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四時間目の教室は、いつもひとり多い――定時制・夜間高校の怪談を、暗い校舎ごと掘り起こす

給食のあとの四時間、あの校舎はまるごと別の学校になる

夜の学校が怖い、っていうのは怪談の世界では常識みたいな話だ。廊下は暗いし、理科室には人体模型があるし、プールの水面はやたら黒い。ただ、あれって基本的に「本来いるはずのない時間に、いるはずのない場所に忍び込んだ」から怖いんだよな。侵入者の恐怖だ。夜の学校は無人であるべきで、その無人を破っている自分が異物だから、背後が気になる。

ところが世の中には、その夜の学校を「日常の教室」として使っている人たちがいる。定時制、いわゆる夜間高校の生徒と先生だ。彼らにとって夜の校舎は肝試しの舞台じゃない。授業を受け、給食を食べ、掃除をして帰る、ごく普通の職場であり学校である。ここが決定的に面白いところで、怪談の舞台として最強のロケーションが、誰かにとっては完全に生活の場になっている。

この二重性が、定時制の怪談を他の学校の怪談とまるで違うものにしているんだ。

具体的に想像してみてほしい。夕方の五時前後、生徒がぽつぽつ集まってくる。仕事帰りの人もいるし、昼間はずっと家にいて、夕方になってやっと動き出した人もいる。五時半あたりで給食。食堂か教室で、あたたかいものを食べる。そこから四時間目まで、だいたい九時前後まで授業がある。掃除して、鍵を締めて、九時半には校門を出る。これが日常のリズムだ。

で、その時間帯の校舎ってのは、全体が点いているわけじゃない。定時制が使うのは校舎の一部だけなことが多い。三階の東側だけ、とか、二号館の一階と二階だけ、とか。残りは真っ暗なんだよ。昼間部の教室も、特別教室も、体育館の裏側も、全部が闇の中に沈んでいて、その中で自分たちのいる区画だけが蛍光灯で白く光っている。外から見ると、巨大な黒い箱に窓が数個だけ点いているように見える。

あの光景を見たことがある人は、それだけで話の半分は理解できるはずだ。

つまり定時制の校舎には「境界」がめちゃくちゃ分かりやすい形で存在している。明るい側と暗い側。生活の側と、無人の側。そして両者を隔てているのは壁じゃなくて、ただの照明のスイッチひとつだ。廊下を十メートル歩けば、あなたは日常から夜の学校に入れる。そのくらい薄い膜で仕切られている。怪談ってのは境界の話だから、この構造は怖い話にとって最高すぎるんだよな。

そういう場所で語り継がれてきた話が、ネット上には点々と落ちている。まとめきったものは意外と存在しない。学校の怪談の本を開いても、扱われているのはたいてい昼間の学校の七不思議で、定時制はほとんど出てこない。だからこの記事では、定時制・夜間高校まわりで語られてきた怪異を、できるだけ拾い集めて、一本の読み物として並べ直してみる。中心にあるのはやっぱり、いちばん有名な「夜間部にだけ来る生徒」の話だ。

「四時間目だけいる子」――話の骨格を、細部まで再現してみる

いちばん流通している形を、できるだけ丁寧に再話する。細部は語り手によってぶれるけど、骨はだいたい共通している。

舞台は地方都市の県立高校の定時制課程。学年は一クラスずつしかなくて、四年生の教室でも在籍は十数人。実際に毎日来るのは八人か九人。定時制ってのはそういうもので、名簿の人数と教室の人数は最初から一致しない。バイトのシフトで来られない日があるし、体調で休む子もいるし、そもそも数か月来ていない子の机も教室にはそのまま置いてある。空席が当たり前の空間なんだ。ここが話の土台になっている。

語り手は四年生の男子生徒。仕事は昼間、市内の運送会社の倉庫でやっていて、五時に上がってそのまま自転車で学校へ来る。給食のあとの四時間、それが彼の学校生活のすべてだった。話が始まるのは秋のはじめ、九月の終わりごろ。日が落ちるのが早くなって、登校する時点でもう外が薄暗い、あの時期だ。

ある晩、四時間目の授業中に、彼はふと違和感を覚える。国語の授業で、教科書を回し読みしていた。順番に一段落ずつ読んでいく、あのだるい形式。読む順番は席順で、彼の位置からだと自分の番までにあと何人か分かるようになっている。数えていたら、数が合わなかった。あと三人のはずなのに、四人分の声が聞こえた、というのがこの話の最初の引っかかりになる。

彼は最初、自分が数え間違えたと思った。そりゃそうだ。仕事で疲れているし、四時間目なんて眠気のピークだ。ただ、そのあと妙なことに気づく。教室の後ろの席、窓から二列目のいちばん後ろ。そこは去年から誰も座っていない席のはずなのに、人がいた。制服じゃなくて私服。定時制は私服可のところも多いから、それ自体は変じゃない。紺色のパーカーみたいなものを着た、髪の長い子。うつむいて、机に教科書を開いている。

不思議なのは、それを見ても彼が「誰だっけ」としか思わなかったことだ。ここは重要な部分で、この話のいちばん巧いところでもある。定時制の教室では、久しぶりに来た生徒がいても誰も騒がない。三か月ぶりに来た子が黙って座っていても、「久しぶり」で終わる。むしろ大袈裟に反応するほうが失礼だという空気がある。だから見知らぬ顔がいても、脳が勝手に「たまに来る子だろう」と処理してしまう。

