- 二月まで注連縄を下げっぱなしにした話
- 清涼殿の東庭に竹を束ねて立てた
- 三毬杖が村へ降りて名前が散らばった
- 焼く日が小正月に寄っている理由
- 道祖神の前で焼く村、社の境内で焼く村
- その日は子どもが神主になる
- 書き初めが高く舞えば手が上がる
- 餅と団子を焼いて食う範囲
- 消防と煙が行事を削っていった
- 飾るのを終いにする日は関東と関西でずれている
- 外す時刻と、外していく順番
- 火に入れていい物、入れてはいけない物
- 持って行く時刻と受け渡し、それに初穂料
- 櫓の組み方と点火までの段取り
- 火の前で唱える言葉、まずは祓詞から
- 略拝詞と、火の神へ向ける詞
- 火伏せに唱えられてきた文句
- 餅と団子の焼き方
- 繭玉団子を作る
- 灰の持ち帰りと撒き方
- どんど焼きが無い土地での後始末
- 火のそばでの身の置き方
二月まで注連縄を下げっぱなしにした話
知り合いから電話が来たのは二月の頭だった。玄関の注連縄をまだ外していない、どうしたらいいか、という相談で、どんど焼きはとっくに終わった後。近所の社へ問い合わせたら、古札納所は年中開いているから持ってきていいと返ってきたらしい。電話の向こうでは、近所の人にも聞けないまま二月まで来てしまったという、やや情けない声が続いていた。
その日のうちに納めに行った。初穂料をどうするかで少し迷ったそうだ。納所の脇に木箱が置いてあったので、そこへ小銭を入れ、拝殿のほうへ手を合わせて帰ってきたと後から聞いた。納めてしまえば呆気ないもので、迷っていた時間のほうがよほど長かった、と本人が後から笑っていた。
外しそびれる人は毎年いる。正月飾りの始末なんて、子どものころ家でやっていた形が全部で、よその土地のやり方を知らないまま大人になってしまう。だから急に迷う。引っ越しを重ねた人ほど、土地ごとに違う段取りの断片だけが頭に溜まっていて、どれが自分の形なのか分からなくなってしまう。
焼いて送り返す。この形がこの国で一番長く続いた。焼く場所も呼び名も日取りも土地ごとにばらけていて、正解が一つに決まっている行事ではなかった。火の起こりのほうから順に並べていく。同じ一月でも、六日に焚く土地と十五日に焚く土地と、二月の頭まで待つ土地が一つの国の中に並んでいた。
清涼殿の東庭に竹を束ねて立てた
元は宮中の行事だった。小正月になると清涼殿の東庭へ、山科家などから届けられた葉竹を束にして立てる。その上へ扇子と短冊、それに天皇の吉書を結びつけて焼いた。立てた竹の根元には、年の変わり目に出た紙と木と竹が一度に集められ、まとめて灰になるまで見届けられた。
吉書は年の初めに出す文書のこと。政務始めの形式として書かれ、役目を終えたものが火に入る。仕切り役を務めたのは陰陽師だった。正月に政務を始めるという形式そのものが儀礼で、書いた紙を残すことよりも、焼いてしまうところに区切りが置かれていた。
毬杖を三本結んだ形から三毬杖と呼んだ。毬杖というのは木の槌のような遊具で、正月に毬を打って遊ぶための道具。子どもの遊び道具と、天皇の書き物と、青竹が同じ火の中で一緒に燃えていた。遊具と文書という、まるで釣り合わない二つを同じ束に結んで燃やすあたりに、この行事の性格がよく出ている。
三毬杖がなまって左義長になる。漢字のほうは当て字で、左義長という三文字を分解して意味を探しても行き止まりになるだけ。音が先にあった。左義長という表記が広まった後も、土地の人は音のほうだけを覚えていて、字を書けと言われて詰まる例が珍しくなかった。
扇子と短冊を結びつけるあたり、後の書き初め焼きと形がそのまま重なっている。年の初めに書いた物を、その年の火へ返してしまう。この手つきだけは、宮中から村へ降りても変わらなかった。紙は燃えれば熱で上へ舞う。その動きを吉凶の判じ物として見る癖が、宮中の段階ですでに入り込んでいたらしい。
三毬杖が村へ降りて名前が散らばった
民間へ降りた後、呼び名が一気に増えた。全国で三十通りを超える。とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き、おんべ焼き。並べるとほとんど早口言葉になってしまう。呼び名の数がここまで増えたのは、行事が村ごとに完結していて、隣の村と揃える必要がまったく無かったからだ。
東北はどんと焼き。仙台の大崎八幡宮では松焚祭と書く。関東と甲信越には道祖神祭やさいの神という呼び方が残り、長野の松本平のあたりでは三九郎と呼んできた。同じ東北でも、焼納祭という名で案内を出す社があれば、蘇民祭の系統と重なる呼び方をしている土地もあった。
京都と滋賀、それに北陸の一帯は左義長の三文字をそのまま使う。近畿から中国地方にかけてはとんど焼きで、静岡はさいと焼き。九州へ行くと鬼火焚き、鬼火、おねび、ほんげんぎょうと、別系統の名前が並んでいた。沖縄にもドンド焼きという呼び方が伝わっていて、北の端から南の端まで、名前の系統が細かく枝分かれしていた。
どんどの語源には説がいくつかある。どんどん燃えるからという単純な説、焼き始めに青竹がはぜてどんと鳴るからという説、尊や尊やという囃子詞がなまったという説。決め手は出ていない。音から来た名前は文字に落とすと形が崩れるので、どんど、どんと、とんど、どんどんの四つが一つの土地の中で混ざる例もある。
とんどのほうは歳徳と書く土地があった。歳徳神を祭る習わしが強かった地域で、神の名のほうが行事名へ移っていったらしい。名前をたどると、その土地が何を中心に据えてきたかが透けて見える。歳徳神はその年の恵方を司る神で、正月の棚をこの神へ向けて設える習わしが西日本には濃く残っていた。
九州の鬼火という呼び方だけ毛色が違う。送るというより追い払う側に立っている。同じ火なのに、土地によって役目の名乗りが変わってしまう。鬼という語を使うからには追い払う相手を立てているわけで、年神を送る筋立てとは別の理屈がそこに入り込んでいる。
秋田の横手で作るかまくらも、系統としては左義長に近い。内町では雪の壁を四角く積み、その中へ門松や注連縄を入れ、供え物を置いてから火をつけていた。左義長のかまくらという呼び方が残る。雪を積んで囲いを作るという一手間が入るぶん、火の行事としてはずいぶん珍しい形に見える。
