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青い輪を三度くぐる六月の晦日――蘇民将来から大祓詞まで

去年の六月、知り合いから写真が送られてきた。近所の鳥居の下に、人の背丈より大きい草の輪が据えられている。「これ、どっちから入るの」。質問はそれだけだった。

短く答えられる話ではなかった。順路も唱え詞も社によって違うし、そのうえ輪の始まりは人がくぐる物ですらなかったからだ。

もとは腰に下げる小さな輪。そこから話が思わぬ方へ転がっていく。

茅の輪と夏越の祓について、出どころと当日の手順を一度に並べてみる。唱える言葉は途中で切らず、全文をそのまま置く。

宿を貸した兄と、断った弟

話の芯にあるのが蘇民将来の説話で、出どころは『備後国風土記』の逸文にあたる。本体そのものは早くに散逸し、鎌倉期の『釈日本紀』に引かれた一節だけが伝わった。

冒頭はこう始まる。備後国の風土記に曰く、疫隈の国社、昔、北の海に坐しし武塔神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。

その土地に将来という兄弟が住んでいて、弟の将来は蔵を百も持つ長者だった。兄の蘇民将来の方はひどく貧しく、客に出す物さえ満足に無かった。

日が暮れて宿を乞うた武塔神を、弟はにべもなく断る。兄は粟の座を出し、粟の飯で客をもてなした。家は貧しいままだったが、もてなしだけは尽くされている。

何年か経って、武塔神が八柱の子を連れて戻ってきた。報いをするぞ、と神は言う。お前の子孫はこの家にいるか、と問われて蘇民は答える。娘と妻がおります。

そこで神が命じたのが茅の輪だった。茅の輪を以ちて腰の上に着けしめよ。その夜のうちに、輪を着けた者を残して周囲は滅ぼされている。

神は最後に名乗った。吾は速須佐雄能神なり。後の世に疫気あらば、蘇民将来の子孫と言ひて茅の輪を腰に着けたる人は免れなむ。

ここで押さえておきたいのが、助かった人数の少なさだ。素朴な要約だと兄の一族が丸ごと救われたように読めるが、原文では娘ひとりを置いて皆ことごとく殺し滅ぼした、と書かれている。蘇民本人すら残らなかった。

救いの話ではない。貧しい家の粟飯と、門前払いを食わせた蔵百軒。話の骨はこの対比。かなり厳しい話だった。それでも人はこの名を札に書き、門や軒に掛けて疫病の季節をやり過ごしてきた。

腰に下げる小さい輪だった

原文を読めば分かる通り、茅の輪はもともと腰に着ける物として出てくる。直径にして十数センチ、首に掛ける形も各地にあった。

疫病の季節に身に着ける標。それが本来の姿で、くぐるという動作は説話のどこにも書かれていない。

茅はチガヤを指す。イネ科の多年草で、初夏に白い穂を出し、田の畦や川べりに群れて生える。刈るのに道具もいらず、子供の手でも束にできる草だった。

どこにでもある草を神が名指しした。そこが効いている。特別な木でも珍しい石でもなく、足元に生えている草が選ばれたわけだ。

武塔神は途中から牛頭天王と重なっていく。十四世紀末の陰陽道書『ホキ内伝』あたりで、祇園社の祭神と蘇民の物語ががっちり結び付いた。疫神でありながら疫を防ぐ神でもある、その両面が祇園信仰の核に座った。

朱雀門の前に百官が並ぶ

もう一本の流れが大祓だ。こちらは宮中の行事として律令の制度に乗っている。

『日本書紀』天武天皇五年の条に、国造や郡司から馬や布や麻を出させて大解除を行ったという記事が見える。六七六年のこと。制度としての整備はもう少し後になった。

大宝元年の『大宝律令』で、大祓が年中行事として正式に据えられる。七〇一年のことで、施行の細目は『延喜式』に落ちている。

場所は朱雀門の前だった。親王、諸王、諸臣、百官の男女がずらりと並ぶ。中臣氏が祝詞を読み上げ、東西の文部が祓の刀を奉り、卜部が解除を担った。

日取りは六月の晦日と十二月の晦日。半年ずつで区切り、そのあいだに溜まった罪と穢を落とす。溜まる物として扱うのが古い発想だった。

罪は心の後ろめたさに限らない。意図せず触れた穢れも、病も、災いも、ひとまとめに祓の対象へ入れてしまう。落とせる物、流せる物として扱った点が面白い。

天皇には祓の刀と人形が奉られた。祓の刀と人形と祝詞。道具立ては千年ほとんど動いていない。息を吹きかけて自分の災いを移す段取りで、これがいま神社で配られる形代の原型になった。

