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水子供養は「日本の伝統」じゃなかった――あの地蔵の列が生まれた五十年

結論から言うと、まだ五十年しか経っていない

いきなり結論から入る。水子供養は、日本の伝統でも何でもない。ざっくり言えば一九七〇年代に爆発的に広まった、まだ五十年ちょっとの習俗だ。

びっくりすると思う。あの、寺の斜面をびっしり埋めつくす小さなお地蔵さん。赤いよだれかけ。カラカラ回る風車。

あの光景を、昔から日本人はこうやって弔ってきたんだな、と思って眺めていた人は、たぶんかなり多い。私も最初はそうだった。

でも調べれば調べるほど、あれはめちゃくちゃ現代的な現象だということが見えてくる。テレビと週刊誌と石材業界と、戦後の中絶事情と、ちょっとした政治。そして何より当事者の抱えきれない気持ち。それが全部ぐしゃっと合流してできたものだ。

ただ、ここで大事な前置きをひとつ。新しいことと、意味がないことは、まったく別の話になる。

むしろ逆になる。なんでこんな短期間に全国津々浦々まで広まったのかを追いかけていくと、必ず同じ話に行き着く。そこには本当にどうしようもない痛みを抱えた人たちがいて、その痛みを置いておく場所が社会のどこにもなかった。

だからこの記事は、水子供養を笑い飛ばす記事ではない。成立の経緯はきっちり書く。商売として煽られた部分も容赦なく書く。でも、そこに手を合わせた人の気持ちを軽く扱うつもりはまったくない。そこだけ約束して、始めたい。

江戸の村では、子返しと呼ばれていた

まず時代をぐっとさかのぼる。近世、つまり江戸時代の日本の村では、生まれた子を育てないという選択が、決して珍しくなかった。

間引きという言葉は聞いたことがあると思う。あれは畑の作物を間引くのと同じ言葉づかいだ。ただし実際の村では、もっと不思議な呼び方をしていた。子返し。子戻し。

返す、戻す。どこに返すのか。神様に、だ。

この言い回しに、この時代の死生観がまるごと詰まっている。子どもは神様からの授かりもので、まだこの世に完全に定着していない、いわば貸与状態の存在。

だから育てられない事情があるときは、いったん神様のところへお返しする。そしていずれ余裕ができたら、また授かればいい。生まれ変わり、あるいは再来を前提にした感覚になる。

冷酷だから返すと言ったのではない。この世とあの世の境目がまだ曖昧だったからそう言えた、というほうが近いと思う。

実態としてはかなり広範囲で行われていた。関東や東北の農村を中心に、生活の苦しさと直結した人口調節として機能していた。

上総国の農家では毎年おびただしい数の子が育てられなかったという記録の類が残っている。江戸前期に二千六百万規模まで増えた日本の人口は、その後百二十年ほど三千万前後で頭打ちになる。その背景に堕胎と間引きの広がりがあったという見方は、人口史ではわりと定番の議論だ。

飢饉が来れば村ごと消えかねない世界で、一家の口の数を管理することは、当時の農民にとって現実的な生存戦略だった。

そしてここが重要なのだが、この時代の人たちが水子供養に相当することをしていたかというと、していない。少なくとも今の形では全然していない。

返した子のために全国の寺に石地蔵を建てて、供養料を払って、名前をつけて、位牌を置いて、というシステムは存在しなかった。多くの場合、埋めるのは家の床下だったり、屋敷の隅だったり、村外れの決まった場所だったりした。弔いはあったが、今の水子供養とは似て非なるものだ。

幕府は禁じ、県令は手当を配った

もちろん為政者は放っておかなかった。一七六〇年代には幕府が間引き禁止の触れを出している。理屈は不仁、つまり人としての情に反する行いだ、というものだった。

ただこれ、道徳の話に見えて本音は労働力と年貢の確保でもある。人が減れば村が潰れて年貢が入らない。

だから各藩や幕府は、妊娠を村役人に届け出させ、生まれなかった場合には死胎披露書という書類を出させるという、けっこうゴリゴリの監視体制を敷いていった。妊娠が公的に管理される対象になったわけだ。

明治になるとこの流れはさらに強くなる。初代千葉県令の柴原和が、乳児一人あたりに年三円を三年間支給するという、今でいう子ども手当みたいな制度を導入した話は有名だ。当時の三円は米三俵ぶんくらいの価値があったというから、本気度がわかる。

産めよ増やせよの方向にアクセルが踏まれ、明治の刑法では堕胎罪が置かれる。さらに戦時体制下では、一九六〇年に人口一億を達成するという露骨な計画まで閣議で決まった。

つまりこの国の産む産まないの話は、ずっと個人の話ではなく国家の話だった。この構図は、あとで一九七〇年代の水子ブームを読むときの伏線になるので、頭の隅に置いておいてほしい。

松平定信が建てた、静かな起点

水子という言葉そのものにも触れておく。語源には諸説ある。

記紀神話に出てくる不完全な子である水蛭子から転じたという説がある。間引いた子を水に流した習俗に由来するという説もある。そして見ず子、つまり顔を見ないままの子だという説も根強い。

どれが正解と決めきれないが、いずれにせよ元々はみずこではなくすいじと読み、胎児だけでなく乳幼児期に亡くなった子どもも含む広い言葉だった。

そして寛政五年、松平定信が現在の東京都墨田区にある本所回向院に水子塚を建てた。これが水子という語を掲げた供養碑としては、かなり古い部類に入る。

ただし誤解しないでほしいのは、ここから全国に水子供養が広まったわけではないという点だ。定信の水子塚は、江戸の無縁の死者を弔う回向院という場のなかの、ひとつの慰霊碑として静かに存在し続けた。

