- 六月の庭に杭を一本打とうとして止められた
- 木火土金水を四季へ割ると、土がひとつ余る
- 海を渡ってきた土の神
- 竈の神でもあり、井戸の神でもあった
- 暦の下段に刷り込まれた十八日
- 神楽の中で王子たちが四季を取り合う
- 十八日を丸ごと止めたら、村が回らない
- 明治五年の改暦で暦注は消えた、はずだった
- 今年の土用の入りと明けを自分で出す
- 間日を干支から拾う手順
- どこまでが禁忌だったのか、線を引く
- 土用へ入る前に着工しておけば続けてよい
- やむを得ず掘るときの略式の地鎮
- 四隅へ塩と米と酒を置く順番
- 盛り砂を作って、鍬を三度入れる
- 唱える言葉を全文で
- 土用灸と土用干しと土用餅と土用蜆
- 丑の日に鰻が接ぎ木された経緯
- 地域で線の引き方がずいぶん違う
- 供えた物の下げ方と、道具の始末
六月の庭に杭を一本打とうとして止められた
知り合いの大工が、施主の庭へ物置の杭を打とうとして、その家の祖母に止められた。六月の終わりごろの話だ。今は土が動いとるから待て、とだけ言われたらしい。
大工は四十を超えていて、土用という言葉くらいは知っていた。ただ杭一本で止まるとは思っていない。渋々日を延ばして、七月の頭に打ち直した。今度は何も言われずに済んだ。
面白いのはここから。祖母は暦を見ていない。夏の土用へ入る前の何日かは駄目だと、体のほうで覚えていた。十八日という数字も、土公神という名前も口に出てこない。
その体で覚えている禁忌の中身を、暦の側から順番に開けていく。誰が決めて、どこで広まり、どこに抜け道が用意されたのか。手順の話は後半でまとめて書く。
木火土金水を四季へ割ると、土がひとつ余る
出発点は陰陽五行。木火土金水の五つで世の中を説明する枠組みで、古代中国で形が整った。日本へは暦と抱き合わせで入ってくる。
五つを四季へ当てはめようとすると、数が合わない。春に木、夏に火、秋に金、冬に水。ここで土がひとつ浮く。
浮いた土をどこへ置くか。術数家が出した答えが、各季節の終わりへ分けて差し込む、という手だった。四季それぞれの末に十八日ずつ。合わせて七十二日ぶんを土の持ち分に回す。
五行には相生と相剋という二つの関係があり、木が火を生み、火が土を生み、土が金を生むという循環がまず置かれた。この並びで行くと、土は火と金のあいだに座ることになり、夏と秋の境目がいちばん据わりのいい場所になる。ところが四季それぞれに境目がある以上、土を一か所へまとめてしまうと残りの三つの継ぎ目が説明できなくなってしまう。
一年を五等分すれば七十三日ずつになる。その七十二日という数字は、ほぼきれいに五分の一へ収まった。木も火も金も水も、それぞれ七十二日ぶん削られて、残りの持ち分が均される。理屈としてはよく出来ている。
中国の側では、土を夏の終わりだけへ当てる長夏という考え方と、四季の末へ等分する考え方の両方が並び立っていた。日本の暦が採ったのは後者のほうで、四回の土用という形で定着していく。医書や農書では長夏の考え方も引き継がれていて、同じ五行の枠組みから二つの季節観が枝分かれした。
だから土用は年に四回ある。夏の鰻のイメージが強すぎて一回きりだと思っている人が多いけれど、春夏秋冬それぞれの末に居座る。正式な呼び名は土旺用事。土の気が旺んになって用事をする期間、という意味の四文字を縮めたものだ。
土を四季の境目へ置いた発想は、季節と季節のあいだへ緩衝帯を挟む考え方につながっていく。夏から秋へ、秋から冬へ、切り替わりは一日で片付くものではなかった。その揺れる十八日を土の持ち分として名指ししたところが、この配当のうまさだった。
土旺用事という四字は、中国の暦法の書に出てくる言い方をそのまま借りている。土の気が旺んになって用事をする、と読み下せば意味はそのまま通る。日本の暦では下の二字を落として土用と略し、期間の名前として定着させた。
海を渡ってきた土の神
土用が期間の名前なら、土公神はそこを仕切る神の名前になる。読みは、どくじん、どくうじん、どこうじん。つちぎみと読ませる暦もあった。
中国では大地を司る神として后土が祀られ、その下に土地ごとの小さな土地神が無数に置かれるという構えになっていた。土公はその土地神の系列にあたり、家の敷地や井戸や竈といった生活の単位へ結び付けられている。日本へ来てからも、国土全体ではなく足元の一区画を見張る神という性格は変わらないまま引き継がれた。
もとは中国の土地神。土公と書いて、その土地の地霊を指す言い方だった。道教の側で祀られていたものが、律令期の日本へ陰陽道の道具立てごと流れ込む。平安のころの辞書『和名類聚抄』にすでに名前が載る。
律令の役所には陰陽寮という部署が置かれ、暦の作成と天文の観測と占いをまとめて受け持っていた。土公神のような方位神の扱いも、この役所が握る知識のうちに入る。宮中の造営で地を動かすとなれば、陰陽師が日取りと作法を定めた。
方違えというのは、行き先の方角が塞がっているときに、前の晩を別の方角の家で過ごしてから出直す手だった。貴族の日記を読むと、この方違えのために何日も予定を組み替えている記事がいくらでも出てくる。土を動かす禁忌も同じ発想の上に乗っていて、日と方角を選び直すことで難を避けるという型を共有している。
陰陽寮の仕事は暦の頒布だけでなく、漏刻による時刻の管理や天変の観測、それに宮中の吉凶の判断まで幅広く及んでいた。平安の中ごろからは賀茂家が暦を、安倍家が天文をそれぞれ世襲で握る形になり、知識が家の財産として囲い込まれていく。土公神の遊行や方違えの指示も、その囲い込まれた知識の一部として貴族の日常を細かく縛った。
日本へ来てから、この神はひとつ変わった癖を持たされた。同じ場所にじっとしていない。季節ごとに居場所を移す、遊行の神として扱われるようになる。
春は竈にいる。夏になると門へ移る。秋の居場所は井戸の底。
冬は庭へ下りてくる。この四つの割り付けが、近世の暦の常識になっていった。土公神が腰を下ろしているその場所を、土用のあいだに掘ったり直したりすると障りがある、という言い方で伝わる。
