- 午後五時二十分、誰もいないはずの校舎に明かりがつく
- 一日に二度使われる建物という、それだけで異様な話
- 「あってはならない学校」として、一九四七年の秋に始まった
- 一九四九年二月十日、神戸の教室に灯がついた
- 八十九校というピークと、名前すら分からない学校たち
- 一九六六年十一月、紙一枚で全部が終わりかけた
- フィルムを担いで日本を歩いた男の話
- 卒業証書を持っているのに、何も学べなかった人たち
- 教室の顔ぶれが、二十年ごとに丸ごと入れ替わっていく
- 二〇一六年、法律がやっと「なくてはならない」と書いた
- 十七歳と九十七歳が、同じ漢字を習っている
- ここからが怪談――誰もいない昼の教室に、鉛筆の音がする
- 名簿に、何十年も同じ名前が残っている
- 卒業したはずの生徒が、毎晩来ている
- 用務員だけが知っている「四時限目の空席」
- 昼と夜で、下駄箱の数が合わない
- 派生その一、廊下の途中で消える人影
- 派生その二、日本語学級の壁に貼られた作文
- 派生その三、二重に鳴るチャイム
午後五時二十分、誰もいないはずの校舎に明かりがつく
夕方の五時をすぎた中学校の前を通ったことがあるだろうか。部活の声もやんで、校門の脇の自転車置き場はがらんとして、職員室の窓だけがぼんやり光っている。ふつうはそれで終わりであり、校舎は眠りにつく。
ところが、ある学校では、そこから人が入ってくる。
三階の教室に、順番に明かりがともる。手前から二つ目、三つ目、そして廊下の端、窓のむこうで誰かが黒板を消している。自転車を停める音がする。校舎の裏口から、鞄を提げた人が入っていく。
学生服ではない。作業着の人がおり、エプロンのままの人がいる。杖をついた人がいる。二十代に見える人と、どう見ても八十をこえている人が、同じドアをくぐっていく。
これが怪談の書き出しに見えるなら、半分は正解で、半分は不正解だ。
不正解のほうから言うと、これは実在する光景だ。中学校夜間学級、通称「夜間中学」。全国に六十九校ある、ちゃんとした公立中学校である。学校教育法第一条にいう中学校で、週五日授業があって、教員免許を持った先生が教えて、公立なら授業料は無償で、課程を修了すればふつうに中学校卒業になる。何ひとつ怪しいところはない。
正解のほうを言うと――この学校が持っている構造そのものが、怪談を生む条件をほぼ完璧に満たしている。ひとつの校舎が、一日に二回、まったく別の集団に使われる。昼の生徒が帰ったあとの机に、夜の生徒が座る。同じ黒板、同じ椅子、同じ床、ただし互いに顔を合わせない。
互いの痕跡だけが残る。
この構造から生まれた噂話が、実はけっこうな数ある。「昼間、誰もいないはずの教室から鉛筆の音がした」「夜間学級の名簿に、何十年も同じ名前が残っている」「四時限目になると、決まって席がひとつ埋まる」。用務員だけが知っている話、警備員だけが知っている話、昼間部の生徒だけが噂している話。学校の七不思議のリストにはまず載らない。でも、確実に語られている。
この記事では、その夜の教室で語られてきた話を全部拾いにいく。ただし、先に断っておきたいことがある。この話を「かわいそうな人が化けて出る」という形で書くつもりは一切ない。そういう語り方は、そこで実際に学んでいる人たちに対して失礼だし、なにより、この題材が本当に怖いのはそこじゃない。もっと構造的なところが怖いんだ。
そのためには、まずこの学校が七十年以上かけてどうやって存在してきたかを、けっこうしっかり書かないといけない。制度史がそのまま怪談の骨組みになっているタイプの題材だからだ。回り道に見えるかもしれないが、付き合ってほしい。読み終わるころには、夜の校舎の明かりが今とは違って見えるはずだ。
一日に二度使われる建物という、それだけで異様な話
まず、この二重性というやつを、もう少し丁寧に見ておきたい。
昼の中学校を思い出してほしい。朝八時すぎ、生徒が下駄箱で上履きに履き替える。チャイムが鳴る。四十五分か五十分の授業が六時間、給食。
掃除であり、放課後の部活、夕方には全員が帰る。校舎は施錠される。機械警備がセットされる。
ここまでが、われわれが知っている「学校」の一日だ。
夜間学級のある学校では、その施錠のタイミングがずれる。あるいは、そもそも施錠されない区画がある。昼の生徒が下校して、清掃が入って、校舎がいったん静かになる。その静けさが、三十分から一時間くらい続く。そして五時ごろ、二回目の登校が始まる。
山形県が夜間中学の設置基本計画で公表した日課表の例が、この時間の流れをよく表している。十七時二十分にホームルーム、十七時三十分から一時限目。十八時十分から二十分間の休憩と補食給食だ。十八時三十分から二時限目、十九時二十分から三時限目、二十時十分から四時限目。
二十時五十分にホームルームがあって終わり。授業は一コマ四十分で、一日四時間、月曜から金曜まで週五日で、年間の総授業時数は七百時間程度。
三学期制で、夏休みもあり、学校行事もやる。運動会も文化祭も遠足も修学旅行もある。
つまり、夜の校舎の中で、学校というシステムがまるごともう一回動いているわけだ。
給食があるというのが、個人的にはいちばんぐっとくる。仕事を終えて、腹をすかせて登校してくる生徒がいる。そのまま四時間座らせるわけにはいかない。だから補食給食が出る。二十分の給食時間に、十代の生徒と八十代の生徒が並んでパンを食べている。
名古屋の夜間中学では、生徒と教師がまず食堂に集まって、給食を食べてから授業が始まると報じられている。
大分県が二〇二六年に開いた県立の夜間中学でも、一日は食事から始まると伝えられた。
この「食事から始まる学校」という感じが、昼の中学校とはまるで違う手触りを持っている。学校というより、夜の食堂に近い。そこに黒板がある。