外町のほうは井戸の脇で水神を祭る水神祭りだった。明治から大正にかけてポンプ式の井戸が広まると、子どもが遊びで作っていた雪洞のほうへ祭壇が移っていく。火の行事と水の行事が同じ雪室の中で混ざった。井戸の水が家の命綱だった時代、水神へ手を合わせる場所を子どもの雪室へ移したという流れが、記録の上で追えるようになっている。
六郷のカマクラでは鳥追い小屋と呼ぶ雪室を作った。中に鎌倉大明神を祭り、子どもたちが互いの小屋を訪ね合って鳥追いの歌をうたう。横手のかまくらは今は二月十五日と十六日で、元は旧暦の一月十七日、昭和二十七年に新暦の二月へ移った。鳥追いは田畑を荒らす鳥を追い払う小正月の行事で、歌をうたって回る形が東日本の各地に散らばっていた。
焼く日が小正月に寄っている理由
日取りは一月十四日の夜か、十五日の朝が基本になる。小正月と呼ぶ日だ。大正月に対する小正月という呼び分けは、暦が太陽暦へ移った後も、行事の名前の側だけがそのまま残った。
旧暦では十五日が年明け最初の満月にあたった。月の満ち欠けで暮らしていた時代、満月は区切りとして分かりやすい。元日を中心に据える大正月に対して、月を基準にした古い年始のほうが小正月として残った。田の神を迎える行事や、その年の作柄を占う粥占いも小正月に集まっていて、火を焚くのはその束の一本だった。
満月の晩に大きな火を焚く。空に丸い月、地面に高い火。その二つで一年分の災いを落とし、豊作と商売繁盛と家内安全と無病息災を願う、という筋立てになっていた。火の粉が高く上がるほどその年は良い、という見方をする土地もあって、燃え方そのものが占いの材料になっていた。
九州は七日正月に寄る。一月六日の夜か七日の朝に焚く土地が多い。松の内が七日で切れる地域では、切れたその足で火に入れる形が自然につながっていった。七日に松の内が切れる地域では、外した飾りを手元へ長く置かずに済むという実務の利点も大きかった。
戦後になると日取りが揺れる。成人の日が一月十五日から一月の第二月曜へ移り、それに合わせて行事日をずらした土地がいくつも出てきた。今は土日に寄せる例が増え、節分の前後まで動かした地域もある。祝日の位置が動いただけで各地の行事日が連鎖して動いたあたり、行事が人の休みの上に載っていることがよく分かる。
十五日に固執しない土地が増えた、というだけの話でもある。人が集まれる日でなければ火は焚けない。日取りは行事の都合ではなく、村の都合のほうで動いてきた。消防の立ち会いが要る地区では、署の都合と自治会の都合が合う日を探すところから段取りが始まった。
道祖神の前で焼く村、社の境内で焼く村
長野、山梨、群馬、埼玉、神奈川のあたりでは道祖神祭と呼ぶ。村境や辻に立つ道祖神の前で火を焚く形だ。石に二体の神が彫られた道祖神像は、村の入り口や三叉路に据えられていて、今も道端に残る土地が多い。
道祖神は境目を守る神。外から入ってくる悪い物を村の入り口で止める役目を負っていた。そこで火を焚けば、年神を送る行事と境を固める行事が一度に片付いてしまう。二重の理屈が同じ場所で重なった。疫病も災いも外から道を通って入ってくるという見方が下敷きにあって、境で火を焚けばそこで止まるという段取りになる。
神奈川県の松田町のように、行事名そのものを道祖神と呼ぶ土地もある。どんど焼きという名のほうが括弧の中に入る扱いになっていた。地元の人にとっては道祖神が主語だった。祭りの名前が何を主語にしているかを見れば、その土地が誰へ向けて火を焚いてきたのかが分かる。
一方で道祖神と結びつかない土地も広い。神社の境内や河原、刈り取った後の田んぼで焚く形で、この場合は年神を送るという一本の筋だけで通っている。河原で焚く土地では、灰と燃え残りが水へ流れていくところまで含めて一連の始末と考えてきた。
火を焚く場所は、その村が何を境と考えてきたかで決まったらしい。辻を境と見る村は辻で焚く。川を境と見る村は河原で焚く。社の鳥居を境と見る村は境内で焚いた。境を引き直す日として一月の半ばが選ばれたのは、農作業が始まる前の、村が一番暇な時期だったからでもある。
野沢温泉の道祖神火祭りのように、社殿をわざわざ組み上げて厄年の男衆が守り、火をつけに来る側と攻防を繰り広げる形まで残った。国の重要無形民俗文化財。道祖神の唄をうたいながら夜通し燃やす。火をつけに行く側が松明を持って突っ込み、守る側が押し返すという形が夜通し続き、終いには社殿ごと燃やしてしまう。
その日は子どもが神主になる
多くの土地で、どんど焼きは子どもの行事だった。大人は後ろへ下がる。大人が段取りを全部決めてしまう土地では、子どもの側の熱が急に冷めるという話も聞いた。
長野の三九郎では、子どもが町内を一軒ずつ回って正月飾りを集めてきた。集めた物を櫓に組み、火をつけ、餅を焼いて食べる。段取りの中心に子どもが据えられていた。回ってくる子どもへ、飾りと一緒に小遣いや菓子を渡す家があって、集めて歩くこと自体が一つの行事になっていた。
横手のかまくらでも、子どもは遊んでいるだけの存在ではない。雪室に祭った水神の前に座り、訪ねてきた人へ甘酒と餅をふるまう。子どもが神主役を務める構造になっていた。訪れた大人が賽銭を置き、子どもの側が神前の取り次ぎ役として受けるという、ちょうど逆転した形になる。
境目の行事を子どもへ任せる例は各地にある。まだ大人の側へ完全に入っていない存在が、村の内と外の境を扱う。民俗学の解釈は分かれるけれど、実務の面でも筋は通っていた。七つまでは神の内、という言い方が各地に残っていて、子どもを境に近い存在として扱う見方が下敷きにあった。
飾りを集めて歩くには、家を一軒ずつ訪ねる必要がある。大人が回ると角が立つ場面でも、子どもが立っていれば扉は開いた。集める、組む、焼く、食べる。
四つの仕事が子どもの手の中で完結していた。一軒ずつ訪ねて回れば、どの家が正月をどう設えたかが自然に分かる。村の内側を確かめて歩く仕掛けでもあった。