祓が神社の外へ出ていく

六月晦の大祓祝詞は、のちに中臣祓と呼ばれるようになる。読み上げる役が中臣氏だったので、その名で通った。

平安中期以降、この祝詞は宮中の外へ広がっていく。陰陽師が病気平癒や安産の祈りに使い、僧侶もこれを自分の儀礼へ取り込んだ。

六字河臨法のような修法が新しく組まれ、本文の「祓へ給へ」を「祓へ申す」に改める形も出てきた。仏教と陰陽道の語彙で注釈が付けられ、『中臣祓注抄』がその代表格として残る。

鎌倉中期には『中臣祓訓解』が成立した。両部神道の立場から中臣祓を読み解いた書物で、異本に『中臣祓記』がある。

伊勢でも別の動きがあった。十二世紀から神宮の神職が個人の祈願に応じ、中臣祓に手を入れた本文や祓詞を作っていく。これを伊勢流祓と呼び、度会行忠や度会常昌の名が伝わった。

祝詞が宮廷の外へ出た結果、誰でも唱える文句になった。いま神社の大祓式で参列者が一緒に読み上げられるのは、この長い横滑りの後始末にあたる。

宮中の儀式そのものは応仁の乱で途切れた。はっきり言って、そこで一度切れている。朱雀門の前の行列は消え、四百年ほど空白が続いている。

明治四年、明治天皇が宮中三殿の賢所の前庭で大祓を復活させた。翌年の太政官布告で、大宝律令以来の旧儀を再興せよと命が出る。いまの神社の大祓式は、この線の上に乗っている。

輪が人の背丈を越えるまで

宮中で大祓が止まっていたあいだ、民間の方は別の筋で動いていた。六月祓、夏越、名越。呼び方はいくつもあった。

水辺で身を清める風習が各地にあり、そこへ蘇民将来の茅の輪が乗っかる。腰に着けていた輪が、だんだん大きくなっていった。

中世末から近世にかけて、輪は門や参道に立てられる大きさになった。人が身に着けるのではなく、人が通り抜ける物へ変わる。ここで動作がきれいに反転した。

理屈としては筋が通っている。門を通ることは境を越えること。境を越えるときに穢れを落とす発想は、祓の古い形とよく噛み合った。

近世に社寺参詣が庶民へ開かれたのも効いている。大勢が順番に通れる装置として、大きい輪は都合がよかった。江戸期の年中行事を書いた本には、六月晦の茅の輪の記述が繰り返し出てくる。

いま見る茅の輪は、太い竹を四方に立て込み、芯に茅を巻き付けて作る。直径は二メートル前後から、大きい社になると三メートルを超えるものもある。注連縄と紙垂が添えられ、正面から見て結び目が見えないよう職人が気を配った。

社によって形が違うのも面白いところで、大神神社の輪は榊と杉と松を掲げた三連になっている。参拝者は杉、松、杉、榊の順に進む。出雲大社の輪は丸ではなくU字形をしていて、参詣者は縄跳びのように跨いで越えた。

木の駒、注連縄、六角の札

腰の輪が消えたわけではない。形を変えて各地に残り、蘇民将来符と総称される護符になった。

長野県上田市の信濃国分寺、通称八日堂の札がよく知られている。六角柱のこけし型で、頭に色紙を貼り、胴に墨で文字を書く。一月七日と八日の縁日で頒けられ、国の選択無形民俗文化財に選ばれた。

岩手県奥州市の黒石寺では六角柱の吊り下げ型を出し、仙台の陸奥国分寺薬師堂は八角柱の吊り下げ型を出す。山形の笹野観音も八角柱で、神戸の祇園神社は六角柱のこけし型を頒けた。

伊勢と志摩の方はまるで違う姿をしている。注連飾りの形をしていて、木札に「蘇民将来子孫家門」と記す。これを玄関に一年中掛けたままにする家が多く、松下社の伝承と結び付いて広まった。

京都の八坂神社は粽の形を取る。「蘇民将来之子孫也」の札を付けた厄除粽が、祇園祭の期間に出る。七月三十一日の疫神社夏越祭では鳥居に小さな茅の輪が据えられ、参拝者が茅之輪守を受けた。

