去年の小正月に長野の親戚の家へ泊まったら、朝六時、玄関の戸を子どもが叩いた。藁を出してくれと言われ、寝ぼけたまま束を抱えて渡した。外はまだ暗い。田んぼの隅には円錐形の骨組みがもう立っていて、そこへ大人が三人ばかり取りついていた。
その足元に、腰の高さくらいの石が据えてある。丸っこい二人が肩を寄せて彫られているのだが、顔はすっかり摩耗してのっぺりしていた。これが道祖神。村の入口に座って、外から来る厄介なものを押し返す役を何百年か引き受けてきた石だ。
石の来歴をたどると、話は妙な方向へ転がっていく。神話の一行から始まって、大陸の道の神が混ざり、猿田彦が重なり、江戸の石工が男女の姿を彫りつけた。しまいには子どもが火を焚く冬の行事になる。
杖を一本、投げた
日本書紀にやけに生々しい場面があって、黄泉から逃げ帰るイザナギが追ってくる者へ向かって杖を投げつけた。もう来るな、という身振り。その杖から生まれた神の名が来名戸祖神、読みはくなどのさえのかみだった。
字のとおり、来るなと言う神。境を塞いで向こう側のものを通さないという性格から、塞の神の一番古い姿としてこの一行はどの本でも引かれてきた。
古事記のほうは、少し話の運びが違う。逃げ切ったイザナギは黄泉比良坂を千引の岩で塞いだのだが、千人がかりでやっと動く巨岩、という意味の名前がついている。生者の世界と死者の世界は、その岩一枚で仕切られた。
岩で塞ぐ。杖で拒む。道具は違っても、やっている身振りは同じで、ここから先は通さないという一点に尽きる。道祖神の根っこは、このあたりに埋まっている。
古事記は、禊のときに脱ぎ捨てた褌から道俣神、読みはちまたのかみが生まれたとも書いていた。ちまたは道の分かれ目のことだから、辻の神が衣服から出てくる筋書きになる。衝立船戸神、つきたつふなどのかみという名も、すぐ隣に並んでいた。
船戸、岐、久那土。表記はばらつくものの、指している中身は道と境を守る神で、のちの人はまとめて岐神、ふなどのかみと呼ぶようになった。
塞ぐ神が、幸の神に化ける
塞の神は、はじめ防御一本槍の神で、村へ入ろうとする疫神や悪霊を境のところで食い止める役だった。外から来るものを止める装置。そう思って眺めると、石が置かれている場所の意味がすっと分かってくる。
峠。村と村のあいだ。橋のたもと、川を渡ったところ、辻。どれも内と外が入れ替わる線の上にあたっていて、そこへ石を据えることで見えない線を目に見える形へ変えた。
ところが中世に入るころから、この神の性格がずるずる横滑りしていく。塞ぐの「さえ」が幸いの「さい」と音のうえで重なり、近い響きに引っぱられて表記が賽の神や幸の神へと分かれていった。
塞ぐ神が幸せを運ぶ神へ読み替えられるのは、乱暴な話に見えて意外と筋が通っている。悪いものを止められる神なら、良いものを村の内側へ留めることもできるはずだ。そういう理屈で、縁結びと子授けが乗った。
生殖の神という顔も、このあたりから濃くなってくる。境は生まれる場所でもある、という感覚が働いたらしく、あの世とこの世の境を守る神が産屋の神をも兼ねた。石に男根の形が選ばれた地域があるのも、この線の延長にあたる。
夫婦円満、子宝、縁結び、旅の安全。近世の道祖神にはそういう願いがまとめて預けられ、来るなと杖を投げた神のもとの顔は、だんだん見えにくくなっていく。
大陸の道祖が海を渡ってきた
道祖神という三文字は、素直に読めば道の祖の神になる。この語そのものは大陸から来たもので、中国では紀元前から、旅立ちのときに道の神を祀る習慣があった。その神の名が道祖だ。
出発する前に路上で供物を並べ、道中の無事を願ってから発つ。漢籍を読んだ日本の知識層が、この語を手元にあった在来の神へあてはめていった。
日本古来の、邪悪を遮る道の神。大陸伝来の、行路を守る道祖。二つが重なって道祖神という呼び名が定着したので、中身は在来、看板は輸入という合成になっている。
平安の文献には、道饗祭、みちあえのまつりという宮中の祭祀が出てくる。都の四隅の道で、外から入ろうとする鬼魅を饗応して追い返す祀りだった。八衢比古と八衢比売、それに久那斗の三柱を祀る。