仏教の側へ寄せた解釈もある。真言宗の周辺では、大地を支える堅牢地神と同じ神格として扱われ、本地仏には普賢菩薩を当てた。神道の顔と仏の顔を両方持たされた形になる。
平安のころから、地鎮のために土公祭という祭りを行った記録が出てくる。陰陽師が祭文を読み、土地の神へ断りを入れてから工事へかかる形だった。今の神職が行う地鎮祭は、この陰陽道系の祭りと神社の作法が長い時間をかけて混ざり合った結果にあたる。
竈の神でもあり、井戸の神でもあった
土公神は台所の神としても祀られた。竈に祀って朝晩に灯明を上げる、という作法が各地に残る。不浄を嫌い、刃物の刃先を竈へ向けてはいけない、という細かい禁忌まで付いた。
暦注にはもっと細かい決まりも刷られていて、正月から十二月まで月ごとに忌む方角が指定されていた。丑から子まで十二の方角を月へ順に当て、その方角の土を取れば障る、という書き方をする。月の禁忌と季節の禁忌が二重に掛かるので、まともに守ろうとすれば掘れる日はかなり減った。
竈の神としての顔のほうは、火を扱う場所の清浄を保つという生活の規律と結び付いて広く根を下ろした。朝に火を落とす前と夜に火を落とした後の二度、灯明を上げて手を合わせる家が近世にはいくらもあったらしい。竈が土間から消えて台所がガス台へ変わった後も、その位置へ神棚や札を置く習慣だけ残した家がある。
井戸との縁は考古学の側からも出てくる。千葉の市原で見つかった平安前期の井戸跡に、面白い埋め方の痕跡があった。一辺八十センチほどの四角い素掘りの井戸で、深さは二メートル半に足りない。
捨てるときの手つきが丁寧だった。井戸の上へ直径二メートル超の擂鉢状の穴を掘り、そこへ口を合わせた土師器の坏を伏せて置く。坏の中は空のまま。上から水を通さない土で塞いで、栓にしていた。
坏の中の空洞へ神を封じ込めたのだろうという読み方が、発掘の側から出ている。秋の土公神は井戸にいる。その居場所ごと畳むのだから、手順を踏まないと後が怖い。そういう気分が、土器の伏せ方から透けて見える。
同じ井戸からは灰釉陶器や緑釉陶器といった当時の上等な焼き物も出ていて、普通の村の井戸ではなかったらしい。鉄滓が混じっていたので、鍛冶の作業に使うための短期の井戸だった可能性が高い。手の込んだ埋め方が残ったのも、特別な施設に付いた井戸だったからかもしれない。
暦の下段に刷り込まれた十八日
中世に入ると、暦の注記を体系立てて説明する本が出回りはじめた。その代表格が『ホキ内伝』。正式な題は長く、末尾に金烏玉兎集と付く。
この本は安倍晴明が書いたことになっていて、実際の成立は鎌倉から南北朝あたり。晴明の名を借りた仮託書だ。中身は暦注と暦占の解説で、金神や土公神といった方位神の扱いがまとまっている。
同じ本の中では、金神という別の方位神の禁忌にもかなりの紙数が割かれている。金神の方角へ向かって土を動かせば七人殺す、という物騒な文句が近世の暦には刷られた。土公神の禁忌は、こうした方位神の群れの中のひとつとして受け取られていた。
この本は中世の陰陽道の知識を寄せ集めた性格が強く、後世の研究では偽書として扱われてきた経緯がある。それでも近世の暦注や占いの本はこの書を土台に組み立てられていて、影響の大きさだけで言えば本物の古典をしのぐ。晴明の名を借りたことで権威が付き、版を重ねて町の本屋の棚へ並ぶところまで届いた。
江戸に入ると、これが刷り物の暦へ降りてくる。伊勢の御師が配った伊勢暦、京や江戸の仮名暦。暦の冒頭の下段に、その年の土公神がどの方角にいるかが刷り込まれた。
伊勢暦の書き方は素っ気ない。春はかま、夏はかと、秋は井、冬はには。この十いくつかの仮名だけで、四季の遊行先を読者に伝えていた。
方角のほうは日の干支で回す。甲子から己巳までの六日は北、戊申から癸丑までは西、といった具合に六十干支を四方へ割り振る。暦を買った人間は、自分の掘りたい日の干支を引いて、その方角を避けた。
伊勢の御師は全国の檀家を回って御札と暦を配り、その暦に土公神の遊行先が刷られていた。読み書きのできる家なら、暦の一行を見て今年の禁忌を確かめられる。江戸の後半には暦が年に数十万部の単位で刷られ、方位神の知識が村の隅まで行き渡った。
暦を刷って売る権利は限られた版元が握っていて、伊勢暦のほかにも京暦や江戸暦や三島暦といった地方ごとの版が出回っていた。同じ年の暦でも版元が違えば注記の細かさが揃わず、土公神の書き方に差が出ることもある。絵で吉凶を示した大小暦のような遊びの暦まで作られ、暦そのものが町人の娯楽の側へはみ出していった。
神楽の中で王子たちが四季を取り合う
中国地方には、土公神の由来を語る祭文が伝わった。荒神神楽の演目として舞われ、五行祭とか王子舞とかの名で呼ばれる。
筋書きがふるっている。盤古大王が四季と四方を四人の王子へ分け与えた。ところが五番目の五郎王子には配る分が残っていない。
取り分をよこせと五郎王子が兄たちへ食ってかかり、争いの末に土用を得る。四季の末から十八日ずつ削って、中央の神へ譲り渡す形で決着した、という語り口だ。五行の理屈を、そのまま喧嘩の話へ焼き直している。
弓を弾きながらこの祭文を語る土地もあった。祭文は中世に出来たと見られ、神楽の演目として近世を通して伝わる。理屈として覚えるより、こういう物語で覚えたほうが、村の人間には入りやすかった。
祭文は語る土地ごとに細部が変わり、王子の数や争いの決着のさせ方にも違いがあった。神楽の演目として舞う形と、語り物として弓に合わせて述べる形の両方が記録に出てくる。文字で読むより耳で覚えるほうが、当時の伝わり方としては主流だった。
荒神神楽そのものは、藁で作った大きな蛇の形の綱を屋内へ吊るし、夜通しで舞い続ける規模の大きい神事だった。数十年に一度の大祭として行われる土地もあって、村の一大行事として人と銭を集める役目も背負っている。土公神の祭文は、その長い夜のどこかへ差し込まれる演目のひとつとして扱われていた。