そして授業が始まると、教室の中は昼の中学校ではありえない構成になる。群馬県立みらい共創中学校を取材した記事によれば、授業は午後六時から午後九時十分まで、一コマ四十分で四限。国語と数学と英語については学年の壁を取り払って、習熟度でクラスを組み直す。モニターは二台あって、一台は同時通訳用に使われている。日本語が追いつかない生徒のために、別室で日本語の指導が並行して行われる。
ひとつの授業に複数の教員が入る。
名古屋市昭和区の北山中学校で開かれている中学夜間学級を書いた新聞の連載には、こんな一行がある。日が暮れた午後六時、静まり返った校舎の音楽室に、明かりがともる。昼間とは違う生徒たちが席に着いた――、この「昼間とは違う生徒たち」という言い方が、もう完全に怪談の文体なんだよな。書いた記者はそんなつもりはないだろうけど。
同じ記事によれば、その教室に集まったのは一、二年生を中心とした二十人ほど。日本人より、フィリピンやブラジルなど外国出身の人が目立つ。年代は十代から六十代まで。当番の中国人女性が「きりーつ、お願いします」と声をかけて、音楽の授業が始まる。卒業式で歌う「旅立ちの日に」の録音が流れ、みんなで聴く。
フィリピン人の男性が「この歌、かっこいい。けど、日本語、難しい」とつぶやく。
昼の学校では、絶対に起きない光景だ。でも、この光景は毎晩起きている。
「あってはならない学校」として、一九四七年の秋に始まった
なんでこんな学校ができたのか。ここからが本題の制度史だ。
一九四七年、日本の義務教育が九年に延びた。六・三制が始まって、新制中学校ができた。理屈のうえでは、この年から全員が中学校に通うことになったのだ。
現実はまったく違った。戦災と敗戦の混乱のまっただ中で、子どもが働かないと家族が食えない家が山ほどあった。学校に行けない子、行かない子、名簿にはいるけれど一度も来ない子が、とんでもない数にのぼったのだ。
数字を見るとくらくらする。長欠児童生徒援護会の集計によれば、義務教育の脱落者、つまり入学時と卒業時の人数差は、一九四七年に入学した学年で小学校に九千四百七十四名、中学校に十一万千二百九十五名。一九五五年に卒業した学年では小学校一万六千五名、中学校五万七千六百三十名。
一九四七年入学者から一九五五年卒業者までを累計すると、小学校で四万五千五百六十二名、中学校で四十九万五千百五十一名、合わせて五十四万七百十三名にのぼる。
中央青少年問題協議会が把握した一九四九年時点の長期欠席者数は、小学校三十九万七千三百八十九名、中学校三十三万八千二百七十一名、合計七十三万五千六百六十名。しかもこの数字には東京都と高知県と沖縄県が入っていない。当時、長欠者は全国で約百万人と考えられていた。
百万人だ。ひとつの県の人口くらいの子どもが、義務教育から抜け落ちていた。
この現実の前に立っていたのは、政策でも法律でもなく、現場の教員だった。家庭訪問に行くと、子どもは昼間いない。働いており、じゃあ夜なら来られるか。来られる、と言う。
そこで始まったのが「夕間学級」だ。一九四七年十月、大阪市立生野第二中学校、当時の教務主任だった吉井武千代の談話が残っている。十月より週二回の補習授業を開始した。ただし当時は電力事情が悪く、毎夜のごとく停電するという状態だったので、授業は夕刻に行い、われわれはこれを夕間学級と呼んでいた――。
停電するから夕方にやった。だから夜間ではなく「夕間」。この生々しさが、この制度の出発点をよく表している。
大阪市立天王寺中学校の校長だった白井重行が一九七一年にまとめた調査によれば、生野第二中学校のすぐあとを追うように、大阪府下で次々と夜の教室が開かれた。名称はてんでばらばらだ。布施市立第四中学校では「特別課外指導」、堺市立大浜中学校では「二部授業」、豊中市立第一中学校では「豊中市中学校補習教室」、岸和田市の岸城・久米田・春木・光陽の各中学校では「補導学級」。
なぜ名前がばらばらかというと、制度として存在していなかったからだ。名前がないものに、現場が勝手に名前をつけていた。
大阪だけではない。松崎運之助が紹介しているところによれば、同じころ横浜市の子安浜でも「かじっ子夜学」と呼ばれる教室が開かれていた。子安浜には地方の貧しい農家から前借金で売られてきた子どもが多くいて、彼らは「かじっ子」と呼ばれて舟に乗り漁労に従事していた。朝六時に浜を出て、帰るのが夕方六時ごろ。十二時間労働だ。
当然、学校には行けない。
見かねた漁業組合の人と教師が相談して、組合事務所の二階に夜間学級を開いた。
漁業組合の事務所の二階、これが日本の夜間中学の原型のひとつだ。校舎ですらない。
一九四九年二月十日、神戸の教室に灯がついた
自主的な夜の教室が、公立の学級として認められる最初の一歩は、神戸で踏まれた。
一九四九年二月十日、神戸市立駒ケ林中学校の「長期欠席・不就学児童生徒救済学級」。全国初の公立夜間中学とされている。のちに同校の校長となった栃木勇は、こう書き残している。私の前任校長は、昭和二十四年二月十日、全国に先んじて夜間学級開設を敢行した。
家庭経済の貧困、あるいは運命づけられた家庭の悲劇のために、何の罪もなく昼間の通学をあきらめなければならない生徒たちを救済するために、教師にのこされた最後の一つの手段として、当局の疑義とするところに目をおおい、しかし神戸市教委激励のもとに神戸市立駒ケ林中学校の教室に灯をつけた――。
「教室に灯をつけた」。この一文が、夜間中学という制度のいちばん短い定義だと思う。
面白いのは、この学校でも一九四七年ごろから、すでに教師による自主的な夜間学級が動いていたことだ。同校の教諭だった末吉富久男の証言はこうだ。「夕方、それらの生徒を集めて勉強してみようやないか」と始まったのが二十二年であったわけです。
そして、当時の中井順三校長が、「教育委員会にこそこそやるのは、教員の勤務の都合上、具合が悪い」ということで、昭和二十四年二月一〇日に神戸市教育委員会の許可を得て、正式な夜間学級が始まったのであります――。