怪異が紛れ込むのに、これ以上都合のいい環境はない。

授業が終わって、掃除の時間になる。彼は黒板消しをはたきに廊下へ出た。戻ってくると、その席には誰もいなかった。教科書もない。椅子も机の下に入っていて、誰かが座った形跡がない。そこで初めて彼は少し変な気持ちになる。でもまだ「先に帰ったんだろう」で済ませた。定時制は帰りが速い。九時過ぎに終わったら、終電やバスの都合で挨拶もそこそこに走って帰る子はいくらでもいる。

決定的だったのは、その二週間後だという。今度は同じクラスの女子が、放課後にぽつりと言った。最近、後ろの席に知らない子がいるよね、と。彼は心臓が縮む思いがしたけど、平静を装って「あの紺のパーカーの?」と聞き返した。すると女子は不思議そうな顔をして、いや、赤いジャージの子、と答えた。二人が見ているものが違った。ここでこの話は一段ギアが上がる。

そこから彼らは、ほかの生徒にもこっそり聞いて回った。すると出てくる出てくる。見た、という子が四人いて、四人とも服装の証言が食い違った。共通していたのは、性別も年齢もはっきりしないこと、うつむいていて顔が思い出せないこと、そして必ず四時間目にしかいないこと。一時間目にはいない。給食のときにもいない。四時間目、つまりその日の最後の授業のときだけ、教室の人数がひとり多い。

担任にも聞いてみた。四十代の男性教員で、定時制に十年以上いる人だった。彼は最初「そういう話はやめとけ」と笑って流したが、生徒たちが本気なのを見て、少し黙ってからこう言ったという。この課程は昔からずっと、名簿より一人多いことがある。俺が来る前からそう言われてる。数えるな。数えると増える。

この「数えるな」という台詞が、この怪談の核だ。数えるという行為が異常を呼び込む。定時制という、そもそも人数を数えない文化のある場所で、数えてしまった者が見る。すごくよくできている。

最後の場面はこうだ。卒業間近の二月、彼は最後の四時間目を受けていた。もう見ないようにしよう、数えないようにしよう、と決めていたのに、その日はどうしても後ろが気になった。ふり返ったら、いた。今度は顔が見えた。彼と同じくらいの年で、疲れた顔をしていて、制服のブレザーを着ていた。昼間部の制服だった。目が合うと、その子は小さく笑って、口だけ動かしてこう言った。声は出ていなかった。「まだ、卒業できてない」

彼が卒業式を終えて校門を出るとき、四階の暗い校舎のいちばん端の窓に、ひとつだけ明かりが点いていたそうだ。定時制が使っていない階だ。振り返らずに帰った、というところで話は終わる。

この話、どこから湧いて出たのか

ここからは出どころの話だ。正直に書くと、この怪談の初出をきれいに特定するのはかなり難しい。定時制の怪談は、有名なメリーさんや口裂け女みたいに「これが原典」とされるテキストがない。あちこちのローカルな語りが、ネットで合流して形になった、というタイプの話なんだよな。

それでも、ネット上で追える範囲での動きはある程度たどれる。まず、二〇〇〇年代前半の匿名掲示板に、学校関係の怖い話を集める大きなスレッド群があった。「学校であった怖い話」系のスレや、洒落にならないほど怖い話を集めるいわゆる洒落怖の初期スレだ。この時期の書き込みの中に、定時制の生徒を名乗る人物が「うちの学校は毎年一人多い」と短く書き込んだ、という証言が後年たびたび言及されている。

ただ、その元レス自体を現物として確認するのは今となってはほぼ不可能だ。当時のログの多くが失われているし、まとめサイトに転載された段階でスレ名も日付も落ちていることが多い。だから「二〇〇〇年代前半の匿名掲示板の学校怪談スレが最初らしい」というのは、あくまで伝聞として扱うのが誠実だと思う。

はっきりしているのは、二〇一〇年代に入ってから、まとめブログと個人ブログでこの話の骨格が固まったことだ。この時期に「夜間部にだけ来る生徒」「四時間目だけ人数が多い」といったフレーズが定型として使われはじめる。それ以前の語りでは、単に「夜の校舎で知らない生徒を見た」という漠然とした話だったのが、この段階で四時間目という時間の限定と、数えるなという禁忌が付け加わった。

怪談が磨かれて完成形に近づく過程がわりと見えやすい例だと思う。

二〇一〇年代後半から二〇二〇年代にかけては、朗読系の動画チャンネルが大量にこの手の話を扱うようになった。夜の学校を舞台にした話は再生数が取れるから、当然のように定時制ネタも読み上げられる。ここで話が全国に散った。同時に、動画の説明文で出典が示されないことが多いので、余計に元がたどれなくなったという副作用もある。

ある時期から、同じ話が「友達の父親が定時制の教員だった」という前置きつきで語られはじめるんだけど、これはもう完全に再創作の領域だ。

それから、note や個人ブログで定時制の体験談を書いている人たちがいて、そこに紛れ込む形で怪談が語られることもある。この層の書き手は怪談の人じゃなくて、自分の学校生活を書いている人だから、書きぶりがやたら生々しい。給食の値段とか、廊下の匂いとか、そういう細部が正確なぶん、怖い部分だけが浮き上がる。定時制の怪談がネットで妙にリアルに感じられるのは、この層の記述と怪談が混ざっているからだと思う。

