先に断っておく。この記事は宗教史と民俗誌の解説であり、特定の信仰への勧誘でも、儀式の指南でもない。
大祓魔式(盛儀祓魔式)は、教区司教から特別の許可を受けた司祭のみが行える儀式だ。素人が他人に対して行ってはならず、この記事にもその手順は記さない。
心身の不調や精神症状がある場合は、まず医療機関を受診してほしい。宗教儀礼は医療や法律や経済的判断の代替にはならない。
- 「エクソシズム」という語が指しているもの
- 大祓魔式と小祓魔式を混同しない
- 教会が区別する四つの段階
- 「道徳的確実性」という敷居
- 新約聖書の追い出し記事
- 初代教会の下級聖職位としての祓魔師
- 塩、油、息吹という所作
- 中世の聖遺物と修道院
- 一六一四年『ローマ典礼儀式書』第十二章
- 一六三〇年代のルーダン事件
- 啓蒙期の懐疑と、祓魔式の後退
- 教会法第一一七二条という関門
- 一九九九年、四百年ぶりの改訂
- 二〇〇四年改訂と、その後の運用
- 国際エクソシスト協会と養成講座
- 堕天使論とカテキズム
- 秘跡と準秘跡のあいだ
- 越えてはならない線
- 教区に相談が持ち込まれたら
- 伝統的な四つの徴と、その批判
- 儀式のおおまかな構造
- 嘆願形と命令形の祈り
- 聖ミカエルへの祈り
- 主の祈り、アヴェ・マリア、使徒信条
- 聖水と聖別された塩
- 聖ベネディクトのメダイ
- 家の祝福を司祭に依頼する
- 東方正教会の祓魔
- 聖公会の「解放の奉仕職」
- ペンテコステ派のデリバランス
- 精神疾患の誤認という最大の問題
- 祓魔の名の下に起きた死傷事件
- 日本の加持祈祷事件と現行法
- 費用を請求する自称祓魔師
- 日本のカトリック教会における祓魔師
- 映画『エクソシスト』以後のイメージ
- 匿名化した五件の語り
- 暗示と期待効果、儀礼の作動原理
- 集団心理とルーダンの再検討
- 文化依存症候群としての憑依
- それでも当事者にとって意味を持つ理由
- 祓魔式をどう受け止めるか
- 信徒が自分と自宅のためにできること
- 時刻と頻度
- 日々の祈りの唱え方
- 家の各部屋を巡る
- 家族と行う場合の作法
- 終了時の作法と、聖品の扱い
- 必ず守る中止基準
- 祈ったあとに日常へ戻れるかどうか
「エクソシズム」という語が指しているもの
「エクソシズム(exorcism)」という語は、ギリシア語のエクソルキゼインに由来する。
原義は「誓わせる」「厳かに命じる」で、もともとは神の名を挙げて相手に厳命する言語行為一般を指した。キリスト教以前のギリシア世界にも、呪術的な文脈でこの語は存在していたとされる。
それが限定的な意味を持つようになったのは、おおむね三世紀ごろだと説明されることが多い。「より高い霊的権威の名によって、有害な霊を人や場所から追い出す儀礼」という意味である。
日本語では一般に「悪魔祓い」「悪霊払い」と訳される。
ただしカトリック教会の正式な訳語は「祓魔(ふつま)」だ。儀式そのものは「祓魔式」、それを行う司祭は「祓魔師」と呼ばれる。
映画やフィクションを通じて広まった「エクソシスト」というカタカナ語は、この祓魔師の英語形をそのまま持ち込んだものである。
肝心なのは、教会にとってエクソシズムが「オカルト」でも「魔術」でもない点だ。祈りの一形式として位置づけられている。
アメリカ司教協議会の公式説明は、これを「教会が悪魔の力に対抗して用いる、特定の形式をとった祈り」と定義している。
魔術が術者自身の技能や霊的な力に依拠するのに対し、祓魔式の構造は違う。あくまで「キリストの名において神に願い、あるいは神の権威によって命じる」という構造をとる。
この差異は、教会が自らの実践を迷信から切り離すために、繰り返し強調してきたところだ。
そして現代のカトリック教会は、この儀式について極めて抑制的である。
実際に祓魔式を行う司祭たちが公の場で語る内容は、大衆的なイメージとはかなり違う。彼らが最も多く口にするのは「ほとんどのケースは憑依ではない」という言葉だ。次に多いのが「まず医師に診てもらってください」という言葉である。
大祓魔式と小祓魔式を混同しない
エクソシズムを理解するうえで、最初に押さえるべき区別がこれだ。カトリック教会が「祓魔」と呼ぶものには、性格の異なる二つの層がある。
大祓魔式(solemn exorcism、盛儀祓魔式)は、真正の悪魔憑依が認定された人に対して行われる、狭義の祓魔式だ。
教会法上、これを執行できるのは司祭または司教に限られる。しかも所属教区の司教から個別の、あるいは特別の許可を与えられていなければならない。
無許可の司祭が行うことは認められていない。まして叙階を受けていない信徒が行うことは、いかなる意味でも認められていない。
小祓魔式(minor exorcism)は、憑依の認定を前提としない。
最も身近な例は洗礼式で、カトリックの洗礼式には、「悪の拒否」の部分が組み込まれている。受洗者、あるいは幼児洗礼なら保護者と代父母が「悪を退けますか」「悪の誘惑に負けないと約束しますか」と問われ、これに答える。罪の力からの解放を願う祈りも含まれる。
これらは古代の洗礼志願者(カテクメン)に対する祓魔の伝統を、簡略化した形で受け継いだものだ。堅信の準備や、特定の祝福の中にも小祓魔式に相当する祈りが含まれる場合がある。
両者を混同すると、話が一気に不正確になる。
「カトリックでは毎回の洗礼で悪魔祓いをしている」という言い方は、小祓魔式のことを指すなら正しい。ただしそれを大祓魔式と同一視するなら誤りだ。
逆に「悪魔祓いなど今どき行われていない」という言い方も同様である。大祓魔式の頻度を指すならある程度あたっているが、小祓魔式まで含めるなら誤りになる。
整理しておこう。
大祓魔式は、憑依が認定された人が対象で、執行者は司教の特別許可を得た司祭のみ。準秘跡にあたり、極めて例外的な措置である。
小祓魔式は、洗礼志願者や受洗者一般が対象になり、執行者は司祭や助祭など。洗礼式などに組み込まれた通常の祈りだ。
私的な祈りは、信徒自身が信徒自身のために行う。祈りであって儀式ではない。
教会が区別する四つの段階
カトリックの伝統的な整理では、悪の霊的影響とされるものは一枚岩ではない。段階的に区別されてきた。
第一に誘惑(temptation)。これは万人が日常的に経験するものとされ、特別な儀式の対象ではない。人が悪しき選択に傾く傾向一般を指す。
第二に外的攻撃や圧迫(oppression、infestation)。人の身体や住居、持ち物などに外側から働きかけられているとされる状態だ。
健康や仕事、人間関係に不調が続く。家の中で説明のつかない現象が起きる。こういった訴えがここに分類され、教会は、これらの大半に自然な原因があると考える。
第三に強迫的な観念(obsession)。悪しき思考が執拗に反復し、本人の意思で振り払えないとされる状態である。
ただしこの語は精神医学の「強迫観念」と重なるため、実際の判別は極めて難しい。実務上は、まず強迫症をはじめとする精神疾患の可能性が検討される。
第四に憑依(possession)。悪魔が身体を占拠し、本人の意思とは無関係に身体を動かしうる状態とされる。
米国司教協議会の資料は、これを「悪魔の存在が憑依された者の身体の中にあり、その身体に対して支配を及ぼしうると判定された場合」と説明している。
ここで注意すべきは、教会の伝統的な神学が限定を設けてきたことだ。「悪魔が支配しうるのは身体であって、魂の自由意志ではない」という限定である。憑依されたとされる人が、その状態のゆえに罪を犯したとはみなされない。
大祓魔式の対象になるのは、原則としてこの第四段階だけだ。
第二と第三の段階には、より軽い祝福の祈り、信徒自身の祈り、あるいは端的に医療的や心理的な支援が対応することになる。
「道徳的確実性」という敷居
では、どういう場合に「憑依である」と判定されるのか。ここに現代のカトリックの慎重さが最もよく表れている。
判定の基準として用いられる概念が「道徳的確実性(moral certitude)」だ。これは、絶対的な確実性ではないが、単なる蓋然性より高い水準を指す。
祓魔師は、利用しうるあらゆる手段を用いて調査を尽くす。医学的、心理学的、精神医学的な検査を経る。そのうえで、なお憑依としか考えられないという水準に達したときにはじめて、この判定を下しうるとされる。
公式の指針が繰り返し強調するのは、次の三点だ。
第一に、判定を下すのは個人ではなく教会であり、自称霊能者はもちろん、司祭個人の直感でもない。教区が定めた手続きに従って組織的に判断される。
第二に、医学的で精神医学的な評価が祓魔式に先立つ。これは推奨ではなく必須の前提として語られる。
第三に、教会は歴史的に三つのことを避けるべき害として警告してきた。悪魔の影響を不必要に喧伝すること。事例をセンセーショナルに扱うこと。そして治療可能な状態を憑依と取り違えること。
この三点は、単なる手続き論ではなく、後半で扱う数々の悲劇を踏まえれば、そのことが分かるはずだ。精神疾患を抱えた人が医療から遠ざけられ、命を落とした事例である。
新約聖書の追い出し記事
キリスト教のエクソシズムの原点は、福音書に記されたイエスによる「悪霊追い出し」の記事にある。
共観福音書、つまりマタイとマルコとルカには、イエスが悪霊に取り憑かれたとされる人々から霊を追い出す場面が繰り返し登場する。
最もよく知られているのが、いわゆる「ゲラサの豚」の記事だ。マルコ福音書五章、マタイ福音書八章、ルカ福音書八章に並行して記される。
ガリラヤ湖の東岸、ゲラサ(あるいはガダラ)地方でのことである。墓場に住み、鎖でつないでも引きちぎってしまう男にイエスが出会う。
イエスが名を問うと、霊は「私の名はレギオン。我々は大勢だから」と答える。レギオンとはローマ軍団を指す語で、この応答は当時の読者にとって政治的な含意も帯びていたと指摘されてきた。
霊は豚の群れへの移動を願い、許されて豚に入り、すると群れは崖から湖へなだれ落ちて溺れ死ぬ。男は正気に返り、衣を着て座っていた。そういう物語である。
もう一つよく引かれるのがマグダラのマリアだ。ルカ福音書八章と、マルコ福音書の結び、つまり一六章に、彼女から「七つの悪霊が追い出された」と記される。
この「七つ」を字義通りの数と読むか、完全性や全面性を示す象徴数と読むかは古来議論がある。また彼女を娼婦と結びつける後世のイメージは聖書本文には根拠がない、というのが現在の聖書学の一般的な理解だ。
このほかにも記事はある。口をきけなくする霊の話が出てくる。てんかんに似た症状を伴う少年の記事はマルコ九章にある。会堂での追い出しはマルコ一章だ。
使徒言行録にも記述があり、パウロが占いの霊に取り憑かれた女性から霊を追い出す場面。そして「イエスの名」を無断で用いようとしたスケワの七人の息子が、かえって打ちのめされる場面、一九章である。
後者は興味深い。キリスト教のエクソシズムが「正しい権威に基づかなければ機能しない」という自己理解を、早い段階で物語化していた例としてしばしば引用される。
初代教会の下級聖職位としての祓魔師
三世紀の半ばごろ、西方教会において「祓魔師(exorcista)」は正式な下級聖職位(minor orders)の一つとして制度化された。
侍祭(アコリト)、守門(オスティアリウス)、読師(レクトル)と並ぶ位だ。
教皇ファビアヌス(在位二三六年から二五〇年ごろ)の時代にこれらの職制が整えられたと考えられている。教皇コルネリウスが残した書簡には、当時のローマ教会に五二人の祓魔師がいたと記されている。
三九八年の第四カルタゴ教会会議は、その叙任の式文を定めた。
司教は候補者に祓魔の式文を収めた書を手渡し、こう告げる。「受け取り、記憶に留め、そして受洗者であれ洗礼志願者であれ、悪霊に苦しむ者に按手する権能を持て」。