こそこそやっていたから具合が悪いので、正式にした。この順番が大事だ。制度が先にあって学校ができたのではない。学校が先にあって、あとから制度が追いついた。というより、追いつかないまま七十年近く放置された。
東京での最初は、足立区立第四中学校の「第二部」だ。一九五一年七月五日に都教委が認可し、同月十六日に開設入学式を挙行している。ただしこの認可には、いくつも条件がついた。暫定的な試案として運営し、恒久的な制度とすることは望ましくないこと。その中学校の二部授業として取り扱うこと。
名称は特別に設けないこと。
名称は特別に設けないこと。だから正式名称は、ただの「第二部」なのである。
当時の足立区について、資料はこう書いている。工業地帯が四分の一を占め、残りの四分の三は中小企業形態の商業地帯と貧農地帯で、区民の経済状態はまことに低い。関東大震災でバタヤ街が集団移住してきて本木町方面に一大スラム街を形成した。福祉事業の全国モデル地区に指定され、支給予算額は全国最高位を示している。
別の資料では、区内中学在籍者一万八千名のうち長欠者は千百四十名にのぼり、これは当時の都内中学校長欠者数一万二百八十名の一割を楽に越える数だった、とある。
第二部の入学式に間に合った生徒は、わずか四名だった。だが日が経つにつれて生徒数は急速に増えた。
八十九校というピークと、名前すら分からない学校たち
一九五〇年代前半、夜間中学は爆発的に増える。
一九五四年度には十二都府県に八十七校、生徒数四千三百五十名。閉鎖された学校を含めれば、全国で九十三校の開設が確認できる。一九五五年当時、全国に八十九校あって五千二百八人が学んでいたという記述もある。文部科学省が現在まとめている手引では「昭和三十年頃には、設置数は八十校以上を数えました」と書かれている。研究者によっては、五〇年代には全国で九十校から百六十校の開設の形跡がある、とする。
なぜこんなに幅があるのか。理由が身も蓋もない。記録がないからだ。
一九五五年度の夜間学級設置校数を百二十校と記した当時の資料があるのだが、現在ではその校名すら完全には確定できない。研究者がこう書いている。この時期の夜間中学校については、未発掘の事実が極めて多い――と。
記録が残らなかったのは、単に戦後の混乱期だったからではない。文部省と多くの教育委員会が、夜間中学校を児童労働の容認・六三制の破壊につながるとみなして、開設を認めなかったからだ。だから少なからぬ夜間中学校は、不就学・長欠者の蔓延という現実への対処策として、半ば非公式に開設・運営されていた。しかも一九五五年度以降、閉鎖が相次いで、その史料も散逸した。
ここが、この制度史のいちばん怪談的なところだと思う。
存在していた。生徒がいて、教師がいて、灯がついていた。でも、公式には存在しないことになっていたのだ。だから名簿も、校名も、開設日も、後世に残らなかった。学校がまるごと一校、記録から消えている。
それが日本のあちこちに、少なくとも数十校ある。
夜間中学の怪談を読んでいると、しばしば「名簿に何十年も同じ名前が残っている」という話にぶつかる。この話型が生まれた土壌には、たぶんこの歴史がある。実在したのに記録に残らなかった学校と、記録に残ったのに誰も覚えていない名前。方向が逆なだけで、両方とも同じ不安を触っている。
現場の教師たちも、放っておかれることに黙ってはいなかった。一九五四年、夜間中学を開設した中学校の校長や教員が集まって、全国中学校夜間部教育研究協議会をつくった。現在の全国夜間中学校研究会、通称「全夜中研」である。翌一九五五年二月には「中学校夜間学級の法的措置に関する陳情書」をまとめた。
ただし、注意しておきたいことがある。第一回大会での主張は、「夜間中学は素晴らしいから増やせ」ではなかった。戦後の義務教育制度の理念は正しい、本来こんな学校はあってはならない、それは認める。だが子どもの収入がなければ一家の生計が維持できないという現実がある。だから「なくてはならない」――そういう論法だった。
つまり、つくった側も「あってはならない学校」だと思っていた。そこが切ない。
一九六六年十一月、紙一枚で全部が終わりかけた
高度経済成長が来る。産業構造が変わる。就学援助策が整う。長欠児が減る。夜間中学は縮小に向かう。
ここまでは、いわば予定調和だ。
問題は、この時期に夜間中学の中身が入れ替わっていたことだった。
学齢の長欠児は減った。だが、学齢期を過ぎてしまった義務教育未修了者は、減らずに社会に滞留していたのだ。日本政府は一九六〇年代に「日本では識字問題は解決済み」と表明していたが、その裏で、百数十万人が義務教育未修了のまま社会で生きていた。都市部の夜間中学には、その人たちが学びを求めて訪れはじめていた。
生徒に占める学齢超過者の比率は、一九五九年に四割強だったものが、一九七〇年には九割を超える。夜間中学は、いつのまにか大人の学校になっていた。
そこに、あの紙が来る。
一九六六年十一月、行政管理庁が「年少労働者に関する行政監察結果に基づく勧告」を出した。宛先は文部省、労働省、警察庁、文部省に対する部分は、こう書かれていた。家庭の貧困などにより、昼間就労して夜間通学する、いわゆる「夜間中学校」については、学校教育法では認められておらず、また義務教育の本分からこれを認めることは適当でない。
これらの学校に通学している生徒に対し、福祉事務所などの関係機関との連携を密にし、保護措置を適切に行い、なるべく早くこれを廃止するよう指導すること――。
理由は三方向から立てられていた。文部省に対しては、学校教育法に認められていないから。労働省に対しては、年少者が働くことは労働基準法違反だから。警察庁に対しては、非行化防止対策として。
行政の言い分としては、筋が通っているように見える。夜間中学があるから子どもが昼間働ける。だから子どもの労働がなくならない。だから夜間中学をなくせば、子どもは昼間の学校に戻る。