近ごろは育成会や自治会が主催に入り、大人が安全管理を受け持つ形が増えた。それでも点火の火を持つのは子ども、という段取りだけは守っている土地が多い。役目の形が残った。点火の縄を引くのが六年生、櫓の周りを固めるのが低学年、といった役割の割り振りまで決めている地区もある。
書き初めが高く舞えば手が上がる
書き初めを火に入れると、燃えた紙が熱で舞い上がる。高く上がるほど字が上達する。この言い伝えは全国に広く散っていた。火が大きいほど紙は高く上がるので、櫓を低く組むようになった土地では、この言い伝えの見せ場が少し縮んだ。
理屈は分かりやすい。高く上がる紙というのは、よく乾いていて薄く、しっかり書けている紙だ。墨をたっぷり含んで厚ぼったくなった紙は重たくて上がらない。半紙はごく薄いぶん、熱で作られた上昇気流にそのまま乗る。燃え残りが黒いまま舞い上がる様子はよく目立った。
だから子どもは火の周りで自分の紙を目で追った。上がった、上がらなかった、と一年分の話題になる。上達を願うというより、その場で盛り上がるための仕掛けとして働いてきた。自分の紙がどれか分からなくなる子が必ずいて、どれでもいいから高いのを指さしておく、という落としどころになる。
宮中の左義長で吉書を焼いたのと、形がそのまま重なっている。年の初めに書いた物を、その年の火へ返す。宮中では吉書、村では書き初め。中身が入れ替わっただけ。書いた物を年の内に始末しないで持ち越すのは落ち着かない、という感覚のほうが先にあったのかもしれない。
おみくじを一緒に焼く土地もあった。結ばずに持ち帰った紙を、年明けの火でまとめて返す形になる。書かれた物を火へ渡すという一点で、どれも同じ棚に並んでいる。凶を引いたくじを持ち帰って火へ入れる、という始末のつけ方をしている人も、受付でときどき見かけた。
餅と団子を焼いて食う範囲
火が落ち着いてきたら餅を焼く。この慣行は行事の分布とほぼ重なるくらい広い。
焼いて食べると風邪をひかない、一年を健康で過ごせる、という言い方が各地にあった。虫歯にならないという言い伝えを持つ土地もある。歯の話が出てくるのは、硬い餅を噛む行事だからかもしれない。餅は正月に供えていた物なので、供えた側と食べる側の両方の役目が、この一口の中で片付いてしまう。
餅だけではなかった。三色の団子、ヤマボウシや柳の枝に刺した団子、みかん、するめ、昆布。何を火にあぶるかは土地ごとにかなり違う。するめと昆布を焼く地域では、それを食べれば一年無病息災と言ってきた。その土地で正月に何を蓄えていたかが、火にかざす物の顔ぶれへそのまま出ていた。
長野や山梨で作るのが繭玉。米の粉で作った丸い団子を枝に刺し、繭の形に見立てて枝ごと飾る。養蚕が盛んだった土地の行事食で、繭がよく育つようにという願いが下敷きにあった。枝に白と紅の玉がびっしり付いた姿は、繭を枝いっぱいに掛けた養蚕の景色を家の中へ持ち込んだ形になる。
群馬ではひえの粉やとうもろこしの粉で作る形が残った。一月十三日に飾り、翌日の夕方に田んぼへ運んで火で焼く。焼いた繭玉を食べると病気になりにくい、という言い伝えが付いている。養蚕が終わった後も繭玉だけが行事食として残り、今は米の粉で作った団子という説明で通っている。
鏡開きをした餅を持ってくる土地が多い。年神が宿っていた餅を、その年神を送る火で焼いてしまう。煙と一緒に神が帰るのだから、という説明のされ方をしてきた。鏡開きが済まないうちに火の日が来てしまう年もあって、その場合は切り餅を持っていく家が多かった。
消防と煙が行事を削っていった
昭和の後半から、火を焚くこと自体が難しくなる。廃棄物処理法の改正で野外焼却が原則として禁じられ、自治体の条例でも重ねて締められていく。原則禁止という言い方だけが先に伝わって、うちの地区はもうできないと早合点した自治会もいくつかあった。
例外は残っている。国や地方公共団体の施設管理のための焼却、風俗慣習上または宗教上の行事に必要な焼却、農業や林業でやむを得ない焼却。どんど焼きは二番目の枠へ入った。宗教上または風俗慣習上の行事という枠は、この行事を続けるための土台として実際に働いてきた。
ただし枠に入るからといって自由なわけではない。消防署への届け出、周囲への周知、消火の備え。ここを踏まずに焚けば、通報一本で止まる。届け出の用紙には、実施の日時、場所、燃やす物の内訳、責任者の連絡先まで書き込む欄が並んでいた。
ダイオキシンの話も効いた。飾りに使われたビニールやプラスチック、金具の付いた飾りが混じれば煙が変わってしまう。何を燃やしていいかを主催者が細かく決めるようになったのは、この流れの中でのこと。受付で飾りを一つずつ広げて、金具と樹脂を抜いてから櫓へ入れるという手間を、係の人が毎年こなしている。
場所の確保も響いている。田んぼが宅地へ変わり、河原の使用に許可が要り、煙と灰の苦情が出るようになった。人手が減って櫓が組めない土地もある。灰が飛んだという苦情が一件出ただけで翌年から取りやめた地区もあり、続けるかどうかは紙一重になっていた。
櫓が年々低くなっているという話はあちこちで聞く。燃やす量を絞り、燃える時間を短くする。形は残しつつ規模だけ落として続ける、という選択を取った地域が多かった。一晩燃やしていた行事が二時間で片付くようになって、集まる人の滞在時間まで短くなった。
その一方で、大きく残っている行事もある。大崎八幡宮の松焚祭は三百年ほど続き、正月に各家へ来ていた神々を送る御神火として扱われてきた。奈良の春日大社では大とんどの火が若草山焼きの種火になる。松焚祭の火は御神火と呼ばれ、あたると心身が清められて一年の加護を受ける、という伝えが付いている。
福岡の大善寺玉垂宮の鬼夜は千六百年の伝えを持ち、国の重要無形民俗文化財に指定された。褌姿の若者が燃え盛る大松明を担いで練り歩く。縮んだ行事と膨らんだ行事が、同じ国の同じ月に並んでいた。同じ火の行事でも、観光の柱として大きくなった所と、住宅地の中で静かに縮んだ所とで、道が完全に分かれた。
飾るのを終いにする日は関東と関西でずれている
ここから実践の話へ入る。最初の分かれ道が、正月飾りを外す日だった。日をどこで切るかによって、その後の段取りが丸ごとずれてしまうので、最初にここを確かめておきたい。
