体育館と剣道場で、子どもが死に続けていた計算になる。
この記事は、その「水を飲むな」がどこから来て、なぜ何十年も生き延びて、どうやって終わりかけているのかを、年代と数字と判決文で追いかける話だ。うさぎ跳びの話もする。しごきと体罰の話もする。そして最後に、その記憶が学校の怪談にどう染み出しているかの話もする。
長くなる。でも、この話は短くすると必ず嘘になる。
発端は明治37年の一冊――「水抜き油抜き」という魔法の言葉
まず出所をはっきりさせておく。
「運動中に水を飲むな」という指導の、文献上のはっきりした起源として現在いちばん有力視されているのは、武田千代三郎という人物が明治37年。つまり1904年に出した『理論実験競技運動』という本だ。初出は1902年、雑誌『教育界』の連載だったとされる。日本のスポーツ指導書の元祖みたいな一冊である。
武田千代三郎は、体育の専門家ではない。法学士だ。守備範囲がやたら広い人で、東京大学予備門の英語教師だったストレンジという人物から欧米のスポーツ理論を学び、その死後に自分でまとめて本にした。その中で武田がとくに重視したのが、「水抜き油抜き」というトレーニング法だった。
内容がすごい。体内の余分な水分を排出して絞ると、まず汗の量が減る。次に血液の濃度が上がって、多くの酸素を取り込めるようになる。だから心臓の負担が大きく軽くなる。よく訓練された競技者が激しい運動中でも心拍数が落ち着いている。
長時間リズムを乱さずに動けるのは、まさにこのためである、と。
現代の目で見ると、ほとんど呪術だ。血が濃くなれば酸素を運ぶヘモグロビンの数が増えるわけではないし、脱水で血が濃くなったら心臓の負担はむしろ跳ね上がる。まるで逆である。でも当時これは「最新の科学」の顔をしていた。ここが重要なところで、この指導はオカルトとして広まったんじゃない。
科学として広まったんだよな。
しかも武田は、この訓練に精神的な意味づけまで丁寧に用意している。この鍛練は極度の意力を要するもので、容易なことでは出来ない。もしよくその苦に耐え得たならば、その人は見事に己れに克ち得た人である。競技場で自分より優れた者に出会って敗れても、少しも恨むところではない。だいたいそういう趣旨のことを書いている。
水を我慢できた人間は、負けても立派である。この一文が百年生き延びた。
さらにややこしいのは、武田の「水抜き油抜き」がもともと何だったかという点だ。あれは競技の「前」に行う減量と調整のトレーニングであって、競技の「最中」に水を飲むなという話ではなかった。国際日本文化研究センターの牛村圭教授は、武田が下敷きにした原典が1813年にイギリスで出版された指導書であることを明らかにしている。
しかも原典では3週間から4週間かけて週1回やる訓練だったものを、武田は1週間毎日連続でやるものに改変しているという。
つまり、輸入の時点ですでに濃縮されていた。そしてその後、日本のグラウンドで、いつのまにか「前」が「最中」にすり替わった。誰がすり替えたのかは、正直よく分かっていない。
貝原益軒から陸軍戸山学校まで、禁水を支えていた三本の柱
武田だけが犯人かというと、そうでもない。
この分野で基礎になっている研究に、坂本ゆかりという研究者の一連の仕事がある。宮下充正、木下秀明といった体育史の研究者と連名で、1980年代前半に日本体育学会で報告されている。「運動時の水分摂取をめぐる史的背景」が1983年、修士論文の『身体運動時の水分摂取量に関する史的考察』が1984年だ。
坂本は明治以降の運動生理学書、運動衛生学書、体操書、体育書。そして生理衛生書と軍隊関係の書物まで洗い出して、運動時に水分摂取が禁止または制限されてきた理由を8つに分類している。
脱脂脱水による鍛練のため。多飲の害を防ぐため。冷水の害を防ぐため。鍛練により水分と塩分の代謝を合理化するため。水だけでは体内にとどまれないため。
精神的鍛練のため。水の節約のため。そして伝染病の防止のため。
この並びを眺めていると、この習慣が一つの起源から生えたものじゃないことが分かる。少なくとも三本の柱がある。
一本目は、江戸から続く養生思想だ。貝原益軒の『養生訓』には、飢えや渇きにまかせて一度に多く飲食すれば脾胃をやぶり元気をそこなう、という趣旨のことが書いてある。明治初期の翻訳修身教科書もこれに乗っている。『泰西勧善訓蒙』が明治4年、『修身論』が明治7年。どちらも飲食を節することが徳であるという話で、運動とは関係がない。
体育関係の図書の最初とされる『体育新書』は明治12年、リーランドという御雇外国人の講義を久松義典が筆記したものだが。そこには運動後すぐに冷水を飲んだり食事をしたりするな、と書かれている。ただしこれは胃腸病を招かないようにという予防医学的な話で、運動に役立つとかそういう話ではまったくない。明治13年の『高山氏小学生徒心得』にも似た記述がある。
二本目が、武田由来のトレーニング理論。これは吉田章信の『運動生理学』(大正5年、1916年)に引き継がれる。吉田の本には、飲料を制限するとともに強く発汗させる発汗法を行う、といった記述がある。その一方で、過度な発汗によって過度に体重を減らすのは健康上有害である、とも書いてある。一応ブレーキは踏んでいるのだ。
そのブレーキが現場に伝わらなかっただけで。
三本目が、軍隊だ。昭和8年から9年、つまり1933年から1934年にかけて。歩兵の戦技と体育教官の育成を担っていた陸軍戸山学校で、節水行軍研究というものが行われている。無水行軍研究とも呼ばれる。ここで求められたのが何かというと、「少量たりとも飲水する時は、兎角意志薄弱と成り易きを以って、最後まで一滴も飲水せざる様堅き決心」だ。
一滴も飲むな。飲んだら意志が弱くなる。
坂本はこの研究について、戦争という特殊事態がもたらした時代的要請の産物である。節水をそのまま運動中の飲水制限に結びつけることはできない、と慎重に留保をつけている。そのうえで、軍隊と密接にかかわって発展してきた過去の体育とスポーツの歴史を振り返る。ここで培われた精神は今なお、その影響を払拭しきれないでいる。坂本はそう書いている。
「旧日本軍が大陸で腹を下したから」説の検証
ネット上でよく流れている説がある。旧日本軍が行軍中に勝手に川や水たまりの水を飲んで赤痢やチフスになり、部隊で感染症が広がった。だから「行軍中に勝手に飲むな」という教えができて、それが退役軍人経由で学校に持ち込まれた、という話だ。
これはツイッター発の与太話ではない。ちゃんとした体育学研究者が昔から書いている。新体育社の『新体育』1980年7月号に「運動中の水分摂取の是非について」という記事がある。執筆者は順天堂大学の石河利寛教授だ。石河はこう推定している。
日本は明治の日清日露以来、第二次大戦に至るまで事あるごとに中国大陸に出兵していた。
大陸は天然の水が悪く飲用に適さない場合が多い。
したがって滞在中は水をむやみに飲まないようにし、行軍時にも水筒の水を節約することが大切な心掛けだったにちがいない。それがスポーツにも適用されたのではないか、と。
ただしこれは石河自身が「私は自分なりにつぎのように推定している」と断ったうえでの推定で、史料の裏付けがあるわけではない。学術的に有力なのはやはり武田起源説のほうだ。とはいえ戸山学校の節水行軍研究の存在を見れば、軍が影響を与えた可能性はそれなりにある。要するに、養生思想と輸入トレーニング理論と軍隊の精神主義が、三方向から同じ一点に収束してしまったというのが実態に近い。
ちなみに、これが日本だけの珍現象かというと、そうでもない。1943年に発表された欧米の論文で、ジョンソンという研究者が「水分摂取は有害であるという憶説に基づいて作業中に水分摂取を制限する習慣が古くから確立されている。だが、これは鍛錬や精神力を養うという理由では正当化されるかもしれないけれども、生理学的な立場からいえば全くの誤りである」と書いている。
1943年の時点で、すでに欧米でも「あれは間違いだ」と名指しされていたわけだ。
ただ、筑波大学体育系の真田久教授のように、日本特有の考え方だったと見る研究者もいる。欧米では軍隊という限定的な場に残ったものが、日本では学校体育という全国民を通す装置に接続されてしまった。この違いはかなり大きいと思う。
戦後、それは「制度」として全国に配られた
戦争が終わっても、この教えは死ななかった。むしろ配布ルートが強化された。
理由は単純で、教師になったのが軍隊経験者だったからだ。教育行政に長く関わった義家弘介氏は、戦後に学校部活動が始まったとき体育系には軍国教育の名残が色濃く反映された、と述べている。戦時中の少年たちは規律と根性論をベースにした軍隊式の訓練を受けてきた。当然、訓練中に水を飲むなんてことは許されない。そんな世代が教師になり部活の顧問になれば、体罰ありの軍隊式指導が普通になってしまう、と。
