ヘブライ語には、アラビア数字が入ってくるまで数字という独立した記号がなかった。
数を書きたければ文字を使う。アレフと書けば一、ベートと書けば二、そしてタヴと書けば四百になる。
この、いまの私たちからすれば不便きわまりない事情が、二千年以上にわたって膨大な量の思索と註釈と瞑想を生んできた。そして、少なからぬ量の誤用と暴走も。
単語は、書かれた瞬間に必ずひとつの数を持ってしまう。であれば、同じ数を持つ二つの単語のあいだには、何かしらの秘められた関係があるのではないか。この問いから出発する解釈技法が、ゲマトリアだ。
ここでは、ゲマトリアがどこから来て、どのように展開し、何ができて何ができないのかを、できるかぎり丁寧に追っていく。
ユダヤ教の内側での使われ方、キリスト教世界への移植、近代西洋儀式魔術での再編、そして日本語圏での受容までを扱う。そのうえで具体的な計算法と実践手順、瞑想的用法、さらに、なぜ数値の一致は必ず見つかってしまうのかという検証の話までを一続きに書く。
最初に断っておく。ここではゲマトリアを、隠された真理を暴く道具としては扱わない。テキストと自分自身に向き合うための、限界のはっきりした思考の型として提示する。
医療、法律、投資、進学、転職といった実務的判断を、ゲマトリアの数値で決めることは決して勧めない。それらは専門家と、そして自分自身の理性で決めるべきものだ。
- 文字が数を兼ねるという事態
- ギリシアから来た、数で名を隠す遊び
- 三百十八人は、本当は一人だった
- 三十二の道が、世界を刻んだ
- 祈祷文を一字も動かせなくした人々
- 文字を回して、意識を変える
- ゾーハルから、サバタイ派、そしてハシディズムへ
- キリスト教世界への移植
- 黄金の夜明け団と、九十三という数
- 日本では、別のものと混ざった
- 二十二文字の数価
- 計算法は、一つではない
- 置換と頭字法
- 獣の数字、六百六十六
- 生命の樹と、数の対応
- 用意するもの、時刻、環境
- 単語を数に変えるときの約束事
- 等価語をどう探し、どう読むか
- 名前に使うときの、はっきりした限界
- 文字回転の瞑想を、安全に行う
- 唱える言葉と、発音してはならない名
- 記録の付け方と、ゲニザという習慣
- 一致は、必然的に起こる
- バイブルコードは、白鯨からも出てきた
- 陰謀論的な使い方について
- 実践者たちの声
- 十二の手順で、一巡する
- 鏡であることを、忘れさせないために
文字が数を兼ねるという事態
ゲマトリアとは、ヘブライ文字やギリシア文字の各字に割り当てられた数価を用いて、単語や句を数値へ変換する技法を指す。そして同じ数値を持つ別の語との関係から、意味を読み取ろうとする解釈法の総称になる。
語源については二説ある。ギリシア語のゲオメトリア、つまり幾何学に由来するという説と、グランマ、つまり文字に由来するという説だ。古くから並立しており、決着はついていない。
いずれの説をとるにせよ、この語がギリシア語起源であること自体が、この技法の出自を雄弁に語っている。ゲマトリアはヘブライ語の内側から自然発生した土着の術ではなく、ヘレニズム世界の文字文化との接触のなかで形を得たものだった。
肝心なのは、ゲマトリアが単独の占いとして成立したのではない、という点だ。
少なくともユダヤ教の伝統内部では、ゲマトリアは常に聖書解釈、いわゆるミドラシュの一手法として、他の多くの解釈規則と並んで置かれてきた。聖典の一節に不自然な語や余分な文字を見つけたとき、その理由を説明するための道具のひとつがゲマトリアだったわけだ。
単語の数値そのものに呪力があると考えられていたわけではない。数値の一致は、この二つの事柄は関連しているという主張を補強する、修辞的で記憶術的な支えとして機能した。
ラビ文学の主流は、法、すなわちハラハーの決定にゲマトリアを用いることを一貫して避けてきた。数の一致だけで律法上の義務を導き出すことはできない、というのが伝統的な線引きになる。
この抑制は、現代のネット上でゲマトリアがどう使われているかを見るとき、常に思い出す価値がある。
一方で、ゲマトリアには紛れもなく神秘的な次元もあった。
中世以降のカバラ的思考のなかでは、文字と数はどちらも創造の実体であり、世界は文字の組み合わせによって織られているとされた。この世界観のもとでは、二つの語が同じ数を持つことは偶然の符合ではない。創造の構造そのものにおける同一性の現れとして理解される。
解釈の補助としての抑制された用法と、存在論的な同一性の証としての濃密な用法。この二つの態度は、歴史のなかで何度も緊張しながら併存してきた。
ギリシアから来た、数で名を隠す遊び
文字に数価を割り当てて言葉を数として扱う発想は、ヘブライ語より前にギリシア語圏に存在した。
アナトリアのミレトスで発達したギリシア数字の体系では、アルファベットの各字がそのまま数を表す。これを用いて語の数値を求め、対応関係を読む技法はイソプセフィア、つまり等数値と呼ばれた。