国家の規模でやる、境の祀り。村の入口に立つ石はその小型版として道端に並んでいたことになるから、規模はまるで違っても発想の骨は同じだった。
猿田彦が重なった事情
道祖神の石をよく見ると、天狗のような鼻の長い男が彫られていることがある。あれは猿田彦で、岐神と猿田彦はかなり早い時期から同じ神として扱われてきた。
日本書紀と古語拾遺が、岐神をサルタヒコと同じ神とみなしている。天孫降臨のとき、天の八衢に立って一行を待ち受け、道を開いて先導した神格だから、道の神とはもともと重なりやすかった。
伊勢の猿田彦神社は、みちひらきの大神としてこの神を祀る。五十鈴川の上流へ鎮まった猿田彦の後裔が宇治土公の家で、代々の神職を務めてきた。物事の始まりに現れて、一番良い方へ導く神という位置づけになっている。
近世になると、そこへ庚申信仰が絡んでくる。庚申の申と猿が音で結びつき、猿田彦が庚申の本地のように扱われた。庚申塔と道祖神が同じ辻に肩を並べて立つ光景は、関東でも中部でもよく見かける。
もう一段、面白い重なり方をした地域もあった。猿田彦と、その妻とされる天宇受売命を男女一対の姿で彫る型がそれにあたり、双体道祖神を猿田彦夫婦だと説明する土地は信州にも関東にも点々とある。
村境の石が、記紀の神の名を背負う。逆から見れば、もとは名も無かった境の石へ、あとから神の名が貼られていったことになる。どちらが先かは、たぶん決めなくていい。
高遠の石工が、男女を並べて彫った
双体道祖神は、男女二人が並んで彫られた石をいう。中部と関東、なかでも長野、山梨、群馬、静岡、神奈川に密集していて、長野県内だけで三千基近いという数え方もある。
なぜ信州にこれほど集まったのか。石工の存在が大きいという説明が、いまのところ一番よく通っている。高遠藩には千三百人もの石工が抱えられていたのだが、戦がやんで築城の仕事が消え、腕の行き場がなくなった。
そこへ、村の石を彫る仕事が流れ込む。高遠石工は各地へ出稼ぎに出て、道祖神や石仏を大量に残していった。注文する側の願いだけでなく、供給する側の事情も分布図の形を決めていたわけだ。
造立の年代は、近世にきれいに固まっている。はっきり言って、そこは動かない。松本市の調査によれば、市内の道祖神のうち四割ほどが双体像で、残りは文字を刻んだ碑だった。最も古い紀年銘は正徳五年、西暦でいう一七一五年のもの。
数がいちばん増えるのは十九世紀の前半、文化から天保にかけての時期にあたる。最も新しい双体像としては明治三十三年のものが確認されていて、江戸の後半から明治の頭までが造立の山だった。
彫り方の型も、細かく分かれている。並立、添立、対面、跪座、座像、合掌、握手、肩組、抱擁、祝言、接吻。分類名だけ並べると図鑑のようだが、どの型を好むかは村ごとにはっきり出た。
酒器を持って盃を交わす祝言型は、婚礼の場面をそのまま石へ写し取ったものになる。夫婦が仲良ければ子が生まれ、子が増えれば村が栄えるという素朴な理屈が、彫りの型として固定された。
甲州の丸い石
山梨へ入ると、様子ががらりと変わる。人の姿ではなく、ただの球が台の上に祀られている。丸石道祖神と呼ばれるもので、県内に七百か所以上あるという数え方が流通していた。
台座の上に、直径三十センチほどの丸い石が乗っているだけ。彫りもなければ文字もない。川原から拾ってきた自然石そのままのものもあれば、明らかに人の手で丸く整えたものも交じっている。
成り立ちは、はっきりしていない。川で転がって丸くなった石を選んだ、火山活動でできた球状の岩を拾った、球そのものへ完全さを見た。説はいくつも立つものの、決め手になる資料が出てこない。
丸石を積み上げた形もある。一つの台へ大小の球を段々に重ねていく積み方で、子どもが生まれた家が石を一つ足すという言い伝えを持つ集落もあった。
中沢厚という研究者が甲州の丸石を丹念に歩いて記録し、石に宿るものの系譜として論じている。民俗学の側からこの奇妙な信仰へ光が当たったのは、戦後になってからのことだった。
東北のサイノカミ、近畿の地蔵