そんなわけがない。夜間中学に来ている人の多くは、もう学齢期を過ぎていた。昼間の中学校に戻る道など、制度上どこにもなかった。廃止されたら、行き場がなくなるだけだ。
文部省はこの勧告を受けて、即座に廃止という処置は取らなかった。しかし学齢児の受け入れは厳しく制限するようになった。効果はてきめんだったのだ。一九六八年には全国の夜間中学の生徒数が四百十六人、一九六九年には学校数が二十校まで落ち込んでいる。ピーク時の九十校前後から、四分の一以下になった計算だ。
当時、六・三制の義務教育未修了者は推定百二十万人が放置されていた。その人たちのために残っていた学びの場が、全国で二十五校、それが十九校まで潰された。
フィルムを担いで日本を歩いた男の話
この勧告を「死刑宣告」と受け取った男がいる。高野雅夫。
一九三九年、旧満州で生まれた。戦争で父を亡くし、日本へ引き揚げる途中で母とはぐれ、戦争孤児になった。福岡の博多、東京の上野、山谷を転々としたのだ。十七歳のとき、廃品回収をしていた老人から「いろはかるた」で初めて文字を教わったという。一九六二年に戸籍をつくった。
二十一歳か二十二歳で、東京都荒川区立第九中学校の夜間学級に入学した。靴みがきをしながら通い、一九六四年三月に卒業したのだ。
卒業時の作文に、彼はこう書いた。生れてはじめて学校の机に座った。生れてはじめて差別のない社会を知った――。
その二年後に勧告が出た。母校が消される。自分が初めて机に座った場所が消される。
高野がやったことは、いま考えても異様だ。かつて取材に来たテレビ局の人からカメラを、ラジオ局の人から録音機を借りて、証言映画をつくった。夜間中学生が働きながら学ぶ姿を教師が撮影し、高野自身が録音機をかついだ。生徒たちは心の傷と怒りをぶちまけた。彼はのちにこう語っている。
映画に込めた俺たちの思いは、夜間中学生への同情や賛美ではなく、差別に対する怒りだった――。
映画の題名は『夜間中学生』。十六ミリ、上映時間四十八分、製作費三十八万六千円だ。
一九六七年九月五日、高野はそのフィルムを担いで全国行脚に出る。上野駅から列車で青森へ。青函連絡船を乗り継いで北海道に入り、函館、札幌、小樽、余市を回った。定時制高校、教職員組合、労働組合、青年学級、頭を下げて上映会を開いてもらった。
汽車の中や駅のベンチで、寝袋にもぐって寝泊まりしたのである。上映を断られることもあったのだ。
行く先々での出会いと喜び、怒り、悲しみを毎日はがきに記して、母校の荒川九中あてに送り続けた。
岡山では被差別部落の人たちと出会い、水平社宣言を知った。広島、神戸、京都へ向かったのだ。訴えても訴えても、学校は次々に廃止されていった。彼はのちに、こう振り返っている。全国行脚に出る前、夜間中学は全国で二十五校あった。
さらにその前は九十二校あったんだけど、それがどんどんつぶされていった。だからもう、とにかく廃止反対じゃ無理だと思って。
大阪市内に夜間中学はないから、逆に作ってやろうと思うようになった――。
守るのは無理だから、作る。この転換で歴史が動いた。
大阪の教育委員会は「大阪に義務教育を終えていない人はいない。だから夜間中学はいらない」と答えた。高野たちは証言映画を上映し、増設を訴えるビラを三百万枚配った。すると、義務教育を終えていないという生き証人が八人、名乗り出たのだ。教育委員会の言い分は、その場で崩れた。
一九六九年六月五日、大阪市立天王寺中学校に夜間学級が開設された。入学したのは八十九人、この天王寺の夜間学級は、入学資格に「学齢を超えている者」と明記した最初の学校でもあったのだ。以後に新設された夜間中学も、同じ扱いになっていく。前年の一九六八年に設置された京都市立郁文中学校夜間学級、現在の洛友中学校の入学資格にも、同じ条件が記されている。
こうして、夜間中学は廃止から増設へ、一気に向きを変えた。一九七一年には東京都江戸川区立小松川第二中学校にも夜間学級が開設される。文部省も一九七〇年に「中学校夜間学級実態調査」を実施し、翌年から研究委嘱という名目で、公立夜間中学にわずかながら財政援助を行うようになった。
意味づけも変わった。それまで夜間中学は、救済とか恩恵の対象として位置づけられていたのだ。それが高野たちの運動を通して、「教育を受ける権利」を取り戻すための学校として再定義された。貧困や差別の中で奪われた義務教育を、奪い返す場所、彼の言葉でいえば「奪われた文字と言葉を奪い返す場」である。
高野雅夫は、二〇二五年七月二十六日に老衰で亡くなった。八十五歳だった。遺志により葬儀は行われず、その年の十一月二十九日、大阪市の住吉区民センターで、夜間中学関係者ら約百八十人が集まってしのぶ会が開かれたのだ。
卒業証書を持っているのに、何も学べなかった人たち
夜間中学の歴史には、もうひとつ、名前を知っておいたほうがいい問題がある。「形式卒業者」だ。
中学校を卒業したことになっている。卒業証書も持っている。でも、実際にはほとんど学校に通っていない。学校側の配慮という名目で、出席日数が足りないまま卒業扱いにされた人たちのことだ。
一九六〇年代の終わりごろから、この人たちが夜間中学を訪ねてくるようになった。ところが卒業証書を持っている以上、正式に入学することは難しい。聴講生のような扱いで、事実上いっしょに学習するという形が取られていた。
一九七〇年の第十七回全夜中研大会で、荒川九中の夜間学級に聴講生として入っていた二十歳の女性が、告発のビラをまいた。そこにはこう書かれていたのだ。空、山、川などの簡単な字以外は新聞も読めないし、九九もわからない。足し算、引き算の計算は指や足でやればできるが、三十四足す二十三式になると、前からやるのか後からやるのか全然見当つかなかった。
時計の見方や電話の掛け方など日常生活に必要な知識がなんにもわからず毎日苦しんだ。こんな私でも九年間の義務教育を受けた事になっているのです――。