アリストテレスはこれをピュタゴラス派と結びつけて言及しており、その実践は紀元前六世紀にまで遡るとされる。ポンペイの落書きにも、私はその数が五四五である女を愛する、といった、恋人の名を数で隠した例が残っている。
数で名を伏せるという遊びは、当時それなりに普及した知的娯楽だったらしい。
さらに遡れば、紀元前八世紀のアッシリア王サルゴン二世の碑文に興味深い記述がある。王が自らの名の数値に合わせて、城壁の長さを一万六千二百八十三キュビトに定めたというのだ。
これは現存する最古級の、名前の数値を建造物に反映させた記録として、しばしば引かれる。
ヘブライ文字が数を表す用法として確実に確認できるのは、ヘレニズム期後半、紀元前一世紀ごろの貨幣や文書からになる。第二神殿期のユダヤ社会が、ギリシア語圏の数字表記の慣習を吸収するなかで、自分たちのアルファベットにも同じ操作を適用しはじめた。この筋道が最も無理がない。
三百十八人は、本当は一人だった
ユダヤ教文献のなかでゲマトリアが解釈技法として明示されるのは、二世紀のタンナイームの時代だ。
ラビ・エリエゼル・ベン・ヨセ・ハ・ゲリリに帰される三十二の解釈規則のなかに、ゲマトリアは正式な一項目として列挙されている。
実際の用例としてよく知られるのが、創世記十四章十四節の解釈になる。アブラムが甥ロトを救出するために動員した三百十八人という数がある。ラビたちは、アブラムの僕エリエゼルの数値がちょうど三百十八であることを指摘した。そして、実際に従ったのはエリエゼル一人だったと読んだのだ。
ここでゲマトリアは、大軍を率いた族長というイメージを解体し、神の助けによる勝利という神学的主張を支える働きをしている。
同様に有名な例をいくつか挙げておこう。
ヤコブが夢に見た梯子、ヘブライ語でスラムは百三十になる。シナイも百三十だ。ここから梯子の啓示とシナイの啓示が重ねられる。
ぶどう酒を意味するヤインは七十、秘密を意味するソードも七十になる。酒が入ると秘密が出る、という箴言的な警句がここから作られた。
トーラーは六百十一で、モーセを通じて与えられた戒律の数と解される。十戒の最初の二つを民が直接聞いたとする伝承と合わせて、六百十三戒になると説明されるわけだ。
一を意味するエハードは十三、愛を意味するアハヴァーも十三になる。両者を足すと二十六、すなわち四文字神名の数値だ。
こうした対応は、いずれも先に神学的な主張があり、数がそれを支えるという順序で機能していることに注意してほしい。数から神学が導かれたのではない。
三十二の道が、世界を刻んだ
ゲマトリアの背景思想を決定づけたのが、セフェル・イェツィラー、すなわち形成の書になる。
成立年代は激しく争われており、タルムード期とする見方から初期中世とする見方まで幅がある。分量はきわめて短く、写本によって異同も大きいが、その影響力は分量に反比例して巨大だった。
冒頭で、神は三十二の神秘的な知恵の道によって世界を刻んだ、と述べられる。三十二とは、十のセフィロート、つまり流出と、二十二のヘブライ文字の総和だ。
ちなみにヘブライ語で心を意味するレヴの数値が、ちょうど三十二になる。後代のカバラ主義者はここに、知恵の道は心の道である、という読みを重ねた。
二十二文字はさらに三つに分類される。三つの母字であるアレフとメムとシン、これはそれぞれ気息と水と火に対応する。七つの二重字であるベート、ギメル、ダレット、カフ、ペー、レーシュ、タヴは、七惑星と週の七日と頭部の七つの穴に対応する。そして残る十二の単純字が、十二宮と十二か月と身体の主要器官に対応する。
この書物が与えたのは、単なる分類ではなく世界観だった。
文字は音を写す道具ではなく、世界を成り立たせている実体である。神はこれらを組み合わせ、量り、置き換えて万物を作った。
この前提を受け入れるなら、単語を分解して数え直す作業は、文字遊びではなく創造の構造をなぞる作業になる。ゲマトリアが単なる語呂合わせを超えた重みを持ちうるのは、この宇宙論的な裏づけがあるからだ。
同時に、この裏づけを共有しない者にとって、ゲマトリアの結論が説得力を持たないのも当然である、ということでもある。
祈祷文を一字も動かせなくした人々
十二世紀から十三世紀にかけて、ライン地方のユダヤ人共同体にハシデイ・アシュケナズ、すなわちドイツの敬虔者たちと呼ばれる運動が起こった。
中心にいたのはカロニモス家の人々だ。なかでも敬虔者の書を編んだユダ・ヘ・ハシードと、その弟子であるヴォルムスのエレアザル、通称ロケアハがよく知られる。
この運動は、十字軍による共同体壊滅の記憶を背負いながら、極度に厳格な悔悛の実践と、緻密きわまりない祈祷文の秘教的分析を並行して進めた。
エレアザルたちがゲマトリアに与えた位置づけは、それ以前とは質的に異なる。
彼らは、日々唱えられる祈祷文の一語一語、いや一文字一文字が神的な必然性を持って定まっていると考えた。そしてその必然性を証明するために数値計算を用いたのだ。
なぜこの祈りはこの語数なのか。なぜここでこの語が選ばれているのか。答えは、その数値が別の聖句の数値と一致するから、あるいは神名の数値の倍数だから、という形で与えられる。
