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体育館に並ばされたあの行列は、同じ注射針で刺されていた――集団予防接種の四十年と、四十数万人に及んだB型肝炎感染、そして「注射の日だけ列が一人多い」という怪談

体育館の床に、上履きの列ができる日

その日の朝は、教室に入った瞬間に空気が違う。

黒板の隅に「二時間目 保健室」とか「三・四校時 体育館」とか書いてある。それだけで、教室の温度が二度くらい下がるんだよな。

昭和の小学校に通った人なら、たぶん体が覚えている。注射の日だ。

体育館に長机が並べられて、白衣を着た大人が座っている。医者だったのか、保健所の人だったのか、子どもには区別がつかない。そのうしろで、看護婦さんが金属のトレーから注射器を取り上げて、薬液を吸っている。ステンレスのバットが蛍光灯を反射して、やたらまぶしい。消毒用アルコールの匂いが、体育館じゅうに立ちこめている。

あの匂いを嗅ぐと今でも胃のあたりが縮む、という人は本当に多い。

子どもたちは名簿順に並ぶ。出席番号がそのまま順番になる。上着を脱いで、シャツの袖をまくって、あるいは種類によっては上半身裸にさせられて、自分の番が来るのを待つ。列の先頭で何が起きているかは、よく見える。前の子の腕に針が入って、その子の顔が歪んで、列がひとつ進む。

また針が入って、また列が進む。

低学年だと、必ず誰かが泣く。そして泣き声は伝染する。一人が泣き出すと、三人目には列全体がぐずぐずになっている。先生が「大丈夫、大丈夫」と言いながら肩を押さえる。押さえられるとよけいに怖い。

逃げ出す子もいる。逃げた子は後日、保健所や区役所に連れていかれて、そこでまた同じ思いをする。

この光景を、当時の子どもたちは「順番待ちの恐怖」として記憶した。刑の執行を待っているみたいだった、と書き残している人もいる。隣の教室から「◯組さん、どうぞ」と呼ぶ声が聞こえた瞬間、全身の力が抜けた、と。

そして、その列には、当時ほとんど誰も気づいていなかったもう一つの意味があった。

前に並んでいた子と、自分と、うしろに並んでいた子は、同じ注射器で刺されていた。

「四人で一本」は、記憶違いじゃなかった

これがいちばん、話しても信じてもらえないやつなんだよな。

同窓会でこの話をすると、必ず「そんなわけないでしょ」と言われる。でも覚えている人は、はっきり覚えている。

医者の傍らの小机に、注射器が何本か並んでいる。一本一本に、四目盛り分の薬液が入っている。医者が子どもの肩に針を刺して、一目盛り分だけピストンを押す。「はい、次」。針は抜かれるが、交換されない。

次の子が立つ。また一目盛り。「はい、次」。そうやって四人続けて打つと、ようやく新しい注射器に持ち替える。使い終わった注射器は、保健室の隅の煮沸消毒器でぐつぐつ煮られて、また薬液を詰められて戻ってくる。

子どもたちの間では、妙に実務的な伝説が流通していた。「針を変えた直後がいちばん痛い」「最後の一人がいちばん痛い」。だから自分の順番が針の交換に当たりそうだと、こっそり列を抜けて並び直す子がいた。何番目が得なのか、真剣に議論していた。今から思えば、子どもたちは薬液の残量ではなく、他人の血液が付着した量を話題にしていたことになる。

これは記憶違いでも誇張でもない。国自身が、自分のところに上がってきた報告書の中でこの実態を確認している。

1960年(昭和35年)の予防接種事故報告には「5ccを入れて1人1ccあて皮下注射を行い」という記述がある。一本の注射筒に五人分を詰めて、一人ずつ押し出していたということだ。1969年(昭和44年)の報告には、もっと端的に「注射針は6人に1針で接種」とある。事故が起きたので報告が上がってきた。その報告書の中に、事故とは無関係の前提条件として、しれっと書いてあったわけだ。

六人に一本。

それが当たり前だったから、わざわざ問題として書かれていない。

ツベルクリン反応検査に至っては、もっと露骨だった。一本の注射筒に詰めたツベルクリンを、使い切るまで何人にも打っていい。針だけアルコール綿で拭けばいい。これは現場の手抜きではなく、国の告示にそう書いてあった。あとで詳しく触れるが、そこがこの話のいちばん気持ち悪いところだ。

そして注射筒――ガラスのシリンジそのものは、1988年(昭和63年)1月27日まで、一度たりとも「一人ごとに取り替えろ」と国から指導されたことがなかった。

一時間に百人という速度が、すべてを決めた

なぜそんなことになったのか。答えの相当な部分は、たった一つの数字に集約される。

1959年(昭和34年)1月21日、厚生省公衆衛生局長通知「予防接種の実施方法について」(衛発第32号)が出た。そこに「予防接種実施要領」が定められている。その中に、予防接種実施計画の作成という項目があって、こう書かれている。医師一人を含む一班が一時間に対象とする人員は、種痘では80人程度、種痘以外の予防接種では100人程度を目安とする。

一時間に百人。一人あたり三十六秒だ。

しかもこれは1959年に突然決まった数字ではない。もっと前から、もっと苛烈な目安が存在していた。1948年(昭和23年)11月の「種痘施行心得」では、急ぐ場合は医師一人あたり一時間に80人程度。同じ時期の「ジフテリア予防接種施行心得」「腸チフス、パラチフス予防接種施行心得」「発しんチフス予防接種施行心得」「コレラ予防接種施行心得」では、なんと一時間に150人程度とされていた。

一人あたり二十四秒である。1949年(昭和24年)10月の「ツベルクリン反応検査心得」と「結核予防接種施行心得」では一時間に120人程度。1950年(昭和25年)2月の「百日せき予防接種施行心得」では100人程度。

二十四秒から三十六秒の間に、予診をして、腕を出させて、消毒して、針を刺して、薬液を押して、抜いて、次を呼ぶ。この時間配分の中に、注射筒を一人ごとに交換して煮沸滅菌するという作業が入る余地は、物理的にない。

実際、行政の側もそれをわかっていた。検証報告書に収録されている厚生省公衆衛生局防疫課の文章(日本医事新報、1963年)には、こうある。「現在の如く予防接種を市町村において多数に実施する場合、注射筒を各人ごとに替えることは煩に耐えないことはおわかりと思う」。

煩に耐えない。つまり、面倒でやってられない、と当時の担当部署が公の医学誌に書いていた。針だけ替えれば感染防止は可能である、という理屈とセットで。

ここが肝心なところで、これは誰か一人の悪意ではない。制度が、最初から「速く、大量に」という一点に最適化されていた。戦後すぐの日本は、結核で年に何万人も死に、ジフテリアや腸チフスが普通に流行する国だった。予防接種法が1948年6月30日に成立し、同年7月1日に施行されたとき、予防接種は罰則つきの義務だったのだ。