東北へ行くと、呼び名がサイノカミのほうへ寄る。会津や新潟では小正月の火祭りそのものをサイノカミと呼んできたから、石よりも火のほうへ名前が乗っている。
秋田には、藁で編んだ巨大な人形を村境へ立てる土地がある。人形道祖神と呼ばれる型で、木と藁で人の形を組み、剣を持たせ、顔を描いた。毎年作り替えて、古いものは境に置いたまま朽ちさせる。
男女の別が、はっきり作り分けられる例も多い。股間に性器を模した作り物が付けられるので、初めて見るとたいてい面食らう。外から入る疫病を威嚇して追い返すための装置として、あの形が選ばれた。
男根形の石を据える地域も、かなり広い。陽石、金精様など呼び名は土地ごとに違っているが、塞ぐ力と生む力を一つの形で言い表そうとしたものだった。
近畿へ下ると路傍の神の顔ぶれが入れ替わり、道祖神の石はぐっと減って、代わりに地蔵が辻へ立つ。地蔵も境の神であって、子どもを守り、死者と生者の境に座る仏だった。
役割が、きれいに重なっている。だから同じ場所を、東では道祖神が占め、西では地蔵が占めた。小正月の火祭りを地蔵の前で焚く土地もあって、呼び名が違うだけで中身はほとんど同じになる。
子どもが取り仕切る
道祖神の祀りで妙なのは、大人が主役でないという一点にある。仕切るのは子ども組で、宮司も檀家総代も出てこず、十歳前後の子が藁を集め、小屋を建て、火をつけた。
松本の梓川あたりでは、元日の朝五時ごろ、子どもたちが三か所の道祖神碑を順に拝んで回る。その帰り道で大人の家の戸を叩き、御柱建てに来ておくれや、と声を張って歩いた。
起こされた大人が集まり、御神酒をいただいて身を清める。それから子どもたちと一緒に、日の出の方角へ向けて御柱を建てた。一月五日の早朝にそれを倒し、オンベは各戸へ配られて、無病息災の護符として一年持つ。
横沢の中区には、スースーと呼ばれる行事があった。子どもが五色のオンベを持って家々を回り、祝いの言葉を述べて銭を集めて歩く。集まった金は、そのまま祭りの費用へ充てられた。
境の神は、まだ大人になっていない者と相性がいい。子どもは半分こちら側、半分あちら側の存在として扱われてきたから、境の番人を任せられる。そういう説明の仕方をする研究者もいる。
もっと即物的な見方もできるだろう。道祖神は村の公式な社ではなく宗教者の手が届かない隙間の信仰だったから、手の空いている子どもが担うのが自然だった、という筋立てになる。
明治、石が動かされた
明治元年の三月に神仏分離令が出て、神社から仏教色を剥がすその政策のもと、各地で廃仏毀釈が起きた。道端の石も、その波と無縁ではいられなかった。
道祖神を名指しで撤去しろという命令があったわけではない。厄介だったのはそのあとに続いた風俗の取り締まりのほうで、男根形の石や露骨な彫りの双体像が淫らな祠として片付けられていった。
外国人の目に触れると恥ずかしい。そういう理由で目立つ場所の石が藪の奥へ移された記録が各地に残り、明治三十九年以降の神社合祀でも小さな祠がまとめて整理された。
道路の拡幅と耕地整理も、石をどんどん動かしていった。もとは峠や村境に立っていたものが、集落の集会所の隅へ寄せられる。一か所に十基、二十基と並ぶ道祖神場は、その寄せ集めの結果だという見方が強い。
だから今ある場所が、もとの場所だとは限らない。石の裏に刻まれた地名と現在の設置場所が食い違う例はいくらでも出てくるので、石を読むときはそこを疑ってかかるほうがいい。
一度動かされた石が、戦後になって元の辻へ戻された土地もあった。地元の人が古老の記憶を頼りに位置を割り出し、据え直す。そういう地道な作業で復元された道祖神場が、信州や甲州には点在している。
今、道端の石はどうなっているか
安曇野市は、道祖神を観光資源として整備してきた。市内のものを一通り調査して台帳を作り、めぐるための地図まで出している。松本市も歴史的風致の一部として、道祖神を報告書へ載せた。
自治体が調べて数えると、それだけで保存の根拠ができるし、文化財の指定を受けた石も少なくない。反対に、台帳から漏れた石は工事のときにあっさり動く。