全国的なムーブメントになるまでには、ここから百八十年近く待つことになる。

石を積む子どもの物語は、どこから来たのか

水子供養の情緒的な中核を担っているのが、賽の河原のイメージになる。

三途の川の手前の河原で、幼くして死んだ子どもたちが小石を積んで塔を作る。父のため、母のため、と唱えながら一つずつ積む。

ところが夕方になると鬼が来て、鉄の棒でそれを崩してしまう。子どもたちは泣く。そこへ地蔵菩薩が現れて、袈裟の裾に子どもたちをかき抱いて救ってくれる。

この物語を語る和讃が、賽の河原地蔵和讃だ。江戸期には各地でさかんに唱えられ、地域ごと時代ごとに何種類ものバリエーションが生まれた。今に残るものより昔のほうが描写はずっと過酷だったとも言われている。

要するにこれは、子どもを亡くした親のための説話文学になる。しかも和讃の狙いは、たぶん怖がらせることではない。

むしろ逆の読み方がある。鬼に崩される描写を通じて、親がいつまでも泣き続けることが子どもを苦しめると伝える。だからそろそろ涙を卒業しよう、というメッセージを届けるレトリックだった、と。百箇日法要が卒哭忌、つまり哭くことを卒業する日と呼ばれるのと、きれいに響き合う。

そこに地蔵菩薩が組み合わさる。地蔵はもともとインド由来で、中国を経て日本に入ってきた菩薩だ。ところが日本では圧倒的に民間信仰の側に降りてきた。

境界に立つ神様である道祖神と習合し、村の辻に立ち、あの世とこの世のあいだを行き来して、地獄に落ちた者すら救いに行く存在になった。

子どもと地蔵の縁が特別に深いのは、この境界性ゆえになる。まだこの世に定着していない存在をあの世まで送り届けるガイド役として、これ以上ないくらいハマったわけだ。

ただし念を押しておくと、江戸期の賽の河原信仰は幼くして死んだ子ども全般が対象で、中絶した胎児に特化した話ではなかった。この物語が中絶に照準を合わせて再編集されるのは、あくまで戦後の話になる。

七つまでは神のうち、という感覚

もうひとつ押さえておきたいのが、七つまでは神のうち、という言い回しだ。

数え七歳くらいまでの子どもはまだ完全な人間ではなく、神の領域に属しているという感覚になる。だから多くの地域で、幼児が亡くなっても大人と同じ葬儀はしなかった。戒名も位牌もなく、正式な墓に入れないことも珍しくなかった。

乳幼児死亡率が桁違いに高かった時代の、社会的な緩衝装置だったとも言える。

ここに近代医療が入ってくると、風景が一変する。乳幼児は死ななくなり、生まれる子どもの数は減り、一人ひとりの子どもの重みが跳ね上がる。

加えて超音波の胎児画像や胎児心拍モニターが普及して、生まれる前の存在に顔がつくようになった。エコー写真を財布に入れて持ち歩ける時代になったということだ。

神のうちだった曖昧な存在が、輪郭を持った固有の誰かに変わっていく。この変化が、後に水子供養が刺さる土壌をならしていく。

戦後、中絶が合法になった

戦後、日本は一気に方向転換する。焼け跡と引揚げと極端な食糧難のなかで、今度は人口を抑えたい国になった。

そこで一九四八年に優生保護法が成立し、翌年以降の改正で、いわゆる経済的理由による人工妊娠中絶が事実上広く認められるようになる。世界的にも相当早いタイミングでの合法化だった。

ちなみにこの法律は名前のとおり優生思想を露骨に抱えた法律で、障害のある人への強制不妊手術という重大な人権侵害も同じ枠組みで行われていた。この点は後年、国が賠償に踏み切るところまで問題化している。母体保護法に改められたのは一九九六年のことになる。

そして中絶の件数がすさまじいことになる。統計上のピークは一九五〇年代半ばで、年間およそ百十七万件という数字が記録されている。

しかも当時は届け出られない件数もかなりあったと見られている。実数はもっと多かったはずだ。同じ頃の出生数と並べると、生まれる命に対してとんでもない比率になる。

避妊具も避妊知識も十分に行き渡っていない時代に、家計と住宅事情と職場の慣行が全部のしかかって、多くの女性が中絶を選ばざるを得なかった。

ここで冷静に押さえておきたいのは、彼女たちは決して軽い気持ちで選んだわけではないということだ。ただ、その選択を語る言葉が社会にまったくなかった。

教会も相談窓口もカウンセリングもない。病院は処置をしたら終わり。家族には言えない。職場では絶対に言えない。何百万人という単位で、行き場のない記憶だけがそこに積み上がっていった。

高度成長期の家族像が、記憶の置き場を消した

そこに高度成長期の家族像がかぶさる。父は会社、母は家庭、子どもは二人。団地と核家族と教育熱。

理想の家族の絵が全国に配られ、そこから外れた記憶はいよいよ収納場所を失う。しかも大家族から核家族への移行で、母や祖母と語り合う場も減っていた。

つまり一九六〇年代の終わりごろ、日本にはこういう状態の人が膨大にいた。誰にも言えない喪失を抱えていて、それを弔う作法も知らず、そもそもそれを弔っていいのかどうかもわからない。

この巨大な、名前のついていない需要。ここに手を差し伸べる何かが現れたら、そりゃもう爆発的に広がるに決まっている。実際そうなった。

その兆候はすでに見えていた。たとえば京都の嵯峨にある直指庵では、一九六〇年代後半から拝観者が置かれたノートに悩みを書き残す習慣が生まれる。そこに堕胎の経験と、供養したいという願いが繰り返し綴られていったと伝えられている。