結果として、祈祷書のテキストは一字たりとも動かせない聖なる構造物になった。エレアザルはまた、単純な加算にとどまらず乗算を用いる技法も展開し、しばしば天文学的な桁の数を扱っている。
この時期のもうひとつの重要な貢献は、ゲマトリアが体系的な一覧として整理されはじめたことだ。どの語がどの数を持つか、同じ数を持つ語は何か。こうした索引的な知識の蓄積が、後のカバラ文献における自在な数値操作を可能にした。
同時に、警戒の声も生まれている。
十三世紀のナフマニデス、いわゆるラムバンは、ゲマトリアを個人が勝手に計算して新しい教義を作ることを明確に戒めた。有効なゲマトリアは伝承として受け取られたものに限られる、と論じたのだ。
この、伝承に基づかないゲマトリアは無効という原則は、後代の権威たちにも繰り返し確認されている。数の一致それ自体は何も保証しない、というきわめて健全な認識が、伝統の内側にすでにあったわけだ。
文字を回して、意識を変える
同じ十三世紀のスペインで、まったく別の方向にゲマトリアを押し進めた人物がいる。一二四〇年サラゴサ生まれのアブラハム・アブラフィアだ。
彼の関心は聖書解釈ではなく、文字操作そのものを用いて意識を変容させ、預言的な状態に到達することにあった。彼はこの技法をホフマット・ハ・ツェルフ、つまり文字結合の知恵と呼ぶ。
アブラフィアの方法はこうだ。単語や神名を構成する文字を、あらゆる順序に並べ替え、そのそれぞれに全ての母音を組み合わせて発声していく。
四文字であれば二十四通りの並びになり、そこに母音の組み合わせが掛かる。実際には数百の音節を順に唱えていくことになる。
この作業は、意味を追う言語処理を意図的に破壊し、心を通常の連想から引き剥がす。彼はこれに、特定の呼吸パターンと、頭部の動きを組み合わせた。母音に応じて頭を上下左右に振るのだ。
準備としては断食、清め、白い衣、夜間の孤独な部屋、そして経文箱の着用が指示される。主著である来たるべき世の生命や知性の光などに、これらの手順が繰り返し記されている。
アブラフィア自身、この修行が引き起こす現象を克明に書いている。身体が熱を帯びる感覚、四肢の脱力、思考の異様な鋭敏化、そして震え。
彼はこの震えを回避すべき危険ではなく、預言に至る必要な段階と見なした。さらに進むと、修行者は自分自身の姿をしたもう一人の自分に出会い、そこから知識を受け取るとされる。
現代の目から見れば、これは長時間の過呼吸と感覚遮断と反復発声が引き起こす解離的な体験と重なる部分が大きい。実際、この点は後で述べる安全上の注意に直結する。
アブラフィアは一二八〇年にローマへ赴き、教皇ニコラウス三世をユダヤ教に改宗させようと試みて投獄されかけ、教皇の急死によって命拾いした。
晩年はシチリアで自らを預言者かつメシアとして提示し、バルセロナのラビ・シュロモ・ベン・アデレト、通称ラシュバから強い批判を受ける。この批判が、彼のカバラがスペインの主流から排除される主因になった。
だが著作は東方へ広がり、キリスト教カバラを経由して近代西洋魔術にまで届く。ショーレム以降の学術研究、とりわけモシェ・イデルの一連の仕事によって、アブラフィアは恍惚的カバラの最重要人物として再評価されている。
ゾーハルから、サバタイ派、そしてハシディズムへ
十三世紀末のカスティーリャで、モーゼス・デ・レオンがゾーハル、すなわち光輝の書を世に出した。
テキストは二世紀のシモン・バル・ヨハイの教えを記録したものと称する。だがアラム語の文体分析からデ・レオン自身の著作とみる説が、学界の合意になっている。
ショーレムはこのアラム語を人工的方言と評した。バビロニア・タルムードとタルグム・オンケロスの言語的融合だが、著者の不完全な文法によって混乱している、というのだ。
ゾーハルはゲマトリアを技法として大量に用いる。だがそれ以上に効いているのは、この書がセフィロートの象徴体系を圧倒的な密度で展開し、数値をその象徴体系に接続する回路を作ったことだ。
ある語の数値が別の語と一致するとき、その一致は生命の樹のどのセフィラーに帰属するのか。そういう問いが立つようになる。
デ・レオンが広めたとされるパルデス、四層の解釈というものがある。ペシャットという字義、レメズという暗示、デラーシュという探求、そしてソードという秘義だ。そのなかで、ゲマトリアはおおむねレメズの層に属する技法とされた。
十七世紀、スミルナのシャブタイ・ツヴィを中心とするサバタイ派運動は、ゲマトリアを救済論の証明に大々的に用いた。
メシアの到来年を数値から導き、指導者の名の数値に意味を読み、運動の正当性を数によって裏づけようとしたのだ。運動はツヴィのイスラム改宗という破局に終わる。だがその後もサバタイ派的な数値解釈は地下水脈として残り、十八世紀以降の東欧ハシディズムにも間接的な影響を及ぼした。
ハシディズムにおけるゲマトリアは、終末論的な計算よりも、日常の実践に霊的な深みを与える方向で使われることが多い。ある祈りの言葉の数値がある徳目の数値と一致することを示し、その祈りを唱えるときの心の持ちようを説く、といった具合だ。
