- 祖母の裁縫箱から錆びた針が出てきた
- 中国の「社日に針線を止む」あたりが親らしい
- 淡島の神が何者なのか、説がいくつもある
- 厨子を背負った願人が村々へ配って歩いた
- 二月八日と十二月八日、どちらも間違いではない
- その日は片目の小僧と箕借り婆が回ってくる
- 豆腐に刺す手つきの理由は後から付いた気配がある
- 一年ぶんの針をためる容器を先に決めておく
- 社寺へ持ち込む日の段取り
- 家でやる略式の据え方
- 唱える言葉は祓詞から入る
- 淡島明神へ向ける拝詞の組み方
- 寺で行う場合は心経と光明真言が乗る
- 雛を流す舟が、人形供養の親にあたる
- 寺社が人形を預かる仕組みは近代に固まった
- 申し込みは持ち込みか郵送かで手順が分かれる
- 箱へ詰める前にケースと付属品を外す
- 合同供養と個別供養は、値段より中身が違う
- 供養が済んだあと、人形はどこへ行くか
- 手放す前に、家でやる短い作法
- 九十九年たつと道具が化ける、という昔話
- 筆と包丁と眼鏡、日取りはそれぞれ別にある
- 札と紙と塩の始末をつけて終わりにする
祖母の裁縫箱から錆びた針が出てきた
去年の暮れ、実家の押し入れから古い裁縫箱が出てきた。針刺しには、先の曲がった針が何本も刺さったままだ。捨てていいのか迷って母に聞いたら、二月まで置いときなさい、と短く返ってきた。理由は言わない。うちはずっとそうしてきた、それだけだった。
二月八日に、近所の社へ持って行く。針を捨てる日が年のうちに決まっている、という感覚そのものが、こちらには初めてだった。調べ始めたら、その日は全国にあった。日取りが東と西で割れていて、豆腐を使う家とこんにゃくを使う土地が混ざっている。
同じ名前の行事なのに、手つきが少しずつ違う。針だけの話でもなかった。人形、筆、包丁、眼鏡と、送り出す相手はどんどん増えていた。古い道具をどう終わらせるか。その一点で、長いあいだ同じことを繰り返してきた気配がある。
使い終わった物を黙ってごみ袋へ落とすのが、どうにも落ち着かないという感覚は、針や人形を扱ったことのある人なら覚えがあると思う。その落ち着かなさを、日取りと段取りの形へ流し込んで畳んできたのが、この国の道具供養にあたる。決まりがあると、手が迷わなくなる。迷いを減らす仕掛けだ。
中国の「社日に針線を止む」あたりが親らしい
大元をたどると、中国の古い慣わしに行き当たる。社日には針仕事を休む、という決まりが向こうにあった。それが日本へ渡ってきて、針を休ませる日という形に変わる。渡ってきた時期ははっきりしない。
日本側の手がかりで古いのは、京都の法輪寺に針供養の堂が建てられたという伝えだ。清和天皇の代という話で、九世紀の後半にあたる。伝承なので年代そのものは揺れる。それでも平安のうちに針を供養する感覚があったらしい、という線は動かない。
もっとも、当時の針はまだ貴重品だった。鉄の針を量産できるようになるのは室町に入ってから。針が庶民の手に行き渡って初めて、捨てる針の数がまとまり、行事として成り立つ余地が出てくる。
鉄の針がまとまった数で作られるようになると、針は職人だけの物ではなくなり、町の女たちの裁縫箱へ普通に収まっていった。使い潰す針の本数が増えれば、折れた針をどう始末するかという問いが、家ごとに現実の困りごとになってくる。針を折る音が、そこらじゅうで鳴りはじめた時代だった。数が行事を押し上げる。
江戸に入ると、これが一気に全国へ散った。散らしたのは寺でも朝廷でもない。淡島の信仰を担いで歩いた人たちだった。
淡島の神が何者なのか、説がいくつもある
淡島明神の正体は、今でも一本に決まっていない。ひとつめは伊弉諾と伊弉冉の子という説。国産みの際に生まれ、葦の舟に乗せて流された子だという筋になる。
ふたつめが少彦名神。医薬の神で、国造りを終えたあと粟島から常世へ渡ったという記述が『日本書紀』や『伯耆国風土記』に見える。粟島と淡島の音が重なるので、この説を採る社が多い。
みっつめは住吉明神の后神という伝え。天照大神の六番目の御子で住吉明神に嫁いだものの、婦人病にかかって粟島へ流された。そこで同じ病に苦しむ女たちを救うと誓いを立てた、という話が付く。
四つめが婆利塞女。十六で住吉明神に嫁ぎ、やはり病を得て、形代を作って障りを移したと伝わる。形代で身の悪いものを移す、という発想がここに顔を出す。人形供養の側へ繋がる糸が、この一本だった。
形代を作って身の障りを移すという手つきは、平安の祓でとっくに使われていた古い技で、淡島の由緒にもそれが混ざり込んでいる。身代わりを立てて悪いものを預け、その身代わりのほうを手放して終わらせる。針も人形も、最後は同じ理屈の上に立っていた。移して、送る。
どの説を取っても、女の病を助ける神という性格は共通する。針を使う仕事が女の手に集まっていた時代だから、針と淡島が結び付くのも急な話ではない。裁縫の腕と体の具合、その両方を同じ社へ持ち込んだ。
厨子を背負った願人が村々へ配って歩いた
