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鬼を追う側だった男が、いつのまにか鬼にされた――節分の豆まきと柊鰯の手順

「うちは鬼は外を言わないんです」

節分の前の週に、知り合いの家へ用があって寄った。玄関に豆の袋が置いてあったので、今年も撒くのかと軽い気持ちで聞いてみた。返ってきたのは「うちは鬼は外って言わないんですよ」。

理由は姓だった。名字に鬼の字が入っているから、その家では昔から鬼を追い出す言い方を避けてきたのだという。唱えるのは「福は内、鬼も内」で、子どもの頃から祖父にそう教わってきたらしい。

その家では升も祖父の代から使い続けているそうで、木の角が黒くなるまで毎年出してきたと聞かされた。面は毎年作り直した。

似た話は全国に転がっている。奈良の金峯山寺も「福は内、鬼も内」。役行者が鬼を改心させて弟子にしたという寺の由緒があって、その筋に沿った唱え方が今も続いてきた。埼玉の鬼鎮神社は「福は内、鬼は内、悪魔外」と唱えた。

引っかかるのは、豆を撒く行事そのものが案外新しいこと。手前に長い前史がある。宮中でやっていた追儺という儀式がそれで、そこには鬼を追い立てる役の男が仮面をかぶって登場していた。その男が、のちに鬼のほうへ回される。

疫病の年に、土の牛と一緒に入ってきた

日本側の初出は『続日本紀』。慶雲三年、西暦でいうと七〇六年の十二月晦日の条になる。「天下諸国疫疾、百姓多く死す、始めて土牛を作り大儺す」という短い記述が残された。

その冬は疫病が広がっていた。諸国で死者が続いたので、朝廷は暦の終わりの日に合わせて祓いの手を打つ。土で牛の形をこしらえ、大儺という追い払いの儀式を初めて行ったという筋になる。土牛も大儺も、どちらも中国から渡ってきた作法だった。冬のあいだ溜まった気を追い出して春の気を呼び込むという考え方が、土の牛と鬼払いの両方に通っている。

土牛は都の門ごとに立てられて、冬の気を送り出して春を迎えるための目印として置かれたという筋で説明されてきた。色は門ごとに違う。

中国側では「儺」の字がもっと古くから見える。『論語』にすでに出てくる。年に三度やる時期もあったようで、『隋書』によれば隋の宮廷では春と秋と冬の三回に分けて行われていた。大晦日のひと晩に絞られたのは六朝のころらしい。

大儺の行事が入ってきた当時の日本には、疫病を鬼の姿で捉える考え方そのものがまだ根づいていなかったという見方もある。

日本へ入ってきたときには、大晦日の夜にやる行事という形がすでに固まっていた。だから日本の追儺も、始まりは年の暮れの儀式だった。立春の前日ではない。この食い違いが、五百年ほど経ってから効いてくる。

黄金の四つ目をかぶった男が、内裏を回る

宮中の追儺で主役を務めたのが方相氏という役になる。四角い面に目が四つ並んでいて、その面は金色に塗られていた。上は黒い衣、下は朱の裳。右手に戈、左手に大きな楯を持つ。

熊の皮をかぶったとも伝わる。役を担ったのは大舎人で、行列の先頭で楯を打ち鳴らす仕事だから、体格のいい者が毎年選び出されていた。付き従ったのは子どもたちで、シンシと呼ばれ、赤い頭巾に赤い衣をまとって後ろを歩いた。

面の目が四つあるのは、生者の世界と死者の世界の両方を同時に見通すためだという読み方もある。方相氏は葬列の先導も務めていて、墓穴へ入って四隅を戈で払うという役目まで背負わされていた。

行列は内裏の中をぐるりと歩き回る。方相氏が楯を戈で三度打ち、声を上げる。目に見えない疫鬼を建物の奥から追い立てて、門の外まで押し出していくという段取りになっていた。

同じ場には弓矢を持った者もいた。弓は桃の木を削ったもので、矢は葦の茎。どちらも中国から伝わった祓いの材で、桃が鬼を退けるという考えは『古事記』の黄泉の場面にもつながっている。

矢は実際に放たれた。群臣が桃の弓に葦の矢をつがえ、追い立てられていく方相氏の行く手へ向けて射かけた。この所作が、のちに役の意味をひっくり返す引き金になっていく。

陰陽師が読み上げた、追い出し先の指定

行列と並んで、陰陽師が祭文を読み上げた。この文は『延喜式』の巻八に「儺祭」の条として残っている。読み下しで骨格を追うと、こういう言い回しになる。

「穢はしき疫の鬼の、処々村々に蔵り隠らふるをば」

「千里の外、四方の堺、東の方は陸奥、西の方は遠つ値嘉」

「南の方は土左、北の方は佐渡より彼方の処を、汝等疫の鬼の住処と定め賜ひ行け賜ひて」

続けて「五色の宝物、海山の種々の味物を給ひて、罷け移り往ね」と告げる。意味を今の言葉へ直すと、汚れた疫病の鬼よ、あちこちの里や村に隠れ潜んでいるおまえたちへ告げる、という呼びかけから始まっている。

そのうえで、千里の外、四方の国境の向こう側をおまえたちの住む場所として定めたのだ、と宣言する。東は陸奥、西は遠つ値嘉、南は土左、北は佐渡。そこから先へ移って行け、という追放先の指定だった。