エロヒームが八十六で、自然を意味するハ・テヴァも八十六である。ここからこの神名は超越的な天上ではなく自然のうちに顕れる神性を指す、と読む解釈などはその典型になる。数値が思弁を刺激する触媒として働いているわけだ。
キリスト教世界への移植
十五世紀末のイタリアで、ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラがユダヤ教カバラをキリスト教神学の枠内に取り込もうと試みた。彼の主張は、カバラこそがキリストの神性を証明する最古の秘教的伝承である、というものだった。
この路線を学術的に整備したのが、ドイツの人文主義者ヨハネス・ロイヒリンになる。
彼のカバラの術についてという書は、一五一七年刊で、ヘブライ語の知識に裏打ちされた本格的な紹介だった。ゲマトリア、ノタリコン、テムラーの三技法をキリスト教読者に体系的に提示した、最初期の書物のひとつになる。
ロイヒリンは同時に、当時ドイツで進行していたヘブライ語文献の焚書運動に対して、強く抵抗した人物でもある。
ロイヒリンの少し後、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムがオカルト哲学三書を出す。一五三三年の刊行だ。
この書は、カバラ的数値操作を占星術と自然魔術と天使論に接合し、さらにラテン文字のアルファベットにも数価を割り当てる体系を提案した。ヘブライ文字以外のアルファベットにゲマトリアを適用するという発想は、ここで大きく前進する。
この移植可能性こそが、後の西洋魔術における自由なゲマトリアの源泉になった。そして同時に、後で述べる現代の乱用の技術的な素地でもある。原語の音韻構造と切り離された文字数価の操作は、原理的に何でも作れてしまうからだ。
黄金の夜明け団と、九十三という数
十九世紀末のロンドンで設立された黄金の夜明け団は、それまで散在していた西洋秘教の断片を、生命の樹という一枚の図の上に整理し直した。
サミュエル・リデル・マグレガー・メイザースは、一八八七年にカバラ・ウンヴェイルドを刊行した。ラテン語訳経由ではあるが、ゾーハル系文献を英語圏に紹介する仕事になる。
団の教程では、ヘブライ二十二文字が生命の樹の二十二の径と対応する。その各々に、タロットの大アルカナ、占星術のシンボル、色彩、香、神名、天使名が割り当てられた。ゲマトリアは、この対応表のなかで語の位置を特定する索引機能を担った。
この体系を極限まで表にしたのが、一九〇九年に匿名で刊行されたアレイスター・クロウリーのリベル七七七になる。
生命の樹の三十二の位、つまり十のセフィロートと二十二の径を縦軸にとる。そこへ宗教や神話や魔術や薬草や宝石など、約百九十列を横軸にとった巨大な対応表だ。たとえば金星に関する儀式を組むなら、金星の列を横に読むだけで色も香も神名も揃う、という設計になっている。
続くセフェル・セフィロートは、アラン・ベネットとの共同作業だ。一から三千三百二十一までの各数値に対応する、ヘブライ語の語彙を並べた索引になる。事実上のゲマトリア辞典だ。
クロウリー自身の思想体系のなかでは、ある符合が中心に据えられた。ギリシア語のテレーマ、つまり意志と、アガペー、つまり愛が、ともに九十三になるのだ。彼の教団の内輪の挨拶にまで使われている。アブラハダブラの四百十八なども同様だ。
ここで押さえておきたいことがある。黄金の夜明け団以降の西洋魔術におけるゲマトリアは、ユダヤ教の内部での用法とは目的も規範も異なる、という点だ。
ユダヤ教では聖典テキストの解釈が目的であり、伝承への従属という制約があった。西洋魔術では、象徴を分類し接続して儀式を構成することが目的であり、制約はむしろ体系の内的整合性に置かれる。両者を混同すると、双方の文脈を取り違えることになる。
日本では、別のものと混ざった
日本語圏にカバラとゲマトリアが本格的に入ってくるのは、二十世紀後半になる。
初期には比較宗教学や西洋思想史の文脈で断片的に触れられる程度だった。だが一九七〇年代以降のオカルトブームのなかで、タロットや西洋占星術や魔術の紹介書を通じて、カバラ数秘術という括りが一般化する。
この過程で、二つのものが混ぜられた。ヘブライ語の語彙を扱う本来のゲマトリアと、生年月日を足して一桁に還元する現代数秘術が、しばしば同じ名前で語られたのだ。
今日、日本語でカバラ数秘術と検索して出てくる内容の多くは、実際には別物だ。ピュタゴラス派系統の現代数秘術に、カバラという語が権威づけとして冠されたものになる。両者は起源も方法も別物だと理解しておくのがいい。
一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけては、黄金の夜明け団関連文献の翻訳が進む。生命の樹の対応表やクロウリーの著作が、日本語で読めるようになった。江口之隆をはじめとする訳者や研究者の仕事によって、儀式魔術の体系が原典に近い形で参照可能になったのはこの時期だ。