十八日を丸ごと止めたら、村が回らない
十八日というのは、農作業や普請にとってかなり長い。年四回で七十二日。これを全部禁足にしたら、まともに家も建たないし田も打てない。
そこで置かれたのが間日という抜け道だった。土公神が天上の世界へ呼ばれていて、地上の持ち場を空けている日。その日に限って土を動かしてよい、という理屈をこしらえた。
割り当ては季節ごとに違う。春の土用なら巳と午と酉の日に当たる。夏の土用は卯と辰と申の日。秋の土用へ移ると未と酉と亥になる。冬の土用は寅と卯と巳の日。
十八日のあいだに、それぞれの支は一回か二回回ってくる。だから間日は三日から六日ぶん取れる。禁忌を掲げながら、同時に逃げ道も暦へ刷っておく。この二重構えが、土用の禁忌を長持ちさせた。
土公神が天へ上がるという言い方は、竈の神が年の暮れに天へ昇って報告をするという中国の伝えと形が似ている。地上の持ち場を空けているあいだは手が出せない、という筋立てで抜け道を正当化した。禁忌と免除を同じ神の動きで説明してしまうあたり、暦注の組み立てはよく出来ていた。
間日の割り当てが季節ごとにばらばらに見えるのは、その季節の十二支と五行の相性から導かれた形だからだ。春の巳と午は火の支にあたり、土を生む側の気として土公神の留守と結び付けられている。この説明の仕方は近世の暦注書によって食い違いがあり、同じ間日でも理屈のつけ方は一本に揃っていない。
明治五年の改暦で暦注は消えた、はずだった
明治五年の十一月、突然の詔が出る。その年の十二月三日を明治六年一月一日とする、という太陽暦への切り替えだ。師走の途中で年が変わった。
このとき政府は、官暦から迷信的な暦注を落とす方針を取った。方位神も吉凶の注記も、公の暦からは外される。土公神の遊行方位も同じ扱いになる。
ところが民間が黙っていない。おばけ暦、引札暦と呼ばれる非公認の暦が刷られて、消されたはずの暦注が入ったまま売られた。商店が配る暦にも吉凶が載り続ける。
改暦の後、暦の発行は伊勢神宮の神宮司庁が一手に握る形へ整理された。吉凶を刷った暦は取り締まりの対象になり、表向きには方位神が消える。それでも需要のほうは消えず、非公認の暦が地下水のように流れ続けた。
改暦そのものが、旧暦の閏月のせいで翌年の官吏の俸給が十三か月ぶん必要になる、という台所事情で急がれたという見方がある。準備の期間を置かずに十二月を二日で打ち切ったので、暦の版元も商家も大混乱に陥った。方位神を落とすという方針も、その慌ただしさの中で上から降りてきたものだった。
戦後になっても運勢暦の類は書店へ並んだ。土用の欄には間日が律儀に印刷されている。国の暦から追い出されても、この手の知識は商売の側へ移って生き延びた。
明治の末から昭和にかけては、運勢暦と呼ばれる本が民間の出版社から毎年出るようになる。中身は近世の暦注をほぼそのまま引き継いでいて、土用と間日の欄も残った。年末の書店に同じ体裁の本が平積みされる光景は、今でも変わらない。
建築の現場はもっと素直だ。地鎮祭の日取りを決めるとき、大安を取り、三隣亡を避け、ついでに土用も外す。信じているかと聞けば、多くの棟梁は笑う。それでも施主が気にするから、という理由で今も避ける。
今年の土用の入りと明けを自分で出す
自分で計算するなら、四つの節気から逆算するのが早い。使うのは立春、立夏、立秋、立冬。この四つの日付さえ分かれば、その年の土用は全部出る。
手順はこう。まずその年の立秋の日を暦で引く。八月七日か八日のどちらかに来る。次にその前日を土用の明けとして押さえる。立秋の前日で夏の土用は終わる、という決まりだ。
それから明けの日を一日目として、十八日ぶん日数をさかのぼる。明けが八月六日なら、六日、五日、四日と数えていって十八日目が七月二十日。その日が土用の入りになる。春夏秋冬のどれでも数え方は同じで、参照する節気だけ入れ替える。
仮に立秋が八月七日へ来る年なら、前日の八月六日が夏の土用の明けにあたる。そこから十八日ぶん戻せば七月二十日になり、その日が土用の入りだ。両端を数に入れる勘定なので、指を折るときは明けの日から一と数えはじめる。
立秋の日付そのものが年によって前後するので、去年の日付をそのまま今年へ当てはめるやり方は取らないほうがいい。四年に一度の閏年をまたぐと一日ずれるし、それ以外の年でも時刻の関係で前日へ動くことがある。面倒でも、その年の暦か天文台の発表を一度は見に行くのが確実な段取りだった。
厳密な定義のほうは太陽の位置で決まる。太陽の黄経が二十七度に達した瞬間が春土用の入り、百十七度が夏、二百七度が秋、二百九十七度が冬。それぞれ次の節気の十八度手前にあたる。
ここで端数が出る。太陽が黄道を十八度進むのにかかる日数は、季節によって揺れるからだ。地球の公転が真円ではないので、冬のほうが速く、夏のほうが遅い。
結果として土用の長さは十八日ちょうどにならない。十七日台のこともあれば十九日近くなることもある。暦の上では入りの日と明けの日を両端に入れて数えるので、十八日か十九日と書かれる年が多い。
地球が太陽へ近づく冬のほうが公転の速度が速く、黄道の十八度を通り抜けるのに日数がかからない。夏は動きが遅いので、同じ十八度でも一日ぶんほど余計に時間を食う。冬の土用が十七日台、夏の土用が十九日近くになるのは、この差から来ている。
自分で確かめたいときは、国立天文台が毎年二月に出す暦要項を見る。翌年の二十四節気の日時が秒まで載っている。立秋の日時を拾って、そこから逆算すれば手元で土用の入りが出せる。
冬の土用の明けの日は、節分と同じ日に来る。立春の前日が節分だから、冬土用の最終日とぴたりと重なる勘定になった。豆を撒く日が土用の締めくくりでもある、と考えると四つの土用の位置が頭へ入りやすい。
四つの土用の入りは、おおよそ一月の十七日ごろ、四月の十七日ごろ、七月の二十日ごろ、十月の二十日ごろに来る。年によって一日か二日前後するので、この日付はあくまで見当を付けるための目安として持っておく。正確な日を知りたければ、節気から逆算するか、その年の暦を開くかの二択になる。