誰かが仕掛けたわけではない。書く場所があっただけで、人はそこに書いたのだ。

一九七一年九月、秩父の山に寺が建った

さあ本題になる。埼玉県秩父郡小鹿野町。紫雲山地蔵寺。一九七一年、昭和四十六年の秋、この寺が開かれる。水子供養寺の代名詞として、いまも語られる場所だ。

開基は橋本徹馬という人物。僧侶出身ではなく、戦前から活動していた政治評論家であり、右翼陣営に位置づけられる論客だった。

彼は紫雲という月刊誌を主宰していて、そこに読者からの人生相談コーナーを設けていた。そしてある時期から、その相談の内容がある一点に極端に偏り始める。

人工妊娠中絶のあとに苦しむ女性からの相談が、なんと全体の六割を占めるようになったというのだ。

この数字、ちょっと立ち止まって考えてほしい。何かの布教活動でも、ましてや商売の仕掛けでもない。ただ相談窓口を開けていただけで、寄せられる声の過半が中絶後の苦しみだった。

前の章で書いた行き場のない記憶が、実際にはどれほど分厚く社会に堆積していたか。これはその、生々しい実測値みたいなものになる。

橋本はそこから水子供養を提唱し、秩父の山中に専用の寺を建てる。特定の宗派に属さない単立寺院という形だった。

落慶式には当時の総理大臣である佐藤栄作が出席して祭文を読み上げ、写経を奉納したと伝えられている。衆議院副議長や県知事も顔をそろえた。開山早々からこの規模の政治的な後ろ盾がついていたことは、この寺の性格を考えるうえでかなり大きい。

圧倒的な物量が、メディアを呼んだ

そしてこの寺の何がインパクト絶大だったかというと、風景そのものになる。

山の斜面いっぱいに、小さな水子地蔵がびっしり並ぶ。一体一体に依頼者がいて、名前がある。数は万を超え、今では一万四千体とも、それ以上とも言われる。

訪れた人が言葉を失うのは、教義でも説法でもない。この圧倒的な物量だ。写真映えするという言い方は不謹慎かもしれないが、実際この光景はメディアにとって最高の被写体だった。

翌一九七二年あたりから、水子地蔵の大量生産が本格化する。ここ、地味だけどめちゃくちゃ重要なポイントになる。

石材業界にとって、小さな地蔵像というのは扱いやすい商材だった。墓石より小さく、単価は手頃で、しかも一人が一体ずつ注文する。しかも一度置けば、多くの寺で年間の維持管理料が発生する。要するに、単発ではなく継続課金型の商品になったわけだ。

檀家離れが進んで経営が苦しかった寺にとっても、これは福音だった。先祖代々の付き合いに依存せず、まったく新しい層が全国から個人単位でやってくる。土地の縛りがない。宗派の縛りもない。

地方の小さな寺が、この一点突破で息を吹き返すケースが続出した。寺と石材業者がタイアップして水子供養を宣伝するという構図は、この時期にかなり広く成立している。

こうして、需要と供給と流通が一直線につながった。あとは、火をつけるだけだった。

テレビと週刊誌が、火をつけた

一九七〇年代の日本を襲ったオカルトブームは、今の感覚だと想像しにくいくらい社会を覆っていたのだ。

ノストラダムスの予言本が国民的ベストセラーになり、スプーン曲げが茶の間を席巻し、心霊写真が雑誌の定番企画になった。

なかでも決定的だったのがテレビだ。日本テレビのお昼のワイドショーで一九七三年に始まったあなたの知らない世界。最初はワイドショーの一コーナーにすぎなかったのに、夏休みになると連日放送される看板企画へ育っていった。

視聴者から寄せられた体験談を再現ドラマにして、霊能者らしき人が解説する。放送作家の新倉イワオが分析役として画面に出て、そのまま単行本のシリーズにもなった。

八〇年代に入ると、同時間帯の大人気お笑い番組と互角の視聴率を叩き出すほどの怪物コンテンツになる。競合番組が焦って暴走した末に打ち切られたという話まで残っているくらいだ。子どもたちは震えながら夢中で見ていた。

そして雑誌、とりわけ女性週刊誌が、この空気に完全に乗った。一九七〇年代後半から八〇年代前半にかけて、家庭のトラブルを何でもかんでも水子と結びつける記事が量産される。

夫の浮気も、子どもの不登校も、原因不明の体調不良も、家業の不振も、姑との不和も、全部が水子のたたり。そして記事の最後には必ず、供養してもらえる寺の情報がついている。

この手の記事のかなりの部分が、水子供養を行う寺院とのタイアップだったという指摘は、複数の研究者が繰り返ししている。

ここではっきり言っておくが、書き手である私はたたりがあるなどということは一切主張しない。この記事で扱っているのは、そう語られ、そう広められ、そう信じられた、という記録のほうだ。そこは絶対に混同しないでほしい。

たたりという言葉の、よくできた構造

こうして一九七〇年代後半から八〇年代にかけて、水子ブームと呼ばれる現象が完成する。

全国の寺に水子地蔵が林立し、新聞広告が出て、テレビが煽り、雑誌が焚きつけ、占い師が相談者に水子の存在を告げるようになった。

この言説の構造がまた、恐ろしくよくできている。まず、水子の霊は自分では成仏できない弱い存在だとされる。そして、その苦しみは母親に向かうとされる。だから供養しろ、と続く。