追い払うだけでは終わらない。五色の宝と、海と山の食べ物を持たせている。何も持たせずに叩き出すのではなく、餞別をそろえて送り出すという手順をきちんと踏んでいた。ここが日本らしい手つきだと思う。

疫鬼へ向けて読み上げるのに、追い立てる言葉と贈り物の言葉が同じ文の中に並んでいる。そこがこの祭文のいちばん妙な点になる。祭文は鬼へ直接語りかける形をとっていて、神へ願うのではなく相手と交渉するという珍しい組み立てだった。

遠つ値嘉は今の長崎の五島にあたる。『延喜刑部式』の数え方だと、京から佐渡まで一千三百二十五里、土左までが一千二百二十五里という計算になっていた。千里という数字は実距離というより、遠いの言い換えに近い。要するに人の住む世界の外側という意味で、具体的な土地を指して追い立てていたわけでもない。

追う側が追われる側へひっくり返った

ここからが妙な展開になる。史料を年代順に並べていくと、方相氏の立ち位置がじわじわと入れ替わっていくのが見えてくる。

弘仁十二年に成った『内裏式』では、方相氏は「悪鬼を逐ふ」者だった。追い手としてはっきり書かれている。ところが貞観十三年の『貞観儀式』になると「大儺公」という呼び名に変わり、悪鬼を追うという記述そのものが消えてしまった。

十世紀の『西宮記』まで下ると、方相氏そのものが疫鬼として扱われるようになる。『江家次第』では、方相氏が長橋のほうから矢を射かけられる側の役になっていた。天皇が還御するときには、行き合うことさえ忌まれる存在へ変わっていた。

なぜひっくり返ったのか。研究では、穢れを一身に引き受けた身体として見られるようになったからだと説明されてきた。鬼を集めて運び出す役は、続けているうちに鬼そのものと見分けがつかなくなっていく。儀式の呼び名が「大儺」から「追儺」へ動いたのも、この変化と重なった。

宮中の行事が廃れていく過程で、面をかぶった者が鬼として矢を受けるという形だけが人の記憶に居座る。

唱える言葉の呼び名も三段で動いた。『内裏式』の段階では呪文。『貞観儀式』や『延喜式』になると祭文と呼ばれるようになり、神へ告げる言葉という性格が前へ出てくる。『西宮記』以降は宣命。祈りの文句が、天皇の言葉を読み上げる公文書へと変わっていった。

見えない鬼を追う儀式が、見える鬼を追い出す見世物のほうへ寄っていく。そのほうが誰にでも分かりやすい。今の節分の鬼が赤や青の面をかぶって現れて、豆を当てられて逃げていくのは、この長い寄り道の果てにできた形だ。

寺が受け皿になって、鬼に形がついた

宮中の追儺は、やがて力を失っていく。武家の世になって朝廷の財が細ると、行列を組む人手も面の作り直しも続かなくなった。代わりに行事を引き受けたのが寺になる。

年の初めに罪や穢れを悔いる修二会という法要があって、その締めくくりに鬼を追う所作が組み込まれていった。悔過の法要と鬼追いが一続きになったことで、追儺は寺の年中行事として生き残る。

東大寺の修二会のように、鬼追いを持たずに悔過の法要だけを大きく育てた寺もあって、受け取り方は寺ごとに分かれていた。奈良と京都の寺では、松明の火の粉を浴びると病を免れるという言い伝えが付いて回る。

奈良の興福寺では、いまも二月三日に追儺会をやる。薬師如来の前で悔過の法要を勤め、それが終わってから鬼追いに移り、最後に豆まきへ続いていく流れになっていた。鎌倉のころに鬼追いが一般へ広がり始めたという筋で説明される。

法隆寺にも鬼追式がある。長谷寺の「だだおし」は大きな松明を振り回す荒い行事で、毘沙門天が鬼を追い立てる形をとってきた。寺によって鬼の色も数も違っていて、赤鬼と青鬼と黒鬼の三体を出すところが多い。

興福寺の鬼追いでは松明を持った三体の鬼が堂の内を荒れ回り、最後に毘沙門天が現れて追い払う筋立てになっている。鬼の色は寺で違う。

宮中の追儺が疫病そのものを相手にしていたのに対して、寺の鬼追いは煩悩や罪障を相手にした。追い出す対象が、外から来る災いから人の内側の汚れのほうへずれていった。ずれたぶん、絵としては派手になっていく。堂の中を鬼が走り回り、松明の火の粉が飛び、それを見物する人が集まるという形が寺ごとに育っていった。

豆を打つ作法が出てくるのは室町から

では豆はいつ登場したのか。宮中の追儺の次第には、豆を撒く所作がそもそも入っていない。矛と楯、桃の弓と葦の矢という組み合わせで儀式は組まれていた。豆は別のところから流れ込んでいる。

はっきり確かめられる古い記録が『臥雲日件録』にある。文安四年、一四四七年の十二月二十二日の条になる。翌日が立春だから暮れがたに家ごと部屋ごとに豆を撒いた、と書き留められた。撒きながら「鬼は外、福は内」の四字を唱えた、という意味のことまで記されている。

つまり十五世紀のなかばには、今とほとんど同じ形が出来上がっていた。掛け声の文句まできれいに揃っている。五百年以上ほぼ変わらずに口から口へ渡ってきた言い回しになる。