松の内が関東では一月七日、関西では一月十五日で切れる。同じ国の中で一週間以上ずれている。引っ越してきた土地の暦に合わせるのか、育った家の暦を続けるのか、この辺りで迷う人はかなり多い。
きっかけは徳川家光の死だった。慶安四年の四月二十日に亡くなり、それ以後の関東では毎月二十日が月命日にあたることになる。その日に鏡開きをするのは具合が悪い、という話になった。月命日を避けるという理屈が先に立って、そこから正月の日取り全体が引っ張られていった形になる。
そこで鏡開きを一月十一日へ動かした。ところが十一日というのは、まだ松の内の中。年神がいるあいだに供えた餅を割るのは失礼にあたる、という理屈が次に立ってしまう。供えた餅は年神の依り代なので、神がまだ居るうちに割るのは筋が通らない、という順番の話だった。
寛文二年、幕府が一月七日をもって飾り納めとするよう触れを出した。これで関東の松の内が七日で切れる。触れが行き届かなかった関西のほうは十五日のまま残ったらしい。幕府の触れは江戸の町を中心に回っていたので、距離が離れるほど効きが弱くなるのは当然のことだった。
明暦三年の大火も理由として挙がる。江戸の町がほぼ焼けた後、乾ききった松飾りを長く置くのは危ないという話になり、早めに外す形が定着していったという説だ。大火の後は、燃える物を家の外へ長く置かないという方向へ、江戸の暮らし全体が動いていった。
関西では二十日正月まで飾る土地もある。鏡開きは一月十五日か二十日。飾りを外す日は七日、十五日、二十日の三つに散っていて、どれか一つが正しいという話ではなかった。同じ県の中でも市によってずれる場合があるので、隣町の日を当てにすると外すことがあった。
自分の土地の日を知るには、近所の社の古札納所がいつ出るかを見るのが早い。納所が出る日が、その土地で飾りを下ろす日だった。自治会の回覧板と、氏子総代の家の前に貼られる紙も、日取りを知る手がかりになる。
外す時刻と、外していく順番
外すのは朝がいい。松の内の最終日の朝、できれば午前のうちに手をつける。夜に外して玄関へ置きっぱなしにする形だけは避けたい、と昔から言われてきた。前の晩のうちに外してしまうと、年神がまだ居るうちに送り出す形になるので、朝まで待つ家が多かった。
手を洗い、口をすすいでから始める。神棚がある家なら、先に水を替えて手を合わせてから玄関へ回る。順番は外から内へではなく、高い所から低い所へ下りていく。玄関先で作業をする前に、上着のほこりを払って手を拭くだけでも、扱いが雑にならずに済む。
門松から先に外す。左右一対で立てているなら、向かって左の雄松から抜いて、右の雌松を後にする土地が多い。地面へ直接置かず、下に新聞紙か白い紙を敷いておく。根元を縛ってある縄を解いてから抜くと、竹と松と梅が分かれて、後で素材ごとに仕分けしやすくなる。
その次が玄関の注連縄と注連飾り。釘やフックから外すとき、引きちぎらないようにする。結び目を解けるなら解いてから下ろす。固く結んである場合は無理をせず、縄の途中を切って輪を広げるほうが、飾りを傷めずに済んだ。
それから室内へ入る。神棚の注連縄、床の間の飾り、水回りや車に付けた小さな輪飾りまで、家じゅうを一周して回収していく。破魔矢と古い御札は別に束ねておいた。車の輪飾りは両面テープで留めてある場合が多く、糊が残るので先に外して拭き取っておく。
鏡餅は外さない。鏡開きの日まで置いて、刃物を使わずに手か木槌で割り、雑煮か汁粉にして食べる。焼く対象には入らなかった。刃物を入れないのは切腹を連想させるからという説明が江戸から続いていて、割るという言い方もそこから来た。
集めた物は、玄関の内側に白い紙を広げ、その上へまとめておく。袋へ入れるなら紙袋か風呂敷。半透明のごみ袋へ直接放り込む形だけは、どの土地の人に聞いても渋い顔をされる。紙の上でまとめておけば、翌朝そのまま包んで持ち出せるので、玄関に散らかったままにならない。
火に入れていい物、入れてはいけない物
持ち込んでいいのは、正月に飾った物と、神棚に関わる物が中心になる。受付で断られる物は毎年だいたい同じ顔ぶれなので、先に見当を付けておくと現地で慌てずに済んだ。
門松、松飾り、注連縄、注連飾り、輪飾り、破魔矢、古い御札、古いお守り、書き初め、おみくじ。ここまでは全国どこでもほぼ共通で受け付けてきた。授与品は一年で役目を終えるという前提で作られていて、翌年の火へ返す段取りが最初から組まれていた。
だるまは土地によって割れる。松本平では年始に買った達磨を翌年の三九郎で焼くのが普通だった。反対に、達磨を焼くと目が悪くなると言って受け付けない土地もある。引っ越してきた人は主催者へ一言聞いたほうが早い。地区によっては、だるまだけを別の場所に積んで焼くという、分けた扱いをしている所もあった。
入れてはいけない物のほうが、はっきりしている。プラスチック、ビニール、金属。飾りの土台に使われた発泡スチロール、針金、ホチキスの芯、留め具のフック。金属が混じると灰の中に残って、翌日の片付けで踏み抜く危険が出てくるので、現場では特に嫌われる。
飾りをほどいて素材を分ける作業が要る。注連縄の橙が本物の実なら燃やせるけれど、樹脂製の飾り玉は外す。水引の中に針金が通っているものも抜いておく。紙垂は紙なのでそのままでいい。橙の代わりに樹脂の飾りが付いた既製品が増えていて、ほどいてみると半分が燃やせない素材だったりする。
ぬいぐるみ、こけし、ひな人形、五月人形は原則として持ち込まない。化学繊維と樹脂の塊で、燃やせば煙が変わってしまう。人形は人形供養を受けている社寺へ別に持っていく。人形供養は三月と十月に受ける寺が多く、正月の火とはまったく別の日程で動いていた。
写真、年賀状、衣類、陶器、仏具も対象外になる。鏡餅も焼かない。食べる物なので家のほうで片付ける。年賀状は個人の宛名が載っているので、焚き上げよりも家庭での処分のほうが扱いやすい。
寺の授与品と神社の授与品を分ける社もある。御札や御守は、いただいた所へ返すのが本筋。神観念が違うから預かれない、と断る社が実際にあった。授与元が遠方なら、郵送で返す方法を先に問い合わせておくと、手元へ置き続けずに済んだ。
