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浄霊とは何か――岡田茂吉が説いた「光の力」の由来と手かざしの実践、教団分派史のすべて

昭和4年の春、一本の白い扇が弟子の手に渡り、その扇面には「万霊を浄めて救ふ此扇」と墨で書かれていた。書いたのは、のちに世界救世教を開く岡田茂吉だ。この扇は御手代(みてしろ)と呼ばれ、病人の取次ぎに使う道具として配られた。手のひらを相手に向ける「浄霊」は、ここから形を変えながら育っていく。

始まりは扇一本。そこから大本の霊術、戦前の療術の看板、戦後の教団の名乗り替えを経て、「浄霊」の二文字にたどり着くまで二十年ほどかかった。道のりは長い。

大本の鎮魂帰神から岡田茂吉の取次ぎへ

岡田茂吉は1882年12月、東京府浅草区橋場町の生まれ。美術品や装身具の商売で浮き沈みを重ねたあと、1920年に大本へ入った。大本は出口なおと出口王仁三郎を教祖に仰ぎ、京都の綾部と亀岡を拠点にした教団だ。霊術の芯は、幕末から明治の国学者の本田親徳(1822年から1889年)が組んだ鎮魂帰神法だった。

神主役が指を組んで座り、向かいで笛を吹くうちに霊が懸かる。審神者(さにわ)がその霊と問答して、正しい神か邪なものかを見分けた。三者がそろう術。本田の門人の長沢雄楯は月見里神社に縁が深く、千人を超える門人を育てたという。王仁三郎は1898年4月13日に静岡の清水で長沢を訪ね、幽斎の手ほどきと鎮魂帰神の免状を受けている。

岡田は関東大震災のあと、鎮魂帰神の習得に打ち込んだと伝わる。1927年に東京の明光支社の主任、翌1928年に宣伝使、1929年には東京本部の常任委員に就いた。扇の御手代を配り始めたのはその年の4月30日で、授与は1935年5月まで続いた。王仁三郎の杓子の御手代の流れを汲むとする見方もある。

1934年5月1日、岡田は麹町に応神堂を開き、「岡田式神霊指圧療法」の看板を掲げた。同じ年の9月15日に大本を離れ、翌1935年の元日に大日本観音会が発足する。戦中は警察の取締りを受けたという。戦後は1947年8月に日本観音教団、1949年2月に日本五六七教、1950年2月に世界救世(メシヤ)教と名を改めた。

霊体の曇りが病気や貧しさや争いのもとで、それを解く光の力が浄霊だ、というのが岡田の説き方。目標は「地上天国の建設」だった。初めは岡田自身がかざしていたが、決まった手続きを踏んだ信者なら誰でも取り次げると教えるようになる。取次ぎ手が増えるほど輪が広がる仕組みだった。岡田の取次ぎには、審神者も神主も出てこない。

治療からお浄め、そして浄霊へ

岡田茂吉大学がまとめた浄霊の変遷によると、呼び名は「治療」から「お浄め」へ移った。「浄霊」になったのは1948年6月だ。1951年の論説で岡田は、浄霊という言葉は歴史上いままで無かったと書いている。お守りの字も変わった。扇の次が「光」の肌守りで、1935年6月には「治療観音力」「治病観音力」の御書が出ている。

1941年2月に横書きの「光明」、1946年2月に一字の「浄」。1948年2月は「光」「浄力」「大浄力」、1949年は「浄光」「大浄光」と続いた。1951年7月からの縦書きの「光」「光明」「大光明」が、いま信者が首に掛けるおひかりの系統になる。字面を追うと、重心が治療から浄めへ動いたのが見えてくる。

手のかざし方も動いた。初めは手で触れたり息を吹きかけたりしていて、言霊を唱えながら息をかける形も記録にある。1935年から1941年ごろは患部から五センチほどで小さく振り、1946年から1948年ごろは十センチほど離して軽く振った。触れる、振る、止める。この順に手が相手から遠のいた。

