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川崎競馬場は本当にパワースポットか――多摩川の蛇行地形と「勝負運」風水を検証する

元ネタはウェブ版の「ムー」に載った記事。題は「川崎競馬場は本当にパワースポットだった!12月の全日本2歳優駿を楽しむムー的ポイントを魔術師・叶ここが解説」という。

競馬場が「パワースポット」と呼ばれた理由と、その読み方

川崎競馬場は川崎市川崎区にあって、京急大師線の港町駅からすぐ、川崎駅からも歩ける。大井、船橋、浦和と並ぶ南関東の公営競馬の四場のひとつだ。魔術師で占い師の叶ここ氏がここを回り、「単なるスポーツ施設ではなく日本有数のパワースポット」と書いて話題になった。マスコットの「カツマルくん」も、未確認生物を扱うサイトと組んでミステリースポットを名乗ったこともある。遊び心は十分。

叶氏の言い分は五つあった。多摩川の大きなカーブの外側で、水の力がお金を巡らせるという話が一つめ。客席が真北、レースが真南を向き、南は「勝負」と「名声」の方位だというのが二つめだった。残りは、芝生や子ども広場が地の気を整える、コースと客席が近く土の力が強い、パドックに南北をつなぐ「気の通り道」がある、の三つ。本人は通った体験から、ここだと「予想の力が最高に高まる」と書いていた。

ただ、カーブの外側という理屈は多摩川沿いの十数か所の施設にそのまま当てはまる。競馬場だけ特別と言い切るのは無理がある。海外のカジノが風水を取り入れる話も有名で、先の読めない場に身を置くと人は縁起にすがりたくなるものらしい。話半分で十分。

京浜競馬倶楽部から今の競馬場まで

1906年(明治39年)には、この土地で京浜競馬倶楽部の競馬がもう開かれていた。1908年に馬券の発売が禁じられて途切れ、跡地に建った富士瓦斯紡績の工場も戦争中の空襲で焼けてしまう。1949年に競馬場として生まれ変わり、1950年からレースが始まった。

日本の競馬場でいちばん敷地が狭いのも特徴。向正面の奥には2009年にできた大型映像装置があり、面積は1152㎡で世界最大と認められた。向正面の奥に大型ビジョンを据えた造りは全国でここだけだという。厩舎も多摩川沿いに建ち、川と馬の縁は案外深い。

厄除弘法大師と、勝負前に厄を払う考え方

勝負運を本気で頼むなら、昔から人が通ってきた社寺のほうが早い。競馬場から東へ数キロで川崎大師。正式な名は金剛山金乗院平間寺、真言宗智山派の大本山だ。

寺の縁起では、尾張から流れてきた平間兼乗が四十二歳の厄年に夢のお告げを受け、海から弘法大師の像を引き揚げた。大治3年(1128年)に高野山の尊賢上人と寺を建て、姓をとって平間寺と名づけた。長承3年(1134年)には兼乗の無実の罪が晴れたと寺は伝える。江戸では十一代将軍の徳川家斉が厄除けに参り、評判が広まった。

あたりの地名は大師河原。毎月二十一日が弘法大師の縁日で、仲見世の飴屋が包丁でトントン飴を切る音は厄を断ち切る音だという話もある。負けを呼びそうなものを先に払っておく、という理屈で、試験や試合の前に護摩を受ける人も多い。

川崎大師で護摩を申し込み、お札を受けて帰るまで

申し込みは大本堂に向かって右手のお護摩受付所。用紙に名前と願いごとを書いて、護摩料と一緒に出す。寺の案内では、祈祷の時刻の十分から十五分前までに済ませておく決まり。受付で「お護摩札お渡しの証」を受け取り、それを持って大本堂へ上がる。

護摩料は五千円、七千円、一万円、二万円、三万円、三万円以上と段があった。同じ額で、家に祀る木札か、持ち歩ける懐中紙札かを選べた。大護摩は二万円、特別大護摩は三万円以上と寺の案内にある。額でご利益が変わるという話じゃなく、お札の大きさと護摩の格が変わると思っておけばいい。

令和8年の案内では、2月1日から12月31日までが平常時の扱い。平日の座は6時、9時、10時半、11時半、13時、14時半、15時半の七回だった。日曜と毎月二十一日は6時から16時まで八回になる。正月は別の時刻が組まれるし、時刻は年ごとに見直される。出かける前に寺の案内を一度見ておきたい。

願いごとの欄は「厄除け」か「心願成就」が多い。厄年でなくても受けられて、寺は前厄、本厄、後厄の三年を厄年と説明している。勝負の前なら、自分の中で何を払いたいかで決めればいい。迷ったら心願成就。

