- 清水の稲荷講社で手渡された玉と笛
- 帰神より先に鎮魂を積むと決めておく
- 硬く丸い鎮魂石を選び、白い袋に納める
- 目の高さに石を据えて正座する
- 左の指を下にして鎮魂印を組む
- 二拝二拍手してから、半眼で石を見つめる
- いまの大本の鎮魂は、半眼で座って丹田へ息を吸う
- 帰神の場所を選び、前もって祓い清めておく
- 神主、審神者、琴師の三つの席を決める
- 水行ののち、白衣と袴で荒菰に向かい合う
- 祓詞で場を開く
- 神主は両の掌を胸の前で組み、目を閉じる
- 審神者は石笛を三度吹き、笛の音で神主を導く
- 体が揺れだしても、口を切るまで待つ
- 最初に名を問い、ほかの神を問い、隠していることを問う
- 座が崩れたら、大祓をしてから座り直す
- 過去と今と先のことを問い、名乗った格と照らし合わせる
- 懸かり方と三つの呼び分けで、正邪を分ける
- 言葉を受けたら祭りで返し、昇神で送る
- 鎮魂石と石笛をしまい、変わったことは導いた人に伝える
- 帰神の座をひとりで開かず、資格のない者に開かせない
清水の稲荷講社で手渡された玉と笛
明治三十一年(一八九八)の春、丹波の青年が駿河の清水を訪ねた。上田喜三郎、のちの出口王仁三郎だ。迎えたのは稲荷講社を開いていた長沢雄楯(ながさわかつたて)だった。長沢の母の豊子は、本田親徳(ほんだちかあつ)から預かっていた鎮魂の玉と天然の笛を喜三郎に渡した。大本七十年史はそう書き残している。
長沢は神伝秘書や道の大原の写しも添え、鎮魂帰神二科高等得業を証する免状を与えた。
玉と笛。この二つが、鎮魂帰神法の芯になる道具だった。本田の霊学は、魂を身の内に鎮める鎮魂法と、神を人に懸ける帰神術の二本立てで組まれていた。喜三郎は丹波へ帰ると幽斎の修業の場を開き、この行を人に伝えていく。
ここから先は、記録に残った順番どおりに、石の支度から神を帰すまでを追っていく。記録で確かめられない所作は、確かめられないと書く。
帰神より先に鎮魂を積むと決めておく
順番は動かせない。本田の系統では、自分の魂を身の内に据える力がないまま神を懸けるのは危ない、と見ていた。だから稽古は鎮魂の行だけを日を重ねて続けるところから始まる。帰神の座に就くのは、その先の話だ。
本田は帰神を三つの型に分けていた。自分の力で神界へ向かうのが自感法、審神者がついて外から導くのが他感法、神のほうから思いがけず懸かってくるのが神感法だ。さらに上中下の段や有形無形の別を立てて、全部で三十六法に数えたと伝わる。安政三年(一八五六)に、神懸りに三十六の法があると悟ったという。
神感法は、神のほうから来るもの。狙って組める型ではない。思いがけず懸かってくる型まで一つに数えて名前をつけたところに、本田の分け方の細かさがよく出ている。
この三つのうち、帰神の稽古として組むのは他感法になる。審神者が場を握って懸かったものを問いただせるうえ、神主が我を失っても外から止められるからだ。ひとりで籠もる自感法には、懸かったものを確かめる人がいない。だから稽古でひとりの帰神は選ばない。
審神者のいない懸かり。これがいちばん危うい形だった。懸かったものが何を名乗っても、それを問いただす人がその場にいないことになるからだ。
在家の人が自分の家でやれるのは、鎮魂の行までと思っておいたほうがいい。帰神は、審神者を務められる人がそろった場で初めて開くものだった。
硬く丸い鎮魂石を選び、白い袋に納める
鎮魂の行の芯になるのが鎮魂石だ。長沢の母が喜三郎に渡した鎮魂の玉も、これにあたる。本田から長沢の家へ、長沢の家から喜三郎へと、人の手から手へ渡されてきた石だった。
石の選び方は、流派の口伝として伝わっている。硬く、丸く、黒い石を選ぶ、という伝えだ。手に入れたら一週間ほど神前で祈念してから、白い羽二重の袋に納めておく、と説く行者もいた。寸法や重さまで書いた公刊の記録は、見つからなかった。
選ぶ場所についても決まりは確かめられない。拾うのか、授かるのか。本田の玉は、長沢の家を経て喜三郎へ手渡された。記録ではっきり追えるのは、この手渡しの道筋だ。
目の高さに石を据えて正座する
行の場所は、石を祈念した神前を使う、と伝わる。石は白羽二重の袋に入れたまま、天井から正座した自分の目の高さに吊るす、と伝えられる。見上げもせず見下ろしもせず、まっすぐ前に石があるように整える。
