押し入れの前しか空いていないと言われて
親を送ったばかりの友人から、仏壇はどこへ置けばいいのかと聞かれた。住まいはマンションで、和室はひと部屋きり。空いているのは押し入れの前だけらしい。南向きにしろ、いや東だ、と周りが口々に言うそうだ。壇そのものは葬儀屋に勧められるまま、通夜の翌日にはもう注文してしまったと、本人が苦笑いしながら言っていた。
困りどころはそこだった。教える人が多すぎて、どれが本筋か見えなくなる。向きひとつ取っても言い分が三通りある。どれも間違いじゃなく、拠り所が違うだけ。置き場所は最後だった。
だから順にたどっていく。あの箱がどこから来たのか。中へ何を据え、朝夕に何をして、何を唱えるのか。畳むしかなくなったときの段取りまで。寺で聞いた話と仏壇屋で聞いた話と、近所の年寄りが言う話が、それぞれ少しずつずれていたのも、面倒の種になっていた。
天武天皇の詔と、縮んでいった仏の家
よく引かれるのが日本書紀の一節だ。白鳳十四年、西暦でいえば六百八十五年の三月二十七日。天武天皇が諸国へ向けて、家ごとに仏舎を作り、仏像と経を置いて礼拝供養せよと命じた。三月二十七日を仏壇の日と呼ぶ習わしは、ここから来ている。同じ年の詔には、諸国へ金光明経と仁王経を蔵めよという指示も並んでいて、国ぐるみで仏教を広げる動きの一部に見える。
ただ、この詔がそのまま今の箱につながるわけじゃない。命じられた相手は諸国の役所や有力な家で、庶民の茶の間の話ではなかった。仏舎は建物だ。部屋どころか独立した堂を建てろという指示。規模がまるで違った。
奈良から平安にかけて、貴族は屋敷の一角に持仏堂を構えた。お堂がそのまま家の中に入っている形。法隆寺の玉虫厨子のような箱もこの流れの先にあり、厨子は持ち運べる小さな堂として扱われた。平安の貴族が建てた大がかりな私寺も、もとをたどれば屋敷の一角に構えた持仏堂から育っていった形になる。
建物から部屋へ、部屋から箱へ。仏壇の歴史は、ひたすら縮んでいく歴史だった。もうひとつ、盆に組む魂棚が常設化して仏壇になったという筋書きもある。今は持仏堂からの縮小を取る見方が強い。魂棚説を取る人は、盆のあいだだけ組む棚がやがて常設になり、箱の形へ収まっていったという道筋で説明した。
どちらにせよ、扉が付いている理由は同じ場所を指す。寺の山門に見立てたという説明。中を三段に組み、最上段の中央を須弥壇と呼ぶのも、堂内をそっくり縮めたからだった。造りは寺の縮図だった。
寺請と檀家が、各家に箱を据えさせた
家ごとに仏壇、という形が一気に広がったのは江戸期だ。幕府はキリシタン禁制の名目で寺請制度を敷き、どの家もいずれかの寺の檀家になるよう仕向けた。宗門改帳に名前が載り、寺が身元を保証する。今でいう戸籍係を寺が兼ねた格好。宗門改帳には家族全員の名と年齢と檀那寺の名が書き込まれ、年に一度、寺がまとめて役所へ差し出す決まりだった。
檀家になれば、葬式も法事も寺を通すことになる。先祖の位牌が家に溜まり、それを納める場所が要る。仏壇はその受け皿として各家へ入っていった。信心が先か制度が先か、順番は地域で違ったらしい。葬式を出すたびに戒名を授かり、法名を刻んだ札が家の中に増えていき、それを収める場所がどうしても必要になった。
もうひとつ効いたのが、庶民の暮らし向きの上向きだった。金や漆を使った箱を買える家が増える。仏壇屋という商売が成り立ち、職人が分業で作る産地ができあがっていく。元禄のころには京や大坂に仏具を扱う店が並び、行商人が地方へ小型の壇を運んで売り歩く商いまで成り立っていた。
蓮如が配った名号と、金仏壇が育った土地
室町期、本願寺の蓮如は布教の先々で南無阿弥陀仏と書いた掛軸を門徒に授けた。仏像を彫る金も伝手もない家でも、紙の名号なら掛けられる。これを掛ける場所として、簡素な壇が各戸に据えられていった。門徒の家では、この名号を掛けた壇の前で朝夕に正信偈を読むという形が、江戸期を通してゆっくり定着していった。
真宗が厚い土地で仏壇が大きく立派になったのには理屈がある。真宗では寺参りが生活に食い込んでいて、家の壇も本堂の写しとして整えられた。北陸や東海の門徒の家に、間口の広い金仏壇が並ぶのはそのため。仏間が主室に近い。
真宗本願寺派の壇は一重破風の屋根を持つ宮殿で、柱に金箔を押す。西本願寺の阿弥陀堂を縮めた姿だ。大谷派は二重の瓦屋根で、柱は黒漆塗り、高欄を朱に塗る。東本願寺の阿弥陀堂と大師堂を写した形をとった。同じ真宗でも、屋根の重ね方と柱の色と高欄の塗り分けを見れば、どちらの派の壇かがひと目で分かるようになっていた。
経済産業大臣が伝統的工芸品に指定した仏壇の産地は十五を数える。滋賀の彦根仏壇、愛知の三河仏壇、新潟仏壇、富山の高岡仏壇、岐阜の川辺仏壇。県知事の指定まで含めれば、秋田、小千谷、福井、姫路と、名前はまだ続く。どれも地場の漆と木を使った。
彦根は幕末から明治にかけて、井伊家の抱え職人が武具作りから仏壇作りへ移ったという経緯を持つ。木地、宮殿、彫刻、塗り、金箔押し、金具、蒔絵。七つの職が分かれ、それぞれの親方の手を渡って一本が仕上がった。分業の名残は今も濃く、修理を頼むと、塗り直しと箔押しと金具の洗いで、それぞれ別の職人の手を順に渡っていく。
大きさは代という単位で呼ばれる。五十代から二百代まで幅がある。畳の間に据える前提の寸法だから、今のマンションでは入らないことも起きた。代はもともと障子の桟の数を基準にした寸法の呼び名で、百五十代ともなれば間口が一メートル近くまで広がった。