戦地で覚えた軍隊式のやり方が、子どものしつけに手っ取り早いという理由で持ち込まれる。マラソンも遠足も明らかに無理のある距離とスケジュールだったのは、そのせいだ。体育の授業が整列と行進から始まるのも、元をたどれば同じところに行き着く。
そして1964年、日本中が「根性」に酔った
戦後の根性論に決定的な燃料を注いだのは、東京オリンピックだ。
1953年11月27日、大日本紡績株式会社の貝塚工場に女子バレーボールチームを編成することが決まり、大松博文が監督に就任する。翌1954年3月15日にチームが発足。日紡貝塚、のちのニチボー貝塚である。1960年の世界選手権でソ連に次ぐ2位、1961年のヨーロッパ遠征で連勝を重ねて「東洋の魔女」と呼ばれ、1962年のモスクワでの第4回世界選手権でついにソ連を破って優勝した。
単独チームとして1959年から6年間無敗、175連勝。そして1964年10月23日、東京の駒沢で、日本はソ連を破って金メダルを獲る。
このチームがどういう練習をしていたかというと、選手は午前中に社業に従事し、午後3時から深夜1時、2時まで練習する。朝までおよぶことも珍しくなかった。大松が打ち込むスパイクを受け続け、動けなくなってもさらに打ち込まれる。あまりの過酷さに、会社の労働組合が抗議したという記録まで残っている。
大松自身の言葉が残っている。ソ連に勝つためにソ連の1倍半の練習を課した。精神鍛練こそがアマチュアスポーツの本来の目的であり、世界制覇はその副産物である。バレーにヒーローはいらない、精神力でしっかり支えられた6つの歯車がガッチリかみ合ってさえいればいい。この精神力、すなわち根性が大切なのだ。
勝たねばならぬと考える前に、まずやらねばならぬとする根性。
これはいわば人間の限界を超えた苦しい練習に鍛えることによって培われる。
そして大松は本を書く。『俺についてこい!』が1963年、『なせば成る』が1964年。前者は1965年のベストセラーになり、同じ年に映画化までされた。
ここで起きたのは、根性論の全国配布だ。金メダルという圧倒的な成功例とセットで、「人間の限界を超えた苦しい練習」という処方箋が、日本中の中学校と高校の体育館に届けられた。そこにスポーツ根性ものの漫画とドラマが乗る。1980年代半ばには不良少年たちが熱血教師とラグビーで更生していくテレビドラマが大ヒットして、部活動に居場所を見出す生徒がたくさん生まれた。
同時に、部活からも落ちこぼれる生徒もたくさん生まれた。
公平を期して言うと、大松の指導には体罰がなかったという証言が複数ある。選手たちは彼を「先生」と呼び、深い信頼関係があったとも語っている。問題は、その信頼関係の部分は輸出されず、練習量と「根性」という単語だけが全国にコピーされたことだ。信頼関係がないところで同じことをやったら、ただの暴力になる。実際そうなった。
うさぎ跳びは、なぜ「効く」と信じられていたのか
水と並んで、あの時代を象徴するのがうさぎ跳びである。
膝を深く曲げてしゃがみ込み、手を後ろで組んで、そのまま前に跳ねて進む。グラウンド一周。階段の上り下り。昭和の人間なら『巨人の星』を連想する人も多いだろう。
うさぎ跳びはもともと口伝で広まったもので、戦前の学校教育と軍隊の教練で行われていた。戦後も長いあいだ筋力トレーニングの定番だったのは、理由がある。器具が揃えづらい時代に、自重だけでできたからだ。バーベルもマシンもない中学校のグラウンドで、明日から誰でも始められて、しかも死ぬほどきつい。指導者にとっては理想的なメニューに見えた。
潮目が変わったのは1972年のミュンヘン五輪あたりからだ。筋肉量を重視する考え方が入ってきて、うさぎ跳びによる故障の報告も相次いだ。スポーツ科学と医学の側から、これはダメだという声が出はじめる。
1978年、静岡の中学校で15人の脚が折れた
そして決定的な事件が起きる。
1978年の夏。静岡市内の中学校の野球部で、夏休みの練習が行われていた。顧問はスパルタ教育の代名詞のような教師で、生徒たちの間でも恐れられていた。この日、部員の動きが悪いと見た顧問は「気合が入ってないぞ」「集中しないなら練習する意味がない」と怒鳴り、うさぎ跳びを命じる。
部員たちはグラウンドのベースをうさぎ跳びで回りはじめた。一周するだけで疲労困憊だ。夏の暑さも相まって、ほとんど拷問である。しかし顧問はそのまま続けさせ、最終的に20周以上回らせた。この日、部員たちが跳んだ距離はおよそ2200メートル。
約3時間、一切の休憩を許さず、水分補給もさせなかった。
数日後、一人の部員が激痛を訴えて倒れる。検査の結果は、膝下の外側にある腓骨の疲労骨折だった。調べてみると、けがをしていた部員は15人にのぼった。
この事件は新聞で大きく報じられたのだ。読売新聞は1978年9月10日の紙面で、うさぎ跳びの禁止を文部省が検討していると伝えている。そしてこの事故をきっかけに、うさぎ跳びの安全性がはじめて本格的に調査された。
何が分かったか。うさぎ跳びで着地すると、腓骨に体重が一気にかかって、弓の弦のようにたわむ。とくに腓骨の上のほう、膝に近いところが大きくたわむ。数回なら問題にならなくても、3時間続ければ、針金を何度も折り曲げては戻すのと同じことが骨の中で起きる。実際、疲労骨折していた部員のほぼ全員が、同じ場所を折っていた。
さらに、膝を深く曲げたまま跳ぶため、膝の皿とすねの骨をつないでいる腱が跳ぶたびに強く引っ張られ、骨との接着部分の軟骨が剥がれる。オスグッド・シュラッター病だ。成長期の子どもにとっては、骨格の成長そのものを損なうおそれがある。
膝関節への圧縮力も尋常ではない。深く曲げた状態での跳躍は、膝の皿、膝蓋靭帯、半月板に、通常のスクワットをはるかに超える圧縮力を生じさせる。加えて、深く屈曲したまま下肢の筋肉が強く圧迫されるので筋内圧が急上昇し、一時的に血流が阻害される。あの独特の、脚が焼けるような強烈な疲労感の正体はこれだ。指導者はその疲労感を「効いている証拠」だと解釈していたわけだが、実際には酸素が届いていないだけだった。
1970年代末には、うさぎ跳びが疲労骨折の原因になることはスポーツ医学界の定説になる。海外から合理的なトレーニング方法の知識が入ってきたこともある。1980年代以降は各所で禁止が呼びかけられ、1990年代末にはほとんど見られなくなった。
ただし、面白いというか呆れる話がある。文部科学省の学習指導要領は、2002年の時点でうさぎ跳びを推奨も禁止もしていない。つまり法令でバツがついたわけではないのだ。消えたのは、あくまで医学的知見と世間の空気によってである。
そして完全に消えたわけでもない。2017年、鳥取県の県立高校の野球部で、監督が1年生16人にグラウンド整備を怠った罰としてうさぎ跳びを命じた事案がある。止める指示を出さなかったため、うさぎ跳びは1週間以上にわたって毎日1時間から3時間続き、一人が両膝をけがした。監督は2年間の謹慎処分と減給を受けている。
ここで注目してほしいのは「罰として」という部分だ。うさぎ跳びが生き残っていたのはトレーニングとしてではなく、罰としてだった。指導者が生徒を痛めつける手段として、いちばん手軽で、いちばん言い訳が立つからである。これは水の話とまったく同じ構造をしている。
汗が出て、血が減って、脳が煮える――熱中症の生理学
ここで、体の中で何が起きているかを一度きちんと押さえておきたい。読み物として分かる形で書く。
人間は、動くと熱くなる。筋肉が収縮するとき、エネルギーの大部分は仕事ではなく熱になる。激しい運動をしていると、20分から30分で体温を4度上昇させるだけの熱が体内で発生する。4度である。平熱36度台の人間の体温が40度を超えるのに、それだけの時間しかいらない。
だから体は必死に熱を捨てる。捨て方は主に二つ。皮膚の血管を広げて血液を体表に回し、そこから空気へ逃がす方法。そして汗をかいて、蒸発するときの気化熱で奪わせる方法だ。
ここで最初のトラップが発動する。皮膚に血液を回すということは、筋肉と内臓に回す血が減るということだ。しかも汗をかけばかくほど、血液そのもののボリュームが減っていく。体重の2パーセント分の水を失うと、もうパフォーマンスは落ちはじめる。循環する血が減ると、心臓は同じ量を送るために回転数を上げるしかない。
脈が速くなる。それでも足りなくなると、血圧が維持できなくなる。立ちくらみ、失神。これが熱失神だ。
汗と一緒に出ていくのは水だけではない。ナトリウムをはじめとする電解質も出ていく。ここで水だけをがぶ飲みすると血液が薄まって、こむら返りが起きる。これが熱けいれん。逆に飲みすぎると低ナトリウム血症という別の危険もあって、実際に2002年のマラソン大会で、水の飲みすぎと診断された女性の初心者ランナーが亡くなった事例がアメリカで報告されている。