六角柱、八角柱、注連飾り、粽。文句の書き方も一定ではない。まあ、そういうものだ。「蘇民将来子孫也」「蘇民将来子孫家門」「蘇民将来子孫人也」と、土地ごとに細かく揺れる。

青森の岩木山神社は紙の札を出す。木を削るところも、紙に刷るところもあって、材も形もばらばらだ。共通しているのは名前だけで、蘇民将来という四文字が千年以上も札の上に居座ってきた。

六月三十日という日付のややこしさ

いま夏越の祓といえば六月三十日を指す。ただしこれは新暦の話だ。

もとは旧暦六月の晦日だったので、ここが年ごとに動いてしまう。二〇二六年でいうと旧暦の六月晦日は八月十二日にあたり、ひと月半ほど後ろへずれた。

旧暦の六月末は、梅雨が明けて本格的な暑さに入る頃合いにあたる。疫病と食あたりが増える季節の入り口で、祓の日取りとして理に適っていた。

新暦に置き換えた結果、日本の多くの土地ではまだ梅雨のただ中に茅の輪が立つようになった。季節感と行事が一枚ずれたまま定着している。

社ごとの実施日にもばらつきが出る。六月三十日に大祓式を据える社が最も多いものの、輪の設置は六月二十五日あたりから始めるところが目立つ。混雑を割るための措置だった。

七月にずらす社もある。京都の城南宮は人が通る輪を六月二十五日から三十日まで、車のための輪を七月一日から七日まで立てる。八坂神社の疫神社夏越祭は七月三十一日に据えられた。

広島の素盞嗚神社は八月八日の夜に輪をくぐらせる。愛知の津島神社に至っては一月四日から七日で、冬の茅の輪も現に存在する。

だから日程は社に確かめるのが確実だ。六月三十日に行けば必ずあると思い込んで足を運ぶと、輪が片付いた後だったりする。

三角の菓子が出てくるわけ

京都でこの日に食べるのが水無月という菓子で、白いういろう生地の上に小豆を散らし、三角に切ってある。

由来として語られるのが氷室だ。平安の頃、京都北区の西賀茂あたりに氷を蓄える室があり、冬の氷を夏まで持たせていた。六月一日の氷の節供に、宮中の人々がこれを口にして暑気を払った。

庶民に氷は回ってこない。そこで氷の形を真似た菓子が作られた、という筋書きになる。三角は削り出した氷の角を、白い生地は氷そのものを写した。三角の白い生地に赤い小豆。

上に乗る小豆は赤い。赤は古くから邪気を除ける色として使われてきた。厄除けと暑気払いを一枚に重ねた菓子という説明が、京都では広く通っている。

由来の細部には諸説ある。正直、どれが古い形かは決めにくい。六月三十日に水無月を切って食べる習慣の方は、いまも京都の和菓子屋の店先で確実に見られた。茅の輪をくぐった帰りに買って帰る人が多い。

十二月三十一日にもう一度

夏越の祓には対になる行事がある。十二月晦日の年越の祓だ。

『延喜式』の段階から、六月と十二月の二回で一組という組み立てになっていた。半年ごとに区切って祓うので、片方だけでは形が閉じない。

年越の祓の方は、除夜の行事に呑まれて目立たなくなった。大晦日の夜はほかにやることが多すぎる。それでも神社では十二月三十一日に大祓式を据え、形代を受け付けている。

茅の輪を年越にも立てる社がある。六月に立てた輪と同じ形を、十二月にもう一度据える。青い茅は手に入らないので、枯れ色の茅や藁を使うところもあった。

夏越で受けた輪守りを年越で返し、新しい物を受ける。この半年ごとの入れ替えが、そのまま掛け替えの目安になった。

行く前に決めておくこと

ここから先は当日の話にする。持ち物と段取りを先に片付けておくと、境内で迷わずに済む。

用意する物は多くない。形代を書くための筆記具と、初穂料を入れる封筒か小銭。それだけあれば足りるし、形代そのものは社で配られる。

服装は歩きやすい物がいい。輪をくぐるときに足を上げるので、丈の長いスカートや下駄はどうしても動きにくい。雨の日は玉砂利の上で足元が滑った。

持病や怪我で足が上がらないなら、無理に跨ごうとしなくていい。輪の下を普通に通り抜ける形でも社は咎めない。そこを譲れと言う神職に会ったことがない。

念のため、事前に社の掲示を見ておくと話が早い。多くの社が輪の横に順路と唱え詞の立て札を出している。順路が独自の社では、その立て札が唯一の正解になった。

初穂料の考え方も決めておきたい。形代の初穂料はお気持ちとする社が大半で、金額を出さないところが多い。目安としては一体につき三百円から千円あたりを包む人が多く、家族分をまとめて千円から三千円という例もよく聞く。