対象は十二疾病。種痘、ジフテリア、腸チフス、パラチフス、百日咳、結核。発疹チフス、ペスト、コレラ、しょう紅熱、インフルエンザ、ワイル病である。市町村長や都道府県知事が期日と場所を指定して、住民を学校や公民館や保健所に集めた。逃げることは許されなかった。

そして、その集める仕組みは、驚くほどうまく機能したのだ。予防接種対象疾病の患者数は、昭和20年代には70万人を超えていたのが、昭和50年代には20万人以下になった。死亡数も昭和20年代の16万人前後から、昭和60年代までに5000人を下回った。行列は、確かに何十万人の命を救っている。

その同じ行列が、別の病気を配っていた。

昭和二十五年の告示は、なぜ現場に届かなかったのか

ここからが、この話でいちばん腹の立つ部分だ。

国はルールを作らなかったわけじゃない。作ったのに、届けなかった。

時系列で並べると、こうなる。

1948年(昭和23年)11月、厚生省告示第95号。種痘については「種痘針の消毒は必ず受痘者一人ごとに行わなければならない」、ジフテリア・腸チフス・パラチフス・発しんチフス・コレラについては「注射針の消毒は必ず被接種者一人ごとに行わなければならない」。

翌1949年(昭和24年)10月、厚生省告示第231号。ツベルクリン反応検査と結核予防接種について、こう定めた。「注射針は注射を受ける者一人ごとに固く絞ったアルコール綿でよく拂しょくし一本の注射器のツベルクリンが使用し盡されるまでこの操作を繰り返して使用してもよい」。

読み直してほしい。針を交換しろ、ではない。アルコール綿で拭いて、そのまま使い回していい。国の告示が、使い回しを公式に認可している。しかも「一本の注射器のツベルクリンが使用し尽くされるまで」だから、注射筒の中身がなくなるまで何人でも、という意味になる。

ただし、国はすぐにこれを直した。1950年(昭和25年)2月、厚生省告示第39号。厚生大臣名で、前年の告示を改正した。「注射針は、注射を受ける者一人ごとに乾熱または温熱により消毒した針と取り換えなければならない」と定めた。同じ月の告示第38号(百日せき)でも、同じことが定められたのだ。

注射器及び注射筒等は使用前に煮沸消毒すること。注射針の消毒は必ず被接種者一人ごとに行うこと。

つまり1950年の時点で、少なくとも針については、一人ごとの交換が国の正式な規範になっていた。

ところが、この昭和二十五年の告示は、現場に普及しなかった。

結核予防行政の実務手引きである「結核予防行政提要」には、改正前の昭和二十四年の記載――アルコール綿で拭いて使い回してよいという記載――が、そのまま載り続けたのだ。1967年(昭和42年)に出た初版でも直されていない。そして、そのまま1988年(昭和63年)まで放置された。

現場の保健婦や医師が実務で開くのは、官報に載った告示ではなく、手引きのほうだ。手引きには「アルコール綿で拭けばいい」と書いてある。だから現場はそうした。三十八年間ずっと。

2010年(平成22年)3月18日、衆議院議員の高橋千鶴子氏が質問主意書(質問第二八〇号)を提出して、この点を正面から問うた。昭和二十五年の告示はなぜ普及されず、あえてより危険な方法が継続されたのか。昭和六十三年に至るまで、注射器の連続使用の実態調査がなされたことはあるのか。

同年3月30日に返ってきた答弁書(内閣衆質一七四第二八〇号)の内容が、これまた凄い。

昭和二十五年の告示については周知したところである。だが、昭和四十二年の「結核予防行政提要」の初版の出版の際に御指摘の記載が改められなかった理由については、現在のところ確認できていない。昭和三十三年の予防接種実施規則第三条第二項がどのような経緯を経て定められたものであるかについても、現在のところ確認できていない。

そして実態調査については――厚生労働省において確認した限りでは、お尋ねのような実態調査が行われたことはない。

わからない、わからない、やっていない。四十年間、何十万人の子どもの腕に針を刺し続けた行政が、なぜそうしたのかを説明できる記録を持っていない。誰が決めたのかも、なぜ直されなかったのかも、もう辿れない。

怪談としては、これ以上のものはなかなかない。

国は知っていた――一九五三年のWHOの警告

「当時はわからなかったんだから仕方ない」という擁護が、この件では通用しない。裁判所がそう認定している。

2006年(平成18年)6月16日、最高裁判所第二小法廷の判決はこう述べた。欧米諸国においては遅くとも1948年(昭和23年)には、次の点について医学的知見が確立していた。血清肝炎が人間の血液内に存在するウイルスにより感染する病気であること。感染しても黄疸を発症しない持続感染者が存在すること。そして注射の際、注射針のみならず注射筒を連続使用する場合にもウイルスが感染する危険があること。

そして我が国においても遅くとも1951年(昭和26年)当時には、同様の医学的知見が形成されていた。したがって国は、遅くとも昭和二十六年当時には、当然に予想できた。集団予防接種の際に注射針・注射筒を連続して使用するならば、被接種者間に血清肝炎ウイルスが感染するおそれがあることを。

予防接種法が施行されたのが1948年7月。医学的知見が国内で形成されたと認定されたのが1951年。つまり、ほぼ最初から知り得たということになる。

念押しのように、1953年(昭和28年)にはWHO肝炎専門委員会が「肝炎に関する第一報告書」を発表している。そこにはこう書かれていた。血清肝炎は、輸血や感染した血液成分の注入によって伝染するのみではない。連続使用の皮下注射針又は注射筒に残る血液の、偶発的注入によっても起こる。それが明らかになった。

そして――短時間に何千人にも注射する一斉予防接種には、特別の問題がある。

一斉予防接種には、特別の問題がある。1953年に、世界保健機関が名指しで警告している。日本が体育館に子どもを並ばせ始めて五年目のことだ。

その後も警告は積み重なった。1975年(昭和50年)頃には、国内文献が現れる。歯科治療を含む医療行為や予防接種時の注射針の共用による、B型肝炎感染の危険性を指摘するものだ。1978年(昭和53年)には、久留米大学の谷川久一氏が「使い捨ての注射器や針を用いるか、あるいは1人ずつ注射器や針を取り換えるという処置がなされなければならない」と明記している。

1980年(昭和55年)には厚生省肝炎研究連絡協議会のB型肝炎研究班が「B型肝炎医療機関内感染対策ガイドライン」を作り、注射針の再使用禁止と注射筒の使用後滅菌を勧告した。1981年度(昭和56年度)の同協議会の研究報告書には、こういう記述まである。小学校入学後の抗体陽転率が高い地域があることから、学校内におけるHBV感染が改めて注目されるに至った、と。