だから水分補給は「たくさん飲め」ではなく「適切に飲め」なのだが、この話は後で出てくる指針の中身に関わってくる。
問題は、その先だ。
汗も血流も追いつかなくなると、放熱の仕組みそのものが破綻する。深部体温が上がり続ける。40度を超えたあたりから、中枢神経がやられはじめる。これが熱射病、なかでも運動中に起きるものを労作性熱射病と呼ぶ。
労作性熱射病の症状は、外から見ると「サボっているように見える」のが最悪にたちが悪い。錯乱、奇妙な行動、ふらつき、運動失調。竹刀を落としたのに気づかず構えの仕草を続ける。呼びかけへの返事がずれる。まっすぐ歩けない。
頻脈と頻呼吸。そして皮膚は、汗で湿っていることもあれば、乾いていることもある。「汗が止まったから熱中症ではない」は完全な誤りで、むしろ汗が止まるのは終盤のサインだ。
体温が上がったままの時間が延びると、細胞が壊れはじめる。壊れた細胞から放出される物質が免疫細胞を刺激して、炎症性サイトカインが一気に増える。血管の内側の壁が傷つき、血液が固まる仕組みが暴走して、播種性血管内凝固症候群という状態になる。ここまで来ると、肝臓も腎臓も肺も心臓も、順番に倒れていく。多臓器不全だ。
筋肉が溶ける横紋筋融解症も高い頻度で合併する。
どれくらい時間的余裕があるか。研究によれば、中枢神経の障害を伴う深部体温40度以上の状態が30分以上続くと、予後が悪化しはじめるとされている。逆に言えば、30分以内に深部体温を39度以下に落とせれば、救命の確率は跳ね上がる。スポーツや軍の訓練中に発生した労作性熱射病で、十分な速度の冷却がされた患者の生存率が100パーセントだったという報告もある。
その「十分な速度の冷却」とは何か。第一選択は冷水浸漬、いわゆるアイスバスだ。10度から15度の氷水を張った浅いプールや桶に、全身を浸ける。頭やはみ出た手足は氷水に浸したタオルで冷やす。冷水が循環するように水をかき混ぜる。
これが最も効率がいい。次点が蒸散冷却で、全身の皮膚を水で濡らして強力な送風を続ける方法。冷水浸漬のおよそ半分の速度とされるが、気道確保や点滴と並行できる利点がある。
日本救急医学会の『熱中症診療ガイドライン2024』は、2015年版になかった「Ⅳ度」という最重症のカテゴリを新設した。深部体温40.0度以上かつ意識レベルが極めて低い状態。これに該当したら、とにかく積極的な冷却を含めた集学的治療を早急に開始しろ、という考え方だ。ガイドラインでは、氷水に浸けるにせよ体表を濡らして扇ぐにせよ、何らかの方法で身体を冷やす行為をひとまとめの用語として整理し直した。
涼しい部屋で休ませるのは、冷やしたうちに入らない。
ここで、昭和のグラウンドを思い出してほしい。倒れた生徒は、どこに運ばれていたか。日陰である。木の下か、体育館の壁際か、保健室のベッドか。水をかけて、うちわで扇いで、様子を見る。
「休ませておけば戻る」。
医学的には、それはほとんど何もしていないのと同じなんだよな。時計だけが回っていた。
なお、2024年の時点でも、日本ではプレホスピタル。つまり病院に着く前の段階で直腸温を測ることが一般に医療行為とされている。アスレティックトレーナーや救急救命士の応急処置の範囲に入っていない。国際基準では、現場で直腸温を測り現場で氷水に浸けるのが標準なのに、である。
東京の大規模国際大会では、二種類の桶を用意する。1390ミリメートル掛ける670ミリメートル掛ける270ミリメートルのもの。それに大柄な選手用として、2000ミリメートル掛ける1000ミリメートル掛ける500ミリメートルのものだ。最初に30キログラム前後の氷を投入して水温を10度近くまで下げ、そのあとも10キログラムから20キログラム単位で氷を足し続ける体制を組んだ。
それくらいやらないと維持できない。
つまり、ちゃんとやろうとすると氷と水と人手がめちゃくちゃ要る。昭和の部室に、そんなものは一つもなかった。
数字が語っていたこと――43年で170件、種目1位は野球
日本スポーツ振興センターは、学校の管理下で起きた災害に対して災害共済給付を行っている。医療費、障害見舞金、死亡見舞金の三本立てだ。この給付データが、そのまま日本の学校事故の巨大な記録になっている。
そのデータから見える熱中症死亡事故の姿は、かなり鮮明だ。
1975年から2017年の43年間で170件。内訳は、運動部活動が145件、学校行事のスポーツが21件(登山、長距離徒歩、マラソンなど)、その他が4件(通学中2件、農園実習、保育中)。
性別は9割が男性だ。学年は7割が高校生で、1年生と2年生に集中している。そして7割が肥満だった。
運動部活動145件の種目別内訳が、また示唆的だ。野球が36件で圧倒的に多い。次いでラグビー17件、柔道14件、サッカー13件、剣道11件。山岳10件、陸上8件、ハンドボール7件。バレーボール4件、バスケットボール4件、アメリカンフットボール4件、その他17件だ。
屋外は野球、ラグビー、サッカー。屋内は柔道、剣道。
厚い防具や道着を着る競技が上位に来ているのが分かる。
そして種目に関わらず、発生状況として最も多いのはランニングだ。持久走と、ダッシュの繰り返し。
時間の話もえぐい。運動開始から発症までの時間を見ると、4割は2時間以内。30分で発症した例もある。1時間以内の発症はランニング中が多い。つまり「まだ始まったばかりだから大丈夫」という感覚は、まったく当てにならない。
そして発症から死亡までの時間は、6割が24時間以内である。
環境条件については、気温25度から30度でも湿度が高ければ発生している。1975年から1990年の86例を分析した研究でも同じ傾向が出ている。「今日はそこまで暑くないから」という判断が、何人も殺している。早朝や夕方の発生例もある。梅雨明けの7月下旬から8月上旬が最も多い。
近年の数字も見ておこう。学校現場の熱中症は、小中高を合わせると毎年5000件程度の医療費給付が発生している。記録的な猛暑だった2018年度には7000件を超えた。高等学校等と高等専門学校だけを取り出してみる。2020年度から2024年度の5年間で、医療費の発生件数が計7447件。
そのうち体育的部活動中が4667件を占めている。
死亡のほうは、はっきり減った。報道機関が学校事故のデータを分析した。すると、2005年度から2022年度までの熱中症死亡事故は28件で、うち18件、6割以上が高校生の運動部活動中だったのだ。43年で170件という過去のペースと比べれば、明らかにブレーキがかかっている。ゼロにはなっていない。
だが、確実に減った。
何が減らしたのか。それが次の話だ。
裁判所が一つずつ、言葉にしていった
この国で「水を飲ませずに走らせるのはダメだ」という常識が定着するまでには、いくつもの裁判が要った。遺族が訴え、裁判所が判決文の中で、やってはいけないことを一つずつ言語化していった。時系列で追うと、その積み上がり方がよく分かる。
1970年、長野の合宿所で
私立高校のラグビー部が、1970年7月20日から5泊6日の予定で夏合宿に入った。参加は部員15名とOB5名。引率教諭は顧問1名のみで、この顧問自身はラグビーの経験がなかった。技術指導はほとんどOBの大学生と上級生に任されていた。
OBのリーダー格は極めて厳しい指導方針で、部員各自の体力差を考慮せず、練習中は休憩らしい休憩も取らせなかったのだ。疲労で一時的に意識を失う者が出ても、「気つけ」と称する行為をして練習を続行させた。隣のコートで練習していた大学の同好会から見ても、当時の暑さを考えれば明らかに体力の限界を超えているように見える。事故当日などは凄惨ともいえる異様な雰囲気だったという。
7月23日。前日までの3日間は連日晴天で風もなく、この日も午前中から30度を超える炎暑だった。午前9時ごろ、1年生部員の15歳の少年が、練習中に突然倒れて意識もうろうとなる。「気つけ」をされたあと、グラウンド脇の小屋に運ばれた。20分ほど休んで「大丈夫」と答えたので、顧問は練習に戻るよう促す。
少年は立ち上がった直後にふらついたが、グラウンドに戻った。
午前11時ごろ、少年だけ動きが鈍いという理由で、OBの一人からマンツーマンで特訓を受け、再び倒れる。起き上がれず、また小屋に運ばれた。
そのあと全体の練習が打ち切られ、OBが全員を小屋の前に並べて説教を始めた。少年は小屋の中で寝かされていたが、顧問から「立てるなら立ってみろ」と言われ、列に加わるよう促される。腕を地面について立ち上がろうとした瞬間、左肩から崩れるように倒れ、コンクリートの角に頭を打った。仲間に支えられてどうにか列に加わったが、手を離すとへなへなと倒れてしまう状態だった。
顧問は、ただごとではないという気はしたが、単に疲労がこうじたものとしか考えなかったのだ。水道の水で頭を冷やし、少し寝かせた程度である。そして生徒2人に付き添わせ、肩を借りて宿舎まで帰るよう指示した。少年は2人の肩にもたれかかって、炎天下を約900メートル歩いたすえに全身けいれんを起こして意識を失う。病院に運ばれたが手遅れで、午後5時15分ごろ死亡した。