病気を毒素と曇りで説いた岡田の理屈

岡田は体にたまった毒素を病気のもとと説き、熱や痛みはそれを外へ出す浄化作用だと見た。西洋医学への強い不信と結びついた考えで、初期には薬や手術を避ける信者もいたと伝えられる。いまの各教団は、医療を否定しないという立場を公式に示している。農薬や化学肥料を使わない「自然農法」も、地上を浄める考えの延長にあった。

近くのセンターへ電話して浄霊を受けに行く

救世教系の浄霊は、信者でなくても受けられる。入口はどの教団もおおむね電話一本だ。いづのめ教団は、相手に掌をかざすだけでお金も要らないと案内し、近くの浄霊センターへの連絡をすすめていた。神慈秀明会の問答集には、おひかりを首に掛けた信者なら誰でも取り次げると書いてある。

知り合いに信者がいれば、その人に直接声をかけてよいという。心当たりがなければ、会のサイトで最寄りのセンターを探して電話する。手順はそれだけ。救いの光教団も、浄霊は誰でも受けられるとして、近くの教会への問い合わせを案内していた。

お金の扱いは教団で少しずつ違う。救いの光教団は定額も強制も無いとし、受けて感謝の心が湧いたら神様へのお礼として玉串料を捧げるよう書いていた。入信はしたくないけれど試したい人には、光会員という形で3か月1,000円のお守りを用意している。いづのめ教団は費用が要らないという立場だ。

東方之光は、面会の折に「みまつりや浄霊をいただく」と書いていた。京都市北区の世界救世教会は、教会で浄霊会や平日の浄霊奉仕を開いている。曜日や時間はセンターや教会ごとに違う。電話で聞くのが早い。新健康協会は、実践の流れは協会の中で案内するもので、一般に出していない部分もあるとはっきり書いていた。

宗教の場の外で受ける道もある。一般社団法人エム・オー・エー・インターナショナルの東京療院は、岡田式浄化療法の名で掌をかざす施術を続けている。予約制で当日の予約もでき、日曜と月曜は休み。施術は50分から60分で、基本コースは3,300円と案内していた。

講習を二回受けておひかりを頂くまで

取り次ぐ側に回るには、おひかりを頂く必要がある。おひかりは首から下げてふだん身につけるお守りで、そこから掌を通して光が出ると教団は説明する。神慈秀明会では、各センターの教修(講習)を2回受けたあと、願書と入信献金を供えて入会し、おひかりを頂く流れだった。改宗は要らず、他の信仰を続けたままでよいとも書いてある。

同会の説明には、取り次ぐ人も受ける人も共におひかりを頂く、とある。頂いた人が信者、という線引き。救いの光教団の光会員のお守りのように、入信の手前で持てる形を用意した教団もあった。講習の中身や日数は、どの教団も外へ細かく出していない。秀明は、詳しくは近くのセンターで尋ねるよう書いていた。

片手を上げて三十センチ離し、掌を止めて取り次ぐ

いまの取次ぎの形は、1950年12月に岡田が出した論文「浄霊法変る」で決まった。相手から約三十センチ離し、掌を動かさずにかざす。神霊を放射する浄霊法と呼ばれたやり方で、掌から神霊が出るのだから手であおぐ必要は無い、という理屈らしい。翌1951年9月には、手を震わせないようにという教えも出た。

神慈秀明会は、おひかりを首に掛けた信者が片手を上げ、対面する相手の幸福を祈念するものだと説明している。片手で、向かい合って、祈る。形はこれだけ。体には触れない。掌を振らない、震わせないという1950年と1951年の二つの教えが、いまの手の形の芯だ。

座り方は、取り次ぐ人と受ける人が向かい合うのが基本の形だ。受ける人が椅子に掛け、取り次ぐ人が横や後ろに立つこともあるという。掌をどこへ、どの順で、何分向けるかは、教団の公開の案内には書かれていなかった。一か所何分、全体で何十分という話はネットで見かけるものの、公式の決まりとしては確かめられない。