彼らの職務は主として二つだったとされる。
一つは、洗礼を準備する志願者に対して、日々按手をして祓魔の祈りを唱えること。
もう一つは、教会に集まってくる「エネルグメノイ」の世話をすることだ。悪霊に苦しむとされた人々であり、これには食事の提供など具体的な扶助も含まれていた。
つまり初期の祓魔師は、劇的な儀式の執行者ではない。洗礼準備の日常業務と、社会的弱者のケアを担う実務職に近かった。
この職位は、その後の教会史のなかで実質を失っていく。
成人の洗礼志願制度が衰退し、幼児洗礼が標準化したこと。そしてキリスト教社会の成立に伴って「悪霊に苦しむ者」の受け皿が変化したこと。これが理由として示される。
中世以降、祓魔の職務は司祭が担うものとなった。下級聖職位としての祓魔師は叙階への段階を示す形式的な位に変わる。
第二バチカン公会議後の改革、一九七二年のことだ。ここで下級聖職位そのものが廃止され、朗読奉仕者と祭壇奉仕者の職務に整理された。
塩、油、息吹という所作
古代の洗礼準備は、現代のそれよりはるかに長く、身体的だった。数年に及ぶことすらあった志願期間を通じて、志願者は繰り返し祓魔の祈りを受けたのだ。
ここで用いられた所作が、後の祓魔式の語彙をかたちづくる。
按手(imposition of hands)。頭上に手を置く、あるいはかざす所作で、聖霊の働きと保護を表す。祓魔師叙任の式文が「按手する権能」と表現していたことからも、これが職務の中核だったと分かる。
塩。祝福された塩を志願者の口に含ませる習慣が古代から中世にかけて広く行われた。
塩は腐敗を防ぐもの、知恵と保存の象徴として理解された。また旧約聖書の「塩の契約」のイメージとも結びついたのだ。この所作はトリエント公会議後の洗礼式にも残り、後年の典礼改革で任意化され簡略化された。
油。洗礼志願者の油を胸や背に塗る所作で、これは力づけと保護を意味する。古代の運動選手が競技前に油を塗った習慣との類比で説明されることもある。
カトリックでは今日も、洗礼式のなかに志願者の油の塗油が置かれている。司教区の判断で省略可能とされる場合もあるらしい。
息吹(exsufflation)。志願者に向かって息を吹きかける、あるいは吹き払う所作である。
悪しき霊を追い払うと同時に、二重の意味を持つ所作とされた。創世記でアダムに息を吹き入れた神のわざ。また復活のイエスが弟子たちに息を吹きかけて聖霊を与えた場面、ヨハネ二〇章だ。
祓魔式においては「息を吹きかけて悪を退け、聖霊の働きを確認する」象徴として説明される。
これらは単なる古代の遺物ではない。
一九九九年の新しい祓魔式規定においても、三つの中心的象徴が明示されている。聖水(洗礼を想起させる)、按手と息吹(聖霊の働きを確認する)、十字架と十字架のしるし(悪に対するキリストの勝利を示す)だ。
中世の聖遺物と修道院
中世に入ると、祓魔は聖人伝(ハギオグラフィー)の中心的なモチーフの一つになる。
聖人が悪霊を退ける記事は、その聖性を証明する定番の挿話として、ほとんどの伝記に組み込まれた。
砂漠の隠修士アントニオスの伝記から、ベネディクトゥスの『対話』に至るまで。悪魔との対決は霊的生活の比喩であると同時に、具体的な出来事として語られた。
祓魔の担い手も、必ずしも「祓魔式」という定型儀礼に限られなかった。
聖遺物そのものが祓魔の力を持つと信じられたのだ。聖人の遺骨や遺品に触れさせる、その墓のそばで一夜を明かさせるといった実践が広く行われた。
イングランドの聖グスラクの帯のように、特定の聖人ゆかりの品が悪霊に苦しむ者に巻かれた例も伝えられている。
教会の鐘の音、聖水の散布、十字架の掲示なども、悪しきものを退ける手段として日常的な信心のなかに定着した。
修道院は、こうした実践の結節点だった。
悪霊に苦しむとされた人々が修道院に送られ、そこで祈りと共同生活のなかに置かれる。現代の目から見れば、これは一種の収容と療養の機能を果たしていたとも言える。
実際、修道院が精神的に不安定な人々を長期に受け入れていた側面がある。規則正しい生活と労働、共同の祈りのなかで安定を取り戻させていた。医療史の研究でも指摘されてきたことだ。
同時に、この時代には祓魔の定型が地域ごとにばらばらだった。
祓魔の式文集は各地で編まれ、内容も分量も統一されていない。なかには魔術書との境界が曖昧な、長大で呪術的な文言を含むものもあった。
この混乱を整理しようという動きが、近世の典礼改革につながっていく。
一六一四年『ローマ典礼儀式書』第十二章
一六一四年、教皇パウルス五世のもとで『ローマ典礼儀式書(Rituale Romanum)』が公布された。
トリエント公会議後の典礼統一事業の一環で、秘跡の授与や祝福の式次第を全教会で標準化する目的を持っていた。
その第十二章が「悪魔に憑かれた者を祓魔することについて」である。これがその後四〇〇年近くにわたって、カトリックの祓魔式の唯一の公式典礼書となる。
この章の構成には画期的な点があった。儀式そのものの式文だけでなく、それに先立つ注意規定を含んでいたことだ。
そこには次のような趣旨の指示が並ぶ。
祓魔師は容易に憑依と信じてはならず、病、とりわけ心の病に由来する症状と混同しないよう注意すべきである。憑依の徴として伝統的に示されるものを慎重に吟味すべきだ。
祓魔師自身が敬虔で、慎み深く、聖なる生活を送るべきである。悪霊との無用な会話を避け、好奇心から未来や隠された事柄を尋ねてはならない。女性に対して行う際には立会人を置くべきだ。
つまり一六一四年の規定は、祓魔の権能を与えると同時に、それを厳しく縛る文書でもあった。
しばしば「伝統的な祓魔式は強力だった」という語り方がされる。だがテキストを読むかぎり、その眼目はむしろ濫用の抑止にあった。
祓魔をめぐる中世的な混乱を、教皇庁の管理下で整理し、無資格者や呪術的実践から切り離す。それがこの章の実際の機能だった。
この一六一四年版は、一九九九年の新しい儀式書の公布後も、選択肢として存続することが認められている。ラテン語による伝統的な祓魔式を用いることは、現在も可能とされている。
一六三〇年代のルーダン事件
定型化された祓魔式が、社会のなかでどう作動しうるか。その最も有名な事例が、フランスの町ルーダンで起きた一連の出来事だ。
一六二六年、ルーダンにウルスラ会の修道院が開かれた。院長はジャンヌ・デ・ザンジュ。
一六三二年、この地域をペストが襲う。その流行が収束していく過程で、修道女たちのあいだに「憑依」の訴えが広がった。
若い修道女たちが幻視を訴え、院付司祭ジャン・ミニョンがこれを重大視して祓魔式を始める。
やがて修道女たちは、町の教区司祭ウルバン・グランディエが魔術によって自分たちを憑依させたと名指しするようになった。
グランディエは容姿にすぐれ、雄弁で、教養もあった。同時に女性関係の噂が絶えず、町の有力者と対立していたのだ。
さらに彼は、リシュリュー枢機卿が推し進めていた町の城壁撤去に反対した。聖職者独身制を批判する書を著し、枢機卿を諷刺した文書にも関わったとされる。政治的に危険な位置にいたわけだ。
一六三三年一〇月に告発が本格化し、一一月にはグランディエが逮捕される。
リシュリューの意を受けたジャン・ド・ローバルドモンが取り調べを主導した。一六三四年八月、グランディエは魔術の罪で有罪とされ、拷問ののち火刑に処された。
絞首してから焼くという「慈悲」が約束されていたのだ。しかし祓魔師の一人が予定より早く薪に火を放ち、彼は生きたまま焼かれたと伝えられている。
見落とせないのは、グランディエの死後も憑依が続いたことである。
祓魔式は公開の見世物と化し、多数の見物人が押し寄せた。ジャンヌ・デ・ザンジュの症状は一六三七年ごろまで続く。
その左腕に「ヨセフ」「マリア」の名が浮かび上がったという出来事をもって最終局面を迎えた。彼女は一六三八年にリシュリューと国王ルイ一三世に謁見し、その後「悪魔は去った」とされた。
後世の評価は分かれるが、否定的な検討が主流である。
ジョン・ロックは一六七九年、この事件全体をグランディエを葬るためのリシュリューの謀略と結論した。
歴史家ミシェル・ド・セルトーは、修道女たちの症状を心理的な病理として捉えた。そのうえで、それが女性たちにとって「他者の声を借りて自らの考えや不安を語る」通路になっていた側面を論じている。
修道院の寄宿生の悪戯が発端で、それが暗示にかかりやすい修道女たちに伝播したという説も古くから唱えられてきた。
政治的謀略、集団心理、そして公開祓魔式という舞台装置。これらが相互に増幅しあった事例として、ルーダンは今も研究され続けている。
啓蒙期の懐疑と、祓魔式の後退
ルーダンのような事件は、皮肉なことに祓魔式そのものへの信頼を掘り崩した。
公開の祓魔式で語られる「悪魔の告白」があまりに芝居がかっていたためだ。しかも政治的な意図が透けて見えた。
同時代のうちから、医師や法律家、そして聖職者自身のあいだにも懐疑の声があがった。
一七世紀後半から一八世紀にかけて、ヨーロッパでは魔女裁判が急速に終息する。
その背景には、悪魔の実在を否定する思想というより、別のものがあった。「悪魔の働きを人間が確実に識別できるのか」という認識論的な懐疑だ。
悪魔が存在するとしても、その介入を法廷で証明することはできない。この立場に立てば、魔女裁判も公開祓魔式も、証拠として成り立たなくなる。
啓蒙期には、憑依とされてきた症状を医学的に説明しようとする試みが本格化した。
ヒステリー、てんかん、メランコリー。現在の抑うつに近い概念で、こうした枠組みで、かつて悪魔の仕業とされた振る舞いが再記述されていく。
一九世紀のフランスでは、シャルコーらの研究を通じて、「憑依」は歴史上のヒステリー症例として読み直された。彼らが中世や近世の宗教画に描かれた姿勢を、症例写真と並べて提示したことはよく知られている。
こうした流れのなかで、カトリックの祓魔式は表舞台から退いた。
制度としては存続した。ただし実際に大祓魔式が行われる頻度は激減し、多くの司祭がその存在をほとんど意識しないまま司牧生活を送るようになる。二〇世紀後半に至るまで、これが標準的な状態だった。
教会法第一一七二条という関門
制度としてのエクソシズムを規定してきたのが教会法だ。
一九一七年に公布された旧教会法典には規定が置かれた。憑依者に対する祓魔は、司教の特別かつ明示的な許可を得た司祭のみが行いうる、というものだ。
司教はその許可を与えるにあたり、条件を満たす司祭を選ぶべきものとされた。敬虔、知識、慎重さ、生活の高潔さを備えた司祭である。
現行の一九八三年教会法典では、これが第一一七二条に受け継がれている。同条は要旨として次のことを定める。
第一項。悪魔に憑かれた者に対して合法的に祓魔を行いうるのは、教区裁治権者から特別かつ明示的な許可を得た者に限られる。
第二項。この許可は、教区裁治権者によって、秀でた司祭にのみ与えられる。敬虔、知識、慎重さ、生活の高潔さにおいて秀でた司祭だ。
この条文の含意は重い。
第一に、祓魔の権限は司祭職に付随して自動的に生じるものではない。叙階されただけでは足りず、司教による個別の授権が要る。
第二に、その授権は個人の資質審査を伴う。
第三に、当然ながら信徒にはこの権限が及ばない。
日本語圏の一部の記事や動画では、「神父なら誰でも悪魔祓いができる」といった説明が見られる。これは誤りだ。
また「バチカンの認可を受けたエクソシスト」という表現が使われることもある。正確には任命権は各教区の司教にある。
ローマの養成講座を修了したという事実と、司教から祓魔の権限を与えられているという事実。この二つは別のことがらである。
一九九九年、四百年ぶりの改訂
第二バチカン公会議(一九六二年から六五年)は、すべての典礼書の見直しを命じた。