この事案は業務上過失致死として刑事裁判になり、東京地裁の判決を経て、1976年3月25日に東京高裁が破棄自判している。
900メートル。炎天下を、肩を借りて。読むたびに息が止まる。
1990年代、民事裁判が連続する
1990年代に入ると、民事の損害賠償請求で学校側の責任を認める判決が続く。
松山地裁の1994年(平成6年)4月13日判決。高校1年の女子バスケットボール部員が練習中に熱中症を発症し、心不全で死亡した事案だ。この生徒は2度も倒れていた。にもかかわらず、ただちに救急車を手配して診察を受けさせなかったことに過失が認められ、市に3000万円の賠償が命じられた。ここで使われた枠組みが「予見義務」と「結果回避義務」で、この事案は結果回避義務違反を理由としている。
静岡地裁沼津支部の1995年(平成7年)4月19日判決。私立高校のラグビー部2年生が夏合宿の練習中に熱中症を発症し、多臓器不全で死亡した。裁判所は、本人の体調不良を認めた時点でただちに休ませず、水分を補給させるなどの措置を怠った監督の注意義務違反を認定した。学校法人と監督に約5100万円の賠償を命じたのだ。私立だったため、監督個人にも賠償責任が生じている。
神戸地裁の2003年(平成15年)6月30日判決は、読むのがきつい事案だ。1999年7月27日、兵庫県内の市立中学校のラグビー部で、早朝練習中に中学生が熱中症を発症した。当日のWBGTは推定で午前6時台が24.28度、7時台が24.68度、8時台が25.64度、9時台が26.77度。注意ないし警戒が必要な水準である。
この生徒は練習当初から体調の異常を示していた。動きが悪いことを理由に、顧問は懲罰的なキックダッシュを2回も行わせている。生徒は足先を指さして「先生、足が痛い」と訴えた。胸ぐらをつかまれて引き起こされそうになったときには、普段は使わないぞんざいな言葉で「嫌や」と言って顔を背けた。
遅くとも午前7時30分ごろには、自力で歩行することもできず、体に力が入らずぐったりし、呼吸が荒く、目も半開きになっていたのだ。裁判所は「通常人の注意力をもってすれば容態が悪いことは極めて容易に認識できたはずである」と認定している。
顧問は何をしたか。仮病を使って練習を怠けていると頭から決めてかかり、「しんどいふりしてもあかんぞ」「通用せんぞ」「何でやろうとせんのや」「14年間でこんなやつ見たことないぞ」「演技は通用せん」と、筋違いの叱責を繰り返した。介抱は見学者に委ねて放置。午前8時40分、目をつむったまま「アーアー」と言うだけでぐったりしている生徒を見てもなお、膝を背筋に当てて伸ばす以外に積極的な措置を講じていない。
保健室に運んだのは、そのあとだ。生徒は翌28日午後6時41分、熱射病による多臓器不全で死亡した。
裁判所は顧問の一連の行動を「あまりにも無思慮かつ軽率」と断じた。午前7時30分の時点で適切な救護措置を採っていれば、死亡を回避し得た蓋然性は高い、とも認定している。市には国家賠償法1条1項に基づく賠償義務が認められた。
ただし、顧問個人への請求は退けられた。理由は「公務員だから」である。この壁については後で書く。
2007年のテニスコート、2011年のグラウンド
2007年5月、兵庫県立高校のテニス部で、キャプテンになったばかりの女子生徒が練習中に突然倒れ、心停止で救急搬送された。低酸素脳症により重い意識障害が残り、寝たきりで24時間の介護が必要な状態になった。
この日、顧問は出張で練習にほとんど立ち会っていない。定期試験期間で10日ほど部活が止まっていた直後に、通常より長く密度の高い練習メニューをメモで指示していた。当日は定期試験の最終日で、生徒たちが試験勉強で十分な睡眠を取れていない可能性を顧問も認識していた。初夏で、コート内の気温は30度前後になると見込まれ、日陰はなく、生徒は帽子をかぶっていなかったのだ。
一審の神戸地裁は、熱中症だったとすら認めず、練習内容も「過酷で厳しいものとは言い難い」として請求を全面的に退けた。
これをひっくり返したのが、大阪高裁の2015年(平成27年)1月22日判決だ。高裁は熱中症だったと認定した。そのうえで、あらかじめ指示・指導すべき義務があったと判断した。練習に立ち会えず、部員の体調変化に応じた指導ができない以上、通常よりも軽い練習にとどめる。休憩時間を設けて、十分な水分補給をする余裕を与える。
そういう義務である。
それをせず、通常より長く密度の高いメニューを指示し、水分補給についての特段の指導もせず。そのための十分な休憩時間も設定していなかった。よって義務違反である、と。
兵庫県に命じられた賠償額は約2億3000万円。2015年12月、最高裁が県の上告を退けて確定した。
もう一つ。2011年6月6日、徳島県阿波市の県立高校で、野球部の2年生男子生徒が練習中に倒れた。29度以上あったグラウンドで、100メートル走50本の練習中だった。練習は午後4時ごろに始まり、午後6時ごろに倒れたのだ。病院に運ばれたが、7月3日に多臓器不全などで死亡した。
一審の徳島地裁は2014年3月、「生徒に具体的な熱中症の兆候が表れていたとは認められず、監督に過失はなかった」として請求を退けた。
高松高裁は2015年5月29日、これを覆す。生徒が100メートル走を繰り返してけいれんを起こして倒れたと認定する。「監督にはダッシュを続行させた過失がある。意識が混濁した生徒の状況から熱中症と判断して応急措置を取るべき注意義務も怠った」と判断。県に約4500万円の賠償を命じた。
2016年1月、最高裁が県の上告を退けて確定している。
もうひとつ、毛色の違う判決を紹介しておきたい。ある市立中学校のバドミントン部で、中学1年生が部活動中に熱中症になり、それが原因で脳梗塞を発症した事案だ。裁判所は、熱中症と脳梗塞の因果関係を認めたうえで、責任を負うべきは顧問ではなく校長だと判断した。理由は、校長がWBGTを計測する器材を設置していなかったからである。
器材があれば顧問はその数値をもとに練習の中止や軽減を検討できたはずで、器材がない状態で適切な判断をするのは困難だった。だから顧問に具体的な注意義務違反はなく、器材を置かなかった校長に過失がある、と。校長側は「当時多くの中学校に温度計を置く実態はなく理想論だ」として控訴したが、高裁で棄却された。
温度計を置いていなかったことが、学校長の過失になる。この判断が出たこと自体が、時代の変わり目を示している。
そして、8年かけて開けられた穴
2009年8月22日、大分県立竹田高校の剣道場で、剣道部の主将だった2年生の男子生徒が倒れ、その日のうちに亡くなった。享年17。死因は熱射病による多臓器不全である。
この事案は、日本の部活動事故の歴史の中でも特異な位置にある。
その日、練習は午前9時から始まっていた。練習場の気温は36度に達していたという。午前10時ごろに給水があったが、各自コップ2杯程度。この剣道部には日頃から「次の練習に響かないように水分補給は少なめに」という誤った認識があった。午前10時半ごろから打ち込みが始まり、途中でトイレに嘔吐しに行く部員がいた。
熱中症の症状である。顧問は、戻ってきたその部員を案じるどころか竹刀で叩いた。
やがて指導は主将一人に集中していく。一人で練習させられ、合格かどうかを他の部員全員の挙手で決めるというやり方が取られた。合格とした部員には顧問が「どこが良いのだ」と詰め寄るので、誰も挙手できなくなる。
主将は徐々にふらつき、繰り返し壁にぶつかるようになった。竹刀を落としても気づかず、構えの仕草を続けた。これは見当識障害だ。ひざまずいて「もう無理です」と訴えた。顧問は「きついふりをするな」と怒鳴り、「演技じゃろうが」と腹を蹴った。
倒れた生徒にまたがり、往復ビンタのように10回ほど平手打ちしたのだ。
倒れてから顧問が救急車を呼ぶまで、24分かかっている。搬送先の病院で測った体温は、病院の体温計で計測できる上限の42度を振り切っていた。午後6時50分ごろ、死亡が確認された。
遺族は、事故の4日後から動き出したのだ。父親が菓子折りを持って部員の家を一軒ずつ訪ね、親御さんが同席する中で録音しながら聞き取り、母親がそれを一つひとつ文字に起こす。我が子が倒れ、暴力をふるわれる様子を、他人の口から繰り返し聞かされる作業だ。証言してくれる部員の中には、話しながら泣き出す子も、「話せません」と口を閉ざす子もいた。それでも証言を集め続けた。
学校事故では時間が経つほど記憶が薄れる。
この早い動きが、のちの裁判を大きく支えることになる。