本尊と脇掛は、宗派ごとに顔ぶれが違う
真ん中へ何を据えるか。ここが宗派で分かれる。正直、自分の家の宗派で確かめるしかない。
真言宗なら大日如来で、向かって右に弘法大師、左に不動明王を掛ける新義の家では興教大師が入ることもある。天台宗は阿弥陀如来を据える家が多く、脇は伝教大師と天台大師。軸ではなく木彫りの像を据える家もあって、真言宗なら大日如来の坐像、禅宗なら釈迦如来の立像あたりが選ばれた。
浄土宗も阿弥陀如来で、脇掛は円光大師と善導大師。真宗本願寺派は阿弥陀如来を中央に、右へ親鸞聖人、左へ蓮如上人を掛ける。大谷派も本尊は同じだが、脇には九字名号と十字名号が入る。南無不可思議光如来と、帰命尽十方無碍光如来。九字と十字は名号の字数を指す。
禅の二宗は釈迦如来を据えた。曹洞宗の脇掛は承陽大師と常済大師、つまり道元と瑩山。臨済宗は派によって変わり、妙心寺派なら花園法皇と無相大師が並ぶ。日蓮宗は曼荼羅を掛け、脇に鬼子母神と大黒天を置く家が多い。日蓮宗の曼荼羅は文字だけで書かれた大曼荼羅で、中央に題目を太く置き、その左右へ諸仏諸尊の名を配した形をとる。
同じ宗派でも、寺や地方で組み合わせが揺れる。買う前に菩提寺へ電話で聞くのが一番早い。軸は寸法が決まっているから、壇の内寸を測ってから注文する。軸の寸法は二十代、三十代といった号数で呼ばれるから、壇の内寸と天井までの高さを測ってから注文したほうがいい。
位牌を置く家と、置かない家
位牌は仏壇の中身として当たり前の顔をしているが、全ての家にあるわけじゃない。真宗の門徒は原則として位牌を立てない。亡くなればただちに浄土へ生まれるという教えなので、魂が木の札に留まるという発想を取らなかった。真宗では亡くなった人をただちに仏として敬うので、供養して成仏させるという言い回し自体を嫌う住職も多かった。
代わりに使うのが法名軸と過去帳だ。法名軸は白地の軸に法名と没年月日を書き、壇の左右の内壁へ掛ける。過去帳は帳面で、日付ごとに法名を書き込む。見台に載せて、月日の頁を開いておく形をとった。日付の頁を開いて置く。
大谷派は法名軸を使う家が多く、本願寺派では過去帳を主に用いる家もある。どちらでも構わないという寺もあった。真宗の家でも位牌を作りたいと頼めば、応じる寺は普通にある。位牌を作った場合でも、真宗では札に法名と没年月日を記すだけで、魂を入れるという言い方はしない寺が多かった。
位牌を使う宗派では、置く段が決まっている。本尊より下、二段目か三段目。本尊を隠さない高さに収める。
古い代のものを向かって右、新しいものを左へ。数が増えて並びきらなくなったら、繰り出し位牌という札を重ねて入れる箱型へまとめた。繰り出し位牌の中には十枚前後の札板が納まり、当月の命日にあたる札を最前列へ出しておくのが普通の使い方。
家制度から団地の茶の間へ
明治になると家制度が敷かれ、戸主が祖先の祭祀を継ぐ形が法で裏打ちされた。仏壇と墓は家督とともに長男へ渡る財産として扱われる。分家は新しく壇を買い、本家の壇には代々の位牌が積み上がっていった。家督を継がない次三男が分家するときは、本家から本尊の軸だけを分けてもらい、壇と仏具は自分で買いそろえる。
戦後の民法で家制度は消えたが、祭祀承継という考え方は残った。変わったのは住まいのほうだ。焼けた街に建つ家は狭く、団地には仏間がない。畳一枚分を占める金仏壇は、物理的に入らなくなった。畳の数が減る。
そこで伸びたのが唐木仏壇だった。黒檀、紫檀、欅といった堅い木の木目を見せる作りで、金箔を張らない。関東や東京で好まれ、宗派を選ばず使えるという触れ込みで広がっていく。唐木という呼び名は唐から渡ってきた堅木という意味で、実際の材はインドや東南アジアから船で運ばれてきていた。
昭和の終わりから平成にかけては、家具調と呼ばれる形が出てきた。ウォールナットやメープルの薄い色、高さ四十センチほどの上置き型。洋間のキャビネットの上に載る寸法で、扉を閉じれば小物入れに見える。仏壇屋の店先の景色が、この二十年でまるごと入れ替わった。仏具まで小ぶりの白磁や無地の真鍮でそろえる形が増え、りんも手のひらに載る球形の物がよく売れるようになった。
畳む家が増えた
ここ十年、仏壇屋の仕事で増えたのが仏壇じまいだという。家を売る、施設へ移る、継ぐ人がいない。理由はいろいろでも、行き着く先は同じ。閉眼供養を頼み、箱を引き取ってもらう。引き取り手が決まらないまま空き家の仏間に残された壇を、近所の寺が引き受けて回っている地域もあると聞いた。
入れ替わりに広がったのが手元供養だ。遺骨の一部を小さな容器へ納めたり、写真立てほどの台に香炉と灯立を載せたり。宗派の作法から離れた形も多いが、毎日手を合わせる場所を作るという一点では、千三百年前の詔と変わらない。遺骨をわずかに納める小さな壺や、名前を彫った金属の板を台に載せる形が、仏具店の棚に当たり前に並ぶようになった。
以下は、置き方から畳み方までの手順になる。宗派で違うところは、そのつど断りを入れていく。順に見ていく。
向きの決め方には、理屈が三通りある
まずは向きから。一つ目が南面北座の説で、壇を部屋の北側に据え、扉を南へ向ける。お釈迦の説法の座が南向きだったという言い分と、南向きなら日当たりと風通しがいいという実利が重なっている。中国の宮室の作りから来た考え方でもあった。寺の本堂が南向きに建てられる例は多く、家の壇もそれに倣うのだという説明を、仏壇屋の主人から聞かされたことがある。