堂内では僧侶が護摩木を焚き、真言を唱え、太鼓が響く。煩悩を智慧の火で焼くという真言宗の修法だ。参る側は座って手を合わせ、弘法大師の宝号を一緒に唱える。原文は「南無大師遍照金剛」、読みは「なむだいしへんじょうこんごう」。お大師さまにおすがりします、というくらいの意味になる。

終わったら「お渡しの証」と引き換えにお札を受け取る。遠くて行けない人は、申込書と祈願料と郵送料を現金書留で送るか、寺のオンライン申込を使う。お札が届くまで一、二週間ほどかかるそうだ。

木札は家のきれいな場所に祀る。神棚が無ければ、目の高さより上の棚に白い紙を敷いて立てれば十分。寺は毎日「南無大師遍照金剛」を唱えることを勧めていて、朝にお札の前で手を合わせて唱える人が多い。懐中紙札は財布や手帳に挟んで、勝負の日も身につけておく。

稲毛神社や六郷神社に必勝祈願を頼む段取り

神社で勝負の祈願を受けるなら、川崎駅から歩ける稲毛神社が近い。主祭神は武甕槌神で、鹿島神宮と同じ武の神さま。社伝ではこの神を祀って天皇の軍の戦勝を祈ったのが始まり。平安の末に河崎基家が山王権現を迎え、長く「河崎山王社」と呼ばれた。今の名は明治元年に旧地名の稲毛庄から採ったもの。

8月の川崎山王まつりの古式宮座式は神奈川県の民俗文化財だ。街なかの社。

稲毛神社の祈願の一覧には、必勝祈願も合格祈願もちゃんと入っていた。日中の受付は午前9時から午後5時で、予約は要らない。初穂料は梅式が五千円以上、竹式が一万円以上、松式が二万円以上と社の案内にある。

昼に来られない人向けに、午後5時半から8時半までの宵祈祷がある。こっちは予約制で、希望日の三日前までに申し込む。初穂料は一万円からだった。仕事終わりに受けられるのはありがたい。

多摩川の向こう岸、大田区東六郷の六郷神社も必勝祈願を受けていた。受付は午前9時から午後3時。当日の受付は早めに締まることがあるから、社は予約を勧めていた。個人の祈祷は五千円以上。祈願の木札や鎮物が要るときは別になるそうだ。

社の由緒では、天喜5年(1057年)に源頼義と義家の親子が大杉のてっぺんに白旗を掲げて兵を集めた。石清水八幡に武運を祈り、前九年の役に勝ったという。凱旋した親子が石清水八幡宮の分霊を迎え、文治5年(1189年)には源頼朝も白旗を立てて奥州への勝利を祈った。頼朝が納めた雌獅子頭と浄水石、梶原景時の寄進と伝わる太鼓橋が残る。

慶長5年(1600年)には徳川家康が六郷大橋の完成を祈って願文を納め、渡り初めもこの社の神輿で済ませた。昔は三基の神輿を御座船に載せる曳舟祭もあったという。川の両岸に、戦の勝ちを祈った社がそろっている。風水より筋が通っている。

初穂料を包み、当日の祈願を受ける

初穂料はのし袋に入れて出す。神戸の湊川神社の案内では、紅白の蝶結びの水引を選ぶのが無難だという。一万円くらいまでは封筒型で足りる。数万円なら折り型を使う。

表書きは水引の上に「初穂料」か「玉串料」、下に名前。筆が理想だけど、丁寧に書けばペンでも構わないそうだ。裏には金額を古い字で書く。五千円なら「伍仟圓」、一万円なら「壱萬圓」になる。

受付では祈願の用紙に名前や住所、願意を書く社が多い。必勝祈願なら何の勝負かを具体的に書く人が多い。試合の名前でも、試験の名前でもいい。のし袋はそのとき一緒に出す。

呼ばれたら拝殿に上がり、神職のお祓いを受けて、祝詞のあいだは頭を下げて待つ。玉串拝礼を促されたら、玉串を受け取って根元を神前に向けて供え、二礼二拍手一礼。流れは社ごとに少しずつ違うから、神職の案内どおりに動けばいい。終わるとお札と授与品を渡される。

服は派手すぎなければ普段着でもいいらしい。とはいえ上着を一枚羽織っていくと落ち着く。帽子は拝殿に上がる前に取る。ここは基本。

勝守を受けて、身につけて過ごす

稲毛神社の授与品には「勝守」がある。初穂料は三百円。和紙の風合いの「和勝守」が八百円で、ほかにイチョウやトンボの柄の健勝堅固守が八百円、大銀杏染めのものが千円だった。どれも社務所で受ける。