その作業のなかで、祓魔式の規定は最後まで残された。ようやく完成したのが、一九九九年一月二六日に教皇庁典礼秘跡省が公布した『祓魔式およびある種の祈願について』である。
八四ページの、決して大部ではない書物で、一六一四年以来、実に三八五年ぶりの改訂だった。
その構成はおおむね次のようになっている。
序(praenotanda)。神学的な前提と、実務上の注意が置かれる。悪魔の存在についての教会の教えを述べたうえで、識別の慎重さ、医学的で精神医学的な評価の必要、司教の許可の要件などが確認される。
第一章「大祓魔式の式次第」。司教の授権を受けた祓魔師が用いる、正式な式次第だ。
第二章「種々の式文」。実際の状況に応じて選択できる可変部分である。詩編とその結びの祈りが九編、福音朗読が五箇所、そして嘆願形と命令形の祓魔の祈りの組み合わせが二組収められている。
付録一。教会の建物や場所が悪の影響を受けていると考えられる特別な状況のための祈りだ。
挨拶、ことばの典礼(任意)、聖霊への集会祈願、共同祈願、詩編六八編の抜粋。嘆願形と命令形の祓魔の祈り。「あなたのご保護のもとに」、聖ミカエルへの祈願、聖水の祝福、閉祭。
付録二。信徒が私的に用いてよい祈りである。
五つの集会祈願形式の祈り、三位一体とイエスへの連祷、十字架への祈願、聖母マリアへの祈り、レオ十三世の聖ミカエルへの祈り、諸聖人の連祷などが並ぶ。
この記事の後半で扱う「信徒にできる範囲」は、まさにこの付録二が公式に許容している領域にあたる。
なお、この改訂には批判もあった。
長年ローマ教区の祓魔師をつとめたガブリエレ・アモルト神父は不満を述べている。改訂作業に実務経験のある祓魔師がほとんど関与しなかった、というものだ。
また新しい式文は旧来のものに比べて命令の言葉や十字架のしるしの回数が大幅に減り、聖書的なイメージが乏しくなったと批判した。実務者からのこうした声があったことは、記録として押さえておくべきだろう。
二〇〇四年改訂と、その後の運用
一九九九年版はほどなく細部が見直され、二〇〇四年に修正版が出された。
この版では、精神疾患と憑依を取り違えないようにという警告がいっそう明確に書き込まれたと説明される。
あわせて、通俗的な悪魔像との距離をとる表現が含まれるとされる。サタンを「体を持たず、色も匂いも持たない霊」と述べるなどだ。
翻訳の整備には、さらに時間を要した。
英語版の翻訳が教皇庁によって承認されたのは二〇一六年一二月のことだ。公布から一七年が経っていた。
日本語圏では、この儀式書の全訳が一般に流通しているとは言いがたい。内容の紹介は主として研究書や、実務にあたる司祭による解説を通じて行われている。
運用面で近年しばしば話題になるのは、大祓魔式が極めて例外的な措置であり続けているという点だ。
祓魔師に相談が寄せられる件数は増えている。だが、そのうち大祓魔式に至るケースは、実務者自身の証言によれば、ごくわずからしい。
実務者の多くが語るのは、経験の中身である。相談者の大半が精神的な苦しみや家族関係の問題を抱えており、必要なのは儀式ではなかった。傾聴と、適切な専門機関への橋渡しだった、と。
国際エクソシスト協会と養成講座
現代のエクソシズムを語るうえで外せないのが、国際エクソシスト協会(AIE)だ。
同協会は一九九〇年代初頭、ガブリエレ・アモルト神父ら数名の司祭によって設立された。設立年については一九九〇年とも一九九四年とも記される。
目的は、孤立しがちな祓魔師どうしの情報交換と、経験の共有だった。そして各教区に祓魔師の任命を促すことにもあった。
長らく私的な集まりにとどまっていたが、二〇一四年六月一三日、その会則が聖座によって承認されたのだ。これによりAIEは教会法上の位置づけを持つ団体となる。
報道によれば、承認当時の会員は約三〇か国から二五〇人前後で、入会には所属司教の許可が必要とされる。
会員はローマで定期的に集まり、会報を通じて事例を共有している。カトリック司祭が大半だが、それぞれの教会の権威から祓魔を認められた正教会や聖公会の聖職者も含まれるという。
もう一つの制度化の動きが、ローマでの養成講座である。
教皇庁立レジーナ・アポストロールム大学とその関連団体が、二〇〇〇年代半ばから「祓魔と解放の奉仕職に関する講座」を開講している。
カリキュラムは神学、教会法、典礼学だけではない。精神医学、心理学、犯罪学、社会学、そして新宗教運動やオカルト実践に関する知識まで及ぶ。
祓魔師だけでなく、司教、助祭、医師、心理士、法律家が対象になる。司牧の現場で相談を受ける信徒も対象に含まれる年がある。
参加者は毎年百人を超える規模で報じられ、コロナ禍の時期に申し込みが増えたとも伝えられた。
この講座の内容構成そのものが、現代のカトリックの姿勢を象徴している。祓魔師の教育の相当部分が、「憑依ではないもの」を見分けるための知識に割かれているのだ。
堕天使論とカテキズム
儀式の話に入る前に、その前提となる神学を押さえておきたい。
『カトリック教会のカテキズム』は、悪魔(サタン、ディアボロス)を堕落した天使として説明する。
すなわち、悪魔ははじめから悪として造られた存在ではない。神によって善なるものとして創造された霊的被造物が、自らの自由な選択によって神に背いたのだ、とされる。
この立場には二つの帰結がある。
第一に、悪は「もう一つの神」ではなく、善と悪が対等に争う二元論を、カトリックは明確に退ける。
第二に、悪魔は被造物であるから、その力には限界がある。
同時にカテキズムは、悪魔の働きが「神の摂理の許しのもとにある」と述べる。そしてなぜ神がそれを許すのかは「大きな神秘」だと認めている。
ここで肝心なのは、悪魔の力を過大評価しないという方向づけだ。悪魔は人間の自由意志を奪うことはできず、外的に影響を及ぼしうるにとどまる。これが伝統的な理解である。
そのうえでカテキズムは、教会の日常的な祈りを指摘し、主の祈りの最後の祈願だ。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」。教会はここで日常的に悪からの解放を願っている。
つまり、カトリックの神学において悪からの解放を願う祈りの中心は、大祓魔式ではない。主の祈りにある。
この位置づけは、後半の「信徒にできる範囲」を考えるうえで決定的に大事だ。
なお、現代の神学者のなかには、悪魔を人格的存在として語ることに慎重な立場をとる者もいる。
悪の非人格的で構造的な側面を強調する神学も広く展開されてきた。不正な社会構造、集団的暴力などで、カトリック内部でも、悪魔論の受け止め方には幅がある。これが実情である。
秘跡と準秘跡のあいだ
カトリックの儀礼体系のなかで、祓魔式はどこに位置するのか。
まず秘跡(サクラメント)。洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の七つだ。キリスト自身によって制定されたとされ、定められた条件が満たされれば恩恵を確実にもたらすと理解される。
次に準秘跡(サクラメンタル)。教会によって制定された聖なるしるしで、秘跡に似ているが同一ではない。祝福、聖別、そして祓魔式がここに含まれる。
準秘跡は、秘跡のように自動的に恩恵を保証するのではない。教会の取り次ぎの祈りによって、受ける者を恩恵に備えさせるものとされる。
聖水、聖別された塩、メダイ、ロザリオといった「聖なる品」も、この準秘跡の枠組みで理解される。
この区別は実際上たいへん大事だ。
準秘跡である以上、祓魔式は「呪文のように唱えれば必ず効く」ものではない。その働きは二つの要素に依存すると説明され、「正当な教会の権威による認可」と「祓魔師の信仰」だ。
裏を返せば、権威も信仰もない者が式文だけを真似ても、教会の理解ではそれは祓魔式ではない。単なる無意味な、あるいは危険な模倣行為でしかない。
聖水やメダイについても同じことが言える。それらは護符ではない。
大阪高松大司教区の典礼委員会が公式のQ&Aで明確に述べている。これらは「礼拝のための道具」であって、物そのものに神性や霊が宿るわけではない、と。
祝福によって恩恵が及ぶのは物ではなく、それを用いる人であり、これがカトリックの一貫した説明だ。
越えてはならない線
ここが最も繰り返し確認しておきたい点である。
司祭にあって信徒にないもの。それは大祓魔式を行う権能だ。
しかもそれは司祭であれば当然に持つものではなく、教区司教の特別な許可によってはじめて与えられる。これは前述の教会法第一一七二条が定めるところであり、例外はない。
信徒が持ちうるもの。それは私的な祈りの領域である。
一九九九年の儀式書の付録二が、まさにこれを想定している。
信徒は、自分自身のために、また自分の家庭のために、悪からの守りを願って祈ることができる。主の祈り、アヴェ・マリア、使徒信条、聖ミカエルへの祈り、諸聖人の連祷。聖水を用いること、聖別された品を身につけること。
これらはいずれも、教会が信徒に開いている領域だ。
境界線は明確である。信徒が他人に対して命令形の祓魔の祈りを唱えること、他人を対象とする祓魔の儀式を行うこと。これらは教会の理解では認められていない。
これは単なる権限の問題ではない。無資格の者による「悪魔祓い」が現実にどれほどの被害を生んできたかは、この記事の後半で見るとおりだ。
さらに言えば、教会の言う「祓魔」はあくまで防御と解放の営みである。他者を害するための技法ではない。
誰かを呪う、誰かに悪しきものを差し向ける。こういった発想は、カトリックの枠組みにおいて明確に否定される。
この点を混同した記述がインターネット上には散見される。ただ、儀式書の構造を見れば、その方向づけは一貫している。
教区に相談が持ち込まれたら
では、実際に「憑依かもしれない」という相談が教会に持ち込まれると、何が起きるのか。
米国司教協議会が公表している手順の説明は、次のような流れを示している。
第一段階。教区が受付の窓口と手順を定める。相談は個々の司祭の裁量ではなく、教区が定めた手続きに乗る。これは、相談者を守ると同時に、司祭を守るための仕組みでもある。
第二段階。その人の実際の状態を評価する。生活史、症状の経過、家族関係、信仰生活、これまでに受けた治療、関わってきた宗教的で霊的な実践などを丁寧に聴き取る。
第三段階。医学的、心理学的、精神医学的検査を受けてもらう。これは選択肢ではなく前提だ。
除外すべき可能性は多い。てんかんや脳の器質的疾患がある。統合失調症をはじめとする精神病性障害、解離性障害、双極性障害、薬物の影響も除外していく。
第四段階。憑依かどうかを判断するのは教会であって、本人でも家族でも、自称霊能者でもない。前述の「道徳的確実性」の水準に達したときにのみ、その判断が下される。
第五段階。司教が許可を与え、任命された祓魔師に委ねられる。
この五段階を一つでも飛ばした「悪魔祓い」は、カトリックの手続きとしては成立しない。
とりわけ第三段階の省略は致命的だ。実務にあたる司祭が精神科医や心理士との連携を重視するのは、この段階を実効あるものにするためである。
伝統的な四つの徴と、その批判
伝統的に、憑依の徴(signa)として次の四つが示されてきた。一六世紀の神学者ジロラモ・メンギらの著作にも同趣旨の記述が見え、一六一四年の儀式書もこれを踏まえている。
一つ。未習得の言語を話す、または理解すること。学んだことのない言語で語る、あるいはその言語で語りかけられた内容を理解する。
二つ。常人を超えた力を示すこと。年齢や体格から説明できない力だ。
三つ。隠された事柄を知っていること。本人が知りうるはずのない情報を口にし、遠隔の出来事、他人の秘密など。
四つ。聖なるものへの強い嫌悪。聖体、聖水、十字架、聖なる名に対して、激しい忌避反応を示す。
これらの徴は、現代の実務のなかでも参照され続けている。日本で祓魔師をつとめる司祭も、判断の材料として未知の言語の使用や、本人しか知りえないはずの情報への言及を示していると報じられている。