江戸期、淡島願人と呼ばれる人たちが各地を回った。半僧半俗の姿で、淡島明神の人形を納めた小さな厨子を背負う。家々の前でその神徳を説き、札を配り、銭を受けた。
彼らの足が、淡島信仰を和歌山の加太から全国へ押し広げた。針を供養するという習俗も、この動きに乗って散っていく。針供養が江戸中期以降に一気に広まった理由は、ほぼここに尽きる。
背に負った厨子の扉を開くと、中に小さな淡島明神の像が据えてあって、道ばたでも辻でもその場が拝む場に変わった。札を受けた家は神棚の隅へそれを立てておき、翌年また願人が回ってくるのを一年かけて待った。札を配る側と受ける側の往復が、毎年ひと巡りずつ信仰を太らせていく。足で広げた信仰だった。
中心にあるのが和歌山市加太の淡嶋神社。祭神は大己貴命と息長足姫命で、少彦名命が友ヶ島の神島に祀られたのが始まりだと伝わる。神功皇后が嵐に遭って友ヶ島へ入港できた、という由緒が付き、のちに仁徳天皇が社を加太へ移した。
今の境内へ行くと、全国から納められた人形が二万体ほど並ぶ。針祭りは二月八日、雛流しは三月三日。針と人形の両方を、同じ一つの社が受けている。
婦人病から安産、子授けまで、女の体にまつわる願いをまとめて受ける社という性格が、加太の淡嶋神社には古くから付いていた。針を扱う仕事と、体の具合と、子どもの無事が、参る人の中では一続きにつながっている。だから同じ社の前で、針の礼も人形の別れも済ませられた。窓口が一つで済む。
二月八日と十二月八日、どちらも間違いではない
日取りが東西で割れる話に戻る。おおざっぱに言えば、関東から中部より東が二月八日、関西と九州が十二月八日。ただし例外だらけで、線を引こうとすると必ずはみ出す。
大阪天満宮は関西にありながら二月八日。京都の法輪寺は両日とも受ける。埼玉では二月八日と十二月八日の組み合わせや、複数の月の八日にやる土地まである。
割れている理由は、八日という日の呼び方が二通りあるせい。二月八日を事始め、十二月八日を事納めと見る立場では、事を一年の農作業や祭事として数える。この場合、農作業が動き出す二月が始まりになる。
ところが関東の一部では、事を新年の祝い事として数えた。正月の準備に取りかかる十二月八日が事始めで、正月行事が畳まれる二月八日が事納めになる。同じ二つの日が、数え方ひとつで前後ひっくり返る。
どちらの数え方でも、八日は仕事を止めて道具を下ろす日という点で共通していて、そこだけは東も西も揺らがなかった。働く手を休ませる日に、働いてきた道具も一緒に休ませる。その並びで見ると、針を置く日が二つあることも変ではなくなってくる。日が二つでも困らない。
どちらの立場でも、二月八日と十二月八日は年の節目にあたった。仕事を休み、道具を下ろし、一年の区切りを付ける日。針を置くのにちょうどいい日が、たまたま二つあった。そう考えると筋が通る。
その日は片目の小僧と箕借り婆が回ってくる
事八日には、もう一つ別の顔がある。この日、妖しいものが家へやって来るという伝えが各地に残った。名前のはっきりしているのが目一つ小僧と箕借り婆。ほかに疫病神を数える土地もある。
目一つ小僧は帳面を持って家々を覗き、その家の厄を書き付けて帰るという。箕借り婆は箕を借りに来る婆で、地域によって姿の説明がまるで違う。片目だったり、大きな一つ目だったり。
農具の箕を借りに来るという設定は、米や穀を扱う道具が家の中でいちばん大事な物だった時代の匂いを、そのまま残している。貸したら戻らない、貸さなければ祟るという言い方をする土地もあって、来客そのものが厄介ごととして描かれていた。来ないのがいちばんいい。だから戸口を固める。
来られては困るので、防ぐ工夫が用意された。目の粗い籠を竿の先に結んで軒へ高く掲げる。籠の編み目が無数の目に見えて、相手が怯んで帰るという理屈だった。
籠のほかに、ハリセンボン、蜂の巣、ヨモギ、山椒、唐辛子、ニンニク、柊に刺した鰯の頭。尖った物と匂いの強い物を戸口へ並べる。節分の柊鰯と発想がそっくりで、実際に同じ道具が使われた。
竿の先へ結んだ籠は、軒より高く突き出しておくのが決まりで、低いと見上げてもらえず役に立たないと言われた。編み目の一つひとつが目に見えるという理屈だから、目の粗い古い籠ほど頼りにされる。新しくて目の詰まった籠は、かえって弱いと嫌われる。古いほうが強い。
針仕事を休むという決まりも、この文脈に乗っている。妖しいものが回る日に、尖った針を手に持って表へ出さない。針を休ませる行事と、家を閉じて静かにする日の重なり。二つの習俗が同じ日付の上で溶け合った。
豆腐に刺す手つきの理由は後から付いた気配がある
針供養と聞いて誰もが思い浮かべるのが、豆腐に針を刺す場面だろう。硬い布ばかり突いてきた針に、最後くらい柔らかい所で休んでもらう。今はこの説明がほぼ全国共通になっている。
ただ、この言い回しが古くから唱えられていた証拠は薄い。柔らかい物に刺すという所作のほうが先にあって、意味づけが後から整えられた匂いがする。針を土に埋める土地、川や海へ流す土地、縁の下へ放り込む土地もあった。
