バスの窓が白く曇っていて、指で丸を描くと、その向こうに知らない色の山があった。あれが、たぶん人生で最初に見た「学校が連れてきた雪」だ。
スキー教室とかスケート教室とか、そういう名前で呼ばれていた行事。地域によって呼び方も規模も全然違う。二泊三日でバスを何台も連ねて長野まで行った学校もあれば、朝の一時間目に体育館の裏の校庭リンクへ靴を持って集合、みたいな学校もあった。共通しているのは、学校が生徒を冬の屋外に連れ出して、普段の授業では絶対にやらないことをやらせる、という一点だけ。
そして、この行事にはやたらと怪談がくっついている。リフトから見えるコース外の人影。班をかぞえるとひとり多い。宿舎の開かずの部屋。雪山の近道。全部どこかで聞いたことがあるはずだ。しかも学校の怪談のなかでも、この系統だけ妙に手ざわりが冷たい。トイレの花子さんとはあきらかに種類が違う。
なぜかというと、雪の行事だけは、実際に人が死んでいるからだ。
- 学校が生徒を雪山へ運びはじめた頃の話
- 校庭に水を撒いてリンクを作る町があった
- 二〇一七年三月二十七日、那須で起きたこと
- 三十九分という数字
- 検証委員会が名指ししたもの
- 通知、処分、そして九年におよぶ裁判
- 慰霊碑に「人災」と刻まれた
- 事故を境に、全国の学校行事はどう変わったか
- 行事そのものが、静かに消えていく
- ここから先は、怪談の話
- 型その一――リフトから見えるコース外の人影
- 型その二――班にひとり多い
- 型その三――宿舎の開かずの部屋
- 型その四――雪山の近道
- 語り一・三人組についていった話
- 語り二・百物語の途中で数が合わなくなった話
- 語り三・宿の廊下が夏でも冷たかった話
- 語り四・名簿になかった名前
- 掲示板とSNSで、この話はどう転がってきたか
- 主要な考察と、その反証
- なぜ雪の行事の怪談だけ、手ざわりが違うのか
- なぜ、この話は広まったのか
- それでも、あの静けさのことは覚えている
学校が生徒を雪山へ運びはじめた頃の話
そもそも、なんで学校が生徒を雪山に連れていくようになったのか。
日本のスキーは戦前から学校教育とくっついていた歴史があるんだけど、大衆的な行事として定着したのは戦後の高度経済成長期以降だ。一九六一年、レジャーという言葉が流行語になった年。この年からスキー客が年間百万人を突破しはじめる。前年までに猪谷千春が冬季五輪で銀メダルを取り、トニー・ザイラー主演の映画が入ってきて、雪の斜面を滑るという行為が急に「かっこいいもの」の側に移った。
同じ一九六一年十二月、栃木県那須町では那須岳国有林のなかに国設那須岳スキー場が開設されている。第一リフトは全長二百三十二メートル。ヒュッテがひとつ。町営の、いかにも昭和の地方スキー場という規模感だ。ここは後で、この記事のいちばん重い章に出てくる。
一九六五年に拡張、翌年にロープトウ百六十メートル、一九六七年に第二リフト四百一メートル、一九六八年にヒュッテと管理事務所を開設して一階が貸しスキー、二階が食堂。そういう積み上げ方をした。利用者は一九七〇年代後半から一九八〇年代前半にかけて毎年およそ五万人。最多は一九七六年度の約七万人。全国にこの手のスキー場が無数にできて、地元の小中学校が歩いて、あるいはバスで十五分かけて通った。
学校スキーというのは、まずこういう「町のスキー場」を土台にして成立した行事だった。
そこにブームが乗る。一九七二年の札幌オリンピック、一九七三年に苗場で日本初開催のアルペンスキーワールドカップ。ここでいったん第二次のピークが来て、団塊世代の就職とオイルショックで落ち着く。そして一九八七年、映画『私をスキーに連れてって』が公開されて全部が壊れた。
一九八二年に東北新幹線と上越新幹線が開業し、一九八五年に関越自動車道が全線開通し、一九八六年からは臨時列車シュプール号が関東と中京と近畿から長野と新潟へ人を運びはじめる。週休二日制が一般化していく。団塊ジュニアが青年期に入る。一九九三年、スキー人口は一千八百六十万人という頭がおかしい数字に達した。同じ年、千葉県船橋市に屋内ゲレンデのららぽーとスキードームSSAWSが開業している。
海のそばで一年中スキーができる建物を作ってしまうくらいには、国が浮かれていた。
学校行事としてのスキー教室は、この波にきれいに乗った。既にインフラが全部整っていたからだ。バスも高速道路も宿もレンタルも、団体を受け入れる体制がある。教育旅行という言葉が業界用語として定着していくのもこの時期で、旅行会社の中に修学旅行と林間学校と臨海学校と雪の行事を専門に扱う部署が置かれた。
宿の側も、生徒五十人が一斉に風呂に入る前提で大浴場を設計し、食堂に長机を並べ、乾燥室にスキーウェアを吊るす棒を通した。全部が「学校が来る」ことを前提にできあがっていた。
校庭に水を撒いてリンクを作る町があった
スケート教室のほうは、もっと土着的だ。
北海道の十勝地方には、冬になると学校の校庭にリンクを造成する文化が今もある。造成も維持管理も、保護者が手伝う。夜中に水を撒いて、凍らせて、削って、また撒く。子どもたちは授業でそこを滑り、放課後もそこを滑る。十勝はスピードスケートが盛んで、スケート王国と呼ばれ、五輪出場経験者を何人も出している。それは偶然ではなくて、校庭にリンクがあったからだ。
ところが、この文化は今わりと本気で危ない。
二〇二五年一月、北海道芽室町の役場に匿名の意見が寄せられた。要旨はこうだ。スケートの授業はもうやめてはどうか。今年、帯広ではリンクを作るのを断念した。芽室では何とかできたが来年はどうなるか分からない。温暖化はどんどん進んでいる。スケート靴を準備するのも金がかかる。大した回数の授業をしないのに、毎年足のサイズが変わるから毎年靴を買わなければならない。レンタルも大して安くない。
壊したら責任を取らされる。用意してリンクが作れず授業ができませんとなったら許せない。この物価高、少しでも負担を減らすように考えてほしい。
町の教育推進課は同年二月四日付で回答している。十勝独自の地域資源である寒さを活かした授業であること、リンクの造成と維持に保護者の協力を得ていること、その一方で当該年度は例年にない雪不足と高めの気温のために造成が難しく、一部自治体では造成を断念したと聞いていること。理解と協力をお願いしたい、と結んでいる。
この短いやり取りに、雪の学校行事が抱えている問題がだいたい全部入っている。地域のアイデンティティ、保護者の労働と金銭の負担、気候変動、そして「今年はできるのか」という毎年の不確実性。滑る前の段階で、もう闘いになっている。
二〇一七年三月二十七日、那須で起きたこと
ここからは怪談ではない。実際に起きたことを、なるべく淡々と書く。
栃木県高等学校体育連盟の登山専門部が主管する「春山安全登山講習会」という行事がある。毎年春休み中の三月下旬、那須岳で三日間。県内の山岳部がある高校の生徒が集まって、積雪期登山の基礎を学ぶ。
この講習会の出発点そのものが、雪崩の死者だった。一九五〇年十二月三十日、谷川岳を登山中の栃木県立佐野高校山岳部十一名が雪崩に巻き込まれ、生徒四名と教員一名の計五名が死亡している。この事故を反省して、一九五八年五月に「第一回有雪期安全登山講習会」が県高体連と山岳連盟の共催で開かれた。
当初は不定期だったが、一九六四年三月から那須岳で定期開催されるようになり、一九六五年度からは県高体連が独自に実施して「春山安全登山講習会」という名前になった。本部は「ニューおおたか」という旅館に置かれるのが慣例で、宿の主は那須山岳救助隊の隊長を務める地元の人だった。一九六五年からずっとそうだった。
つまりこれは、五十年以上続いた、雪崩で人が死んだから始まった、雪崩で死なないための講習会だった。
二〇一七年の参加は七校。栃木県立大田原高校、栃木県立真岡高校、那須清峰高校、栃木県立矢板東高校、栃木県立宇都宮高校、矢板中央高校、真岡女子高校。男子五十一名、女子七名の計五十八名。講師と引率の教員が十四名。