こんな私でも九年間の義務教育を受けた事になっている。この一文の重さがすさまじい。
翌一九七一年の第十八回大会では、「形式中卒オール1の会」を名乗る生徒や卒業生が壇上を占拠した。彼らはその場にいた文部官僚に詰め寄り、形式卒業者の正式入学を認めるよう主張した。実際、大阪市立天王寺中学では、形式卒業だった生徒が翌年度に正式入学したという。
だが全体としては逆方向に進んだ。一九八〇年代には、昼間の中学校で長期欠席者に対する形式卒業措置がむしろ増加した。義務教育そのものの「形式化」が進んだわけだ。夜間中学の側は、学齢者も形式卒業者も入学不許可という運用が全国に浸透していった。「学齢者は昼間、学齢超過者は夜間」という形式的な役割分業が固まった。
一九六八年には文部事務官が「学齢児は昼間の中学校へ、学齢超過児は成人講座へ」と答弁している。一九七四年には文部大臣が「学齢超過者は社会教育的見地で考えていく」と述べ、一九七五年には文部省の局長級が「学齢超過者について市区町村に学校を設置する義務はなく、生涯教育の観点から社会教育が最も望ましい」と言っている。全夜中研はこれを「社会教育路線」と呼んで、猛烈に抵抗した。
義務教育を奪われた者へは、義務教育を保障せよ、という論理である。
この綱引きは、二十世紀いっぱい続いた。
教室の顔ぶれが、二十年ごとに丸ごと入れ替わっていく
夜間中学のもうひとつの特異さは、そこに座っている人が時代ごとにまるごと入れ替わることだ。同じ教室、同じ椅子、同じ黒板、でも座っている人の背景が二十年ごとに全部変わる。こんな学校は、ほかにない。
一九六五年の日韓基本条約をきっかけに、韓国からの引揚帰国者が入学しはじめた。とくに東京の夜間中学では、いわゆる「日本人妻」とその子どもの入学が目立つようになる。韓国からの生徒数は一九七四年にピークを迎えた。
一九七二年の日中国交正常化と一九七八年の日中平和友好条約を経て、今度は中国からの帰国者が入ってきた。中国残留孤児、残留婦人とその家族である。当時、帰国者の日本語教育を担う公的機関がなかった。だから「帰国者は夜間中学で日本語を学ぶ」というのが、行政各機関の確認事項だった。所沢に中国帰国孤児定着促進センターができるのは一九八四年、全国十五か所に自立研修センターができるのは一九八八年。
それまでの十年ほど、夜間中学は事実上、中国帰国者のための日本語教育機関だった。東京の夜間中学には日本語学級が設置された。
在日朝鮮人がいたのだ。就学猶予・免除を受けた障害のある人がいた。登校拒否を経験した人がいた。インドシナからの定住難民がいたのだ。
一九九〇年に出入国管理及び難民認定法の改定が施行されると、南米からの日系人労働者が急増する。国際結婚も増える。夜間中学にグローバル化の波が来る。二〇〇二年九月時点の調査では、全国三十五校の在校生三千三十一名のうち、外国人学習者が二千三百六十名。在日韓国・朝鮮籍の八百八名を除いても、千五百五十二名が日本語の支援を必要としていた。
そして二〇〇〇年代以降、もうひとつの層が来る。不登校経験者だ。
一九九〇年代に不登校の児童生徒が急増した。学び直しを希望する人も増えた。だが、中学を卒業扱いになっていると、原則として入学は認められない。ここで、現場の教師たちが何をしたか。将来夜間中学に通う可能性を考えて、あえて卒業させないケースがあった。
当時の校長の配慮で卒業証書を受け取らずに夜間中学に通った女性の話が報じられている。その女性は卒業後に進学し、公立中学の教師になった。
制度が受け止めないから、現場が抜け道をつくる。この構図が、一九四七年からずっと変わっていない。
二〇一六年、法律がやっと「なくてはならない」と書いた
大きく動いたのは二〇一〇年代だ。
全夜中研は二〇〇〇年に日弁連への人権救済申立てを決め、二〇〇三年に提出した。日弁連は二〇〇六年、「学齢期に就学することのできなかった人々の教育を受ける権利の保障に関する意見書」を政府に提出する。
二〇一四年、夜間中学等義務教育拡充議員連盟が発足した。文科省が夜間中学の全国調査を実施し、文部大臣が「全都道府県に最低でも一校の夜間中学が必要」と答弁する。二〇一五年七月三十日、文科省は入学希望既卒者、つまり形式卒業者の受入れに関する考え方を通知で示した。四十五年前に壇上を占拠して訴えられたことが、ようやく通知になった。
そして二〇一六年十二月十四日、「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」、いわゆる教育機会確保法が公布される。第十四条にはこう書かれている。
地方公共団体は、学齢期を経過した者であって学校における就学の機会が提供されなかったもののうちにその機会の提供を希望する者が多く存在することを踏まえ、夜間その他特別な時間において授業を行う学校における就学の機会の提供その他の必要な措置を講ずるものとする――。
「多く存在することを踏まえ」。国が、その人たちが多く存在することを認めた。一九六〇年代に「日本では識字問題は解決済み」と言ってから、半世紀かかった。
二〇一七年三月には義務教育費国庫負担法が改正され、都道府県が夜間中学を設置する場合にも教職員給与等が国庫負担の対象になったのだ。二〇一八年六月の第三期教育振興基本計画で、全都道府県に少なくとも一校という目標が閣議決定された。二〇二一年一月二十五日、衆議院予算委員会で内閣総理大臣が、今後五年間で全ての都道府県・指定都市に少なくとも一つ設置されることを目指す、と答弁した。
ここから設置数が跳ね上がる。令和二年度に一校、令和三年度に二校、令和四年度に四校、令和五年度に四校、令和六年度に十一校が新設された。令和二年度に三十三校だったものが、令和四年度に四十校、令和六年度に五十三校。令和七年四月時点で六十二校、そして現在、四十四の都道府県・指定都市に六十九校が設置されている。