集落の人口が減ると、祭りそのものが続かなくなってくる。子ども組が組めない。藁を用意できる農家がない。小正月の火祭りを取りやめた村では、石だけが残って夏草に埋もれていく。
石の管理を自治会が引き受け、年に一度の草刈りと注連縄の掛け替えだけを続ける。そういう最小限の形で保たれている地域が、いま一番多いように見える。火を焚かなくなっても、注連縄は替わる。
移住してきた人が、途絶えた祭りを掘り起こす例も出てきた。古い写真と聞き書きをもとに火祭りを再開し、子どもの数が足りないぶんは大人が混ざって小屋を組む。
観光の客が集まる大きな祭りもあって、野沢温泉の道祖神祭りは国の重要無形民俗文化財に指定された。あれは例外的に大規模なものだが、骨組みの発想は村の小さな小屋掛けと変わらない。
小正月の火、日取りと場所
ここから先は、実際にどう祀るかの話へ移る。日取りから押さえておきたい。道祖神の祭りは小正月にあたるので、一月十四日の夜か、十五日の朝。この二択が本来の形だった。正直、ここは押さえておきたい。
十四日の日暮れに火をつけて燃え尽きるまで見届けるか、あるいは十五日の明け方に点す。どちらを取るかは土地の決まりで、両方をやる村もあった。
今は十五日が平日になる年が多いので、成人の日の連休や、松が明けた最初の日曜へ寄せる集落が増えている。日をずらすこと自体は、昔からわりと融通が利いていた。
場所は村境を選ぶ。集落の入口、辻、橋のたもと、川原。道祖神の石が据わっている場所があればそこが第一候補になるのは、石の前で焚くのが筋だからだ。
現実には消防への届け出と場所の確保が先に来るので、河川敷や休耕田のように周囲へ燃え移るものがない平地を探す。電線の下は外す。風下に家屋が並ばない向きを選び、前の年の灰が残る場所があればそこを踏襲する。
火を使う前に、消防署へ届け出を出しておきたい。自治体によって様式が違うので、年内に一度問い合わせておくと当日あわてない。水を張ったバケツと火叩き用の青竹を用意し、最低でも数人が消火側へ回る態勢を作る。
藁と竹を集めて、組む
用意するものは、そう多くない。芯になる竹が三本から四本、長さは五メートルから七メートルほど。真竹でも孟宗竹でも構わないが、葉を先端に残したまま切ってくる。
そこへ藁を大量に積み上げる。一軒あたり一束ずつ持ち寄る集落が多かったが、稲藁が手に入らない土地では杉の葉や茅、枯れ枝を代わりに使う。燃えやすいものを下へ、燃えにくいものを外側へ。
縄も要る。藁縄を十メートルほど用意しておく。番線は使わない土地が多いのだが、これは焼け残った金属が翌日の片付けで危ないからだ。
集め方は子どもが家々を回るのが本来の形で、正月飾りを出してくれ、藁を出してくれと声をかけて歩いた。松の内が明ける一月七日以降、十三日あたりまでが集める期間だった。
組み方は円錐形が基本になるので、竹の先端近くを縄でしっかり縛り、三本の足を大きく広げて立てる。中心に柱を一本立てて、その周りへ藁を巻き上げていく形にする村もあった。
下のほうは空洞にして火が入る口を作り、そこへ焚き付けの杉葉を詰めておくと点火が一度で決まる。外側は藁を隙間なく被せて縄で三段ほど締めるのだが、締めすぎると火の回りが悪くなり、緩いと途中で崩れた。
先端には大きなだるまを一つ挿す。古い注連飾りを竹の途中へ結びつける土地もあった。高さは三メートルから五メートルほどで、子どもの手が届く範囲に収めるのが安全でいい。
組み上げたら、根元へ道祖神の石を迎える。石が動かせない場合は石のほうへ小屋を寄せて建てたが、石の正面を塞がないように入口の向きを合わせておく。
火をつける刻限
点火は、暗くなってからが本来の形になる。十四日の夕方なら日没後の午後六時前後、十五日の朝なら日の出前の五時から六時のあいだ。火柱が暗い空へ立つ時刻を選んだ。
火をつける前に、石へ先に拝む。この順番を飛ばさない。小屋へ火が回ってしまうともう石の前へは寄れなくなるから、供物を置き、頭を下げ、それから火を入れる。
点火の役は子どもが務めるのが筋になっていて、年長の子が松明を持って根元の焚き口へ深く差し込む。松明は藁を束ねて縄で締めたもので、火は別の場所で起こして運んでくる。