二つ目が東面西座。壇を東側の壁へ寄せ、扉を西へ向ける。これだと拝む人は西を向く。
阿弥陀の浄土は西方にあるから、拝む向きがそのまま浄土を向くという理屈だ。真宗や浄土宗の家で持ち出されることが多い。拝む向きが西になる。
三つ目が本山中心の説で、壇の前に立って拝んだとき、その延長線上に自分の宗派の本山が来るように据える。関東の家が京都の本山を拝む形なら、壇は東側に置いて西へ向けることになる。西日本だと向きが逆になる。本山が北海道や九州にある宗派だと、この説を厳密に守るのは難しく、方角の話はあくまで目安として扱われてきた。
三つとも捨てがたいが、家の作りが許さないことのほうが多い。どの説も絶対ではないから、置けない場合は向きより環境を優先する。方角にこだわって直射日光の当たる窓際へ据えるより、北側の壁を借りたほうが箱のためにはいい。壁の一面が窓になっているリビングしかない家では、家具の配置を変えるより、上置きの小さな壇を選ぶほうが早かった。
避けたい配置もある。神棚と向かい合わせにするのは嫌われる。片方を拝むともう片方に尻を向けるからだ。
神棚の真下に仏壇を据えるのも避ける。念のため書いておく。同じ部屋に置くなら、左右にずらすか、壁を分ける。背を向ける形を嫌う。
直射日光と湿気は木と金箔の敵になる。日が差せば漆が焼け、箱が反る。湿気が籠もれば金箔が浮き、金具が錆びた。エアコンの風が直接当たる場所、水回りの隣、窓際。
この三つは外しておきたい。床に直に置く場合は、下に台を噛ませて畳から離す。金箔は厚さが一万分の一ミリほどしかなく、湿気を含んだ空気に長くさらされると、下地から浮いて剥がれていった。
段の使い方と、仏具をどこへ置くか
中は上から下へ三段が基本になる。最上段の中央が須弥壇で、その上の宮殿に本尊を安置する。脇掛は本尊の左右、ひとつ下がった位置に掛けた。軸を吊る金具は壇の内側にあらかじめ付いている。須弥壇という名は仏教の世界観の中心にある須弥山から来ていて、その山を模した台の上に仏が座るという見立てになる。
二段目に来るのが位牌だ。向かって右が上座で、古い代から順に右、左、右と交互に並べていく。本尊が隠れないよう、高さの高い位牌は外側へ回す。真宗なら、ここへ過去帳の見台を載せるか、内壁へ法名軸を掛けた。札の高さを見て決める。
同じ二段目、あるいは本尊のすぐ前の膳のような段へ、仏飯器と茶湯器を並べる。向かって右に茶湯器、左に仏飯器という並びが多い。二つ並ぶときは中央に寄せて左右対称に。両脇へ高坏を置き、菓子や果物を載せる。仏飯器と茶湯器を載せる小さな棚板を引き出せる作りの壇もあって、その板は仏器膳とか膳引きとか呼ばれていた。
三段目、または前卓の上が、香炉と灯立と花立の場所になる。三具足なら中央に香炉、向かって右へ灯立、左へ花立。小さい壇はこの形で十分だ。三本足の香炉は、足の一本を手前へ向けて据える。香炉には前香炉と土香炉の二種があり、線香を立てる家は灰を入れた土香炉を、抹香を焚く家は前香炉を据えていた。
五具足は正式な飾りで、中央に香炉、その両脇に灯立を一対、さらに外側へ花立を一対。法事や正月など、改まったときに五具足へ組み替える家もあった。常花という金属製の蓮を挿す家もあるが、真宗では常花を飾らない。法事のときだけ組み替える。
りんは壇の右手前、経机の上か下段の端に置く。りん台に布を敷き、その上へ伏せる。りん棒はりんの手前に横たえておく。打つときは縁の外側を軽く撫でるように当てるのが基本で、内側を叩くと音が割れた。りんの下に敷く小さな座布団はりん布団と呼ばれ、縁が台に触れないように据えると、音が思いのほか長く伸びた。
真宗の家には華瓶という小さな瓶が入る。水を張り、樒か青木の葉を挿して本尊の前へ据える。茶湯器の代わりに置かれるもので、水そのものを供えるのとは意味の筋が違う。樒が手に入らない土地では青木や梛の葉を代わりに挿すこともあって、華瓶は左右一対で置くのが本来の形だった。
毎朝の飯と水、花を替える間合い
仏飯は炊きたての一膳目を供える。家族が食べる前に、最初によそった分を仏飯器へ盛るのが筋だ。盛り方は宗派で違い、本願寺派は蓮の蕾の形に丸く尖らせ、大谷派は円筒形に押し出す。他の宗派に決まった形はない。盛るときに仏飯器を軽く湿らせておくと形が崩れにくく、大谷派の円筒形は仏器用の型で押し出して作る家もあった。
供えるのは朝、湯気が立っているうちに。下げるのは湯気が消えた頃で、昼前までには引くのが目安になった。下げた飯はおさがりとして家族で食べる。捨てるのは避けたいから、盛る量ははじめから小さくしておく。量は少なめでいい。
水と茶は毎朝新しくする。茶湯器の中を洗い、白湯か茶を注いで供えた。夕方に下げる家もあれば、翌朝の取り替えまで置く家もある。
真宗では水も茶も供えない。浄土には飢えも渇きもないという教えなので、代わりに華瓶へ水を張って樒を挿す。茶湯器は一日置くと縁に輪染みが残るので、下げたあとに水で洗い、乾いた布で拭いてから戻すようにしていた。
花は葉と花の正面を、拝む人のほうへ向ける。仏に向けて背を見せるのはおかしい、と思うかもしれないが、花は仏から人への施しとして手前を向く、という説明を寺で聞いた。夏なら三日から五日、冬なら一週間ほどで水を替えながら差し替える。花立へ挿す本数は三本、五本、七本と奇数にそろえる家が多く、丈は壇の高さの半分あたりを目安にして切りそろえた。