受ける側に特別な所作を課す記述も、見た範囲の公式の案内には無かった。秀明の説明が「祈り」と呼ぶとおり、祈念するのは取り次ぐ側だ。細かな順番や時間は、会場の取次ぎ手の案内に合わせればいい。

一礼と天津祝詞で始める取次ぎ

始める前に一礼し、取り次がせていただくという気持ちを心の中で念じる人もいる。岡田茂吉大学の資料には、天津祝詞の奏上や合掌での祈りを併せた記録も出てくる。天津祝詞は大本から受け継いだ短い祓えの詞だ。

書き出しは「高天原に神留り坐す」、読みは「たかあまはらにかむづまります」。天の高いところにいらっしゃる神々が、という呼びかけにあたる。続く「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」は「つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに」と読む。伊邪那岐の大神が禊をした場所を指す句で、ここで生まれた祓戸の大神たちへ願いを向けていく。

終わり近くの「天津神国津神八百万の神等共に」は「あまつかみくにつかみやおよろずのかみたちともに」と読む。天の神も地の神も、すべての神々と一緒に聞いてください、という流れだ。中ほどの芯になる句が「祓ひ給へ清め給へ」。読みは「はらいたまえきよめたまえ」で、罪や穢れを祓って清めてください、という意味になる。

短い詞だ。締めは「恐み恐みも白す」、読みは「かしこみかしこみもまおす」。謹んで申し上げます、という結びの決まり文句だった。字の当て方は教団や資料によって少しずつ違う。

家で続ける交換浄霊と自己浄霊

時刻や方角には厳しい決まりが無いといわれ、朝夕の礼拝に合わせて取り次ぐ家が多いらしい。一回で終わる儀式としては扱わず、日を重ねて受け続けるのが前提になる。家族が互いにかざし合う「交換浄霊」も、家庭での日常の姿。

京都市北区に本部を置く世界救世教会は、活動の柱に「人に浄霊を取り次ぐ」「自己浄霊をする」を挙げていた。家庭では交換浄霊、教会では浄霊会や平日の浄霊奉仕を開く形だ。自分で自分にかざす自己浄霊まで数えると、取次ぎの場面は広い。

避けることも、教えの変遷から読み取れる。掌を振ったり震わせたりしないこと、触れずに距離を保つこと。いづのめ教団の案内どおりなら、取次ぎを金銭と引き換えにもしない。大本で帰神がやめられた経緯を思えば、霊を懸けて問答する方向へ寄せないのも、この系統の線引きといえそうだ。

岡田光玉と二つの真光教団

手かざしは救世教の専売とは限らない。岡田光玉は本名を岡田良一といい、岡田茂吉とは別人だ。1901年の生まれで、一時は救世教の有力な信徒だった。教会ごと抜けてはいないので、分派には数えないのが普通らしい。

1959年2月27日に神示を受けたとして、光玉は陽光子友乃会(正式にはエル・エイチ陽光子友乃会)を起こした。同じ年の8月28日、東京の神田須田町に三十三人が集まって発足したと伝わる。2月27日は光玉自身の誕生日と同じ日付だった。1963年に宗教法人世界真光文明教団として認められ、11月19日に登記を済ませている。

光玉は1974年6月23日に亡くなった。跡継ぎを巡り、養女の岡田恵珠を推す側と、立教以来の幹部の関口榮を推す側に割れる。真光裁判と呼ばれた争いは八年ほど続き、関口側が勝った。恵珠の側は崇教真光として1978年6月に宗教法人となり、信者はおよそ四分の三が恵珠の側についたという。世界真光文明教団の本部はいま静岡県伊豆市にある。