迷ったら分けて持っていく。受付で並べて見せれば、これは入れられる、これは持ち帰ってくれ、とその場で仕分けしてもらえる。係の人は毎年その場に立っているので、判断の早さも正確さも、こちらが一人で調べるよりずっと確かだった。
持って行く時刻と受け渡し、それに初穂料
持ち込みの受付は、点火のかなり前に締まってしまう。前日の夕方までに櫓へ組み込む土地が多いからだ。前日までに組んでしまう地区では、当日の朝に持っていっても受けてもらえない場合がある。
当日の朝しか受け付けない土地もあれば、一週間前から境内の仮設納所で受け続ける土地もある。回覧板か社の掲示で日時を確かめてから動く。境内の仮設納所は、正月三が日から出ている社もあれば、七日を過ぎてから出す社もあった。
会場へ着いたら受付を探す。テントか長机が出ていて、地区の役員か氏子総代が立っている。袋ごと渡さず、袋から出して手渡した。受付の脇に、燃やせる物と燃やせない物を並べた見本を置いている会場もあって、そこで確かめられる。
紙袋に入れてきたなら、紙袋も一緒に置いていいか聞く。ビニール袋は必ず持ち帰る。ここを守らない人が多くて、係の人が一番困る場面になっていた。持ち帰った袋は、家に着いてから畳んでしまうまでが一連の流れになる。
初穂料は、決まった額があれば掲示してある。多くは気持ちの額。白い封筒か紅白蝶結びの熨斗袋へ入れ、表書きは初穂料か御初穂料、その下に自分の名前を書く。気持ちの額と書いてあると逆に迷うけれど、周りの人が入れている額に合わせておけば大きくは外さない。
金額の目安は土地で違う。飾り一式なら数百円から千円くらいを包む人が多い。神棚を丸ごと納める場合は五千円以上に焚き上げ料を別途千円、という額を示している社もあった。人形や神棚のように手間の掛かる物は別料金を立てている社が多く、掲示を読めば分かるようになっていた。
賽銭箱と兼用の木箱が置いてあるだけの会場も珍しくない。その場合は封筒なしで小銭を入れ、一礼して離れる。額を人と比べる必要はない。封筒を用意していないときのために、小銭を別のポケットへ分けて持っていくと落ち着いて動ける。
自分の手で火に入れてよい会場もある。そのときは係の人の指示を待ってから、風上に立たず、火に背を向けず、腕を伸ばしきらない位置から静かに置く。放り投げない。火の近くは足元が悪いので、荷物は受付の脇へ置いてから、手ぶらで火のほうへ回るほうがいい。
入れた後は一歩下がって手を合わせる。長く居座らず、後ろの人へ場所を譲る。列ができている場合は、この回転が早いほど助かった。拝み方に決まりがない会場がほとんどで、二拝二拍手一拝で通す人も、合掌するだけの人もいた。
櫓の組み方と点火までの段取り
自分の地区で組む側に回るなら、材料集めから始まる。竹は地権者の許しを得てから切る。放置された竹林の持ち主を探すところから始まる地区も多かった。
要るのは太くて長い竹が四本から六本、心柱にする一本、笹の付いた竹が数本、藁の束、松の枝、わら縄。竹は正月前に切っておくと、水分が抜けて燃えやすくなる。藁は稲刈りの後に確保しておく。手に入らない地区では、園芸用の藁を買って充てている。
地面の中心に杭を打ち、そこへ心柱の太い竹を立てる。土に埋めるか、足元を三方から縄で引いて固定する。倒れる向きを作らないのが要点になる。地面が凍っている時期なので、杭を打つ前に湯をかけて土を緩めるという手を使う地区もあった。
心柱の周りへ長い竹を四本立てかけ、上のほうを縄で一つにまとめる。円錐の形になる。上を締めてから足元を外へ広げてやると安定した。上を縛るときは、燃えて解けるように麻縄か藁縄を使う。針金で締めると終わりまで骨組みが残ってしまう。
中ほどに竹を横へ渡して棚を組む土地もある。棚の上に竹を並べて床を作り、そこへ藁と竹の葉を載せていく。床を作っておくと、集めた飾りを中へ積みやすい。棚の高さを腰から胸の間に取ると、飾りを高く持ち上げずに差し込めるので、作業が速く進んだ。
側面に笹付きの竹を立てかけ、藁を外周へ回して隙間を埋める。外から縄で数か所を縛って締める。集めてきた注連縄や門松は、この段階で内側へ詰め込んだ。隙間が多いと火の回りが速すぎるので、藁の詰め方で燃える時間をある程度まで調整できる。
だるまは頂上に付ける。大きな一体を心柱の先へ据える形が、松本平では定番になっていた。地区の名前を書いた札や、子どもが作った飾りを一緒に付ける土地もある。だるまの顔を外へ向けて据え、目が入っているほうを正面に回す、という決まりを守る地区もあった。
高さは近年かなり抑えられている。三メートル前後で組む地区が増えた。倒れたときに人の手が届く範囲へ収まるよう、あえて低く作る判断をしている。高く組んだ年は、倒れる方向を読めずに周囲を大きく空ける必要が出るので、結局は場所の余裕で決まった。
点火の時刻は夕方が多い。一月十四日の日没後、あるいは十五日の朝。暗い中で炎が立つ形を取る土地と、明るいうちに済ませて片付ける土地に分かれていた。朝に焚く土地では、前の晩に神職が祝詞を上げ、翌朝に点火するという二段構えを取る場合もある。
火をつける役は土地ごとに決まっている。子ども会の代表、その年の年男と年女、厄年の男衆、神職、地区の最年長。持ち回りにしている所もあった。役が回ってきた人は、前もって火の扱いと消火の手順を確かめておくと、当日に慌てずに済んだ。
点火前に風向きを見る。風上へ人を立たせ、風下のほうは広く空けておく。煙が流れる先に住宅や洗濯物があるなら、その日は時刻を遅らせるか、組む向きのほうを変えた。風速が数メートルを超えた日は取りやめにするという線を、あらかじめ決めておく地区が増えている。
消火の備えは点火より先に置く。水を張ったバケツを複数、消火器、水を入れたポリタンク、鎮火した後に灰をかき出すスコップ。消防署への届け出は前もって済ませておく。終わった後に灰へ水をかけて、翌朝まで誰かが見に来るところまでを段取りへ入れておく。
火の前で唱える言葉、まずは祓詞から