反証がまったく不可能なのがポイントだ。供養して調子が良くなれば効いたことになるし、悪いことが起きれば供養が足りないことになる。

しかも中絶や流産の経験を持つ人の多くは、もともと自分を責めている。そこに、あなたのせいで苦しんでいる子がいる、と言われたら、否定する足場がない。

さらに厄介なのは、この言説が、あなたを責めているのではなく、かわいそうな子を助けてあげてほしい、という優しい顔で来ることだ。責められているのに、責められていないことになっている。だから抵抗しづらい。

この構造は、後の霊感商法とほぼ同じ骨格をしている。

記録に残っている、司法の場での決着

ここは慎重に、確定した事実の範囲だけ書く。特定の宗派や寺院一般を悪しざまに言うつもりはまったくない。ただ、司法の場で決着がついた事件は現に存在する。

代表的なのが、一九九〇年代に社会問題化した明覚寺および本覚寺のグループによる、いわゆる霊視商法の事件だ。

仕組みはこうだった。まずチラシで悩み相談や供養相談を呼びかけ、相談料は三千円程度と安く見せる。寺に来た人には姓名判断のような手続きを踏ませ、そのうえで、水子や先祖の霊が災いをもたらしている、と告げる。

そして供養の儀式に進むと、供養料が一気に百万円単位に跳ね上がる。しかも霊は一体では終わらず、次から次へと必要な供養が積み上がっていく。

このグループは全国に系列寺院を展開し、集めた金額は百二十億円を超えたとされる。組織内にはノルマも研修もあった。

民事では和解が積み重なり、刑事では代表者らが起訴されて有罪となり、代表者には懲役六年の実刑が確定した。そして二〇〇二年、和歌山地裁が宗教法人に対して解散命令を出し、同年末に最高裁で確定している。宗教法人が解散命令を受けるのは極めて異例のことだ。

もうひとつ、別の事件も挙げておく。ある団体が、不妊に悩んで訪れた女性に対して、原因は水子の霊が取り憑いているからだと説明し、高額な儀式料を取っていた。

ところが後に婦人科を受診したところ、実際の原因は卵管の詰まりで、医学的に対処可能なものだったことがわかった。この件は詐欺として立件され、有罪判決に至っている。霊の話が医療へのアクセスを遅らせるという、いちばん怖い形の被害になる。

こういう手口の相談は一九七〇年代の終わりごろから増え始め、八〇年代には大きな社会問題になった。一九八七年には全国的な弁護士の連絡会も結成されている。

制度面では二〇一八年に消費者契約法が改正され、霊感などの知見によって重大な不利益を回避できると告げて契約させた場合には取り消せる、という規定が新たに設けられた。施行は二〇一九年。これはかなり大きな一歩だった。

繰り返すが、これは水子供養を行っている寺が全部こうだという話では絶対にない。むしろ淡々と、静かに、良心的にやっている寺のほうが圧倒的に多い。ただ、行き場のない痛みが集まる場所には、必ずそれを食い物にする人間が現れる。その事実だけは、記録として置いておきたい。

供養料の相場は、けっこうふわっとしている

実際のところ、金額はどうなっているのか。ここも押さえておこう。

いちばん軽いのは、寺で読経してもらう一回きりの供養で、多くの寺ではおおむね一万円前後を目安にしている。塔婆を立ててもらう形だと、数千円から三万円くらいの幅で設定されていることが多い。

地蔵像を納める場合は、像の材質や大きさで変わる。実際に公開されている例だと、地蔵像が一万円弱から、観音像になると二万円ほど、収める厨子が数千円といった価格帯がある。それに加えて年間の維持管理料が千円から二千円ほどかかるという形式が見られる。

永代供養として長期の管理を依頼すると、三万円から二十万円あたりまで幅が出る。遺骨を墓に納める場合はさらに幅が広く、工事も含めれば数十万円規模になることもある。自宅で手元供養をする場合は、小さな仏具を揃えるかどうか次第で、数千円から十万円くらいまで。

ここで問題になるのが、この幅の広さそのものになる。相場がふわっとしているから、当事者は、安く済ませたら気持ちが足りないと思われるんじゃないか、という不安に簡単に引きずられる。そして、その不安につけ込む余地が生まれる。

良心的な寺ほど、お気持ちで結構です、と言う。ただ、その言葉が逆に迷わせることもある。難しいところだ。

浄土真宗が、水子供養をしない理由

ここ、いちばん面白いところかもしれない。日本の仏教は宗派ごとに立場がまるで違う。

まず浄土真宗。この宗派は原則として水子供養という枠組みを取らない。理由は極めて明快で、教義から一直線に出てくる。

浄土真宗の中心にあるのは阿弥陀如来の本願で、その本願は老いも若きも善人も悪人も選ばない。信じる者はみな等しく浄土に往生する。

だとすると、亡くなった胎児だけを水子という特別なカテゴリーに切り出して、追加の供養を積まなければ救われない存在として扱うことが、そもそも教えと矛盾する。とっくに浄土に迎えられている命に、後から救済のノルマを課すことになってしまうからだ。

だから浄土真宗の寺では、頼まれれば法名を授け、他の亡くなった人と同じ形で法要を営む。特別扱いをしないという形での、徹底した平等の扱いになる。

同時にこの宗派は、水子供養を人為的に作られた新しい儀礼だと明言し、中絶を経験した人の不安や後悔につけ込む搾取だと、かなり強い言葉で批判してきた歴史がある。ここは筋が通っていて、正直かっこいいと私は思う。

一方で、真言宗、天台宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、浄土宗といった宗派の寺では、水子供養に応じているところが多い。ただし、これらの宗派も教義の体系のなかに水子供養という項目がもともとあったわけではない。既存の追善供養の枠組みに、水子という対象を後から乗せている、というのが実態に近い。