大分地裁は2013年3月21日に判決を出した。顧問には、竹刀を落としたのに気づかず構えの仕草を続けるという行動を認識した時点で、ただちに練習を中止させ、救急車を要請する。応急措置として適切な冷却を取るべき注意義務があった、と認定。副顧問についても、異常行動が認められた際に顧問を制止して練習を中止させるべき注意義務があった、とした。
さらにこの判決は、搬送先の病院の医師の過失も認めている。熱射病は発症から20分以内に体温を下げられれば確実に救命し得る反面、時間が経てば死に至る可能性が高い。だから熱射病を疑った時点でただちに四点冷却や全身冷却など効果の大きい冷却措置を取るべきだったのに、搬入から約2時間もの間それを実施しなかった、と。
大分県と豊後大野市に、連帯しての賠償が命じられた。
ところが、顧問個人と副顧問個人の賠償責任は認められなかった。理由は国家賠償法である。同法1条1項は、公権力の行使にあたる公務員が職務上他人に損害を加えたとき、賠償するのは国または公共団体だと定めている。公立学校の教員は公務員だ。だから、どれだけ理不尽な指導で子どもが死んでも、支払うのは自治体である。
つまりは税金であって、当の教員は金銭的な責任を問われない。
私立学校なら民法709条で個人責任を問えるのに、公立なら問えない。刑事のほうも、暴行と熱射病の因果関係が弱いとして不起訴になっていた。
2015年7月、最高裁が両親の上告を退け、県などに約4600万円の支払いを命じる判決が確定した。教員個人への請求は退けられたままである。
ここで両親は、賠償金を受け取らなかった。そして、新しい訴訟を起こす。
使ったのは、国家賠償法1条2項だ。公務員に故意または重大な過失があった場合、国や自治体はその公務員に求償できる、という規定である。両親は大分県の住民として、県が元顧問らへの求償権の行使を怠っているのは違法だと主張した。地方自治法に基づいて違法確認と求償権行使の義務付けを求めた。
2016年12月22日、大分地裁は元顧問の重過失を認め、県に対して元顧問へ100万円の支払いを請求するよう命じたのだ。県は控訴。2017年10月2日、福岡高裁は控訴を棄却し、一審を支持した。
高裁の判断が鋭い。医師でない顧問に熱射病そのものの正確な認識を求めるのは不合理である。問題は、熱射病を疑うべき症状を認識できたかどうかだ。生徒は打ち込み稽古中に竹刀を払い落とされても気づかず構えを続けており、見当識障害を示していた。顧問はこれを演技と決めつけて指導を続けたのだから、重過失がある、と。
事故から、8年である。
公立学校の部活動をめぐって顧問個人に賠償責任を負わせた、全国で初めてとされる司法判断だった。国家賠償法という分厚い壁に、ようやく小さな穴が一つ開いた。
なお、この事案にはもう一つ後日談がある。2022年、この裁判の第一審の記録が廃棄されていたことが明らかになった。永久保存とされる特別保存に指定されていた記録である。廃棄された中には、父親が苦しい思いをして聞いて回った部員たちの証言も含まれていた。2023年6月13日、両親は最高裁を訪れ、廃棄の経緯の説明を受けた。
最高裁は謝罪し、記録の復元を検討していることを明らかにしている。
学校で、裁判で、そして記録の廃棄で。息子は3度殺された、と父親は語っている。
「あの夏、自分たちは何をさせられていたのか」――四つの証言
制度と判決の話ばかりしていると、当時の手触りが抜け落ちる。だから、その時代を通った人たちの言葉を並べておきたい。
蛇口にかぶりついた70歳の女性
高知県在住の70歳の女性が、アンケートに答えてこう書いている。所属していたソフトボール部では、練習中に水を飲むのは禁止だった。夏の炎天下、ボールを拾いに行くふりをして、水道の蛇口にかぶりついたことがある。
この「ふり」の技術は、当時の運動部員が全国で独自に発明していた共通言語みたいなものだ。飲みに行くのではなく、業務の流れで偶然そこを通る。手を洗うふり。顔を洗うふり。ボールを取りに行くふり。
バケツに水を汲むふり。そして一瞬だけ、蛇口に口をつける。
一瞬しかないから、ちゃんと飲めない。だいたい50ミリリットルとか100ミリリットルとか、その程度だ。しかも生ぬるい。喉の粘膜が湿るだけで、脱水はまったく解消していない。それでも、その数秒のために全員が知恵を絞っていた。
彼女はいま70歳だ。半世紀たっても、蛇口にかぶりついた記憶のほうが、試合の記憶より鮮明に残っているらしい。
上級生だけが水を飲める中学校
昭和の中学校でバレーボール部にいた女性の回想は、もっと構造的な話をしている。
その学校のバレー部は、一見すると平和な弱小校だった。しかし内部には、顧問の指示とは無関係に、生徒の間で受け継がれた「伝統」があった。その最たるものが、「下級生は水を飲んではいけない」という掟である。
真夏の練習でも容赦がない。休憩時間になると上級生は一目散に蛇口めがけて水を飲みに行く。一年生は乾いた喉で、粘り気のある唾液を飲み込むことしか許されない。耐えきれず、トイレに行くふりをして手洗いの水道の水を飲んでいた。あのときのぬるい水の味は、今でも忘れられないという。
支配は校外にも及んだ。一年生と二年生は、町で先輩を見かけたら、100メートル先であっても足を止め、直立不動で「こんにちはーっ」と絶叫するのがルールだった。
そしてある猛暑の日、彼女の視界がぐにゃりと歪む。地面がせり上がってくる感覚とともに、埃っぽい地面に崩れ落ちた。熱中症だった。真っ先に駆け寄ってくれたのは、かつて顧問を務めていた女性教諭で、その人は「ごめんね、助けてあげられなくて。誰か、水持ってきて」と言いながら、なりふり構わず介抱してくれたという。
もう一人の、実績のある「鬼」と呼ばれる教師は、遠くで不機嫌そうに腕を組んでいた。
ここで注目したいのは、水禁止のルールが顧問の指示ではなかった点だ。生徒同士で継承されている。つまりこの掟は、大人が押しつけなくても勝手に走る自動装置になっていた。去年されたことを、今年は自分がする。何のためかは誰も知らない。
ドブ川と、草むらに隠した瓶
1969年夏の甲子園決勝。延長18回を投げ抜いて0対0の引き分け再試合を演じた投手がいる。名前を残しているその元プロ野球選手が、当時をこう振り返っている。
練習中に水も飲んだらいけない時代だった。よくグラウンド裏の細いドブ川のようなところで、水をこっそり飲んだりした。瓶や缶に水を入れて裏の草むらに隠しておいて、ファウルになったらバーッと走っていって、球を拾うふりをして飲んだりしたのだ。いろいろやりましたけど、まあ、それで結果も出ましたしね。
ドブ川である。全国レベルの投手が、ドブ川の水を飲みながら甲子園で投げていた。
ちなみに彼の高校では、夜のノックで「心で見て捕れ」と言われ、試合では腹にタオルを入れて「当たってでも出ろ」と言われていた。逃げたら怒られる。漫画の世界みたいだったけどチームは強くなりました、と当人は言う。「今、振り返ったらムチャクチャだったなあ」とも言っている。
似た証言はいくらでもある。中学の登山行事で「水を飲むな」と言われた人。部活のランニングが辛すぎて、毎日転んだふりをして田んぼの水をがぶ飲みしていたという先生。柔道部の部室の横にあったシャワー室で、顔を洗うふりをして水を飲もうとして先輩に見つかり、柔道着を着たままシャワーを浴びせられた人だ。1970年代の高校の運動部で、夏合宿中に脱水症状を起こした人。
そして、こういう証言もある。中学の部活で軽い脱水症状を起こし、日陰で休んで水を飲んだら怒鳴られた。このまま続けたら死ぬと直感して、部活そのものを辞めた。そしてこの「水を飲んだら怒鳴る」という行為は、やる気のない部員を辞めさせるための手法としてもよく使われていた、と。
水は、脅しの道具にもなっていたわけだ。
水を飲ませていた側の話
最後に、逆方向の証言も入れておきたい。
1970年代、徳島の池田高校を率いていた監督は、練習中の給水が禁止されていた時代に、ベンチにアメリカ製のスポーツドリンクを置いていた。スピードガンも導入していた。夏季の練習では、当時としては珍しく1時間単位で休憩を入れていたと、教え子は記憶している。1980年にポカリスエットが発売されると、部員が飲むものはそちらに変わっていったという。
同じ教え子が覚えているのは、雨のグラウンドの光景だ。雨が午前中で止むと、このままでは放課後までにグラウンドが乾いてしまう。乾いたら練習だ。だから三年生が一年生に指示して、昼休みにグラウンドに水を撒かせる。そうすると午後の授業が自習になる。
ふと外を見ると、監督が一人でスポンジを使って水を抜いていた。
たぶん、誰かが水を撒いたことに気づいていたと思うんです。それでも黙って水を抜いてました、とその教え子は言う。
同じ時代に、同じ競技で、まったく違うことをやっていた指導者がいた。つまり、あの時代の指導が全部「仕方なかった」わけではない。知っている人は知っていたし、やる人はやっていた。ここは強調しておきたいところだ。