火の前で何か唱えたいなら、祓詞が使いやすい。神社の祭祀で最初に読まれる短い祝詞で、身の周りの禍事と罪穢を祓ってくださいと申し上げる内容になっている。神職が読むときは白紙へ書いたものを手に持つけれど、火の前で個人が唱えるなら覚えていなくてもいい。
原文はこう読む。
掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等。諸々の禍事罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと、恐み恐みも白す。
読みを平仮名で置く。
かけまくもかしこき、いざなぎのおおかみ、つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに。みそぎはらえたまいしときに、なりませる、はらえどのおおかみたち。もろもろのまがごと、つみけがれあらむをば、はらえたまい、きよめたまえともうすことを。きこしめせと、かしこみかしこみももうす。
現代語に直すと次のようになる。口に出すのも畏れ多い伊邪那岐大神が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓をなさった。そのときにお生まれになった祓戸の神々よ。もろもろの災いと罪と穢れがあるならば、どうか祓い清めてください。そう申し上げるのをお聞き届けくださいと、畏れ慎んで申し上げます。
阿波岐原は日向にあったと伝わる水辺の地名。伊邪那岐が黄泉の国から戻り、身を洗った場所として記紀に出てくる。その禊のときに生まれた四柱が祓戸の大神で、穢れを川から海へ、海から根の国へ押し流して消すという段取りを受け持っていた。禍事と罪穢という語が並ぶところで、災いも過ちも汚れも一緒くたに流してしまう構えになっている。
唱えるのは一回でいい。火から三歩ほど離れて立ち、姿勢を正し、声は隣へ届く程度に抑える。人が大勢いる場なら、口の中だけで唱えてかまわない。風が強い日は声が流れるので、無理に張らず、自分の耳へ届く程度で足りた。
略拝詞と、火の神へ向ける詞
祓詞が長いと感じるなら略拝詞がある。神社の賽銭箱の脇に、木の札で掲げてある場合もある短い言葉だ。文字数が少ないぶん覚えやすく、火の前でも社の前でも同じように使えるのが強みになる。
祓へ給ひ清め給へ、神ながら守り給ひ幸へ給へ。
読みは、はらえたまい、きよめたまえ、かむながら、まもりたまい、さきわえたまえ。
意味のほうは、祓ってください、清めてください、神のはからいのままに、守ってください、幸せにしてください。五つの願いが五つの語で並んでいる。幸えという語は、幸いを与える、栄えさせるという意味の古い動詞から来ていた。
三回続けて唱える形が広く取られてきた。二拝してから唱え、二拍手、終いに一拝。火の前でも、社の前でも同じ形でいい。拝礼の形を細かく覚えていなくても、頭を下げて、唱えて、もう一度下げれば格好はつく。
火そのものへ向ける詞が欲しいなら、宮中の鎮火祭で読まれてきた祝詞が下敷きになる。延喜式に載る祝詞のひとつで、火の神をなだめる筋立てになっていた。宮中では六月と十二月の年二回、宮城の四隅で火を鎮める祭りが営まれてきた。
伊邪那岐と伊邪那美が国を生み、終いに火結神を生んだ。その火で母神の身が焼かれ、去り際に火を鎮める手立てを告げていった、という話が入る。中心はこの一節。火の神を生んだ代償に母神が身を焼かれる、という筋立てが記紀の神話にも入っている。
水神、匏、川菜、埴山姫、此の四つの物を以ちて鎮め奉れ。事も和しく和し坐せと、白し給ひき。
読みは、みずのかみ、ひさご、かわな、はにやまひめ、このよつのものをもちてしずめまつれ。こともやわしくやわしませと、もうしたまいき。
現代語にすると、水の神と、ひさご、つまりひょうたんと、川の藻と、埴山姫の四つを用いて火を鎮めよ、という内容になる。事が穏やかに収まるようにせよ、と告げていった。
ひょうたんは水を汲む器、川の藻は湿った物、埴山姫は土の神。水と土で火を抑えるという、実務そのものの手当てが神の言葉として置かれていた。火を消すのは水と土、という当たり前の知識が、神の名前の形へ置き換えられて残った。
一般の人が火の前でこれを全文唱える必要はない。略拝詞を三度唱え、火のほうへ一礼するだけで形は足りた。唱える言葉を増やすより、火から一歩離れて立つほうが、その場ではよほど効いてくる。
火伏せに唱えられてきた文句
火除けの信仰は、愛宕と秋葉の二つが柱になってきた。
京都市の愛宕山に鎮座する愛宕神社が愛宕信仰の出どころ。中世に愛宕神社が建ってから、修験者が全国へ広めていった。戦国のころは勝軍地蔵を本地仏として軍神の扱いだったのが、江戸へ入って火伏せの側へ寄っていく。愛宕講という集まりが各地に作られ、代参の形で山へ登り、札を受けて帰る習わしが続いた。
愛宕の火伏札には四文字が刷られている。火迺要慎。読みは、ひのようじん。火の用心という当たり前の文句が、そのまま神札の言葉として据わっていた。火迺要慎の四文字は、台所に貼られた状態で見かけると、注意書きと神札の中間のような顔をしている。
札の上には阿多古祀符と入る。読みは、あたごしふ。愛宕をまつる符、という意味になる。
台所の高い所、竈の上にあたる位置へ貼るのが習わしだった。貼る高さは目線より上。竈の正面を避け、湿気と煙が直接当たらない位置を選んだ。
八月一日に参れば千日参ったのと同じ御利益、という千日詣の習わしがある。愛宕の縁日は毎月二十四日。三歳までに参ると一生火に遭わない、という言い伝えを持つ土地もあった。千日詣の日は夜通し人が登るので、山道に提灯が並んで、それ自体が火の祭りのような景色になる。
静岡の秋葉山のほうは神仏習合の色が濃い。秋葉山本宮秋葉神社と、可睡斎をはじめとする寺が並び立ってきた。ここで唱えられてきたのが権現の名号。秋葉の名を冠した町名が各地に残っていて、火除けの祠が置かれていた土地の跡をたどれる。
南無秋葉三尺坊大権現。読みは、なむあきはさんじゃくぼうだいごんげん。秋葉の三尺坊大権現に帰依します、という意味になる。三尺坊は秋葉山で修行した行者の名として伝わり、神仏習合の形のまま今も祀られてきた。