学校で感染している。研究者はそこまで書いていた。

にもかかわらず、これらの知見は「医療機関内の感染対策」として処理され、集団予防接種の問題としては扱われなかった。検証報告書のヒアリングで、当時の国の担当者は昭和55年から57年頃について「特に報告を受けての検討をした記憶はない」「あくまで血液と肝炎という文脈だった」と答えている。情報は国の中に入ってきていた。ただ、それを予防接種行政の担当部署まで運ぶ配管がなかった。

動いたのは1987年(昭和62年)11月13日だ。WHOが肝炎ウイルス等の感染防止の観点から、注射針のみならず注射筒も取り替えるべきだという意見を出した。そこからである。これを受けて、1988年(昭和63年)1月27日、厚生省保健医療局結核難病感染症課長・感染症対策室長の連名通知「予防接種等の接種器具の取扱いについて」(健医結発第6号、健医感発第3号)が発出された。

予防接種及びツベルクリン反応検査について、注射針及び注射筒を被接種者ごとに取り換えること。

1948年7月1日から1988年1月27日まで。三十九年と七か月。この期間が、のちに国が法的責任を認める「責任期間」として、そのまま法律の条文に刻まれることになる。

ツベルクリンの赤い丸と、教室の中の序列

注射の日の記憶をもう少し掘り返してみる。

多くの人が最初に思い出すのは、ツベルクリン反応検査だろう。通称「豆注射」。前腕の内側に、ごく少量の液を皮内注射する。皮膚がぷっくりと五ミリくらい膨れる。それから四十八時間、その腕を洗いすぎるな、こするな、と言われて過ごす。

そして二日後、判定の時間が来る。

先生か保健の先生が、透明の定規を持って教室を回る。赤くなった範囲を測る。赤く腫れていれば陽性、腫れていなければ陰性。

子どもにとって、この「陽性」「陰性」ほど意味不明で、それでいて生々しい二分法はなかった。どっちがいいのか誰も教えてくれない。ただ、陰性だとBCGを打たれる。だから「陰性=もう一回注射」という等式だけが子どもの間に浸透していた。

そこから、あの奇妙な光景が生まれる。腫れていない子が、自分の腕をばしばし叩く。爪で掻きむしる。少しでも赤くしようとする。ツ反の仕組みがわかっていれば無意味な行為なんだが、当時は誰もそんなことを説明してくれなかった。

逆に、赤く腫れすぎると「強陽性」で精密検査に呼ばれる。腕の赤い丸の直径が、そのまま教室内の小さな序列になっていた。

陰性だった子は、BCGを打たれる。こちらの記憶はもっと鮮烈だ。

はんこ注射。正式には管針法、あるいは経皮接種法という。直径およそ二センチの円の中に、九本の短い針を植え付けた「管針」という器具を使う。ワクチン液を塗った腕に、この管針をぽんと押しつける。それを二か所。

つまり、針痕は合計十八個残る。

この管針を考案したのは、朽木五郎作という研究者だ。1961年(昭和36年)のこと。それまでの皮内接種法は免疫はしっかりつくが局所反応が強く、大きな瘢痕が残るのが問題だった。管針法なら針は皮膚のごく浅い部分にしか届かないので、反応が穏やかで痕も小さい。日本は1967年(昭和42年)3月の省令改正により、同年4月から全国的にこの方式へ切り替えた。

今も日本のBCGは、この方法で打たれている。

六十年以上使われ続けている、地味に偉大な発明だ。

ただ、子どもにとっては「九本の針が並んだ器具を腕に押しつけられる」という事実だけがある。あれは見た目が本当によくない。押しつけられたあと、じわじわ腫れて、膿んで、かさぶたが肌着にくっついて、ガーゼを巻いて過ごす日々がある。プールに入っていいのか、風呂でこすっていいのか、誰も正解を知らない。みんな手探りだった。

さらに上の世代には、種痘の痕がある。天然痘の予防接種だ。上腕に痘苗を塗って、乱刺針で直径三ミリから五ミリの円内を強く突く乱刺法か、種痘針で長さ五ミリの十字に切って痘苗をすり込む切皮法。痕は五ミリから二十ミリ程度で、周囲より白っぽく、表面がひきつれている。ケロイドになっている人もいる。

こうして、昭和生まれの日本人の上腕には、十八個の点、あるいは白く引きつれた丸が残った。

当時は、ただの「注射の痕」だった。誰の腕にもあるもので、風呂屋でも海でも珍しくもなんともない。

その痕が、五十年後に法廷で証拠として使われることになるとは、誰も思っていなかった。

鉄砲注射という、昭和のハイテク

もう一つ、特定の世代だけが共有している恐怖がある。

鉄砲注射。正式には自動噴射式注射機、ジェットインジェクター。商品名から「ハイジェッター」と呼ばれることもあった。

見た目はそのまま拳銃だ。ずしりと重いステンレスの筐体に、引き金がついている。これを腕に押し当てて引き金を引くと、高圧で射出された薬液が、圧力そのもので皮膚を突き破って体内に入る。針がない。

「プシュッ」「バキューン」という音とともに、列がものすごい速度で進んでいく。カチャカチャカチャカチャ、と次々に処理されていく。恐怖におののく子どもたちの前で、先生が「今回は針のない注射だから大丈夫」と説明する。針がないなら安全だろう、と子どもは思う。

実際には逆だった。針がない代わりに、同じノズルが何十人にも当てられる。皮膚から飛び散った微量の血液がノズルに付着し、それが次の子に噴射される。針の使い回しよりも短時間に大量の人間を処理するぶん、条件によっては危険が増していた可能性がある。

国は1967年(昭和42年)6月2日、厚生省公衆衛生局長通知(衛発第401号)でこの機器の使用について注意事項を出している。臨時の予防接種業務の能率向上の面では効果的だ。だが、わが国では十分な知見が少なく、必ずしもすべての予防接種に適したものとは言いがたい、という慎重な書きぶりだった。粘稠度の高いオイルワクチンや沈降ワクチンは使えないこと。

在来の有針注射器より短時間で終えられる反面、機械的になりがちなので予診がおろそかにならないよう注意すること。機械がやや重いため、同一人が長時間続けると腕が疲労して圧迫が不完全になる。斜めからの噴射をまねいて疼痛や出血を引き起こすおそれがあること。

その後、応用研究班の昭和61年度の報告で、まれに末梢神経マヒを起こす例があることがまとめられた。可能な限り副反応の発生を避けるべきという観点から、乳幼児のみならず小児等の予防接種には使用しないよう指導されることになる。昭和60年代初頭には、海外の事例として自動噴射式注射機によるB型肝炎感染リスクの存在も確認されていた。

鉄砲注射は、昭和40年代から50年代にかけてのわずかな期間、導入された地域の子どもたちに強烈な記憶だけ残して、消えていった。

四十数万人という数字は、どこから来たのか

ここで、この話の規模を確認しておきたい。

国内のB型肝炎ウイルス持続感染者は、110万人から140万人と推計されている。このうち、1948年から1988年までの間に受けた集団予防接種等の際に注射器が連続使用されたことが原因で持続感染した人は、最大で四十数万人――厚生労働省の資料では「40万人以上」あるいは「最大で約40数万人」とされている。