川崎大師の一覧には、「勝守」という名のお守りは見当たらなかった。正直ちょっと意外。開運御守、厄除御守、身代守がそれぞれ三百円で、境内のお札・お守りお授け所で受けられる。寺の案内は「お守りは常に身につけてお持ちください」とはっきり書いていた。

勝負のお守りは鞄の奥にしまい込むより、財布や定期入れ、胸ポケットのように、いつも身から離さない物の近くに入れる。紐があれば鞄の持ち手の内側に結ぶ人もいる。試合に出る人は、ユニフォームのポケットに入れるかどうか、競技の決まりを先に確かめておく。

中を開けて見るのはやめておく。これは昔からよく言われてきた。袋の中身は御神体や御本尊の分身と考える社寺が多い。濡れたり汚れたりしたら、そのまま受けた社寺へ返して新しいのを受ければいい。

神社と寺のお守りを一緒に持って構わないのか、と気にする人もいる。社寺によって言い方が違うから、心配なら授与所で聞いてしまうのが早い。一つを胸に、もう一つを鞄に、と分けて持つ人も多い。

勝尾寺の勝ちダルマに目を入れて奉納する

大阪の箕面の勝尾寺は、元慶4年(880年)に清和天皇の病気平癒を祈って「勝王寺」の名を賜った。王に勝つのは畏れ多いと、「勝尾寺」に改めたそうだ。今は勝ちダルマで知られ、小さなダルマが境内のあちこちに並んでいる。

寺の案内では、勝ちダルマの作法は九つの段に分かれている。最初に、自分が「ご縁」と感じたダルマを選ぶ。次の段で、底に「人生の目的」を書く。背中には、その目的のために三百六十五日後に達成したい目標を書く。

書けたら線香を手に取り、願いに関わる人や物への感謝の気持ちを念じ込める。寺の図解もそう書いていた。その煙をダルマにくぐらせて、感謝を染み込ませるのが薫香の段だ。煙がダルマを包む。

目入れは、努力を誓う署名をダルマの右目、向かって左側に書き、最後に黒く塗りつぶす。寺はその後、「いのちの砂時計」というカレンダーでその日を振り返ることを勧めている。

結果が出たら、本堂で報告と感謝を伝え、ダルマ棚に勝ちダルマを奉納して終わる。勝っても負けても、報告してから納めるのが寺の流れだった。

摩利支天と馬の神さまに参るときの唱え言葉

戦国の武士が勝負運を託したのは摩利支天だ。もとは陽炎を神にした尊で、捕まらず、焼けず、濡れず、傷つかないと信じられた。山本勘助や毛利元就が信じた話はよく出てくる。

東京なら上野アメ横の徳大寺。日蓮宗の寺で、聖徳太子の手彫りと伝わる像を宝永5年(1708年)に迎えた。猪に乗る姿にちなんで、毎月の亥の日が縁日になった。

真言は「オン・マリシエイ・ソワカ」、読みは「おん・まりしえい・そわか」。マリシエイは摩利支天の名で、ソワカは「かないますように」という結び。短いから勝負の直前に胸の内で唱えやすい。徳大寺は祈祷札とお守りの送付にも応じていて、細かいことは寺務所の窓口で尋ねてほしいと案内していた。

馬に縁を結ぶなら、府中の大國魂神社。くらやみ祭では5月3日の夜に競馬式があり、旧甲州街道で四頭の馬が二百メートルを三往復する。国司の時代に武蔵の牧から良い馬を集め、朝廷へ納める馬を選んだのが起こり。騎手は烏帽子に直垂の姿で、名対面の儀をしてから走る。府中は東京競馬場のある町でもある。

京都伏見の藤森神社は、神功皇后が軍旗を立て兵具を納めた塚が起こりと伝わる。菖蒲が「尚武」に、尚武が「勝負」に通じるとして勝運の神と仰がれてきた。5月5日の藤森祭では、馬上で一文字書きや手綱潜り、逆立ちを見せる駈馬神事が奉納される。昭和58年に京都市の無形民俗文化財になった。

京都競馬場には秋に「藤森ステークス」があって、競馬関係者の参拝も多いらしい。午年の2026年には、馬にちなんだ御朱印を四種類授けていた。絵馬も馬の絵ばかり。

街道筋の馬頭観音の石塔は、馬が急に死んだ道ばたに建てた供養塔が多い。真言は「オン・アミリトドハンバ・ウン・ハッタ・ソワカ」、読みは「おん・あみりとどはんば・うん・はった・そわか」。甘露から生まれた尊に呼びかけて、障りを打ち砕いてほしいと願う言葉で、石塔の前では手を合わせて唱える。