真光の手かざしを受けに行く段取り

世界真光文明教団は、手かざしを体験したい人向けの案内を出していた。申し込みはサイトの問い合わせの書式か電話の二通り。手かざしを行うことに費用はもらっておらず、お礼をしたいという人には神様へのお志の奉納を受けている、と書いてある。所要は30分から1時間ほど。入口は無料だ。

事前の相談もできる。申し込みのとき、事前相談をしたいと伝えればいい。同じ教団の問答集には、手かざしを受けるだけでも大丈夫、参拝に費用はかからない、別の宗教をしていてもよい、とあった。薬も医学も否定していない、という一文も載っている。

自分でかざす側に回るなら、10歳以上で3日間の研修会を受ける。受ければ誰でも手かざしができるようになる、と教団は案内していた。研修会は毎月開かれ、無料のプレセミナーもある。

入門の研修を受けると、おみたまと呼ぶ小さなメダルを授かる。身につけて使う点はおひかりと同じ。業を行う場は道場に限らず、職場や家庭、友人の家にも及ぶと研究者の報告にある。

拍手三回と天津祈言、真光の業の順番

真光の作法は、救世教の浄霊とはだいぶ違う。南山大学の人類学の研究誌に、アフリカのセネガルでの崇教真光の広がりを追った報告が載っていた。現地のお清めの場を細かく書き留めた記録。

それによると、二人一組で畳に向かい合って座る。三回拍手して天津祈言を唱え、額へ十分ほど、三十センチほど離した手を揺らしながら光を送る。そのあと首筋の左右二点に触れ、最後は受け手がうつ伏せで腎臓のあたりに光を受けるという。三段の手順だ。

同じ報告は、真光の信者が自分を主神(すしん)と世界をつなぐ受け身の通り道とみなしている、とも書いた。手をかざす人は光の出どころではない、という考え方。救世教の「おひかりから掌を通して光が出る」という説明と、ここは近い。細かな所作の正確さが求められる点は、真光のほうが厳しいらしい。

救世教の浄霊と真光の業、作法を並べる

救世教は約三十センチ離して掌を止め、体に触れない。真光は手を揺らしながら送り、首筋では指で触れる。ここが一番の分かれ目。唱える言葉も、救世教系の天津祝詞に対して真光は天津祈言で、真光は三回の拍手から入る。お守りの呼び名も、おひかりとおみたまで違った。

時間の案内にも差がある。真光は額へ十分ほどという記録があり、体験の所要は30分から1時間と教団が書いていた。救世教系の公式の案内には、時間の決まりが見当たらない。受けるときは、どちらの作法か先に聞いておくと戸惑わない。

除霊に寄った色が強いのも真光のほうだ。額の前に右手をかざすと憑いた霊が動き出す「霊動」が起こり、霊が悟ると不幸が解ける。世界真光文明教団の教えとして、こう紹介されている。救世教系の説明は、霊体の曇りを解くところに軸を置いてきた。

霊を懸けない大本の鎮魂、講座での手の組み方

大本は後年、邪霊が懸かる危うさなどを理由に帰神の修行をやめた。いま講座で教える鎮魂は、ずっと静かな形になっている。左の指が下になるよう手を組み、人差し指の腹を合わせて左の親指を右に重ねる。その手をみぞおちの前に置き、腕の力を抜いて軽く目を閉じる。

大本はこれを、精神を統一して心を鎮めるための営みとして、講座や研修の場で教えていた。指導者が数分ほど宣伝歌を唱え、目を開けるよう声をかけたところで終わる。途中で体が勝手に動く霊動を感じたら、指導者に相談するよう案内している。後始末まで指導者が見る。

霊を懸ける術から、心を鎮める座り方へ。岡田の浄霊が霊と問答する形を取らず、掌を向けるだけの取次ぎに落ち着いたのも、大本での経験と無関係ではなさそうだ。懸かりは危うい。