四十万人。東京都の区でいえば大きめの区の人口がまるごと入る。中核市が一つ消える規模だ。

この数字はどうやって出したのか。乱暴な概算ではなく、それなりに手の込んだ推計になっている。

厚生労働科学研究費補助金による研究班(研究代表者・多田羅浩三氏)が、この推計を担った。1950年から1989年に出生した集団について、まず二種類のデータを用意する。四十歳未満については日本赤十字社の初回供血者のHBs抗原陽性率を使う。四十歳以上については老人保健法に基づく節目健診受診者のHBs抗原陽性率である。これで各出生年ごとの持続感染率がわかる。

次に、その中から母子感染(垂直感染)の分を差し引く作業をする。人口動態統計から年次別・母の年齢別の出生児数を出する。母の年齢階級別のHBs抗原陽性率、文献から得たHBe抗原陽性率、母子感染率。これらを掛け合わせて、垂直感染によって生じたはずのキャリア数を算出する。当該年に出生した子どもの全体のHBs抗原陽性率から、この垂直感染分を引く。

残ったものが水平感染分だ。

その水平感染分の中に、集団予防接種による感染が含まれている。日常生活の中の小規模な水平感染も混ざるから、四十数万人という数字は上限としての性格を持つ。それでも、この規模になる。

ちなみに、垂直感染と水平感染の比率は、B型肝炎母子感染防止事業の前後で劇的に反転している。事業開始前の1981年から1985年に出生した若年献血者では垂直対水平が1対0.41で、母子感染が主役だった。事業開始後の1986年から1990年出生では1対3.29。母子感染がほぼ消えて、水平感染だけが残った。

この事業は1985年(昭和60年)5月17日の児童家庭局長通知「B型肝炎母子感染防止事業の実施について」(児発第431号)から始まり、九割以上の予防率を維持している。日本の公衆衛生が挙げた、まぎれもない大成功のひとつだ。

同じ役所が、同じ時代に、片方では四十万人を感染させ、片方では母子感染をほぼ根絶している。組織というものの不気味さが、この対比に全部出ている。

潜伏している、四十年

そして、この病気の恐ろしさは、時間の使い方にある。

乳幼児期にB型肝炎ウイルスに感染すると、九割以上が持続感染に移行する。免疫がまだできあがっていないので、体がウイルスを「敵」と認識できず、同居を許してしまう。これが免疫寛容期と呼ばれる状態だ。この時期、ウイルス量は血清1ミリリットルあたり一千万個から十億個という桁で存在しているのに、肝臓の数値は正常で、症状は何もない。無症候性キャリアという。

この期間が、数年から二十年以上続く。

つまり、体育館で針を刺された六歳の子は。その後の小学校も中学校も高校も大学も、就職も結婚も、何も知らないまま通過していく。ウイルスは静かにそこにいる。

思春期を過ぎて免疫が発達すると、体がようやくウイルスを異物と認識し、感染した肝細胞を攻撃し始める。この免疫応答期に、肝炎が起きる。だいたい十代から三十代にかけて、一過性に強い肝炎を起こす人が多い。その多くはHBe抗原陽性からHBe抗体陽性へと変化し(HBe抗原セロコンバージョン)、ウイルスの増殖が抑えられて、肝炎が鎮静化する。非活動性キャリアだ。

ここで安定する人が八割から九割。ここまでは、まだいい。

問題は残りだ。セロコンバージョン後も安心はできない。10パーセントから20パーセントの症例では、HBe抗原陰性のままウイルスが再増殖する。肝炎が再燃するわけだ(HBe抗原陰性慢性肝炎)。4パーセントから20パーセントではHBe抗体が消えてHBe抗原が再出現するリバースセロコンバージョンが起きる。

そして活動性の慢性肝炎が続くと、年率およそ2パーセントで肝硬変へ移行する。

肝硬変まで進むと、年率5パーセントから8パーセントで肝細胞癌が発生する。

六歳で感染して、四十歳で慢性肝炎、五十代で肝硬変、六十代で肝がん。そういう時間割になり得る。

検証会議が和解済みの被害者本人1311名に行ったアンケートには、その時間の重さが記録されている。B型肝炎に関する過去一年間の治療費の自己負担は、無症候性キャリアで平均約1.4万円だった。それが慢性肝炎で約7.7万円、肝硬変(重度)で約18万円、肝がんで約34万円に跳ね上がる。通院日数も、病態が進めば年に二十日から三十日になり、入院も増える。

自由記載欄には「インターフェロン治療を2回行いました。だが、その時の二、三年間はまるで地獄のようでした」「手術の痛み、再発を繰り返すことへの失望と恐怖、この気持ちは本人しか解らない」といった言葉が並ぶ。

さらに、病気そのものとは別の被害がある。感染していることを秘密にしている相手として「隣人」を挙げた人が41パーセント、「職場の同僚」が28.5パーセント、「親友」が23.6パーセント。嫌な思いをした経験では「民間の保険加入を断られた」が27.3パーセントで最多だった。

歯科で治療を断られた、問診票に記入したら順番を最後に回された、唾液でうつると誤解されて職場でマスクをつけられた、結婚を考えている相手に言い出せない――別の研究班に寄せられた相談事例には、そういう話が延々と並んでいる。五十歳未満の女性のB型肝炎患者では、差別を受けるなど嫌な思いをしたことがあると答えた割合が高い。37.9パーセントに達したという調査結果もある。

体育館の列は、四十年後に、こういう形で回収される。

平成十八年六月十六日、最高裁が線を引いた

裁判の話をする。

最初に国を訴えたのは、たった五人だった。1989年(平成元年)6月、札幌地裁。幼少期の集団予防接種における注射器の連続使用でB型肝炎ウイルスに感染したとして、国家賠償を求めた。

一審判決が出たのは2000年(平成12年)3月。原告敗訴。2004年(平成16年)1月の札幌高裁判決で一部勝訴だ。そして2006年(平成18年)6月16日、最高裁判所第二小法廷が、五人全員について因果関係を認めた。国の損害賠償責任を確定させた。

提訴から十七年が経っていたのだ。

賠償額は一人あたり550万円(慰謝料500万円と弁護士費用50万円)。

十七年かけて確定した判決に対して、国は妙な受け止め方をした。この判決は五名の被害者に係るものである。必ずしもすべての事案を解決する一般的な基準とはならない――そう考えて、広い救済措置を講じなかった。

四十万人の被害が推計される事件で、五人にだけ払って終わりにしようとしたわけだ。

だから、また訴訟になった。2008年(平成20年)3月以降、先行訴訟と同じ状況にある人々が全国で提訴を始める。札幌、新潟、東京、静岡、大阪、金沢、広島、鳥取、松江、福岡。十の地裁に係属した。2010年(平成22年)3月、札幌地裁などから和解勧告が示され、同年5月から裁判所の仲介で和解協議が始まる。

