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集団登校の列が一人多い朝――登校班・旗当番にまつわる通学路の怪談

ここからは、さっきざっと触れたところをもう一段掘っていく。読み終わったあとに考え直したくなるポイントを、ぜんぶ置いておきたい。

説明がついている版ほど、実は新しい

まず、この怪談がどこに分類されるかという話から。

これは心霊譚と都市伝説の、ちょうど中間にある。心霊譚なら、必ず「なぜそれが出るのか」という由来がつく。事故で亡くなった子。昔ここにあった何か。一方、都市伝説は由来抜きで「そういうものがある」で成立する。

「一人多い朝」は、由来がついたりつかなかったりする。

派生を並べてみるとよくわかるんだが、由来つきの型ほど新しいのだ。転校した子の霊だとか、昔この道で亡くなった子だとか。そういう説明が足された版は、ほぼ例外なくインターネット以降の語りになっている。

古い型は説明しない。ただ「数が合わなかった」だけで終わる。

ここに、口承とテキストの違いがくっきり出ている。口で語るときは、説明しないほうが怖い。文字で読ませるときは、説明があったほうが読み物になる。媒体が話の形を変えている実例として、この怪談はかなり良い標本なんだよな。

減るのは事件、増えるのは怪談

次に、「増える」怪異と「減る」怪異の非対称について、もう少し。

日本の怪談で人数が減る話といえば、神隠しだ。子どもが消える。祭りの日、夕暮れ、山、川。消える話は無数にある。

ところが神隠しは、ある時期から現代の怪談としては語りにくくなった。行方不明という事態が、現実の事件として重く扱われるようになったからだ。

子どもが消える話は、もう怪談として消費しづらい。実際に起きたら大事件だし、笑えない。

だから、行き場を失った「人数の異常」という感覚が、増えるほうにだけ流れ込んだ。そういう見方ができる。

減るのは事件、増えるのは怪談。この住み分けは、たぶん無意識のうちに社会が決めている。

七人ミサキは入れ替え、登校班は加算

七人ミサキとの関係も、もう少し正確に見ておきたい。

あれは人数が固定されている霊の集団で、行き会うと死ぬ。人数を増やさないために、誰かを取り殺して欠員を埋める。つまり七人ミサキは「入れ替え」の怪異だ。

一方、登校班の話は「加算」の怪異になっている。誰も減らずに、ただ増える。

この違いは大きい。

入れ替えの怪異は、共同体の中の死を説明する装置として機能する。誰かが死ぬ理由を、霊の側の事情として説明できるからだ。

ところが加算の怪異は、何も説明しない。誰も死なないから、説明する必要がない。

近代以前の怪異が死の説明装置だったのに対して、現代の怪異は説明を放棄している。そしてこの放棄が、逆に現代人にとっては怖い。理由がないほうが、逃げ場がないからだ。

守る側が、守るべき列の中に何かを見てしまう

旗当番の視点の型について、もう一つ言っておきたいことがある。

この型では、怪異を目撃するのが子どもじゃない。大人だ。しかもその大人は、子どもを守る役を担っている。

守る側が、守るべき対象の中に混じっている何かを見てしまう。

これは相当きつい構図だ。当番の母親がその後どうしたかまで語る版がほとんどないのは、たぶん語り手も処理しきれないからだと思う。

子どもの怪談は「怖かった」で終われる。でも保護者の怪談は、「守れたのか」という問いに直結してしまう。

だからこの型は、途中で切って終わるしかない。切れ味が悪いように見えるオチは、実は語りの必然だったりするんだよな。

大人の配置が先で、子どもの隊列が後だった

背景の制度について、年数を整理し直しておきたい。

学童擁護員、いわゆる緑のおばさんが東京で始まったのが一九五九年。六十七年前だ。集団登校を全国に押し広げた行政決定が一九六一年で、六十五年前。

この二年差が、けっこう象徴的だと思う。

まず「大人を道端に立たせる」ほうが先にあって、次に「子どもを列にまとめる」が来ている。順番としては、大人の配置が先だったのだ。

今の感覚だと逆に見えるかもしれない。でも当時の発想としては、危ない交差点に監視役を置くのが最優先で、子どもの側の隊列化はその補完だった。

そして六十年以上かけて、大人の側は職員からボランティアへ、さらに任意参加へと薄まっていった。子どもの列だけが、ほぼ当時のまま残っている。

この非対称な残り方が、今の通学路の風景を作っている。列はある。でも列を見ている大人は、昔より確実に少ない。

制度が変われば、怪談の構図も変わる

この「見ている大人が減った」という事実は、怪談の側にも影響していると思う。

旗当番の型が語られるためには、旗当番が存在しなきゃいけない。任意参加になって当番が減れば、あの視点の話は成立しなくなる。

逆に、子どもだけで歩く区間が伸びれば、班長視点の話は濃くなる。

怪談は空気中に漂っているわけじゃない。その時代の生活の形にぴったり張り付いて生きている。

段取りがよすぎる四点セット

一九九〇年前後の学校の怪談ブームについても、補足しておきたい。

あのとき何が起きたかというと、それまで学校ごと、学級ごとにバラバラだった話が、活字を通じて標準化された。

子どもたちは本で読んだ話を学校に持ち込み、自分の学校の設備に合わせて語り直す。地方色が消えたわけじゃなくて、共通の骨格の上に地方色が乗る形になった。

今回紹介した「九人目」の型も、たぶんその過程で骨格が整えられている。

集合場所。数える班長。指さす一年生。旗当番。この四点セットの並びは、あまりにも段取りがよすぎるのだ。口承だけでここまで整うのは考えにくい。どこかで誰かが、読み物として整形した痕跡だと思う。

朝の二十分だけが、まだ子どもだけの時間だ

そして、なぜ今もこの話が生き残っているのか。

学校の怪談が生まれにくくなった、という指摘は各所から出ている。子どもだけの時間が消えた。教室内の人間関係が小さなグループに分かれて、学校全体に広がる話が成立しにくい。教員が語らなくなった。どれも本当だと思う。

でも、登校班の怪談は例外的に生きている。

理由は単純だ。これが「子どもだけの時間」の最後の砦だからだ。

放課後は学童に行く。休み時間は教員の目がある。帰りは保護者が迎えに来る。そんな中で、朝の二十分だけは、いまだに子どもだけで道路を歩いている。

管理された一日の中に、ぽっかり空いた未管理の時間。怪談は、そこにしか棲めないんだよな。

数を数えるより先に、車を見てほしい

最後に、実際的な話をひとつ。

この怪談を怖がるのは自由だ。ただ、朝の通学路で本当に怖いのは車だ。列に突っ込む事故は現実に何度も起きている。

人数が一人多いことより、後ろから来る車のほうが百倍危ない。

だから、もし今これを読んでいる人が班長をやっている子の保護者だったり、当番に立つ側だったりするなら、数を数えるより先に車を見てほしい。怪談としてはそれで台無しなんだけど、まあ、そういうものだ。

ほとんどは数え間違いだ。ほとんどは

それでも、明日の朝、集合場所で数が合わなかったら。三回数えて三回とも違ったら。

そのときは、この話のことを思い出してくれてもいい。

思い出したところで何も解決しない。でも少なくとも、自分だけじゃない、ということはわかる。この話が六十年以上生き延びてきたのは、たぶんそういう、ささやかな共有のためだったんだと思う。

数が合わない朝は、日本中で毎朝どこかにある。ほとんどは数え間違いだ。

ほとんどは、な。

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