しかし同時に、これらの徴には現代的な批判が積み重ねられてきた。
第一の徴について。未習得言語の使用とされる事例の多くが、クリプトムネジア、つまり潜在記憶で説明できるという指摘がある。
人は、意識的に学んだ記憶がなくても、かつて耳にしたり目にしたりした言語断片を保持していることがある。
厳密な検証のためには、対照条件下でその言語による自由な会話が成立するかを確かめる必要がある。だが実際の現場でそれが行われた記録はほとんどない。
第二の徴について。極度の興奮状態やアドレナリンの放出下で通常を超える筋力が発揮されうることが、生理学的に知られている。
また「常人を超えた」という判断そのものが、観察者の主観に大きく依存する。
第三の徴について。コールドリーディングと呼ばれる読み取り技法の問題があり、そして観察者側の確証バイアスの問題だ。当たった発言は記憶され、外れた発言は忘れられやすい。
第四の徴について。期待効果と暗示の影響が最も強く疑われる。
当人が「聖水をかけられれば苦しむはずだ」という文化的な脚本を知っている場合、その反応が生じることは心理学的にはむしろ予測される。
二重盲検で検証したという報告は、ほとんど存在しない。本人にも術者にも、それが聖別された水か普通の水かを伏せる検証だ。
こうした批判は、儀式を無意味だと断ずるためのものではない。
むしろ、「徴があるから憑依だ」という推論の跳躍を戒めるためのものである。その趣旨は教会自身が定める慎重な手続きの精神と、実のところ一致している。
儀式のおおまかな構造
公開されている儀式書の目次と、教会が公式に説明している範囲から、大祓魔式のおおまかな構造を素描しておく。
以下は解説であって、実施のための手引きではない。繰り返すが、これは司教の許可を得た司祭のみが行う儀式であり、それ以外の者が模倣してはならない。
一つ。導入と聖水の散布。十字架のしるしに始まり、聖水が注がれる。聖水は洗礼を想起させるしるしであり、「この人はすでにキリストのものである」という宣言の意味を担う。
二つ。諸聖人の連祷。聖母マリア、天使、使徒、殉教者、聖人たちの名を順に呼び、その取り次ぎを願う。
「聖なるマリア、わたしたちのために祈ってください」という応答を繰り返す形式だ。共同体全体が祈りに加わる構造をとる。祓魔が個人技ではなく、教会全体の祈りであることを可視化する部分である。
三つ。詩編。儀式書は九つの詩編を選択肢として示しており、詩編五三、六八、九一などが伝統的に用いられてきた。詩編九一は守りを願う詩編として広く親しまれている。
四つ。福音朗読。五つの箇所が選択肢として置かれ、イエスによる悪霊追い出しの記事や、ヨハネ福音書の序詞などが用いられる。
五つ。按手。祓魔師が対象者の頭に手を置く。聖霊の働きと保護を求めるしるしだ。
六つ。息吹。儀式書が中心的な象徴の一つとして示す所作である。
七つ。信仰宣言。使徒信条、あるいは洗礼の約束の更新。ここで対象者本人と立ち会う人々が、自らの信仰を言葉にする。
八つ。主の祈り。
九つ。十字架の提示と、祓魔の祈り。ここに嘆願形と命令形の二種の祈りが置かれる。
十。終結。感謝の祈り、聖母への祈り、祝福をもって閉じられる。
一回で終わることは稀で、必要と判断されれば複数回にわたって行われる。
また実務上の配慮が求められ、対象者の心身の状態への配慮。立ち会い者の選定。近親者や信頼できる信徒が同席することが望ましいとされ、そして記録の保持だ。
嘆願形と命令形の祈り
祓魔式の中核をなすのが、この二種類の祈りであり、両者の区別は、権能の所在をめぐる神学と直結している。
嘆願形の祈り(deprecative)は、神に向かって語られる。
「主よ、この人を悪の力から解放してください」というかたちをとる。祈る主体は人間であり、働くのは神である。
この形式の祈りは、その性質上、誰が唱えても神への願いとして成立しうる。したがって信徒も嘆願形の祈りを唱えることができる。
信徒に開かれた「悪からの解放を願う祈り」とは、原則としてこの形式のものだ。
命令形の祈り(imperative)は、悪しき霊に向かって直接語りかけ、退去を命じる。
「何々の名によって命じる、この被造物から去れ」というかたちをとる。ここで語る者は、自らの権威ではなく、教会から与えられた権威においてキリストの名を用いる。
この形式は、権能を授けられた聖職者に留保されている。
一九九九年の儀式書は、第二章に嘆願形と命令形の組み合わせを二組収める。付録一、つまり場所のための祈りにも両形式を置いている。
他方、付録二の信徒向けの祈りには、命令形の祓魔の祈りは含まれていない。この編集上の判断そのものが、教会の線引きを示している。
この区別を知っておくと、インターネット上の情報の質を見分けやすくなる。
「誰でも唱えられる悪魔祓いの呪文」と称して、命令形の式文を掲載しているページは少なくない。だがそれはカトリックの枠組みから外れている。
教会の理解では、権能なき者が命令形を用いることは、有効でないばかりか危険を伴うと考えられてきた。当人にとっても対象者にとってもだ。
使徒言行録一九章のスケワの息子たちの逸話が、この警告の古典的な典拠として繰り返し引かれる。
聖ミカエルへの祈り
ここからは、信徒が自分自身のために唱えてよいとされている祈りを、公開されているものに限って紹介していく。
いずれも自己防御と浄化と守りの範囲にあり、他者を攻撃するためのものではない。
まず聖ミカエルへの祈りで、教皇レオ十三世が一八八六年にミサ典書に加えた祈りである。
トリエント式ミサの終わり、「最後の福音」の後に唱えられる「レオ十三世の祈り」の一部として、一九六五年ごろまで広く唱えられた。
第二バチカン公会議後の典礼改革により、一九六四年の指示をもって公式の義務としては廃された。ただし私的な信心の祈りとして今日まで唱え続けられている。
一九九九年の儀式書の付録二にも収められている。また教皇フランシスコが二〇一八年、ロザリオの後に唱えるよう勧めた祈りの一つとしても知られる。
なお、レオ十三世がミサ中に幻視を見てこの祈りを作った、という伝承が広く流布している。ただこれは公式の記録に残るものではないと指摘されている。
ラテン語原文を挙げておこう。
冒頭は、Sancte Michaël Archangele, defende nos in proelio、と読む。
次が、contra nequitiam et insidias diaboli esto praesidium、と続く。
そして、Imperet illi Deus, supplices deprecamur、と重ねる。
tuque, Princeps militiae caelestis, Satanam aliosque spiritus malignos,
qui ad perditionem animarum pervagantur in mundo, divina virtute in infernum detrude. Amen.
カタカナ読みは教会ラテン語式で示す。
サンクテ・ミカエル・アルカンジェレ、デフェンデ・ノス・イン・プロエリオ、と読む。
コントラ・ネクィツィアム・エト・インシディアス・ディアボリ・エスト・プラエシディウム、と続く。
インペレト・イッリ・デウス、スップリチェス・デプレカムル、と重ねる。
トゥークェ、プリンチェプス・ミリツィエ・チェレスティス、サタナム・アリオスクェ・スピリトゥス・マリニョス、と続ける。
クィ・アド・ペルディツィオーネム・アニマールム・ペルヴァガントゥル・イン・ムンド、と重ねる。
ディヴィナ・ヴィルトゥーテ・イン・インフェルヌム・デトルーデ、アーメン。
日本語訳の大意はこうなる。
大天使聖ミカエルよ、戦いにおいてわたしたちを守ってください。
悪魔の邪悪とたくらみに対する砦となってください。
神が悪魔を制してくださいますように、と、ひざまずいて願います。
天の軍勢の長よ、たましいの滅びを求めて世をさまようサタンとほかの悪しき霊どもを、神の力によって地獄へ退けてください。アーメン。
この祈りが嘆願形であることに注意してほしい。
ミカエルに取り次ぎを願い、神の働きを求める形になっており、信徒が悪魔に直接命令する構造にはなっていない。だからこそ信徒が唱えてよいわけだ。
なお日本のカトリック教会では、これとは別に「大天使聖ミカエルに向かう祈り」と題した日本語の祈りが用いられてきた経緯がある。教会や地域によって唱えられる文言に違いがあるので、所属の教会で確認するとよい。
主の祈り、アヴェ・マリア、使徒信条
主の祈りは、カトリック中央協議会が定める現行の日本語文で唱える。
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。
最後の一句「悪からお救いください」が、教会にとって悪からの解放を願う祈りの中心だ。カテキズムがこの祈願に大きな比重を置いていることは、すでに触れたとおりである。
次にアヴェ・マリアの祈り。
アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。
続いて使徒信条。
天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ。
陰府に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
最後に栄唱。
栄光は父と子と聖霊に。初めのように、今もいつも世々に。アーメン。
これらの文言は改訂を経ており、版によって表現に差がある。所属する教会で配布されている祈祷書に従うのが確実だ。
聖水と聖別された塩
聖水は、司祭によって祝福された水である。
教会の入口に置かれた聖水盤の水に指を浸し、十字架のしるしをする。これは洗礼を思い起こす所作であり、カトリック信徒でない訪問者が行っても差し支えないとされている。
家庭用に少量を分けてもらいたい場合は、所属の教会に相談してほしい。
日本では家庭で聖水を常備する習慣は必ずしも一般的ではなく、ただ、頼めば応じてもらえることが多いらしい。
伝統的な調製法では少量の塩が加えられており、これには腐敗を防ぐ実用的な意味もあると説明される。
用い方は素朴で、十字架のしるしをするときに指先につける。寝る前に自分の額に印をし、家の入口や部屋の隅に少量ふりかける。
呪文を唱えながら人にかける、他人に浴びせる。こういった用法は教会の実践ではない。
祝福された塩(sal benedictus)は、古代の洗礼儀礼にさかのぼる準秘跡だ。
ローマ典礼儀式書には塩の祝福の式文が収められている。聖水の調製に用いられるほか、家や畑にまく習慣が各地にあった。
現代のカトリックで日常的に用いられる頻度は高くなく、ただし伝統を保つ教会では今も祝福が行われている。日本で入手したい場合は、やはり所属教会に相談するのが筋道だろう。
なお日本には「盛り塩」という独立した民間習俗があり、両者はまったく別系統の実践だ。混同した説明がしばしば見られるので注意してほしい。
聖ベネディクトのメダイ
守りの品として、カトリック圏で最も広く用いられているものの一つがこれだ。図像と刻文には決まった意味がある。
表面には、聖ベネディクトが右手に十字架、左手に『戒律』の書を持つ姿が刻まれる。傍らに毒杯と鴉が描かれる。
毒を盛られたが十字架のしるしによって杯が砕けた。毒入りのパンを鴉が運び去った。そういう伝承にちなむ。
周囲には次のラテン語が刻まれ、Eius in obitu nostro praesentia muniamur。われらが死のとき、その現存によって守られますように、という意味だ。
裏面には十字架を中心に、頭文字が配され、順に見ていこう。