2011年(平成23年)1月11日と4月19日、札幌地裁が「基本合意書(案)」という所見を提示し、双方が受諾。そして2011年6月28日、国(厚生労働大臣)と全国B型肝炎訴訟原告団・弁護団の間で「基本合意書」が締結された。

その第一条にはこう書かれている。国(厚生労働大臣)は、責任を認める。集団予防接種等の際の注射器等の連続使用により、B型肝炎ウイルスに感染した被害者の方々に甚大な被害を生じさせたこと。そして、その被害の拡大を防止しなかったこと。感染被害者及びその遺族の方々に心から謝罪する。

そして同じ合意書の第五条には、真相究明と再発防止を第三者機関で行うことが明記された。これがのちの検証会議につながる。

2012年(平成24年)1月13日、「特定B型肝炎ウイルス感染者給付金等の支給に関する特別措置法」(平成23年法律第126号)が施行される。この法律の第二条は、恐ろしく即物的な定義から始まる。

「集団予防接種等の際の注射器の連続使用」とは、昭和二十三年七月一日から昭和六十三年一月二十七日までの間において、市町村長、都道府県知事その他厚生労働省令で定める者が、その期日又は期間及び場所を指定して行った予防接種又はツベルクリン反応検査が行われた際に、注射針、注射筒その他厚生労働省令で定める医療機器を、当該予防接種又はツベルクリン反応検査を受ける者ごとに取り替えることなく、使用したことをいう。

体育館の行列が、法律の条文になった瞬間だ。

給付金の額は病態で決まる。死亡・肝がん・肝硬変(重度)で3600万円、肝硬変(軽度)で2500万円、慢性B型肝炎で1250万円、無症候性キャリアで600万円。ここに、あとで触れる除斥期間の壁が絡んでくる。

その後も制度は継ぎ足されていく。2015年(平成27年)3月27日に「基本合意書(その2)」、2016年(平成28年)8月1日に特措法改正法施行で請求期限を五年延長するとともに発症等から二十年を経過した人にも支給。2021年(令和3年)6月18日の改正法施行で請求期限をさらに令和9年3月31日まで延長。2026年(令和8年)1月15日には「基本合意書(その3)」が締結された。

そして数字だ。令和8年1月1日現在、原告数は累計で145,393名。そのうち121,098名と和解が成立している。

五人から始まって、十四万五千人になった。それでも推計四十数万人の三分の一にすぎない。

除斥期間という、時間そのものが敵に回る制度

この訴訟をややこしくしているのが、除斥期間だ。

改正前の民法724条後段は、不法行為の時から二十年を経過すると損害賠償請求権が消滅すると定めていた。時効と違って、中断がない。援用も必要ない。二十年経ったら自動的に消える。

B型肝炎訴訟でこれが何を意味するか。無症候性キャリアの人については、除斥期間の起算点は「集団予防接種等を受けた時」になる。1960年に注射を打たれた人は、1980年に請求権が消えている計算だ。まだ病気が何も起きていない時点で。

発症した人については、その症状が発症した日が起算点になる。肝炎を発症してから二十年以内に提訴しなければならない。

四十年潜伏する病気に対して、二十年で消える権利。設計思想が根本的に噛み合っていない。

だから、除斥期間が経過した人には別枠の政策的な対応が作られた。二十年を経過した死亡・肝がん・肝硬変(重度)は900万円。肝硬変(軽度)で現在も罹患している人などは600万円で、それ以外は300万円。慢性B型肝炎で二十年経過の場合は、現在も慢性肝炎である人などが300万円、現在は慢性肝炎ではない人が150万円だ。無症候性キャリアで二十年経過なら50万円と定期検査費用等だ。

同じ病態でも、時間の経ち方だけで金額が一桁違う。

この除斥期間の起算点をめぐって、決定的な判断が出たのが2021年(令和3年)4月26日の最高裁第二小法廷判決だ。

原告は福岡県の六十代男性二人。1959年(昭和34年)9月までの乳幼児期に集団予防接種等を受けてB型肝炎ウイルスに持続感染し、無症候性キャリアとなった。一人は1987年(昭和62年)12月に、もう一人は1991年(平成3年)1月に、HBe抗原陽性慢性肝炎を発症。抗ウイルス治療によって2000年頃までにはセロコンバージョンを起こして肝炎は鎮静化し、非活動性キャリアになった。

ところが、一人は2007年(平成19年)12月頃に発症する。もう一人は2004年(平成16年)3月頃以降に、HBe抗原陰性慢性肝炎を発症した。

争点はシンプルだったのだ。除斥期間の起算点は、最初の発症の時か、それとも再燃の時か。

2017年の一審・福岡地裁は再発時を起算点として国に全額の賠償を命じた。2019年の二審・福岡高裁は「原告の病状は肝炎の再燃にすぎず、最初の発症時が起算点だ」として請求を棄却した。

最高裁は二審を破棄したのだ。最初の発症による損害と再発による損害は質的に異なる。原告らは再発によって新たな損害を受けたのだから、再発時を起算点とすべきである――そう判断した。賠償額算定のため福岡高裁に差し戻した。

この判決を受けて、国は2024年(令和6年)8月から、最高裁令和3年判決と同種の事案について個別に救済を始めたのだ。そして2026年(令和8年)1月15日の「基本合意書(その3)」で、三つの類型が正式に枠組みに入った。HBe抗原陰性慢性肝炎が再燃した者、HBe抗原陽性慢性肝炎が再々燃した者、HBe抗原陰性慢性肝炎が再々燃した者。それぞれ、赤字で示された発症時点が二十年の起算点になる。

ちなみに、除斥期間という制度そのものは、被害救済の面から批判が強く、2020年施行の改正民法で時効に統一された。もう新しくは生まれない。B型肝炎の被害者たちは、消えていく制度に最後まで殴られ続けた世代ということになる。

母子健康手帳という名の、証拠

さて、給付金をもらうには、要件を満たしていることを自分で証明しなければならない。

一次感染者の要件は五つある。B型肝炎ウイルスに持続感染していること。満七歳になるまでに集団予防接種等を受けていること。集団予防接種等における注射器の連続使用があったこと。母子感染でないこと。

その他、集団予防接種等以外の感染原因がないこと。

三つ目の「注射器の連続使用があったこと」は、意外なほどあっさり通る。昭和十六年七月二日から昭和六十三年一月二十七日までの間に出生したこと。それが戸籍で確認できれば、特段の事情がない限り、連続使用があったと認められる。国が責任期間中は使い回していたことを認めているから、そこは争わなくていい。