室町の記録に出てくる撒き方は部屋ごとに回るところまで今と揃っていて、順路の考え方がその時点で固まっていた。江戸のころには、節分の晩に厄年の人が金や豆を辻へ落としていく厄落としの作法も広く行われていた。

撒く物は大豆に限らない。小豆を使う土地もあれば、米や麦や粟をまとめて撒くところ、炭を投げつけるところもあった。五穀のどれかを使うのが下地にあって、大豆が主役に固まったのはもっと後の話になる。

大豆が選ばれた理由には、いくつかの言い分がある。中国の本草の書に、大豆は鬼毒を殺して痛みを止める、という記述があった。豆を「魔滅」と読み替える語呂合わせも古くから使われている。粒が大きくて当たりが強いから、という身も蓋もない説明も聞いた。撒いたあとで拾い集めて食べられる大きさだったから残ったのだ、という現実的な見方もある。

炒った豆を升に山盛りにして神棚へ据える形は、年の暮れに穀物を供えて年神を迎える古い作法とも重なる。

立春の前の日、という決め方が年で動く

節分という語は、もともと季節の分かれ目そのものを指していた。立春、立夏、立秋、立冬。その前日はぜんぶ節分にあたる。年に四回あった。

それが立春の前だけを指すようになったのは、旧暦で立春のころが年の変わり目と重なっていたから。年越しと結びついた節分だけが行事として太く残り、残る三つはだんだん忘れられていった。

四回あった節分のうち立春の前だけが残ったのは、そこが一年の切り替わりとして扱われ続けたからになる。

南北朝のころから追儺と節分が近づき始め、江戸に入って完全にくっついた。年末の鬼やらいと、春の立つ前の日の行事が一本にまとまる。江戸の暦だと節分が十二月に来る年もあって、年越しと節分が同じ月に並んだ。

日付が二月三日で固定されていない理由も、ここにつながっている。立春は太陽の黄経が三百十五度になる瞬間で決まるので、地球の公転と暦のずれがそのまま日付に出てくる。天体の運行で決まる以上、暦の上の日付は年によって動く。

立春の日付が動くのは、地球が太陽を一周する時間が三百六十五日ちょうどではなく、端数が閏日で調整されているから。

二〇二一年の節分は二月二日だった。二〇二五年も二月二日になった。二〇二一年のほうは百二十四年ぶりのずれで、そのときはずいぶん騒がれた記憶がある。未来の日付は軌道の計算による予測しか出せない。だから毎年、暦をきちんと確かめてから支度したほうがいい。

掛け声は土地ごとにぜんぶ違う

「鬼は外、福は内」が標準形だと思われている。実際には社寺ごとに言い方が割れていて、鬼を外へ出さない側にもそれぞれ筋の通った理屈があった。

同じ市の中でも寺と神社で唱え方が食い違うことがあって、どちらに合わせるかで家の中がもめたという話も聞いた。鬼を祀る神社では、鬼は災いを退ける荒神として扱われていて、追い出す対象にはそもそもなっていない。

成田山新勝寺では「鬼は外」を言わない。不動明王の前では鬼さえも改心してしまうのだから追い出す必要がない、という立て方になっている。浅草寺も「鬼は外」を欠き、「千秋万歳、福は内」と唱えた。観音の前に鬼はいない、という説明だった。

池上本門寺は鬼子母神を祀っているので鬼を追い出さない。高幡不動尊、高尾山薬王院、川崎大師、名古屋の大須観音も「福は内」だけを唱える。不動明王や観音を本尊とする寺に、この形がまとまって見られる。

逆に鬼を招き入れる側もある。新宿の稲荷鬼王神社、秩父の三峯神社、奈良の天河神社。天河神社では「鬼は内、福は内」と唱えてきた。千葉の報恩寺に至っては「福は内、鬼も内、鬼の目玉ぶっ飛ばせ」という威勢のいい形になる。

京都の大原神社では「鬼は内、福は外」と唱える。まるごと逆さまだ。山形の鳥海月山両所宮では、鬼の字を姓に持つ世帯への気づかいから、鬼も内と唱える形に改めたという経緯があった。冒頭の知り合いの家の話と同じ筋になる。

姓といえば渡辺姓の扱いが知られている。平安の渡辺綱が酒呑童子を退けたという故事があるので、渡辺の家にはそもそも鬼が寄りつかない。だから豆を撒く必要がない、という言い伝えが各地に残ってきた。九鬼の家中でも「鬼は内」と唱えて主家を立てた。自分の家がどちらの流儀なのかは、年寄りに一度聞いておくと後で迷わずに済む。

焼いた魚の頭を門に刺す、という古い手

豆と並ぶもう一本の柱が柊鰯になる。焼嗅とも書いて、やいかがし、やっかがしと読む土地もある。柊の小枝に焼いた鰯の頭を刺して、門口に立てておく魔除けの道具だ。

門に魚の頭を掛ける習慣そのものは、かなり古くまでさかのぼれる。『土佐日記』の元日の条に「小家の門のしりくべ縄のなよしの頭、柊ら、いかにぞ」という一節がある。十世紀前半に書かれた記述になる。

ただし、ここに出てくる魚は鰯ではない。念のため書いておく。なよしはボラの若い時期の呼び名になる。しりくべ縄はしめ縄のこと。しめ縄に魚の頭と柊を付けていた、という景色が書かれていて、魚種は鰯に限られていなかったと読める。