棘のある花と、匂いの強すぎる花は外す慣わしだ。薔薇や薊は棘があるので避ける家が多い。毒のある彼岸花や水仙も外す。菊、リンドウ、カーネーション、季節の枝物あたりが無難で、造花や常花でも構わない。枝物は日持ちする。
供えないものとして挙がるのが、肉と魚だ。殺生を連想させるという理由による。五辛と呼ばれるニンニクやニラ、ネギの類も、匂いが強いので避ける。酒についても同じ扱いをする寺が多い。精進の筋を重く見る寺では、魚や肉の匂いが香を汚すという説き方をして、台所の残り物を上げることまで止めていた。
ただ、この線引きは宗派と寺で幅がある。故人が好きだった物を供えたいと相談すれば、供えて早めに下げなさいと答える住職もいる。禅の寺では精進の筋を通す説明が強く、真宗では供物そのものを重く見ない説き方をした。どちらが正しいという話ではなく、頼っている寺の言い分に合わせておけばいい。缶ビールを供えたいという相談に、栓を開けないまま置いて、その日のうちに下げなさいと答えた住職の話も聞いた。
灯明から線香、りんまでの運び
朝のおつとめは、はじめに扉を開けるところから始まる。両開きの扉を左右へ開き、内陣が見える状態にする。夜は閉める家と、開けっぱなしの家がある。真宗では朝夕の勤行のときだけ開ける形をとる寺もあった。扉を開け閉めする手まで決まっている家があり、右の扉は右手で、左の扉は左手で動かすものだと教わったらしい。
そのあと供物を替える。仏飯を盛り、水を注ぎ、花の水を見る。ここまでが下ごしらえ。湯気の立つうちに置く。
それから灯明に火を入れる。ろうそくへマッチかライターで点ける。線香はこの炎から取るのが作法で、ライターから直に火を移すのは略式と見なされた。和ろうそくを使う家では芯が太くて炎も大きくなるので、燭台の下へ受け皿を敷いて蝋の垂れを受けるようにしていた。
線香に火が移ったら、炎が上がっているうちに手であおいで消す。息で吹き消すのはしない。人の口から出る息は不浄という扱いだから、左手であおぐか、線香を軽く振って炎を落とす。息は吹きかけない。
本数と立て方が宗派で分かれる。浄土宗、曹洞宗、臨済宗は一本を香炉の中央へ立てた。真言宗と天台宗は正式には三本で、手前に一本、奥に二本を置いて逆三角形に立てる。日蓮宗も三本の形をとる家が多い。浄土宗でも折って寝かせる寺はあるから、香炉の大きさや壇の作りに合わせて形が変わっていくのが実際のところだった。
真言と天台の三本は、仏法僧の三宝に当てるという説き方をする。自分から見て手前が自分、奥の二本が仏と法だという説明を聞いたこともあった。日々の参りでは一本で構わない、と言う住職も珍しくない。三本のそれぞれを過去と現在と未来に当てる言い方もあって、説明の仕方は寺によってずいぶん違っていた。
真宗は立てない。線香を香炉の幅に合わせて二つか三つに折り、火を点けて横に寝かせる。本願寺派では火のついた側を左へ向け、大谷派も同じく寝かせる。
折るのは、香炉から線香がはみ出さないようにするため。折るのは寸法の都合。まあ、それだけの話だ。
線香が据わったら、姿勢を正して合掌する。手のひらを胸の前で合わせ、指先を斜め上へ向けた。数珠は左手に掛けるか、両手へ掛けて親指で押さえる。数珠を持たずに手を合わせても構わないけれど、掛けるなら房を下へ垂らし、指で強く握り込まないようにと教わった。
りんを鳴らすかどうかで、また分かれる。禅宗や真言宗では読経の前に二回、経の終わりに三回といった打ち方をする寺がある。浄土宗では合掌の前に二回。
真宗は日々の参りでりんを鳴らさない。りんは経を読む合図の道具で、拝む合図ではないという考え方による。日蓮宗では読経の前後に打ち、題目を唱えているあいだは木柾という木魚に似た法具を叩き続ける家もあった。
打つ回数の決まりは寺ごとに細かく違う。分からなければ鳴らさなくても失礼にならない。鳴らすなら、りん棒を縁の外側へ軽く当て、余韻が消えるまで待ってから次へ移る。迷ったら鳴らさない。
合掌したまま経を読み、終わったら礼拝する。頭を下げるのは一礼か三礼。最後にろうそくの火を消す。
ここでも息を吹きかけず、仏扇であおぐか、ろうそく消しをかぶせて落とす。線香は燃え尽きるまで置いて構わない。経を読むあいだは姿勢を崩さず、経本を持つときは両手で胸の高さに支え、畳へ直に置かないのが行儀とされていた。
順番を並べ直すと、扉を開け、供物を替え、灯明を点け、線香を供え、りんを打ち、合掌して経を読み、礼拝して火を消す、という運びになる。夕方も同じ形で、供物を替える工程だけ抜けた。夕方は火の始末だけ念入りにして、ろうそくと線香が完全に消えたのを見届けてから扉を閉じる形に落ち着いた。
般若心経を一句ずつ
禅の二宗、真言宗、天台宗、浄土宗あたりで読まれるのが般若心経だ。二百六十字あまりで、覚えてしまえば本を見ずに読める。真宗と日蓮宗では読まない。三分もかからない。
題は「摩訶般若波羅蜜多心経」で、「まかはんにゃはらみたしんぎょう」と読む。大いなる智慧の完成を説いた経の核心、という意味になる。玄奘の訳と伝わる版が広く読まれ、法要では三巻を続けて読む形と、一巻だけで収める形が場に応じて使い分けられた。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」は「かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみたじ」。観音が深い智慧の行を進めていたとき、という出だしだった。