刺す相手も豆腐一択ではない。京都の法輪寺はこんにゃくを使う。関西ではこんにゃくのほうが目立ち、東ではやはり豆腐が多い。どちらも柔らかくて針が通り、そのまま手放せる素材という点では同じだった。
こんにゃくは豆腐より崩れにくく、屋外へ長く据えても形が保つので、大勢が順に刺していく場では扱いやすいという利点がある。豆腐のほうは柔らかさが目に見えて、休ませるという言い回しと絵面がよく合う。どちらを選ぶかは、土地の慣れと手に入りやすさで決まってきた。好みの話でもある。
大きな社では、畳半分ほどもある巨大な豆腐やこんにゃくが用意される。参拝者が順に一本ずつ刺していき、終日かけて針が埋まっていく。あの光景が写真で広まったせいで、豆腐の印象がさらに強くなった。
朝から夕方まで人が来るたびに針が増えて、終わるころには一面が銀色の点で埋まり、もとの形が分からなくなるくらい立ち並ぶ。その写真が毎年のように流れるので、豆腐の印象だけが繰り返し塗り重ねられてきた。こんにゃくを使う土地の側は、どうしても影が薄くなる。見え方の差だけだ。
一年ぶんの針をためる容器を先に決めておく
ここから段取りの話にする。針供養に出す針は、その年に使えなくなった針。折れた針、曲がって布が通らなくなった針、錆が浮いて糸を引きずる針。この三つが基本になる。
まだ使える針を出す必要はない。念のため書いておく。抜いたばかりの待ち針や、頭が取れたピンも一緒にする家はある。細かい線引きは土地と家で違うので、使い切った物を送るという一点さえ押さえておけばいい。
ミシン針やニット用の針、刺繍針やクロスステッチ針も、同じ容器へまとめて構わないという扱いが今はほとんどになっている。金属であれば素材を分ける必要もなく、まち針の頭のプラスチックを外す手間も要らない。針として使った物を、使った順にためていくだけでいい。仕分けはしない。
ためる容器は、蓋の閉まる硬い物を選ぶ。フィルムケース、小さな瓶、金属の缶。柔らかい袋に入れると先が突き出て危ない。裁縫箱の中へ専用の一つを決めておくと、作業の途中でそのまま放り込める。
容器には、ためはじめた年を書いておく。前の年の分と混ざると、どこまで供養したか分からなくなる。一年ためて、二月か十二月の八日に持ち出す。この繰り返しで回していく。
古い針が大量に出てきた場合も、一度にまとめて出して構わない。祖母や母の裁縫箱をそのまま引き継いだような時。何年ぶんか分からない針を全部ひとまとめにして、その年の分として納めた例は珍しくない。
社寺へ持ち込む日の段取り
当日は、針をためた容器ごと持って行く。中身を出さずに持ち歩いて、受付の場で取り出すのが安全だ。受付を置く社寺なら、係の人に渡す形になる。
境内に大きな豆腐やこんにゃくが据えてある場合、列に並んで順に刺す。刺し方に細かい決まりはないものの、針先が向こう側へ突き抜けない深さで止めるのが作法に近い。根元まで押し込まず、頭が少し見える程度。
刺す向きは、まっすぐ上から垂直に落とす形が多い。斜めに刺すと隣の人の手に近づく。順番を待つ列が詰まっているので、一本刺したら下がる。数が多いときは数本まとめて持ち、間を空けずに刺していく。
刺し終えた豆腐は、そのまま社寺の側が引き取る。持ち帰らないし、食べない。あとで土へ埋めるか、川や海へ流すか、まとめて処分するか。どうするかは受けた側の作法に従う。正直、そこは社寺によって違う。
土地によっては、供養の済んだ豆腐を海へ運んで沈めたり、境内の隅に穴を掘って針ごと埋めたりする手順が、行事の後半にきちんと組み込まれている。参拝者がそこまで立ち会う形は少なく、刺したところで手が離れる作りになっていた。あとを預けて帰る。そういう区切り方になる。
初穂料や供養料を納める社寺もある。箱が置いてあるだけの所、受付で金額を示す所、無料で受ける所とまちまち。数百円から千円ほどを包んでおけば、たいていの場で足りる。
受付に並ぶと、係の人が容器の中身をのぞいて本数をざっと数え、そのまま預かるか自分で刺すかを聞いてくることがある。自分で刺す形なら、豆腐の据えてある台の前まで進んで一本ずつ落としていく。係が預かる形なら、容器ごと渡してその場を離れる。どちらでも作法は変わらない。
その日は針を使わない。これが古くからの決まりで、針供養の本体とも言える部分だった。裁縫の仕事を一日止めて、道具を休ませる。持ち込んで帰ったあと、家で縫い物を始めないところまでが一続きになっている。
家でやる略式の据え方
近くに受けてくれる社寺がないとき、家でやる形がある。特別な道具はいらない。白い紙、塩、豆腐かこんにゃく、皿、それに針をためた容器。この五つで足りる。
紙は半紙が扱いやすい。奉書紙でもコピー用紙でも構わないので、何も書いていない白い物を一枚。これを皿の下に敷くか、盆の上へ広げてその上に皿を置く。折り目は付けず、平らに伸ばす。
豆腐は木綿がいい。絹ごしは崩れやすく、針が沈んで見えなくなる。大きさは一丁の半分ほど、手のひらに乗るくらいで十分だ。こんにゃくを使うなら、厚みのある板こんにゃくを一枚そのまま。