厄介なのは二つ目、「満七歳になるまでに集団予防接種等を受けていること」だ。

これを証明する資料は、まず母子健康手帳。次に予防接種台帳。この二つが原則になっている。

母子健康手帳。あの薄い手帳を、四十年、五十年、六十年保管していますか、という話だ。実家の引き出しの奥か、押し入れの段ボールか。親が捨ててしまったかもしれない。引っ越しで失くしたかもしれない。

火事や水害で消えたかもしれない。そもそも自治体によっては予防接種の記録を母子手帳に書かず「予防接種済証」を別に交付していた。だから、手帳が残っていても記載がないことがある。

予防接種台帳。これは自治体が作成・保管している記録簿だ。接種を受けた人の住所、氏名、生年月日、性別、実施年月日、予防接種の種類、接種量などが記載されている。原則としてこちらのほうが確実そうに思える。

ところが、予防接種台帳の保存期間は、法令上五年なのだ。予防接種法施行規則第三条は、定期の予防接種等を行ったときから五年間保存しなければならないと定めている。五年経てば、捨ててよい。というより、文書管理規程に従って捨てられる。

厚生労働省は、各市区町村の予防接種台帳の保存状況を調査して一覧を公表している。それを眺めていると、静かに背筋が寒くなる。昭和63年以前の台帳が残っている市区町村の欄に、飛び飛びに自治体名が並ぶ。保存期間の欄には「昭和63年1月から昭和63年12月まで」――つまり最後の一年分だけ、という自治体がいくつも並ぶ。「昭和62年4月から昭和63年12月まで」。

「昭和60年7月から昭和63年12月まで」。

備考欄には「一部の対象者のみ」「接種日は年月のみ記載」「接種日の記載なし」「予防接種の種類・接種日不明」「対象者の生年月日不明」。

昭和三十年代、四十年代の台帳が残っている自治体は、ごく一部だ。多くの人にとって、自分が注射を打たれた記録は、この世に存在しない。

そこで登場するのが、第三の証拠だ。母子健康手帳も予防接種台帳も出せない場合、三点セットを揃えることになる。母子健康手帳を提出できない旨の陳述書。集団予防接種等に関する陳述書。そして――接種痕意見書だ。

接種痕意見書とは、種痘またはBCGによる接種痕が残っていることを医師が確認して書く書類だ。厚生労働省が様式を定めていて、医療機関で作成してもらう。確認のポイントも定められている。BCGの経皮法(管針法、いわゆるはんこ注射)では、九つの針が三かける三に等間隔で固定された管針を使う。これを一回の接種につき二か所に押すので、針痕は合計十八個になる。

複数回受けていればその分だけ増える。

種痘や皮内法のBCGの痕は五ミリから二十ミリ程度だ。周囲より白っぽかったり、表面にひきつりや凸凹が見られたり、ケロイドになっていたりする。上腕の外側にある。

要するに、こういうことだ。

四十年前、あるいは五十年前、六十年前に体育館で腕に押しつけられた器具の痕を、今、医師がじっと見て、「あります」と書く。その一枚の紙が、国から賠償を受けられるかどうかを決める。

学校が刻んだ痕が、学校が捨てた記録の代わりになる。これ以上に不気味な因果があるだろうか。

「注射の日だけ、列が一人多い」

ここまでが事実だ。ここからが噂の話になる。

集団予防接種にまつわる怪談は、全国的に統一された型を持っているわけではない。トイレの花子さんのように名前がついて全国区になったものとは違う。断片的に、あちこちの学校で、似たような形で語られてきた。ネットの掲示板や実話怪談の投稿サイトに沈殿している話を拾い集めると、いくつかの型が浮かび上がってくる。

いちばんよく見かけるのが、「注射の日だけ、列が一人多い」という話だ。

体育館に並ばされる。名簿順だから、自分の前後に誰がいるかは決まっている。ところが、注射の日だけ、列の人数が合わない。先生が数えると一人多い。もう一度数える。

やっぱり一人多い。出席番号を順に呼んで確かめると、ちゃんと全員そろっていて、誰も余っていない。でも数えると一人多い。

そういう話だ。

派生として「保健室の前で、呼ばれるはずのない名前が呼ばれる」がある。廊下に並んで待っていると、中から名前を呼ぶ声がする。聞いたことのない名字だ。誰も返事をしない。誰も入っていかない。

しばらくして、もう一度同じ名前が呼ばれる。そして、列がひとつ進む。

さらに「もう終わったはずの列に、まだ並んでいる子がいる」という型。全員の接種が終わって、体育館の長机が片付けられ、子どもたちは教室に戻っている。放課後、用事があって体育館を覗くと、片付いた床に、まだ一人だけ並んで立っている子がいる。声をかけると、こっちを見る。そのまま消える。

そして「注射の跡が消えない子」。BCGの痕が、何年経っても膿んだまま乾かない子がいた。転校していった。あるいは、いつのまにか名簿から消えていたのだ。同級生に聞いても誰も覚えていない。

どれも、ぞっとするほどよくできている。よくできているのは、たぶん偶然じゃない。

体育館の床に、影が一つ多かった話

ここからは、噂として語られてきた三つの話を、なるべく聞いたままの形で書いておく。裏が取れる類のものではない。ただ、複数の場所で似た形が語られてきた、という事実だけが残っている。

一つめ。昭和五十年代後半、関東のある小学校の話として伝わっているものだ。

語り手は当時、小学四年生だった。その学校では、集団接種は体育館で行われていた。ステージの前に長机を三つ並べて、学年ごとに時間をずらして呼ばれる。冬で、窓から低い日が差し込んでいた。体育館の床は、この時間だけやたらと影が長くなる。

その日、担任がいつになく神経質だった。人数が合わないと言うのだ。四年二組は三十八人。二人休んでいたので三十六人のはずだった。担任は列の先頭から順に肩を叩いて数えていく。

三十七。もう一度。三十七だ。三度目も三十七。

「誰か他のクラスの子が混ざってるでしょう」

担任がそう言って、出席番号を順に呼んだ。全員が返事をした。三十六人ぶんの返事があって、余った一人はいなかった。それでも、頭を数えると三十七いる。

結局、担任は数えるのをやめた。時間が押していたからだ。接種は普通に終わって、みんな教室に戻った。

その帰り、語り手は体育館の後片付けを手伝わされた。マットを運んでいて、ふと床を見たのだ。差し込んだ日で、ステージ前の床に、並んで待っていた場所の影がまだ残っているように見えたという。もちろん人はいない。ただ、床の木目に沿って、細長い影のようなものが、等間隔に並んでいた。

数えると、影は三十七あった。

語り手は三十年後にこの話を同窓会でしたのである。すると、当時の別のクラスにいた同級生が、顔色を変えてこう言ったそうだ。うちのクラスも、あの年の注射の日だけ、人数が合わなかった、と。