生徒の顔ぶれも、また変わっている。令和六年度の実態調査によれば、令和六年五月一日時点で夜間中学に通う生徒は千九百六十九人。二年前の千五百五十八人から約一・三倍に増えた。日本国籍の生徒は五百十九人から七百十三人へ約一・四倍、日本国籍を有しない生徒は千三十九人から千二百五十六人へ約一・二倍。外国籍では中国、ネパールが多い。
驚くのは年齢だ。三十九歳以下の若年層が前回調査より三百二十八人増えて千百十四人、全体の五六・六パーセントを占めた。夜間中学は、いつのまにか若い人の学校になりつつある。しかも日本国籍の生徒のうち、入学希望既卒者の割合が六九・六パーセントから七八・四パーセントへ高まっている。不登校のまま中学を卒業した人が、学び直しに来ているということだ。
一方で、高齢の生徒がいなくなったわけではない。令和四年度の調査では、六十歳以上が二三パーセント、十六歳から十九歳が二〇パーセントだった。男女比は男性三七パーセント、女性六三パーセント、女性のほうが多い。学齢期に「女は学校に行かなくていい」と言われた世代が、そのまま統計に出ている。
需要の規模もはっきりしている。令和二年の国勢調査によれば、小学校にも中学校にも在学したことがない人、または小学校を中途退学した人、いわゆる未就学者が約九万四千人。最終卒業学校が小学校の人、つまり小学校のみ卒業した人または中学校を中退した人が約八十万四千人。不登校の児童生徒数は、令和四年度で約二十九万九千人だ。
八十万人という数字を、もう一度見てほしい。この国には、いまも中学校の教室に座り直したい人が、それくらいの規模でいる。
十七歳と九十七歳が、同じ漢字を習っている
制度の話をここまで書いてきたけれど、実際の教室の光景に戻る。ここからが本当に大事なところだ。
二〇二五年三月十四日の夜、奈良県橿原市立畝傍中学校二部の大教室で、卒業式が行われた。卒業生は五人、最高齢は大和高田市の西田正江さん、九十七歳。公立中学校では国内最高齢の卒業生とみられている。八十七歳か八十八歳で入学し、在籍は十年弱。
週に一、二回のペースで通い続けた。
大阪市出身の七人きょうだいの長女、尋常小学校も、弟や妹の世話でほとんど通えなかった。戦後まもなく家具職人と結婚して奈良に移り、四人の子を育てたのである。日常の読み書きはできたけれど、「きちんと勉強を教えてもらいたい」と思って、二〇一五年に夜間中学の門をくぐったのだ。目標は「百歳で卒業」だったという。
彼女が国語の作文で繰り返し書いたのは、十八歳を迎える年に遭遇した大阪大空襲の体験と、次の世代へのメッセージだ。「戦争は絶対したらあかん。なんぼ、はらたっても戦争だけはしたらあかん」。
卒業式で彼女はこう言った。「寂しいという気持ちとは少し違う。またみんなと会える。別れとは思っていません」。
そして、この日いっしょに卒業したのが誰かというところが、この記事の核心に触れてくる。同じ夜間学級を巣立ったのは、中国残留邦人二世の七十代の男性と、小学校で不登校になり、その春から専門学校に進む十八歳の生徒だった。
九十七歳と、七十代の残留邦人二世と、十八歳の元不登校の生徒。この三人が同じ卒業式に並んでいる。同じ校歌を歌っている。同じ教室で、同じ先生に、同じ漢字を習っていた。
大阪の守口の夜間中学に一九八七年に転勤した教員の回想には、こんな場面がある。その年、卒業証書のない十六歳から十八歳の生徒が一度に七、八人入学してきた。ひとつのクラスに集中して在籍することになり、同じ人数の高齢の生徒といっしょに学ぶことになった。理科を担当した教員は、若者と若者でない人たちの反応を注視して教材を選んだという。
面白いのはここからだ。高齢の生徒たちは、孫や子どもの年齢にあたる新入生の特性を見極めて、慎重に対応していた。教員の下手な説明で理解できないと、隣の若い生徒に尋ねて、説明を受ける。そして「この人の説明のほうがわかりやすい」とクラス中に聞こえる声で言って、褒めて、その子を授業に引き入れる。大人の対応をされていた、と教員は書いている。
八十歳の生徒が、十七歳の生徒をクラスに定着させるために、わざと自分が分からないふりをする。これは教育のかなり高度な技術で、しかも誰にも習っていない。人生でやってきた。
映画『こんばんは』が撮った東京都墨田区立文花中学校の夜間学級には、十七歳から九十二歳まで、八か国八十人の生徒がいた。授業は夕方の五時二十分に始まり、給食を挟んで夜の九時過ぎまで。ひとりでも授業内容が分からない生徒がいたら、理解するまで互いに助け合いながらゆっくり進む。
ひとりでも分からない人がいたら進まない。昼の学校では、まずできない。時間割が許さないし、受験がある。夜間中学では、それができる。というより、それをやらないと授業が成立しない。
教室にいる人の背景が違いすぎるからだ。
この事実そのものが、もうかなり怪談的な強度を持っている。同じ部屋の中に、七十年ぶんの時間差が同居している。二十歳の人が習っている漢字を、九十歳の人が同時に習っている。九十歳の人にとってその漢字は、七十年間ずっと手前にあって届かなかった漢字だ。同じ黒板に書かれた同じ字が、席によって違う重さを持っている。
夜の教室で起きているのは、そういうことだ。
ここからが怪談――誰もいない昼の教室に、鉛筆の音がする
さて、本題の噂話に入ろう。
夜間学級のある学校で語られる話には、はっきりした型がある。いくつかに整理できるので、ひとつずつ見ていく。まず最初は、鉛筆の音だ。
昼の授業が終わって、放課後、教室に忘れ物を取りに戻る。三階の廊下は西日で赤くなっている。自分のクラスは手前だが、その奥に空き教室がある。昼間はどこも使っていない部屋だ。
前を通ると、中から音がする。
かりかり、かりかり。
鉛筆で紙をこする音であり、速くない。むしろ、ものすごく遅い。一文字書くのに何秒もかけているような音、ときどき止まって、また始まる。
消しゴムをかける音が混じる。それから、ふう、と息を吐く音。