置く場所は、家の中で静かな所。神棚があれば、その前の棚か下の台へ据える。仏壇のある家なら仏壇の前でもいい。どちらもなければ、部屋の隅に小さな台を置いて、そこを臨時の場にする。
塩は小皿に一つまみ盛って、豆腐の右手前へ置く。ここからが供えの形だ。両脇に二皿置く形もある。水を一杯添える家もあって、これは土地の流儀で変わる。盛る量は親指の先ほど、山を作らず平たく乗せるだけでいい。
供える物を増やしたいなら、米をひとつまみ、白い紙の上へ直接置くか小皿へ盛って、塩の反対側へ据えると形が整って見える。酒を添えるなら、ぐい呑みに半分ほど注いで手前の中央へ。増やしても減らしても構わず、塩ひと皿だけで足りるという家のほうがむしろ多かった。並べすぎない。
拝む向きは東か南。座ったときに東を向くか南を向くかで、体の正面を決める。部屋の都合でどうにもならないなら、神棚の正面に合わせる。向きより、静かに座れる場所を優先したほうが続く。
準備が整ったら、手を洗って口をすすぐ。前もって風呂に入っておくと落ち着く。着替えは普段着で構わない。爪の間に汚れが残っていない程度に整えておけば十分だ。
やる時刻は、朝のうちか日の落ちる前が据わりよく、家の中が静かで人の出入りのない時間を選ぶと最後まで落ち着いて進む。夜にやってはいけないという決まりはないものの、灯りを落とした部屋で針を扱うのは単純に危ない。明るいうちに済ませたほうがいい。手元が見える時間帯を取る。
唱える言葉は祓詞から入る
家でやる場合も社寺と同じで、最初に場を祓う言葉を置く。使うのは祓詞。神社で最もよく唱えられる短い祝詞で、神社本庁が定めた文が広く行き渡っている。
原文はこうなる。掛けまくも畏き伊邪那岐大神。筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等。諸々の禍事・罪・穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を、聞こし召せと、恐み恐みも白す。
読みは次のとおり。かけまくもかしこき、いざなぎのおおかみ。つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに、みそぎはらえたまいしときに、なりませる、はらえどのおおかみたち。もろもろのまがごと、つみ、けがれ、あらむをば、はらえたまい、きよめたまえと、もうすことを。きこしめせと、かしこみかしこみももうす。
現代語に直すとこうだ。口に出すのも畏れ多い伊邪那岐の大神が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊をなさった。そのとき生まれた祓戸の神々よ。
もろもろの災いや罪や穢れがあるなら、どうか祓い、清めてください。そう申し上げるのをお聞きください。畏れながら申し上げます。
長くて覚えられないときは略拝詞で代える。まあ、それで十分だ。原文は、祓へ給ひ清め給へ、神ながら守り給ひ幸へ給へ。読みは、はらえたまい、きよめたまえ、かむながら、まもりたまい、さきわえたまえ。
訳すと、祓ってください、清めてください、神のお働きのままに守り、幸いを与えてくださいとなる。この一文だけでも場は整う。唱える回数は三度が目安で、一度でも構わない。
唱えるときの調子は、歌うのでも読み上げるのでもなく、一句ずつ区切って低い声で置いていく形が神社では普通になっている。紙に書き写して手元へ置き、目で追いながら読んで構わない。覚えていないから唱えない、という遠慮のほうがもったいない。読み札を作っておく人もいた。
淡島明神へ向ける拝詞の組み方
祓いが済んだら、神名を呼ぶ言葉へ移る。神社で唱える拝詞は、神社拝詞という型が決まっていて、そこへ社の名を入れて使う。淡島明神へ向けるときも、この型に神名を置き換えるのが普通のやり方だった。
原文はこうなる。掛けまくも畏き淡島大神の大前を拝み奉りて、恐み恐みも白さく。大神の広き厚き御恵みを、辱み奉り、高き尊き御教のまにまに。直き正しき真心もちて、誠の道に違ふことなく、負ひ持つ業に励ましめ給ひ。家門高く、身健やかに、世のため人のために尽くさしめ給へと、恐み恐みも白す。
読みを付ける。かけまくもかしこき、あわしまのおおかみの、おおまえをおろがみまつりて、かしこみかしこみももうさく。おおかみの、ひろきあつきみめぐみを、かたじけなみまつり。
たかきとうときみおしえのまにまに、なおきただしきまごころもちて。まことのみちにたがうことなく、おいもつわざにはげましめたまい。いえかどたかく、みすこやかに、よのためひとのためにつくさしめたまえと、かしこみかしこみももうす。
現代語訳はこうなる。口にするのも畏れ多い淡島の大神の御前を拝みまして、畏れながら申し上げます。大神の広く厚い恵みをありがたく頂き、高く尊い教えのままに、まっすぐで正しい真心をもって、誠の道を外れず、引き受けた仕事に励ませてください。家を高く保ち、身を健やかに、世のため人のために尽くさせてください。畏れながら申し上げます。