紙の運勢暦を買ってしまうのがいちばん早い、というのも正直なところ。土用の入りと明け、それに間日まで印刷されている。自分で数えるのは、印刷が合っているかを確かめる楽しみのほうが近い。
間日を干支から拾う手順
間日を出すには、日の干支が要る。日の十二支は十二日で一周し、十干と組むと六十日で一周する。年や月の干支と混ざりやすいので、拾うのは日のほうだと押さえておく。
日の干支は十干と十二支を組み合わせて六十日で一周し、年や月とは別に途切れなく回り続けてきた。暦を作る側はこの並びを何百年ぶんも連続させて管理している。だから手元のカレンダーに干支が載っていれば、そこから先は足し算だけで追える。
干支の載っていないカレンダーしかない場合でも、基準になる日を一日決めてしまえば後は割り算で出せる。ある年の一月一日の日の干支を暦で調べ、そこから何日目かを数えて六十で割った余りを見る、という手順になる。紙に六十干支を順に書き出しておけば、余りの数字から直接その日の支を読み取れた。
やり方は単純だ。まず土用の入りの日の十二支を、暦かカレンダーで引く。次にその日を起点に、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の順で翌日から順番に当てていく。
たとえば夏の土用の入りが戌の日だったとする。入りが戌なら、翌日が亥、その次が子、丑、寅と進む。夏の間日は卯と辰と申だから、起点から数えて五日目が卯、六日目が辰、十日目が申。ここが最初の三日になる。
十二日で一巡するから、卯はその十二日後にもう一度回ってくる。十八日間なら、支によっては二回入る。夏の土用で言えば、卯と辰と申のうち前半に来た支が、後半でもう一度顔を出す形だ。
春の土用は巳と午と酉。この三つは連続していない。巳と午は並びだが、酉までは三日空く。
秋の土用は未と酉と亥。これも一日おきに近い並びで、五日のあいだに三日入る計算になる。冬の土用は寅と卯と巳。寅と卯が並び、巳が二日あとに来る。
覚え方としては、十二支の並びを紙へ横一列に書き、その季節の三支へ印を付けるのが確実だ。そこへ土用の日付を頭から流し込む。紙の上で二回りぶん書けば、間日が何日か目で見える。
うっかりやりがちなのが、月の十二支と日の十二支を取り違えることだ。土用の間日で使うのは日の十二支のほうで、月のものは関係がない。運勢暦なら日ごとの干支が一覧で並んでいるから、そこを見るのがいちばん確実だった。
間日の数え方には土地によって異なる伝えもあり、夏の土用へ丑の日を加える書き方を採る暦も見かける。どの説を取るかで動ける日が一日か二日変わるので、家ごとに使う暦を決めてしまうのが揉めない。複数の暦を突き合わせて厳しいほうへ合わせる、という慎重な家もあった。
間日の扱いには温度差がある。間日なら何をしてもよい、という土地もあれば、間日でも最初の一鍬だけは避ける、という家もあった。暦の注記は全国共通でも、運用は村ごとに違っていた。
どこまでが禁忌だったのか、線を引く
土用に避けるとされた行いは、煎じ詰めれば動土。土を動かす行為だ。地面へ手を入れるかどうかが判断の軸になる。正直、ここだけ押さえれば足りる。
具体的には、建物の基礎工事。柱立てと壁塗りも古い暦では同じ括りへ入る。井戸を掘ること、井戸を埋めること。
庭を造ること、木を植え替えること。墓を建てること、墓地を掘ること。それに引っ越しと移転。
家相や方位を扱う本では、増改築も動土のうちに数えた。地面を掘らない改装でも、家の形を変えるなら控えろという厳しい書き方をする流派もある。
いっぽう、ゆるい線の引き方も同じくらい古い。鍬を入れるような本格的な土仕事だけが対象で、鉢植えの植え替えや草むしりは数に入れない、という考え方だ。庭いじり程度なら気にしない家のほうが、実のところ多かった。
農作業をどう扱うかは土地によってまるで違う。田植えや稲刈りは季節仕事だから止めようがない。夏の土用に田の水を落とす中干しは、むしろ土用干しと呼んで積極的にやった。
つまるところ、禁忌の範囲は固定されていない。暦注として刷られた文面は同じでも、どこまで守るかは家ごとの判断へ預けられた。厳密な線を探すより、その揺れごと受け取るのが実情に合う。
井戸を掘るのも埋めるのも、土用のあいだは避ける決まりだった。秋の土公神が井戸にいる割り付けなので、秋の土用はとくに厳しく扱われる。井戸を潰すときに土器を伏せた古代の痕跡も、この延長線の上で読める。
逆にゆるい側の線引きとして、地表を削らない作業なら土用中でも構わない、という考え方が広く行われてきた。表面の掃き掃除や落ち葉集め、鉢の中の土を入れ替える程度の作業は、動土の勘定へ入れない家が多い。どこで線を引くかは結局のところ施主の気持ちの問題で、職人はその線に合わせて段取りを組んだ。
土用の禁忌をどう受け取るかは、突き詰めれば暦との付き合い方をどう決めるかという話へ落ちていく。全部守る必要はないし、全部無視しても誰にも咎められない、という中間の広さがこの禁忌の面白いところだった。迷ったら日を延ばす。延ばせないなら形を通す。それだけの話。
引っ越しを土用に避けるという言い方も古くからあって、土を動かすというより住まいの場そのものを動かす話として括られている。家移りの日取りは方位の吉凶とも絡んでくるので、暦を見る家ならそちらの条件のほうを先に確かめた。今はまず見ない。
日取りは業者の空きで決まる。それでも気にする家はある。頼まれたら間日を勧めた。
墓の建立と墓地の掘り返しを土用に避ける決まりは、石屋の側にも残った。納骨だけなら土を大きく動かさないから構わない、という線の引き方をする土地が多い。同じ墓でも、竿石を据える日と骨を納める日で扱いを変えていた。