石と自分の間の距離を何尺と決めた記録は、手元の資料では確かめられなかった。座り方は正座。石を目の高さに合わせる伝えそのものが、正座した姿勢を前提にしている。
服は、帰神の研究会の記録にある白衣と袴が一つの目安になる。鎮魂だけの稽古で必ず白衣を着たかどうかまでは、記録からは分からない。
左の指を下にして鎮魂印を組む
座ったら手を組む。大本の公式の案内が示す鎮魂の組み手は、こうだ。手の甲を合わせるようにして、左手の小指と薬指の間に右の小指を入れ、薬指、中指も順に重ねる。右の中指、薬指、小指を折り曲げ、それを包むように左の三本を折り曲げる。人差し指は曲げず、左右の腹どうしを合わせて立てる。
親指は、折り曲げた指の上に右の親指を重ね、その上に左の親指をのせる。組んだ手はみぞおちのあたりに構え、体からこぶし一つ分あけて、軽くひじを張る。これで印は整った。
本田系の伝えでは、三本の指を左を下にして掌の中に組み、人差し指を伸ばして合わせ、左の親指を右の上に載せるとされる。左の親指が上に来て、人差し指の腹を合わせるところは、どちらの形も同じだ。
二拝二拍手してから、半眼で石を見つめる
本田系の伝えでは、正座して印を結び、神前へ二拝二拍手する。そのうえで目を半ば閉じ、半眼で石を見つめる。わが霊魂が鎮魂石に鎮まる、と強く数回念じるという。
石に心を預けているうちに、あちこちへ散っていた思いがほどけて、一つにまとまっていく。これを日を重ねてくり返し、魂をしっかり身の内に据えるのが鎮魂の行だった。一回で何分見つめるか、一日に何度座るかは、系統によってまちまちで、公刊された資料からは決まった数を確かめられなかった。
呼吸についても同じだ。何拍吸って何拍止めるといった数を、本田や長沢の記録として確かめることはできなかった。だから呼吸の数はここに書かない。
本田系の行者のなかには、石が光って見えるようになれば一段進んだしるしだ、と説く人もいたらしい。この辺は流派ごとの口伝で、細部はまちまちだ。
いまの大本の鎮魂は、半眼で座って丹田へ息を吸う
石を置かないやり方もある。大本の公式の案内では、目は半眼で一メートルほど先の下のほうに置き、閉じてもかまわない。座るときは左足の親指の上に右の親指を乗せ、膝は片膝分ほどあけて背筋を伸ばす。息は鼻から静かに深く臍下丹田へ吸い込み、口から静かに吐く。
大本はのちに帰神のやり方を改め、いまの鎮魂は、あちこちへ向いた魂を一点に落ち着かせる行として案内されている。自分ひとりで帰神を試すより、こうした講座の鎮魂に座るのが、在家の人にとってはいちばん確かな入り口になる。申し込みの手順や費用は、講座を開いている団体の案内でその都度確かめてほしい。
大本の案内が添えている注意は、気分が悪くなったら組み手を解いてすぐにやめる、というものだ。行のあとで何か変わったことが起きたら、自分ひとりで判じず、指導する人に相談する。
帰神の場所を選び、前もって祓い清めておく
ここからは帰神の座の話になる。記録に残るやり方を並べておくので、自分で開く手引きとしてでなく、どう組まれていたかを知るつもりで読んでほしい。
場所選びから流派の違いが出る。山か、町か。本田と王仁三郎とでは、帰神の座を置く場所の考え方がはっきり分かれていた。本田や長沢は、山深い谷や奥まった神社を修行の地に選んだ。王仁三郎はこれを改めて、神界から定められた所なら人家の建てこんだ町なかでもかまわない、とした。
どちらの流儀でも、使う部屋や庭は前もって祓い清めておく。清めの細かな次第まで書いた記録は、確かめられなかった。
日取りは前もって決める。日本書紀の神功皇后は、吉日を選んでから小山田邑の斎宮に入り、みずから神主になった。仲哀天皇九年三月一日のことと書紀は記している。
神主、審神者、琴師の三つの席を決める
人は三人そろえるのが古い形だ。懸かる神主、問う審神者、神を呼ぶ琴師。書紀の場面では、神主が皇后、琴が武内宿禰、審神者が中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)と、三つの席がそれぞれ別の人で埋まっていた。古事記では天皇自身が琴を弾き、建内宿禰が沙庭に座って神の言葉を請うている。
ここで言う神主は、神社の神職の意味とは違う。神に懸かられる側の席の名前だ。近代の帰神では琴師を置かず、審神者が石笛を吹いて呼ぶ役も兼ねている。だから実際には、神主と審神者の二人で座が組まれることが多かった。