三日目にあたる三月二十七日は、講習の仕上げとして茶臼岳登山を行う計画だった。ところが日本の南岸を北東に進む低気圧の影響で、二十六日夕方から雪が降りはじめる。前日の積雪はゼロだったのに、二十七日の午前二時から降りはじめた雪は午前八時までに三十一センチ積もった。テントが雪の重みで潰れかかり、入り口が埋まった。大雪注意報が出ていた。
午前六時十五分頃、茶臼岳登山の中止が決まる。決めたのは登山専門部委員長のA教諭、主任講師のB教諭、前委員長のC教諭の三人だ。代わりに、営業を終えていた那須温泉ファミリースキー場のゲレンデと隣接する樹林帯で、ラッセル訓練――深い新雪を踏み分けて進む歩行訓練――をやることになった。
午前七時三十分頃、センターハウス前に集合。前日と同じ五班編成のまま活動が始まる。一班は大田原高校十二名に講師と引率教員各一名の計十四名。二班は真岡高校八名と講師一名の九名。三班は矢板東高校五名、那須清峰高校四名、講師一名と引率教員二名の十二名。四班は矢板中央高校三名、宇都宮高校八名、講師一名と引率教員一名の十三名。五班は真岡女子高校四名と矢板東高校二名の女子六名に講師一名。
ラッセル訓練の参加者は男子四十名と女子六名の計四十六名、講師と引率の教員が九名だった。
一班だけが一校単独なのは、大田原高校山岳部が強豪だったからだ。九年連続で県代表として高校総体に出ている。ただ前年秋の新人戦では真岡高校に僅差で敗れて二位に終わっていた。十年連続の県大会優勝とインターハイ出場を目指す部員たちは、その屈辱を引きずっていた。その一班を引率したのが、真岡高校の教員で登山歴三十三年、一九九五年に二十七歳でチベット自治区のニンチンカンサ峰七二〇六メートルに登頂しているB教諭。
登山専門部でもっとも実力があると見なされていた人だった。
一班は樹林帯の支尾根を登った。副委員長は急斜面の手前で止まるよう指示していたが、生徒から「あの岩まで行きたい」という要望が出て、それを認めた。
午前八時四十三分、雪崩が発生した。
一班の隊列の先頭から七番目にいた一年生が、右斜め上二十から三十メートル、時計でいう一時の方向に雪崩が起きるのを見ている。とっさに身をかがめ、ピッケルを雪面に刺して耐風姿勢を取った。それでも体は一気に飛ばされ、後方に宙返りして流された。流されながら、立っている大勢の人の姿が一瞬見えたという。だから流されているのは自分だけだと思った。
木に激突して右膝が引っかかり止まったが、体の上を雪が流れて全身が埋まった。意識はあった。呼吸もできた。もがけば出られるかと手足を動かしたが、まったく脱出できない。そのうち手足が自分の意志と関係なくバタバタ動きはじめる。じっとしていたほうが助かる確率が高いのではないか。止まれ、止まれ、と勝手に動く手足に言い聞かせた。凍死するのか、と思いながら雪の下にいた。
流されていたのはその子だけではなかった。一班十四名は全員が流されていた。二班九名、三班十二名、四班十三名。合計四十名の生徒と八名の教員が巻き込まれていた。五班だけは、女子全員がラッセル未経験だったため樹林帯に上がらず第二ゲレンデ付近にいて、無事だった。
雪崩は面発生乾雪表層雪崩に分類された。発生は標高一四二〇メートル付近、斜度はおよそ三十八度。最大速度は秒速十メートル、時速に直すと三十六キロ。木造建築を破壊するのに十分な衝撃圧だったと報告書は書いている。事故翌日の観測では、表面から二十二から二十五センチ下に強度の弱い層があり、密度は一立方メートルあたり約五十六キロ、硬度〇・八キロパスカル、積雪安定度は〇・五七だった。
カナダの基準では一・五以下が危険とされる。〇・五七というのは、その三分の一だ。
死亡したのは生徒七名と教員一名の計八名。重症四名、中等症三名、軽症三十三名。被害者は合計四十八名にのぼった。
三十九分という数字
この事故を語るとき、どうしても外せない数字がある。三十九分だ。
雪崩発生から消防と警察への通報までに、三十九分かかっている。
二班は斜度三十から四十度の尾根状の急斜面を登って樹林限界付近に達していた。北西風が強まってきたため、二班講師のC教諭は下山を決める。三班と四班がいる下方向へトラバースしている途中で雪崩に襲われ、C教諭は下半身が埋まったが上半身は出ていたので自力で脱出した。すぐに無線で講習会本部のA教諭を呼んだ。何度呼んでも応答がない。
A教諭は無線機を携行していなかった。宿舎で宿泊費の精算をしていて、その後は駐車場で車に荷物を積み込んでいた。生徒たちが雪に埋まっているあいだ、講習会全体の責任者は無線から離れた場所にいた。
一班講師のB教諭を無線で呼んでも応答がない。この段階で二班のC教諭は、一班が流されているとは考えなかったという。三班と四班は見えていたし、叫べば声が届いた。二班、三班、四班の生徒二十八名と教員六名の生存は確認できた。だが一班は見えなかった。
ゲレンデにいた五班の講師が、緊迫した無線のやり取りを聞いてセンターハウスへ下り、C教諭の指示で本部へ走った。スキー場から徒歩十分。着いたとき、A教諭は駐車場で荷物を積んでいた。緊急事態です、雪崩が発生し生徒が巻き込まれました、救助要請をしてください。えっ、どうしたんだ。A教諭がすぐに通報した。午前九時二十二分だった。
携帯電話は寒さで起動しなかった、という証言も残っている。
ヨーロッパアルプスで発生した雪崩事故の統計では、雪崩発生から十八分後の生存率は九十三パーセント。三十五分を過ぎると約三十パーセント以下に落ちる。雪崩による死因でもっとも多いのは窒息だ。だから救出は早ければ早いほどいい。目標値は十八分以内。
三十九分は、その倍以上だ。
そこから先も速くはならなかった。午前九時三十三分に那須地区消防本部の救助隊十三名が出動。那須山岳救助隊の副隊長のところに隊長から電話がかかってきたのは午前九時半過ぎで、内容は「スキー場で雪崩があって、三人くらいが埋まっている」だった。副隊長は自宅からスキー場まで約三十五分かけて午前十時四十分に到着し、センターハウスで隊長からこう言われる。雪崩が起きたのは一本木の左の山の中だ、高校生が五十人いる。
副隊長は驚いた。営業を終えたスキー場で雪崩なら、マニアが山に入って遭ったのだろう、ゲレンデで埋まっているならすぐ収容できる、くらいに思っていたからだ。なぜ、なぜ高校生が山に登っている、なぜ高校生が雪崩に遭遇した。
ちなみにこの「一本木」というのは、ゲレンデの真ん中にぽつんと生えている木のことだ。かつて雪崩に流されたスキーヤーが衝突して亡くなった事故があり、その記憶を留めるために残された木だった。救助隊は、過去の雪崩死の目印を経由して、新しい雪崩死の現場へ登っていった。
低気圧が抜けて風が出ていた。那須岳は強風地帯として知られる。日本海から吹く北西風が朝日連峰を越え、茶臼岳に当たって南北に分かれ、速度を増す。地吹雪で視界は二十メートル。約一キロ先の現場は見えない。圧雪車が一本木まで圧雪してくれて、そこから山岳救助隊二名、消防三名、警察官四名の計九名が登りはじめた。
斜面には足跡がひとつもなかった。高校生が二十人も三十人も登ったなら踏み跡が残るはずなのに、まっさらな雪で覆われていた。横殴りの風が全部消していた。大声で呼んでも風にかき消される。一本木から三十分登ったところで、笛を吹く人が見えた。
現場に救助隊が到着したのは午前十一時四十五分頃。救助活動が始まり、午後十二時五十分頃までに九名が救出された。最終的な出動規模は、消防四十二隊百六十三名、警察八十四名、自衛隊三十五隊百五十名、災害派遣医療チーム二隊八名、山岳救助隊十三名。自衛隊第十二特科隊への災害派遣要請は午前十時三十七分に出ている。
検証委員会が名指ししたもの
事故から約三カ月後の二〇一七年六月三十日に第一次報告書、十月十五日に最終報告書が出た。委員会は委員十名と協力委員四名。委員長は東京女子体育大学教授の戸田芳雄、副委員長は名古屋大学大学院教授の西村浩一。弁護士二名、大学教授二名、登山関係者三名、医療関係者一名、消防関係者一名、気象関係者一名という構成だ。委員会は七回開かれ、聞き取り調査は延べ百二十七名に及んだ。