金額を明示する社もあるので、その場合は掲示や授与所の案内に従えばいい。迷ったら授与所で直接聞くのが一番早かった。

左、右、左と八の字を描く

茅の輪の前に立つ。まっすぐ正面から向き合う位置に身を置いて、深く一礼する。ここが起点になる。

輪をくぐるときは足を上げて越える。跨ぎ越すのが作法で、茅を踏みつけるのを嫌った。出す足は左からだ。

一度目は左回り。左足から輪に入り、抜けたら左へ回り込む。輪の左側をぐるりと通って正面へ戻り、ここで再び一礼する。

二度目は右回りになる。右足から輪へ入り、抜けたら右へ回る。輪の右側を通って正面へ戻り、また一礼を入れた。

三度目は一度目と同じ動きをなぞる。抜けた先で左へ回り込む半円、そこからまた正面へ戻る半円。左足から入り、左へ回り、正面へ戻って一礼。上から見ると八の字を二回分描いたことになった。

最後に四度目をくぐる。左足から入り、そのまま真っ直ぐ抜けて拝殿へ向かう。数え方としては三度回って四度くぐる形で、回った数と通った数が一つずれる。

くぐり終えたら拝殿で通常の参拝をする。二拝二拍手一拝。輪をくぐった時点で参拝が済んだわけではないので、そこは忘れずに済ませておきたい。

順路が違う社もある。大神神社は杉、松、杉、榊の順に三連の輪を進むし、出雲大社のU字形は跨いで越える。右回りから始める社も実際にあった。

立て札があればそれに従えば間違いない。迷ったら前の人の動きを見ればいい。混雑する社では一回通り抜けるだけに整理されることもあった。

くぐりながら口で転がす歌

くぐる最中に唱える歌があり、これを唱え詞と呼ぶ。声に出しても、口の中だけで転がしても構わない。

一度目、左回りのときに唱えるのが水無月の歌だ。原文は「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」。読みは「みなづきの なごしのはらへする ひとは ちとせのいのち のぶといふなり」となる。

現代の言葉に直すとこうなる。六月の夏越の祓をする人は、千年の寿命が延びるという言い伝えだ。『拾遺和歌集』に載る古い歌で、作者は分かっていない。

二度目、右回りで唱えるのが麻の葉の歌になる。原文は「思ふこと皆尽きねとて麻の葉を切りに切りても祓ひつるかな」。読みは「おもふこと みなつきねとて あさのはを きりにきりても はらひつるかな」。

訳すと、思い悩むことがみな尽きてしまえと願って、麻の葉を切りに切って祓ったことだ、となる。麻は古くから祓の具として使われた草で、「尽き」と「月」を掛けて読む見方もある。

三度目、左回りで唱えるのは蘇民将来の名前そのものだ。「蘇民将来蘇民将来」と二度繰り返す。読みはそのまま「そみんしょうらい そみんしょうらい」でいい。

名前を呼ぶことが標になる。説話の中で神が告げた通り、蘇民将来の子孫だと名乗る形をなぞっている。意味を説明しない、呼ぶだけの唱え詞だった。

四度目に別の歌を置く社もある。「宮川の清き流れに禊せば祈れることの叶はぬはなし」。読みは「みやがはの きよきながれに みそぎせば いのれることの かなはぬはなし」で、清い流れで禊をすればという意味になる。

社によって二首だけのところ、水無月の歌を三回繰り返すところ、唱え詞を掲げないところがある。掲示が正解だと思って構わない。覚えていなくても誰にも咎められなかった。

大祓詞を声に出す

大祓式に参列するなら、大祓詞を一緒に唱えることになる。とにかく長い。初見で読み切るのはなかなかきつかった。

紙が配られる社が多いので、そこは心配しなくていい。それでも一度目を通しておくと、当日の理解がまるで違ってくる。

以下が本文だ。『延喜式』巻八所収の六月晦大祓祝詞を書き下した形で、読みやすいように区切りを入れて置く。

高天原に神留り坐す、皇親神漏岐神漏美の命以ちて、八百万神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて。