呼ぶ役と問う役は、時代によって混ざることもあった。平安時代の政事要略には、いまは琴を弾く者を佐爾波と呼び、もっぱら神遊びに仕える、という一文がある。王朝のころには、琴師と審神者の境目がぼやけていたらしい。
神主に選ぶ人には年ごろの目安もあった。喜三郎の研究会の記録を見ると、女子なら十二から十五、男子なら十五、六がよいという。神主には年若い者を立てる、という考え方だった。
審神者のほうは、年より学問と経験で選ぶ。本田の法で審神者に求められたのは、神主の有様を見届け、制御し、問答して査定することだった。この役が務まる人がいなければ、座は開かない。
水行ののち、白衣と袴で荒菰に向かい合う
当日は水で体を清めるところから始まる。大本七十年史によると、修行する者は水行で身を清め、白衣と袴をつけた。冷たい水をかぶってから着替える。
敷物は荒菰(あらごも)だ。その上に審神者と神主が向かい合って座る。水と白衣と荒菰。道具立ては驚くほど少ない。
あとは審神者の手元に石笛が一つ。それで座は組めた。喜三郎の研究会の帰神は、祭壇を大きく飾るより、人の組み合わせと場の清めのほうに手間をかけていたわけだ。
琴を使う場合の置き方は、書紀に一つだけ手がかりがある。皇后は千繒高繒(ちはたたかはた)、つまり山ほどの織物を琴の頭と尾に置いてから、神に請うた。琴は飾りでなく、神を招く道具として扱われていたわけだ。
祓詞で場を開く
場を開くときに何を唱えたかは、系統ごとに違っていた。社ごとの祭詞のように決まった原文のないものを、ここで作るわけにはいかない。そこで、神社の神事で最初に読まれ、原文が定まっている祓詞を挙げておく。
一節目の原文は「掛けまくも畏き伊邪那岐大神」。読みは「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ」。口にするのも畏れ多い伊邪那岐の大神よ、という呼びかけだ。
二節目は「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等」。読みは「つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに、みそぎはらえたまいしときに、なりませるはらえどのおおかみたち」。大神が日向の橘の小戸で禊をしたとき生まれた祓いの神々よ、という意味になる。
三節目は「諸々の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと恐み恐みも白す」。読みは「もろもろのまがごとつみけがれあらむをば、はらえたまいきよめたまえともうすことを、きこしめせと、かしこみかしこみももうす」。災いや罪や穢れがあれば祓い清めてください、と申し上げるのをお聞きください、と畏んで申す結びだ。
短く済ませるなら略拝詞がある。原文は「祓へ給へ清め給へ神ながら守り給へ幸へ給へ」。読みは「はらえたまえきよめたまえかむながらまもりたまえさきわえたまえ」。祓い清めてください、神の御心のままにお守りください、幸いをお与えください、という意味だ。
神主は両の掌を胸の前で組み、目を閉じる
場が整ったら、神主は目を閉じて手を組む。大本七十年史の記録では、神主は両の掌を胸の前で組んで目を閉じた。これが喜三郎の研究会の形だった。
本田系には、帰神のための印も伝わっている。中指と親指で輪を作り、左右の輪をくぐらせて、親指どうしを触れ合わせる形だ。そのうえで、わが霊魂は天之御中主神の御許に至る、と三度黙念するという伝えもある。
どちらの形を採るかは、系統によって違った。七十年史の記録は掌を組む形、本田系の伝えは輪をくぐらせる印。形は違っても、神主が目を閉じて審神者の笛を待つ点は変わらない。
審神者は石笛を三度吹き、笛の音で神主を導く
審神者が石笛(いわぶえ)を取る。音で呼ぶ段だ。天然の笛とは、この石笛のことだ。自然に穴のあいた石を用い、その穴の縁に唇を当てて息を吹きこむ。鳴るのは細く鋭い音で、人の手で削った笛と違い、天がこしらえた穴だというところに重みを置く見方がある。
吹き方の順は、審神者がまず二拍手して正しい神の懸かりを祈り、石笛を三度吹いて自分の心身を清める、と伝わる。大本七十年史は、審神者が天然笛を吹いて、神と人が感じ合うように導いたと書く。書紀の琴と同じく、音は神を呼ぶ合図だった。