要するに、この話には作者がいない。何十人もの語り手が少しずつ足したものが、いまの形になっている。それが分かったうえで読むと、逆に面白さが増すタイプの怪談だ。

「転校生が来る」型――もうひとつの流れ

派生の話をしていく。まず有名なのが、転校生型だ。

こっちは「知らない子がいる」ではなく「新しく入ってきた子がいる」という形をとる。定時制は途中入学や転編入が全日制より多い。全日制を中退した子が年度の途中で入ってくることも、通信制から移ってくることもある。だから、ある日突然クラスに新顔がいても、誰も驚かない。この設定を利用した話だ。

語られる筋はこうだ。担任が朝、いや夜のホームルームで「今日から一緒に勉強する子です」と紹介する。挨拶をして、席に座って、普通に授業を受ける。給食も食べる。しばらくは何も起きない。ところが数週間後、その子の話題を出したときに、担任がまったく心当たりのない顔をする。そんな子は来ていない、と言う。名簿にも載っていない。出席簿にも記載がない。なのに、クラスの生徒は全員その子を覚えている。

覚えているのに、名前だけが誰も思い出せない。

この型のポイントは、恐怖の方向が逆になっているところだ。「四時間目だけいる子」は、いるはずのないものが混ざり込む話だった。転校生型は、確かにいたはずのものが、記録から抜け落ちている話になっている。前者は侵入の恐怖、後者は消去の恐怖なんだよな。同じモチーフを扱っていても、読後感がまるで違う。

そして転校生型は、しばしば結末に救いのようなものを持たせる。数か月後、その子が座っていた席の机の中から、書きかけの手紙が出てくる、みたいなオチだ。手紙には「ここまで来られてよかった」とだけ書いてある。誰宛かも分からない。ホラーというより、切ない話として語られることが多い。この方向に発展したのは、定時制という舞台が持つ「たどり着いた場所」というイメージのせいだと思う。

「食数が合わない」型――給食室の怪異

派生の二つめは、給食にまつわるものだ。個人的にはこれがいちばん定時制らしい怪談だと思っている。

夜間定時制の給食は、法律で位置づけられた正式な学校給食だ。詳しくはあとの節で書くけど、ちゃんと栄養士が献立を立てて、校内の調理室で作っている学校が今もある。当然、食数の管理がある。事前に食券を売ったり、その日の出欠を確認したりして、何食作るかを決める。定時制は欠席が読みにくいので、食数の管理はけっこうシビアな仕事なんだ。

この話の型では、その食数がある時期から必ず一食足りなくなる。あるいは、作った数より一食多く消費される。厨房の職員が何度数え直しても合わない。数え間違いを疑って、翌日は二人で確認しながら盛りつける。それでも合わない。誰かが余分に取ったわけでもない。ただ、配膳台の上から一皿だけ消える。

夜、片づけを終えて厨房の電気を落とすと、洗い場の前の流しに、洗っていない食器が一組だけ置かれている。プレートと椀と箸。ちゃんと使ったあとがある。米粒がついている。それを誰が使ったのか分からないので、職員は黙って洗って戻す。何年もそれが続いている、という話だ。

この型が優れているのは、怪異が徹底的に無害なところだ。誰も襲われないし、呪われもしない。ただ、毎晩ひとり分の食事が消えていく。それだけ。しかも厨房の職員はそれを咎めない。黙って洗って、翌日もひとり分多く作るようになる、という語りもある。定時制の給食には、家で満足に食べられていない生徒を支えるという実際の機能があるので、この話には「誰かが飢えている」という背景がうっすら透けて見える。

怖いのに、どこか温かい。定時制の怪談のなかでは、この温度感がいちばん独特だと思う。

「昼間部の生徒が見た」型――外から見られる話

三つめは、視点を外に置いた型だ。

昼間部、つまり全日制の生徒が語り手になる。部活で遅くなった日、あるいは文化祭の準備で残った日に、彼らは定時制の時間帯の校舎に居合わせることになる。全日制の生徒にとって、これは日常のバグみたいな体験だ。自分の学校なのに、自分の知らない人たちが自分の机を使っている。廊下ですれ違う顔が全部知らない。同じ制服の子もいれば、スーツの人も、作業着の人もいる。

この型では、そこで見た「何か」が語られる。たいてい、階段の踊り場か、渡り廊下か、暗い側と明るい側の境目で起きる。定時制が使っていない棟の窓に人影が立っていて、こちらをじっと見ている。あるいは、暗い廊下の奥から誰かが歩いてきて、明るい区画に入る手前で消える。全日制の生徒が翌日それを友達に話すと、「定時制の人でしょ」で片づけられてしまう。そこが怖い。

目撃されたものが、そこにいてもおかしくない存在として処理されてしまうから、誰も追及しない。

この型には社会的な棘もある。全日制の生徒が定時制の生徒を「よく知らない他者」として見ているという構図が、そのまま怪談の材料になっているわけだ。正直に言うと、この構図には偏見の匂いがある。同じ校舎を使っているのに互いを知らない、という現実が、片方を怪異の側に押しやってしまっている。怪談としてはよくできているけど、そこに乗っかったままでは書きたくない。