報告書は冒頭で「責任追及は目的としない」と明示している。そのうえで、根源的な要因として高体連と登山専門部の「計画全体のマネジメント及び危機管理意識の欠如」を挙げた。
指摘は多岐にわたる。連絡体制の不備。本部が長時間にわたって無線機から離れていたこと。緊急連絡体制が整備されていなかったこと。雪崩ビーコンやプローブといった装備を持っていなかったこと。講師らの雪崩危険認識が不足していたこと。
そしてもうひとつ、報告書は関係者全体に「正常化の偏見とマンネリズム」があったと書いた。
正常化の偏見というのは、異常な事態を目の前にしても「これくらいなら大丈夫」「今までもこうだった」と正常の範囲に押し込めてしまう心理のことだ。五十年以上続いてきた講習会。毎年ここでやってきた。今年もやれる。その積み重ねが、三十一センチの新雪と斜度三十八度の斜面を「いつもの範囲」に見せた。
さらに報告書は、過去の事例にも触れている。二〇一〇年三月二十七日、同じ講習会中に那須岳の郭公沢最上部で雪崩が起きていた。五十から六十メートル流されている。だが、これは報告されていなかった。日付まで同じだ。七年前に一度、はっきりした警告が鳴っていたのに、記録に残らないまま消えていた。
通知、処分、そして九年におよぶ裁判
行政の動きは早かった。
二〇一七年十二月一日、スポーツ庁が二九ス庁第四五九号「冬山登山の事故防止について」という通知を出す。核心はここだ。高校生等については総合的な登山経験が不足しているため、原則として冬山登山は行わないこと。
例外的に実施する場合の条件も細かく定められた。適切で安全な場所での基礎的内容に限定すること。複数の経験豊富な指導者を配置し、少なくとも一名は山岳資格の保有が望ましいこと。登山計画審査会による事前審査を受けること。校長と保護者の了解を得ること。生徒への事前指導を行うこと。実施後は、事故に至らなかったヒヤリハットも含めて報告し、情報を共有すること。
つまり「原則やるな、やるなら審査を通せ」という設計に切り替わった。高校生等は厳しい環境での登山における技術、体力、リスクマネジメント能力等が不十分である、という文言が正面から書き込まれたのは大きい。
栃木県教育委員会は二〇一八年三月十九日に懲戒処分を出した。委員長と一班講師が停職五カ月、二班講師が停職三カ月。
刑事のほうは長かった。二〇一九年三月八日、栃木県警が三教員を業務上過失致死傷の疑いで厳重処分意見を付けて書類送検する。県警は新雪の状況、雪崩注意報、急斜面という要素を総合し、経験のある三人には雪崩の危険を予見することが可能だったと判断した。安全な場所を指定せず漫然と決定したことが雪崩回避義務違反にあたる、と認定している。なお、他の引率教員については刑事責任を追及する過失はないと明言された。
二〇二二年二月十日、宇都宮地検が三人を在宅起訴。同年十月二十五日に第一回公判。弁護側は一貫して無罪を主張した。雪崩の発生は予見できなかった、過失はなかった、と。
二〇二四年二月二十九日に結審。検察の求刑は禁錮四年だった。同年五月三十日、宇都宮地裁の滝岡俊文裁判長が三人にそれぞれ禁錮二年の実刑判決を言い渡す。判決は、相当に緊張感を欠き漫然と実施した、と指摘した。教育行事の引率者に実刑という結論は重かった。同年六月十二日、弁護側が控訴した。
控訴審の判決が出たのは二〇二六年三月四日、東京高裁。田村政喜裁判長は、猪瀬修一被告と渡辺浩典被告について一審の禁錮二年の実刑判決を破棄し、いずれも禁錮二年執行猶予五年を言い渡した。菅又久雄被告については一審の禁錮二年を支持し、弁護側控訴を棄却した。
弁護側は一審に続いて予見可能性を否定したが、田村裁判長は三人は訓練中に雪崩発生の恐れがあることを容易に予見できたと指摘し、訓練場所を安全な範囲に限定する措置が可能だったとして退けている。
その後、被告側は上告した。事故発生から九年が経っても、この件はまだ終わっていない。
民事のほうは先に決着している。二〇二一年九月十三日に遺族側が民事調停で、県が賠償金を支出したうえで三教諭に求償するべきだという趣旨の意見書を提出したが、調停は二〇二二年一月二十四日に不成立となった。二〇二三年六月二十八日、宇都宮地裁が栃木県と県高体連に合計約二億九千万円の賠償を命じる判決を出し、教諭三人個人への請求は棄却した。同年七月十三日、双方が控訴せず確定している。
遺族側は「話し合う気がない」という言葉を残している。二年近く調停を続けてなお不成立に終わったことへの落胆と、県側から代替案の提示すらなかったことへの怒りだ。
慰霊碑に「人災」と刻まれた
事故のあと、大田原高校の敷地には八人の名前を刻んだ慰霊碑が建った。山岳部のOB会は二〇一八年から毎年、事故現場の斜面が望める那須町湯本の小丸山園地展望台で慰霊祭を行っている。二〇二六年三月二十日の慰霊祭には、OBと遺族、現役の生徒と顧問教諭ら約三十人が集まった。「何年たっても会いに行く」というのが、その日に出た言葉だ。
二〇二五年三月二十二日の合同追悼式では、慰霊碑に新たな碑文が設置された。事故の概要と経緯に加えて、県高体連、県教委、講習会役員などに過失があり、事故は「不注意による人災と指弾された」との文言が刻まれている。取り組み中の再発防止策と、風化を防ぐという誓いも一緒に。
慰霊碑に「人災」と刻む、というのは、なかなかできることではない。関係者にとっては自分たちの過失を石に彫って永久に残すということだ。遺族が求めなければ、たぶんこの文言は入らなかった。
二〇二六年三月二十一日、事故から九年を前にした追悼式が同校で営まれた。参列したのは遺族と県教委、県高体連の関係者ら五十四名。八人の名前が刻まれた慰霊碑に向かって約一分の黙とう。献花台に花を手向け、追悼の辞が読まれた。
引率中に亡くなった教諭、毛塚優甫さん――当時二十九歳――の父、辰幸さん(七十三)は「胸が苦しく、今も雪の積もる山を見ると涙がこぼれる」と述べた。一年生だった佐藤宏祐さん――当時十六歳――の父、政充さん(五十六)は「黙とうをささげているときも、目に浮かぶのは息子の笑顔だ」と語り、続けてこう言っている。事故は防ぐことができた人災だ、同じ悲劇を繰り返さないと誓うことが再発防止につながる。
同じ日、遺族からは東京高裁判決への不満の声も上がった。三人のうち二人に執行猶予が付いたことについてだ。
遺族・被害者の会が掲げているのは、こういう文章だ。遺族は納得していない。通知が守られず事故が発生したこと、それが問題視されていないこと、そこに対策がないまま再発防止策が作られること。会のサイトのトップに置かれた一文は、もっと直接的だ。息子の未来はいったい何と引き換えになってしまったのか。
事故を境に、全国の学校行事はどう変わったか
那須の事故は、山岳部の講習会という比較的特殊な行事で起きた。でも影響は、もっと広い範囲に及んだ。
まず、栃木県教育委員会が二〇二四年三月十七日に「那須雪崩事故の反省と再発防止に向けた取組」をまとめている。柱は、外部の専門委員を入れた登山計画審査会の機能強化、山のグレーディングに基づく活動範囲の設定、学校危機管理マニュアルの見直し、他団体が主催する行事も含めた届出の徹底、高体連への危機管理マニュアル運用支援。要するに、学校の外で行われる行事だからといって学校が知らないままにしない、という方向だ。
全国的には、書類が増えた。これが実感としていちばん大きい変化だと思う。
雪の行事をやるなら、実施計画書に気象判断の基準を書く。中止判断を誰がいつ下すのかを事前に決めて明文化する。緊急連絡網を作り、責任者は必ず通信手段を身につける。班ごとの引率者と生徒の対応を紙に落とす。保護者への説明会を開き、同意書を取る。事故が起きたときの搬送先医療機関をあらかじめ確認する。学校行事としてのスキー教室でも、この種の準備が当たり前になった。