造園の側でも、庭石を据える工事や植栽を入れる工事は土用を外す、という慣行がかつては普通に生きていた。植木屋の親方が暦を見て日を決め、施主へ電話を入れて日延べを頼む、という場面も珍しくない。近ごろは工期のほうが優先されて、間日へ着手日を寄せるだけの処理で済ませる現場が増えた。
土用へ入る前に着工しておけば続けてよい
建築の側でいちばんよく使われてきた逃げ方が、これだ。土用に入る前に着工を済ませておけば、期間中も工事を続けてよい、という慣行。
理屈はこう。土公神が地上へ降りる前から、そこには人の手が入っている。神の側から見れば、途中からいきなり掘られたわけではない。だから障りにはならない、という理解で通してきた。
実務としては、土用の入りの前日までに地鎮祭を済ませ、鍬を一度入れておく。基礎の掘削へ着手した記録があれば、あとは工期どおりに進める。棟上げも内装も、動土でないという扱いになる。
この慣行、暦注の本には根拠らしい根拠が書かれていない。現場で回すために後から付けられた便法の匂いがする。それでも工務店の間では、間日の利用と並んで定番の処理になった。
もうひとつ、着工日だけを間日へ合わせるやり方もある。土用の最中でも間日なら土を動かしてよいのだから、そこへ地鎮祭と鍬入れを持ってくる。翌日からは通常どおり進める。施主の不安をなだめるのに、この二つはよく効いた。
建築の日取りでは、土用よりも三隣亡のほうを強く嫌う現場もある。三隣亡に棟を上げると向こう三軒へ災いが及ぶ、という近世からの言い伝えだ。土用と三隣亡と仏滅を全部外そうとすると、月のうちで動ける日が驚くほど少なくなる。
住宅の工期は地盤の改良から基礎の養生まで日単位で組まれていて、一週間の日延べが引き渡しの月をまたいでしまう場合がある。だから現場の側は、暦を守ることと工程を守ることのあいだで毎回細かい折り合いを付けている。施主が気にしない家なら暦を見ずに着工し、気にする家なら間日か土用前の着工で辻褄を合わせた。
今の工務店だと、暦の確認はカレンダーのアプリか運勢暦の本のどちらかで済ませる現場が多い。六曜と三隣亡と土用の三つが並んで表示されるので、営業担当がそれを見ながら施主へ候補日を出す、という流れになっている。専門知識は要らない。
表を見るだけ。判断は施主へ返す。棟梁が暦を諳んじる時代は終わった。
やむを得ず掘るときの略式の地鎮
どうしても土用に土を入れなければならない。そういうときのために、略式の地鎮が伝わっている。神職を呼ばずに施主と職人だけで行う簡素な形だ。
本式にやるなら神職へ依頼して、忌竹を四隅へ立て、注連縄を張り、祭壇を据える。刈初めと穿初めと鍬入れを設計者と施工者と施主で分担する形が、今の地鎮祭の標準になった。略式は、その段取りを一人でも回せるところまで削り落とした形にあたる。
地を鎮める祭り自体の記録は古く、持統天皇の代に藤原宮の地を鎮めた記事が『日本書紀』へ載っている。神道の側の地鎮と陰陽道の土公祭、それに密教の地鎮法が、長いあいだ並行して行われてきた経緯がある。今の地鎮祭が神職の手で行われる形へ落ち着いたのは、明治以降の神社制度の整理を経た後のことだった。
用意するものから並べる。清酒を一合ほど。粗塩を一合。
洗米を一合。洗米は生米を軽く水で洗い、笊へ上げて水気を切っただけのもので、炊いてはいけない。それに素焼きの小皿を四枚か、白い紙を四枚。
砂を用意できるなら、川砂か白砂をバケツ一杯ぶん。地面から出た土でも代用は利く。それと新しい鍬か鋤を一丁。柄に紅白の紙を巻く土地もある。
服装は普段着で構わないけれど、白い物を一点は身に着ける。手ぬぐいでも作業着でも構わない。着手の前に手と口をすすぐ。これは神社へ上がるときの手水と同じ心持ちで行う。
手水の形を踏むなら、柄杓か水を入れた器を用意して、左手、右手の順に水をかけ、左の掌へ受けた水で口をすすぐ。すすいだ水は飲み込まずに足元へ落とし、最後にもう一度左手を流して終わりにする。柄杓は要らない。
ペットボトルでも足りる。水が無ければ手を拭く。形さえ通れば構わない。まあ、そこは緩い。
日取りは間日を選ぶのが本筋だ。間日が取れないなら、大安か友引を当てる。時刻は午前中。日の出から正午までのあいだで、できれば辰の刻から巳の刻、今でいう朝七時から十一時ごろに収める。
向きは東か南。敷地の北側へ立ち、南へ向かって行うのが基本形になる。北を背にして南を向く形が、神事の座り方としてはいちばん据わりがいい。
参加するのは、掘る本人と施主。人数は少ないほうがよい。見物人を並べる必要はまったくない。
服装で決まりがあるとすれば、作業へそのまま入れる格好であることと、帽子を取って行うことくらいのものだ。白い手ぬぐいを首へ掛けておくと、そのまま作業着として使えて具合がいい、と職人から教わったことがある。派手な色は避ける。
喪服も要らない。写真は撮らなくていい。記録は日付だけで足りる。
四隅へ塩と米と酒を置く順番
敷地の四隅を清めるところから入る。四隅というのは、掘る範囲の外周の角のこと。家一軒ぶんでも、畳一枚ぶんの穴でも、考え方は同じだ。
起点は北東の角。鬼門にあたるこの角から始めて、時計回りに南東、南西、北西と回る。この順番は動かさない。
北東の角から始めるのは、鬼門を先に押さえるという考え方から来ている。家相の本では北東と南西を結ぶ線を鬼門筋と呼び、そこへ手を入れる順番にこだわった。時計回りへ回すのは、日の巡りと同じ向きへ合わせるためだ。
各隅で、小皿か紙を地面へ置く。そこへ洗米をひとつまみ。次に粗塩をひとつまみ。それから清酒を少し。米、塩、酒の順で重ねるのが一般的な並びになる。
分量は多くなくていい。米も塩も指で軽くつまんだ量。念のため、盛りすぎない。酒は徳利の口から二、三滴たらす程度で足りる。四隅ぶんを回っても、それぞれ一合には遠く届かない。
家に神棚があるなら、四隅へ出る前に一度そちらへ手を合わせて、今日これから土を動かす旨を述べておく形がある。神棚の水と米を新しくしてから出る、という順を踏む家もあった。どちらも必須ではない。