負ひ持つ業という言い方が、針供養の場によく合う。自分が引き受けている仕事、という意味だ。縫い物をする人なら、そのまま針仕事を指す。ここで一年ぶんの針の働きを思い出しておく。
型を使わず、自分の言葉で言い添えてもいい。一年ありがとうございました、これで休んでください。そのくらいの短い文で足りる。声に出す、という部分だけは省かないほうがいい。
神社拝詞の型へ社の名や神名を差し込んで使うやり方は、神職がふだんから行っている組み方で、素人が勝手に崩しているわけでもない。淡島大神のところを、自分が参る社の名へ置き換えても同じ形で通る。型が一つあると、相手の神が変わっても言葉に迷わなくなる。差し込む場所は冒頭だけ。
寺で行う場合は心経と光明真言が乗る
淡島明神を祀る堂は寺の中にもある。浅草寺の淡島堂がその代表で、こういう場では仏式の作法が重なる。神前と同じ手順にはならない。
寺で行う針供養では、僧が『般若心経』を読む場面が入ることが多い。心経は針や道具のために作られた経ではなく、あらゆる法要の土台として読まれる。何を供養する席であっても最初に置かれる、汎用の一巻だと思えばいい。
『般若心経』は二百六十字あまりの短い経で、宗派を越えて読まれるため、針でも人形でも筆でも同じように最初へ置かれてきた。この経がその道具のために作られたのではなく、法要の土台として敷かれる一巻という扱いになる。土台を敷いてから、真言を重ねる。順番が決まっている。
そのあとに真言を重ねる。使われるのが光明真言。土砂加持で知られる真言で、平安の頃からこれを用いた加持が修されてきた。出典は『不空羂索神変真言経』と『不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言』。
唱えは、オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン。梵語のつづりで書けば om amogha vairocana mahamudra manipadma jvala pravartaya hum となる。
語の意味を並べておく。アボキャは空しからぬ、ベイロシャノウは遍く照らす仏で大日如来を指す。マカボダラは大いなる印、マニは宝珠、ハンドマは蓮。ジンバラが光、ハラバリタヤが転じ動かせという呼びかけになる。
つなげて訳すとこうなる。オーンよ、空しからぬお方、遍く照らす仏よ。大いなる印を結び、宝珠と蓮を携え、光を放って転じてください。フーン。最後のウンは真言を結ぶ音で、そこだけ訳が付かない。
唱える数は七遍、二十一遍、百八遍と、場によって変わる。家でやるなら七遍で切りがいい。数珠があれば繰りながら、なければ指を折って数える。急がず、一句ずつ区切って声に出す。
雛を流す舟が、人形供養の親にあたる
針の話はここまでにして、人形の側へ移る。こちらの源にあるのは、川へ流す人形のほうだった。紙や草で人の形を作り、体を撫でて悪いものを移し、水へ流す。形代と呼ばれる道具で、宮中の祓の場で早くから使われていた。
『源氏物語』の須磨の巻に、光源氏が祓をした紙の人形を舟へ乗せて海へ流す場面が出てくる。三月上巳の祓の型がそのまま書き込まれていて、平安の貴族がこれを当たり前にやっていた様子がうかがえた。
流された人形は、持ち主の厄を背負って遠くへ行く。身代わりという考え方で、伊弉諾と伊弉冉が蛭子を葦の舟へ乗せて流した記紀の記事にまで遡る説もある。水へ返すという手つきは、かなり古い層に食い込んでいた。
この流し雛が、今も残る土地がいくつかある。よく知られるのが鳥取市用瀬町で、旧暦三月三日に桟俵へ雛を乗せて千代川へ送る。淡嶋神社でも三月三日に雛流しが行われ、白木の舟に雛を積んで加太の海へ押し出してきた。
やがて人形の作りが凝ってくると、流すのが惜しくなる。上等な雛は飾って仕舞う物へ変わり、流す役目は簡素な紙雛が引き受けた。飾る雛と流す雛が枝分かれして、飾るほうだけが家に残っていく。
三月三日の上巳は、もともと水辺へ出て身の穢れを祓う日で、そこへ人の形をした身代わりを流す手つきが重なって雛流しになった。飾る雛が豪華になるにつれ、流す役は紙や土で作った簡素な雛のほうへ移っていく。二つの雛は、同じ根から分かれた枝だった。片方が残り、片方が流れる。
残った雛をいつか手放す日が来る。流せない、捨てにくい、しかし置き場もない。その行き場のなさを引き受ける形で、寺社が人形を預かる仕組みが立ち上がった。
寺社が人形を預かる仕組みは近代に固まった
人形供養という言葉が広く通るようになったのは、そう古い話ではない。近代に入ってから、寺や神社が窓口を構えて人形を受け、まとめて焼く形が整っていった。古い時代にも似た行いはあったものの、制度として回り出したのは近代だ。
背景にあるのが、人形そのものの量の変化だった。工場で作られた雛人形や五月人形が家々へ入り、ぬいぐるみが加わり、数が一気に増える。持ち主が代替わりするたび、行き先のない箱が押し入れに積み上がっていった。