C S P B は Crux Sancti Patris Benedicti。クルクス・サンクティ・パトリス・ベネディクティと読む。聖なる父ベネディクトの十字架、という意味だ。
C S S M L は Crux Sacra Sit Mihi Lux。クルクス・サクラ・シト・ミヒ・ルクス。聖なる十字架がわたしの光でありますように。
N D S M D は Non Draco Sit Mihi Dux。ノン・ドラコ・シト・ミヒ・ドゥクス。竜がわたしの導き手とならぬように。
V R S は Vade Retro Satana と書く。ヴァデ・レトロ・サタナと読み、退け、サタン、という意味になる。
N S M V は Nunquam Suade Mihi Vana、ヌンクァム・スアデ・ミヒ・ヴァナ。むなしきものをわたしに勧めるな。
S M Q L は Sunt Mala Quae Libas。スント・マラ・クェ・リバス。おまえが差し出すものは悪しきもの。
I V B は Ipse Venena Bibas。イプセ・ヴェネナ・ビバス。おまえ自身がその毒を飲め。
そして PAX。パクス、平和。
この Vade retro Satana の一文は、しばしば「悪魔祓いの祈り」と紹介される。
ただし文法上は二人称単数への呼びかけであり、形式としては命令形にあたる。
信徒がメダイを身につけ、その刻文を黙して思うこと。他人に対して声高に命令形を唱えること。この二つはまったく別のことがらで、この点は誤解が多い。
メダイは司祭または助祭によって祝福され、ベネディクト会士である必要はない。
祝福を受けたメダイは、首から下げる、身につける、車や家に置く、といった用い方が認められている。
一七四一年から翌年にかけて教皇ベネディクト十四世が正式に承認した。一八八〇年の聖ベネディクト生誕一四〇〇年記念に作られた「ジュビリー・メダイ」が、現在最も普及している意匠だ。
注意すべきは、これらが護符ではないという点である。
前述のとおり、祝福によって恩恵が及ぶのは物ではなく人だ。メダイを身につけていれば何が起きても大丈夫、という理解は、教会の教えからはむしろ迷信として退けられる。
家の祝福を司祭に依頼する
「家の中で不穏なことが続く」という相談に対して、教会が用意している最も一般的な応答がある。家の祝福だ。
これは祓魔式ではなく、通常の祝福であり、信徒が気軽に依頼してよい。
依頼の手順は難しくない。
一つ。所属する、あるいは最寄りの小教区の教会に電話またはメールで連絡する。日本では平日昼間に事務所が開いていることが多い。
二つ。「自宅の祝福をお願いしたい」と伝える。理由を細かく説明する必要はないが、気がかりなことがあるなら率直に話してよい。
三つ。日程を調整し、新居への引っ越し、年始、家族の節目などが選ばれることが多い。
カトリックの伝統では主の公現の祭日に家を祝福する慣習があり、一月六日、または一月の主日だ。この時期に希望が集中することもある。
四つ。当日は家族が集まり、司祭とともに祈る。
ローマ典礼儀式書の公現の家の祝福では、順序が定まっている。挨拶、マリアの賛歌(マニフィカト)、聖水の散布と場合により献香、主の祈り、そして家と住む人々のための祝福の祈りが唱えられる。
五つ。公現の慣習では、玄関の上に祝福された白墨で記号を書き記す。二〇の後にプラス、C、プラス、M、プラス、B、プラス、二六といった形だ。
数字はその年を表す。CとMとBは東方の三博士の名の頭文字であり、カスパル、メルキオール、バルタザール。
同時にこれは Christus mansionem benedicat というラテン語の頭文字でもある、と説明される。キリストがこの住まいを祝福してくださいますように、という意味だ。
謝礼についても述べておこう。
日本の慣習では、交通費程度を包む、あるいは献金として教会に納めるのが一般的だ。金額を提示して請求されることはまずない。
「除霊料」「浄化料」として高額を請求されたなら、それはカトリックの実践ではない。この点は後述の霊感商法の節と直結する。
なお興味深い点があり、公現の家の祝福は司祭が不在の場合、家長が行ってもよいと儀式書に明記されている。
信徒が自宅のために祈ることは、教会の伝統のなかにきちんと居場所を持っているわけだ。
東方正教会の祓魔
キリスト教の他の伝統ではどうか。
東方正教会もまた、祓魔を教会の実践として保持している。
最も日常的なのは、やはり洗礼式に含まれる祓魔だ。
正教会の洗礼式では、受洗者または代父母が西を向いて悪魔を拒否し、東を向いてキリストに従うことを宣言する。
ギリシャ正教大主教区の解説によれば、「洗礼における悪魔の拒否は、正教会で行われるすべての洗礼で用いられている」。
憑依に苦しむとされる人のためには、聖大ワシリイ(バシレイオス)に帰される三つの祓魔の祈りが祈祷書に収められている。不浄な霊の働きから人を解放するよう神に願う内容だ。
聖金口イオアン(ヨハネス・クリュソストモス)に帰される祈りも伝えられる。
正教会の説明で特徴的なのは、「祓魔師」を階層的に捉える視点である。
究極の祓魔者はキリストで、司祭は秘跡と説教を通じてその働きに与る。そしてすべての正教徒は自らの罪と悪との闘いにおいて祓魔の務めを担う。こういう三重の理解が示され、教会全体が「罪と悪と不正を追い払う」務めを負うのだ、と。
同時に、正教会も慎重さを強調する。
魔術的な儀礼や迷信を明確に退ける。弱い立場にある人々につけこむ詐術者への警戒を促す。そして祓魔は呪文ではなく信仰と祈りと断食によるものだと述べている。
ルーマニア正教会で二〇〇五年に修道女が儀式の過程で死亡したと報じられた事件があった。これは正教会内部でも大きな議論を呼び、監督体制の見直しにつながったとされる。
聖公会の「解放の奉仕職」
聖公会(アングリカン・コミュニオン)は、この領域を「エクソシズム」とは呼ばない。「解放の奉仕職(deliverance ministry)」と呼ぶことを好む。
用語の選択自体が、センセーショナルな連想を避けようとする姿勢を示している。
イングランド国教会では、一九七〇年代に方針が整備された。
一九七五年に大主教らが示した指針以来、体制が敷かれている。各教区に解放の奉仕職の顧問を置き、教区主教の認可のもとでのみ実施する体制だ。個々の教役者が独断で行うことは認められない。
現行の指針は、安全管理(セーフガーディング)の枠組みのなかに位置づけられている点が特徴的だ。
公表されている内容には、次のような要素が含まれる。
教区のチームは医療専門職と協働すること。精神科医、心理士、かかりつけ医などだ。
身体接触を伴う正式な式については医療専門職への相談が必須であること。
一六歳未満については条件が厳しい。保護者の書面同意と、教区セーフガーディング担当者および医療専門職への相談を経た主教の認可が要る。
年に一度以上、チームがセーフガーディング担当者と会合を持つこと。
そして、性的指向を変えようとする目的でこの奉仕職を用いることは、本人の同意があっても禁じられること。
暴力的な「悪魔祓い」によって子どもや成人に差し迫った危険があると疑われる場合には、ただちに警察に連絡すべきこと。
宗教史家フランシス・ヤングの研究は、この制度化の経緯を詳細に跡づけている。聖公会の解放の奉仕職が、一九七〇年代のオカルト・ブームと、それに伴う事件を受けて制度化された経緯だ。
すなわち、この制度化は「悪魔が増えたから」始まったのではない。「無統制な実践が危険だったから」始まった。
ペンテコステ派のデリバランス
ペンテコステ派とカリスマ派の「デリバランス・ミニストリー」は、カトリックや聖公会とはかなり異なる論理で動いている。
歴史的には、二〇世紀初頭のペンテコステ運動に淵源がある。そして一九六〇年代以降のカリスマ運動のなかで大きく広がった。
神学的には、「霊的戦い(spiritual warfare)」の枠組みが中心にある。
悪しき霊は、人の生活に入り込みうるとされる。その通路になるのが、罪深い品物、先祖から受け継がれた呪い、個人の罪などだ。
カトリックとの主な違いは四点にまとめられる。
第一に、制度的統制の弱さ。中央集権的な認可手続きを持たない教派が多く、実践の内容は牧師や教会ごとに大きく異なる。
第二に、儀礼性の低さ。定型の式文や聖水や十字架といった聖具に依存せず、聖霊の導きに応じて即興的に祈られることが多い。
第三に、対象の広さ。カトリックが「憑依」を極めて限定的に扱うのに対し、デリバランスはより広く「霊的な圧迫」全般を対象とする。しかも信仰者自身がその対象になりうると考える。「クリスチャンは憑依されないが、圧迫は受けうる」という定式がしばしば用いられる。
第四に、当事者の能動性。受ける側が自ら罪を告白し、赦しを宣言し、断ち切りを言葉にすることが重視される。
批判も少なくない。
同じ福音派の内部からも指摘があり、聖書解釈上の根拠が薄いこと。心理的問題を霊的問題に還元してしまうこと。そして依存や搾取を生みやすいこと。
とりわけアフリカやその移民コミュニティにおいて深刻な事例が国際的に問題化している。子どもが「魔女」「悪霊憑き」とみなされ虐待に至った事例で、複数の国際機関が警鐘を鳴らしている。
四つの伝統を並べて整理しておこう。
カトリックは祓魔式と呼び、教区司教の個別許可を要し、儀式書に定型があり、事前評価を必須と規定している。
東方正教会は祓魔の祈りと呼び、主教の管理下にあり、祈祷書に定型があり、慎重さを強調する。
聖公会は解放の奉仕職と呼び、教区主教の認可と顧問制をとる。儀礼は比較的簡素で、医療職との協働を明記している。
ペンテコステ派等はデリバランスと呼び、認可の仕組みは教派や教会ごとに多様だ。儀礼は即興的で、医療との関係は教会により大差がある。
精神疾患の誤認という最大の問題
ここからは、この主題を扱ううえで避けて通れない領域に入る。
エクソシズムをめぐる最大の危険は、超自然的な何かではない。治療可能な疾患を持つ人が、適切な医療から遠ざけられることだ。
憑依とされてきた症状と鑑別を要する状態は、少なくとも次のように整理される。
統合失調症をはじめとする精神病性障害。幻聴、つまり悪魔や霊の声を聞くこと。被影響体験、つまり自分の行動が外部から操られていると感じる「させられ体験」。これらはこの領域の中核的な症状だ。
当事者が自らの体験を「憑依」という文化的枠組みで説明するのは、むしろ自然な帰結でもある。
解離性障害。解離性同一症では、複数の人格状態が交代して現れる。声色や仕草、名乗る名前が変わることもあり、外形的には憑依と区別しがたい。
背景にトラウマ体験があることが多い。必要なのは追い出す儀式ではなく、安全な環境と時間をかけた治療だ。
てんかん、とりわけ側頭葉てんかん。発作時や発作間欠期に、様々な症状が現れうる。既視感、恐怖、宗教的高揚、自動症、意識変容で、自動症とは本人の意図によらない反復動作である。
歴史上、憑依とされた事例のうち相当数がこれで説明されうるという指摘は根強い。
器質性の疾患。自己免疫性脳炎、たとえば抗NMDA受容体脳炎などがある。精神症状、不随意運動、けいれん、自律神経症状を伴う。初期に精神疾患や「憑依」と誤認された症例報告が国際的に蓄積されている。
治療により回復しうる疾患であるだけに、誤認の代償は大きい。
そのほか、双極性障害、重度うつ病、薬物やアルコールの影響、睡眠障害、内分泌疾患。いずれも行動や情動の劇的な変化を引き起こしうる。
精神医学の側からの提言は、二つの極端をともに避けるよう促している。
あらゆる訴えを霊的なものとして扱うこと。逆に「本物か妄想か」という単純な二分法に押し込めること。どちらも当事者の助けにならない。
当事者の文化的背景を尊重しつつ、必要な医療にアクセスできる状態を確保する。これが実務上の最低ラインだ。