ゲレンデ外に出ない、という運用も徹底された。コースロープの外側には絶対に入らない。新雪の斜面には近づかない。班行動から一人でも外れたら全体を止める。以前はもうちょっとゆるかった。上級班が林間コースを抜けていく、みたいな運用は普通にあった。今はほぼない。
指導者の外部委託も進んだ。教員が滑れるかどうかに関係なく、スキー場のスクールにインストラクターを人数分発注する。教員は引率と点呼と体調管理に専念する。これは安全面では圧倒的に正しい。ただ、費用は跳ね上がる。
そして中止の閾値が下がった。以前は多少の雪や風でも決行していたものが、警報級の予報が出た時点で早々に中止になる。バスをキャンセルする違約金を払ってでも中止にする。これは那須の教訓のいちばん素直な適用だ。あの日、茶臼岳登山は中止された。中止されたうえで、代替として行ったラッセル訓練で人が死んだ。
だから「中止する判断はできても、代替案の危険度を評価しないと意味がない」というのが、実は最も重い教訓なんだけど、現場に浸透しているかというと怪しい。
行事そのものが、静かに消えていく
安全対策が厳しくなった一方で、そもそも雪の行事自体が減っている。理由はいくつも重なっている。
まず、雪の側の事情。国内で営業しているスキー場の数は一九九九年の六百九十八カ所をピークに減り続けて、二〇二五年には四割減の四百十七カ所と過去最少になった。雪不足と施設の老朽化が主因だ。別の集計では二〇二六年から二〇二七年シーズンの営業予定が四百七十一カ所とされているが、これは数え方の違いで、そもそも全国のスキー場を統括する団体が存在せず、スキー場の定義もないので正確な数を出すのが難しい。
実質的に廃止していても、原状回復の費用が出せないので「営業休止」のまま放置されているケースも多い。
人の側はもっと激しい。一九九三年に一千八百六十万人だったスキー人口は、二〇〇〇年代前半には八百万人を割り込んだ。十年でピークの四割だ。スノーボード人口も一九九八年の約一千八百万人をピークに落ちた。近年はスキーが年間二百八十万人、スノーボードが百四十万人といったオーダーで、合わせても四百二十万人前後。ピーク時のスキー単独の四分の一以下でしかない。
那須温泉ファミリースキー場も、この波に飲まれた。一九九四年に近隣にマウントジーンズスキーリゾート那須がオープンして利用者が減り、一九九六年に一億四千六百万円かけて設備を更新して名前を今の形に変えた。それでも二〇一五年度の利用者は約七千人。一九七六年度の約七万人と比べると十分の一だ。二〇一九年度は記録的な雪不足で営業日がわずか六日間、利用者は八百二十人。二〇二〇年度は感染症の影響下で八千四百八十人。
人工降雪機は持っていなかった。
二〇二二年一月二十七日、那須町は定例記者会見でスキー場の営業休止を発表する。理由はスキー人口の減少と売上減、年間二千万円から三千万円かかる運営費、そして老朽化したリフト設備の修繕費およそ五千八百万円の確保が困難になったこと。国有地なので返還には原状回復が必要で、それができないため町は年間四十万円の借地料を払い続けながら通年の誘客施設への転換を検討する、という形になった。実質的な閉鎖だ。
そして二〇二二年三月二十一日、六十一年の歴史に幕が下りた。生徒たちが雪崩に巻き込まれた斜面のふもとにあったスキー場は、事故から五年後に営業を終えている。
次に、学校の側の事情。金だ。
日本修学旅行協会の調査によると、二〇二四年度に実施された中学校の国内修学旅行の平均総額は七万三千八百五円。内訳は交通費三万二千百三十一円で四十三・五パーセント、宿泊費二万三千三百二十三円で三十一・六パーセント、体験活動費六千九百五十六円で九・四パーセント、その他一万一千三百九十四円。二〇一九年度の総額が六万四千六百八十三円だったから、五年で九千円以上上がっている。
高校はもっと激しくて、二〇一九年度の十万二千七百三十七円から二〇二四年度の十一万四千六百二十三円へ、一万二千円近く上がった。交通費だけで五万三千二百四十四円、全体の四十七・六パーセントを占める。
これは修学旅行の数字だけど、スキー教室にそのまま乗っかる。バス代が上がり、宿泊費が上がり、リフト券とレンタル代とインストラクター代が上がる。しかも雪の行事は装備が要る。ウェア、手袋、ゴーグル、ニット帽。レンタルで済ませても数千円、買えば数万円。育ちざかりの子どもは毎年サイズが変わる。
芽室町に寄せられた意見に「毎年足のサイズが変わるのに毎年靴を買わなければならない」とあったのは、スケートの話だがスキーでも事情は同じだ。
札幌市では、中学校のスキー授業の実施校が半数を割り込んだ。十年前は九割の学校が実施していた。スキー用品代、リフト代、貸切バス代の高騰と、そもそもバスの確保が困難になっていることが理由に挙がっている。観光ツアーとスキー授業でバスの奪い合いが起きて、授業回数を減らす学校まで出た。市はリフト料金の助成を小中の全学年に拡充し、スキー学習用のバスも増便したが、流れは止まっていない。
栄南中のようにスノーホッケーに切り替えた学校もある。
北海道の上川管内で行われた中学校スキー授業の調査では、実施率自体は一〇〇パーセントだったものの、内実は変わっていた。学年が上がるにつれ実施率が下がり、三年生では非実施の学校が出る。かつては教科の授業と学校行事の両方でやっていたのが、教科の授業のみで実施する割合が大幅に増えた。授業時数は一学年も三学年も前回調査から大きく減り、ばらつきが広がった。
年間授業時数削減の影響について「影響あり」と答えた学校の最多の理由は「全校で時数を削減した」だった。そして実施上の最大の障害は、経済面でも施設面でもなく、「学習指導計画の作成等」と「指導面」だった。
つまり、教える側がいない。
スキーやスケートを教えられる教員が減った。当たり前で、教員自身がスキー人口激減後に育った世代になっている。滑れない教員がスキー教室の引率をする。だから外部のインストラクターに委託する。委託すると金がかかる。金がかかると保護者の負担が増える。保護者の負担が増えると反対の声が出る。反対の声が出ると行事が縮小する。縮小すると教えられる教員がますます育たない。全部つながっている。
そこに保護者の意識の変化が乗る。全員参加の集団行事に対して、参加を強制されることそのものへの疑問が出るようになった。運動が苦手な子、寒さが苦手な子、経済的にきつい家庭。それぞれに事情があるのに、なぜ全員が同じ斜面を滑らないといけないのか。この問いは、以前ならほとんど発せられなかった。今は普通に発せられる。そして、答えるのが難しい。
そして安全に対する意識も明確に変わった。那須の事故がその転換点だった。以前なら「事故は不運」で処理されかねなかったものが、今は「防げた人災」として検証され、責任が問われ、刑事裁判にまでなる。引率した教員が禁錮刑を受ける可能性がある行事に、誰が手を挙げるか。教員が雪の行事に及び腰になるのは、ものすごく自然な反応だと思う。
ここから先は、怪談の話
ここまで書いてきたのは全部、記録が残っていることだ。日付があって、数字があって、判決文がある。
ここから先は、そうじゃない話をする。誰が最初に言い出したのか分からなくて、確かめようがなくて、それでも三十年くらい同じ形で語り継がれている話だ。実在の事故と混ぜて読まないでほしい。混ぜて読むと、亡くなった人たちに失礼になる。
雪の学校行事の怪談には、はっきりした型がある。全国どこの学校でも、だいたいこの四つのどれかに落ちる。
型その一――リフトから見えるコース外の人影
いちばん定番なのがこれだ。
リフトに乗っている。二人乗りか四人乗りで、隣にはクラスの誰かがいる。眼下にゲレンデが広がっていて、みんなが滑っている。それを何気なく見下ろしていると、コースロープの外側、圧雪されていない斜面に人が立っている。