柊の字は『古事記』にも出てくるほど古い木で、棘のある枝を境に立てて邪を防ぐという使い方は鰯と結びつく前から続いていた。鰯の頭も信心から、ということわざは、この門口の飾りを説明するために後から生まれた言い回しだという見方もある。

鰯とはっきり結びつくのは江戸に入ってから。俳諧の『山の井』は慶安元年、一六四八年の刊で、鰯の頭と柊の枝を鬼の目突きとして門口へ差し出す、という趣旨の句が載っている。井原西鶴の『日本永代蔵』にも「鰯の首・柊をさして」という一節が出てきた。

理屈は二本立てになっている。柊の葉の縁にある棘が鬼の目を突く。鰯を焼いたときの煙と強い匂いが鬼をひるませる。刺すものと臭うもの、性質のまるで違う二つを一つの飾りへ組み合わせた作りになっている。

関西では柊鰯そのものを焼嗅と呼んで、匂いのほうを主役に据えた言い方をしている土地が多かった。

土地によって材料はどんどん入れ替わる。愛媛ではタラノキにトベラや柊、煮干しをくくりつけたものを作って「鬼ぐい」と呼んだ。山口の瀬戸内側では、タラノキや山椒の枝にトベラやすすきを挿す形が伝わっている。

千葉には目籠を逆さにして、鰯の頭と豆の枝、柊やグミを束ねて挿す形がある。静岡の中西部ではこれを「鬼おどし」と呼んだ。山梨では目籠と枝を竹竿の先に立て、籠の目をつぶすと厄が減っていくと言われてきた。岐阜の恵那では割り箸に鰯を刺して籠へ挿す。目の細かい籠を魔除けに使うのは、目の数だけ見張りがいるという考え方から来ている。

恵方巻が生まれてから全国へ出るまで

節分の食べ物として定着した恵方巻は、歴史がかなり浅い。大阪のすし屋の店主が、大正の初めにはもうあったと証言している。今のところ確かめられる最も古い線になる。

大阪の花街で節分に巻き寿司を丸かぶりしたという起源譚もよく語られるが、裏付けになる同時代の記録は見つかっていない。七つの具を入れるのは七福神に掛けた説明で、これも売り方が広まってから後付けで整えられたものになる。

昭和七年、一九三二年に大阪のすし商の組合が「巻壽司と福の神」「節分の日に丸かぶり」と刷った広告のチラシを配った。昭和十五年にも「幸運巻寿司」を掲げた同じ趣旨の広告が出ている。こちらは大阪歴史博物館に現物が残った。

戦後になって、昭和二十四年に組合が戦前の広告を復活させる。昭和四十八年には大阪海苔問屋協同組合がポスターを作り、すし屋の店頭へ貼り出すという売り方を始めた。名前は「幸運巻ずし」。

昭和五十二年、その海苔問屋協同組合が道頓堀で巻き寿司の早食い競争を開いた。これを報道が拾って、一気に知られていく。販売促進のイベントとして始まったものが、そのまま風習の顔をして広がっていった形になる。

小僧寿しが一九八〇年代のなかばから「縁起巻」という名前で展開し、平成元年には広島県のセブン-イレブンの加盟店が店頭で売り始めた。そこから販売エリアが西日本へ、平成十年に全国へ広がっていく。「恵方巻」という呼び名が定着したのもこのころになる。

名前が全国で揃ったのは平成に入ってからで、それ以前は丸かぶり寿司や幸運巻ずしという呼び方が並んでいた。

平成二十九年には、店の従業員が販売ノルマを負わされる問題が表に出た。翌年には農林水産省が、需要に見合った販売をするよう業界団体へ通知を出している。令和元年には食品ロス削減推進法が公布された。行事食の裏側が問われるようになった。恵方巻を買うか作るかを決める前に、食べきれる本数を数えておくくらいで釣り合いは取れる。

ここからが手順――炒り豆を用意する

豆は必ず炒ったものを使う。生の豆は避ける、というのが古くからの決まりになっている。理由として言われてきたのは二つある。

一つは語呂で、炒るが射るに通じる。魔の目を射る、だから魔が滅する、という読み替えの筋になる。もう一つはもっと実際的な話で、生豆を撒くと拾い残したところから芽が出てしまう。拾い切れなかった厄が家の中で芽吹くのは縁起が悪い、という言い方をされてきた。

市販の福豆を買ってくるなら、袋のまま置いておかない。炒った豆を升へ移す。升がなければ三方でもいい。どちらも手元になければ、白い紙を敷いた平たい器で代えても作法は立つ。

升は一合升でも五合升でも構わないが、角がしっかりした木の升のほうが豆をすくい上げる手の動きに合っていた。豆を移すときは、袋から直接あけずに一度皿へ出して、割れた豆や皮だけのものを取り除いてから升へ入れる。塩や砂糖のついた豆菓子は撒かない。

量の目安は、家族それぞれの年の数を足したものに、撒くぶんを上乗せする。四人家族なら二合ほどあれば足りる。足りないより余るほうがいい。余ったぶんは福茶に回せるので無駄にならない。

升に入れたら神棚へ供える。神棚がない家なら、目線より高い棚の上へ白い紙を敷いて、その上に升を置けばいい。南か東を向く位置に据えると収まりがいい。供えておく時間は、節分の朝から夜までというのが基本の形になる。