この話がいちばん怖くなるのは、実は語り手の全日制の生徒が最後に「自分こそが夜の学校では異物だった」と気づく形にしたときだ。実際、そういう結末の版もちゃんと存在する。渡り廊下ですれ違った定時制の生徒に「あなた、こんな時間にどうしたの」と心配され、はっとする、というやつ。あれがいちばん上品だと思う。

給食室の食器を洗い続けた人の話

ここからは、ネット上に散らばっている体験談を、読み物として三つ紹介する。細部は語り手によるものだから、真偽の判定はしない。ただ、読ませる話だというのは保証する。

一つめは、市立高校の定時制で調理員をしていたという女性の話だ。二〇一〇年代前半に個人ブログで書かれたものが、あちこちに引かれている。

彼女が働いていたのは、生徒数が四十人ほどの小さな定時制だった。給食の食数は毎日、事務室から回ってくる出席予定の数で決める。だいたい三十食前後。作りすぎると廃棄になるし、足りないと生徒が食べられないので、そこそこ神経を使う仕事だったという。就任して二か月ほど経ったころから、彼女は妙なことに気づいた。片づけのときに、洗い物の数が一つ多い。

最初は生徒が私物のマグカップでも置いていったのかと思った。でも違う。学校の食器だった。プレートが一枚、それから箸が一膳。配膳台の隅、いつも同じ場所に置いてある。使ったあとがはっきりある。誰かが食べたのだ。彼女は先輩の調理員に相談した。返ってきた答えは拍子抜けするもので、「ああ、それね。洗っといて」だった。

先輩によれば、それはずっと前からあることらしい。誰が食べているのかは分からない。生徒がこっそりおかわりに来ているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。とにかく、洗って戻しておけばいい。騒がなくていい。それだけ。彼女はしばらく納得できなかったけど、何か月かするうちに慣れた。というより、慣れることにした、と書いていた。

面白いのは、そのあと彼女が取った行動だ。彼女は、その一皿分を最初から多めに作るようになった。誰かが食べているなら、ちゃんと作られたものを食べてほしいと思ったらしい。残ったら自分で食べればいい、という理屈で、毎日一食だけ余分に作った。すると、洗い場に置かれる食器はきれいになった。米粒がついていない。ちゃんと食べきっている。

彼女はその学校を三年で辞めた。辞める最後の日、片づけのあとで配膳台を見たら、食器はなかった。代わりに、台の上に布巾がきちんとたたんで置いてあったという。彼女はそれを見て泣いてしまった、と書いている。誰かに礼を言われた気がした、というのが結びだった。定時制の怪談としては、これがいちばん人口に膾炙している話かもしれない。

四階の端の教室に、いつも明かりが点いていた話

二つめは、警備会社で機械警備の巡回をしていた男性の話として流通しているものだ。二〇一〇年代後半に匿名掲示板の仕事系の怖い話スレに投稿されたものが元だとされているが、これも元スレの特定はできていない。

彼が担当していたのは、県立高校を何校か含む区域だった。定時制のある学校は、閉門が遅い。全日制だけの学校なら七時前には施錠されるけど、定時制がある学校は九時半から十時にならないと最終施錠にならない。だから彼の巡回ルートでは、その学校がいつも最後になった。

夜十時前、彼が校門から入って敷地を回る。校舎はもう真っ暗になっている。定時制の使っていた区画も、教員が帰るときに全部落としていく。だから彼が見るのは、完全に無人の暗い校舎だ。ところが、その学校では、四階のいちばん端の教室だけが、しばしば点いていた。

最初のうちは、消し忘れだと思った。定時制の先生が忘れたか、あるいは全日制の部活が使ったあとかもしれない。彼は職務としてそれを記録し、翌朝の引き継ぎで報告した。ところが返ってくる答えはいつも同じで、あの教室は使っていない、というものだった。四階の東端は、その学校では長く物置になっていたらしい。机と椅子が積んであるだけの部屋で、そもそも蛍光灯の管が抜かれている、と教頭から説明されたという。

彼は一度だけ、確認のために四階まで上がった。マニュアル上は上がる必要のない場所だったけど、報告書に何度も書いているのに何の説明もつかないのが気持ち悪かった。階段を上がるにつれて、廊下の奥に光が見えた。確かに点いている。近づいていって、扉のガラス越しに中を見た。

中には、机と椅子が積み上がっていた。天井の蛍光灯は、確かに管が抜かれていて、そこにあるべきものがなかった。それなのに、部屋は明るかった。光源がどこにあるのか分からない明るさで、部屋全体がぼんやり白かった。彼はその明るさを「夜の教室の明るさじゃなくて、昼の教室の明るさだった」と表現している。この一文がこの体験談を有名にしたと言っていい。

彼はそのまま引き返した。翌朝の報告書には、四階東端、異常なし、と書いた。異常なしと書いた理由を、彼は「異常があると書いたら、また上がらされると思ったから」と説明している。その学校の担当を外れるまで、明かりは何度も点いていたそうだ。彼は二度と四階には上がらなかった。

卒業式の日にだけ会える子の話

三つめは、いちばん新しい部類の体験談だ。二〇二〇年代に入ってから、note や個人サイトで書かれた定時制の思い出話のなかに、この形の話が複数出てくる。同じ話がコピーされたわけではなく、別々の人が似た体験を書いているのが不思議なところだ。