野沢温泉のような大きな祭りでは、火打ち石で起こした火を松明で運んだ。三十メートルほど離れた柴の山を火元にして、そこから火を取ってくる。村の規模が小さければ、家の竈の残り火で構わない。
火が回りはじめたら、全員が下がる。風下は特に距離を取る。藁の火は勢いが速く、三分ほどで最も高くなり、そのあとは急に落ちた。いちばん高く上がった瞬間に手を合わせる人が多い。
倒れる向きは読めないので、周囲をぐるりと空けておく。青竹が破裂して大きな音を立てるが、これは節に火が通った合図であって、避けるべきものでもない。
燃え盛りが収まったら、熾火で餅や団子を焼く。松本の三九郎では柳の枝に繭玉を挿して炙り、会津では餅や烏賊を焼いた。焼いたものを家へ持ち帰って家族で分ける作法は、どの土地でもほぼ共通している。
焼くもの、焼かないもの
火に入れていいものは、だいたい決まっている。松飾り、注連飾り、門松、書き初め、前の年の御札、お守り、熊手、破魔矢、だるま。どれも正月に関わるものか、一年使った護符だ。
書き初めは、燃えた紙が高く舞い上がると字が上手くなるというので、子どもが自分の分を持ってきて火の中へ放り込む。灰になった紙が空へ吸い上げられていくのを、みんなで見上げた。
焼いてはいけないものも、はっきりしている。プラスチック、ビニール、金属類。これらは有毒な煙を出すうえ溶けて地面に残るので、御札を包む袋がビニールなら外してから火へ入れる。
人形、カレンダー、鏡、魚の頭。会津の歳の神では、この四つを持ち込まない決まりになっていた。人形は供養の筋が別だからで、鏡と金属は割れたり溶けたりして危ないためだ。
写真、位牌、仏具も入れない。念のため書いておく。仏事のものは寺の側で扱う筋になっているから、神社の火と仏壇の始末は線を引いておくほうが後で揉めない。
今どきの正月飾りには針金と留め金が仕込まれているので、家で解体して燃える部分だけを持っていく。プラスチックの水引や樹脂の飾りも外す。この下ごしらえを済ませておくと、当日の受け取りが驚くほど楽になった。
灰の持ち帰り方
火が落ちたら、灰の始末が残る。この灰を粗末にしない習慣が各地に伝わっていて、冷めた灰を少し包んで持ち帰り、家の周りへぐるりと撒く。その年の病を除ける作法として続いている。
撒くときは、家の四隅と門口から門口へ線を引くように置いていくのだが、塩を混ぜる土地もあった。量は一掴みあれば足りるので、残りを取っておく必要はない。
持ち帰るのは、完全に冷えてからにする。熱いうちに紙へ包むと燃え出すので、当日の夜ではなく翌朝に拾いに行くのが安全な段取りだった。
畑へ撒く使い方もある。木灰はカリ分を含んで作物にとって悪いものでもないから、信仰と実用がたまたま同じ方向を向いた形になる。
撒いたあとの包み紙は、燃えるごみで構わない。神聖なものが移っていると考えるなら翌年の火へ入れてもよく、どちらの扱いもそれぞれの土地にあった。
石の前に何を置くか
祭りの日でなくても、道祖神へ供えることはある。基本は洗米、塩、水、酒の四つで、神棚へ供えるものと同じ構成になる。特別なものは要らない。
洗米は、生米を一度水で洗って水気を切ったもの。白い紙か小皿へ盛るが、量は盃一杯ほどで足りる。塩は精製していない荒塩を、小さな円錐に盛り上げておく。
酒は徳利へ入れて、口を開けたまま置く。一合の小さな徳利で十分だ。二本供えるなら石から見て右手にあたるほうを先に置き、徳利の蓋を外しておかないと供えた形にならない。
団子と餅は、小正月に供える定番だった。米の粉で作った白い団子を串へ三つ挿して置くのが基本で、松本では繭玉を柳の枝に挿し、甲州では丸い団子を積み上げた。どちらも、丸い形をいくつも重ねている。
向きは、石の正面へ置くのが基本になる。石が向いている方角がそのまま正面だ。文字碑なら文字が彫られている面、双体像なら二人が向いている側。台石の上へ直接置いても構わない。
供えた器は、こちらへ底を向ける。神の側へ口を向けるのが筋だからだ。紙を敷くなら半紙を折って角を手前にし、神饌をのせる台があれば使うが、なくても地面に紙を敷けば済む。