唱えるものが違えば、風景も違う

作法の違いも面白い。

真言宗系の寺では、光明真言や地蔵菩薩の真言を繰り返し唱える形が中心になる。護摩を焚く寺もある。密教らしく、音と所作の反復で場を作っていく感じだ。

天台宗系だと法華経の読誦を核にしつつ、地蔵菩薩への供養を組み合わせることが多い。日蓮宗系の寺では、当然ながら南無妙法蓮華経の題目と法華経の読誦が中心になり、水子にも法号が授けられることがある。

日蓮宗の場合はそもそも、亡くなった者を法華経の功徳に導くという枠組みが明確なので、そこに乗せやすい。

曹洞宗や臨済宗といった禅宗系では、読経と焼香を中心とした簡素な形が多い。曹洞宗は歴史的に地方の民間信仰と深く結びついてきた宗派で、地蔵信仰の受け皿にもなってきたから、水子供養にも比較的すんなり対応する寺が多い印象がある。浄土宗系だと南無阿弥陀仏の念仏が中心になる。

戒名や法名を授けるかどうかも寺によって分かれる。授ける場合、水子には短い、いわゆる童子号や嬰児号にあたる形が使われることが多く、大人の戒名のような長い構成にはしないのが一般的だ。

ただしこれも寺ごとに考え方が違う。名前をつけてあげたいという親の希望を最優先する寺もあれば、そこは形にしないほうがいいと考える寺もある。

津軽の河原、京都の斜面、秩父の山

日本全国どこでも同じかというと、これも全然違う。

青森の恐山や川倉には、賽の河原と呼ばれる霊場がある。荒涼とした石の河原に、無数の風車が刺さって回っている。

下北の民俗では、人が死ぬとその魂は恐山に行くと考えられてきた。ここは死者と会いに行く場所であって、もともとは中絶した胎児に特化した場所ではない。ただ、水子供養が全国に広まった一九七〇年代以降。この既存の霊場に水子の要素が流れ込んで、風車と玩具とよだれかけの風景がいっそう濃くなっていった。

津軽地方の地蔵信仰を丹念に調べた研究によると、この地域の地蔵信仰は思われているほど古くないという。明確に動向を追えるのは近代以降で、明治後期以前の銘を持つ地蔵はほとんど見つからず、供養習俗が一気に広まったのは近代のことらしい。

しかもこの地域の子ども向けの地蔵像は、丸彫りの人形型で砂岩製のものが圧倒的に多い。砂岩は朽ちやすいから長期保存に向かない。それでもこの材質が選ばれ続けたということ自体が、この供養の性格を物語っている気がする。

この習俗を受け入れたのは、主に曹洞宗と浄土宗の寺だったという指摘も興味深い。宗派によって受容の温度差が、地域レベルで出ていたわけだ。

もうひとつ、津軽の記録で目を引くのは、かつての地蔵祭りは今のような静かな追悼の場ではなかったということになる。十九世紀の記録には、灯籠を下げた地蔵の夜宮に参詣者が押し寄せて賑わったとある。死者供養であると同時に、生きている人間の祭りでもあった。それが近代を経て、粛然とした供養の場へと変わっていった。

京都の化野念仏寺も外せない。ここは平安期以来の風葬の地で、野ざらしになっていた遺骸を弔うために石仏が置かれたという由来を持つ。

明治三十年代に地中から掘り出された無縁の石仏石塔はおよそ八千体で、それを一処に集めて配列したのが今の西院の河原になる。肩を寄せ合うようにびっしりと並ぶあの風景が、賽の河原そのものに見えたからこの名がついた。

ここに水子地蔵堂が置かれ、一九七〇年前後に水子地蔵が建立されたことが、全国への広がりのひとつのきっかけになったとも言われている。地蔵盆の夕刻に無縁仏へ蝋燭を供える千灯供養は、今も続いている。

そして秩父の紫雲山地蔵寺。ここは水子供養のためだけに新しく作られた寺だ。既存の霊場が水子を受け入れたのでも、村の地蔵が転用されたのでもない。ゼロから水子供養専用の場として設計された。この違いは、この習俗の性格を考えるうえで象徴的だと思う。

供養の日、実際になにをするのか

具体的な流れも書いておく。

まず、菩提寺があるならそこに相談するのが基本になる。ない場合は自分で寺を探すことになるが、ここでたたりを前面に出して不安を煽ってくる寺や業者は、正直やめておいたほうがいい。落ち着いて説明してくれるところを選んでほしい。

申し込みは電話が多い。親の名前と、子どもについて分かる範囲の情報を伝える。日時を決める。

当日は数珠と、お布施を包んだもの、花、供え物を持っていく。エコー写真がある人はそれを持参する人もいる。服装は喪服である必要はなくて、黒や紺やグレーといった落ち着いた色ならまったく問題ない。

当日は本堂か、地蔵の前で、僧侶が読経する。時間は多くの場合三十分ほど。焼香をして、手を合わせる。それだけだ。特別な儀式めいたことはあまりない。

供え物をどこに置くかは寺によってルールが違うから、事前に聞いておいたほうがいい。

そして時期についてだが、これは本当にいつでもいい。処置の直後にする人もいれば、二十年三十年たってから来る人もいる。

僧侶たちが口をそろえて言うのは、決まったタイミングなんてない、ということだ。自分が向き合えると思ったときが、その人にとってのそのときになる。

二十七年たってから、寺の門をくぐった人

ネットには膨大な体験談が残っている。そのなかから、印象に残ったものをいくつか、内容をならして紹介する。

まず、二十代の頃に中絶を経験して、それから二十七年たってようやく寺に行ったという女性の話。

当時は相手とも家族とも話し合いにならず、病院の待合室にひとりで座って、処置が終わったその足で職場に戻ったという。誰にも言えなかった。夫にも、後から生まれた子どもたちにも。