だいたい共通しているディテールがある。動かない。こっちを見ている。距離があるはずなのに顔だけはっきり見える。そして、服装が今のスキーウェアじゃない。
隣の子に「あれ何」と聞くと、隣の子は「え、どこ」と言う。指を差した瞬間にはもういない。あるいは、隣の子には見えていて、二人とも黙って、リフトを降りてから初めて「見えたよね」と確認する。
このパターンの怖さは、リフトという乗り物の構造そのものにある。リフトは止まれない。降りられない。速度も変えられない。数分間、決まった高度で決まった速度で運ばれる。しかも足元は宙に浮いている。見たくないものを見てしまったとき、逃げる手段が一切ない。これほど「見るしかない」を強制する乗り物は、日常にそうそうない。
派生版として語られるのが、圧雪車の話だ。夜間に圧雪車がゲレンデを均していると、ライトの先に人が立っている。運転手は急停止するが、そこには誰もいない。翌朝、その場所にだけキャタピラの跡がついていない、というオチがつく。これは圧雪車という機械が、夜のゲレンデで唯一動いている巨大なものだ、というイメージが効いている。
もうひとつの派生が、リフトの支柱にまつわる話。何番支柱と何番支柱のあいだだけ、いつもリフトが揺れる。風がなくても揺れる。あそこで昔、飛び降りて亡くなった人がいるから。この形は、支柱に番号が振ってあるという事実に乗っかっているのが上手い。番号があるから、話に固有名詞がつく。「三十六番と三十七番のあいだ」と言われると、急にリアリティが出る。
そして、いちばん薄気味悪い派生が、リフトから見えるのが人影ではなく「跡」だというバージョン。誰も入っていないはずの林間の斜面に、シュプールが一本だけついている。上から下まできれいに。誰かが滑った跡なのに、その誰かがどこにも見当たらない。
型その二――班にひとり多い
これは学校行事全般にある型だけど、雪の行事だと威力が上がる。
理由は単純で、雪の行事は点呼の回数が異常に多いからだ。バスを降りるとき、レンタルを受け取るとき、リフト乗り場に着くとき、リフトを降りるとき、昼食前、昼食後、集合時、宿舎に戻ったとき。一日に十回以上かぞえる。かぞえる機会が多いということは、合わない機会も多いということだ。
そして、雪の行事の参加者は全員が同じ格好をしている。レンタルのウェアはたいてい数種類の色しかない。ニット帽とゴーグルで顔の八割が隠れている。誰が誰だか分からない。分からない集団を、繰り返しかぞえる。この条件で「ひとり多い」が発生しないほうがおかしい。
典型的な語りはこうだ。班長が六人の班をかぞえる。七人いる。もう一回かぞえる。六人。隣の子に「今、七人いなかった?」と聞くと、「かぞえた?私もそう思った」と返ってくる。教員に言うと「ちゃんとかぞえろ」で終わる。そのまま行事は進み、帰ってから集合写真を見ると、後列の端に見覚えのない子が写っている。
派生版のひとつが、名簿バージョンだ。点呼のとき、教員が名簿を読み上げていって、班にいないはずの名前を呼ぶ。生徒たちは戸惑うが、教員は淡々と次に進む。翌朝その名前について聞くと、教員は「そんな名前は名簿にない」と言い、コピーを見せられるとたしかに載っていない。それなのに、班のメンバー全員がその名前を覚えている。学年やクラスの表記が学校に存在しないものになっている、という細部がつくバージョンもある。
もうひとつの派生が、布団バージョン。宿舎の部屋に敷かれた布団の数が、人数より一組多い。一人が体調不良で不参加になったから、本来なら一組少ないはずなのに、なぜか多い。しかも自分の隣が空いている。四人なら左右に二人ずつになるはずなのに、なぜ自分の横だけ空いているのか。この形は、宿舎の布団が「あらかじめ人数分敷かれている」という事実に依存している。誰かが数えて、誰かが敷いた。
その誰かが間違えたのか、それとも間違えていないのか。
さらにひねった派生が、写真バージョンの逆パターンだ。集合写真を見ると、人数は合っている。合っているのに、誰か一人の顔だけが誰も知らない顔になっている。名簿とも一致するし、名前もある。ただ、その顔に見覚えがある人が一人もいない。
型その三――宿舎の開かずの部屋
スキー宿の怪談は、建物の構造に強く依存している。
団体を受け入れる宿というのは、たいてい増築を繰り返している。一九六〇年代に建てた本館があって、七〇年代に新館をつなげて、八〇年代のブームでさらに増やす。だから廊下の高さが途中で変わったり、階段が意味不明な場所についていたり、行き止まりの先にドアがあったりする。人口が減って客が来なくなった今、使っていない区画がそのまま閉鎖されている宿は本当にある。
そこに乗るのが、開かずの部屋の型だ。
四階の廊下の一番奥にドアがある。番号のプレートが外されている。宿の人に聞くと「そこは物置」と言われる。夜、誰かがそのドアの前まで行くと、中から音がする。あるいは、鍵がかかっていないことに気づいて開けてしまう。中には布団が一組だけ敷いてある。
このタイプで一番強いのは、部屋番号が「ない」というバージョンだ。四〇一から四〇八まであるのに四〇四だけない。あるいは四階自体がない。エレベーターのボタンが三から五に飛んでいる。数字の欠落は、それだけで物語を発生させる。生徒たちが階段でかぞえに行くと、四階は物理的に存在する。でも廊下の照明がつかない。
派生版として、乾燥室の話がある。スキー宿には濡れたウェアを乾かす乾燥室がある。夜中に取りに行くと、暖房で温まっているはずの部屋が異様に冷たい。吊るしてあるウェアが一着だけ揺れている。窓は閉まっている。ウェアの数をかぞえると、班の人数より一着多い。ここでも「一着多い」が出てくるのが面白い。型は互いに混ざる。
もうひとつの派生が、大浴場バージョン。班ごとに時間が決められている大浴場に、決められた時間外に入ってしまう。誰もいないはずなのに、洗い場の一番奥で誰かが体を洗っている音がする。湯気で姿は見えない。声をかけると音が止まる。上がって脱衣所に戻ると、自分たちのかごの隣に、もうひとつだけ服の入ったかごがある。
さらに変化球なのが、宿の人が語り手になるバージョンだ。宿の年配の従業員が、生徒たちに「この部屋には入るな」と言う。理由は言わない。生徒が理由を聞くと、「昔、団体さんで来た子がね」とだけ言って口をつぐむ。この形は、怪談の権威を「大人が知っている」ことに置いているのが特徴だ。子どもの噂話ではなく、大人が知っているのに言わない。それが一番怖い。
型その四――雪山の近道
四つ目が、いちばん危険で、いちばんよくできている。
ゲレンデを滑っていて、林の中に細い道が見える。あるいは、コースが大きく蛇行しているところで、まっすぐ突っ切れば早く下りられそうな斜面がある。誰かが「あっちのほうが近い」と言う。あるいは、前を滑っている人がそっちへ入っていく。ついていく。
そこから先はバリエーションがある。ついていくと迷って、気づいたら見たことのない場所にいる。ついていくと崖の縁に出る。ついていくと、前を滑っていた人が消えている。ついていくと、いつのまにか下りているはずなのに登っている。
この型がよくできている理由は、実際に危ないからだ。コースアウトは雪山でもっともよくある死に方のひとつで、単独行動と近道の誘惑が組み合わさると人は本当に死ぬ。つまりこの怪談は、実用的な警告の形をしている。近道するな。人についていくな。一人になるな。全部そのまま安全教育だ。
派生版として、逆に「導かれて助かる」バージョンがある。滑れなくなって動けなくなっているところに誰かが現れて、こっちだと示す。ついていくと索道の下に出て、助かる。振り返ると誰もいない。この形は、山の怪談全般に共通する構造で、死者が生者を救うという話型に属する。同じ怪談が、警告としても救済としても機能する。
もうひとつの派生が、足跡の話だ。近道に入ると、自分の前に足跡が続いている。誰かが先に通ったのだと思って進む。しばらく行って気づく。足跡が、こちらを向いている。つまり、その誰かは下りていったのではなく、登ってきたことになる。だが上には何もない。