我が皇御孫命は、豊葦原水穂国を、安国と平けく知ろし食せと、事依さし奉りき。

此く依さし奉りし国中に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひに掃ひ賜ひて。

語問ひし磐根樹根立、草の片葉をも語止めて、天の磐座放ち、天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、天降し依さし奉りき。

此く依さし奉りし四方の国中と、大倭日高見国を安国と定め奉りて、下つ磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて。

皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて、天の御蔭日の御蔭と隠り坐して、安国と平けく知ろし食さむ国中に成り出でむ。

天の益人等が、過ち犯しけむ種種の罪事は、天つ罪と、畔放ち溝埋み樋放ち頻蒔き串刺し、生剥ぎ逆剥ぎ屎戸、許許太久の罪を天つ罪と法り別けて。

国つ罪と、生膚断ち死膚断ち白人胡久美、己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜犯せる罪。

昆虫の災、高つ神の災、高つ鳥の災、畜仆し蠱物する罪、許許太久の罪出でむ。

此く出でば、天つ宮事以ちて、天つ金木を本打ち切り末打ち断ちて、千座の置座に置き足らはして。

天つ菅麻を本刈り断ち末刈り切りて、八針に取り辟きて、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ。

此く宣らば、天つ神は天の磐門を押し披きて、天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、聞こし食さむ。

国つ神は高山の末短山の末に上り坐して、高山の伊褒理短山の伊褒理を掻き別けて、聞こし食さむ。

此く聞こし食してば、罪と言ふ罪は在らじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く。

朝の御霧夕の御霧を、朝風夕風の吹き払ふ事の如く、大津辺に居る大船を、舳解き放ち艫解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く。

彼方の繁木が本を、焼鎌の敏鎌以ちて打ち掃ふ事の如く、遺る罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を。

高山の末短山の末より、佐久那太理に落ち多岐つ速川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神、大海原に持ち出でなむ。

此く持ち出で往なば、荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開都比売と言ふ神、持ち加加呑みてむ。

此く加加呑みてば、気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神、根国底国に気吹き放ちてむ。

此く気吹き放ちてば、根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神、持ち佐須良ひ失ひてむ。

此く佐須良ひ失ひてば、罪と言ふ罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を、天つ神国つ神、八百万神等共に、聞こし食せと白す。

同じところを仮名で追う

読みを平仮名で置いておく。区切りは原文と揃えた。節を付けて長く引き延ばすのが神職の読み方で、素人は普通の速さで読めばいい。

たかまのはらに かむづまります すめらがむつ かむろぎかむろみのみこともちて やほよろづのかみたちを かむつどへにつどへたまひ かむはかりにはかりたまひて。

あがすめみまのみことは とよあしはらみづほのくにを やすくにとたひらけく しろしめせと ことよさしまつりき。

かくよさしまつりしくぬちに あらぶるかみたちをば かむとはしにとはしたまひ かむはらひにはらひたまひて。

こととひし いはねきねたち くさのかきはをもことやめて あめのいはくらはなち あめのやへぐもを いづのちわきにちわきて あまくだしよさしまつりき。

かくよさしまつりし よものくになかと おほやまとひだかみのくにを やすくにとさだめまつりて したついはねに みやばしらふとしきたて たかまのはらに ちぎたかしりて。

すめみまのみことの みづのみあらかつかへまつりて あめのみかげ ひのみかげとかくりまして やすくにとたひらけく しろしめさむくぬちに なりいでむ。

あめのますひとらが あやまちをかしけむ くさぐさのつみごとは あまつつみと あはなちみぞうめ ひはなちしきまき。

くしさし いきはぎさかはぎくそへ ここだくのつみを あまつつみとのりわけて。

くにつつみと いきはだだちしにはだだち しらひとこくみ おのがははをかせるつみ おのがこをかせるつみ ははとことをかせるつみ ことははとをかせるつみ けものをかせるつみ。