同時に、日ユ同祖論の系譜のなかでも、ゲマトリア的な数値操作が援用されるようになった。日本語とヘブライ語の音の類似を根拠に、両民族の同起源を主張する言説である。
この種の主張は、比較言語学の方法論から見ると音韻対応の規則性を欠いており、学術的な裏づけを持たない。楽しむのは自由だが、歴史的事実として受け取るべきものではない。
インターネット以降、状況はさらに複雑になった。
個人ブログには、自分の名前をヘブライ文字に音写して数値を出す手順を紹介する記事が並ぶ。動画サイトには、聖書のゲマトリアを解説する長尺動画が投稿されている。質問サイトには、ゲマトリアとは何ですかという素朴な問いから、特定の数字の意味を尋ねる質問までが蓄積している。無料のゲマトリア姓名判断を提供するサイトもある。
玉石混淆というより、玉と石の見分け方自体が共有されていない、というのが実情に近い。ここで計算法だけでなく検証の話に紙幅を割くのは、この状況を踏まえてのことだ。
二十二文字の数価
標準的な数価、いわゆるミスパル・ヘフラヒー、絶対値の一覧を並べておく。ヘブライ語は右から左に書くため、単語の先頭は右端になる。
アレフが一、ベートが二、ギメルが三、ダレットが四、ヘーが五になる。ヴァヴが六、ザインが七、ヘットが八、テットが九、ヨッドが十だ。
ここから十の位に入る。カフが二十、ラメドが三十、メムが四十、ヌンが五十、サメフが六十になる。アインが七十、ペーが八十、ツァディが九十だ。
そして百の位。コフが百、レーシュが二百、シンが三百、タヴが四百になる。
五つの文字は語末に来ると字形が変わる。これをソフィート、つまり語末形と呼ぶ。
標準の計算では語末形も元の文字と同じ数価で数える。だがミスパル・ガドール、すなわち大きい数と呼ばれる方式では扱いが違う。語末形に五百から九百までの値を与えて、四百までしかなかった数価の体系を九百まで拡張する。
具体的には、カフ・ソフィートが通常は二十のところ五百になる。メム・ソフィートは四十が六百、ヌン・ソフィートは五十が七百だ。ペー・ソフィートは八十が八百、ツァディ・ソフィートは九十が九百になる。
どちらを使うかは方式の選択であり、正解がひとつあるわけではない。この、どちらでもよい部分の多さこそ、後で述べる検証上の最大の問題点になる。
計算法は、一つではない
ゲマトリアには単一の計算法があるのではなく、複数の方式が並立している。主要なものを整理しておこう。
最も基本となるのがミスパル・ヘフラヒー、絶対値だ。さきほどの数価をそのまま足し合わせる。
シャロームなら三百足す三十足す六足す四十で三百七十六になる。エメト、つまり真理なら一足す四十足す四百で四百四十一だ。ほとんどの古典的用例はこの方式になる。
ミスパル・シドゥリー、序数値は、アルファベットの並び順そのものを値とする。アレフが一、ベートが二と進んで、タヴが二十二になる。数値の桁が小さく収まるため、絶対値では見えない対応が現れることがある。
ミスパル・ハカタン、小数値あるいは縮小値は、各文字の数価からゼロを取り除いて一桁にしてから足す方式だ。タヴの四百は四、シンの三百は三として扱う。
さらに合計値そのものを繰り返し足して一桁にする方式は、ミスパル・ハカタン・ミスパリー、いわゆる整約値と呼ばれる。数字根のことで、現代数秘術の還元計算と形式的に一致する。
ミスパル・ガドール、大きい数は前述のとおり語末形に五百から九百を与える方式になる。
ミスパル・ボネー、建築値は、文字を順に読みながら累積和を作り、その累積和をさらに足していく方式だ。三文字語なら、一文字目、それに一文字目と二文字目の和、さらに一文字目から三文字目までの和を足す。語順が結果に影響する数少ない方式であり、アナグラム的な操作と組み合わせて用いられた。
ミルイ、充填値は、各文字の名称を綴り字として展開し、その全体の数値を求める方式になる。たとえばアレフは三文字で綴られるので、一足す三十足す八十で百十一だ。
この方式が特に効いてくるのは四文字神名の扱いだ。ヨッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーの各字をどう綴るかの選択によって、七十二、六十三、四十五、五十二という四つの異なる充填値が得られる。カバラの体系では、それぞれが宇宙の異なる位相を表すものとして精密に理論化された。
これらに加えて、各文字の数価を二乗する方式や三乗する方式もある。二つの語の数値を掛け合わせる方式など、後代の文献はさまざまな変種を記録している。
方式が増えれば増えるほど、一致を作り出す自由度は上がる。これは能力の拡張であると同時に、証明力の減衰でもある。
置換と頭字法
ゲマトリアとしばしば三点セットで語られるのが、テムラーとノタリコンだ。
テムラー、置換は、アルファベットの各字を一定の規則で別の字に置き換える暗号的技法になる。
最も有名なのがアトバシュだ。最初の文字アレフを最後の文字タヴに、二番目のベートを最後から二番目のシンに、という具合に、アルファベットを折り返して対応させる。
この方式の驚くべき点は、聖書テキスト自体のなかにすでに現れることになる。