前の晩から供えておく家もある。時間の長さそのものより、撒くまでのあいだ誰も一度も口をつけないことのほうが大事にされてきた。供えた豆は「福豆」と呼ばれる。撒くときに初めて棚から下ろす。

神棚へ上げるときは、升の正面を自分のほうではなく神棚の側へ向けて据えるという細かい決まりを持つ家もあった。豆は多めに買う。

自分で炒るなら、乾燥大豆を水に浸けずそのまま乾いた鍋へ入れて弱火にかける。木べらで絶えず動かしながら、皮がうっすら割れて香ばしい匂いが立ってくるまで十分ほど。焦がすと苦くなるので火加減は低めに保つ。粗熱が抜けてから升へ移した。

撒く役を決めて、夜まで待つ

撒くのは家長、というのが本来の形だった。家を代表して邪を払う役になる。ただし年男と年女、つまりその年の干支に当たる人が撒く家も多い。厄年にあたる人が撒いて、そのまま厄を落とす形もある。

どれが正しいということはない。正直、決めようがない。家ごとの決め方がそのまま優先される。子どものいる家なら、家長が声を出して子が豆を撒くという割り方でも筋は通っていた。

厄年の人が撒くという形は、豆に厄を移して家の外へ出してしまうという考え方から来ていて、東日本に多く残っている。声を出す役と撒く役を分けると、小さい子でも段取りを崩さずに最後まで付いてこられる。

役を決めたら、鬼の面をかぶる人を立てるかどうかを決める。寺社の鬼追いに倣うなら、面があったほうが小さい子には分かりやすい。ただし宮中の追儺に鬼役はいなかった。面を作らず、見えない鬼へ向けて撒くだけのやり方も古い形として各地に残っている。

撒く時刻は夜。日が落ちてからになる。鬼が動き出すのは丑寅の刻だから夜更けがいい、という言い方をする土地もあった。実際には家族が揃う時刻でかまわないが、明るいうちには撒かない。

始める前に、家じゅうの戸をどの順で開け閉めするかを頭に入れておく。段取りを決めずに始めると、鬼を追い出したつもりで家の奥のほうへ押し込むことになってしまう。順路が肝になる。

奥の部屋から玄関へ、戸を開けて閉める

順路は家の一番奥から始める。玄関から最も遠い部屋に立って、そこから出口のほうへ順に進んでいく。追い立てられた鬼が逃げ場を失って玄関から出ていく、という筋の通し方になる。

二階建てなら上の階の奥から始めて、階段を下りながら順に撒いていくと、家全体の流れが玄関へ向かって一本になる。途中で豆が足りなくなると順路が途切れるので、升のぶんは撒き始める前に多めに用意しておいた。戸を閉める役を別に立てておくと動きが早い。

部屋に入ったら、先にその部屋の窓か戸を開ける。升は胸のあたりで持つ。片手で升を支えて、もう一方の手で豆をすくう。手のひらを上に向けて、下から払い上げるように撒く。上から叩きつけない。

外へ向かって「鬼は外」と唱える。声は二回。一回めで撒いて、二回めでもう一度撒く。撒き終えたら間を置かずに窓を閉める。ここで手間取ると、せっかく出した鬼が戻ってくる、という言い方をされてきた。

閉め切ったら、部屋の内側へ向き直って「福は内」と二回。今度は部屋の中央へ向けて撒く。外へ二回、内へ二回。これで一部屋ぶんが済む。

唱える言葉の全文はこれだけになる。外へ向けて「鬼は外、鬼は外」。戸を閉めてから内へ向けて「福は内、福は内」。土地によっては順が逆で、先に福を招き入れてから鬼を追い出す家もあった。

同じ手順を、奥の部屋から順に繰り返していく。寝室、子ども部屋、居間、台所、風呂場、便所、納戸、廊下。人の出入りがほとんどない部屋も飛ばさない。物置や階段の下まで律儀に回る土地がある。

撒く量は一部屋につき片手にひとつかみで足りるので、部屋数を数えてから升へ入れる量を決めておくと無駄が出ない。順路は紙に書いておく。

最後が玄関になる。玄関の戸を開けて、外へ「鬼は外」を二回。すぐに戸を閉めて、三和土から家の内側へ向けて「福は内」を二回。これで家じゅうをひと通り回ったことになる。

集合住宅で外へ撒けない場合は、袋入りの豆を袋ごと撒くという手がある。玄関の外へ落とさず、内側の三和土へ撒いておいて、あとでまとめて拾う。声だけ外へ向ける形でも作法としては立つ。

年の数だけ食べる、その数え方でもめる

撒き終わったら豆を食べる。年取り豆と呼ぶ。数は自分の年の数だけ。ここで家によって必ず食い違うのが、数え年で取るのか満年齢で取るのかという話になる。

数え年で取る土地が多い。節分が年越しにあたるので、新しい年のぶんを先に取り込んでしまうという理屈になる。満年齢に一つ足して食べる家もあって、これも結局は同じ発想から来ている。

数え年で取る家では、正月を迎えた時点ではなく節分の晩に年を一つ取るという感覚がそのまま残っていた。幼い子には年の数だけでは足りないので、福豆の袋を別に持たせておくという折り合いのつけ方をする家もある。

満年齢ちょうどで止める家もある。どちらが正しいという話ではなく、その家で受け継いできた数え方に従えばいい。迷ったら満年齢に一つ足す形にしておくと、どちらの説にも大きくは外れない。