寺で浄霊を頼む、施餓鬼の申し込みから

救世教の外でも、浄霊という言葉は寺の案内に出てくる。ただ中身は岡田の浄霊とはずれていて、呼び名だけが独り歩きした形だ。茨城県笠間市の日蓮宗の一心寺は、九識霊断を掲げる寺。除霊は取り除く、追い出すという響きが強いという。浄霊は留まる霊を無理に払わず、供養や祈りで鎮めて清らかな状態へ導くことだと説明していた。

同じ寺は、仏教から見れば「供養」や「回向(えこう)」が本来その役を担うとも書く。お祓いを望む人には、お施餓鬼供養という選び方を示していた。最初に九識霊断法での相談を受ける。そのうえで、月初めのお守り(倶生霊神符)の交換の折に、お施餓鬼の塔婆を申し込む段取りだ。

九識霊断法の相談は、午前10時と午後2時の1日2枠で受けていた。予約はラインで取り、当日の予約は受けていない。飛び込みは不可。お守りの倶生霊神符は郵送でも申し込める。

塔婆料は4尺が3,000円、6尺が5,000円。大きさで二択。法要は毎月第2木曜の午前10時から本堂で営まれ、春彼岸とお盆と秋彼岸はお中日と8月16日に行う。本堂で約1時間、お経を唱えて供養するという。

供え物は野菜3品、果物3品、お米2キロ、水2リットル、甘いお菓子など。法要に出るなら、野菜や果物や米と水をそろえて、午前10時の始まりまでに本堂へ入る段取りだ。法要のあと、供え物は住職が境内に埋める。当日来られなくても住職が供養を営み、塔婆は後日自分で参拝して受け取り、お墓に捧げる流れだった。

家でできることとして、同じ寺は「南無妙法蓮華経」のお題目を挙げている。毎朝手を合わせ、静かに唱えるだけで構わないという書き方だった。回数や時刻の決まりは書いていない。形より祈る気持ちを、というのが寺の添え書き。

相談料とお祓い料、寺ごとの頼み方の違い

京都府京田辺市の真言宗の妙見山誠願寺は、まず電話で相談と予約をと案内している。京都のほか全国からの依頼も受けるという。受付は9時から18時。

予約が先。相談は1時間1万円、来院した人のお祓いは3万円までで、内容で変わるという。流れは予約、相談、原因の鑑定、お祓い、お導きの五段だった。鑑定が挟まる。

東京都西多摩郡檜原村の天光寺は、臼杵山真言宗を名乗る寺だ。土地や家屋で悩む人に、本山でのお祓い、除霊、浄霊を勧めている。霊を呼び出して説得し、納得してもらって霊界へ去ってもらい、篤く供養するのが寺の説明。お経を唱えながら、ゆっくり浄めていくとも書いていた。

料金は、確認作業と浄化浄霊で六万円、お祓いと除霊を全部含めて十五万円と出している。十五万円以上はかからない、という上限の書き方だ。取り消しは3日前から料金がかかる。日取りは慎重に。

授与品として、天現霊符、萬事大吉符、開運御守、不動尊札を挙げている。郵送で頼める所もある。金吾龍神社の授与所は、除霊と浄霊の祈願を10,000円からで受け付けていた。遠方ならこの形が楽。

大阪府豊能郡の日蓮宗の妙瀧寺の住職は、浄霊の方法として神職や僧侶が祝詞や経文を唱える祈祷を挙げる。家でできる清めには、家の四隅や玄関に塩を盛るやり方を紹介していた。部屋の四隅に香を立てる方法や、護摩木を焚く護摩も同じ並びに入る。民間の浄霊は死者の霊を供養して鎮める話、除霊は憑いたものを離す話で、向きが逆なんだよね。

祈祷料を白い封筒に包んで当日を迎える

包み方は、大阪府豊中市宮山町の不動寺が厄除け祈願の案内で細かく書いていた。基本は郵便番号の枠の無い白無地の封筒で、紅白の蝶結びののし袋でもいい。黒白の水引や豪華すぎる金封は避ける。表の上段中央に「御祈祷料」か「御布施」、下段中央にフルネームを、濃い墨の筆ペンか毛筆で書く。