土俵祭と力水、賭場の言い換えに見る験担ぎ

本場所の初日前日には土俵祭があり、立行司が祭主になって塩をまき、祝詞をあげ、軍配を振って方屋開口を述べた。冒頭は「天地開け始めてより陰陽分かれ、澄み明らかなるもの陽にして上にあり、これを勝ちと名づく」。次が「重く濁れるもの陰にして下にあり、これを負けと名づく」。さらに「勝負の道理は天地自然の理にして、これをなすは人なり」と続いた。言い回しは時代や行司で少しずつ違うようだ。

最後に土俵の真ん中の穴へ、勝ち栗、榧の実、昆布、するめ、洗米、塩を鎮め物として納め、十五日間の無事を祈る。力水をつけるのは勝った力士か次の取組を控えた力士だけで、負けた力士はつけない。負けの気を渡さないため、と説明される。水には水盃の意味もあるという。勝ちが続くうちは髭を剃らない力士もいるらしい。

江戸の博打打ちも縁起にうるさかった。賭場の場所代を寺銭と呼ぶのは、寺社の境内で賭場が開かれ儲けの一部を納めたからという説がある。寺社は寺社奉行の持ち場で、町奉行がすぐ踏み込めなかった。するめを「あたりめ」、すり鉢を「あたり鉢」と言い換えたのも、「する」を嫌ったからだ。「験」はもとは修行を積んだ効き目のことで、「縁起」を逆さにした「ぎえん」から来たという説も有名。

自分だけの験担ぎを決めて、ほどくまで

験担ぎは増やしすぎると、かえって縛られる。一つか二つに絞るのがいい。多いと続かない。朝は栗を一粒、出がけに切り火、勝負の前に摩利支天の真言、というくらいで十分だ。

期間も先に決める。試験なら合格発表の日まで、大会ならその大会の最終日まで。相撲の力士が一場所ごとに験を区切るのと同じ考え方になる。

やめるときは黙って放り出さない。お札の前で手を合わせ、「ここまでありがとうございました」と礼を言ってから終える。験担ぎの品は、神社のものは神社へ、寺のものは寺へ返す。

負けた時点で、その験担ぎはきっぱり終えていい。髭を伸ばした力士が負けた日に剃るのと同じだ。続けるかどうか迷うくらいなら、別のやり方に替えて出直したほうが気が楽になる。

勝負の前の朝にやること

前の晩は爪を切らない。これが一つめ。試験の前に爪を切らないという験担ぎは、今もよく聞く。着ていく服と持ち物は夜のうちにそろえ、朝に慌てないようにしておく。

朝は起きたら顔を洗い、口をすすぐ。神社の手水と同じで、外に出る前の小さなみそぎになる。台所に栗や昆布があれば、ひとつずつ口に入れていけばいい。

武将が出陣の前に、打ち鮑、勝ち栗、昆布の三品を口にした「出陣の三献」という作法が伝わる。「打って、勝って、喜ぶ」の語呂だ。相撲の鎮め物にも勝ち栗と昆布が入っているのは、同じ発想だと思う。

出がけには、火打ち石で肩口に火花を打つ切り火がある。江戸の職人や鳶が、家の者に打ってもらってから仕事へ出たという。火打ち石と火打ち金は今も神具店で手に入る。

玄関は右足から出る。右足から始めるという験担ぎも昔からある。定番中の定番。

懐紙に塩をひとつまみ包んで持っていく人も多い。ここは気分の問題。お守りは鞄の奥にしまい込むより、胸ポケットや財布のように、いつも身につけているものの近くに入れておく人が多い。

途中で神社に寄るなら、鳥居の前で一礼して真ん中を避けて進む。手水は柄杓で左手、右手の順に水をかけ、左の手のひらに受けた水で口をすすぐ。もう一度左手を流し、柄杓を立てて柄に水を伝わせて戻す。これで手水は終わり。

拝殿では賽銭を入れて鈴を鳴らし、二回お辞儀をして二回手を打ち、最後にもう一回お辞儀をする。手を合わせたまま、略拝詞を唱えるといい。原文は「祓へ給へ 清め給へ 神ながら守り給へ 幸へ給へ」。

読みは「はらえたまえ、きよめたまえ、かむながらまもりたまえ、さきわえたまえ」。けがれを祓い清めて、神さまの御心のままに守り、幸いを授けてください、という意味だ。願いは「勝たせてください」より「持てる力を出し切れますように」と申す人が多い。