食べる豆は、撒いた豆ではなく升に残しておいたぶんを使う。床に落ちた豆を拾って食べる土地もあるが、衛生のことを考えると分けておくほうが扱いやすい。撒く前に食べるぶんを別皿へ取り分けておいた。

一度で年の数の豆を握り取れると良いことがある、という言い伝えを持つ地域もある。年のぶんを片手で掴んでみて、数がぴたりと合えばその年は運がいい、という遊びに近い形で伝わってきた。

食べきれない豆は福茶にする

年を重ねると、豆の数が現実的でなくなってくる。六十を過ぎて六十一粒を噛み下すのは、歯にも腹にもけっこうこたえる。そこで昔から使われてきたのが福茶。豆を三粒だけ飲み下して、数のぶんを済ませたことにする作法になる。

作り方は簡単。湯呑みに炒った福豆を三粒入れる。塩昆布をひとつまみ、または結び昆布を一つ。種を抜いた梅干しを一粒。ここへ熱い湯を百八十ミリリットルほど注ぐ。

煎茶を注いでもいい。茶を使うなら、葉を急須できちんと淹れてから湯呑みへ注ぐ。豆と昆布と梅を先に入れておいて、あとから湯を注ぐという順をきちんと守る。具を後入れにすると香りが立たない。

湯を注いだあと少し置いて、梅の酸と昆布の塩気が湯へ移ってから飲むと、豆の香ばしさまでまとめて口へ入ってくる。残った豆と昆布も最後に噛んで食べきる。梅は種を抜く。

豆が三粒なのは、三が縁起のいい数とされてきたから。昆布は喜ぶの語呂に掛かり、そこへ松竹梅の梅を添えるという組み立てになっている。豆はまめに働くにも掛かっていて、言葉遊びが幾重にも重なった一杯になる。

昆布は結んだものを使うほうが見栄えがよく、飲み終わったあとで解いて食べるところまでが一続きの作法になっていた。

福茶のもとは正月の大福茶。京の六波羅蜜寺では、空也上人が疫病の流行に際して茶を振る舞ったという伝えがある。村上天皇がこれを服したことから「王服」と呼ばれ、のちに皇服茶、大福茶と書き表すようになったという。六波羅蜜寺では今も正月に、梅干しと結び昆布を入れた茶を授けている。

節分の福茶はこの正月の作法を借りた形になる。豆を無理に噛まずに済ませる工夫として、年配の家ではむしろこちらが本筋になっているところも多かった。

柊鰯を作る――枝の採り方から刺し方まで

用意するのは柊の小枝が一本と、鰯の頭が一つ。それだけ。枝の長さは二十センチから三十センチほどが扱いやすい。葉が五枚から七枚ほど付いていれば、飾りとして十分に形になる。

枝を採ったらすぐに水へ挿して、刺す直前まで葉を張らせておくと、飾ったあとも数日は緑が保たれた。

柊は庭木としてよく植わっている。自宅の庭か、断りを入れたうえで知り合いの庭から採らせてもらう。公園や社寺の木を勝手に折らない。手に入らなければ、節分の時期に花屋が束にして店先へ出している。枝を切るときは剪定ばさみで、節のすぐ上を斜めに落とす。

葉の縁の棘はかなり鋭い。軍手をはめて扱う。若い木ほど棘が強く立っていて、樹齢を重ねた古い木になると葉の縁が丸くなってくる。魔除けに使うなら棘のしっかり立った若い枝のほうがいい、という言い方をされてきた。

鰯は丸のまま買ってきて、頭を落とす。えらの後ろへ包丁を入れて、頭だけをきれいに切り離す。身のほうは焼いて食べる。節分に鰯を食べる風習は柊鰯とひと続きのものだから、頭だけ使って身を捨てるのは筋が悪い。

頭は焼く。魚焼きグリルでもいいし、金串に刺して直火にかざしてもいい。塩は振らない。

表面が黒く焦げて、脂が落ちて、鼻にくる強い匂いが立ってくるまでしっかり焼く。煙が出るくらい焼くのが本筋になる。匂いで鬼をひるませる仕掛けなのだから、生焼けでは意味が薄い。

焼いた頭は粗熱を取る。ここからが飾りの段取りだ。熱いうちに刺すと身が崩れて形がまとまらない。

冷めたら柊の枝の太いほうを、鰯の頭の口からえらの切り口へ向けてまっすぐ差し込む。目のほうから刺す土地もあった。串を通すように、枝先が抜け落ちない程度まで押し込む。

枝が細くて頭が抜け落ちそうなら、枝に小さな節を残しておくと途中で引っかかってくれる。麻紐を巻いて軽く縛っても構わない。針金は雨で錆びて汚れが垂れるので、避ける家が多い。

焼いた頭を刺す前に、枝の下のほうの葉を二枚ほど落としておくと、頭を押し込むときに手が刺さらずに済む。鰯の頭が手に入らない季節なら、煮干しを何匹かまとめて縛る土地の形に倣うというやり方もあった。棘は思ったより痛い。

!