「照見五蘊皆空度一切苦厄」を「しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく」と読む。体も心も中身が空だと見抜いて、あらゆる苦しみを越えた。
「舎利子色不異空空不異色」は「しゃりししきふいくうくうふいしき」。舎利子よ、形あるものは空と別物ではなく、空も形と別物ではない。
「色即是空空即是色」は「しきそくぜくうくうそくぜしき」。形はそのまま空であり、空はそのまま形になる。ここが経の背骨だった。
「受想行識亦復如是」を「じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ」と読む。感じることも思うことも、同じ理屈で空になる。
「舎利子是諸法空相」は「しゃりしぜしょほうくうそう」。舎利子よ、あらゆるものの本当の姿は空だ。
「不生不滅不垢不浄不増不減」を「ふしょうふめつふくふじょうふぞうふげん」と読む。生まれも滅びもせず、汚れも清まりもせず、増えも減りもしない。
「是故空中無色無受想行識」は「ぜこくうちゅうむしきむじゅそうぎょうしき」。だから空の中には形もなく、感じることも思うこともない。
「無眼耳鼻舌身意無色声香味触法」は「むげんにびぜっしんいむしきしょうこうみそくほう」。目も耳も鼻も舌も体も心もなく、色も音も香も味も触れるものも考えもない。
「無眼界乃至無意識界」を「むげんかいないしむいしきかい」と読む。見る世界から考える世界まで、ひとつもない。
「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」は「むむみょうやくむむみょうじんないしむろうしやくむろうしじん」。迷いもなく、迷いの尽きることもなく、老いも死も、その尽きることもない。
「無苦集滅道無智亦無得以無所得故」は「むくしゅうめつどうむちやくむとくいむしょとくこ」。苦しみの理屈もなく、知ることも得ることもない。得る物がないからだ。
「菩提薩タ依般若波羅蜜多故」を「ぼだいさったえはんにゃはらみたこ」と読む。道を求める者は、智慧の完成に寄りかかる。
「心無ケイゲ無ケイゲ故無有恐怖」は「しんむけいげむけいげこむうくふ」。心に引っかかりがなく、引っかかりがないから恐れもない。
「遠離一切顛倒夢想究竟涅槃」を「おんりいっさいてんどうむそうくぎょうねはん」と読む。さかさまの思い込みを離れ、静かな境地へ行き着いた。
「三世諸仏依般若波羅蜜多故」は「さんぜしょぶつえはんにゃはらみたこ」。過去と今と先の仏も、みなこの智慧に寄りかかった。
「得阿ノク多羅三ミャク三菩提」を「とくあのくたらさんみゃくさんぼだい」と読む。この上ない正しい悟りを得た、という意味になる。
「故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪」は「こちはんにゃはらみたぜだいじんしゅぜだいみょうしゅ」。だから知れ、智慧の完成は大いなる呪、明るい呪だ。
「是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚」は「ぜむじょうしゅぜむとうどうしゅのうじょいっさいくしんじつふこ」。この上ない呪、並ぶもののない呪で、あらゆる苦しみを除き、嘘がない。
「故説般若波羅蜜多呪即説呪曰」を「こせつはんにゃはらみたしゅそくせつしゅわつ」と読む。だから智慧の完成の呪を説く、その呪はこうだ、と前置きした。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」は「ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか」。渡った者よ、渡った者よ、向こう岸へ渡った者よ、悟りよ、めでたし。
締めにもう一度「般若心経」と置き、「はんにゃしんぎょう」と読む。ここで一巻が終わった。読み終えたあとに回向として願以此功徳普及於一切と続ける家もあり、これは功徳をすべてに及ぼすという文句だった。
舎利礼文と、正信偈の出だし
舎利礼文は短い。禅宗や真言宗の家で、心経のあとに続けて読まれることが多かった。全文で七十字ほど。真言宗では光明真言や理趣経の一節と組み合わせ、曹洞宗では修証義や大悲心陀羅尼と並べて読む形が広く行われていた。
「一心頂礼万徳円満釈迦如来」を「いっしんちょうらいまんとくえんまんしゃかにょらい」と読む。心をひとつにして、徳の満ちた釈迦如来を礼拝する。
「真身舎利本地法身法界塔婆」は「しんじんしゃりほんじほっしんほっかいとうば」。仏の遺骨と、その本体である真理のからだと、世界そのものにあたる塔に。
「我等礼敬為我現身」を「がとうらいきょういがげんしん」と読む。私たちは敬って礼をし、仏は私のために身を現す。
「入我我入仏加持故」は「にゅうががにゅうぶつかじこ」。仏が私に入り、私が仏に入る。仏の加持の力による。
「我証菩提以仏神力」を「がしょうぼだいいぶつじんりき」と読む。仏の力によって、私は悟りに至る。
「利益衆生発菩提心」は「りやくしゅじょうほつぼだいしん」。人々を救い、悟りを求める心を起こす。