お寺なら、合掌して本尊の真言か宝号を唱える。川崎大師なら「南無大師遍照金剛」、摩利支天なら「オン・マリシエイ・ソワカ」。

勝負事の社寺でやらないほうがいいこと

相手の負けを祈るのはやめておく。これは鉄則。験担ぎは自分の側を整えるためのもので、人の不運を頼む筋のものじゃない。勝負の神さまは、戦う者の身を守る神さまでもあった。

願いごとに金額を乗せるのも品がない。「いくら当ててください」と頼むより、「無事に終えられますように」と申すほうがずっと気持ちがいい。遊びの範囲を決めて、そこを超えない約束を神前ですると決める人もいる。欲張らないこと。

塩は自分の体と玄関にだけ使う。「塩をまく」には嫌な相手を追い払う意味もあるから、人の家の前や相手の持ち物にまくのは喧嘩を売るのと同じになる。清めの塩は、あくまで自分の身を払うための道具だ。

鳥居や参道の真ん中は神さまの通り道と言われる。端を歩くのが無難。境内の石や砂、枝を記念に持ち帰るのも控えたい。

負けたからといって、お守りやダルマをごみ箱へ放り込むのもよくない。まあ、気分も悪いしね。感謝して受けた社寺へ返す。これだけで次の勝負の気分はずいぶん違う。

負けた日の帰り道の験直し

負けた日は、取り返しに行かないのがいちばんの験直し。相撲の力水と同じで、負けの流れを次へ渡さないことが先になる。その日の勝負は、その日で閉じてしまう。

帰り道に社があれば寄って、勝ち負けはひとまず脇に置き、今日一日を無事に終えられたことに一礼していく。勝ち負けの報告はしなくていい。一礼だけ。玄関に入る前、懐紙の塩を体に軽く振る。

葬式から帰ったときの清め塩と同じ手つきだ。使った塩は家に持ち込まず、玄関先の土に落とすか、水で流してしまう。その日身につけていた服はすぐ洗濯機に入れる。これで一日が閉じる。悔しさは無理に消そうとするより、塩と一緒に玄関の外へ置いてくるくらいの気持ちでいたほうが楽になる。

昔の厄落としには、節分の夜に身につけていた物や小銭を四つ辻にそっと落として、後ろを振り返らずに帰ってくる風習があった。持ち物に厄を移して、置いてくる考え方だ。今それを道に捨てるわけにはいかないから、小銭は神社の賽銭箱に納めて代わりにする人もいる。

六月末の夏越の大祓と、十二月末の年越の大祓の時期には、多くの神社で紙の人形が配られる。名前と年を書き、人形で体を撫でて息を吹きかけ、社へ納める。息をかける回数は社によって一回だったり三回だったりした。

大祓詞には、川が罪やけがれを運んでいく一節がある。「高山の末短山の末より、佐久那太理に落ち多岐つ速川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神、大海原に持ち出でなむ」。高い山や低い山の頂から勢いよく落ちる速い川の瀬にいる瀬織津比売が、それを大海原へ持ち出してくれる、という意味だ。

読みは「たかやまのすえ、ひきやまのすえより、さくなだりにおちたぎつ、はやかわのせにます、せおりつひめというかみ」。結びは「おおうなばらにもちいでなむ」と読む。多摩川の水も奥多摩の山から出て、府中や川崎の町を抜け、最後は羽田の沖で海へ注いでいる。河口に立つと、この一節がやけに腑に落ちる。

人形は昔と違って今は川へ流さず、受けた社へ納めれば、社のほうでまとめてお祓いをしてくれる。任せればいい。

勝守とお札を一年で返しに行く

お札やお守りは、願いがかなった日か一年たった日に、受けた社寺へ返す。川崎大師は、一年お世話になったお札とお守りを境内の納札殿へ納めるよう案内していて、郵送でも受け付けている。納めたお札は寺でお焚き上げされる。

神社のものは、北海道神社庁の案内だと年末から正月十五日ごろにかけて氏神さまへ納めるのが基本。社ごとに決めた日にどんど焼きがあって、そこで焚き上げてもらう。どこの神社のお札でも納められるが、遠方でなければできるだけ受けた神社へ、というのが神社庁の言い方だった。

寺のお札やお守りは寺へ返すのが筋。勝尾寺の勝ちダルマは、報告を済ませてダルマ棚へ奉納する流れになっている。引っ越しや神棚を下ろすときは、正月でなくても社務所に申し出て、玉串料を添えて納めるよう神社庁は勧めていた。

返す日は、受けた場所で手を合わせて礼を言ってから納め所に置く。ごみ袋に入れて出すのは避ける。古いお札を返したその足で、新しいお札を受けて帰る人も多い。これで一年の区切り。

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