語り手は定時制の四年生。四年で卒業する課程だったので、同期は最初三十人ほどいたのが、卒業式の時点で十二人になっていた。定時制の中退率は全日制よりずっと高い。この話の背景には、その事実がずっしり乗っている。

卒業式は昼間ではなく、夕方から行われる学校だった。体育館に椅子を並べて、来賓も家族もまばらで、在校生も少ない。式のあいだ、彼女は妙な感覚に襲われた。卒業生席の椅子の数が、十二より多い気がしたのだ。数えようとして、やめた。数えるのは縁起が悪いと、上級生から聞いたことがあったから。

式が終わって教室に戻ったとき、彼女は見た。教室の後ろに、何人か立っていた。全員、顔は覚えている。三年前に来なくなった男の子。二年生の途中で転校していった子。一年でやめた、いちばん最初に仲良くなった子。彼らが、制服なのか私服なのか判然としない格好で、後ろに並んで立っていた。誰も何も言わなかった。彼女も声をかけられなかった。

担任が入ってきて、最後の挨拶をした。彼女が我に返って後ろを見たら、誰もいなかった。ほかの卒業生に聞いても、誰も見ていなかった。

彼女はこの体験を怖いとは思わなかった、と書いている。むしろ、来たんだな、と思ったそうだ。定時制をやめた子たちが、卒業式にだけ来る。そういう話は自分の学校にはずっとあった、とも書いている。この話は、いわゆる怪談の作法からは外れている。怖がらせようとしていない。ただ、定時制という場所に流れている感情が、いちばん濃く出た形だと思う。

掲示板とSNSは、この話をどう転がしたか

反応の話をしよう。定時制の怪談がネットで扱われるとき、反応にはいくつかはっきりした傾向がある。

まず、匿名掲示板の怖い話スレでは、この手の話は「怖くない」と言われがちだ。派手さがないからだ。血も出ないし、追いかけてこないし、死人も出ない。ホラーの点数だけでいうと確かに低い。だから初出のころは伸びなかったらしい、という証言が複数ある。そのかわり、スレの後半で「うちの定時制でも似た話があった」という書き込みが連鎖する、という現象が繰り返し起きている。

これがこの怪談の広がり方の特徴で、驚かせて広がるんじゃなくて、共鳴して広がる。

SNSに舞台が移ってからは、この傾向がさらに強まった。定時制の卒業生や現役の教員が、自分の経験として似た話を投稿する。それがまとめられて拡散し、また別の人が「分かる」と反応する。つまり、この怪談は語り手の母集団が実在しているんだ。定時制の在籍者や卒業生は日本中に大量にいる。彼らは全員、夜の校舎の情景を身体で知っている。だから話が接続しやすい。都市伝説の中では珍しいタイプの伝播経路だと思う。

考察界隈での扱いも面白い。動画やブログで真面目に分析している人たちの間では、この怪談は「学校の怪談の変異型」として位置づけられることが多い。要するに、七不思議の系譜にある古典的な学校怪談が、定時制という特殊な環境に置かれたことで形を変えた、という見立てだ。この見立てはかなり妥当だと思う。

トイレの花子さんも動く人体模型も、根っこには「学校という管理された空間に、管理されていないものが混ざる」という同じ構造がある。定時制版は、その混ざり方がはるかに自然でリアルになっただけ、とも言える。

一方で、この話を心霊現象として真剣に扱う人たちもいる。学校という場所に残留した何かが夜になると出てくる、という古典的な説明だ。夜間は人の気配が薄いから、そういうものが見えやすい、という理屈がついて回る。

出てきた説と、それを潰していく反証

じゃあ、この怪異はどう説明されてきたか。主要な説を三つ挙げて、それぞれに反証をぶつけていく。

いちばんよく言われるのが、単純な見間違い説だ。疲労と暗さと蛍光灯の組み合わせは、人間の知覚をかなり簡単に狂わせる。定時制の生徒の多くは昼間に働いているか、生活リズムが安定していない。四時間目、つまり夜の八時から九時にかけては、疲労のピークが来る時間帯だ。そこに、周辺視野が暗く、中心視野だけ明るいという特殊な照明環境が加わる。人がいるように見えるのは不思議じゃない。

実際、暗い場所での人影の誤認は、心理学の分野でよく知られた現象だ。

ただ、この説だけでは食い違いの証言が説明しきれない。複数の人が、別々に、同じ席に人がいたと言っている。しかも服装の証言が食い違う。単なる見間違いなら、目撃の場所がもっとばらけるはずだ。特定の席、特定の時限に集中するのが妙なんだよな。もっとも、これは逆の説明も可能ではある。「後ろの空席が気になる」という感覚自体が定時制の教室に共通しているなら、目撃が同じ場所に集中するのは当然とも言える。

つまり誤認説はまだ生き残っている。

二つめが、実在の人物説だ。要するに、本当に誰かがいた、という説。定時制の校舎は施錠が緩い時間帯があるし、外部の人間が紛れ込んでも気づかれにくい。卒業生がふらっと来てしまうことも、実際にあるらしい。学校に居場所を感じていた人が、卒業後も戻ってきてしまう。これは怪談ではなく現実の問題として、定時制の教員が語ることがある。給食が一食消える話も、この説なら説明がつく。