そして、いちばん救いのない派生が、時間の話だ。近道を使ったら、集合場所に着いた時刻が、出発した時刻より前になっている。あるいは、五分の近道のはずが、集合時間を三時間過ぎている。みんなに「どこ行ってたの」と聞かれて、答えられない。
語り一・三人組についていった話
ここからは、匿名で語られてきた話をいくつか。細部は語り手の記憶のままに書く。裏は取れない。
二十年近く前のこと。会社のスキーサークルに入っていて、二月の連休に志賀高原の合宿に参加した。サークルといってもレベルはばらばらで、自分は完全な初心者だった。その日は皆が上級者コースを滑るというので、渋々リフトに乗って、一番傾斜のきついコースに行った。
一斉に滑り出したものの、見る間に仲間たちはスピードを上げて見えなくなった。こっちはボーゲンでゆっくり下りるしかない。初心者には無理なコースだったな、と後悔しながら必死に降りていると、三人のグループが風を切って追い越していった。同じゼッケンをつけていて、動きがぴったりシンクロしている。滑りが滑らかだった。何かの競技の練習なのかな、と思いながらふと周りを見ると、自分の前後には誰もいない。
上級者コースの三分の一も滑っていない地点で一人きりになって、さすがに不安になってきた。
急がなくちゃ、と思った途端に転倒して、スキーが脱げて、そのまま何メートルか転がった。やっとの思いで板が脱げたところまで這い上がったが、滑ってなかなか装着できない。どのくらいそこにいただろう。
ふと人の気配がして上を見ると、さっき自分を追い越した三人が、こちらに向かって滑ってくるのが見えた。相変わらず三人の動きはぴったり合っている。さっきは気づかなかったが、同じゼッケンの三人のニット帽は赤、緑、オレンジの鮮やかな色をしていた。脇を通るときに一生懸命顔を見ようとしたけれど、早すぎて何も見えない。ただ、あまり背の高くない細身の男性三人だということだけは分かった。
またあの三人に追い越されるのは嫌だと思って、なんとか板を履いて、彼らが滑っていった後を必死に追いかけた。そしてまた転倒した。今度は腰を打って立ち上がることもできない。
どうしよう、と泣きそうになっていると、背後で自分の名前を呼ぶ声がした。サークルの先輩が、あまりに遅いので探しに来てくれたのだ。助かった、と思ったのも束の間、先輩の言葉に愕然とした。
完全にコースアウトしてるよ。
顔を上げると、自分がいたのは立ち入り禁止のロープの中で、その先は谷だった。あの三人の後をついていったのは間違いない。転ばなかったら、自分はどうなっていたのだろう。
三人のニット帽の鮮やかな色だけが、今も目に焼き付いている。
語り二・百物語の途中で数が合わなくなった話
小学五年生の林間学校の夜の話。山の中の宿泊施設で、女子二十二人が一部屋に詰め込まれて、みっちり敷き詰められた布団の上に座って、こっそり持ち寄った懐中電灯で百物語を始めた。ろうそくはさすがにまずいだろうということで、話が一つ終わるごとに懐中電灯を一つ消していく形にした。
級友の語る話は、どれもどこかで聞いたことがあるようなものばかりで、それ日本昔話で見たやつ、とか茶々を入れながら進んでいた。それでも一つ終わるごとに闇が深まって、緊張のボルテージは上がっていく。
途中で、ミナちゃんという子の番が来た。この子のお母さんとお祖母さんは少し勘の鋭い人で、そういう異界の話をよくしてくれる家だった。ミナちゃん自身も将来アナウンサーになりたいと言って放送委員をやっていて、発声練習をしているから、小さな声で語る怪談でもとても聞き取りやすい。ぞわぞわする、聴きごたえのある語り手だった。
その子が、口を開いてこう言った。本当はね、他の話をしようと思ってたんだけど、さっきからさ、ザワザワって感じててなんだろーって思ってるんだけど、なんか一人多くない。
全員が固まった。まだ何人か披露が残っている。つまり、まだ消えていない懐中電灯がある。全部消えたら、多いのが確定するのではないか。
カオルちゃんという子が、指差し確認のように数えだした。女子二十三人。合ってる。
いや、うちら二十二人じゃなかったか。男子二十人と合わせて四十二人じゃなかったっけ。なんとなく靄がかかったように記憶が曖昧になっていく。合ってる、合ってるよね、と何人かがごにょごにょ言い出した。ミナちゃんは、んー、じゃあいいか、わたしの話は終わり、と言って懐中電灯を消してしまった。
順番が回ってきた自分は、この空気の中で話すのは無理ゲーだと思いながら、自分の体験談を披露した。きちんと脅かして、オチを入れて、絶叫のあとに笑いを取る、といういつもの方法で締めた。何人かに、怖かったんだけど、怖いと思ってしまった瞬間を返せ、と怒られた。これで恐怖心からは逃げられるだろうと思っていた。
最後の子の話が終わって、全員が布団に潜り込んだあと、あさこちゃんが言った。ねぇ。人数数える。
全員で拒否した。
その後、この話は誰一人として噂程度にも口にしなかった。今にして思えば、山の精の悪戯だったのかな、と不思議に思っている。
語り三・宿の廊下が夏でも冷たかった話
自分の両親はウインタースポーツが好きで、幼い頃からしばしばスキーに連れていってもらっていた。楽しい思い出のほうが圧倒的に多い。ただ一つだけ、毎回どうしても慣れなかったのが、夜の宿だった。辺境の地に無理やり建てたような古い宿は、幼い自分にとって何とも言えず不気味で、トイレに行くときは毎回誰かについてきてもらった。
大人になってからその話をしたら、母がこんな話をしてくれた。
三十年ほど前、両親がまだ新婚だった頃。よく各地のスキー場に足を運んで一晩泊まっていた。その中の一つ、自分も行ったことのある某県のスキー場での話だ。当時、その周辺には古いホテルが一つしかなくて、選択の余地がなかった。外壁はピンクの塗装で、なかなか規模のあるホテル。言葉だけ聞けばホラーとは程遠いが、山奥に一つしかないので、実際に見ると物寂しい雰囲気が漂っていた。
温泉に入って、夕食のバイキングを食べて、部屋に戻って酒を飲んで、心地よい疲れとともに眠りについた。
深夜二時頃、母が目を覚ましてトイレに向かった。そのとき父は布団でぐっすり寝ていて、いびきをかいていた。このホテルは各部屋にトイレがなく、共同トイレまで歩いていく必要があった。少し長いトイレを済ませて部屋に戻ると、父の姿がない。戻る途中で男子トイレに明かりが灯っていたので、入れ違いで行ったのだろうと思い、また布団に入った。
しばらくして仰向けに寝ていると、部屋の扉が開く音がして足音がした。父が戻ってきたと思った。ところがその足音は、父の布団ではなく、母のほうへ向かってきた。不思議に思ったが、なぜか体が動かなかった。
足音は布団の前で止まった。何だろうと思って声をかけようとしたその瞬間、何者かが覆いかぶさってきた。びっくりはしたが、足音の主は父だと思い込んでいたので、ふざけて倒れ込んできたのだと思った。ちょっと、やめてよー。笑い混じりに身もだえしていたそのとき、横目にとんでもないものが見えた。
隣の布団で、父がいびきをかいて寝ていた。
一瞬思考が止まって、血の気が引いて、叫び声をあげて振りほどこうとした。だがもうそこには何もいなかった。すぐさま父を叩き起こして状況を伝えたが、父はまったく気づいていなかったうえに、とんでもないことを言った。その夜、一度も起きていない。布団を離れていない。
母は確かに、トイレから帰ったら父の布団に誰もいないのを確認したと言い張る。
そのホテルは今も営業していて、自分も合宿で泊まったことがある。特別な違和感があるわけでもない、ごく普通の宿だ。強いて言うなら、夏でも廊下が異常に寒かった印象がある。
母は今でも、あのとき覆いかぶさってきたのが誰なのか、そもそも人間だったのかも分からないと言っている。
語り四・名簿になかった名前
これは引率の教員から聞いた話として流れている型だ。