そして年月が過ぎ、子どもたちが独立して家が静かになった頃から、急にその記憶が戻ってくるようになった。特にきっかけはなかったらしい。ただ、夜中に台所に立っているとふっと浮かんでくる。

彼女は寺を検索して、電話をかけるまでに三ヶ月かかったと書いていた。何を言えばいいかわからなかったからだ。

実際に電話したら、応対した僧侶はまったく驚かず、日時を淡々と決めてくれたそうだ。当日は読経のあいだ、ずっと泣いていた。何を泣いているのか自分でもわからないくらい泣いた。

帰り道、駅までの坂を下りながら、二十七年ぶんの何かがようやく下ろせた気がした、と。そして彼女が最後に書いていたのが印象的だった。許されたとは思っていない。ただ、なかったことにしなくてよくなった。この一文は、ずっと頭に残っている。

水子の霊がついている、と言われた人

こちらは種類の違う話になる。

三十代で不妊治療を続けていた女性が、知人に紹介されたという相談所に行ったときの話だ。そこで開口一番、あなたには水子の霊がついている、と告げられた。

彼女には確かに過去に流産の経験があった。ただ、その話を相手にはしていなかったのだ。だから見えていると思い込んでしまった。

そこから始まった要求が段階的だった。最初は数千円の相談料だったという。次に、まずは軽い供養から、と数万円を求められる。その次は、霊が複数いる、と言われて、まとまった額の儀式に進む。

断ろうとすると、今やめると途中で止まった状態がいちばん良くない、と言われた。この途中でやめるほうが危険という論法は、この手の話の常套句になる。

彼女が合計でいくら払ったかは書かれていなかったが、貯金がかなり減ったとあった。

我に返ったのは、婦人科の主治医に何気なく話したときだったという。医師は否定も嘲笑もせず、ただ検査の結果を丁寧に説明し直してくれた。医学的に説明のつく理由が、ちゃんとあった。

彼女は、霊のせいだと言われたとき、正直ちょっと安心してしまったんです、と書いていたのだ。原因が自分の体ではなく、外側の何かにあると言われたほうが、あのときは楽だったから、と。この告白は、この手の商法がなぜ効くのかを、これ以上ないくらい正確に説明していると思う。

供養する側に立ってしまった僧侶の話

三つめは、寺の側の話になる。

地方の小さな寺を継いだ僧侶が書いていた文章がある。彼が寺に戻った頃、その寺の収入の柱はすでに水子供養になっていた。先代が始めたことだった。境内にはずらりと水子地蔵が並び、年間の管理料が寺を支えていたのだ。

彼は最初、それが嫌でたまらなかったという。人の後悔で食っている、と思った。

でも実際に供養に来る人と向き合ううちに、単純に割り切れなくなった。来る人はみんな、誰にも言えないまま何年も抱えてきた人ばかりで、読経のあいだ、ほとんどの人が泣く。そして帰り際に、来てよかった、と言う。

彼はそこで、自分が売っているのは何なのかを考えた。結論として彼が書いていたのは、自分が提供しているのは救済ではなくて、場所と時間なんだと思うことにした、ということだった。

三十分、誰にも邪魔されずにその子のことだけを考えていい時間。それを用意する仕事なんだ、と。

同時に彼が決めたルールもあった。たたりという言葉は絶対に使わない。金額は最初にはっきり伝える。

追加を勧めない。供養が足りない、とは言わない。この四つを自分に課したと書いていた。

ネットで水子供養が叩かれるたびに胸が痛むけど、叩かれる理由も自分にはわかる、とも。誠実な葛藤だと思う。

流産をした人が、供養で傷ついた話

これも大事な話だから書く。

妊娠初期に流産を経験した女性が、周囲に勧められて水子供養に行ったときの記録だ。義母から強く勧められた、というのが発端だった。ちゃんと供養しないとこの先に障る、と言われて、断れなかった。

寺で読経を受けながら、彼女はずっと違和感を抱えていたという。自分は望んで妊娠して、望んで産みたかった。流産は自分が選んだことではない。

それなのに、供養の場の空気が、まるで自分が謝罪する側であるかのように組み立てられている気がした。帰りの車の中で義母に、これで安心ね、と言われて、涙が出たと書いていた。安心なんかしていない。むしろ、自分の身体が悪かったんだと言われた気がした、と。

この話が突きつけているのは、水子供養が中絶を軸に組み立てられてきた歴史のひずみだと思う。

流産や死産で子を亡くした人にとって、罪と赦しのフレームは、まったく的外れなうえに有害になりうる。同じ水子という言葉でくくられているけれど、そこにいる人の立場は本当にバラバラなのだ。ここを一緒くたにしてはいけない。

ネットでは、どう語られてきたか

ネット上の反応は、正直かなり冷たい。特に匿名掲示板やQ&Aサイトを見ていくと、懐疑的な意見が主流になる。

よく見かける定型の質問がある。水子供養は割と最近始まった風習らしいのに、しないと祟りがあると言われるのはおかしくないか、というやつだ。

これに対して、歴史的な経緯を踏まえた回答がつく。たたりなんてものは絶対にない、それは不安につけ込む最初のステップだ。そういう趣旨のレスがベストアンサーに選ばれる。だいたいこのパターンになる。

もうひとつ多いのが、家族間の温度差をめぐる相談だ。姉が水子供養をしないことを心配する妹の相談がある。姑に供養を強要されて困っているという相談もある。逆に自分は供養したいのに、夫がそんなの意味ないと取り合ってくれない、という相談も多い。