潮目を変えたのは、青い缶と一冊のガイドブックだった
制度が変わる前に、飲み物が変わった。
1980年4月、味が薄くて誰も買わなかった缶
アメリカには先行例がある。1965年、フロリダ大学のアメリカンフットボールチームの協力のもと、スポーツ生理学者のロバート・ケード教授らが開発したのがゲータレードだ。開発の動機は、フットボール選手が脱水症状で死亡する事故が1965年だけで20件近く起きていたことだった。人間の体液に近い浸透圧にして、発汗で失われる電解質を補給する。
1967年の大会で、これを公式に使ったチームが優勝したことで、スポーツドリンクの効果が知られるようになる。
日本でも1970年に大正製薬が販売権を取って発売しているのだが、わずか1年で撤退した。原因は味だったと推測されている。
そして1980年4月、大塚製薬がポカリスエットを発売する。245ミリリットル缶で120円。当時コカ・コーラの250ミリリットル缶が100円だったから、割高だ。しかも味が誰も経験したことのないものだった。ひと言でいえば、まずいと言われた。
青い缶も不評だったのである。当時の飲料業界では「青は売れない」が常識だったのだ。
開発のきっかけは、研究員がメキシコ出張中に激しい下痢で脱水になった経験と、手術後の医師が水分補給のために点滴液を飲んでいるのを見た記憶だったという。「飲む点滴」というアイデアである。
そして何より、当時の日本はスポーツ時の水分補給がタブーとされていた時代だった。売る相手のいる市場そのものが存在しなかった。
大塚製薬がやったのは、力技である。社員が総出でサウナ、野球場、銭湯、あらゆる「汗をかく場所」に出向いて、冷やしたポカリスエットを無料で配りまくった。買い物帰りの主婦にも声をかけた。初年度に配った本数は3000万本。そして発売から2年目の夏、爆発的にヒットした。
これが何を意味するか。日本の学校のグラウンドに「水分と電解質を補給する」という概念を物理的に持ち込んだのは、教育行政でも医学界でもなく、サンプリングで配り歩いた飲料メーカーの営業だったということだ。
大塚製薬は1992年、まだ「熱中症」という言葉すら浸透していない時期に、企業として初めて日本体育協会への協力を開始している。
1991年の研究班と、1994年の運動指針
そして、指針ができる。
当時、熱中症を予防するには、予防の原則を具体的にどうスポーツ活動に適用すればいいのかが問題になっていた。諸外国にはいくつか指針があったが、日本では責任ある団体がそうした指針を示したことがなかった。
そこで1991年、日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)が「スポーツ活動における熱中症予防に関する研究班」を設置する。班長は川原貴。事故の実態調査、スポーツ現場での測定、運動時の体温調節に関する基礎研究を幅広く進めた。
その成果をもとに、1994年、「熱中症予防のための運動指針」が発表された。『スポーツ活動中の熱中症予防ガイドブック』が発行されたのだ。このガイドブックは大塚製薬の支援を受けて版を重ね、その後の改訂を経て、累計で膨大な部数が現場に配られている。2019年には6年ぶりの改訂も行われた。
この指針の核が、WBGTという指標である。湿球黒球温度。最近では「暑さ指数」と呼ばれる。もともとはアメリカの軍隊で、新兵訓練中の熱中症を減らすために提案された指標だ。
計算式はこうなっている。WBGTイコール0.7掛ける湿球温度、プラス0.2掛ける黒球温度、プラス0.1掛ける乾球温度。乾球温度というのが普通の気温、湿球温度が湿度を反映したもの、黒球温度が直径15センチの銅球で測る輻射熱だ。そして湿球温度と黒球温度には気流の影響も反映される。だから、WBGTは気温、湿度、輻射熱、気流の4要素すべてを取り込んだ指標ということになる。
係数を見てほしい。気温の重みが0.1で、湿度の重みが0.7だ。7倍である。
これが、あの時代の指導者が絶対に持てなかった知識だった。「今日はそんなに暑くないから大丈夫」という判断は、気温しか見ていない。学校管理下の熱中症死亡事故が気温25度から30度の日にも発生していたのは、湿度が高かったからだ。温度計だけ見ていたら永久に分からない。
指針の中身はこうだ。WBGTが31度以上では、特別の場合以外は運動を中止する。とくに子どもの場合は中止すべき。28度以上では熱中症の危険性が高いので、激しい運動や持久走など体温が上昇しやすい運動は避ける。運動する場合は頻繁に休息を取り、水分と塩分を補給する。
体力の低い人、暑さに慣れていない人は運動中止。25度以上では積極的に休息を取り、激しい運動では30分おきくらいに休息を取る。
21度以上では熱中症による死亡事故が発生する可能性があると明記されている。21度未満でも、市民マラソンなどでは熱中症が発生するので注意、と。
水分補給についても、ただ「飲め」ではない。体重減少が体重の2パーセント以内におさまることが目安で、適量は運動強度、体の大きさ、気象条件で大きく変わるから一律の数字では表せない。運動中に自由に水分を補給できる環境を整えることが大切で、喉のかわきに応じて自由に補給すれば適量になる。マラソンでは1時間あたり400ミリリットルから800ミリリットルが目安。
「水を飲むな」から「自由に飲める環境を整えろ」まで、90年かかった。
令和のグラウンドは、どこまで変わったのか
2018年7月17日、教室には扇風機が4台あった
2018年は、日本の暑さの歴史に線を引いた年だ。
7月17日、愛知県豊田市。市立小学校の1年生4学級112人が、午前10時前に学校を出て、約1キロ離れた公園へ校外学習に向かった。虫取りや遊具遊びをして、午前11時30分ごろに学校へ戻る。この日の市内の最高気温は37.3度。朝から高温注意情報が出ていた。
午前10時時点の暑さ指数は32で、「運動は原則中止」の水準を超えていた。
帰校後、6歳の男児が「疲れた」と訴えたのだ。担任は教室の風通しのいい場所で休ませた。しかし体調は急速に悪化し、唇の色が白くなり、約20分後に意識を失う。搬送されたが、その日の午後に死亡が確認された。死因は熱射病だった。
男児がいた教室に、エアコンはなかったのである。扇風機が4台あっただけだ。豊田市内の小中学校と特別支援学校104校は、一部の特別教室を除いて扇風機しかなかった。当時、愛知県内で空調が整備されていた小中学校は2017年4月時点で27.8パーセント。香川県の92.3パーセント、東京の84.5パーセントと比べると、明らかに遅れていた。
校長は記者会見で「判断が甘かったと言われてもしようがない」と謝罪する。翌日には全校集会で児童たちに「大事な命を守れず、本当に申し訳ない。校外学習を中止できず、判断が甘かった」と述べた。
市が設置した第三者調査委員会は、2019年3月5日に報告書を公表した。指摘されたのは、教員に熱中症の知識が不足していたこと。暑さ指数に応じて運動の中止や見直しをする危機管理マニュアルの作成指示がなく、学校にマニュアルがなかったこと。熱中症に関する校内研修を実施しておらず、情報が提供されても活かされなかったこと。研修がなされていれば、児童の言動が熱中症の可能性を示すものだと認識できたはずだ、と。
子どもは体調不良の表現として「疲れた」の一語しか使わないことがある、という指摘も報告書に盛り込まれている。
この年、文部科学省は7月19日までに全国の教育委員会などに熱中症対策の徹底を要請する事務連絡を出した。そして2018年度の補正予算で、学校への冷房設備を整備するための臨時特例交付金が組まれる。
その結果が数字に出ている。公立小中学校等の普通教室の空調設置率は、2024年9月1日時点で99.1パーセント。前回調査の95.7パーセントから3.4ポイント上がった。特別教室は68.7パーセント。
問題は体育館だ。2024年9月時点で22.1パーセント、2025年5月時点で22.7パーセントである。しかも地域差が凄まじい。東京都が92.5パーセントである一方、佐賀県は0.8パーセント、岩手県0.8パーセント、長崎県1.2パーセント、沖縄県2.1パーセント。
真夏の体育館がどういう場所かは、バレーやバスケや剣道をやった人なら分かると思う。屋根が焼けて、風がなく、湿度が逃げない。熱中症死亡事故の種目別内訳で、屋内競技である柔道14件と剣道11件が上位に食い込んでいたのを思い出してほしい。屋内だから安全、ではまったくない。そしていま、その体育館の8割近くに空調がない。
「水を飲ませずに走らせる」が公式に体罰になった日
制度面での大きな転換は、2018年3月だ。
スポーツ庁が「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」を策定・公表した。中身は主に活動時間と休養日の話である。学期中は週2日以上の休養日を設ける。平日は少なくとも1日、週末は少なくとも1日以上。1日の活動時間は、長くとも平日は2時間程度、休業日は3時間程度。