エレミヤ書に登場する謎めいた地名シェシャフをアトバシュ変換すると、バベルになる。同じくエレミヤ書のレヴ・カマイは、カスディーム、すなわちカルデア人になるのだ。バビロニア支配下で敵国の名を直接書くことを避けた、筆記上の配慮だったと考えられている。
アルバムは、二十二文字を十一字ずつ二群に分け、アレフとラメド、ベートとメムというように対応させる方式だ。アヴガドは各文字を次の文字にずらす方式で、現代のシーザー暗号と同型になる。
これらは合わせて数十種類が中世の文献に記録されており、モーゼス・コルドヴェロは十六世紀にこれらを体系的に整理した。
ノタリコン、頭字法は、一語の各文字を別の語の頭文字とみなして文を復元する技法だ。あるいは逆に、句の頭文字を集めて一語を作る技法になる。
西洋魔術で広く使われる神名アグラは、アター・ギボール・レオラム・アドナイという四語の頭文字を並べたものになる。あなたは永遠に力ある方、主よ、という意味だ。
ユダヤ教の日常でも、ノタリコンは略称の形で生き続けている。ラムバムがラビ・モーシェ・ベン・マイモン、つまりマイモニデスの略であるように。
創世記の冒頭語ベレーシート、はじめにという意味の語を、六つの語の頭文字として読み解く試みは、中世以降おびただしい数が生み出された。
この三つの技法は、いずれもテキストの表層の下に別の層があるという前提を共有している。そして、いずれも同じ弱点を共有している。変換規則の選択肢が多すぎるため、目的の結論に到達する経路をほぼ常に見つけられてしまう、という弱点だ。
獣の数字、六百六十六
ギリシア文字にも同様の数価体系がある。
ヘブライ語と異なり、ギリシア語のアルファベットは二十四文字しかない。そのため九十九までを埋めるのに、ディガンマ、コッパ、サンピという古い文字を補って二十七字にしている。
一の位はアルファが一、ベータが二、ガンマが三、デルタが四、イプシロンが五だ。スティグマが六、ゼータが七、エータが八、シータが九になる。
十の位はイオタが十、カッパが二十、ラムダが三十、ミューが四十、ニューが五十になる。クシーが六十、オミクロンが七十、パイが八十、コッパが九十だ。
百の位はローが百、シグマが二百、タウが三百、ウプシロンが四百、ファイが五百になる。カイが六百、プサイが七百、オメガが八百、サンピが九百だ。
この体系で最も有名な事例が、ヨハネの黙示録十三章十八節の獣の数字、六百六十六になる。
今日の新約学で最も広く支持されている読みは、これがローマ皇帝ネロを指すというものだ。ギリシア語のネロン・カイサルをヘブライ文字に音写して綴ると、五十足す二百足す六足す五十足す百足す六十足す二百で、六百六十六になる。
さらに説得力を増すのが、一部の古写本がこの数を六百十六と記していることになる。ラテン語形のネロ・カイサル、語末のヌンがない形を同じ方式で計算すると、ちょうど六百十六になるのだ。
二つの異読が二つの綴りに正確に対応するという事実は、著者と初期の読者がこの計算を実際に念頭に置いていたことを強く示唆する。ちなみに、ギリシア語でイエスを計算すると八百八十八になり、古代からこの数と六百六十六の対比が論じられてきた。
この事例は、ゲマトリアの正しい使い方と危うい使い方の両方を教えてくれる。
正しい使い方とは、著者が同時代の読者に向けて意図的に仕込んだ符牒を、歴史的文脈と写本証拠に照らして復元する、という文献学的作業になる。
危うい使い方とは、この計算法を現代の任意の人物名に適用して、この人物が獣であると主張することだ。後者については、後段で正面から扱う。
生命の樹と、数の対応
西洋魔術系のゲマトリアを理解するには、生命の樹の十のセフィロートと数の対応を押さえる必要がある。
第一がケテル、王冠を意味し、対応神名はエヘイエーになる。第二がホフマー、知恵で、神名はヤー。第三がビナー、理解で、神名はエロヒームだ。
第四がヘセド、慈愛で、神名はエル。第五がゲヴラー、峻厳で、神名はエロヒーム・ギボールになる。第六がティファレト、美で、神名はエロアハだ。
第七がネツァハ、勝利で、神名はアドナイ・ツェバオト。第八がホド、栄光で、神名はエロヒーム・ツェバオトになる。第九がイェソド、基礎で、神名はシャダイ・エル・ハイだ。そして第十がマルクト、王国で、神名はアドナイ・ハ・アレツになる。
黄金の夜明け団以降の実践では、ある語の数値を求めたあと、その数値からセフィラーを特定する。十で割った余りや、数字根、あるいは構成する桁を使うのだ。そしてそのセフィラーに割り当てられた色や香やタロットや天使を、儀式に用いる。
たとえばシャダイは三百十四で、数字根は八だからホドに結びつける、といった具合になる。
ここで重要な注意がある。この対応づけが十九世紀末の英国で整理された体系であって、中世ユダヤ教のカバラにそのまま存在したものではない、という点だ。実践の際に両者を混同すると、歴史認識としても実践としても中途半端になる。
用意するもの、時刻、環境
ここからは具体的な進め方を述べる。まず用意するものから。