はふむしのわざはひ たかつかみのわざはひ たかつとりのわざはひ けものたふしまじものするつみ ここだくのつみいでむ。

かくいでば あまつみやごともちて あまつかなぎを もとうちきりすゑうちたちて ちくらのおきくらに おきたらはして。

あまつすがそを もとかりたちすゑかりきりて やはりにとりさきて あまつのりとの ふとのりとごとをのれ。

かくのらば あまつかみは あめのいはとをおしひらきて あめのやへぐもを いづのちわきにちわきて きこしめさむ。

くにつかみは たかやまのすゑ ひきやまのすゑにのぼりまして たかやまのいほり ひきやまのいほりをかきわけて きこしめさむ。

かくきこしめしてば つみといふつみはあらじと しなどのかぜの あめのやへぐもをふきはなつことのごとく。

あしたのみぎり ゆふべのみぎりを あさかぜゆふかぜのふきはらふことのごとく おほつべにをるおほふねを へときはなちともときはなちて おほうなばらにおしはなつことのごとく。

をちかたのしげきがもとを やきがまのとがまもちて うちはらふことのごとく のこるつみはあらじと はらへたまひきよめたまふことを。

たかやまのすゑ ひきやまのすゑより さくなだりにおちたぎつ はやかはのせにます せおりつひめといふかみ おほうなばらにもちいでなむ。

かくもちいでいなば あらしほのしほの やほぢのやしほぢのしほの やほあひにます はやあきつひめといふかみ もちかかのみてむ。

かくかかのみてば いぶきどにます いぶきどぬしといふかみ ねのくにそこのくにに いぶきはなちてむ。

かくいぶきはなちてば ねのくにそこのくににます はやさすらひめといふかみ もちさすらひうしなひてむ。

かくさすらひうしなひてば つみといふつみはあらじと はらへたまひきよめたまふことを あまつかみくにつかみ やほよろづのかみたちともに きこしめせとまをす。

いまの言葉に置き直す

訳を並べておく。区切りは先の二つと同じ位置で切ってある。

高天原に鎮まる皇祖の神、カムロギとカムロミの命令によって、八百万の神々を集めに集め、相談に相談を重ねた。

我らが天孫は、豊葦原の瑞穂の国を穏やかな国として治めよ。そう言い渡して送り出している。

任された国の中に、荒ぶる神々がいた。その神々に一柱ずつ問い質し、端から掃き払う。

物を言う岩や木の根や草の葉まで黙らせて、天の岩座を離れ、幾重にも重なる雲を勢いよく押し分けて、天孫を地上へ下した。

任された四方の国のうち、大倭日高見国を穏やかな国と定め、地底の岩盤に宮の柱を太く立て、屋根の千木を空高く組み上げている。

天孫の立派な御殿を造り、日差しを避ける陰として鎮まっていただき、この国が穏やかに治まっていく。そのなかで人が生まれ育っていった。

増えていく人々がうっかり犯してしまう色々な罪がある。田の畔を壊す、溝を埋める、樋を壊す、種を重ねて蒔く、串を刺して他人の田を奪う、家畜の皮を剥ぐ、その剥ぎ方を逆にする、祭の場を汚す。これらをまとめて天つ罪と呼び分けた。