どんど焼きの火の前でこれを唱える決まりがあるわけではない。ただ、大きな火を扱う日に火伏せの神の名を口へ出す形は、各地の火祭りで昔から取られてきた。点火の前に一声出す地区もある。口に出す言葉があると、火を扱う側の気持ちが一度そこで切り替わるという面もあった。
餅と団子の焼き方
火が高いうちは食べ物を出さない。炎が落ち着いて熾になってから始める。ここを待てずに突っ込むと、外が炭になって中が冷たいまま残ってしまう。熾になるまでの待ち時間は、地区によっては三十分から一時間近くかかった。
枝は生木を選ぶ。乾いた枝はすぐ燃えてしまう。長さは一メートルから一メートル半。
子どもが持つなら、顔が火から離れる長さのほうを優先して決めた。枝の先は皮を少し剥いでおくと、餅が滑らずに刺さる。太すぎる枝は餅を割ってしまう。
竹を使う土地も多い。先を斜めに切って刺す。節の近くを握りにして、火に近い側を細く削っておくと刺しやすくなる。
針金や金串は使わない。持ち手まで熱が回る。青竹は水分を含んでいるぶん焦げにくく、餅を刺す道具としては扱いやすかった。
刺し方は真ん中を一突き。餅は一本の枝に一個か二個まで。団子なら三つか四つを少し離して刺す。詰めて刺すと火の当たりが偏ってしまう。刺した後に手で軽く握って形を整えると、焼いている途中で落ちにくくなる。
焼く高さは、手をかざして三秒我慢できるくらいの位置。炎の中へ入れず、熾の上を五十センチほど離して横から当てる。回しながら焼くと膨らみ方が揃った。表面に薄く焦げ目が付いて、真ん中がふくらんできたところが引き上げる合図になる。
食べる数は土地によって言い方がある。二つ食べれば一年風邪をひかない、年の数だけ食べる、三つで無病息災。どれも決まりというより、言い回しの範囲に近い。数を決めている家は少なくて、その場で焼けた分だけ食べるという形が実際のところだった。
するめと昆布を焼く地域では、火にかざす時間はごく短い。炙って香りが立ったところで引く。みかんを皮ごと焼く土地もあった。昆布は火に当てすぎると縮んで苦くなるので、端が反り返ってきたら離す。
熱いうちに食べる。砂糖、きな粉、醤油、あんこ。持ち込んだ器に取り分けて、火から離れた場所で食べる。火のそばで食べると灰が乗ってしまう。熱い餅を素手で持つと火傷するので、紙皿か竹の皮を一枚敷いておくと扱いやすい。
繭玉団子を作る
前の晩に作って持っていくなら、繭玉が手間に対して喜ばれる。
材料は上新粉が二百五十グラム、熱湯が二百二十グラムほど、色をつけるなら食紅を少し。ひえの粉やとうもろこしの粉で作る土地もあるし、白玉粉を混ぜて柔らかくする家もあった。食紅の代わりに、人参の汁や抹茶、紫芋の粉で色を付ける家もあった。
上新粉をボウルへ入れ、熱湯を注ぐ。木べらで混ぜる。粉に水が回って、ぼそぼそした塊がまとまってくるまで続ける。熱湯を使うのは、米の粉に火を通して粘りを出すため。水では生地がまとまらない。
手で触れる温度まで冷めたら、体重を乗せてこねる。耳たぶくらいの柔らかさが目安になる。硬ければ湯を少し足し、緩ければ粉を足す。こねる時間は五分から十分。表面がなめらかになって、手に付かなくなれば終わりになる。
二つに分け、片方へ食紅を米粒ほど混ぜて紅色にする。残りは白のまま。紅白で作ると、枝に刺したときの見栄えが立った。紅を入れすぎると色が濃くなりすぎるので、耳かき一杯ずつ様子を見ながら混ぜていく。
直径二センチほどに丸める。繭に似せたいなら、丸めた後に両手で軽く転がして俵の形にしてやる。並べるときは互いにくっつけない。大きく作ると中まで火が通らないので、二センチより大きくしないほうがいい。
沸騰した湯へ落とす。浮き上がってから一分ほど待って引き上げる。冷水に取って冷まし、ざるへ上げて水を切る。茹で上がった団子は、水に取ってから表面の水気を拭いておくと、枝に刺すときに滑らない。
刺す枝はヤマボウシ、柳、ミズキが定番。枝ぶりが横へ広がる木を選ぶ。家では十三日ごろに刺して飾り、翌日の夕方に外して持っていく形が、群馬のあたりに残った。枝は前の日に切って、家の中で乾かしておくと、飾ったときに垂れ下がらなかった。
飾っておくと表面が乾いて硬くなる。それを火であぶると、外が香ばしく膨らむ。焼いた繭玉を食べれば病気になりにくい、という言い伝えが付いて回っていた。硬くなった団子は火であぶると内側が柔らかく戻るので、焼いて食べる前提の作り方になっていた。
灰の持ち帰りと撒き方
火が落ちたら灰が残る。この灰を持ち帰る習わしが各地にあった。灰を配る係が別に立って、紙袋に一杯ずつ渡していく会場もあった。
持ち帰った灰を自宅の周りへ撒くと、その年の病を除ける。魔除けになる。家内安全と無病息災。言い方は違っても、家の外周へ線を引くという動作のほうは共通していた。撒く前に一度手を合わせてから始める家が多く、ただの灰として扱う人は少なかった。
屋根へ上げる土地もある。屋根の上に灰を撒けば火事を出さない、という火伏せの側の理屈で使う。畑へ撒く土地では、灰が肥やしになるという実務が混ざっていた。瓦屋根の家が減って、屋根へ上げる形はほとんど見かけなくなった。
持ち帰るなら、完全に冷めてからにする。熱を持った灰を紙袋へ入れて車へ積み、車内で燻った例が実際にあった。会場によっては翌朝に配る形を取っている。翌朝まで熾が残っている場合があるので、前の晩に自分で掘り返すのは避けたい。
入れ物は缶か厚手の紙袋。ビニール袋は熱で溶ける。手ですくわず、小さなスコップか紙で寄せて取る。軍手を一組持っていくと楽になった。灰は細かいので、袋の口を二重に折って輪ゴムで留めておくと、持ち帰る途中で舞わずに済む。
撒く手順は難しくない。家の敷地の角から始めて、時計回りに外周を一周する。玄関の前だけ少し多めに置く土地が多い。撒き終えたら手を洗う。撒く量は、一握りを数メートルおきに落としていく程度で足りた。
撒いてはいけない場所と言われてきたのが、便所の周り、ごみ置き場、墓地。それから他人の敷地。自分の家の外周と自分の畑、この二つの中で完結させておく。人が踏む場所や、風で家の中へ入ってくる位置も避ける。灰は乾くとよく飛ぶ。