保健室の前で、聞いたことのない名字が呼ばれた

二つめ。こちらは中学校の話として伝わっている。時期は昭和の終わり頃、地方都市。

その中学では、集団接種は保健室で行われていた。クラスごとに廊下に一列に並んで、前の人が出てきたら次が入る。廊下は三階まで列が伸びていた。保健の先生が廊下側に立っていて、待っている生徒の腕を一人ずつアルコール綿で拭いていく。一枚の綿花で、乾くまで何人でも拭く。

それが当たり前だった。

語り手は、たまたま列の最後尾にいた。名字が「わ」で始まるからだ。前の人がどんどん減って、廊下に残っているのが自分だけになった。

その時、保健室の中から、名前を呼ぶ声が聞こえたのだ。

「みなかた」

聞いたことのない名字だった。この学年に「みなかた」という生徒はいない。同じ学校に三学年分いても、たぶんいない。語り手は、誰かの聞き間違いだろうと思った。自分の番だと思ってドアを開けようとしたら、中からもう一度、同じ声が聞こえたのだ。

「みなかた」

ドアは開かなかった。というより、開けようとした手が動かなかったという。しばらくして、中からドアが開いて、保健の先生が「次の人、どうぞ」と言った。語り手が入っていくと、保健室の中は普通だった。医者が座っていて、看護婦がいて、注射器が並んでいたのだ。

打たれたあと、語り手は保健の先生に聞いた。さっき、みなかたさんって呼んでませんでしたか。

保健の先生は、少し黙ってからこう言った。「うちの学校、毎年一人多く名簿が来るのよ」

それ以上は教えてくれなかった。語り手は卒業するまで、その名字をどこかで見かけないか気にしていたが、一度も見なかった。ただ、卒業アルバムの制作を手伝ったとき、資料室の古い書類の束の中に、予防接種の実施記録のような紙があって。そこに書かれた名前を一人ずつ確認していったら、途中で気分が悪くなってやめたという。理由を聞くと、「名前の数が、ページの人数と合わなかったから」と答えた。

まだ並んでいる子と、乾かない腕

三つめ。これは複数の地域で、細部を変えて語られている型だ。ここでは、四国のある小学校の話として伝わっているバージョンを書く。

昭和四十年代。その学校では、ツベルクリン反応検査とBCGが体育館で行われていた。ツ反を打って、二日後に判定して、陰性の子だけが残ってBCGを打たれる。

語り手は陰性だった。だから二回目の列に並んだ。陰性の子は学年の三分の一もいなかったので、二回目の列は短かった。短かったから、誰がいるかはっきり見えた。

そこに、見覚えのない子がいたという。

同学年ではない。上級生にも下級生にも見えない。ただ、体操服を着て、袖をまくって、列の中ほどにおとなしく立っていた。顔色が悪かった。語り手はその子を見て、なんでこの子は知らない顔なんだろう、と思ったのだ。

でも、それ以上は考えなかった。子どもというのは、そういうことをあまり深く考えない。

自分の番が来て、管針を腕に押しつけられて、痛いような痺れるような感覚があって、終わった。振り向くと、列はもう終わっていた。うしろに誰もいなかったのだ。あの子はいなかった。

問題はそのあとだ。語り手のBCGの痕は、なかなか乾かなかった。膿んで、かさぶたになりかけては剥がれ、また膿んだ。ガーゼを巻いて学校に通った。半年経っても、痕の一部が白く盛り上がったまま残った。

医者は、こういう子もいると言ったのだ。

その痕は、今も残っている。そして語り手は、五十歳を過ぎてから受けた健康診断で、B型肝炎ウイルスの持続感染が判明した。

弁護士に相談したら、母子健康手帳はありますか、と聞かれた。ない。予防接種台帳は残っていますか、と聞かれた。自治体に問い合わせたら、その年代の台帳は保存期間を過ぎて廃棄済みだと言われた。

最後に、医者に腕を見せることになったのだ。医者は上腕の外側をじっと見て、白く盛り上がった痕を指でなぞって、書類にこう書いた。接種痕を認める。

語り手はこう言っている。あの日、列の中にいた知らない子の顔を、五十年経った今でも思い出せる。自分の腕の痕を見るたびに思い出す。あの子はたぶん、自分の順番を待っていたんじゃない。誰かの順番を、代わりに待っていたんだと思う、と。

数が合わない、という怪談の系譜

この手の噂が生き延びる理由は、日本の学校怪談の構造を見るとよくわかる。

「員数が合わない」という型は、学校怪談の中でも特別に強い。

卒業アルバムの集合写真を数えたら、名簿より一人多い。何度数えても多い。よく見ると、誰も知らない子が写っている。運動会の写真にも、遠足の写真にも、教室のスナップにも、自然な距離感で混ざっている。この型は、投稿型の怪談サイトを漁れば無限に出てくる。

クラスの人数が合わない、という型もある。係決めで黒板に名前を書かせて数えたら一人多い。出席番号順にチェックしながら数え直すと、クラスにいない苗字が一つ残る。そして、それが一度きりではなく、学期が変わってもまた起きる。

余る、という型もある。席替えのくじが一つ余る。給食のデザートが一つ余る。プリントが必ず一枚余る。しかも配る直前まで、誰も間違いに気づかない。

あるクラスでは、余ったものは全部「座敷さん」のものというルールを作って、机とロッカーまで用意して、卒業まで一緒に過ごしたという。

林間学校の班分けで、先生が名簿を読み上げるときに、いないはずの六人目の名前を呼ぶ。部屋の隅で返事がする。翌朝、そこには誰もいない。でも班員全員の中に、その子と一緒に歯を磨いた記憶だけが残っている。

百物語をやったあと、人数を数えたら一人足りない。そして、誰がいなくなったのか、誰も思い出せない。

民俗学的に見れば、これは共同体が「無名の死者」を処理しそこねたときに出る症状だ。民俗学者の常光徹は1990年に講談社KK文庫から『学校の怪談』を出して、子どもたちの語る怪異を初めてきちんとした調査対象にした。その後の増補である『学校の怪談 口承文芸の展開と諸相』(ミネルヴァ書房、1993年、2013年に新装版)では、学校という空間の構造と子どもの心性の関係が論じられている。

宮田登は『妖怪の民俗学』(岩波書店、1985年)で、戦後の学校怪談には無名の死者を共同体が事後的に祀り直す機能があると指摘した。松谷みよ子の『現代民話考7 学校・笑いと怪談・学童疎開』には、学校空間の怪異が大量に採集されている。

学校は、大量の子どもを一か所に集めて、数え、並べ、記録する装置だ。出席簿があり、名簿があり、出席番号があり、身体測定の記録があり、予防接種の記録がある。人間を数として扱うことが業務そのものになっている。

だからこそ、その数が狂ったときに怪異が立ち上がる。

そして、その学校が実際に「数えて並べて刺す」ことをやっていた日が、注射の日だった。

この噂が、昭和の終わりに生まれたわけ

いつ頃からこの手の噂が語られ始めたのかは、正確にはわからない。学校怪談というジャンル自体、記録され始めたのが1970年代から80年代なので、それ以前のものは口の中で消えている。