草鞋を供える土地もある。これは旅の神としての顔に向けたもので、あとで詳しく書く。花は野の花でいい。買ってきた花束よりも、その場で摘んだ一本のほうが似合う石だった。
拝み方の順序
拝礼は神社と同じ二拝二拍手一拝で構わないし、道祖神は神道系の神なのだから、この作法がそのまま通る。地蔵と並んでいる場所では、地蔵へは合掌一礼にして手を打たない。
石の前へ立ったら、はじめに軽く一礼しておきたいが、これは挨拶であって本番の拝礼とは別の動作だ。それから供物を置き、正面へ戻って背筋を伸ばす。
深く腰を折るのを二回。角度は九十度を目安にして、頭だけ下げずに腰から深く折り、一回目と二回目のあいだで体をいったん起こした。
胸の前で両手を合わせ、右手を指一本分ほど下へずらす。その形で二回、手を打つ。音は大きくなくていい。打ち終わったら、ずらした右手を戻して指先を揃える。
手を合わせたまま、ここで唱えごとを入れる。ここからが本題だ。声は出しても出さなくてもよく、周りに人がいる場所なら口の中で唱えるだけで足りる。唱え終わったら、ゆっくり手を下ろす。
最後にもう一度、深く腰を折る。これで二拝二拍手一拝が一通り終わったので、下がるときは石へ背を向けず、二、三歩退いてから向きを変える。
石がずらりと並んでいる道祖神場では、全部へ順に拝む必要はない。中央の一基、あるいは一番古い一基へ拝めばその場全体への礼になるのは、集められた石がもともと別々の村の神だったからだ。
祓詞を通しで
唱えごとは、祓詞から入るのが一番おさまりがいい。神社の祭祀で最初に奏上される祝詞で、神社本庁が定めた形が広く使われている。長さも、覚えられる範囲に収まっていた。
原文と読みを並べて書いておく。
掛けまくも畏き伊邪那岐大神(かけまくもかしこきいざなぎのおほかみ)
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに)
禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等(みそぎはらへたまひしときになりませるはらへどのおほかみたち)
諸々の禍事罪穢有らむをば(もろもろのまがことつみけがれあらむをば)
祓へ給ひ清め給へと白す事を(はらへたまひきよめたまへとまをすことを)
聞こし食せと恐み恐みも白す(きこしめせとかしこみかしこみもまをす)
現代語に直すと、こういう内容になる。口に出すのも畏れ多い伊邪那岐の大神が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎ祓いをなさったとき、そこへ生まれ出た祓戸の大神たちよ。
後半はこう続く。もろもろの災いや罪や穢れがあるならば、それを祓い清めてくださいと申し上げます。その願いをお聞きくださいと、畏れ多くも申し上げます。
読み方には、いくつか流儀がある。「白す」を「まをす」と読む書き方も広く通っていて、どちらでも構わない。息を長く平らに伸ばして唱えるのが、基本の調子になる。
唱える回数は一回でいい。拍手のあと、手を合わせた形のまま通す。途中で息が切れたら句の切れ目で吸い直せばいいし、早口にする必要もまったくない。
略拝詞と、短い唱えことば
祓詞が長いと感じるなら、略拝詞がある。神社本庁が参拝のときの唱えことばとして挙げている短い句で、十秒ほどで言い終わった。
祓へ給ひ清め給へ(はらへたまひきよめたまへ)
神ながら守り給ひ幸へ給へ(かむながらまもりたまひさきはへたまへ)
意味は素直だ。お祓いください、お清めください、神のお力のままにお守りください、幸せにしてください。これだけの内容を、短い二句へ畳んである。
道祖神の前で唱えるなら、この略拝詞が一番合う。境を守る神へ祓いと守護を頼むのだから、願いの筋がそのまま噛み合っている。
三回繰り返す人が多い。一回でも通る。回数の決まりは、どこにも書かれていなかった。
もう一つ、古い唱えことばがある。吐普加美依身多女と書いて読みはとおかみえみためで、神社本庁も参拝の唱えことばとしてこの句を紹介している。