薄墨はお悔やみ用なので使わない。中袋の表に「金壱万円」のように旧字で金額を書き、裏に住所と氏名を入れる。お札は新札が望ましく、肖像を表に上向きでそろえる。家族で受けるなら代表者の名前だけでいい。

渡すときは袱紗から出し、両手で受付に差し出す。「本日はよろしくお願いいたします」と一言添えるよう書いてあった。服装は派手すぎない物にし、サンダルや短パンは避ける。当日は寺務所で申込書を書いて納め、本堂へ移り、法螺貝と太鼓の中で祈祷を受けて、お札を授かる順番だった。

授かったお札は一年で納めるとする寺がある。宝塚の清荒神清澄寺は、祈祷のお札は1年間のご利益なので、1年たったらお礼詣りとして寺へ納札するよう案内していた。同じ寺の祈祷は3,000円からで、郵送でも頼める。受付は眷属堂で、9時から17時まで。本人がお堂に上がる形は取らず、申し込みの翌日から日数をかけて名前を読み上げて祈るという。

世界救世教から枝分かれした教団と美術館

1955年2月10日、岡田茂吉は72歳で亡くなった。世界救世教はそのあと割れたり寄ったりを繰り返す。包括法人のもとには、いづのめ教団(旧新生派)、東方之光(旧再建派)、主之光教団(旧護持派)が並んだ。いづのめ教団は岡田の直系を自認し、各地の浄霊センターで取次ぎを続けている。

神慈秀明会は1970年、幹部だった小山美秀子が立てた。滋賀県甲賀市信楽町にイオ・ミン・ペイ設計のミホミュージアムを建て、浄霊を「生命の芸術」と呼ぶ。熱海のエム・オー・エー美術館は公益財団法人岡田茂吉美術文化財団が運営し、国宝三点を収める。1957年に熱海美術館として開き、1982年に建て替えて改めた。箱根の強羅が神仙郷、熱海が瑞雲郷で、美と浄めを重ねた地上天国のひな形だった。

小さな分派は十を超える。岡田茂吉大学の分派教団シリーズには、1955年の新健康協会、1956年の救世主教と浄霊医術普及会が並ぶ。新健康協会はいま福岡市東区唐原の晴明郷に本部を置いている。1966年8月には救世真教が生まれた。

救世真教は1973年に法人の認証を受けたとする資料もある。確かめられたのは、群馬県知事が所轄する宗教法人で、本部が高崎市箕郷町中野にあるところまで。1970年には世界救世教黎明教会と、京都の世界救世教会が包括法人を離れた。世界救世教会は1956年に青光教会として発足し、国内の信者は千人以下、海外は百から五百人と届け出ている。

翌1971年に黎明教会から東京黎明教会が分かれた。世界救世教会は1972年に黎明教会と組み、岡田の著作『文明の創造』の英訳を始めて1984年に仕上げている。そのあとも1972年に救いの光教団、1973年に聖観音教会と岡田茂吉研究所、1974年にみろく神教と続いた。1984年には救世神教の流れから光明みろく会が出ている。

名前に救世や浄霊の字をそのまま残した教団が多いのも、この系統らしいところ。

ネットと掲示板に残る受けた側の声

浄霊を受けた話は、ブログや掲示板に数多く残っている。受けたときの感想を書く人もいれば、教団を離れた人が医療との付き合い方をめぐる違和感を書くこともあって、声はばらばらだ。

昔の大型匿名掲示板の宗教板にも、救世教出身の人や家族の書き込みが続くスレッドが何度も立った。気功やレイキのような手当ての一種とみる人、暗示の働きとみる懐疑派、霊的な力と認める人がいて、話は決着していない。

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