「修菩薩行同入円寂」を「しゅぼさつぎょうどうにゅうえんじゃく」と読む。菩薩の行を修め、ともに静かな境地へ入る。
「平等大智今将頂礼」は「びょうどうだいちこんじょうちょうらい」。分け隔てのない大きな智慧へ、今まさに礼拝する。
真宗の家で朝夕に読むのは正信偈だ。親鸞が教行信証の中に置いた偈文で、全体は百二十句ある。門徒の家では、これを節をつけて読む。全部やると十五分ほどかかった。大谷派の草譜と本願寺派の行譜では節回しが違い、同じ文字を目で追っていても、耳に入る音はまるで別物になった。
出だしはこうだ。「帰命無量寿如来南無不可思議光」を「きみょうむりょうじゅにょらいなもふかしぎこう」と読む。限りない命の如来に身をゆだね、思いはかれない光の如来に帰依する。
「法蔵菩薩因位時在世自在王仏所」は「ほうぞうぼさついんにじざいせじざいおうぶっしょ」。阿弥陀がまだ法蔵という菩薩だったころ、世自在王仏のもとにいた。
「建立無上殊勝願超発希有大弘誓」を「こんりゅうむじょうしゅしょうがんちょうほつけうだいぐぜい」と読む。この上ない願を立て、たぐいまれな大きな誓いを起こした。
「五劫思惟之摂受重誓名声聞十方」は「ごこうしゆいししょうじゅじゅうせいみょうしょうもんじっぽう」。五劫のあいだ思いを重ねて願を選び取り、その名が十方に聞こえるよう重ねて誓う。
要所として引かれるのが「本願名号正定業」で、「ほんがんみょうごうしょうじょうごう」と読む。本願の名号こそが、浄土へ生まれる定まった行いだという句だった。
終盤の「難中之難無過斯」は「なんちゅうしなんむかし」。難しいことの中でも、これより難しいものはない。信じるという一点の難しさを言っている。正信偈のあとには念仏と和讃が続き、六首の和讃を日替わりで読む順番まで、勤行本の中に細かく決めてあった。
念仏と題目と宝号、それをどう数えるか
唱える言葉そのものは、宗派ごとに短い形がある。浄土宗と真宗、時宗は南無阿弥陀仏。「なむあみだぶつ」と読み、真宗では「なもあみだぶつ」と発音する寺も多い。阿弥陀に身をゆだねます、という意味になる。時宗では踊り念仏の名残で、節をつけて高く伸ばす唱え方が残り、土地ごとに抑揚がずいぶん違っていたらしい。
日蓮宗は南無妙法蓮華経で、「なむみょうほうれんげきょう」と読む。法華経に帰依します、という題目だ。太鼓に合わせて唱える形もある。声を張って唱える。
禅の二宗は南無釈迦牟尼仏。「なむしゃかむにぶつ」と読む。釈迦に帰依します、という宝号だった。禅宗では宝号のほかに、白隠の坐禅和讃や般若心経を朝課として読む形が、寺でも家でも広く行われていた。
真言宗は南無大師遍照金剛で、「なむだいしへんじょうこんごう」と読む。遍照金剛は空海が唐で授かった灌頂名だ。大師に帰依します、という宝号になる。
天台宗では南無阿弥陀仏を唱える家が多く、宗祖へ向ける南無伝教大師を添えることもある。宝号のあとに光明真言を重ねる家も多かった。オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン、と唱えて二十一遍を数える。
回数は十遍、二十一遍、百八遍といった切りのいい数で区切る。浄土宗には十念という形があり、南無阿弥陀仏を八回続けて唱え、九回目を長く引き、十回目を短く収める。日課の数を決めて毎朝それを守る人もいた。数取りには百八の珠のほか、算盤玉のような数取り器を使う人もいて、日課の数を帳面へ書きつける習慣まで残っていた。
数を取るのに数珠を使う。ここからが数えの段取りになる。宗派で作りが違う。
真言宗は主珠百八、親玉二つ、四天玉四つの振分数珠で、二重にして両手の中指に掛け、合掌したまま珠を擦り合わせて音を立てる。この音で煩悩を砕くという説き方をとった。音で煩悩を砕くという。
天台宗は平玉という扁平な珠を使い、房に平玉二十と丸玉十がつく。人差し指と中指の間に掛けて合掌する。擦り鳴らすのに向いた形だ。天台の数珠は親玉が一つで、主珠百八に四天玉が四つ入り、房の先へ平玉と丸玉を下げる込み入った仕立てになっていた。
浄土宗は輪を二つ繋いだ独特の形で、親指に掛けて房を手前へ下ろす。数取りの装置が付いていて、念仏の数がそのまま繰り上がっていく。日課数珠と呼ばれるのはそのため。数取りの輪を一つ繰るごとに念仏が進み、決めた日課を何年も続けた人の数珠は、紐が黒く艶を帯びていった。
禅宗は主珠百八を二重にして左手に掛け、合掌する。曹洞宗の正式なものには関子という金属の輪がつき、臨済宗にはつかない。日蓮宗は五本の房がつく形で、輪を八の字にひねって中指へ掛けた。輪は金属で軽い。
真宗の数珠は繰らない。男性は略式の二十二玉、女性は百八玉で、房は蓮如結び。煩悩の数を数えるという発想を取らないから、擦り合わせて音を出すこともしない。本願寺派は二重にして房を下へ垂らし、大谷派は親指と人差し指で挟む形をとる。蓮如結びは房が扇のように広がる結び方で、擦れて切れやすいため、房だけ組み直してくれる念珠店も普通にあった。
月命日と年忌の勘定
月命日は毎月やってくる。亡くなった日と同じ日付が月命日で、三月十五日に亡くなったなら毎月十五日。この日は花を新しくし、少し丁寧に勤める家が多い。月参りといって、僧侶が毎月回ってくる地域もある。月参りの地域では、住職が朝のうちに何軒も回り、短い経を読んではまた次の家へ移っていく形が長く続いていた。