もとは占いの場で用いられた言葉で、漢字は音を当てたものにすぎない。遠つ神よ、笑みたまえ、という意味に解く説が広く行われてきたので、短いぶん道々歩きながら唱える人もいる。
猿田彦の系統で添える言葉
猿田彦と結びつけて祀られている道祖神なら、神名を唱える形がある。神名奉唱といって、その神の名をただ繰り返すだけ。難しい手順は何もない。
猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)
これを三回、あるいは七回。拍手のあと、手を合わせた形のまま唱える。祓詞のあとへ続けてもいいし、略拝詞と組み合わせても構わなかった。
略拝詞の頭へ神名を置く唱え方もある。猿田彦大神、祓へ給ひ清め給へ、神ながら守り給ひ幸へ給へ、と続けていく。神名を先に呼んでから願いを述べる形だ。
道祖神の石に、猿田彦と彫ってある場合もある。文字碑の多くは道祖神の三文字だが、猿田彦大神、塞神、賽神、幸神と刻んだものも交じっていた。刻まれた名をそのまま呼ぶのが、一番素直な唱え方になる。
彫られた文字が読めないときは、神名を呼ばなくていい。祓詞と略拝詞だけで形は十分に整うし、分からない名を勝手に決めて呼ぶほうがよほど失礼にあたる。
旅立ちの朝に草鞋を置く
道祖神へ草鞋を供える習慣が峠道の石に残っていて、足の神という顔から旅の無事と足腰の丈夫さを願った。草鞋そのものが、歩くための道具だからだ。
新しい草鞋を一足、石の前へ置く。ここからが供えの段取りになる。片方だけを供える土地もあった。古い草鞋を脱いで置き、新しいほうへ履き替えて出発する形もあって、境で履物を替えるという筋が通っている。
置き方は、爪先を進行方向へ向ける。これから行く方角へ足を向けておくわけで、石へ立てかける場合は鼻緒を上にして台石の脇へ寄せる。
今どき草鞋は手に入らない。土産物の小さな草鞋で代える人もいる。わざわざ買わなくても、これから履く靴の紐を石の前で結び直すだけでよく、形の意味はそちらでも十分に残った。
旅立ちのときに、もう一つ守られてきた決まりがある。境を越えたら振り返らない。集落の出口の石を過ぎたら、後ろを見ずに歩いていく。
これは黄泉の話と、まっすぐつながっている。イザナギが見てはならないものを見て、振り返った結果、境のところで追われることになった。境を越える身振りに、あの一段がそのまま重なっている。
見送る側にも決まりがあった。旅人の背中が見えなくなるまで見送るけれど、声はかけないし、石の前で見送ってそこから先へはついて行かない。境の内側が、見送る人の持ち場だった。
新しく祀る、動かす
道祖神を新しく据えたい、あるいは工事で動かさなければならない。そういうときの段取りを書いておくが、個人の判断で勝手に進めるのが一番まずいやり方になる。
はじめにやるのは、地元の氏神の社へ相談することだ。その石を管理しているのが自治会なのか、寺なのか、個人なのかを確かめておく。台帳に載っている文化財なら、市町村の教育委員会にも話を通す。
神職へ頼むのは、清祓という祭祀になる。石を動かす前に行う抜魂の祓いと、据え直したあとの鎮座の祓い。二回に分かれた。社務所へ電話して道祖神の移設で清祓をお願いしたいと伝えれば、それで話は通る。
初穂料は白い封筒へ入れて表に御初穂料と書くが、金額は社によって違うので遠慮せずに尋ねるのがいい。決まっていないと言われたら、一万円前後を目安にする土地が多かった。
祭祀に用意するものも、社へ確認しておく。一般には、米、塩、水、酒、海の物、山の物、野の物。それに榊を一対。神職が一式持参してくれる場合もある。
据える場所は、境という性格を保てるところを選ぶ。村の入口、辻、橋のたもと。道に面して通る人が正面を見られる向きにするので、藪の奥へ押し込んでしまうと石の意味が消えた。
向きの取り方には、いくつかの考え方が並んでいる。道へ正面を向ける。集落の外側へ向けて、外から来るものと向かい合わせる。南か東へ向ける。どの流儀も、それぞれの土地にあった。