腹を空かせた誰かが、本当に食べていた可能性がある。

この説の弱点は、あの四階の明かりを説明できないところだ。蛍光灯の管が抜かれた部屋が明るかった、という証言は、人が入り込んだだけでは説明にならない。もちろん懐中電灯やスマホの光という可能性はあるけど、部屋全体が均一に明るかったという記述とは噛み合わない。ただし、証言そのものが誇張されている可能性は常にある。

怪談は語られるたびに盛られるから、光源のない明るさという印象的な描写は、後から足された可能性が高い。実際、この体験談の古い版では「明かりが点いていた」としか書かれていなかったという指摘もある。

三つめが、集合的記憶説とでも呼ぶべきものだ。定時制の教室には、来なくなった生徒の机が残っている。中退した子、休学した子、名前は在籍しているのに顔を見ない子。その空席が、日常的に生徒の意識に上っている。人間の脳は、空いた席を長く見ていると、そこを埋めようとする。いなくなった誰かの記憶が、空席の上に投影される。

この説は、なぜ怪異が「知らない子」ではなく「顔を思い出せない子」の形をとるのかをうまく説明する。

この説の弱点は、検証しようがないところだ。心理学的にもっともらしい話は、たいてい反証もできない。もっともらしさと正しさは別物なので、ここは慎重でいたい。それに、この説だと給食室の話が説明できない。調理員は教室の空席を見ていないからだ。

結局、どの説も全部は説明しきれない。というより、この怪談は複数の別々の話が「定時制」というキーワードで束ねられたものだから、単一の説明で片づかないのが当然なんだよな。

夜の学校で四時間、というのは何なのか――定時制の実像

怪談の話ばかりしてきたので、ここで舞台そのものの話をしておきたい。これが分かっていないと、この怪談はただの幽霊話になってしまう。

定時制課程は、戦後の学制改革で新制高校ができたときに、全日制と並ぶ正式な課程として制度化された。当初の想定は、昼間働いている勤労青少年だ。中学を出て働き始めた人が、夜に学校へ通って高校を卒業する。そういう仕組みとして作られた。制度が始まったころの高校進学率は今よりはるかに低くて、四割程度だったとされる。

そのうちの一定割合が定時制に進んでいて、当時の定時制の生徒は、働きながら学ぼうという強い意志を持った層だった。

夜間の給食も、この時期に整備されている。仕事を終えて空腹のまま四時間の授業を受けるのは無理があるので、栄養補給と健康保持を目的として、夜間課程を置く高校の給食について定めた法律が作られた。学校給食といえば小中学校のものだと思われがちだけど、夜間定時制の給食は法律に位置づけられたれっきとした学校給食なんだ。校内に調理室があって、栄養士が献立を立て、その場で調理する学校が今もある。

一食あたりの負担は数百円程度で、四百円前後という例が多い。あたたかい食事が、授業の前に出る。

ここからが重要な変化だ。高度経済成長を経て、高校進学率が九割を超えると、定時制の位置づけは大きく変わった。働きながら学ぶ場所から、全日制に進めなかった生徒の受け皿へと役割が移っていった。さらに一九九〇年代以降、雇用が不安定になり、産業構造が変わると、定時制の生徒層はもっと多様になる。

今の定時制に在籍しているのは、中学時代に不登校だった人、全日制を中退した人、外国にルーツがある人、家庭の事情で昼間に働かざるを得ない人、発達に特性がある人、社会に出てから学び直したいと思った大人。実に幅広い。

数字を挙げると、ある県の調査では、定時制の生徒の五割から六割以上が義務教育期間に不登校を経験しているという結果が出ている。夜間定時制で正社員として働いている生徒はほとんどいなくて、アルバイトやパートの形態が多数派だ。入学理由として最も多いのは「朝起きるのが苦手だから」「少人数で学びたいから」といった、生活と学習のスタイルに関わるものだという。

かつての「働きながら学ぶ」というイメージとは、もうかなり違う。

食に関するデータも印象的だ。ある調査では、一般の高校生の朝食欠食率が数パーセント台なのに対し、定時制の生徒では三割を超えるという結果が報告されている。一日一食しか食べていない生徒も一定数いる。朝食を一人で食べる生徒の割合も、一般の高校生より大幅に高い。給食が、単なる栄養補給を超えて、誰かと一緒に食べる時間として機能しているという指摘がある。

実際、給食を毎回食べている生徒のほうが進級率や卒業率が高い、という相関を示した調査もある。

中退率は高い。ある年度の統計では、全日制が一パーセント前後なのに対し、定時制は一割前後という数字が出ている。単純に比較して優劣を語れる数字ではまったくなくて、そもそも背負っているものが違う生徒が集まる場所なんだから当たり前なんだけど、事実として、入学した全員が卒業するわけではない。四年制の定時制で、入学時三十人いたクラスが卒業時に十数人になる、というのは珍しいことじゃない。

ここまで書けば、あの怪談がなぜあの形をしているか、だいたい見えてくると思う。空席が多い教室。名簿と実人数が合わない日常。数か月ぶりに来た子を誰も咎めない文化。食べられていない誰かのために用意される食事。そして、来なくなってしまった子が確実に存在するという事実。定時制の怪談に出てくる要素は、ほとんど全部が現実の側にすでにある。怪談は、そこに一人分の影を足しただけなんだ。