和歌山の淡嶋神社へ二万体もの人形が集まっているのは、その流れの分かりやすい姿になる。全国から送られてきた人形が、社殿の周りに隙間なく並ぶ。あの光景そのものが、近代に生まれた受け皿の形をよく表していた。
受ける側も少しずつ変わってきた。通年で受ける寺社、年に一度の供養祭だけの寺社、郵送しか受けない寺社と、間口の作り方が分かれる。近ごろは不燃物の処理が重くなって、受付を絞る所も出てきた。
受ける側の事情も年々きつくなり、境内で火を焚けない、不燃物を出せない、人手が足りないという条件が同時に効いてくる。受付の日を年に一日へ絞る寺社や、郵送だけへ切り替える寺社が目に見えて増えた。出す前に電話で確かめる手間が、昔より要るようになる。黙って持ち込むと断られる。
供養する相手も人形に留まらなくなる。ぬいぐるみ、写真、お守り、財布、位牌。人の形をしていない物まで同じ窓口へ流れ込むようになり、供養という言葉の守備範囲がじわじわ広がっていった。
申し込みは持ち込みか郵送かで手順が分かれる
実際に出すときの段取りを並べる。最初にやるのは、受けてくれる場所を決めて時期を確かめること。年に一度の供養祭しか受けない寺社だと、申し込みの締切が祭の一か月前あたりに置かれている場合がある。
持ち込みの場合、当日の受付時間と受入点数を先に聞いておく。箱いくつまで、という上限を設ける所が少なくない。予約制なら電話で名前と点数を伝え、指定された時間に合わせて行く形になった。
持って行く人形は、箱に詰めるか風呂敷に包むかのどちらか。裸のまま抱えて行くと、途中で傷んだり落としたりする。段ボールへ詰めるときは新聞紙を軽く挟んで、揺れて頭がぶつからないようにしておく。
受付で点数を聞かれるので、詰める段階で数を控えておくと、その場で箱を開けて数え直す手間がなくなって列も詰まらない。雛人形なら一式で何体か、ぬいぐるみなら何個かを、紙に書いて蓋の内側へ貼っておく人もいた。箱の外側へ名前と連絡先も書く。郵送でも同じにする。
郵送の場合は、先に申込書を取り寄せる形が多い。段ボールが送られてくる仕組みのところもあって、その箱に詰めて送り返せば済む。箱の大きさで料金が決まるので、三辺の合計を測ってから申し込むと食い違いが出にくい。
伝票の品名欄には、人形供養品などと書いておく。着払いを受けない寺社もあるため、送料の扱いは事前に確かめる。供養料を同封する形か、先に振り込む形かも、申込先によって違っていた。
年に一度の供養祭しか受けない寺社だと、申し込みの締切が祭の一か月前に置かれていて、そこを外すと翌年まで待つ形になる。締切と当日の両方を控えておき、箱の用意をそのあいだに済ませてしまうと慌てない。詰め終わってから寸法を測り直す。先に測ると楽だった。
日本人形協会が代行する仕組みもある。一箱いくらで引き受け、毎年十月に東京大神宮で合同供養を行う流れだった。自分で寺社を選ぶのが難しいとき、こういう窓口に任せる手もある。
箱へ詰める前にケースと付属品を外す
送る前の下ごしらえが、けっこう効いてくる。多くの寺社は、ガラスケース、雛壇、屏風、金具、道具類といった燃えない物を受けない。人形本体だけを取り出して、それ以外は自分の側で処分する形になる。
ガラスケースを外すときは、軍手をはめて底板から留め具を緩める。古いケースは接着が甘くなっていて、持ち上げた拍子に外れることがある。自治体によって、ガラスは不燃ごみか粗大ごみに回る。
不燃物も一緒に受ける郵送業者も出てきた。ケースごと箱へ入れて構わない代わりに、料金は高めに設定してある。分解が難しい五月人形の兜や鎧を抱えているなら、そちらを選ぶほうが早い。
髪の毛や布は、そのままでいい。日本人形の髪を切ってから出すという話が時々流れるものの、寺社の側で求めているわけではなかった。汚れが気になるなら、乾いた柔らかい布で顔と手を軽く拭う程度に留める。
衣裳も着せたままで送る。脱がせたり畳み直したりする必要はない。ほつれた糸が出ていたら軽く押し込んでおく、そのくらいの手入れで十分だった。
箱の中で人形が動くと、送っているあいだに首や指が折れる。薄紙か新聞紙で隙間を埋め、上から手で押して沈まない程度に詰める。詰めすぎて蓋が膨らむようなら、箱を一つ増やしたほうがいい。
ぬいぐるみも同じ扱いで受ける所が多く、中の綿やプラスチックの目をどうこうする必要はなくて、そのまま箱へ入れて構わない。電池で動く物だけは、電池を抜いてから詰めるよう求められることがある。音や光が出る仕掛けは、焼くときに困る。電池は自分で処分する。
合同供養と個別供養は、値段より中身が違う
受け方には二通りある。ひとつが合同供養で、集まった人形をまとめて並べ、一度の読経なり祝詞なりで供養する形。年に一度の供養祭は、たいていこの形で行われてきた。
費用の目安は、一体あたり五百円から五千円ほど。箱で受ける所なら一箱五千円から一万円あたりに落ち着く。点数が多いほど一体あたりは安くなるので、家族の分をまとめて出す人が多かった。
もうひとつが個別供養。一体ずつ、あるいは依頼主ごとに別の時間を取って供養する形になる。持ち主の名前を読み上げたり、依頼主が立ち会ったり、終わったあとに証書が出たりする。費用は合同より上がる。