決められないときは、もとの向きを踏襲するのが無難だ。石を動かす前に方位磁石で測って四方から写真を撮り、台石の据え方も元の状態を記録しておけばあとで迷わない。
台石は、水平を出すのが肝心になる。砂利を敷いて突き固め、その上へ台石を置いてから、水準器で見ながら前後左右の傾きを潰していく。石本体は台石のほぞ穴へ落とすか、石材用の接着剤で固定した。
据えたあとで清祓をもう一度受け、そこで注連縄を掛け、洗米と酒を供えて、集まった人で拝んだ。工事の関係者と近所の人へ日取りを先に知らせておくと、あとで角が立たない。
新しく彫って据える場合も段取りは変わらず、石屋へ寸法と型を頼み、社へ相談し、清祓を受ける。文字碑なら道祖神の三文字が一番無難で、どの土地でも通った。
苔と注連縄の手入れ
石の掃除は、やりすぎるほうがずっと危ない。正直、手を抜くくらいでいい。古い石は表面が風化して、もろくなっている。強く擦れば、彫りごと削れて二度と戻らない。
金ブラシは使わない。鉄の粉が残って、あとから錆の筋が浮く。たわしも硬い樹脂のものは避けるし、高圧洗浄機は石仏には強すぎて彫りの浅い部分が飛んでしまった。
使っていいのは水と柔らかい刷毛くらいのもので、水をかけて少し置き、柔らかい歯ブラシで彫りの溝を撫でる。それで落ちない苔は、無理に取らない。
洗剤と漂白剤も入れない。石の内部へ染み込んで、あとから白く吹く。酸性のものは石そのものを溶かすし、重曹を勧める記事も見かけるが、古い石仏へ使うのはやめておくほうが無難だった。
苔を全部落とす必要は、そもそもない。苔が付いた状態を含めて、その石の年月が乗っている。落とすのは、彫りの文字が読めなくなっている部分だけで足りる。
掃除の時期は祭りの前と草刈りのときの年二回ほどで、周囲の草を刈り、落ち葉を除け、台石の泥を流す。それだけで、石はずいぶん見違えた。
注連縄は、年に一度替える。掛け替えの時期は、正月飾りを出す暮れの二十八日前後か、小正月の祭りの直後。どちらかに決めて、毎年同じ時期にやる。
古い注連縄は、翌年の火祭りで焼く。それまで保管するなら、雨の当たらない場所へ紙に包んで置いておく。捨てるしかない場合は塩を振って白い紙で包み、燃えるごみとして出すか、神社の古札納所へ持ち込む。
供物は、当日中に下げる。まあ、置きっぱなしにしないということだ。夕方まで置いたら回収した。置きっぱなしにすると烏と獣が寄ってくるし、下げた洗米と酒は家で使って構わない。米は炊いて食べ、酒は料理へ回す。
団子と餅も、下げて食べる。供えて、下ろして、食べる。この一往復までが供物の作法だ。地面へ撒いて帰るのは、供えたことにならない。
翌日の片付け
火祭りの翌朝、もう一度現場へ行く。これを省かない集落が、結局のところ長く続いている。前の晩の高揚がすっかり抜けた状態で、地面をじっくり見る。
残り火の確認が最初になる。藁の下には熾が残っていることもあるので、水をかけて、棒でかき混ぜて、もう一度かける。煙が出なくなるまで繰り返した。
そのあと金属を拾う。だるまの芯に入っていた針金、御札の留め具、熊手の金具。これが地面に残るとあとで草刈り機の刃を壊すので、磁石を紐で吊るして地面を引いていくと早く集まった。
燃え残った竹は、短く切って持ち帰る。青竹は火が通っても芯が残るので、そのまま置いておくと割れた断面が刃物のようになって危ない。
灰は一部を残して均しておくだけでよく、全部さらってしまう必要はなく、残りは雨で流れていく。翌年も同じ場所で焚くなら、灰の跡がそのまま目印になった。
小屋掛けに使った縄は、燃え残りを集めて捨てる。地面へ埋まった縄が翌年の草刈りで刃へ絡むから、この一手間を惜しむと毎年同じ場所で同じ苦労を繰り返すことになる。
火の粉と煤が付いているので、道祖神の石も拭いておく。水をかけて、布で撫でる程度でいい。注連縄が焦げていたら、そこで新しいものへ替えた。
供物の徳利と皿を回収して洗って戻し、借り物があればその日のうちに返しておく。子ども組が集めた銭の残りは、翌年の藁代として自治会へ預ける。
そこまで済ませて、火祭りがようやく終わる。石は元の場所で、また一年、村の入口に座っている。