この手の相談を読んでいると、水子供養は結局のところ、家族の力関係が噴き出す舞台になりやすいんだなと思う。

考察界隈の側では、また別の温度がある。宗教社会学や民俗学に関心のある層にとって、水子供養は伝統の創出の教科書的な事例として扱われることが多い。

ごく短期間に、既存の断片。つまり地蔵信仰と賽の河原と追善供養を再編集して、あたかも古来のものであるかのような顔をした習俗が成立した。しかも成立の過程がメディア記録として全部残っている。研究対象としてこんな美味しい素材はそうそうない。

だからこの界隈では、水子供養は批判の対象というより分析の対象として、けっこう淡々と語られる。

ただ、こういう冷静な議論のなかに、実際に経験した当事者が入ってくると空気が変わる。理屈はわかるけど、私にはあれが必要だった、という一言に、議論はだいたい黙る。そしてそれでいいんだと思う。

たたり説には、仏典の根拠がない

批判を整理していこう。まず教義面から。

水子の霊がたたるという説には、仏教の経典に根拠がない。これはほぼ全宗派の僧侶が言っていることだ。

そもそも仏教では、亡くなった者が生者にたたるという発想自体が主流ではない。日本の伝統仏教は霊魂を肉体と切り離して独立した攻撃主体として扱う枠組みを持っていないから、水子が母を苦しめるという物語は、教義的にはどこにも接続点がない。

現役の僧侶たちは、けっこうはっきり言っている。供養をしなくても悪いことは何も起きない。祟りも罰も一切ない。罪や穢れという発想を持ち込むべきでもない。仏教の教えは、どんな事情があっても人間の尊厳を肯定するものだ、と。

この点で、たたり言説は仏教というより、日本の民間信仰の怨霊観と、メディアが作った物語のハイブリッドだと考えるほうが正確になる。

次に商業化。これは前に書いたとおり、寺と石材業者とメディアの三点が同時に噛み合って成立した構図だ。批判の要点は金を取ること自体ではない。宗教が対価を受け取ること自体は普通のことになる。

問題は、不安を作り出してからそれを鎮める商品を売る、という順序にある。

もうひとつ指摘されているのが、水子地蔵のその後だ。一体ずつ置かれた地蔵は、依頼者が高齢になり亡くなると、管理料が途絶える。放置され、風化していく。

寺としては撤去も供養も必要になるが、その費用は誰も払わない。全国の水子供養寺が、いまこの問題を抱えている。石を売るときには誰も三十年後の話をしなかったわけだ。

罪悪感が、女性にだけ配られた

これがいちばん鋭くて、いちばん重い批判だと思う。

一九七〇年代以降の水子言説を読み解いていくと、そこには一貫した構図がある。胎児は無垢な被害者として描かれ、苦しみを引き受けるべき加害者として名指しされるのは、常に母親だった。

妊娠には相手がいるはずなのに、その相手の存在は言説からきれいに消えている。避妊の知識も手段も社会の側の問題であるはずなのに、それも消えている。経済的な事情も、職場の制度も、住宅事情も消える。残るのは、選んでしまった女ひとりだ。

しかもこの罪悪感は、供養という形で市場化された。悔いていることを証明するために金を払う、という回路ができてしまった。

フェミニズムの側からこの構造への批判が繰り返し出てきたのは当然のことになる。中絶へのタブー感が強化されることで、必要な医療や情報へのアクセスまで妨げられる。そういう実害も指摘されている。

同時に、政治的な使われ方も見逃せない。中絶を命を奪う行為として情緒的に印象づける言説は、女性の自己決定権を制限したい側にとって都合がよかった。一九七〇年代の水子ブームと、この時期の中絶をめぐる法制の議論が地続きだったという見方には、かなりの説得力がある。

海外の研究者が飛びついた理由

ここが面白いのだが、水子供養は海外の日本研究者から異様なくらい注目された。

理由はシンプルで、アメリカの中絶論争が地獄のように激化していた時期と重なるからだ。

一方に、中絶は殺人だと主張して医療機関の前に立つ人々がいる。もう一方に、女性の権利として絶対に譲らない人々がいる。両者に対話の余地はほとんどない。

そんななかで、彼らは日本を見つけてしまった。中絶が合法で、件数も多く、それでいて激烈な社会的分断が起きていない。そのかわり、中絶した子のために手を合わせる独特の儀礼がある。これは何だ、と。

ウィリアム・ラフルーアは、水子供養を日本仏教の宇宙観のなかに位置づけた。中絶を経験した女性の罪悪感に対する一種のセラピーとして機能している、とかなり高く評価している。中絶を全面肯定も全面否定もせずに、痛みを言語化して処理する仕組みが日本にはある、という読み方だ。アメリカの読者にとって、この提案は魅力的に映った。

一方、ヘレン・ハーデカーはまったく違う読み方をした。彼女は水子供養を、一九七〇年代以降の商業的オカルトブームのなかで成立した、極めて現代的な現象として位置づけている。

しかも超宗派的に広まった商品としての儀礼であり、そこで再生産されているのは女性への罪悪感とジェンダー規範だ、と。日本語版のタイトルにも商品としての儀式という言葉が入っている。この二人の対立は、水子供養研究の基本的な構図になった。

ほかにも論者はいる。ある研究者は、水子供養は追悼儀礼というより鎮めの儀式であって、新宗教的な性格が強く、産婦人科医と寺院の金儲け主義が背景にあると厳しく批判した。逆に、日本古来の霊魂観がここに表出しているのだという見方をする日本の社会学者もいた。

つまり、この現象をどう位置づけるかで、研究者の立場がきれいに分かれる。伝統の表出なのか、発明された商品なのか、それともセラピーなのか。個人的には、全部が同時に成り立っているのが実態だと思っている。