年に一度、亡くなった月日と同じ日が祥月命日になる。一年目の祥月命日が一周忌だ。ここまでは単純な足し算。祥月命日は年に一度。
ややこしくなるのが三回忌から先で、数え方が切り替わる。周忌は満年数、回忌は亡くなった年を一回目と数える。だから三回忌は死後二年目、七回忌は六年目、十三回忌は十二年目に来る。数え年の発想が残っていて、亡くなった年を一年目として勘定するから、回忌の数から一を引くと経過年数になった。
早見を出すなら、亡くなった年に回忌の数から一を引いた数を足せばいい。二千二十年に亡くなった人の十三回忌なら、二千二十に十二を足して二千三十二年。三十三回忌なら三十二を足して二千五十二年になる。引き算を一回挟む。
三回忌のあとは七、十三、十七、二十三、二十七、三十三、五十と続く。三十三回忌か五十回忌で弔い上げにして、個別の位牌をしまい、先祖代々の位牌へ合わせるのが一般的だ。真宗では弔い上げという言い方をせず、法要を区切りとして扱う寺が多い。十七回忌や二十三回忌を省いて二十五回忌を営む宗派もあり、どこで区切るかは寺と家の相談で決まっていくらしい。
命日より後にずらすのは避け、繰り上げて手前の土日に営むのが習わしになっている。寺と親族の都合を先に押さえ、日取りを決めてから案内を出す。案内を出すのは一か月前が目安で、会食や引き物の数を押さえるために、返事の期限まで書き添えるようにしていた。
盆の棚と、迎え火の焚き方
盆は七月十三日から十六日、あるいは八月の同じ日に営む。都市部の一部が七月で、他の多くは八月だ。地域でひと月ずれる。
精霊棚は十二日の午前から組み始め、十三日の朝までに仕上げる。小机を仏壇の前へ据え、真菰のござを敷く。四隅に笹竹を立て、上を縄で結んでほおずきを吊るす家もあった。笹竹が手に入らなければ棚だけ組んでも構わず、真菰のござは仏具店の店先へ盆の時期に出回る物を買って使った。
最上段の中央へ位牌を並べ、香炉と灯立と花立を添える。中段に果物、菓子、故人の好んだ物、仏飯を置く。下段へ水の子と閼伽水。水の子は洗った米に茄子と胡瓜を賽の目に刻んで混ぜた物で、蓮の葉に盛る。位牌を仏壇から棚へ移す家と、仏壇に納めたまま扉を開けておく家があって、扱いは地域によってかなり割れていた。
胡瓜の馬と茄子の牛も下段へ載せる。麻幹か割り箸を四本刺して脚にする。来るときは馬で早く、帰るときは牛でゆっくり、という見立てだ。禊萩を束ねて閼伽水に浸し、供物へ水を振る家もある。脚は四本刺す。
真宗ではこの棚を組まない。精霊が帰ってくるという考え方を取らないためで、代わりに仏壇を普段より丁寧に荘厳し、打敷を掛けて花を整える。真宗の寺では、盆は先祖を迎える行事ではなく、仏法に出会い直す機会として説かれることのほうが多かった。
迎え火は十三日の夕方、十七時から十九時ごろに焚く。玄関先か門口で、素焼きの焙烙に麻幹を折って積み、火を点ける。燃えているあいだに合掌し、火が落ちたら線香を一本もらって精霊棚へ供える。集合住宅なら、玄関の内側で小さな焙烙を使うか、盆提灯の灯りで代える。麻幹は皮を剥いだ麻の茎で、盆が近づくと花屋やスーパーの店先へ束にして積まれ、数百円ほどで買うことができた。
送り火は十六日の夕方、同じ時刻に同じ場所で焚く。焚き方も迎え火と変わらない。地域によっては十五日の夜に出す。焙烙の灰は冷ましてから土へ返すか、可燃ごみとして出した。同じ焙烙を使う。
盆提灯は十二日までに出し、十三日から十六日まで灯す。家紋入りや絵柄の付いた提灯を左右へ一対で置くのが本式で、片方だけでも構わない。しまうのは十六日の送り火のあと、乾いた日に埃を払って箱へ戻す。吊り下げる御所提灯と、床へ据える大内行灯の二通りがあり、初盆をまとめて迎える家では両方を並べることもあった。
新盆は事情が違う。四十九日を過ぎて最初に迎える盆で、白提灯を使う。玄関先か精霊棚の脇に吊るし、一年きりで役目を終える。以前は送り火で燃やしたが、今は寺へ納めるか、火袋の一部だけ焼いて処分する形が多い。白提灯は一つだけで足り、二つ三つと増やす必要はないと、提灯屋の店先で念を押されたことを覚えている。
彼岸は春分と秋分を中日に、前後三日ずつの七日間。特別な棚は組まない。仏壇を掃除し、花を新しくし、牡丹餅か御萩を供える。
春は牡丹に見立てて牡丹餅、秋は萩に見立てて御萩と呼び分けた。中日に墓参りへ行き、家では朝夕のおつとめをいつもより丁寧に勤める。彼岸の入りに仏壇を掃除し、中日に墓へ行き、明けの日に供物を下げるという段取りで動いていた家が多かった。
掃除は乾いた日に、上から下へ
掃除は晴れて湿度の低い日を選ぶ。木も金箔も湿気を吸うから、雨の日に扉を開け放つのは避けた。盆の前、彼岸の前、年末のすす払いと、年に三度ほど手を入れる家が多い。雨の日は開けない。
はじめに手を合わせてから始める。写真を一枚撮っておくと戻すときに迷わない。仏具を全部出し、新聞紙を広げた上へ並べる。出した順を覚えておく。新聞紙の上へ並べるときは出した順に左から置いていくと、戻すときの迷いがそれだけできれいに消えていった。
金箔の部分には触らない。素手で触れば箔が剥げ、指紋が残って取れなくなる。汗や皮脂で色が変わり、直すには職人に箔を押し直してもらうしかない。金箔と金粉の面は、毛払いで埃を払うだけで終わりにする。箔押しの面を洗剤で拭いてしまい、下地の赤い漆が透けてしまった壇を、修理屋が引き取っていくのを見たことがある。