省いて構わない。気持ちの段取りの問題だ。やる家はやる。
米と塩と酒の三つが選ばれているのは、神前へ供える物の基本形がこの三種だからで、もともと土用に限った取り合わせではない。神社の神饌でも、米と酒と塩と水を並べるところから献饌が始まる形になっている。水を加えて四種で供える家もあり、その場合は米、塩、水、酒の順で置いていく。
置きながら、心の中で断りを入れる。声に出すなら小さくていい。ここの土をこれこれの都合で今日動かします、と起きている事柄をそのまま述べる。
四隅を回り終えたら、敷地の中央へ戻る。ここで余った塩を左、右、中央の順に撒く。祓いのときの撒き方と同じ手順で、左右中とまわす。
撒く力は強くしない。手首を軽く返して、指の間からこぼす程度。地面の上で塩が白く散れば足りる。
盛り砂を作って、鍬を三度入れる
中央へ盛り砂を作る。用意した砂を、円錐に近い形へ手で盛り上げる。高さは三十センチほどが目安で、底の直径も同じくらい。
きれいな円錐にこだわらなくてよい。手で押さえて崩れない程度に締めておけば足りる。頂点を平らにせず、尖らせたほうが形としては正しい。
盛り砂は、神が降りてくる目印として立てる依代の一種にあたる。砂を円錐へ盛る形は、神の降りる山を小さく写したものだという読み方がある。頂を尖らせるのはそのためで、平らに均すと山の形が崩れてしまう。
盛れたら、頂に一本だけ青い葉を挿す。榊が手に入ればいちばん良く、なければ手近な常緑樹の枝で代える。竹を四隅へ立てて注連縄を張る土地もあるけれど、略式なら省いて構わない。
鍬を持つ。盛り砂の前へ立ち、南向きの姿勢を取る。両手で柄を握り、刃先を盛り砂へ向けて構える。
ここからが鍬入れ。鍬を振り上げて盛り砂へ入れる動作を、三度繰り返す。一度ごとに、えい、と声を出す。えい、えい、えい、と三回。
声は腹から出す。高くする必要はなく、短く切るのが型だ。三度目で砂を少し手前へ崩す。
鍬を入れる動作そのものは、土へ最初の傷を付ける役を人が引き受ける、という意味合いで組み立てられている。誰が最初の一鍬を入れたかがはっきりしていれば、後の工事はその続きとして扱えるという理屈だ。土用前の着工で工事を続けてよいという慣行も、この最初の一鍬を境目にする発想と地続きになっている。
三という回数には理由がある。神事の作法では、一度では足りず、二度では割り切れてしまう、という数え方をした。三度で一区切りという型が、刈初めにも穿初めにも共通して使われる。
えい、という掛け声は、栄えるの栄に通じる音として説明される場合がある。刈初めでは鎌、穿初めでは鋤、鍬入れでは鍬と、道具を替えて三度ずつ繰り返す。声を掛ける役は施主が務めるのが本来の形だった。
鍬入れを終えたら鍬を静かに置く。ここまでが掘る前の段取りになる。あとは本来の工事へ入ってよい。
鍬入れを終えた後で、その場の様子を簡単に控えておくと後々のためになる、という考え方が現場にはある。着工日と時刻と立ち会った人の名前を紙へ書き、工事の書類へ挟んでおく程度で足りるらしい。土用前の着工を主張するとき、この控えが日付の証拠として働く。
紙一枚でいい。手書きで構わない。判子も要らない。
鎮め物を埋める形を取るなら、盛り砂の真下に当たる地点へ、白紙で包んだ物を沈める。神社が頒布する鎮め物を手に入れられればそれを使う。手作りするなら、洗米と塩と小さな鉄片を白紙で包み、水引で結ぶ。
神社で頒布される鎮め物の箱には、小さな刀や矛や鏡をかたどった金物が数種類ずつ納められているのが一般的だ。七種の金物を入れる形が知られていて、金気で土地を押さえるという五行の発想がそこへ残っている。手作りの場合は数にこだわらず、白い紙で丁寧に包んで水引を掛けるところまでやれば形としては足りる。
唱える言葉を全文で
唱え言葉は短い順に四つ覚えておけば、たいていの場面で足りる。祓詞、略拝詞、土地の神への奉告、それに真言宗系の宝号。
まず祓詞。神事の頭で穢れを祓うために唱える、いちばん基本の詞だ。
原文はこう。掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等。諸々の禍事罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を、聞こし食せと恐み恐みも白す。
読みを平仮名で置く。かけまくもかしこき、いざなぎのおおかみ。つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに、みそぎはらえたまいしときになりませる、はらえどのおおかみたち。もろもろのまがごとつみけがれあらむをば、はらえたまいきよめたまえとまおすことを。きこしめせと、かしこみかしこみもまおす。
現代語に直すとこうなる。口にするのも畏れ多い伊邪那岐大神が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎ祓いをなさった。そのときにお生まれになった、祓戸の大神たちよ。もろもろの災いと罪と穢れがあるならば、祓い清めてくださいと申し上げる。この言葉をお聞き届けくださいと、畏まって申し上げる。
次が略拝詞。祓詞が長くて覚えられないときの短縮形で、これだけでも用は足りる。
原文は、祓へ給ひ清め給へ、守り給ひ幸へ給へ。読みは、はらえたまいきよめたまえ、まもりたまいさきわえたまえ。意味は、祓い清めてください、守って幸いを与えてください、という二行だけ。
四隅を回りながら唱えるなら、この略拝詞が使いやすい。一隅につき一回。四隅で四回、中央でもう一回の計五回にする形が多い。
三つ目が土地の神への奉告。祝詞はもともと場ごとに作るもので、決まった一本があるわけではない。だから以下は定型ではなく、略式でよく使われる言い回しの一例として置く。
原文の形はこう。掛けまくも畏き此の所の大神等、産土の大神等の大前に、恐み恐みも白さく。今此の所の土を動かし奉る由を、平けく安らけく聞こし食して、護り幸へ給へと、恐み恐みも白す。