ドアを開けると、誰もいない。机も椅子も、きちんと並んでおり、黒板は消してある。ただ、いちばん後ろの列の、窓から二番目の席の机だけが、わずかに前へずれている。
この型の面白いところは、音が「うまくない」ことだ。ふつう、この手の怪談で聞こえてくる音は完成されている。音楽室のピアノは上手に鳴る。放送室の声ははっきり喋る。ところが夜間中学まわりの鉛筆の音は、下手なんだ。
たどたどしい。ゆっくり書いて、消して、また書く。
だからこの話は、聞いたあとに嫌な気持ちが残る。怖い、ではなく、切ない、でもなく、その中間の変な感情になる。誰かが、必死で練習している音だ。それを聞いてしまった。
派生としては、音が聞こえるのが昼ではなく朝、というバージョンがある。一番乗りで登校した生徒が、まだ鍵の開いていない教室から鉛筆の音を聞く。あるいは、音がするのが教室ではなく職員室の隣の小さな部屋で、そこは夜間学級の日本語指導に使われている部屋だった、という形。もうひとつ多いのが、音の主が誰かを特定しようとする段階で必ず話が途切れる形だ。
振り向いたら消えた、ドアを開けたら止まった、翌日確認したらその部屋は使われていなかった。
名簿に、何十年も同じ名前が残っている
二つ目の型が、名簿であり、これがいちばんよく語られる。
話の骨格はこうだ。夜間学級の生徒名簿に、ずっと消えない名前がひとつある。何年も在籍しており、誰も卒業させた覚えがない。誰も本人を見た覚えがない。
事務の担当が代わるたびに引き継がれて、そのまま残っている。
バリエーションはたくさんある。名簿の一行だけ、書式が古い。ほかは打ち出しなのに、そこだけ手書きが残っている。あるいは、生年が明らかにおかしい。計算すると百二十歳になる。
あるいは、在籍年数の欄が空欄で、担任欄には十年前に退職した教員の名前が入ったままになっている。
なぜ夜間中学の名簿でこの話が成立しやすいのか。理由はふたつある。
ひとつは、夜間中学の在籍が本当に長期になることがあるからだ。西田正江さんは十年弱在籍している。週に一、二回の通学でも在籍は続く。三年で卒業するという昼の常識が、そもそも通用しない。だから「何年も名簿に載っている名前」は、怪談ではなく日常として存在する。
日常として存在するものに一枚だけ嘘を混ぜると、話は途端に強くなる。
もうひとつは、統計と実在籍のずれが、この分野ではもともと大きいことだ。夜間中学は年度途中の入退学が多い。研究者も、入学者数と在籍者数について、調査日によって同年度内でも大きな差がある、と書いている。籍はあるが来ていない人、来ているが籍の処理が追いついていない人。
転居して連絡が取れなくなった人だ。名簿と教室の人数は、しょっちゅう合わない。
合わないことが常態化している場所で、「一人多い」という話は生まれやすい。
さらに歴史のほうを重ねると、話はもっと不穏になる。前に書いたとおり、一九五〇年代の夜間中学は、校名すら確定できない学校が何十校もある。そこに通っていた生徒の名簿は、どこにいったのか。学校ごと記録から消えているなら、名簿も消えている。誰の記録にも残らないまま義務教育から抜け落ちた人が、当時の推計で百万人。
名簿に残るはずだった名前が、百万人分どこにもない。
その反転として「名簿にだけ残った名前」の話が語られるのは、けっこう自然なことだと思う。
卒業したはずの生徒が、毎晩来ている
三つ目は、卒業生の型だ。
夜間中学の卒業式は、独特の重さを持っている。何十年もかかって取り戻したものを、一晩で手渡される場だ。だから、卒業したあともその教室に来る人がいる。これは怪談ではなく、実在する現象である。
自主夜間中学というものがある。ボランティアが運営する、公立ではない夜の学びの場だ。東京都墨田区で活動する「えんぴつの会」は、一九九〇年に活動を始めた学習会が、二〇〇三年に現在の名称になった。ここには公立夜間中学を卒業した人が多く学んでいる。奈良県や川崎市を皮切りに、一九七〇年代後半から各地に生まれた。
北九州市のように、市の補助金で自主夜間中学が運営されている例もある。
船橋市では二〇二三年二月に公民館で開校した自主夜間中学が、いまは図書館を含む三か所に広がっている。
なぜ卒業してもまた通うのか。理由はいろいろある。公立の夜間中学を卒業したあとも学びを続けたい。居住地域に夜間中学がない。入学条件を満たさない。
週五日は無理だが数日なら通える。日本語を学び続けたい。
「卒業したのに、まだ来ている人がいる」というのは、この世界ではまったく普通の話なのだ。
その普通の話が、噂として伝わるときに一段ずれる。何年か前に卒業した生徒が、毎晩、教室の同じ席に座っている。誰も声をかけない。先生も何も言わない。ある夜、新しく入った生徒が「あの人、誰ですか」と聞くと、担任が答える。
「ああ、あの席は前からああなんだよ」。
派生としては、卒業生が持っている卒業証書の日付を確認したら二十年以上前だった、というバージョン。卒業アルバムに写っている顔と、今そこに座っている顔がまったく同じ、というバージョン。そして、いちばんよくできているのが「その人だけ給食を食べない」というバージョンだ。給食の時間になると、席を立って廊下に出ていく。戻ってくるのは、授業が再開する直前。
給食を食べない、という一点だけで異物になる。うまい話型だと思う。
用務員だけが知っている「四時限目の空席」
四つ目が、いちばん話としてまとまりがいい型だ。
夜間学級の授業は、一日四時限、四十分ずつ。ここで語られるのが「四時限目の空席」である。
型はこうだ。ある教室では、一時限目から三時限目までは全員そろっている。ところが四時限目になると、決まって席がひとつ空く。誰か一人が必ず抜ける。仕事の都合で早退する人がいる。
体調を崩して帰る人がおり、理由は毎回違う。人も毎回違う。でも、必ず一つ空く。
そして、その空いた席に、必ず何かが座っている。