集合住宅で外周が無い場合、プランターの土へ少量だけ混ぜる形に寄せる人が多い。廊下や共用部へ撒くのは論外。灰は必ず飛ぶ。玄関の外側に小皿へ入れて一晩置き、翌朝に土へ戻すという形にしている人もいた。
会場によっては持ち帰り自体を止めている。灰の温度と飛散の管理が難しいからで、断られたら素直に引く。配っていない会場で勝手に持ち帰ろうとすると、片付けの邪魔になるので一声かける。
どんど焼きが無い土地での後始末
行事そのものが無い土地に住んでいる人は少なくない。仕事の都合で行けない年もある。都市部では、行事そのものを見たことがないまま大人になった人のほうが多かった。
最初の手は、近くの社の古札納所へ納める形になる。境内の隅に木の箱か小屋が置いてあり、古い御札と御守をそこへ入れる。年中受け付けている社が多い。納所の前に、受け付ける物を書いた札が立っているので、入れる前に目を通しておく。
正月の時期は、注連縄と破魔矢を受ける仮設の納所を別に出す社がある。どんど焼きに合わせて設置し、期間が終われば片付けてしまう。箱が二つ出ていたら、入れる先が分かれていると考えて掲示を読む。仮設の納所は期間が短いので、社のお知らせを確かめてから出かけるほうが確実だった。
納めるときは、袋から出して入れる。無理に押し込まない。箱が一杯なら社務所へ声をかける。初穂料の箱があればそこへ、無ければ賽銭箱へ入れ、拝殿で拝んでから帰った。箱が屋外にある社では、雨の日を避けて持っていくと、紙が濡れずに済む。
納所が受け付けない物も決まっている。プラスチックとビニールを含む物、ぬいぐるみ、こけし、他宗教の品。神棚や人形は事前の相談が要る。他宗教の品を断るのは、神の観念が違うからという理由で、扱いに困らせないための線引きになる。
郵送で受けている社もある。埼玉県熊谷市の上之雷電神社のように、お焚き上げの郵送受付を案内している社が実際にあった。送る前に電話かメールで確かめる。受けていない社へ突然送りつけると、そのまま困らせてしまう。受付の可否、送り先、初穂料の納め方まで、社ごとに条件が違っていた。
送り方は、品を白い紙で包み、箱へ詰める。金具や樹脂は事前に外しておく。同封する紙に住所と氏名、納める品の内訳、それに祈願の内容を一行。初穂料は現金書留にするか、案内された口座へ振り込む。箱の中で品が動くと傷むので、丸めた新聞紙を隙間へ詰めておくと形が崩れない。
宅配便で現金を同封するのは規約違反にあたる。この一点だけは守る。送り状の品名は、御札御守と書けば通った。郵便であれば現金書留という手が使えるので、そちらを案内している社のほうが多かった。
家で始末する場合の形もある。罰が当たるという話ではなく、昔から取られてきた手順のほうが残っている。気が咎めるなら、社へ納める日を別に作ればいいだけの話になる。
最初に新聞紙か半紙、あるいは白い布を床へ大きく広げる。その上に正月飾りを置く。門松、注連縄、輪飾り、破魔矢の順に並べ、重ねすぎないようにした。床が汚れるので、下に古新聞をもう一枚重ねておくと後の片付けが楽になった。
その次が塩。左に一度、右に一度、もう一度左へ。三回に分けて全体へかける。
振るときは、清めさせていただきます、と口の中で断る。粗塩を使う。ひとつまみずつ、飾り全体へ行き渡るように散らしていく。
それから敷いた紙で丁寧に包む。端を折り込んで中身が出ないようにする。包みの外から一礼し、一年守ってもらった礼を言う。包んだ後に麻紐で十字に縛っておくと、袋の中で開かずに済む。
包んだ物は、ほかのごみとは別の袋へ入れる。生ごみや食べ残しと一緒にしない。可燃ごみの日に出す。袋の口を結ぶ前に、もう一度手を合わせた。自治体の指定袋が透けるのが気になるなら、内側へ紙袋を一枚入れてから詰める。
自治体によって分別が違う。竹や松の枝が粗大扱いになる地域、束ねた長さに制限がある地域がある。門松を丸ごと出せるかどうかは、出す前に確かめておく。門松の土台に使われた樽や砂は、可燃で出せないので先に分けておく。
御札と御守だけは家で燃えるごみに出すのを避けたい、という人が多い。その場合は御札だけ分けて、社の納所へ持っていく日を作ればいい。納めるのに時期の決まりはなかった。御札だけなら小さくまとまるので、出かける用事のついでに持っていける。
火のそばでの身の置き方
服は綿にする。化繊の上着は火の粉で穴が開く。フリースは特に弱い。傷んでも構わない上着を一枚羽織って行った。袖が長い上着は火に近づいたときに危ないので、腕まくりできる物を選んでおく。
靴は底の厚いもの。運動靴でいい。サンダルは避ける。灰が入る。長靴でもいいけれど、灰の上を歩くと底が熱を持つので、足を止めすぎないようにする。
軍手を持っていく。枝を持つとき、灰を取るとき、荷物を運ぶときに使う。濡らした手拭いが一枚あると、なお楽になった。軍手は火に強いわけではないので、炎に触れるような使い方はしない。
立つ位置は風上。煙は目に来る。子どもは背が低いぶん煙をまともに浴びるので、大人が風下側へ回って盾になる形を取る。風向きは途中で変わるので、立ち位置を一度決めたら終わりという話ではなかった。
火から取る距離は、熱が顔に当たらない場所。自分が下がりたくなった時点で、すでに近い。飛んだ火の粉は数メートル先まで届く。櫓が倒れる向きを見て、その延長線上から外れた場所に立っておくと安心できる。
洗濯物は前の日から入れておく。近所へ声をかけてある地区が多いけれど、風向きが変われば予定外の家へ煙が行ってしまう。布団を干したままにしていて、煙の匂いが取れずに困ったという話は毎年聞いた。
点火した後に物を投げ入れない。投げると火の粉が立ち上がる。入れそびれた物は係の人へ渡した。係の人は火の癖を知っているので、どの位置から入れるかを任せてしまうほうが早い。
帰りは灰を払ってから車に乗る。服に付いた灰は、はたいて落としてから家へ入る。髪に煙の匂いが残るので、その日のうちに洗う。子どもの髪は特に匂いを吸うので、帰ったらそのまま風呂へ入れてしまうのが早かった。