新入生を交えた恒例の夏期合宿で、山奥のキャンプ場に来ていた。まだ少し肌寒さの残る夜、生徒たちは焚き火を囲んで、それぞれ持ち寄った怖い話を披露し合っていた。一人が古い村にまつわる呪いの話を始めて、それが佳境に入ったとき、焚き火の炎に照らされた生徒たちの中に、見覚えのない子が混ざっていることに気づいた。
周囲の生徒たちは誰もその子の存在に気づいていないようだった。声をかけるべきか迷っているうちに話が終わり、生徒たちは解散して、その子もいなくなっていた。
翌朝、朝食の準備が始まった頃、合宿の参加者名簿を改めて確認した。名前を確認しながら、一人ずつ顔を思い浮かべていく。昨夜見た子の名前は、どこにもなかった。
そして名簿に載っている生徒の数は、自分が把握している数と寸分違わなかった。
一体あの夜、誰を見たのか。焚き火の向こうの闇に潜んでいたものは何だったのか。答えは出ていない。
掲示板とSNSで、この話はどう転がってきたか
雪の行事の怪談がネットに乗ったのは、だいたい二〇〇〇年代前半の匿名掲示板からだ。オカルト板の実話スレッドに「スキー教室で」「林間学校で」という書き出しの投稿が定期的に流れて、それが後にまとめサイトで再編集され、二〇一〇年代にはブログや怪談投稿サイトへ、二〇二〇年代には動画と短尺のSNS投稿へと移った。
移動の過程で、話は確実に変質している。
掲示板時代の投稿は、やたら前置きが長かった。当時何年生で、どこの県で、どういう学校で、班のメンバーは誰と誰で、という説明が本題の三倍くらいある。それが信憑性の担保だった。読者は前置きの粒度で「これは本当っぽい」と判断していた。
まとめサイト時代になると、前置きが削られた。読みやすさが優先されて、いきなり本題から始まる形が主流になる。同時に、タイトルで結論を先出しする形式が定着した。「班に一人多い話」というタイトルがついた時点で、読者は何が起きるか知って読み始める。これは怪談としてはかなりの譲歩だ。
SNS時代には、さらに圧縮された。三十秒で語り切れる形に削られ、細部が落ちて、型だけが残った。その代わり、コメント欄で「うちの学校にもあった」が大量に集まるようになった。話の価値が、内容の怖さから共有可能性へ移った、というのが実感に近い。
反応のパターンにもいくつか層がある。
いちばん多いのが、同型の話を持ち寄る層だ。うちは長野の合宿だったけど同じ話があった、うちは新潟だった、うちは北海道だった。地名を差し替えれば成立する話だという事実が、逆にその話の普遍性の証拠として扱われる。この現象そのものが、口承の力学をよく表している。
次に多いのが、実務的にツッコむ層。リフトの支柱の話に対して「支柱の番号は運行管理上の記号だから怪談の設定に使うには弱い」と言ったり、コースアウトの話に対して「その斜面は林班で管理されていて実際に入れる」と言ったり。この層は話の腰を折るが、同時にディテールの精度を上げる役割も果たしている。反論されるたびに、話は少しずつリアルになる。
三番目が、事故と結びつけたがる層だ。これがいちばん厄介で、実在の事故の名前を出して「あそこで死んだ人だ」と言い切ってしまう。那須の事故についても、事故直後からこの手の書き込みが散発的にあった。当然ながら実名で語られる遺族がいて、慰霊碑があって、裁判が続いている案件だ。怪談として消費するのはまったく別の話で、遺族・被害者の会は事実の記録と再発防止のためにサイトを運営している。
そこに心霊譚を接続するのは、単純に筋が悪い。
四番目が、供養や慰霊の文脈に置き直そうとする層。近道に導かれて助かった話や、雪の下から声が聞こえて掘ったら人がいた話を持ち出して、雪山の霊は害をなさないと主張する。これは日本の山岳信仰の系譜に連なる感覚で、そこそこ根が深い。
主要な考察と、その反証
この手の怪談がなぜ発生するかについて、わりと定番の説明がいくつかある。順番に見ていく。
第一の説が、雪面と視覚の話だ。曇天のゲレンデでは影が消える。地面と空の境目が分からなくなる、いわゆるホワイトアウトに近い状態で、雪面の凹凸が知覚できなくなる。この状態だと、遠くの木の切り株や岩や雪の吹き溜まりが、立っている人に見えることがある。しかも距離感が狂うから、遠いものが近くに見える。人影を見たという証言の多くは、これで説明がつく。
反証としては、これが説明できるのは「見えた」までであって、「消えた」を説明できない、という点がある。切り株を人と誤認したなら、次に見たときも切り株はそこにある。指を差した瞬間に消えた、という証言の核心部分は残る。もっとも、目を離して視線を戻したときに脳が正しい解釈に切り替わっただけ、という説明は可能だ。可能ではあるが、証明はできない。
第二の説が、点呼の統計だ。同じ格好の子どもを一日十数回かぞえれば、数え間違いは必ず起きる。しかも雪の行事では、寒さで注意力が落ち、ゴーグルで視野が狭まり、口元がマスクや目出し帽で隠れている。かぞえるのは往々にして生徒自身か、疲れた教員だ。むしろ数が合うほうが不思議、というくらいの条件が揃っている。
反証としては、これは「数が合わない」を説明できても、「多い」に偏る理由を説明できない。純粋な数え間違いなら、少なくなる誤りも同じくらい起きるはずだ。ところが怪談として語り継がれるのは、ほぼ例外なく「多い」ほうだ。この非対称性は、統計だけでは説明できない。少ない場合はすぐに現実的な捜索が始まって、話が怪談にならないまま終わる、という説明はできる。
つまり「少ない」は事件になり、「多い」だけが物語になる。
第三の説が、建物の物理だ。スキー宿の廊下が冷たいのは、暖房効率のために客室だけを暖めて共用部を暖めていないからで、それ以上でも以下でもない。増築を繰り返した宿に不自然な行き止まりや使われていない区画があるのも当然で、そこに人がいないのは単に閉鎖しているからだ。乾燥室の温度差も、機械の稼働状況で説明できる。
反証というほどではないが、この説明は怪談を減らす方向には働かない。冷たい理由を知っていても、深夜の廊下は冷たい。物理的な説明は体感を打ち消さない。むしろ「暖房が入っていないから冷たい」と分かっている場所で寒気を感じたとき、人は「これは暖房のせいじゃない」と思ってしまう。説明が用意されていることが、逆に説明の外側を作る。
第四の説が、話型の伝播だ。学校の怪談が民俗学の研究対象として注目され始めたのが一九七〇年代から八〇年代ごろとされていて、その後、一九九〇年前後からテレビの心霊番組が学校を舞台にした怪談を全国区にした。一九九五年七月八日には映画『学校の怪談』が公開されて配給収入十五億円、その年の邦画四位を記録している。翌一九九六年七月二十日公開の第二作は十六億円で邦画二位。
原作は常光徹の小説と日本民話の会のコミックだった。花子さん、音楽室のピアノ、人体模型といったイメージが、この時期に全国の子どもに共有された。
つまり、雪の行事の怪談も、この巨大な流通経路に乗って型が均されたのではないか、という説だ。全国どこでも同じ話があるのは、実際に全国で同じことが起きているからではなく、同じ話が配られたからだ。
これに対する反証は、時系列だ。学校の怪談ブームより前、戦前の学校にも「旧校舎には幽霊が出る」「夜に校庭を歩いてはいけない」という言い伝えがあった記録が残っている。ブームが型を広めたのは確かだが、型そのものを発明したわけではない。ブームは増幅器であって発生源ではない。
第五の説が、いちばん身も蓋もない。危ないから語り継がれた、というものだ。近道するな、一人になるな、コース外に出るな、知らない人についていくな。この四つは、雪山で生きて帰るための最低限の規則だ。それを守らせるのに、規則として言うより怖い話として言うほうが効く。だから雪の行事の怪談は、全部が禁止事項の形をしている。
これへの反証は、それなら教訓的な話ばかりになるはずなのに、実際には教訓がまったくない話も大量にある、という点だ。宿の廊下で覆いかぶさられる話に教訓はない。班に一人多いという話も、それ自体は誰にも何も禁じていない。教訓説は、四つの型のうち二つしか説明できない。