読みはこうなる。かけまくもかしこき、このところのおおかみたち。うぶすなのおおかみたちのおおまえに、かしこみかしこみもまおさく。いまこのところのつちをうごかしまつるよしを、たいらけくやすらけくきこしめして。まもりさきわえたまえと、かしこみかしこみもまおす。
現代語ではこう。口にするのも畏れ多いこの土地の神々と産土の神々の御前に、畏まって申し上げる。今この場所の土を動かす、そのいきさつを穏やかにお聞き届けください。そのうえで守り幸いを与えてくださいと、畏まって申し上げる。
地鎮祭の正式な祝詞では、大地主大神と埴山姫大神の名を挙げる社が多い。大地主大神は土地そのものの主、埴山姫大神は土と粘土を司る女神にあたる。略式でも名を呼びたいなら、この所の大神等の前へこの二柱を足す。
四つ目が真言宗系の唱え方。土公神は堅牢地神と同じ神格として扱われてきたので、こちらへ向ける形になる。
宝号は、南無堅牢地神。なむけんろうじじん、と読む。堅牢地神に帰依します、という意味の六文字だ。
堅牢地神の真言は、オン・ハラチビエイ・ソワカ。仮名のまま三度か七度繰り返す。オンは呼びかけの一声、ソワカは成就を願う結びの言葉にあたる。
光明真言を添える土地もある。梵語の音を漢字で写した原文も伝わるけれど、字が特殊で組みにくいので仮名で置く。日本の寺で実際に唱えられてきたのも、この仮名のほうだった。
オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン。区切りごとに息を継ぎ、最後のウンまで一息で通そうとしない。
意味を取ればこうなる。おお、あまねく行き渡る大日如来よ。大いなる印と、宝珠と、蓮華と、光明とをもって、はたらきを転じ起こしたまえ。締めのウンは願いを結ぶ一声だ。
唱える回数は三度、七度、二十一度のどれか。声は張らずに、自分の耳へ届く程度で足りる。唱える順は、祓詞か略拝詞を先に置き、奉告を挟み、真言を最後へ回す。
唱える前に二拝し、詞を述べ終えたら二拝二拍手一拝で締める。神社の拝礼と同じ形をそのまま持ち込んで構わない。柏手の音は高く鳴らすより、掌を少しずらして短く鳴らすほうが型に合う。
神道の詞と真言を混ぜてよいのか、という疑問は当然出る。近世の民間では両方を並べて唱える家が珍しくなかった。神仏習合の名残で、土公神が堅牢地神と重ねられたのも同じ土壌から来ている。
祓詞の下敷きになっているのは、『古事記』と『日本書紀』が伝える伊邪那岐命の禊ぎの場面で、黄泉の国から戻った神が体を洗う話にあたる。そのときに生まれた瀬織津比売や速開都比売といった神々をまとめて祓戸の大神と呼び、穢れを流す役目を負わせている。だから祓詞は、土用に限らずあらゆる神事の頭へ置いて構わない万能の詞として使われてきた。
土用灸と土用干しと土用餅と土用蜆
禁忌の話ばかり続けたので、暮らしの側の慣行へ移る。土用にはやってはいけない事だけでなく、やる事も割り当てられていた。
土用干しがいちばん広い。梅干しの土用干しは、夏の土用へ入ってから三日三晩、漬けた梅を笊へ広げて干す。昼は日に当て、夜はそのまま夜露へ当てる。日取りは夏土用の晴天が続く三日を選び、途中で梅を裏返す。
梅の土用干しでは、朝のうちに笊へ広げ、日中に一度裏返し、夕方はそのまま置いて夜露へ当てる。これを三日続けると皮が柔らかくなり、色も深く出た。雨に当たると台無しになるので、天気の続く三日を選ぶ目が要る。
衣類と書物の虫干しも同じ時期に当てた。蔵や押し入れの物を出して、風の通る日陰へ広げる。寺では虫払いと呼んで、経典を一斉に干す行事にしている所がある。
田の土用干しは別物で、水を落とす作業を指す。夏土用のころに田の水を抜いて土をひび割れさせ、根へ空気を入れる。中干しという呼び方のほうが今は通りがいい。
土用餅は、あんころ餅を丑の日に食べる慣行。宮中で土用へ入ると餅を食べた習わしが元になった、という説が近世の随筆に見える。餡で包むのは小豆の赤へ厄除けを託したためだ。
土用のころの言葉はほかにもいくつかあって、夏土用の時季に打ち寄せる高いうねりを土用波と呼ぶ。風がぴたりと止まって海が鏡のようになる土用凪、この時期の雷を指す土用雷という言い方も漁師のあいだに残った。暑さの盛りを一つの季節として切り出し、その中へ生活の目印を並べていった結果の語彙だ。
土用の入りの日に妙な物が出るという話を伝える土地もあって、土用坊主という名で呼ばれる場合がある。姿かたちの説明はほとんど残っておらず、土を掘ると出てくるから掘るなという脅し文句として働いていた形跡が強い。名前だけが残った。
中身は空っぽ。子どもを土いじりから遠ざける役には立つ。禁忌の伝え方としては手堅い。
土用蜆は、夏土用に蜆を食べる慣行。土用蜆は腹薬、という言い回しが各地に残った。寒の時季の寒蜆と対にして、年二回の旬として扱う。
土用卵は、丑の日に産まれた卵を滋養のある物として扱う言い方。土用の入りに小豆を食べる家もある。どれも、夏を越す体力を気にした言葉の並びだ。
土用灸は、夏の土用に灸をすえる慣行を指す。近世の養生書に夏の灸の記事が出て、江戸のころには夏土用の風物として定着した。足の三里や臍の上の壺へ、もぐさを据える形が伝わる。
これはあくまで昔からの季節の慣行として書いておく。体の具合を治す手段として勧めるつもりはない。夏の土用に灸を焼くのが習わしだった、という話にとどめる。
丑の日に鰻が接ぎ木された経緯
土用と鰻は、もともと別の話だった。暦の側に鰻の出番はない。丑の日という言い方も、ただ十二支を日へ当てただけの符丁だ。
そもそも丑の日という数え方は、日へ十二支を割り当てた並びの中から丑に当たる日を拾っただけの符丁でしかない。十二日に一度回ってくるので、十八日ある土用のあいだには丑の日が一度か二度は必ず入る勘定になる。二度入る年の後のほうを二の丑と呼び、鰻屋にとっては書き入れ時が二回来る年になった。