第一に、ヘブライ文字の数価対応表。ここの数値を印刷しても、自分で書き写してもいい。むしろ手で書き写したほうが定着する。
第二に、方眼紙またはマス目のあるノート。ヘブライ語は右から左に書くので、マス目があると綴りの並びと数値の対応を崩さずに整理できる。
第三に、ヘブライ語辞書。これがないと実践は成立しない。等価語を探す作業は、辞書を引ける環境がなければ、思いついた語をあてはめるだけの作業に堕してしまう。
紙の聖書ヘブライ語辞典でも、オンラインの語彙データベースでもいい。ただし語根と派生形が引ける構造のものを選ぶこと。
第四に、電卓。暗算で足すと必ずどこかで間違える。第五に、記録用のノートを一冊。計算用紙とは別に、日付と対象語と使用方式と結果、そしてそのとき考えたことを書く専用のノートを作る。
時刻と環境について。ゲマトリアの計算作業そのものに、宗教的に定められた時刻はない。
ただし実務的には、中断されない静かな時間帯を確保することが決定的に重要だ。計算は単純だが集中を要し、途中で電話が鳴ると桁を取り違える。
伝統的な文脈では夜間や早朝が好まれてきたが、これは静寂が得やすいという実用上の理由が大きい。無理に深夜に起きて睡眠を削るのは逆効果だ。自分の生活のなかで最も邪魔の入らない三十分から一時間を選べばいい。
環境としては、机の上を片付け、対応表と辞書とノートと電卓だけを置く。スマートフォンは通知を切って手の届かない場所に置く。これは儀礼的な浄めというより、単に作業精度の問題になる。
集中の作り方としては、始める前に三分ほど、呼吸を数えるだけの時間を取るといい。四つ数えて吸い、四つ止め、六つかけて吐く、という程度で十分だ。過呼吸になるような激しい呼吸法は、この段階では不要であり、勧めない。
単語を数に変えるときの約束事
実際の数値化には、いくつか決めておくべき約束事がある。ここを曖昧にしたまま計算すると、後から自分の計算が再現できなくなる。
まず、母音は数えない。
ヘブライ語の母音記号、いわゆるニクードは、点や線として子音の下や中に書かれるが、これらには数価がない。数えるのは子音字だけだ。したがって、母音記号のない綴りでも母音記号付きの綴りでも、数値は同じになる。この点を最初に確定させておくこと。
次に、定冠詞と接続詞をどう扱うかを、先に決めて記録する。
ヘブライ語の定冠詞ヘー、これは五になる。接続詞ヴァヴは六、前置詞のベートは二、ラメドは三十。これらは語の頭に直接くっついて書かれる。
トーラーは六百十一だが、ハ・トーラー、そのトーラーは六百十六になる。どちらを採用するかで結論が変わるわけだ。
原則としては、引用元のテキストに書かれているとおりの綴りで計算するのが最も誠実になる。自分に都合のよいほうを選び直しはじめた瞬間に、この作業は自己欺瞞に変わる。
綴りの異同にも注意したい。
ヘブライ語では、母音を示すためにヴァヴやヨッドを綴りに入れるマレー表記と、入れないハセル表記がある。同じ語でも聖書内で綴りが揺れることがあり、ヴァヴが一つ入るだけで数値は六変わる。
中世のカバラ主義者はこの揺れ自体に意味を見出した。だが実践者としては、まずどの版のどの箇所の綴りを使ったかを必ず記録すること。
そして語末形の扱いを宣言する。標準値で数えるのか、ミスパル・ガドールを使うのか。一つの作業のなかで方式を混ぜてはいけない。混ぜた瞬間に、結果は何の情報も持たなくなる。
作業手順としては、まず対象語を右から左へ一文字ずつマス目に書き出す。次に各文字の下に数価を書く。そして電卓で合計する。
そのうえで、別の日に、あるいは逆順から、必ずもう一度検算する。最後にノートへ、日付、語、出典箇所、綴り、方式、合計値を一行で記録する。
検算を省くと、後で見つかる意味深い一致の相当部分が、実は単なる計算ミスだったと判明する。これは冗談ではなく、実際によく起こる。
等価語をどう探し、どう読むか
数値が出たら、次は同じ数値を持つ別の語を探す段階になる。ここが最も面白く、最も危険な部分だ。
探し方には二通りある。ひとつは、クロウリーのセフェル・セフィロートのような数値索引を引く方法。もうひとつは、自分が関心を持っている領域の語彙をあらかじめ数十語ぶん計算しておき、その自作リストと照合する方法になる。
強く推奨するのは後者だ。
理由は単純で、既成の索引は数千語を収録しているため、どんな数値にも必ず何かがヒットしてしまうからになる。自作リストが五十語なら、四百通りの値域に対して一致が出る確率は限定的だ。一致が出たときに、これは珍しい、と感じられる。索引に頼ると、その感覚が完全に失われる。
対応づけの読み方については、伝統がひとつの指針を与えてくれる。
ラビ的な用例をよく見ると、数値の一致は、すでに別の根拠から支持されている主張を印象的に言い直すために使われている。
愛と一がともに十三で、合わせて神名の二十六になる。この計算は、神の唯一性と愛が結びつくという神学をゼロから証明しているのではない。既に信じられている神学に、鮮やかな形を与えているのだ。