琴師を置く古い形なら、琴を弾いて呼ぶ役は琴師に任せ、審神者は問うことに専念する。古事記の場面では、天皇が琴を押しやって弾くのをやめ、ほどなく音が途切れたとき、天皇はもう息絶えていた。琴を途中で止めることを重く見た話として読める。
体が揺れだしても、口を切るまで待つ
しばらくすると神主の体が動きだす。ここで慌てない。手が震え、肩が揺れ、座ったまま跳ね上がることもあった。本田系ではこれを、体を切ると呼んだという。
揺れがおさまって声が出てきたら、口を切る段に入る。ここからが審神者の本番だ。懸かったものが勝手にしゃべりだしても、問いを立てるのはあくまで審神者のほう。書紀の中臣烏賊津使主も、最初から最後まで問う側に座り続けていた。
答えがすぐに来るとも限らない。書紀では、名乗りが出るまで七日七夜。声は返ってこなかった。
そのあいだ神主と審神者は、それぞれの座に就き続けていたと読める。急かさずに待つ。これも審神者の仕事のうちだった。一晩で名乗らないからといって座を崩さず、七日七夜でも同じ座に就いて待ち続けたのが書紀の審神者だ。
最初に名を問い、ほかの神を問い、隠していることを問う
問いの順番は、中臣烏賊津使主がひな形になる。名、ほかの神、隠していること。この三段だ。
最初の問いの原文は「先日教天皇者誰神也、願欲知其名」。読みは「さきのひにすめらみことにおしえたまいしはいずれのかみぞ、ねがわくはそのみなをしらむ」。先日天皇に教えを下したのはどの神なのか、その名を知りたい、という意味になる。古事記の建内宿禰も、二度目の沙庭で真っ先に御名を尋ねていた。
名乗りが出ても、審神者は手を止めない。この神のほかにまだ神はいるか、と重ねて問う。書紀ではそのたびに別の神が名乗り、事代主神の名まで出たあと、いるかいないか分からない、と返ってきた。
ここで引かない。審神者は一段強く押す。原文は「今不答而更後有言乎」。読みは「いまこたえずして、さらにのちにいうことありや」。いま答えないで、あとになって言い出すことはないのか、という詰め方だ。
すると日向国の橘の小門の水底にいる、表筒男・中筒男・底筒男の神が名乗り出た。もういないかと問えば、また分からないという答え。そこで神は黙り、問答は閉じた。一度の名乗りで決めず、問いを重ねて全体をあぶり出す。この粘りが審神者の手本になった。
座が崩れたら、大祓をしてから座り直す
途中で座が崩れたときの手当ては、古事記に一つの前例がある。筑紫の訶志比宮(かしひのみや)で、懸かった神の言葉を仲哀天皇が疑い、琴を押しやった。その晩のうちに琴の音が途切れ、火をともして見ると天皇は息絶えていた。
残された者たちは、そのまま問いを続けていない。生剥、逆剥、溝埋、屎戸など、国じゅうの罪を種類ごとに求め集めて、大祓をおこなっている。座を開き直すのは、祓いが済んでからだった。
そのあと建内宿禰がもう一度沙庭に座り、今度は真っ先に、教えを下す大神の名を尋ねた。返ってきたのは、天照大神の御心であり、底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神である、という答えだ。
崩れたら、祓ってから座り直す。座り直したら、名から問い直す。記録に残る立て直し方は、この順番になっている。懸かった言葉を途中ではねつけることが、どれほど重く見られていたかも分かる話だ。
過去と今と先のことを問い、名乗った格と照らし合わせる
本田の系統では、名を聞いたあとさらに踏みこむ。過去のこと、いまのこと、これから先のことを尋ね、その神がどんな功業を立ててきたかを聞く。答えに筋が通っているか、名乗った神の格にふさわしいかを、審神者は自分の知識と照らして判じていく。
だから審神者には学問が欠かせない。問う側も試されるわけだ。古典の読みこみ。これが審神者の支度だった。本田は国学と古典を読みこんでいたし、長沢は本田に詰め寄った問いをことごとく論破されて門人になった、と伝わる。
照らし合わせの物差しは古典になる。懸かったものが大きな神の名を名乗っても、古典にある神の働きと話が噛み合わなければ疑ってかかる。名前が立派でも、答えがちぐはぐなら上の段には置かない。
懸かり方と三つの呼び分けで、正邪を分ける
見るのは言葉だけでない。本田流では、懸かる神を正と邪に分け、さらに上中下の段に分けて数えた、と伝わる。懸かり方も、その見分けの材料になる。名は立派でも、ふるまいが荒い。そういう食い違いに目を配るのも審神者の役になる。