長期休業中も学期中に準じて、一定のオフシーズンを設ける。
この根拠になったのが、2017年12月18日に日本体育協会が示した「スポーツ医・科学の観点からのジュニア期におけるスポーツ活動時間について」だ。行き過ぎたスポーツ活動はスポーツ外傷・障害やバーンアウトのリスクを高め、体力・運動能力の向上にはつながらない。休養日を少なくとも週1日から2日設けること、週あたりの活動時間の上限は16時間未満とすることが望ましい、と。
背景には、身も蓋もない数字がある。2017年度の調査では、1週間に1日も休んでいないと答えた生徒が11.2パーセント。休みが1日のみと答えた生徒を含めると、約70パーセントに達していた。
ただ、このガイドラインで個人的にいちばん重要だと思うのは、時間の基準ではない。「体罰等の許されない指導と考えられるものの例」として挙げられた項目のほうだ。
殴る、蹴る等。社会通念や医・科学に基づいた健康管理、安全確保の点から認め難い、または限度を超えたような肉体的・精神的負荷を課す。その具体例として、こう書かれている。
長時間にわたっての無意味な正座・直立等、特定の姿勢の保持や反復行為をさせる。相手の生徒が受け身をできないように投げる。まいったと意思表示しているにもかかわらず攻撃を続ける。防具で守られていない身体の特定の部位を打突することを繰り返す。そして。
熱中症の発症が予見され得る状況下で水を飲ませずに長時間ランニングをさせる。
国が、公式文書で、これを体罰と名指しした。2018年である。武田千代三郎の本から114年、陸軍戸山学校の節水行軍研究から85年かかった。
ガイドラインにはもう一つ、こういう一文がある。「これらの発言や行為について、指導者と生徒との間での信頼関係があれば許されるとの認識は誤りです」。あの時代の全弁明を、一行で封じている。
体罰そのものへの包囲網も、この少し前に築かれていた。2012年12月23日、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将だった2年生の男子生徒が、顧問から受けた体罰を苦に自ら命を絶った。自殺の数日前に顧問あてに書かれた手紙が自宅に残っている。厳しい指導と体罰を受けていること、体罰が自分に集中している状況をつらく感じ、キャプテンの交代を悩んでいることが書かれていた。
同じ時期、女子柔道の日本代表でも指導者による選手への暴力が表面化する。
2013年4月25日、日本体育協会、日本オリンピック委員会、日本障害者スポーツ協会、全国高等学校体育連盟、日本中学校体育連盟の5団体が「スポーツ界における暴力行為根絶に向けた集い」を開き、「スポーツ界における暴力行為根絶宣言」を採択した。
宣言は暴力行為を身体的制裁だけではない。言葉や態度による人格の否定、脅迫、威圧、いじめ、嫌がらせ、セクシュアルハラスメントまで広く定義した。そのうえで、「暴力行為が指導における必要悪という誤った考えを捨て去る」と明記している。
文部科学省は全国実態調査を実施した。平成の後期になっても、無意味な正座を長時間させるケースがあった。一人が失敗したら連帯責任で全員がグラウンドを10周走る。そういう指導が多く残っていたという。
令和の現在地
その後の制度は、けっこうな速度で動いている。
熱中症警戒アラートは2020年に関東甲信で試行され、2021年度から全国で本格運用になった。暑さ指数の予測値が33以上になった場合に発表される。観測史上最も暑かった2023年は、初めて全国58の府県予報区すべてで発表された。延べ発表回数も1232回と過去最多になった。
2023年に気候変動適応法が改正され、2024年4月に全面施行。これによって熱中症警戒アラートは法律上の「熱中症警戒情報」として位置づけられ、さらに上の「熱中症特別警戒情報」が新設された。通称、熱中症特別警戒アラート。都道府県内のすべての情報提供地点で翌日の日最高暑さ指数が35に達すると予測される場合に発表される。運用開始は2024年4月24日。
発表されると、市町村長が指定した冷房設備のある施設、いわゆるクーリングシェルターが一般に開放される。
高校野球も動いた。2023年夏の大会から、5回終了時に10分間の「クーリングタイム」が導入された。水分補給と身体の冷却のための時間だ。そして2024年、第106回大会で、大会史上初めて朝夕の2部制が導入された。開幕から3日間、1日3試合の日に限定して、午前の部と夕方の部に分ける。
決勝の開始時刻は、前年の午後2時から午前10時に繰り上げられた。
100年以上続いている大会で初めての取り組みだ、と日本高野連の事務局長は述べている。第1試合で足がつるなどの症状を訴える選手が散見されたことから、早朝の起床で朝食が十分に取れていない低栄養が原因と指摘された。第1試合に出る2校には主催者が試合前に補食を提供することまで決まった。
部活動そのものの枠組みも変わりつつある。2022年12月に運動部と文化部のガイドラインが統合され、2023年度から2025年度が「改革推進期間」とされた。2025年5月の最終とりまとめを受けて、2025年12月に新しいガイドラインが策定された。2026年度から2031年度までの6年間が「改革実行期間」と位置づけられたのだ。「地域移行」という呼び名は「地域展開」に変更されている。
休日については、この期間内に原則すべての学校部活動で地域展開の実現を目指す、とされた。活動時間の基準も、週あたり11時間程度の範囲内、という形で数値がより明確になった。
顧問の教師が、専門外の競技を無報酬に近い形で、夏休みも返上して見る。あの構造自体が、いま静かに解体されつつある。
体育館裏に立っている、白い体操服の話
さて、ここからは別の話をする。
学校の怪談には、やたらと「走っているもの」が出てくる。これ、気づいている人はけっこういると思う。
夜のグラウンドを走り続ける足だけの幽霊。誰もいないクレーコートから聞こえる走る音。廊下の東端から走ってきて西端の非常階段に消え、しばらくするとまた東端から現れる、ただそれだけの存在だ。実際にそれを見た人は「陽炎を人の形に集めたような感じだった」「悪意も敵意も恨めしさも一切感じなかった。本当に、ただ走っているだけのもの」と語っている。
こういう型の話には、たいてい後日談がついている。事故で亡くなった陸上部の先輩だとか、マラソン大会で倒れた生徒だとか。ある寮の怪談では、消灯後の午前2時ごろ、第二グラウンド横の外周路を一定のペースで走る足音が聞こえるという。窓から見ても人影はない。録音しても録れない。
そして、雨の日だけは聞こえない。
雨の日だけ聞こえない、という設定が秀逸だと思う。なぜなら、雨なら大会は中止だからだ。雨だけが、彼にとって「休んでいい理由」になる。
もちろん、これは創作の怪談かもしれない。でも、こういう話の型が全国の学校で自然に生成され続けていること自体が、記録なんだよな。子どもたちは「走らされて死ぬ」という出来事を、集合的に知っている。誰も授業では教わっていないのに、知っている。
体育館裏にも、決まった住人がいる。ある中学校には、こんな噂があった。夜になって体育館の裏に行くと、少年の幽霊が出る。話しかけられても無視しろ。一緒に話したら、あちらの世界に連れて行かれる。
部活の大会前で練習が長引き、迎えを待っていた2人がその場所に行ってみると、本当に人影がある。近づくと自分たちと同じくらいの年齢の子で、白い半袖シャツに白い短パンを履いていた。3人で少し話した。
次に気がついたときは病院だったのだ。2人とも体育館の裏で倒れているのを見つかったという。検査では異常がなく、過労だろうと言われた。後に学校の古いアルバムを見る機会があり、あの子が着ていたのは一世代前の体操服だったことが分かった、という話である。
白い体操服。体育館の裏。この配置は、あまりに出来すぎている。体育館の裏というのは、あの時代のグラウンドで唯一まともに日陰ができる場所だった。そして、倒れた生徒が運ばれて寝かされる場所でもあった。
水飲み場の怪談もある。小学校の体育館の横にある水飲み場で、蛇口には全部ひょうたんのマークが刻印されている。それは飲用に使える印だという共通認識が子どもたちの間にあった。ところが一つだけ、数字の「2」と刻印されたものが混ざっている。それが噂を呼んで、誰もその蛇口からは水を飲もうとしなかった。
ある日、転校生がそこから水を飲んでしまい、というやつだ。
この型がいい。「この蛇口からは飲んではいけない」という禁が、大人の指示ではなく子どもの間から自然発生している。さっき紹介した、上級生から下級生へ受け継がれた「水を飲んではいけない」という掟と、構造がそっくりだ。理由は誰も知らない。ただ、飲んではいけない。