毛払いは柔らかい山羊毛のものを使い、上から下へ一方向に動かす。往復させると埃が戻る。彫刻の奥や欄間の隙間は、毛先を寝かせて撫でるように。強く当てず、埃を浮かせて落とす感覚で扱う。往復させない。
唐木の部分は乾いた柔らかい布で乾拭きする。水拭きはしない。漆の面も同じで、水気が残ると白く曇った。汚れがひどいときだけ、仏壇用のクリーナーを布へ少量取って拭き、すぐに乾いた面で拭き上げる。漆の面に水が残ると、乾いたあとに白い曇りが浮いてきて、素人の手ではもう戻せなくなることが多かった。
金具は外せるものを外してから磨く。真鍮の金具は塩分に弱く、素手で触ると指の跡から錆びた。綿の手袋をはめ、真鍮用の研磨剤を布に少し取って磨き、粉が残らないよう拭き取る。金メッキのものに研磨剤を使うと、メッキごと落ちる。研磨剤を使ったあとは粉が彫りの溝に残りやすいので、乾いた筆や綿棒で一本ずつさらっておくと後が楽になった。
燭台に垂れた蝋は、冷えて固まってから外す。爪や金属のへらでこじると傷が付くので、ぬるま湯に浸けて柔らかくしてから剥がす。それでも取れない分は、ドライヤーの温風を当てて緩め、布で拭う。漆塗りの台に垂れた蝋へ熱を当てすぎると、下地まで傷んだ。熱を当てすぎない。
香炉の灰は、篩にかけて燃えかすを取り除く。線香の燃え残りが溜まると火が途中で消える。灰が減ってきたら足し、湿気を持った灰は天日で乾かしてから戻す。灰を篩う道具は灰ならしと呼ばれ、線香の折れや燃えかすを取り除くと、火が最後まですっと通るようになった。
仕上げに仏具を元の位置へ戻し、扉と欄間の埃をもう一度払い、手を合わせて終わりにする。掃除の日に本尊や位牌を動かすのは構わないが、動かす前に一礼するのが習わしだった。終わったあとに扉を閉め、翌朝また開けるところから、いつもどおりの朝のおつとめへ戻っていく運びになる。
位牌の始末と、仏壇じまいの段取り
古い位牌が溜まってきたら、繰り出し位牌へまとめる方法がある。札板を何枚も納める箱型の位牌で、命日の順に重ねて入れ、当月のものを手前に出す。三十三回忌や五十回忌を区切りに、個別の位牌を先祖代々の一基へ合わせる家も多い。繰り出し位牌へ移すときも、寺へ相談したうえで新しい札に書き写してもらうのが、順序としては無難だった。
まとめた後の古い位牌は、そのまま捨てない。寺へ持ち込んで閉眼供養を受け、お焚き上げに出す。菩提寺が遠ければ、仏壇店や専門の業者が預かって寺へ回してくれる。札は紙で包む。
閉眼供養は魂抜き、お性根抜きとも呼ぶ。位牌や仏壇から仏の働きを離し、ただの木の箱へ戻す儀式だ。菩提寺へ電話し、日取りを決め、当日は仏壇の前で読経を受ける。真宗では魂という言い方をせず、遷仏法要や御移徙と呼ぶ寺が多い。閉眼供養の当日は、仏具をそのまま据え置き、花と灯明を普段どおりに整えてから僧侶を迎えるのが通例だった。
お布施の相場は一万円から五万円くらい。金額を聞いても、お気持ちでと返されることがある。そのときは同じ寺の檀家に聞くのが早い。白封筒に御布施と書き、表書きの下へ施主の姓を入れて渡す。表書きは薄墨ではなく濃い墨で書き、袱紗に包んで持っていき、読経が終わったあとに切手盆へ載せて差し出した。
仏壇じまいは、親族への相談から始める。勝手に進めると後で揉めるから、兄弟や分家へ先に話を通しておく。次に菩提寺へ連絡し、閉眼供養の日を押さえる。先に話を通す。
供養が済んだら中身を整理する。位牌、過去帳、本尊の軸、遺影。これらは残すか、別に供養するかを決める。引き出しの奥から、へそのおや古い写真、金封が出てくることもあった。本尊の軸だけは寺へ納める家が多く、遺影は額から外して写真だけ残す形に切り替える人もだんだん増えていった。
箱そのものの処分は、いくつか道がある。菩提寺に引き取ってもらうと三万円から十万円ほど。仏壇店に頼むと二万円から八万円ほどで、新しい壇を買うなら引き取り料が下がることもある。遺品整理の業者は見積もり次第。仏壇店に頼む場合は引き取りと運搬と処分をまとめた値段で示されることが多く、内訳を聞くと三つに分かれて出てきた。
自治体の粗大ごみとして出す道もあり、費用は数百円から数千円で済む。閉眼供養さえ済ませてあれば、宗教上の問題はないと説明する寺は多い。ただ、近所の目や親族の気持ちを考えて、寺か仏壇店に頼む家がほとんどだ。解体してから出すよう求める自治体もあり、その場合は金具と金箔の部分を分けて捨てる決まりになっていた。
引っ越しで持っていく場合は、手順が別になる。出る前に閉眼供養を受け、運んだ先で開眼供養を受けるのが正式な形だ。同じ家の中での移動や、同じ市内の短い移動なら省く寺もある。先に寺へ電話する。
運ぶときは、本尊の軸と位牌を先に外して別に運ぶ。柔らかい布で包み、自分の手荷物として持つ。引き出しの中身を出し、扉を紐で留め、毛布で巻いて立てたまま積む。横に寝かせると内部の金具が外れ、宮殿の細工が割れることがあった。引っ越し業者に任せる場合でも、軸と位牌は自分で持つと先に伝えておくと、当日の積み方で揉めずに済んだ。
新しい家では、据え付けてから軸と位牌を戻す。最初に灯明を点け、線香を供え、合掌する。それから普段の朝のおつとめへ戻していく。手元供養へ切り替えるなら、小さな台に香炉と灯立を置き、写真か位牌を据えるだけでもいい。作法の形は変わっても、火を点けて手を合わせる順番は同じままだった。