もしあなた自身、あるいは身近な人に症状があるなら、まず医療機関を受診してほしい。幻覚、妄想、強い希死念慮、意識の混濁、けいれん、急激な人格変化といった症状だ。
儀式や祈りは、それを妨げるものであってはならない。
祓魔の名の下に起きた死傷事件
祓魔の名のもとに人が傷つき、命を落とした事例は、残念ながら複数報告されている。
以下は事実関係として確認されている範囲で記す。かつ亡くなった方や遺族を興味本位に扱わない範囲でだ。
最もよく知られているのが、一九七六年にドイツで亡くなったアンネリーゼ・ミシェルさんの事例である。
報じられているところによれば、彼女は十代の頃から発作を経験し、てんかんの診断を受けて治療を受けていた。ところが次第に精神症状が現れ、家族と本人が悪魔憑きであると考えるようになった。
一九七五年から翌年にかけて、司教の許可を得た司祭により多数回にわたる祓魔式が行われたとされる。
この期間に彼女は食事を極端に制限するようになった。そして一九七六年七月、栄養失調と脱水により二三歳で死亡した。
翌々年の裁判で、両親と二人の司祭が過失致死の罪に問われ、有罪判決を受けたと報じられている。執行猶予付きだった。
医学的な検討としては、ある見解が有力に主張されてきた。側頭葉てんかんに精神病性の症状が重畳した状態だった、というものだ。
この事例が示す最大の教訓は明確である。儀式が行われたこと自体よりも、医療的な管理が中断されたことが致命的だった。
ドイツのカトリック教会はこの事件の後、祓魔式の運用をより厳格化したと伝えられている。
そのほか、報じられている事例もある。二〇〇五年にルーマニアの修道院で若い修道女が儀式の過程で亡くなったとされる事件。米国や英国で子どもに対する「悪霊追い出し」が虐待事件として立件された複数の事例。
国際的な報道では、アフリカや南アジアの一部地域で、子どもが「魔女」とみなされて暴力を受ける事案も継続的に問題とされている。
これらに共通する構造は、次の三点にまとめられる。
一つ、医療の中断または不在。二つ、外部の目が入らない閉じた環境、三つ、拘束や絶食や長時間の反復といった身体的負荷。
逆に言えば、これらを避けることが、あらゆる宗教的実践における最低限の安全基準になる。
改めて確認しておく。大祓魔式は、司教の許可を得た司祭のみが行える儀式で、素人が他人に対して行ってはならない。
拘束し、食事や睡眠を制限する。長時間の儀式を強おり、医療を受けさせない。
これらはいずれも、宗教的動機の有無にかかわらず、日本の刑法上、暴行や傷害や監禁等の罪を構成しうる行為である。
日本の加持祈祷事件と現行法
日本でも、祈祷が絡んだ死傷事件は複数起きている。
憲法学の教科書に必ず載る判例が、いわゆる加持祈祷事件で、最高裁大法廷判決、昭和三八年五月一五日である。
判決文および解説によれば、事案の概要はこうだ。
一九五八年、ある僧侶が、精神の変調を訴える一八歳の女性について、その母親から平癒の依頼を受けた。
読経や数珠による方法で効果がないとして、線香護摩による加持祈祷を行うことにした。
その過程で女性の手足を縛り、燃える護摩壇の近くに強引に押さえつけ、線香の煙を浴びせ、背中を殴打するなどしたのだ。女性は約四時間後に急性心臓麻痺により死亡した。
最高裁は、この加持祈祷が「医療上一般に承認された治療行為とは認め得ない」と判断した。
そして他人の生命や身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使にあたる、と述べたのだ。これを傷害致死罪で処罰することは憲法二〇条一項の信教の自由の保障の限界を逸脱しない、と判示している。
この判例が確立したのは、信教の自由は無制限ではないという原則だ。
宗教的動機に基づく行為であっても、著しく反社会的で他者の生命や身体を害するものは、刑事責任を免れない。これは仏教であれキリスト教であれ、あるいはいかなる新宗教であれ、等しく適用される。
近年も、日本国内で「除霊」「浄霊」を名目とした暴行や監禁の事案が報道されている。医療を受けさせなかったことによる死亡事案もある。
信仰の名のもとであっても、身体への有形力の行使や医療の妨害が許されるわけではない。この一線は、司牧の現場に立つ聖職者自身が最もよく理解しているところでもある。
費用を請求する自称祓魔師
もう一つの深刻な問題が、金銭だ。
カトリックにおいて、祓魔式や祝福に対価を請求することは想定されていない。準秘跡の授与を商取引にすることは、教会法上も倫理上も認められない。
したがって、「悪魔祓いには何十万円かかります」と言われた時点で、それはカトリックの実践ではないと判断してよい。
日本では、こうした手口は「霊感商法」あるいは「開運商法」と呼ばれ、消費者行政の重点課題とされてきた。
各地の消費生活センターが公表する典型例は、次のようなものだ。
無料や少額の占いや鑑定から入る。「このままでは家族に不幸が起きる」「先祖の因縁がある」といった不安をあおる。
次に「これを買えば助かる」「祈祷を受ければ解決する」と持ちかけ、次々と商品や祈祷を勧める。金額は次第に高額化し、支払いのために借金を勧められることもある。
やめようとすると「途中でやめると悪いことが起きる」と告げられ、抜け出せなくなる。オンラインの占いサイトやSNSを入口とする形態も増えているとされる。
法制度の側の対応も見ておこう。
まず消費者契約法に、いわゆる霊感等による告知を用いた勧誘についての取消権が定められている。
さらに二〇二二年に成立した「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」がある。不当寄附勧誘防止法で、二〇二三年から順次施行されている。
同法は、霊感等を用いて不安をあおり、寄附が必要不可欠であると告げるような勧誘を禁止行為として定めた。そしてこれによってなされた寄附の意思表示の取消しを可能とする仕組みを設けている。
困ったときの相談先を挙げておこう。
消費者ホットラインは一八八(いやや)。局番なしで一八八にかけると、最寄りの消費生活センター等につながる。何から相談してよいかわからない段階でも利用してよい。
法テラス(日本司法支援センター)。霊感商法被害に関する専用の相談窓口が設けられている。経済的余裕がない場合の無料法律相談や、弁護士費用の立替制度がある。
警察相談専用電話は九一一〇番にかける。暴行、監禁、詐欺などの犯罪にあたる可能性がある場合で、緊急時は一一〇番。
各都道府県の弁護士会も窓口になる。霊感商法やカルト問題に取り組む弁護士グループが各地にある。
支払ってしまった後でも、取り戻せる可能性はある。契約書や振込記録、やりとりの履歴を保存したうえで、早めに相談してほしい。
日本のカトリック教会における祓魔師
日本のカトリック教会において、祓魔師の存在はきわめて限られている。
報道によれば、二〇二〇年代半ば時点で、条件を満たす司祭はただ一人とされる。ローマの教皇庁立大学で祓魔について正式に学び、日本国内で祓魔式に携わったことのある司祭だ。
二〇一〇年に神学校を卒業し、ローマで学んだのち、二〇一六年に正式な任命を受けたと伝えられる。もともとは化学メーカーの技術者だったという経歴も報じられている。
その司祭がインタビューで語っている内容は、通俗的なイメージとはかなり異なる。
要旨として伝えられているところによれば、実際に祓魔師として出動した件数は数件にとどまる。そのうち「これは真正の憑依だ」と確信した例はまだない、という。
相談者の多くは心理的な問題やトラウマを抱えている。なかには怪しげな「除霊師」に搾取されてきた人も少なくない、と述べている。
精神医学の専門家との連携を重視しつつ、それでも「一縷の望みをかけて連絡してきている」人を見放さない。そういう姿勢が語られている。
この証言は、ここまで整理してきた枠組みと正確に一致している。
すなわち、制度としての祓魔式は存在する。ただし実際に発動される場面はきわめて稀であり、実務の大半は識別と、適切な支援先への橋渡しである。
なお、日本語圏で「エクソシスト」を名乗る民間のサービスが多数存在する。それらはカトリック教会の任命とは無関係だ。
教会が任命した祓魔師は、自分でその肩書きを宣伝することもなければ、料金表を掲げることもない。
映画『エクソシスト』以後のイメージ
現在私たちが「悪魔祓い」という語から思い浮かべるイメージの大半は、実のところ一本の映画に由来している。
ウィリアム・フリードキン監督、ウィリアム・ピーター・ブラッティ原作の映画『エクソシスト』、一九七三年だ。公開当時から社会現象となった。
少女の顔が変貌し、首が回転し、ベッドが浮遊し、司祭が十字架を掲げて「その子から出ていけ」と叫ぶ。この一連のイメージが、以後半世紀にわたって共通理解を形づくった。「悪魔祓いとはこういうものだ」という理解である。
日本でも一九七四年に公開され、大きな反響を呼んだ。
当時の日本には「悪魔祓い」という文化的文脈がほとんど存在しなかった。にもかかわらず、この映画によって語彙とイメージが一挙に輸入されたことになる。
以後、日本のホラー作品、漫画、アニメ、ゲームにおける「エクソシスト」像は、ほぼこの映画の系譜上に置かれている。
問題は、このイメージが実務と乖離していることだ。
実際の祓魔師が語る内容は、静かで、地味で、しばしば徒労感を伴う。相談を聞き、生活史を辿り、医師に紹介し、祈る。派手な現象は起きないことのほうが圧倒的に多い。
さらに厄介なのは、フィクションが「症状の脚本」を提供してしまうという現象だ。
何が憑依の徴候とされるかを人々が知っていれば、苦しむ人の症状がその脚本に沿って形づくられる可能性がある。
これは詐病を意味せず、文化が用意した表現の型に、無意識の苦痛が流れ込むということだ。この点は、次に扱う懐疑的検証の中核をなす論点でもある。
なお、二〇一七年には実際の祓魔式の現場を撮影したとされるドキュメンタリー映画が公開され、日本でも紹介された。フィクションの外にある実務への関心が、少しずつ広がってはいるらしい。
匿名化した五件の語り
以下は、日本語圏のブログ、ノート、質問サイト、SNS、動画コメント欄などに繰り返し現れるパターンを再構成した架空の事例だ。特定の個人が識別できない形にしてある。
実在の特定人物の記録ではない。効果を感じたという語りと、医療によって解決したという語りの双方を含めている。
一件目。家の祝福を受けて落ち着いたという語り。三〇代、関東。
中古の一戸建てに引っ越してから、家族全員が寝つけなくなった。夜中に物音がする気がして、子どもが夜泣きを繰り返した。
近隣のカトリック教会に相談したところ、神父が来て家の祝福をしてくれたのだ。
玄関、各部屋、水回りを回りながら聖水をふりかけ、短い祈りを唱えるだけ。十五分ほどの簡素なものだった。
謝礼を申し出たが受け取らず、献金箱への献金だけを勧められたという。
その日から急に何かが変わったわけではない。ただ「もう自分たちだけで抱えていない」と思えたのが大きく、二週間ほどで家族の睡眠は元に戻った。
あとから考えれば、引っ越しの疲れと不慣れな環境が原因だったのだと思う、と本人は書いている。
二件目。精神科受診で解決したという語り。二〇代、関西。
大学四年の頃から、自分の考えが誰かに操られている感覚があり、悪い霊に取り憑かれたのだと確信していた。
ネットで見つけた「霊能者」に十数万円を払ったが、何も変わらなかった。
親に説得されて渋々精神科を受診したところ、統合失調症の診断を受けたのだ。服薬を始めて三か月ほどで、「操られている」という感覚は薄れていった。
「振り返ると、あの確信自体が症状だったのだと思う。あのとき無理にでも病院に連れて行ってくれた親には感謝している。もっと早く受診していれば、あのお金も時間も失わずに済んだ」
三件目。聖ミカエルへの祈りを日課にしたという語り。四〇代、中部。