喜三郎の研究会でも、とかく邪神界と感合する者が多かった、と七十年史は書く。体が大きく揺れたり、口を切って騒ぎだしたりする者も出た。喜三郎はそれを一人ずつ審神して、正しいものと邪なものを分けていったという。
王仁三郎は後年、霊界物語などで帰神、神懸、神憑を分けて説いた。帰神は、人の霊が大元の神に向かい、直に神の働きを受けて和合する状態。神懸は、神に照らされて知恵を得た天人が降り、神界の消息を人の世に伝えるものだ。
神憑だけは性質が違う。外から肉体に入りこみ、罪と偽りをなす邪霊のしわざだという。偽の予言者や贋の救世主はみなこれに当たる、と王仁三郎は言い切った。大げさな予言を並べたり、自分こそ救いの主だと言いだしたりするものは、この神憑の側に数える。
本田が神懸りの法を三十六にも分けたことも、懸かったものを一色に見ない構えの表れと読める。上中下の段があるなら、懸かりの深さにも浅さにも幅があるはずだ。
言葉を受けたら祭りで返し、昇神で送る
呼んだものは帰す。これが鉄則だ。呼びっぱなしは禁物。書紀の問答は、神がもう何も言わなくなったところで閉じ、皇后たちは受けた言葉のとおりに神を祭った。言葉を受けたら祭りで返す、という順番になっていた。
帰神の座で唱える送りの言葉は、系統ごとの口伝に属している。公刊された資料では原文が確かめられないので、ここで文言を作ることはしない。神社の祭りなら、降神の儀で迎え、神饌と祝詞をささげ、昇神の儀で神を元の座へ送る流れがおおむね共通している。神職が警蹕(けいひつ)の声を低く長く引き、その声に乗せて送るのが昇神だった。
神主がふだんの受け答えに戻るまでが、審神者の見届けの内に入る。見届け、制御し、問答して査定するという本田の言う務めは、懸かりが解けたところでようやく終わる。懸かりが解けないうちに審神者が席を外すわけにはいかない。
鎮魂石と石笛をしまい、変わったことは導いた人に伝える
座が終わったら、道具を片づける。鎮魂石は白羽二重の袋に入れたまま使う、という伝えがあるだけで、行のあとのしまい方を定めた記録は見つからなかった。石笛のしまい方まで書いた記録も無い。
本田から長沢の家へ、長沢の家から喜三郎へと、石笛と玉は捨てられずに人から人へ手渡しされてきた。道具は次の行者へ渡すもの、という扱いがここから読み取れる。処分の作法そのものを定めた記録は、確かめられなかった。
行のあとで何か変わったことが起きたら、ひとりで判じず、座を導いた人に伝える。大本の案内も、気分が悪くなったら組み手を解いてすぐやめるよう添えている。帰神の座なら、なおさら審神者に伝えることになる。
帰神の座をひとりで開かず、資格のない者に開かせない
戒めも記録に残っている。大正に入ると綾部の大本では金竜殿で講話と幽斎の修業が毎日おこなわれ、修業に来る人は多い時期で毎日二百人内外にのぼった、と七十年史は書く。海軍機関学校の英語教官を辞めて大正五年に入信した浅野和三郎が、主に審神者を務めたという。数年で一万から二万人を扱ったとも伝わる。審神者の受け持ちとしては、明らかに多すぎる数だ。
広がりすぎた帰神に、教団みずから枠をはめた。大正八年(一九一九)三月、大本は支部長と会合所長の会議で決まりを作る。鎮魂帰神は、支部長か会合所長、もしくはその代理の者でなければおこなわせない。会長が特に認めた者だけが例外だった。
同じ年の五月十日には、京都府の警察が王仁三郎を呼び出して最初の警告を出した。鎮魂帰神について、実害がさらにひどいようなら法令のもとで断然処分をおこなう、という一項が入っている。大正十年の第一次大本事件のあと、長沢雄楯は裁判所に頼まれて、鎮魂帰神の原理や憑霊の有無について鑑定書と意見書を出している。
翌大正九年の五月、大本は施術する者が霊を注いで気合をかけるやり方をやめ、静かに座って目を閉じさせる形に改めた、と七十年史は書く。本田の霊学を論じる人たちのあいだでも、審神者の質はくり返し問題にされてきた。審神者が弱いと、懸かった側が自分を大きな神だと思いこむ自我の肥大へつながる、という指摘だ。
記録から引ける戒めは、結局ここに行き着く。だから守ることは二つ。帰神の座をひとりで開かない。審神者を務められる人がいない座には就かない。正直、これが記録から読み取れるいちばん確かな作法かもしれない。