なぜ、ここまで人の心を掴んだのか

最後に分析になる。なぜ五十年ちょっとでここまで広まったのか。理由はいくつも重なっている。

まず、圧倒的な数の当事者がいた。戦後、年間百万件を超える規模で中絶が行われていた。そこに流産と死産の経験者が加わる。日本社会には、この経験を抱えた人が本当に大量にいた。潜在需要が桁違いだった。

次に、それを置く場所がどこにもなかったのだ。宗教的にも、医療的にも、家族の会話のなかにも、この経験の居場所がなかった。名前がないから語れない。語れないから消えない。この真空に、水子供養がすっぽりハマった。

そして、儀礼の敷居がとことん低かった。菩提寺も、宗派も、地縁も要らない。予約の電話一本で、身分を明かさずに済ませられる。むしろ匿名でいられることが決定的に重要だった。誰にも言えない話だからこそ、知らない土地の知らない寺がよかったのだ。

さらに、行為として具体的だった。悲しみをどう扱えばいいかわからないとき、人はやることを求める。名前をつける、地蔵を置く、手を合わせる、花を供える。この身体を伴う具体的な手続きが、抽象的な感情に取っ手をつけてくれる。

そして最後に、七〇年代日本の空気があった。オカルトブームと女性週刊誌の全盛期。テレビが霊を扱い、雑誌が祟りを書き、それが茶の間の共通言語だった。この時代に、この形で提示されたことが、決定的だった。

ここに寺の経営難と石材業界の商機が乗り、政治的な後押しがあり、一気に全国に広がったのだ。どれか一つの要因では説明できない。全部が同時に起きた。それがあの五十年だったと思う。

同じパッケージで、二つのものが配られた

ここまで書いてきて、最後に残った考えを置いておきたい。

まず言いたいのは、この話を作られた伝統だから偽物、で終わらせるのは、たぶんいちばん雑な結論だということだ。

伝統なんてものはどれもこれも、どこかの時点で誰かが作っている。初詣も七五三も、今の形になったのは近代以降になる。だから水子供養が一九七〇年代の産物であることは、それ自体では価値を減らさない。

問題はそこではない。この習俗が広まる過程で、何が一緒に配られたか、だ。

配られたものは二つあった。ひとつは、置き場所のなかった悲しみを置くための場所。もうひとつは、その悲しみにあなたの罪だという値札をつける物語。

この二つは同じパッケージで届けられた。だから話がややこしくなる。場所を受け取った人は本当に救われたし、値札を受け取った人は本当に傷ついた。同じ寺で、同じ読経で、両方が起きていた。これを片方だけ見て評価すると、必ず間違える。

私が調べていていちばん胸に来たのは、紫雲山地蔵寺の橋本徹馬が主宰していた雑誌の相談欄の話だった。中絶後に苦しむ女性からの相談が六割を占めた、という事実。

これは商売の仕掛けが生まれる前の、純粋な需要の観測値になる。つまり順番として、まず苦しんでいる人が大量にいて、その後に商売が来た。

ここを取り違えると、当事者を騙された愚かな人たちとして描くことになってしまう。それは違う。彼女たちは騙される前から、すでに苦しんでいた。社会が何も用意しなかったから、用意された最初のものに手を伸ばした。それだけの話だ。

この五十年で、良くなったこともある

そのうえで、確実に良くなったことも書いておきたい。

まず、医療と福祉の側が流産や死産のグリーフケアを真面目に扱うようになってきた。周産期の喪失を経験した人への支援は、国の手引きにもなり、自治体の窓口にも取り上げられるようになった。当事者同士の会もあちこちにある。宗教しか受け皿がなかった時代とは、状況が違う。

法制度も変わった。霊感による知見を持ち出して契約させる行為は、消費者契約法の改正で取り消しの対象になった。実際に解散命令を受けた宗教法人もある。たたりがあると言って高額を請求する行為は、もう完全に無法地帯ではない。

そして寺の側も変わってきている。たたりという言葉を使わないと決めている僧侶がいて、金額を最初に明示すると決めている寺がある。追加の供養を勧めない、供養が足りないと言わない、と自分に課している人がいる。

この変化は、外からの批判が届いた結果でもある。批判には意味があった、ということでもある。

最後に、もし今これを読んでいる人のなかに、当事者の人がいたら。伝えたいことは三つある。

ひとつ。供養しないと悪いことが起きる、なんてことはない。これは僧侶自身が繰り返し明言していることだ。しないという選択は、まったく普通の選択で、誰にも咎められる筋合いはない。

ふたつ。逆に、したいと思うなら、それも何も後ろめたいことではない。習俗として新しかろうが、教義に書いてなかろうが、あなたが自分の気持ちに形を与えるためにその三十分を使うことに、誰も文句を言う資格はない。二十年後でも三十年後でも遅くない。タイミングを決めるのは、あなただけだ。

みっつ。もし誰かに、あなたには水子の霊がついている、と言われて、そこから金額の話が始まったら、その場では絶対に決めないでほしい。一度帰る。誰かに話す。消費生活センターという窓口が全国にあるし、この分野の相談を受けている弁護士もいる。

不安を煽ってから商品を出してくる順序は、記録に残っている事件と同じ形をしている。

流産も死産も中絶も、経験した人が責められる理由はどこにもない。事情はそれぞれで、外からは絶対にわからない。この記事は、そういうことを言うために書いた。

歴史の裏側を追うのは面白いし、実際けっこう面白かった。でも面白がるのは仕組みのほうであって、そこに手を合わせた人のほうではない。あの斜面に並ぶ小さな地蔵の一体一体に、名前を書いた人がいる。それだけは、忘れないでおきたい。

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