職場の人間関係が最悪で、毎朝、家を出るのが怖かった。信者である知人に相談したところ、聖ミカエルへの祈りを教えてくれた。
ラテン語は難しいので日本語で、通勤の電車の中で唱えるようにしたという。
状況が変わったわけではない。ただ、「自分ひとりで戦っているのではない」と思えるようになり、少しずつ言い返せるようになった。
半年後に部署異動が決まって環境が変わった。「祈りが異動を呼んだとは思っていないが、あの半年を持ちこたえられたのは祈りのおかげだと思っている」
四件目。高額請求を受けて相談窓口に駆け込んだという語り。五〇代、九州。
家族の病気が続き、藁にもすがる思いで「除霊」を掲げる事業者に相談した。
最初は五千円の鑑定だった。次に「先祖の因縁が強い」と言われて三十万円の祈祷を勧められ、支払ったのだ。さらに「もう一段階必要」と言われて、今度は百万円を超える額を提示された。
さすがにおかしいと思い、消費者ホットラインの一八八に電話した。
消費生活センターの相談員が親身に聞いてくれて、消費者契約法の取消権の話や、弁護士会の窓口を教えてくれたという。結果として一部は返金された。
「あのとき電話していなければ、と思うとぞっとする」
五件目。結局のところ疲労だったという語り。三〇代、北海道。
深夜に金縛りが続き、部屋の隅に人影が見える気がした。心霊系の動画を見あさり、悪魔祓いを探した。
だが同時に受けた健康診断で睡眠時無呼吸を指摘されたのだ。そちらの治療を始めたところ、金縛りも人影もぱたりと止んだ。
あとで調べたら、入眠時幻覚と睡眠麻痺という現象だと知った。睡眠不足や不規則な生活で起きやすいという。
「あのとき数十万円払って除霊を受けていたら、除霊が効いたと信じていたと思う。実際に効いたのは治療器のほうだった」
これらの語りは、いずれも典型的なパターンを含んでいる。
大事なのは、「効果を感じた」という語りと「医療で解決した」という語りが、しばしば同じ人のなかに共存しうることだ。祈りが支えになったことと、医療が必要だったことは、両立する。
暗示と期待効果、儀礼の作動原理
儀式に「効果を感じる」人がいることは、事実であり、問題は、その効果をどう説明するかだ。
まず期待効果とプラセボから見ていこう。
医療研究の蓄積が示すところによれば、治療への期待そのものが実際の変化を生む。痛み、不安、抑うつ、疲労といった主観的な症状を実際に軽減させる。
しかもプラセボ効果の大きさは、儀礼の「濃さ」に相関することが知られている。
注射は錠剤より効く。高価な薬は安価な薬より効く。権威ある治療者による丁寧な説明を伴う処置は、そうでないものより効く。
この観点から見ると、祓魔式は「儀礼の濃さ」を最大化した装置だ。
特別な資格を持つ人物。聖別された道具、古い言語、繰り返される定型句。共同体の立ち会い。そして時間の長さ。これらすべてが期待を高める方向に働く。
次に暗示について。
ここで肝心なのは、暗示が「騙し」を意味しないという点だ。
人の身体は、言葉によって実際に変化する。「これから聖水をかけます」と告げられ、それに苦しむと予期している人が、実際に苦悶するのは、演技とは限らない。
心理学が「反応期待(response expectancy)」と呼ぶ現象である。
さらに儀礼のもつ感覚的な作用を指摘する研究もある。
人類学者アンドレア・デ・アントーニによる現代日本の除霊実践の調査は、興味深い視角を提供している。
徳島の神社での実践を対象とした研究によれば、金属製の鈴のついた道具を用いる所作がある。この所作が、身体感覚を音や触覚へと切り替え、特定の体感を引き起こす。圧迫感、あくび、温かさといった体感だ。
参加者はその体感を「効いている」という筋書きに結びつけ、効力の実感を得る。同研究では、インタビューした来訪者の約六四パーセントが定期的に再訪しているという。
デ・アントーニは、これを信念の体系というより「情動の技術(affective technology)」として捉えるべきだと論じている。
つまり、儀礼は「信じているから効く」のではないのかもしれない。「身体感覚を組み替えることで、効いたという実感を生む」ということだ。
集団心理とルーダンの再検討
個人ではなく集団に憑依が広がる現象については、別の枠組みでの研究が積み重ねられている。
集団心因性疾患(mass psychogenic illness)、あるいは集団社会因性疾患(mass sociogenic illness)だ。
この現象の典型的な条件として、研究者が示してきたのは次のようなものである。
閉鎖的または半閉鎖的な集団であること。強いストレスや不安が共有されていること。成員が互いを密に観察できる環境にあること。そして、症状の「意味づけ」を与える共有の解釈枠組みが存在すること。
ルーダンの修道院は、この条件を驚くほどよく満たしていた。
閉ざされた共同生活。ペストの記憶、若い女性たちの限定された生活空間。そして「悪魔憑き」という当時なら誰もが理解できた解釈枠組み。
さらに、公開の祓魔式が観客を呼び、注目が集まることで、症状が強化される回路も生まれた。
ルーダンの憑依がグランディエの死後も続いたという事実は、示唆的だ。憑依が単なる政治的でっちあげでも、単なる詐術でもなかったことを示している。
何かが実際に起きていたわけで、ただしそれは、悪魔ではなく、集団の心的過程だった。そういう解釈である。
歴史上、同種の現象は繰り返し記録されている。
中世ヨーロッパの「舞踏病」。修道院での集団的な猫の鳴き真似や噛みつき。二〇世紀の学校や工場での集団失神や過呼吸。そして近年ではソーシャルメディアを介して広がったとされるチック様症状の集団発生。
媒体と語彙は変わるが、構造は驚くほど似ている。
この視点は、当事者を貶めるためのものではない。
むしろ逆で、「あの人たちは嘘つきだった」という説明を退けるためのものだ。
症状は本物であり、苦痛も本物であり、ただしその原因は、外部から侵入した霊ではない。集団のなかで共有された不安と、それに形を与える文化的な脚本にある。そういう理解だ。
文化依存症候群としての憑依
精神医学は長らく、憑依をどう扱うべきか苦慮してきた。
DSM-IVでは「解離性トランス障害」が今後の研究のための診断として付録に置かれた。
DSM-5では、解離性同一症の診断基準のなかに「憑依体験の形をとる場合がある」という表現が組み込まれたのだ。
すなわち、憑依が病理と見なされるのは限定的な場合だ。それが本人の文化のなかで受け入れられた実践の範囲を超え、苦痛や機能障害を引き起こしている場合に限られる。
この「文化のなかで受け入れられた範囲」という条件は決定的に大事である。
宗教儀礼のなかで神霊を憑依させる実践は世界中に存在し、それ自体は病理ではない。
日本のイタコ。ブラジルのスピリティズムの霊媒、西アフリカ由来の憑依儀礼。枚挙にいとまがなく、むしろ、そうした実践が共同体のなかで肯定的な役割を担っている例のほうが多い。
しかし、この整理には難しさもある。
ウガンダでの調査研究は、現地で「霊に憑かれた」とされる患者の症状を検討した。そしてDSMの憑依トランス障害の基準では十分に捉えきれないことを示した。
文化が移行しつつある地域では、伝統的な枠組みと医学的な枠組みのどちらにも収まらない訴えが増える、という指摘もある。
神経科学の側からは、トランス状態の脳内基盤に関する研究が進んでいる。
憑依トランスを行う霊媒を対象とした脳画像研究がある。筆記中のトランス状態において、前頭葉の言語生成や計画に関わる領域、および海馬の活動が、通常状態と比べて低下していたと報告されている。
研究者はこれを、「自己の主体感(sense of agency)」の減弱と関連づけて論じている。
別の研究群は、トランス状態における前頭前野と頭頂葉のネットワークの変化を報告している。自己参照処理に関わるデフォルト・モード・ネットワークの変調もだ。
これらの知見は、「憑依は脳の状態だから偽物だ」ということを意味しない。
主体感の変容は、脳の状態として実在するということを意味する。当事者が「自分ではない何かが動かしている」と感じるとき、その感覚には対応する神経基盤がある。
それを霊として解釈するか、解離として解釈するかは、説明の水準の問題だ。
それでも当事者にとって意味を持つ理由
ここまで懐疑的な検討を重ねてきた。それでもなお、儀礼が人にとって意味を持ち続けている理由を考えておきたい。
第一に、苦しみに名前と物語を与える。
説明のつかない苦痛は、それ自体が二次的な苦しみを生む。「なぜ自分がこんな目に」という問いに答えがないことほど、人を消耗させるものはない。憑依という枠組みは、少なくともその問いに一つの形を与える。
第二に、責任の再配置を可能にする。
憑依という説明は、その行動が「本人のせいではない」ことを含意する。
カトリックの神学が「憑依された者に罪はない」と明言してきたことは、この機能と無関係ではない。自責の念に押しつぶされている人にとって、これは救いになりうる。
第三に、孤立を破る。
儀式は必然的に他者を巻き込む。司祭、家族、共同体。「あなたのために祈る人がいる」という事実そのものが、社会的支持として作用する。
孤立が心身の健康に及ぼす害の大きさを考えれば、これは軽視できない要素だ。
第四に、終わりを設定する。
儀礼には始まりと終わりがあり、「これで終わった」という区切りは、慢性的な苦しみに時間的な構造を与える。日本の民俗行事における厄払いや、喪の儀礼が果たしてきた機能と同じである。
第五に、身体を通じた変化を起こす。前述の「情動の技術」としての側面で、言葉ではなく、体感を通じて何かが変わるという経験である。
こうした機能は、儀礼が超自然的に作動しているかどうかとは独立に存在する。だからこそ、この主題は「本当か嘘か」という問いだけでは扱いきれない。
ただし、ここが決定的に大事なのだが、これらの機能は医療の代替にはならない。
名前を与えられ、孤立を破られ、区切りをつけてもらったとしても、統合失調症は治らない。てんかんの発作は止まらず、脳炎は進行する。
儀礼が果たしうるのは、治療と並行して、あるいは治療の後に、意味を回復する営みだ。両者を対立させ、一方を選ばせようとする言説には、注意しなければならない。
祓魔式をどう受け止めるか
長い歴史を辿ってきた。要点を整理しておこう。
一つ。エクソシズムは二千年の歴史を持つが、その大半は洗礼をめぐる日常的な祈りの歴史だ。劇的な大祓魔式は、一貫して例外的な措置だった。
二つ。制度は繰り返し「制限」の方向に整えられてきた。一六一四年の儀式書も、一九一七年と一九八三年の教会法も、一九九九年の新規定も、権能を広げるためではない。無資格者と乱用を排除するために作られている。
三つ。現代の運用の中心は、医学的で精神医学的な評価である。教会自身が、憑依でないものを見分けることに最大の労力を割いている。
四つ。大祓魔式は、教区司教の特別な許可を得た司祭のみが行える。素人が他人に対して行ってはならず、これは繰り返してきた点だ。
五つ。信徒に開かれているのは、自分と自分の家庭のための、嘆願形の祈りである。主の祈り、アヴェ・マリア、使徒信条、聖ミカエルへの祈り、聖水、祝福された品。これらは自己防御と平安のための実践であり、他者を攻撃するものではない。
六つ。危険は超自然の側ではなく、人間の側にあり、医療の中断、閉じた環境、身体的負荷、そして金銭の要求。歴史上の悲劇はすべてこの四つに帰着する。
七つ。それでもこの営みが人にとって意味を持ってきた理由は、説明できる。意味づけ、責任の再配置、孤立の解消、時間的な区切り、身体感覚の変化。これらは実在する働きだ。
歴史を知るということは、他人の信仰を嘲笑するためではなく、自分がどこに立っているかを知るためにある。