ただ、時代の区切りを並べてみると、噂が定着しそうなタイミングは見えてくる。

1988年1月27日、注射針と注射筒を一人ごとに取り替えるよう通知が出る。1994年(平成6年)の予防接種法改正で、義務規定が努力義務に変わり、一般臨時の予防接種が廃止された。痘そう・コレラ・インフルエンザ・ワイル病が対象から外れた。学童へのインフルエンザ集団接種が制度から消えたのはこのときだ。

実際には1980年に群馬県前橋市の医師会の調査などをきっかけに集団接種の中止が広がっている。法改正の頃には全国の学校でほとんど行われなくなっていた。2003年(平成15年)度からは小中学校でのツベルクリン反応検査とBCG再接種が廃止された。2005年(平成17年)4月以降はツ反そのものがほぼ姿を消したのだ。

つまり、1990年代に小学生だった世代が、体育館に並ばされた記憶を持つ最後の世代になる。

怪談というのは、その慣習が終わるころにいちばん強く語られる。誰も体験しなくなった直後の、まだ「そういえば昔あったらしい」と語れるうちに、話は形を整える。上級生が下級生に「注射の日には列が一人多かったんだぞ」と語る。下級生はもう注射の日を体験しない。だから確かめようがない。

確かめようがないから、話は死なない。

そこへ、2006年の最高裁判決と2011年の基本合意が重なった。テレビや新聞が「注射器の使い回し」「四十万人」という言葉を流し始める。体育館に並ばされた記憶を持つ人々が、一斉に自分の腕を見た。

噂と事実が、この時期に合流したんだと思う。

善意でつくられた行列が、四十年後に病名になって返ってくる

なぜこの話がここまで気持ち悪いのか、少し整理しておきたい。

まず、加害者がいない。

正確に言えば、法的な責任主体としての国はいる。最高裁がそう認定して、大臣が謝罪した。でも、体育館で針を持っていた医者にも、アルコール綿を配っていた保健婦にも、名簿順に並べと言った担任にも、悪意はない。彼らは全員、子どもを病気から守るためにそこに立っていた。目の前の子どもを助けようとして、その手で別の病気を配っていた。

検証会議の提言は、この構造をかなり率直に認めている。リスクの認識・管理・対応の観点から振り返ると、不十分または不適切なところがあった。結果が重大であるが発生頻度が低いと考えられるリスクの、把握と対応である。国において予防原則の徹底が不十分で、リスク認識が不足した。また適期に更新されず、行政としての対応が適期になされなかった国の体制と体質が大きな問題であった。

専門的な情報を収集・分析・評価・伝達する体制が不十分で、収集した情報が分散して保有されていたのだ。市町村には体系的な対応を可能とする枠組みがなく、予防接種への取組は関係者の個々のリスク認識に依存したものになっていた。

そして、いちばん重いのはこの一行だ。

集団予防接種等によるB型肝炎感染の拡大は、回避可能であった。注射針・注射筒の交換について、適切な時期に適切な方法で指導・周知を行っていれば、である。

回避可能であった。誰も悪意を持たず、誰もサボらず、それぞれの持ち場で誠実に働いて、それでも四十万人が感染した。どこか一か所で誰かが手引きを直していれば、そうはならなかったのだ。

次に、時間の非対称がある。

行列に並んだのは、五歳とか六歳とか、その年齢だ。並べと言われたから並んだ。拒否するという概念すらなかった。その三十秒の出来事の結果が、五十年後に肝がんという形で出てくる。原因と結果の間に、人生がまるごと一本入っている。

そして、記録の非対称がある。

四十年前の出来事の証拠を出せと言われる。出せる人は運がいい。母子手帳が残っていた、台帳が残っていた自治体だった、腕に痕が見える。出せない人は、同じ行列に並んでいたのに、同じ注射器で刺されたのに、それを証明できない。

自分の人生を決めた三十秒の記録が、どこにも残っていない。学校は数えて、並べて、記録して、そして捨てた。

最後に、この話が反転構造を持っていることだ。

学校で怖いものといえば、普通は逸脱した場所にある。夜のトイレ、誰もいない音楽室、理科室の人体模型。日常から外れた場所、規律の届かない場所に、怪異が出る。

ところが集団予防接種は、学校がいちばん学校らしく機能している場面だ。全員に通知が行き、全員が名簿順に並び、全員が同じことをされる。統制と善意と効率が、完璧に噛み合っている。その、いちばん正しく回っている歯車の中から、災いが出てきた。

だから怖い。逸脱ではなく、遵守が人を傷つけた。列から外れた子ではなく、きちんと並んだ子が感染した。

「注射の日だけ列が一人多い」という噂は、この構造を子どもの言葉でぴたりと言い当てている。あの列には、名簿に載っていない何かが並んでいた。あの列には、誰も数えていなかったものが混ざっていた。実際、混ざっていたのだ。ウイルスという、名簿のどこにも記載されない参加者が。

なぜこの話は消えないのか

体育館の行列は、四十年近く続いて、1988年1月27日に終わった。

でも、列そのものは終わっていない。

場所が変わっただけだ。今度は地裁の窓口に、弁護士事務所に、肝疾患診療連携拠点病院の待合室に、人が並んでいる。累計145,393名。そのうち121,098名が和解した。推計される四十数万人には、まだ遠い。

そして、この列にも締切がある。給付金の請求期限は、現在のところ令和9年3月31日。二十年の除斥期間という時計も、それぞれの人の中で別々に動いている。四十年潜伏する病気に、二十年の時計が組み合わされている。どちらの時計が先に鳴るかで、受け取れるものが桁で変わる。

たまに考えることがある。

あの体育館に、本当に誰か余分に並んでいたとして、それは誰だったんだろう。

一人多かったのではなく、一人分の記録が足りなかったのだとしたら。台帳が捨てられ、手帳が失われ、名前が残らなかった誰か。あの日確かに並んでいたのに、並んでいたことを証明できない誰か。その誰かが、今も列に立ったまま、自分の番を待っているのだとしたら。

そう考えると、「注射の日だけ列が一人多い」という噂は、怪談の形をした帳簿の話に見えてくる。合わない数は、幽霊が増えたせいじゃない。消された記録のぶんだけ、こちら側が足りていないんだ。

腕をまくってみてほしい。上腕の外側、肩と肘の間のあたり。

十八個の小さな点が、うっすら残っている人がいる。あるいは、白く引きつれた五ミリから二十ミリの丸が。

それは、あなたがあの列にいたという証明書だ。国が公式に認めた、唯一残っているかもしれない証拠でもある。

そして同時に、あの日、同じ注射器が何人の腕を通ってあなたのところに来たのかを、永久に教えてくれない痕でもある。

前に誰が並んでいたか、覚えているだろうか。

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