国つ罪と呼ぶのはこちらだ。生きた人の肌を傷付ける、死者の肌を傷付ける、シラヒトやコクミと古くに呼ばれた身の忌み、人の道に外れた交わりの罪、家畜をめぐる罪。

這う虫による災い、雷など高い所の神による災い、鳥による災い、他人の家畜を殺す罪、呪物を用いる罪。そうした罪が数多く出てくる。

罪が出てきたら、天上の作法に倣う。天つ金木を根元で切って先で断ち、たくさんの台の上に山ほど供えていく。

天つ菅麻を根元と穂先で刈り切り、細かく八つに裂いて、天つ祝詞の太祝詞を唱えよ。

こう唱えれば、天つ神は天の岩戸を押し開き、八重の雲を勢いよく押し分けて、この言葉を聞き届ける。

国つ神は高い山の頂と低い山の頂に登り、山にかかる霧を掻き分けて、この言葉を聞き届ける。

聞き届けられたなら、罪という罪は残らない。風の神が八重の雲を吹き飛ばしていくように。

朝の霧と夕べの霧を、朝夕の風が吹き払っていくように。港に停まる大船の舳先の綱を解き、艫の綱を解いて、大海原へ押し出していくように。

向こうの茂みの根元を、よく切れる鎌で刈り払っていくように。残る罪はないと、祓い清めてくださる。

高い山の頂、低い山の頂から勢いよく流れ落ちる急流の瀬にいらっしゃるセオリツヒメという神が、罪を大海原へ運び出す。

運び出されたなら、荒い潮のいくつもの道が渦を巻いて集まる場所にいらっしゃるハヤアキツヒメという神が、それをごくりと呑み込む。

呑み込まれたなら、気吹戸にいらっしゃるイブキドヌシという神が、根の国底の国へ息とともに吹き放つ。

吹き放たれたなら、根の国底の国にいらっしゃるハヤサスラヒメという神が、それを持ってさすらい、どこかへ失くしてしまう。

失くしてしまえば、罪という罪は残らない。祓い清めてくださることを、天つ神も国つ神も八百万の神々も、ともにお聞き届けくださいと申し上げる。

人形に名前と歳を書く

形代の話に移る。紙を人の形に切った物で、人形とも書く。ひとがた、かたしろ、どちらの読みも通った。

六月に入ると氏子の家へ配る社が多い。授与所や社務所に積んである場合もあるし、数が足りなければ言えばもらえる。

書くのは一人につき一枚。まあ、家族の分をまとめて書かないということだ。家族四人なら四枚を使い、それぞれに名前と年齢を書き入れる。

年齢は数え年で書かせる社が多かった。満年齢との差が分からなければ生年月日を書いても構わない、と案内する社もある。数えは生まれた年を一歳とし、正月を迎えるごとに一つ加えていく数え方だ。

性別を書かせる社もある。男女の区別で形代の紙の色が分かれていることもあったので、渡されたときに確認しておきたい。

筆ペンでも鉛筆でも構わない。字の上手下手はまったく関係なく、読める字で書けばそれで足りる。

車や家のための形代を別に出す社もあった。こちらは車種やナンバー、住所を書き込む。人形とは別紙になっていることが多い。

息を三度、頭から足へ

書き終えたら、形代に息を吹きかける。三度が一般的な回数で、ふっ、ふっ、ふっ、と短く吹いていく。

強く吹く必要はない。紙が飛ばない程度で足りるし、息に罪と穢れを乗せて移すという段取りだから、勢いは関係なかった。

そのあと撫でる。形代で自分の体を撫でていく順序は、頭、額、胸、腹、両手、両足。上から下へ順に下ろしていく。

調子の悪いところがあるなら、そこを重点的に撫でるよう案内する社が多い。肩なら肩、腰なら腰を、何往復かしても構わない。

全身を撫でるように、と大まかにだけ言う社もある。頭から足元まで一通り下ろせば、やっていることは同じだった。

用意する物は形代と筆記具と初穂料。撫で終えた形代は畳んで封筒か紙袋に入れ、初穂料も一緒に入れる。社から袋が配られていればそれを使えばいい。

納め先は二通りある。拝殿の賽銭箱の脇に専用の木箱を置く社があり、そこへ入れる形。授与所や社務所の窓口で神職や巫女に直接渡す形もあった。

締め切りは社ごとに違う。先に言っておくが、確かめないと間に合わない。大祓式の当日までに届けばいい、とするところが多かった。遠方の人のために郵送を受け付ける社もある。

納めた紙のゆくえ

納めた形代がその後どうなるのか。ここを気にする人は案外多い。

集められた形代は、大祓式の神事の場へ運ばれる。神前に据えられ、大祓詞が奏上され、そこでまとめて祓われた。

祓われた後の始末は社によって分かれる。古くは川や海に流していた。水に乗せて根の国へ送るという、大祓詞の筋書きそのままの処理だ。

いまは環境の事情もあって、水に流す社は減った。流す社でも近くの川で祭事として行い、下流で回収する形を取っている。

多くの社は焼納へ切り替えた。境内の火処でお焚き上げし、煙にして送る形になる。

祓ったあとに授与品を送り返す社もある。七月に入ってから茅の輪守りや御神札を郵送してくれるところがあり、形代を納めた人への返礼という扱いだった。

どの処理になるかは掲示や授与所で聞けば教えてくれる。気になるなら遠慮せず聞いた方が早い。

家でやる略式、茅を刈るところから

社まで行けない年もある。自宅で略式に済ませる作法も各地にあった。

使うのはチガヤだ。初夏に白い穂を出すイネ科の草で、河川敷や空き地の日当たりに群れて生える。夏越の輪には青い茅を使うので、穂が出て間もない六月の上旬から中旬に刈るのがちょうどいい。

刈るのは六月、編むのは晦日の朝。ここからが手仕事になる。刈る場所には気を付けたい。私有地と河川管理区域は避ける。神社の敷地で勝手に刈るのも当然まずいし、公園も管理者の許可がいる。