なぜ雪の行事の怪談だけ、手ざわりが違うのか
ここが本題だと思っている。
学校の怪談は基本的に、日常の場所が舞台だ。トイレも音楽室も理科室も、毎日使う。その毎日使う場所に異物が混じるから怖い。「いつもの場所が安全ではないかもしれない」という感覚は、人間にとってかなり根源的な恐怖に触れる。
雪の行事は、この構造がひっくり返る。舞台が完全な非日常だからだ。それなのに、なぜか同じくらい、いやそれ以上に怖い。理由は五つくらいある。
一つめは、雪が音を吸うこと。積雪は多孔質で、空気を大量に含んでいる。だから音を吸収する。雪が降った直後の屋外が異様に静かなのは、気のせいではなく物理現象だ。この静けさの中では、聞こえるはずのない音が聞こえる。というより、普段は環境音に紛れている微弱な音が、急に前景に出てくる。廊下の軋み、風の唸り、遠くの何か。雪は、聴覚の閾値を勝手に下げる。
二つめは、身体の自由が構造的に奪われること。スキーウェアは厚くて動きにくい。ブーツは足首を固定して普通に歩けない。ゴーグルで視野が狭くなる。手袋で指の感覚が鈍る。ニット帽と目出し帽で聴覚も落ちる。逃げようとしても、そもそも逃げられる身体ではない。リフトの上ならなおさらだ。怪談が怖いのは、逃げられないときだ。雪の行事は、装備の段階で逃走能力を削ってくる。
三つめは、全員が同じ姿になること。レンタルウェアの色は数種類しかない。ゴーグルとネックウォーマーで顔が見えない。滑っている最中は後ろ姿しか見えない。個体識別が困難になった集団は、それだけでもう怪談の温床だ。誰が誰か分からない場所には、誰でもない誰かが入り込める。
四つめは、白の情報量が少なすぎること。人間の視覚は、情報が足りないと勝手に補完する。真っ白な斜面は、脳にとって情報の空白だ。空白は埋められる。埋めるための素材は記憶と予期から供給される。だから、人影を「見る」。しかもこの補完は、本人にとっては見えたのと区別がつかない。錯覚だと言われても、体験としては見たことになっている。
五つめが、いちばん重い理由だ。この行事だけ、本当に人が死ぬ。
学校のトイレでは人は死なない。音楽室でも死なない。だから花子さんの話は、どこまでいっても純粋な虚構として楽しめる。ところが雪の行事は違う。二〇一七年三月二十七日、実際に高校生七人と教員一人が死んだ。それより前、一九五〇年十二月三十日には谷川岳で五人が死んでいる。学校スキー教室のそり遊びで小学五年生が崖下十一・九メートルに転落して亡くなった事故もある。
二〇〇〇年七月四日の東京地裁判決は、主催者側の引率者について、滑走範囲を児童に明確に指示せず監視人員を配置しない状態で漫然とそり遊びを実施したという過失を認定した。同乗していた小学三年生の弟は全治二カ月の重傷を負った。
さらに時代をさかのぼれば、一九〇二年一月の八甲田山雪中行軍遭難事件がある。陸軍第八師団歩兵第五連隊が青森から八甲田山の田代新湯へ向かい、参加者二百十名のうち百九十九名が死亡した。生存者十一名、生存率五・二パーセント。一月二十四日の青森測候所の最低気温は氷点下十二・三度だったが、山中は氷点下二十度以下だったと推測されている。全遺体の収容が終わったのは五月二十八日だ。
同時期に同じ山域に入った弘前歩兵第三十一連隊の三十八名は、案内人を雇い、入念に準備して、全員が無事に踏破している。この対比は、百二十年以上ずっと語り継がれてきた。
日本人にとって「集団で雪山に入って死ぬ」というのは、実在する記憶なのだ。しかも新しく更新され続けている。
だから雪の行事の怪談は、怪談としてはあきらかに不完全な形をしている。ふつう怪談は、現実からきれいに切り離されているから安心して怖がれる。雪の怪談にはその切り離しがない。話の裏側に、実際の遺体と実際の遺族と実際の裁判記録が透けて見える。手ざわりが冷たいのは、そのせいだと思う。
なぜ、この話は広まったのか
型が全国で共有されている理由は、たぶん、雪の行事の構造がどこでもほぼ同じだったからだ。
バスに乗る。宿に着く。班に分かれる。点呼する。リフトに乗る。滑る。点呼する。戻る。点呼する。乾燥室にウェアを吊るす。大浴場に班ごとの時間で入る。部屋に戻る。布団が敷いてある。消灯する。誰かが怖い話を始める。
この手順が、北海道でも長野でも新潟でも山形でも、ほぼ同一だった。教育旅行という産業が、全国の学校に同じ体験パッケージを卸していたからだ。同じ構造の場所に同じ状況で放り込まれた子どもたちが、同じ心細さを感じ、同じ形の話を作る。それが数年おきに卒業生から在校生へ受け継がれて、地域名だけ入れ替わっていく。
そして決定的なのが、この行事には「語る時間」が組み込まれていたことだ。消灯後の部屋。教員が見回りに来るまでの三十分。日常では絶対に発生しない、同年代だけの、暗くて、狭くて、逃げ場のない時間。怪談を語るための舞台装置として、これ以上のものはない。学校は、意図せずして怪談の生産設備を毎年運用していたことになる。
その設備が、今まさに止まりつつある。スキー場は一九九九年の六百九十八カ所から四百十七カ所へ減った。札幌の中学校のスキー授業実施率は九割から五割以下になった。帯広はリンクの造成を断念した。那須温泉ファミリースキー場は二〇二二年三月二十一日に六十一年の歴史を閉じた。
行事がなくなれば、その行事の怪談も新しく生まれなくなる。既にある話が繰り返し流通するだけになって、そのうち「昔はそういう行事があったらしい」という前置きが必要になる。前置きが必要になった怪談は、だいたいそこから急速に痩せる。
それでも、あの静けさのことは覚えている
雪の行事の話をすると、たいてい二種類の反応が返ってくる。楽しかったという人と、二度とやりたくないという人だ。だいたい半々くらいの印象がある。
滑れる子にとっては最高の三日間だった。滑れない子にとっては、寒くて痛くて恥ずかしくて、ひたすら早く終わってほしい三日間だった。同じ行事なのに、体験の中身が正反対になる。この極端さも、学校行事としてはわりと珍しい。
そういう行事が減っていくことについて、正直、単純に惜しいとは言いにくい。金がかかりすぎるのは事実だし、教えられる大人がいないのも事実だし、参加を強制される側の理屈にも正当性がある。そして何より、この行事は実際に人を殺している。安全のために縮小されているのなら、それは正しい方向だ。
ただ、あの静けさだけは、代わりが利かない。
音が全部吸われて、白しかなくて、自分の呼吸だけがやたら大きく聞こえる。あの感覚を体験しないまま大人になる子が増えていく。怪談の生産設備が止まるというのは、そういうことでもある。
那須の慰霊碑には、八人の名前と、事故は不注意による人災と指弾された、という文言が刻まれている。遺族が守り続けているのは、怪談ではない。事実の記録だ。通知が守られなかったこと、それが十分に問題視されなかったこと、原因に手を触れないまま再発防止策が作られたこと。九年たっても納得していない、と会は書いている。控訴審の判決に対しても、不満の声が上がった。上告が続いている。
この記事の前半と後半は、扱っているものがまったく違う。前半は記録で、後半は物語だ。混ぜてはいけない。混ぜてはいけないのだけれど、同じ場所の話ではある。あの斜面のふもとで、六十一年間、毎年子どもたちが滑っていた。そのゲレンデの真ん中には、昔の雪崩死の記憶を留めるための木が一本、わざと残されていた。救助隊はその木を目印にして、新しい現場へ登っていった。
雪山というのは、そういう場所だ。人が死んだ場所に目印を立てて、その目印を頼りに次の人を助けに行く。怪談が生まれるのは当たり前だと思う。生まれた怪談が、近道するな、一人になるな、ロープの外に出るな、と言い続けているのも、たぶん当たり前なのだ。
三月下旬の那須岳は、まだ冬だ。前日にゼロだった積雪が、朝までに三十一センチ積もることがある。そういう山に、五十八人の高校生が集まっていた。安全登山の講習会という名前の行事に。