この話を知っているのは用務員だけ、という形で語られることが多い。理由がちゃんとあって、用務員は最後に施錠する人だからだ。生徒も教員も、九時過ぎには帰る。用務員は全教室を回って、窓を閉めて、電気を落として、鍵をかける。だから、四時限目が終わったあとの教室の状態を毎日見ている唯一の人になる。
その用務員が言う。四時限目に空いていた席の椅子だけ、いつも引かれている。ほかの席は生徒がきちんと戻して帰るのに、その席だけ、座った人が立ち上がったままの角度で残っている。
派生では、空席の位置が毎日違うのが不気味だ、という語りになる。決まった席が空くなら、その席のいわくを調べればいい。ところが毎日違う席が空く。何かは席を選んでいるのではなく、空いたところに入っているだけだ、という理屈になる。
もうひとつの派生は、四時限目に空いた席の生徒が、翌日ふつうに登校してくるパターン。ただし、本人は「昨日は最後まで出ていた」と言い張る。出席簿を見ると、たしかに出席になっている。
用務員という職種が怪談の語り手として強いのは、宿直の怪談の系譜を引き継いでいるからでもある。かつて学校には宿直があった。教員が交代で校舎に泊まった。宿直室に布団があったのだ。その制度が廃れて、機械警備と用務員の巡回に置き換わった。
だから「夜の校舎を最後まで見ている人」という役割だけが残って、語り手として使われ続けている。
夜間中学の場合、この役割はさらにややこしい。夜の九時過ぎまで人がおり、それから施錠する。そして翌朝、昼の生徒が来る。用務員が見ている「無人の校舎」の時間は、ふつうの学校よりずっと短い。
短いのに、そこにだけ何かが詰まっている、という語りになる。
昼と夜で、下駄箱の数が合わない
五つ目は、下駄箱だ。
夜間学級のある学校では、下駄箱の扱いが学校によって違う。昼と夜で共用しているところもあれば、別に確保しているところもある。上履きを使う学校もあれば、外履きのまま入る学校もある。
この曖昧さを突くのが、この型だ。
朝、昼間部の生徒が登校してくる。下駄箱を開ける。自分の靴を入れる。ふと隣を見ると、誰かの上履きが入っている。ぼろぼろの、古い型の上履きだ。
今の指定とは違う。その段は、昼間部では使っていないはずの段だ。
翌朝、同じ場所を見る。上履きの向きが変わっている。
派生では、数の話になる。昼間部の生徒が下駄箱を数える。学級の人数と合う。放課後にもう一度数える。一足多い。
翌朝また数える。合っており、夜間学級の生徒の靴だろう、と最初は思う。でも夜間学級は別の昇降口を使っていると聞かされて、話がおかしくなる。
もうひとつの派生が、いちばんよくできている。夜間学級の生徒が、自分の下駄箱に見覚えのない上履きが入っているのを見つける。中学校の指定の上履きで、かかとに名前が書いてある。読める。自分の名前だ。
ただし旧字体で書かれている。自分が子どものころに使っていた字体で。
下駄箱が学校怪談で強いのは、それが「入れ替わる場所」だからだ。外の靴と中の靴を交換する装置、昼と夜が入れ替わる建物にその装置があると、話が二重に効く。
なお、下駄箱にまつわる噂は昼の学校でも定番中の定番で、数えるたびに数が変わる、逆向きの一足がある、卒業した先輩の色の上履きが残っている、といった話が全国にある。夜間学級のある学校では、そこに「昼と夜」という軸が一本追加される。それだけで、既存の話型がまるごと更新される。
派生その一、廊下の途中で消える人影
もう少し細かい派生をいくつか押さえておきたい。ここから先は語られる頻度が少し落ちるけれど、型としてははっきりしている。
まず、廊下の人影、夜間学級の授業中、廊下を誰かが歩く。授業を受けている生徒が、開いたドアの向こうに人影を見る。誰かが遅れて来たのだろうと思う。ところが、教室に入ってこない。
廊下の途中で足音が消える。
この型が夜間中学で成立しやすい理由は、遅刻が多いからだ。仕事を終えてから来るので、遅れて来る人はたくさんいる。授業の途中でドアが開くのは日常の風景だ。だから「開かなかったドア」が異物になる。日常が濃いほど、そこからのずれが目立つ。
派生その二、日本語学級の壁に貼られた作文
二つ目の派生は、掲示物だ。
夜間学級の教室の後ろには、作文や書写が貼られていることが多い。学び直した人が書いた文章は、内容が独特だ。子どものころの記憶、故郷のこと。家族のこと。
空襲のこと。畑のこと。
この型では、貼ってある作文の中に、誰のものか分からない一枚がある。名前の欄が空白か、あるいは読めない字で書かれている。内容は、その学校の昔の様子について書かれている。書いた人しか知らないはずのことが書いてある。校舎の間取りが今と違う。
校庭に木があったと書いてある。実際、古い写真を見ると、その位置に木がある。
昼間部の生徒が見つけてしまう、という語りが多い。掃除で夜間学級の教室に入ったとき、あるいは文化祭の準備で移動したとき。この「昼の生徒が夜の教室に入る」という設定が、話に効いている。ふだん入らない部屋だからだ。
派生その三、二重に鳴るチャイム
三つ目は音の派生で、チャイムだ。
夜間学級のある学校では、チャイムが一日二回転する。昼の時間割で六回か七回鳴って、夜の時間割で四回か五回鳴る。合計すると、一日に十回以上鳴る建物になる。
この型では、鳴らないはずの時間にチャイムが鳴る。昼と夜のあいだ、誰もいない一時間に、一回だけ鳴る。放送室は施錠されている。設定を確認しても、その時刻はプログラムされていない。
翌日、同じ時刻にまた鳴る。
この話が面白いのは、原因の説明がむしろ怖い方向に転ぶところだ。古い設定が消し忘れで残っているのだろう、という説明がつく。何十年も前に使われていた時間割が、機械の中に残っている。誰も直さないまま鳴り続けている。それは実は、かつてこの校舎で使われていた別の時間割かもしれない。
制度から消された学校の時間割が、機械の中だけに残っている。理屈が通っているぶん、あとから効いてくる。