刈ったら根元の泥を落とし、長さを揃えて小束に分ける。一束は握ったときに親指と中指が付くくらいの太さで、これを何束も作っておく。

芯を用意する。太めの針金か細い竹、園芸用の支柱でいい。直径二十センチから三十センチの輪に曲げ、端を重ねてしっかり縛る。

芯に茅を巻いていく。一束の元に次の束の穂先を重ね、少しずつずらしながら巻き付ける。縄か麻紐で仮止めしながら進めるとやりやすかった。

巻く向きは時計回りに揃える。向きを揃えないと表面が乱れて見苦しくなる。一周して元に戻ったら、最後の穂先を最初の束の下へ差し込んで隠す。

紐で締め直して仮止めを外す。結び目は裏側へ回し、正面から見えないようにしておく。社の職人が気を使うのもまさにここだった。

小さく作って腰に下げるなら、直径十センチほどで足りる。説話に出てくる形に近いのはむしろこちらで、紐を通して帯や鞄に結ぶ。

作るときは六月三十日の朝までに仕上げておきたい。当日に間に合わなければ、七月に入ってから作っても咎められる筋合いはない。

玄関に掛ける、外す

作った輪は玄関に掛ける。授与所で受けた茅の輪守りも同じ扱いでいい。

掛ける場所は出入りの線上になる。門扉、表札の脇、玄関ドアの上、内側の扉の上、靴箱の上の壁。人が通る筋の上にあることが条件だった。

高さは目線よりやや上に取る。見下ろす位置には掛けない。画鋲でもフックでも細い釘でも構わない。

向きは、輪の結び目が上に来るようにと案内する社が多い。結束部を上に、穂先の流れを下に向ける形だ。方角を厳しく指定する社はほとんどなく、氏神社の案内があればそちらが優先になる。

屋外は風雨で傷む。集合住宅なら玄関の内側の方が扱いやすいし、直射日光も色を抜いてしまう。

掛ける期間は半年が基本だ。夏越で受けた物は年越の大祓まで、年越で受けた物は翌年の夏越まで。一年間掛けたままにする社もあり、伊勢志摩の注連飾り型は通年が普通だった。

色が抜けて形が崩れてきたら、期間の途中でも掛け替えていい。傷んだ物を無理に置いておく理由はどこにもない。

自作した輪も扱いは同じで、半年掛けたら外す。外したらそのまま捨てず、次の始末へ回していく。

茅を抜いていいかどうか

最後に後始末の話をまとめておく。

境内の大きい茅の輪から茅を抜く行為は、基本的に禁じられている。抜かれた分だけ輪が痩せて、後から来た人がくぐる物がなくなってしまう。立て札で明確に止めている社も多い。

持ち帰り用の茅を別に束ねて置いている社もある。授与所で小さい輪を頒ける社もあるので、そちらから受け取るのが筋だった。

持ち帰ってよい茅をもらったら、小さい輪に編んで玄関に掛けるか、腰に下げる。説話の形へそのまま戻る使い方になる。神棚があれば脇に供える家もあった。

古くなった茅の輪守り、御神札、御守の返納先は、受けた社の古札納所になる。一年を通して受け付けている社が多い。

遠方で受けた物は、近所の氏神社へ事情を添えて納める。断られることはほとんどない。他社の札は受けないと決めている社もあるので、そこは先に電話で聞いておきたい。

年末年始の火祭りへ回す手もある。一月十四日から十五日あたりに行われるどんど焼き、左義長、道祖神祭。呼び名は土地ごとに変わった。

持ち込みの決まりは主催によって違う。紙と藁と木だけ、という制限をかけるところが多い。ビニールの袋から出し、金具やプラスチックの飾りを外してから持っていく。

自作した茅の輪も、材料が草と紐だけなら火祭りに出せる。針金の芯を使ったなら、芯を抜いてから持ち込む。

返す先は二つ。古札納所か、どんど焼きの火。火祭りの日を逃したら、社の古札納所へ回せばいい。納所に入れた物は、社が定期的にまとめてお焚き上げしてくれる。

どうしても社へ持っていけないなら、白い紙に包んで塩を少し振り、家庭のごみとして出す作法を案内する社もあった。包んでから出すという一手間が入るだけで、扱いはまるで変わる。

来年また青い輪が立つ。そのときに新しい物を受けて、掛け替える。

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