両者で供養の効き目が違う、という説明を寺社の側がすることはまずない。手間のかけ方と立ち会いの有無が違うだけ。思い入れの深い一体を送るとき、個別を選ぶ人が多いというだけの話になる。
立ち会いのできる個別供養だと、読経や祝詞のあいだ同じ部屋にいて、終わったあとに焼く場所まで案内してもらえる寺社もある。自分の目で最後まで見届けたい人には、このやり方が向いている。遠方からだと日程を合わせるのが難しく、そこで合同へ回る人も多かった。距離の問題でもある。
神社なら初穂料、寺なら供養料と呼び方が変わる。白封筒に入れて表へ用途と名前を書き、受付で渡す。金額が決まっていない場合、点数と手間を考えて包む。目安を聞けば、たいていは答えてくれた。
供養が済んだあと、人形はどこへ行くか
気になる人が多いのが、供養の後の処理だった。昔ながらの形なら、境内で火を焚いて人形を焼く。これがお焚き上げで、煙とともに天へ返すという筋立てになっている。
ただ、今は境内で大量に焼ける寺社のほうが少ない。消防の許可、煙の苦情、焼却炉の規制と、条件が重なって焚けなくなった。読経や祝詞を上げて供養を済ませたあと、専門の業者へ渡して焼却するやり方が広く取られている。
不燃物はさらに別扱いになる。ガラス、金具、プラスチックは産業廃棄物として分けられ、決められた経路で処分される。人形本体だけを焼き、残りを分別する。そういう二段構えの寺社が今は多い。
供養が済んだ知らせを出す所もある。はがきや書面で届く形、動画を撮って見せる形、受付のときに日付だけ教える形。受け取った側がそれを仏壇へ供えたり、しばらく置いてから片付けたりする。
送ったあとで気持ちが落ち着かない、という声はよく聞く。手を離れた物がどうなるか見えないせいだろう。日付と場所が分かっているなら、その日に家で手を合わせておくと収まりがいい。
手放す前に、家でやる短い作法
寺社へ出す前でも、ごみに出す前でも、自分の手で区切りを付けておくと後を引かない。やることは少ない。用意するのは白い紙と塩、それに乾いた布が一枚あればいい。
最初に手を洗う。時間があれば風呂へ入っておく。人形の顔と手を乾いた布で軽く拭い、埃を落とす。強くこすらず、表面を撫でる程度に留める。塗りが剥げている人形なら、そこは触らずに置いておく。
拭き終えたら白い紙を広げ、その上へ人形を仰向けに寝かせる。半紙が手ごろで、大きい人形なら奉書紙や新聞紙の上へ白紙を重ねる。紙に何かを書く必要はなく、まっさらなまま使う。
塩を振る。量は親指と人差し指でつまんだ一つまみ。人形の頭のあたり、胴のあたり、足のあたりへ、三か所に分けて軽く落とす。
振りかけるというより、置くような手つきでいい。落ち着いてやる。山を作らず散らす。
礼を述べる。声に出すのが基本で、長さは短くていい。長いあいだありがとうございました、どうぞ安らかに。この二言で足りる。名前を付けて呼んでいた人形なら、その名前を頭に付けて呼びかける。
終わったら紙で包む。頭のほうから足のほうへ折り下ろし、左右を畳んで、ひもや紙テープで軽く留める。糊やガムテープでぐるぐる巻きにしない。包んだあと、そのまま一晩から三日ほど部屋の静かな所へ置く。
置く期間に決まった長さはない。翌日出してもいいし、次の供養祭まで押し入れへ置いてもいい。区切りを付けるための間なので、自分が納得する日数で構わなかった。
包んだあと置いておく日数は、三日、七日、四十九日と土地や家で言い方が分かれていて、どれが正しいという線は見当たらない。気持ちの区切りがつくまで置く、というのが実際のところになる。置きっぱなしで忘れるのがいちばん据わりが悪い。日を決めて紙に書いておく。
九十九年たつと道具が化ける、という昔話
道具を送り出すという感覚の底には、付喪神の話が沈んでいる。長い年月を経た器物に精霊が宿る、という考え方で、室町期に作られた『付喪神絵巻』がその筋を絵と詞書で語っていた。
つくもという読みは九十九を指す。絵巻の詞書に百年に一年たらぬとあるのが根拠で、『伊勢物語』の第六十三段に出てくるつくも髪、つまり老女の白髪を写した言葉から来ていた。九十九という数字は、百まであと一歩という長さを言いたいだけで、厳密な年数を示してはいない。
絵巻の筋立てがなかなか激しい。立春の前に人々が煤払いと称して古道具を路地へ捨て、捨てられた器物たちが節分の夜に妖怪へ変じて一揆を起こす。人を襲い、暴れ回り、最後は仏の教えに帰依して静まるという流れだった。
引かれている『陰陽雑記』の文も短くて強い。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす。百年使った道具は霊を得て人を惑わすという言い切りで、古い物を畏れる感覚がそのまま文になっている。
絵巻が作られた室町という時代は、道具の数が増えて入れ替わりも早くなり、まだ使える物が路地へ積まれる光景が珍しくなくなった頃にあたる。捨てられる側から見た恨み言を絵にしたのが、あの一揆の場面だったのかもしれない。捨てる速さが、話を呼んだ。見る側の後ろめたさが下敷きにある。