なお、念のため書いておくけど、定時制がそういう場所だからといって、そこに通う人たちが暗いとか、荒れているとか、そういう話ではまったくない。むしろ取材記事や体験談を読んでいると出てくるのは、少人数で先生との距離が近く、年齢も背景もばらばらの人たちが妙にフラットに付き合っている、という空気だ。四十代の同級生がいる、みたいな環境で、十代の生徒が普通に敬語なしで話している。

そういう場所を「怖い場所」として消費するのは筋が違う。この記事で扱っているのは、そういう場所で語られてきた物語の構造の話であって、実在の学校を心霊スポット扱いする気は一ミリもない。

なぜこの話はこんなに刺さるのか

分析パートだ。なぜ定時制の怪談は怖いのか、そしてなぜ広まったのか。

第一に、この怪異は排除されない。普通の学校の怪談では、怪異は明確に異物だ。動く人体模型は理科室にあってはいけないものだし、トイレの花子さんは呼ばなければ出てこない。ところが定時制の怪異は、その場所にいてもおかしくない。私服の生徒が黙って座っていることは、その教室では正常な光景なんだ。だから誰も排除しないし、警戒もしない。怪異が日常に溶けている。これがいちばん怖い。

侵入者の恐怖じゃなくて、隣人の恐怖なんだよな。

第二に、確認する動機が誰にもない。定時制には、他人の事情に踏み込まないという強い文化がある。なぜ全日制じゃないのか、なぜ来なかったのか、そういうことを聞かないのが礼儀とされる。これは人間関係としてはとても健全なんだけど、怪談の装置としては最悪に都合がいい。誰も「あの子誰?」と聞かないから、正体は永遠に分からない。怪異が生き延びるための完璧な生態系がそこにある。

第三に、時間の構造がいい。四時間目という限定が効いている。夜の八時台というのは、人間の集中力と体力が一日でいちばん落ちる時間帯のひとつだ。しかも、その日の最後の授業。あと少しで帰れる、というところでの緩みがある。怪異はその緩みに入ってくる。始業直後でも、給食のときでもなく、最後の一時間。この時間指定があるだけで、話の解像度が跳ね上がる。

第四に、光の構造がいい。校舎の一部だけが点いている、という景色は、それ自体が完成された怪談的イメージだ。しかもこれは演出じゃなくて、定時制の学校では毎日必ず発生する現実の光景だ。誰も怖がらせようとしていないのに、勝手に舞台装置が組み上がっている。ホラー映画がわざわざ作らなきゃいけない絵が、そこには最初からある。

第五に、感情の芯がある。この怪談の底に流れているのは、恐怖じゃなくて、たぶん喪失感だ。定時制には、来なくなった人がたくさんいる。名前は名簿に残っているのに、姿がない人。あの席に座っていたはずの人。その空白を、生徒も教員も日常的に見ている。怪異はその空白の形をしている。だから、この話を読んだ定時制の関係者は「怖い」とは言わずに「分かる」と言う。怪談としてはかなり異例な反応で、だからこそ強い。

第六に、広まり方の話をすると、この怪談は語り手の供給が途切れない構造になっている。定時制は今も全国にあって、毎年卒業生が出る。彼らは全員、夜の校舎の記憶を持っている。ネットで似た話を見かけたら、自分の記憶と接続して、自分の版を語りたくなる。つまりこの怪談は、消費されるだけじゃなくて再生産される。だから細部が違う版がいくらでも生まれるし、初出が追えなくなる。

まさにいま起きている民話の生成過程を、リアルタイムで見せられているようなものなんだ。

暗いはずの場所が明るい、という反転した怖さ

さて、ここからは総括と、書ききれなかった補足をまとめて放り込んでおく。定時制の怪談をひととおり並べてみて、あらためて見えてきたことがいくつもある。

まず、この怪談群を分類し直すと、実は三つの独立した怖さが混ざっていることに気づく。ひとつめは「人数の怖さ」だ。名簿と実数が合わない、椅子の数が合わない、食数が合わない。全部、数の異常として現れる。これは学校という場所が徹底的に数で管理される空間だからこそ効く恐怖だ。出席簿、名簿、座席表、食券の枚数。学校の日常は数の一致で回っている。その一致が破れることは、システムそのものの故障を意味する。

だから怖い。数えるな、という禁忌が話の中心に据えられているのは偶然じゃなくて、数の管理こそが学校の本質だからだ。

ふたつめは「光の怖さ」だ。四階の端の教室、蛍光灯のない部屋の明るさ、校門から見上げたときの一室だけの灯り。定時制の怪談は、暗闇より光を怖がる。これは他の学校怪談とはっきり違う特徴で、けっこう珍しい。普通、怪談の恐怖は闇の側にある。ところが定時制の生徒にとって、暗い校舎は毎日見ている当たり前の景色なんだ。慣れている。だから怖くない。彼らが怖いのは、暗いはずの場所が明るいことのほうだ。

恐怖の座標が反転している。この反転が起きるのは、夜の校舎を日常として使っている人たちの視点で語られているからで、この一点だけでも定時制の怪談は独立したジャンルを名乗る資格があると思う。

みっつめは「不在の怖さ」だ。これがいちばん深い層にある。いなくなった人が戻ってくる、という形をとる話が非常に多い。中退した子、来なくなった子、卒業できなかった子。彼らは死んでいるとは限らない。むしろ、生きているのに戻ってこない人のほうが多いはずだ。ここが定時制の怪談の独特なところで、この怪異には死者の匂いがそんなにしない。普通の幽霊譚は、死んだ人が出てくる。