図に描いた柊鰯の各部について

この記事に載せた図は、柊鰯を横から見たところを線だけで描いたものになる。ラベルはラテン文字で入れてあるので、どこが何を指しているのかをここで押さえておく。

図の左上へ伸びている棘の付いた葉が柊の枝で、ラベルは Hiiragi。葉の縁のぎざぎざが棘にあたる。ここが鬼の目を突く部分、という扱いになっている。

図の右下、枝の先に付いている魚の頭が鰯の頭で、ラベルは Iwashi Head。口からえらの切り口へ枝が貫いているのが分かるように描いてある。枝が頭を抜けていく向きに注意してほしい。

頭の周りに描いた細い曲線は、焼いたときに立ちのぼる煙と匂いを表している。ラベルは Smoke and Smell。刺す力と臭う力という、性質の違う二つの働きが一つの飾りへ同居しているのが見て取れる。

下に横へ引いた太い線が玄関の戸口で、ラベルは Doorway。その上に小さく Above Eye Level と入れてあるのが、取り付けの高さの目安になる。目線より上へ付ける、という意味だ。

戸口のラベルの脇に Right Side と添えてある。多くの土地では戸口に向かって右側へ付けるけれど、これは絶対の決まりではない。家の作りや戸の開き方によって、左へ付ける土地もあった。

枝の中ほどから下へ出ている短い線は、紐で結んで吊るす場合の掛け方を示したもの。ラベルは Tie。釘を打てない戸口なら、ここへ麻紐を回して掛ける形になる。

門のどこに付けて、いつ外すか

付ける場所は玄関の外側。門があれば門の脇になる。戸口に向かって右側へ立てる形が多い。鰯の頭が外を向くようにする。内へ向けてしまうと意味がまるごと逆になる。

高さは目線より上。手を伸ばせばぎりぎり届くくらいの位置がいい。低いところへ付けると猫やカラスに持っていかれる。実際、夜のうちに猫に取られてそれきり、という家の話は毎年のように聞く。

付け方は三通りある。戸口の脇へ紐で吊るす。玄関先の植木鉢や傘立てへ枝を挿して立てる。門の柱へ麻紐でしっかり括りつける。壁に穴を開けたくない家なら、吊るす形がいちばん扱いやすい。

賃貸の集合住宅なら、玄関の内側の壁へ画鋲で吊るすか、下駄箱の上へ小さな皿を置いてそこへ立てる形にしておけば角が立たない。風の通る場所だと枝が揺れて落ちるので、紐は二重に回して結び目を上にしておいた。外す日は決めておく。

付ける時期は土地によって割れている。節分の当日の朝に出して、その日のうちに外してしまう土地。節分から二月いっぱい出しておく土地。小正月の一月十五日から立春まで掛けておく、という形もある。

ひな祭りまで出しておく地域もあれば、翌年の節分が来るまで一年じゅう掛けっぱなしにする家もある。無くなるまで、という言い方をする土地の話も聞いた。猫が持っていくまで、という意味になる。

自分の家に決まりが伝わっていないなら、節分の日に出して二月の末に外す形にしておけば困らない。迷ったら短いほうへ寄せる。魚の頭が腐って匂いが強くなる前に下げてしまうのが、いちばん実際的だ。

外した柊鰯の始末

外したものをそのままごみ箱へ放り込む家もある。ただ、一度は魔除けとして門に立てたものだから、手順を踏んで始末する家のほうが多い。方法はだいたい四つに分かれる。

いちばん手軽なのが塩で清める形になる。白い紙を広げて柊鰯を載せ、粗塩をひとつまみ振りかける。紙で包んで、口をきちんと折り返して閉じる。そのまま可燃ごみへ出す。紙は半紙でも白いコピー用紙でも構わない。

塩を振るときは、包む紙の上で柊鰯の頭のほうから尾のほうへ向けて、三度に分けて軽く振りかける形をとる家が多い。納める先を決められないなら、塩で清めて紙に包む形にしておけば、どの土地の流儀からも大きくは外れない。

二つめが焼く方法。灰になるまで焼いて、その灰を土へ返す。庭のある家向きのやり方になる。都市部で火を使うのは難しいので、これは土地に余裕のある家の形になった。

三つめが埋める方法。玄関先の土へ穴を掘って埋めてしまう。深さは十五センチほど見ておく。犬や猫に掘り返されない場所を選ぶ。庭がなければ、大きめの植木鉢の土へ埋める家もあった。

四つめが社へ納める形。節分のあとにお焚き上げを受け付けている寺社がある。正月飾りと一緒に納められる場合もあるが、受け付けているかどうかは先に電話で確かめておく。黙って置いていくのは迷惑になる。

どの形をとるにしても、外すときに軽く礼をしてから下ろす家が多い。一年ぶんの役目をきちんと終えた道具への扱いになる。手を合わせるところまでやるかどうかは、家ごとの流儀で分かれた。

今年の恵方を自分で出す

恵方はその年の歳徳神がいる方角。毎年動くけれど、動き方には決まった規則がある。西暦の年の下一桁さえ分かれば、暦を引かずに自分で出せる。

歳徳神は年ごとに居場所を移す神で、その年いる方角へ向かって事を始めると障りがないという考え方が下地にある。

方角は四つしかない。東北東、南南東、西南西、北北西。正確には二十四方位でいう甲の方、丙の方、庚の方、壬の方になる。真東より少し北へ振った東北東、というふうに、どれも少しずつ寄った角度を指している。

十干は甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十字で、これが西暦の下一桁と一つずつ対応しているので、暦を引かなくても順に数えれば出せる。恵方を向いて巻き寿司を食べるときは、切らずに一本のまま持って、食べ終わるまで口をきかないという形が定着している。磁石は水平に持つ。