この筋を裏から読むと、捨て方が乱暴だから暴れた、という話になる。礼を尽くして送れば荒れない。針を豆腐に刺す手つきも、人形を白紙に包む手つきも、同じ考え方の上に乗っていた。
筆と包丁と眼鏡、日取りはそれぞれ別にある
供養する相手が道具全般へ広がると、日取りも品物ごとに分かれていった。それぞれの日を押さえておくと、出すときに迷わない。
筆供養で名の通っているのが、京都の東福寺塔頭である正覚庵の行事だった。日取りは十一月二十三日。使い古した筆や鉛筆を納め、字の上達を願う形で、当日は竹で組んだ二メートルほどの大筆や、古筆で飾った筆神輿が境内を練り歩く。
午後二時あたりから、山伏と稚児の行列に読経と囃子が重なる。集まった筆やペンや願いを書いた木札は、護摩壇へ入れて焚き上げられた。その煙に当たると字がうまくなる、という言い伝えがあって、参拝者が煙の流れる側へ回り込む。
包丁供養のほうは、刃物の日にあたる十一月八日が軸になる。旧暦のふいご祭りの日と、いい刃という語呂を重ねて決められた日取りだった。京都の刃物神社、三重県四日市市の鵜森神社、岐阜県関市の関鍛冶伝承館が、この日に合わせて受ける。
別の日でやる社もある。はっきり言って、日付は一定しない。神奈川県横須賀市の走水神社は五月五日で、ここには一九六六年に建てられた包丁塚があり、確認できる中では最も古い包丁塚になる。千葉県南房総市の高家神社は毎月十七日、札幌の北海道神宮は七月に行っていた。
包丁を持ち込むときは、刃を厚紙か新聞紙で巻いて、ひもで縛ってから袋へ入れる。むき出しで運ばない。受付で紙を外すか、そのまま渡すかは、その場の指示に従えばいい。
眼鏡供養の軸になるのは十月一日、眼鏡の日だ。一〇〇一という数字の並びが、左右のつるとレンズを並べた眼鏡の正面図に見えるところから決まった。東京の不忍池弁天堂は同じ日に無料で受け、奈良の壺阪寺は十月十八日、愛知の大智院は十月の第四日曜に行う。
島根の一畑薬師は十一月八日で、一本あたり五百円ほどの供養料を納める形だった。福井県鯖江市では九月下旬のめがねフェスに合わせて受ける年がある。レンズを外す必要はなく、ケースは持ち帰るのが通りになっている。
箸を供養する日まである。八月四日が箸の日で、語呂合わせから決められた。使い込んで先の割れた塗り箸を束ねて納める形で、受ける社寺の数は多くないものの、毎年続けている所がいくつかあった。
どの道具の供養も、受付の期間と点数の上限がその年ごとに変わるので、出かける前に電話で確かめておくと無駄足を踏まない。供養料の有無、当日の持ち込みの可否、郵送の受け方あたりを一度に聞いておくと話が早い。聞いたその場で日付を控える。毎年同じとは限らなかった。
札と紙と塩の始末をつけて終わりにする
供養へ行くと、札や守りを渡されることがある。針供養なら裁縫の上達を願う小さな札、人形供養なら供養済みを示す紙。受け取ったら、家の目の高さより上へ置くのが通りだった。
神棚があるなら、その端へ立てかけるか寝かせて置く。神棚がなければ、棚の上を拭いて白紙を敷き、その上へ置けば足りる。画鋲で壁へ刺したり、本のあいだへ挟んだりはしない。
札を持っておく長さは、だいたい一年。次の年の同じ行事に合わせて、受けた社寺へ返すのが本来の形になる。遠くて行けないなら、近くの社の古札納所へ入れても構わない。どうしても手元に残す場合は、白紙に包んで引き出しの上のほうへ仕舞う。
家でやった供養に使った紙と塩の始末にも触れておく。豆腐に刺した針を土へ埋めるなら、敷いていた白紙ごと包んで埋めてしまえばいい。人が歩かない庭の隅を選び、二十センチほど掘って、上から土をかぶせて踏み固める。
埋める場所がないなら、紙に包んだ針を社へ納める形にする。針供養を受けている社寺なら、当日でなくても相談に乗ってくれることがある。それも難しいときは、厚紙へ刺してテープで留め、さらに紙で包んで燃えないごみへ出す。
包み方には少し気を使う。厚紙を二つ折りにして針を挟み、周りをテープで留め、外側へ針在中と書いておく。回収する人が手を切らないための措置で、ここを省くと危ない。袋の口は縛ってから出す。
刺したあとの豆腐は食べない。供えた物を下げて食べる習慣は別の場面にはあるものの、針を刺した豆腐は別扱いになる。針が一本でも残っていたら危ないので、最初から口へ入れない前提で扱う。
下げた豆腐は、土へ埋めるか、水気を切って生ごみへ回す。針を抜いてから捨てる場合、抜き残しがないか指で押さえずに目で数える。一本ずつ本数を確かめてから、どちらも別々に始末する。
使った塩は流しへ落とし、水を多めに流しておく。庭へ撒く家もあって、どちらでも構わない。白紙は針を包むのに使わなかった分を畳んで、燃えるごみへ入れる。
これで一年ぶんの区切りが付く。翌日から針を使い、翌年の分をまた同じ容器へためていく。祖母の裁縫箱から出てきた針も、そうやって二月八日まで棚の上で待っていた。