定時制の怪談に出てくるのは、生きているかもしれないけれど、ここにはもういない人だ。生きた不在、とでも言えばいいのか。この感覚は、たぶん定時制という場所を経験していない人には少し分かりにくい。だからネットでこの話が「怖くない」と言われることがあるんだと思う。

もうひとつ強調しておきたいのは、この怪談の語り口の変化だ。二〇〇〇年代の匿名掲示板で語られていたころは、もっと荒っぽくて、オチも派手だった。振り向いたら顔がなかった、とか、追いかけられた、とか。ところが二〇一〇年代後半から二〇二〇年代にかけて、語り口が明らかに静かになっている。怪異は襲ってこなくなり、目を合わせるだけになり、しまいには黙って座っているだけになった。

これは怪談として弱くなったわけじゃなくて、語り手の層が変わったからだと思う。初期はホラー好きが書いていた。今は当事者が書いている。当事者が語る怪異は、驚かせるためのものじゃなくて、説明のつかない記憶をどう置いておくかという問題になる。だから静かになる。

この変化を踏まえて考えると、定時制の怪談は現在進行形で「実話怪談」の側に寄っていっていると言える。作られた話から、体験された話へ。この移動はネット怪談の世界ではわりと珍しい。普通は逆で、体験談として始まったものが創作として洗練されていく。定時制の場合は、洗練されたテンプレートが先にあって、そこに現実の記憶が後から流れ込んで、テンプレートを溶かしている。面白い現象だと思う。

制度の側の話もしておきたい。定時制は今、静かに減っている。生徒数の減少と学校の統廃合で、夜間課程を閉じる学校が全国で出ている。代わりに増えているのが通信制と、朝昼夜の三部制を敷く多部制の学校だ。三部制の学校では、夜間部は選択肢のひとつになる。給食も、調理室での自校調理から弁当の配食に切り替える自治体が増えていて、一食二百円弱の弁当を配る例も報告されている。合理的な判断だとは思う。

ただ、そうなると、あの怪談の舞台装置は少しずつ壊れていくことになる。

だってそうだろう。三部制の校舎では、夜も校舎の広い範囲が使われている。暗い区画が減る。給食が弁当になれば、調理室の洗い場に残された一組の食器という怪異は成立しなくなる。学年制がなくなって単位制になれば、クラスという単位が薄くなり、「後ろの席がいつも空いている」という景色も変わっていく。制度が生徒にとって良い方向へ動くたびに、怪談の足場は削られていく。皮肉な話だけど、それは全然悪いことじゃない。

むしろ、怪談が成り立たなくなるくらい環境が整備されるなら、それがいちばんいい。

とはいえ、消えかけているからこそ記録しておく価値があるとも思う。定時制の怪談は、単なる怖い話じゃなくて、日本の高校教育のある時期を写した記録でもある。夜の校舎の一角だけが点いている光景、疲れた体で受ける四時間目、あたたかい給食、名簿より少ない教室。これは全部、実在した風景だ。そこに生きていた人たちが、その風景を怪談という形で保存した。

民俗学が扱ってきたような伝承の生まれ方が、掲示板とSNSの上で同じように起きていた、と考えると、この一連の話はかなり貴重なサンプルだ。

最後に、この怪談のいちばん優れた版について書いておきたい。個人的に決定版だと思っているのは、怪異の正体を最後まで明かさず、しかも生徒がそれを追い出さない版だ。数が合わないと気づく。誰かがいると気づく。でも、聞かない。追い返さない。ただ、翌日から自分の隣の席の椅子を少しだけ引いておくようになる。座りやすいように。それだけで終わる版。

これが怖いのは、怪異を受け入れているからだ。定時制という場所には、事情を聞かずに隣に置いておく、という作法が本当にある。誰が来ても、いつ来ても、何年ぶりに来ても、席はある。その作法が、人間じゃないものにまで適用されてしまう瞬間、この話は他のどの学校怪談とも違うものになる。誰かが飢えているなら一食多く作る。誰かが座りたいなら椅子を引いておく。それが幽霊であっても変わらない。

そこまで読むと、この怪談の中心にいる「夜間部にだけ来る生徒」が、何を求めて来ているのかも見えてくる。あれは怖がらせに来ているんじゃない。授業を受けに来ているんだよな。四時間目にだけ現れるのは、それが最後の授業だからだ。給食が一食消えるのは、腹が減っているからだ。使っていない教室の明かりが点いているのは、まだそこで誰かが勉強しているからだ。全部、通学の話なんだ。

卒業できなかった誰かが、卒業するために夜の校舎に通い続けている。そう考えると、この話はもう怪談の枠を少しはみ出す。定時制の怪談が語られ続けるのは、そこに通った人たちが、その気持ちを痛いほど分かるからだと思う。誰にだって、まだ終わっていない四時間目がある。夜に校舎の一角だけ点いた灯りを見上げたことがある人なら、たぶんこの感覚は伝わるはずだ。

で、実際のところ、あの席に本当に誰かいるのかどうかは分からない。分からないままでいいと思っている。定時制の教室では、それを確かめないことこそが礼儀だからだ。もし夜の学校の前を通りかかって、暗い校舎の四階の端にひとつだけ明かりが点いていたら、まあ、数えないで通り過ぎるのがいい。数えると増える、というのは、たぶんそういう意味なんだと思う。

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