別のバージョンでは、旧校舎の中庭に、ない日とある日がある水飲み場が出てくる。ある日突然、なかったはずの蛇口が現れて、水が出る。翌日見に行くと蛇口ごと消えている。そこから出る水は普通の水道水ではなく、冷たくておいしい山の水のようだ、という。
飲めないはずの水が、突然そこにある。しかも、うまい。これほど分かりやすい願望の形もない。
学校の怪談が現在の形で全国に定着したのは、1970年代から1980年代とされている。高度経済成長期に学校建築が急増し、地域コミュニティが縮小し、テレビと漫画を通じて怪談文化が普及した時期だ。1990年代には映画とドラマのシリーズがヒットして、フォーマットとして完全に固定した。
ここで年表を重ねてみてほしい。学校管理下の熱中症死亡は1975年からのデータで170件ある。うさぎ跳びで15人の脚が折れたのが1978年で、学校怪談が定着したのが1970年代から1980年代である。
完全に同じ時期なのだ。
もちろん、怪談のすべてが実際の事故から生まれたと言いたいわけじゃない。音楽室の肖像画が動くのは目の描き方による錯視だし、階段が一段増えるのは数え方の問題だ。ただ、「グラウンドを走り続ける誰か」「体育館裏に立つ白い体操服」「飲んではいけない蛇口」という三点セットが、全国の学校でそれぞれ独立に生成されているのは、さすがに偶然が過ぎる。
学校の怪談は、学校で実際に起きたことのうち、大人が語らなかったことを子どもが語り継ぐための器だった。そう考えると、けっこう筋が通る。
倒れた生徒がいる。学校は詳しく説明しない。全校集会で校長が短く話して終わる。翌年には新入生が入ってきて、何も知らない。でも、噂だけが残る。
名前も日付も落ちて、「体育館裏に出るらしい」という形だけになって残る。
なぜ、この指導は数十年も生き延びたのか
最後に、いちばん考えたい問いを置いておきたい。なぜこんなものが、これほど長く温存されたのか。理由はたぶん一つじゃない。
反証が構造的に不可能だった
「水を飲まないと強くなる」という命題は、検証できない設計になっていた。
水を飲まずに練習をやり切った生徒は、その後も部に残って、上級生になり、卒業生になり、指導者になる。彼らは自分の体験を語る。「俺たちの頃は水なんか飲めなかった。それでも強くなった」。
一方、耐えられなかった生徒はどうなるか。辞める。あるいは倒れる。そして、その事実は「根性がなかった」「体が弱かった」という個人の資質の問題として処理される。指導方法の問題としては記録されない。
つまり、この仕組みでは、成功例だけが語り手になる。失敗例は語り手から除外される。生存者バイアスが完璧に働く構造になっていた。しかも実際には、水を飲まずに耐えた人が強くなったのは水を飲まなかったからではなく、単に練習量が多かったからである。因果が完全に入れ替わっている。
苦しさが、指導の質の代用品になっていた
指導者にとって、自分の指導が良いのか悪いのかを判定する材料は、実はほとんどない。勝敗は相手にもよるし、選手の素質にもよる。技術指導の質を測る物差しなんて当時はなかった。
そこで何が代用品になったか。苦痛の量だ。
きつい練習をさせている、という事実は、誰の目にも見える。測れる。比較できる。あそこの学校は水を飲ませないらしい、うちはもっと厳しくしないと。この競争は、際限なく上に向かう。
そして苦痛の量を増やす手段として最も安価なのが、うさぎ跳びと、水の禁止だった。道具も知識も予算も要らない。
うさぎ跳びが最後まで「罰」として生き残ったのは、まさにこの理由だと思う。
世代が、そのまま配管になっていた
戦地から戻った教師が軍隊式を持ち込んだ。それを受けた生徒が教師になった。その生徒がまた教師になった。三代でだいたい70年である。
しかも部活動の顧問は、その競技の専門家とは限らない。1970年の合宿で生徒が亡くなったラグビー部の顧問は、ラグビーの経験がなかった。保健体育の担当で体育学は専攻していたが、技術指導はほとんどOBと上級生に任せていた。競技の中身が分からない大人が、精神論だけは語れてしまう。この構造が、根性論を必要としていた面はある。
部活動という制度そのものが、宙に浮いていた
部活動は教育課程外の活動である。だが実態としては、加入が事実上強制され、内申書にも影響し、教師は無報酬に近い形で長時間を捧げていた。
安全基準もなかった。WBGT計を置いている中学校なんてほとんどなかったのだ。前に紹介した判決で校長の過失が認定された事案でも、校長側は「当時多くの中学校では温度計を置く実態はなく、それを求めるのは理想論だ」と主張している。そしてそれは、事実としては正しかった。
制度が空白なところに、個人の熱意と精神論が流れ込む。誰も悪意でやっていない場合ですら、事故は起きる。
責任が、誰にも返らなかった
これが一番大きいかもしれない。
公立学校の教員は公務員なので、国家賠償法により個人としての賠償責任を負わない。支払うのは自治体、つまり税金である。子どもが死んでも、現場の指導者の財布は痛まない。刑事も、因果関係の立証が難しく、不起訴になることが多い。
フィードバックが効かない仕組みでは、行動は変わらない。竹田高校の事案で両親が8年かけて求償権という穴を開けたのは、金が欲しかったからではない。彼らは確定判決で認められた賠償金の受け取りを拒否して、新しい裁判を始めている。欲しかったのは、責任が本人に返る道筋そのものだった。
私立学校なら教員個人の責任を問える。公立なら問えない。同じ死に方をしても、学校の設置者が誰かで結論が変わる。この不均衡は、いまも残っている。
そして、気候が変わった
最後に、これは指導者の責任ではない部分の話。
日本の夏、6月から8月の平均気温は、この100年で約1.14度上がっている。東京のような都市部ではヒートアイランドの影響で、同じ期間に約3度上がった。
つまり、同じ練習をしても、昔と今では体にかかる負荷がまるで違う。1970年代に「これくらい大丈夫だった」という指導者の体感は、2020年代にはそのまま殺人的なメニューになる。厚生労働省の人口動態統計では、日本の熱中症による死亡者数は毎年1000人を超える状況が続いていて、改善傾向にはない。消防庁の調査によれば、2023年の全国の熱中症搬送者は91467人だった。
昔の常識が通用しなくなったのではない。昔から間違っていたものが、いまはもっと速く人を殺すようになった、というだけの話だ。
それでも、体育館にはまだ空調がない
こうして並べてみると、この百年はちゃんと進んでいる。
明治37年の「水抜き油抜き」から、1994年のWBGT運動指針まで90年。そこから2018年の部活動ガイドラインが「水を飲ませずに走らせるのは体罰だ」と書くまで24年。学校管理下の熱中症死亡は、43年で170件というペースから、大きく下がった。普通教室の空調は99.1パーセントまで来た。甲子園は100年ぶりに開始時刻をいじったのだ。
でも、終わってはいない。
公立小中学校の体育館の空調設置率は22.7パーセントである。8割近くの体育館は、いまも真夏に締め切った蒸し器のままだ。熱中症死亡の種目別上位に柔道と剣道が入っていたことを、もう一度思い出してほしい。防具を着て、湿度の逃げない屋内で、動く。
そして、指導の文化のほうはどうか。暴力行為根絶宣言から10年が過ぎても、体罰や暴言の被害は途切れていない。2018年には岩手の高校のバレー部で、2021年には沖縄の高校で、部員が自ら命を絶っている。桜宮の事件を取材したジャーナリストは「既視感がつきまとって消えない」と言っている。
思うんだけど、この百年の話でいちばん怖いのは、悪人がほとんど出てこないことだ。
武田千代三郎は、当時の最新知識を誠実に紹介したつもりだった。戸山学校の研究者は、兵の命を守る方法を探していたつもりだった。大松博文は、選手と信頼関係を築いていたのだ。1970年に炎天下を900メートル歩かせた顧問は、「ただごとではないという気はした」が「単に疲労がこうじたものとしか考えなかった」。2009年に生徒を蹴った顧問は、通夜の席で「躾のためにやった」と答えている。
誰も、子どもを殺すつもりはなかった。それでも170人死んだ。
だから、この話の教訓は「昔の人はひどかった」ではないと思う。教訓があるとすれば、科学の顔をした間違いは百年生き延びること、苦痛を指導の質の代わりにすると人が死ぬこと。そして責任が誰にも返らない仕組みでは何も変わらないこと、この三つだ。
蛇口にかぶりついた70歳の女性の記憶は、たぶん一生消えない。それは、彼女が弱かったからではない。あの水を飲ませなかった大人たちが、誰一人として、なぜ飲ませてはいけないのかを説明できなかったからだ。
グラウンドの端の、あのぬるい水。あれを飲んでいいと言われるまでに、この国は百年かけた。