下一桁との対応はこうなる。四と九の年は甲の方で東北東。〇と五の年なら庚の方を向くので西南西になる。二と七の年は壬の方で北北西。一と三と六と八の年は丙の方で南南東になる。

丙の方だけが四つの下一桁を受け持っているので、南南東は十年のうち四回もまわってくる勘定になる。この対応の根拠は十干と方位の組み合わせにあって、西暦の下一桁から十干を割り出す手順になっている。

実際に出してみる。二〇二六年なら下一桁が六だから丙の方で、南南東。二〇二七年は七だから壬の方で、北北西。二〇二八年は八でまた丙の方に戻るので、南南東になる。

方角を確かめるには方位磁石を使う。ただし磁石が指すのは磁北で、地図の上の真北とは数度ずれている。日本では西へ七度ほど振れている土地が多い。厳密に合わせたいなら、そのぶんを見込んで向きを決めることになる。

スマートフォンのコンパスでも足りる。金属の家具や家電のそばだと数値が狂うので、机の上で確かめるのはやめておく。玄関のたたきなど、鉄の少ない場所へ立って測ると安定した。

寺社の節分会へ行くときの持ち物と立ち位置

節分会に行くなら、時間よりかなり早めに出る。大きな寺社の豆まきだと、開始の一時間前にはもう人が固まっている。始まる直前に着いてしまうと、後ろのほうから頭しか見えないまま終わる。

服装は普段着で構わないが、上着は汚れてもいいものを選ぶ。豆の袋が勢いよく飛んでくると、けっこうな力で当たる。帽子はかぶらない。上を向いたときに視界を遮ってしまう。

持ち物として役に立つのが、口の広いエコバッグ。撒かれた福豆を受けるのに使う。手だけで受け止めようとすると、ほとんど取りこぼす。人が密集するので傘は差せない。雨なら雨具を着ていく形になる。

立つ場所は舞台の正面ではなく、少し斜めがいい。正面はいちばん人が濃くなる。まあ、当然ではある。斜めのほうが手を伸ばす余地が残っている。前の人の肩越しに手を出すより、隙間のある側へ回り込むほうが結局は届いた。

拾い方には最低限の線がある。人の手からもぎ取らない。落ちたものは近い人に譲る。子どもの前へ割り込まない。足元に落ちた豆を取ろうとしてしゃがむと将棋倒しの元になるので、周りを確かめてから屈む。

受け取った福豆は、その場で食べずに持ち帰る家が多い。家の神棚へ一度供えてから、あらためて食べる形になる。授与品として福豆の袋を頒けている寺社もあって、こちらは列に並んで受け取る。

福豆の袋の中に当たりの札が入っていて、あとで景品と引き換えられるという仕組みを持つ寺社もあった。年男の行列が本堂へ入る時刻に合わせて場所を取ると、撒き始めまでの待ち時間を短くできる。三脚は持ち込めない。

始まる前に、本堂か拝殿へ参拝しておく。豆まきだけ見て帰るのは据わりが悪い。参拝の作法は普段どおりで、神社なら二拝二拍手一拝、寺なら手を合わせて静かに拝む。

豆まきの前後には護摩が焚かれる寺が多く、参列だけなら受付をせずに堂の外から見ていても構わない。並ぶ列は長い。

撒いたあとの片付けと、拾えなかった豆

撒き終わったら、その晩のうちに拾ってしまう。翌朝に回すと、寝ぼけて踏んで粉々に割れる。箒と塵取りで集めるのが早いが、掃除機で吸ってしまう家もある。吸うのを嫌う人もいるので、家の考え方に合わせる。

拾った豆は食べない。床に落ちたものは厄を吸ったという扱いになる。紙に包んで捨てるか、外の土へ撒いてしまう。鳥が食べにくるのを良しとする土地もあった。

家具の下や隙間に入り込んだ豆は、無理に探し出さなくていい。生の豆でなければ、そこから芽が出ることはない。炒り豆を使う理由のもう半分がここにある。掃除のついでに見つけたときに拾えばいい。

撒いた豆を庭の土へ返す家もあって、鳥が食べに来るのを追わずに見ているという扱い方をしていた。次の年に使う升は、しまう前に日付を書いた紙を一枚入れておくと、何年使ったかが後から分かる。

畳の目へ潜り込んだ豆は、乾いてから箒の先で掻き出す。濡れた雑巾で拭くと皮が貼りついて余計に取りにくくなる。先に乾いた道具で集めて、そのあとで拭くという順にしておく。

升と三方は洗わずに拭く。木の器は水を吸うと反ってしまう。乾いた布で粉と塩気を払って、日陰でしっかり乾かしてからしまう。来年も同じ升を使い続ける家が多い。

神棚へ供えた紙は、豆を下ろしたあとに下げる。白い紙なら畳んで納めておけばいい。次の節分まで取っておく必要はない。柊鰯を下げるときに一緒に始末してしまう家もあった。

鬼の面を使ったなら、破れていなければ取っておく。箱に入れて、湿気の来ない場所へしまい込む。子どもが画用紙で描いた面なら、その年の日付を裏へ書いて残しておく家もあった。来年出してきて並べると、そのまま家の記録になる。升の底に張った紙と面の裏の日付がそろっていれば、その家の節分が何年続いたかを数えられる。

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