二千年かけて整えられてきたこの制度が、なぜこれほど慎重なのか。その理由を辿ることは、私たち自身が不安や苦しみとどう向き合うかを考える手がかりにもなるはずだ。
信徒が自分と自宅のためにできること
ここからは、信徒が自分自身と自宅のために行える範囲の実践を、番号をつけて具体的に記す。
はじめに、この節全体にかかる前提を明記しておく。
これは自分と自宅のための守りの祈りで、他人に対して行う儀式ではない。
他人に施すこと、他人に強要すること、他人を対象に命令形の祈りを唱えること。これらはいずれもこの記事の扱う範囲外であり、行ってはならない。
大祓魔式は、教区司教の特別な許可を得た司祭のみが行える儀式である。
また、心身に不調がある場合は医療機関の受診が最優先だ。宗教的実践は、医療や法律や経済的判断の代わりにはならない。
用意するものから見ていこう。
一つ、聖水。所属する、あるいは最寄りのカトリック教会に相談する。「自宅で使いたいので少し分けていただけますか」と伝える。小さな清潔な容器を持参し、ふた付きの小瓶が扱いやすい。
専用の聖水入れも教会の売店やカトリック用品店で入手できる。入手できない場合、この実践は聖水なしでも成立し、聖水は必須ではない。
手に入らないからといって効力が減じる、といった考え方は、教会の理解では迷信にあたる。
二つ、十字架またはクルシフィクス。壁に掛けられるもの、あるいは手に持てる小さなもの。これも必須ではないが、視線を向ける対象があると祈りが安定しやすい。
三つ、ロザリオ。唱える祈りの数を数えるための道具で、指で繰るという身体動作が、集中を助ける。持っていなければ、指を折って数えてもよい。
四つ、聖ベネディクトのメダイ、または好みの聖人のメダイ。カトリック用品店で入手でき、司祭または助祭に祝福してもらえる。護符ではないことを忘れないでほしい。
五つ、ろうそく。火を使う場合は、必ず不燃性の受け皿の上に置き、目を離さず、就寝前に必ず消す。小さな子どもやペットがいる家庭では、電池式のものを使うほうが安全だろう。
六つ、小さなノート。何を、いつ行ったか、そのとき自分がどう感じたかを記録するためだ。これは後述する「中止基準」の判断材料として、実は最も大事な道具になる。
時刻と頻度
七つ。朝と夜、一日二回を基本とし、朝は起きてすぐ、夜は就寝前。それぞれ五分から十分程度でよい。
八つ。家全体を巡る実践は、週に一度、あるいは月に一度で十分だ。
毎日行う必要はない。むしろ、頻度を上げなければ不安になるという状態になったら、それは中止を検討すべきサインである。
九つ。深夜に長時間行うことは避ける。睡眠を削ってまで祈ることを、教会は勧めていない。休息は善いものであり、体を壊してまで行う実践は、その目的を裏切っている。
十。節目に行うのもよい。引っ越しの日、年始、家族の誕生日、大きな決断の前。カトリックの伝統では主の公現、一月六日前後に家を祝福する慣習がある。
日々の祈りの唱え方
十一。十字架のしるしから始める。右手で額、胸、左肩、右肩の順に触れながら唱える。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
十二。主の祈りを唱える。文言は先に挙げたとおりだ。
最後の「悪からお救いください」を、少しゆっくり唱えるとよい。ここが、この祈り全体において悪からの解放を願う中心の一句である。
十三。アヴェ・マリアの祈りを唱える。
十四。使徒信条を唱える。心を落ち着けたいときや、不安が強いときに加える。
十五。聖ミカエルへの祈りを唱える。ラテン語でも日本語でもよい。日本語で唱えるほうが、意味を味わえる人が多いだろう。
十六。栄唱で結ぶ。栄光は父と子と聖霊に。初めのように、今もいつも世々に。アーメン。
十七。最後にもう一度、十字架のしるしをする。
この祈りはすべて嘆願形だ。
神に願い、聖人に取り次ぎを求める形をとっており、悪しきものに直接命令する言葉は含まれていない。これが、信徒に開かれた領域の境界線である。
命令形の式文を自分で作ったり、どこかから写して唱えたりしないでほしい。
家の各部屋を巡る
十八。順序を決める。玄関から始め、時計回りに家全体を回り、最後に玄関に戻る。
これは動線を単純にして迷わないための実務的な工夫で、方位に霊的な意味を持たせるものではない。
十九。玄関で。十字架のしるしをし、次のように祈る。
主よ、この家に入るすべての人と、ここから出ていくすべての人を守ってください。この家を、平和と、いたわりと、休息の場所としてください。アーメン。
聖水があれば、指先につけて入口の枠に軽く十字を描く。なければ、手で十字架のしるしをするだけでよい。
二十。各部屋で。部屋の中央に立ち、短く祈る。
主よ、この部屋を祝福してください。ここで過ごす者に安らぎを与え、悪しきものから守ってください。アーメン。
聖水があれば、部屋の四方に向けて少量ずつふりかける。家具や電化製品にかからないよう注意してほしい。量はごく少なくてよい。
二十一。寝室では、休息のための祈りを加える。
主よ、この場所で眠る者に、安らかな眠りをお与えください。夜の不安から守り、朝に新しい力を与えてください。アーメン。
二十二。台所と食卓では、糧への感謝を加える。
主よ、この食卓に与えられる糧を感謝します。ここに集う者の交わりを祝福してください。アーメン。
二十三。子ども部屋では、子ども自身を怖がらせないよう配慮する。
「悪いものを追い出す」といった言い方はせず、「守ってもらうための祈りだよ」と伝えるほうがよい。子どもに対して、恐怖を煽る説明を決してしないこと。
二十四。最後に玄関に戻り、主の祈りを唱えて締めくくる。
二十五。所要時間は、一般的な住居で十分から十五分程度で、これ以上長くする必要はない。長時間化は、後述する中止基準に触れる兆候になりうる。
家族と行う場合の作法
二十六。参加は完全に任意とし、信仰の有無、年齢、体調にかかわらず、参加したくない人を参加させない。
これは絶対の原則で、同居家族に対してであっても、宗教的実践を強要してはならない。
二十七。事前に説明し、何をするのか、どのくらいかかるのか、途中で抜けてよいことを、始める前に伝える。
二十八。誰かを「対象」にしない。
家族の誰か一人を中心に据えて、その人のために祈りを集中させるような形はとらない。これは、その人を「問題のある人」として位置づけてしまい、心理的な害を与えうるからだ。祈るなら、全員のために等しく祈る。
二十九。子どもが参加する場合は、短くし、主の祈り一つで十分だろう。
三十。意見が割れたら、行わず、家族の一人でも強く反対しているなら、その場では中止する。祈りは、家庭内の対立を生むために行うものではない。
終了時の作法と、聖品の扱い
三十一。ろうそくを使ったなら、確実に消す。消したことを目で確認する。
三十二。短い感謝の祈りで結ぶ。主よ、この時間を感謝します。今日一日、わたしたちを守ってください。アーメン。
三十三。ノートに記録し、日付、行ったこと、そのときの自分の状態を一行でよいから書く。「よく眠れた」「まだ不安が強い」といった程度でよい。この記録が、後で自分の状態を客観視する材料になる。
三十四。そのあとは、普通の生活に戻る。祈りの余韻に浸り続けたり、その日一日を「特別な日」として扱ったりしない。日常に戻ることが、この実践の目的だ。
三十五。聖水は、こぼれないように保管し、直射日光を避け、清潔な容器に入れておく。長期間経って濁ったり匂いが変わったりしたら、新しいものに替える。
三十六。古くなった聖水の処分は、土に流すか、植木に注ぐ。排水口に流すことを避ける習慣があるが、これは義務ではなく、気になるなら、庭や植木鉢の土に流せばよい。
三十七。ロザリオ、十字架、メダイ、聖像の処分について。
日本のカトリック教会、大阪高松大司教区典礼委員会の公式Q&Aは次のように答えている。これらはごみとして処分してもかまわない。
ただし、形が目立たないように配慮し、人目につかない形で処分するのが望ましい。分解して分かりにくくする、あるいは土に埋める、といった方法も示されている。教会の建設時に基礎に埋めてもらう相談ができる場合もあるらしい。
三十八。その理由の説明が大事だ。
同じQ&Aは、これらの品が「礼拝のための道具」であって、神性や霊が宿るものではないと明言している。祝福によって恩恵が及ぶのは物ではなく、それを用いる人である。
したがって、処分によって罰が当たるといったことはなく、日本の仏教的な供養の感覚とは前提が異なる。
三十九。迷ったら、所属の教会に相談し、教区や小教区によって案内が異なることがある。最終的には教会の指導に従ってほしい。
インターネット上の匿名の情報より、実際に相談できる司祭の言葉のほうが確かだ。
四十。燃やす場合は、法令と地域のルールに従う。自治体によって野焼きは禁止されている。プラスチックや金属を含むものを家庭で燃やすことは、健康被害の観点からも避ける。
必ず守る中止基準
以下のいずれかに該当したら、ただちにこの実践を中止し、専門機関に相談してほしい。これは推奨ではなく、この節全体にかかる条件だ。
四十一。体調不良が生じたとき。実践のあとに頭痛、めまい、動悸、吐き気などが繰り返し起きるなら、中止して内科を受診する。
四十二。精神症状が現れたとき、または悪化したとき。
幻覚、妄想、強い希死念慮、現実感の喪失、著しい不眠、パニック発作。これらがあるなら、祈りではなく精神科や心療内科の受診を優先する。すでに通院中なら、この実践を行っていることを主治医に伝えてほしい。
四十三。やめられなくなったとき。「今日やらないと悪いことが起きる」と感じ始めたら、それは守りの祈りが不安の源に転じている状態だ。強迫的な様相を帯びたら中止する。
四十四。回数や時間が増え続けるとき。一日二回が三回、四回になり、十分が三十分、一時間になっていくなら、同じサインである。
四十五。他人に強要したくなったとき。家族に「一緒にやれ」と迫りたくなったら、そこで止める。強要は、この実践の目的そのものを破壊する。
四十六。他人を対象にしたくなったとき。
「あの人を祓ってあげたい」という発想が出てきたら、直ちに中止する。他人に対する祓魔は、信徒には認められていない。
それが必要だと思われる状況なら、まず医療機関へ、そして必要なら教会へ相談してほしい。
四十七。誰かに金銭を要求されたとき。「もっと強い祈祷が必要」「特別な品を買えば解決する」と言われたら、その場で断り、消費者ホットライン一八八に相談する。
カトリック教会が祝福や祈りに料金を請求することはない。
四十八。医療機関の受診をやめようと思ったとき。
これが最も危険な兆候で、祈りは治療の代わりにならない。服薬の中断、通院の中止を、宗教的な理由で行ってはならない。
四十九。子どもや高齢者、判断能力に不安のある人を巻き込みそうになったとき。本人の意思が確認できない相手を参加させない。
五十。そして、いつでもやめてよい。
この実践は義務ではなく、続けることに意味を感じなくなったら、静かにやめてよい。やめたことで何かが起きる、という考え方は、教会の教えからも、この記事の立場からも支持されない。
祈ったあとに日常へ戻れるかどうか
この実践のすべては、自分と自分の家のための、守りと平安の祈りだ。
他者を害するためのものではなく、他者に施すためのものでもない。そして何より、医療の代わりではない。
不安が強いとき、人は「何かをした」という感覚を求める。祈りはその求めに応じうる。
だが同じ理由で、祈りは不安を増幅する装置にもなりうる。
その分かれ目は、祈ったあとに日常へ戻れるかどうかにあり、戻れているなら、それは健やかな実践だ。戻れなくなっているなら、いったん離れて、人に相談してほしい。
そして繰り返す。心身に不調があるときは、まず医療機関へ。
大祓魔式は司教の許可を得た司祭のみが行える儀式であり、素人が他人に対して行ってはならない。