暑気払いという言葉も夏土用の周りに集まっていて、甘酒を飲んだり、もぐさを焚いたり、川へ足を浸けたりと土地ごとに中身が違っていた。奉公人へ休みを与える土用休みの習慣を持つ商家もあり、盆休みの前哨のような位置を占めている。働き詰めの時季だった。
休ませる口実が要る。暦がその口実を用意した。よく出来た仕組みだ。
鰻を夏に食う発想自体は古い。『万葉集』に大伴家持の歌があり、夏痩せによいから鰻を取って食べろ、と友人へ勧めている。奈良のころから、夏と鰻の取り合わせはあった。
それが土用の丑と結び付くのは江戸期。いちばん有名なのが平賀源内の話で、夏に売れない鰻屋へ知恵を授けたという筋になっている。本日丑の日、と書いた貼り紙を店先へ出させたら客が押し寄せた、という落ちが付く。
ただ、この話の出所ははっきりしない。源内の同時代の資料に見当たらず、後世の随筆へ現れる。蜀山人が書いたという説、春木屋善兵衛という鰻屋が始めたという説も並んでいて、どれも決め手を欠く。
背景にあったのは、丑の日に、うの付く物を食べるという習わしのほうだ。梅干し、瓜、うどん、牛。夏負けへの備えとして、うの字が縁起担ぎに使われていた。
鰻はその枠へ滑り込むのに都合がよかった。うで始まり、脂が乗り、夏の滋養という評判も付いている。商売の仕掛けと古い言葉遊びが噛み合って、暦の禁忌とは無関係に一人歩きした。
江戸の鰻屋は夏場に客足が落ちるのを毎年の悩みにしていた。冬場の脂の乗った鰻のほうが旨いという評判が立っていたからだ。丑の日の貼り紙は、その谷を埋めるための仕掛けとして語られる。
結果として、土用といえば鰻という連想だけが残る。土を動かすなという本体のほうは、建築と造園の一部でだけ生き延びた。同じ言葉から出た二本の枝が、片方だけ太くなった形だ。
地域で線の引き方がずいぶん違う
土公神の呼び方からして一定しない。関西ではロックウサンと訛って呼ぶ土地があった。土公様と書いてドコウサマと読ませる村もある。
祀る場所も分かれる。竈神と重ねて台所へ祀る家が多い一方、屋敷の隅へ小祠を置く土地もあった。群馬、岐阜、岡山、広島と、記録の残る県は全国に散らばる。
禁忌の細かさも違う。春に竈をいじると障る、という言い方をそのまま守る家がある。土を取るときは先に祓いを受けろ、という決まりを置く土地もあった。
土用のあいだは杭を打たない、という一点だけを守る村もある。冒頭の祖母が止めたのも、この形に近い。四季の遊行先をきちんと言える人はほとんどいなくて、杭は駄目だという一行だけが残った。
屋敷の隅へ小さな祠を置き、そこを土公様の場所と決めている家もあった。正月に灯明を上げ、土を動かす前には一度手を合わせる。竈が家から消えた後も、祠のほうは形を変えて守られた。
土公神の札を台所へ貼る習慣を持つ地域もあって、古い札は年の替わりに神社へ納めて新しい物へ替えていく。祠を潰したり移したりするときは、土用を外し、神職へ依頼して魂を抜く手順を踏む家が多かった。ここは慎重に扱う。
急いで壊さない。日を選び直す。それで角が立たずに済む。
同じ土用の禁忌でも、海沿いの村と山あいの村では気にする中身がずれている。田を持つ家は中干しの日取りを優先し、山の家は木を伐る日や炭を焼く日のほうを暦で選んだ。土を動かすなという一行を、それぞれの生業の言葉へ翻訳して受け取っていた、という言い方が近い。
供えた物の下げ方と、道具の始末
作法の終わりは後始末で決まる。ここを雑にすると、前の手順が全部ゆるむ。
供えた洗米は、その場の土へ撒く。集めて持ち帰らない。皿や紙の上に残った分を、指でつまんで四隅と中央へ散らす。鳥がついばんで行けばそれでいい。
粗塩も同じく土へ返す。撒いた塩をわざわざ掃き集めたりしない。皿に残った塩は、敷地の外周へ沿って細く落としていく。
清酒は四隅へ注ぐ。徳利に残っていれば、中央の盛り砂へ最後の一口ぶんを回しかける。瓶に多く残ったなら、無理に空けずに台所の流しへ流して構わない。人が飲んでも差し支えない、という土地もある。
小皿と白紙は持ち帰る。素焼きの皿は洗って次の機会へ取っておくか、割って一般のごみへ出す。白紙は畳んで燃やすのが古い作法で、庭で焚けない家なら紙ごみへ出しても咎められない。
盛り砂は崩して均す。工事へ入るなら、掘った土と一緒に扱って構わない。神が宿った物として取り置く考え方は、略式の盛り砂には付いていない。
頂に挿した榊だけは別扱いにする。抜いて、敷地の隅の土へ挿し直すか、紙へ包んで燃やす。ごみ箱へそのまま放り込むのは避ける、という感覚が職人には残った。
鍬は使ったあとに水で洗う。刃に付いた土を落とし、水気を拭いて、最後に粗塩をひとつまみ刃へ振る。振った塩は布で拭き取ってしまってよい。
紅白の紙を柄へ巻いていたなら、外して白紙と一緒に始末する。鍬そのものは普通の道具へ戻る。次の現場で使って差し支えない。
手を洗い、口をすすいで終わりにする。四隅の皿を片付けた時点で、祭りの場はもう解けている。長く立ち止まらずに、その日の作業へ移るのが型だ。
雨の日へ当たってしまったら、供物を置く時間を短くして手順だけ通す。塩も米も雨で流れるから、撒いた後に拾い直す必要はない。盛り砂が崩れても作り直さず、そのまま次の作業へ移ってよい。
冬の土用で地面が凍っている場合は、盛り砂を作らずに白紙を一枚敷いて代わりとする手もある。紙の上へ米と塩を置き、酒を少し垂らして、そこへ鍬の先を三度当てる形へ簡略化する。凍った土へ無理に鍬を入れて刃を欠くより、形だけ通して本掘りは日を改めるほうが現場では通りがいい。
後始末はその日のうちに済ませる決まりで、翌日へ持ち越さない。供物を一晩置けば傷むし、場を開けたままにするのを嫌う感覚もあった。皿を下げて土を均したところで、その場は元の工事現場へ戻る。
供物を下げた後で改めて手を合わせる必要はなく、片付けの動作そのものを作法の締めくくりとして扱う。神を送る詞を置く流儀もあるけれど、略式では省いて差し支えないという扱いになっている。四隅を回った順と逆に片付けていく、という決め方をする職人もいた。