この用法を守るかぎり、ゲマトリアは害を持たない。逆に、数値の一致だけを根拠に新しい主張を立てようとした瞬間、この技法は暴走を始める。
実践者として自分に課すべき問いは、次の三つになる。
第一に、この一致は、私が答えを知る前に出たものか。それとも欲しい答えに合わせて方式を選び直した結果か。
第二に、同じ数値を持つ語で、私の解釈に都合の悪いものはなかったか。あったなら、なぜそれを捨てたのか。
第三に、この一致がなかったとしたら、私は何を結論しただろうか。
三つ目の問いに、同じことを結論した、と答えられるなら、その一致は無害な装飾だ。まったく別のことを結論した、と答えるなら、あなたはいま、数値に判断を委ねようとしている。そこで一度手を止めたほうがいい。
名前に使うときの、はっきりした限界
自分の名前をヘブライ文字に音写して数値を出す。これは日本語圏で最もよく行われている使い方になる。
手順自体は難しくない。まずローマ字表記ではなく発音を基準にする。ヒロシなら、ヘー、レーシュ、シン、ヨッドといった具合に、子音を順に当てていく。
ヘブライ語には日本語にない子音の区別がある。ヘットとヘー、カフとコフ、テットとタヴ、サメフとシンの区別などだ。逆に日本語にあってヘブライ語で一意に書けない音もある。長音や促音、拗音の扱いにも決まりはない。母音は原則として書かないが、慣用的にアレフやヨッドやヴァヴを母音字として補うこともある。
ここで限界を明記しておく必要がある。日本語の固有名詞をヘブライ文字に音写する作業には、唯一の正解が存在しない。
ヒロシひとつとっても、母音字を補うか否か、どの子音字を選ぶかで、少なく見積もっても十通り以上の綴りが成立する。数値はそのぶん散らばるのだ。
つまり、出てきた数値は、あなたの名前が本来持っている数ではない。あなたが選んだ音写方式が生んだ数である。この違いは決定的だ。
さらに言えば、ゲマトリアがユダヤ教内部で機能してきたのは、対象がヘブライ語で書かれた聖典テキストだったからになる。そこには、どう綴るかという揺れがほとんどなかった。異言語の名前を持ち込んだ時点で、この前提は失われている。
したがって、名前のゲマトリアは、性格判断や相性判定や運勢予測の道具としては使えない。それがここでの立場だ。
使えるとすれば、自分の名前を別の文字体系で書き直してみることだ。名前を自分にべったり貼りついたものから、ひとつの記号列へと距離を取って眺め直す。そういう内省の契機としてになる。
この用法なら、綴りが複数あることもむしろ利点になる。複数の綴りを試して、それぞれの数値がどんな語と重なるかを眺め、そこから連想されることをノートに書く。答えを得るのではなく、問いを増やすために使うわけだ。
日付や年数への適用も同様になる。
ユダヤ暦の年はヘブライ文字で表記されるため、年号がそのまま語として読めることがあり、伝統的にはそこに意味を読む慣習があった。西暦の数字を任意の語に対応させる操作も可能ではあるが、これは対応づけの自由度が極端に高く、ほとんど何でも作れてしまう。
誕生日から数値を出す場合も、和暦か西暦か、区切り方をどうするかで結果は変わる。未来の出来事の予測に使ってはならない。
過去に起きた出来事に数値を後から当てはめて、符合していたと述べることは誰にでもできる。だがそれは予測ではない。
文字回転の瞑想を、安全に行う
アブラフィアに由来する文字回転の瞑想、いわゆるツェルフは、ゲマトリアの実践のなかで最も体験的な部分だ。そして同時に、最も慎重さを要する部分になる。以下に、安全側に大きく振った現代的な形で手順を記す。
座り方は、椅子でも床でもいいが、背骨を立てて楽に保てる姿勢を選ぶ。時間は最初は十分から十五分、慣れても三十分を超えない。頻度は週に二、三回までとし、毎日長時間続けることはしない。
対象とする文字列は、四文字神名ではなく、中立的で害のない語から始めることを勧めたい。たとえばシャローム、つまり平安。エメト、つまり真理や、オール、つまり光。そういった語がいい。
選んだ語の文字を、紙に順列を書き出しておく。三文字なら六通り、四文字なら二十四通りになる。
実際の進め方は、順列の一つを目で追いながら、各文字を一音ずつゆっくり発声する。発声は息を吐きながら行い、吐き切ってから自然に吸う。息を止めたり、吸気を過剰にしたりしない。
アブラフィアの原典には、母音に応じて頭を上下左右に動かす作法が記されている。ホラムなら上、シュルクなら水平といった具合だ。だが頸椎に負担をかけない範囲で、動きは最小限にとどめること。首を強く振る動作は、現代の実践では省略していい。
一つの順列を三回ずつ唱え、次の順列に移る。全順列を一巡したら終える。
中止基準を明確にしておく。次のいずれかが現れたら、その場で直ちに中止すること。
めまい、頭痛、手足のしびれ、耳鳴りなどの身体症状。自分の身体が自分のものでない感覚、部屋や自分が現実でないように感じる感覚、いわゆる離人や現実感喪失。
自分の意志と無関係に声が聞こえる、姿が見える。強い不安、恐怖、動悸、息苦しさ。終了後も三十分以上、ぼんやりした状態が続く。翌日以降に睡眠が乱れる、日常生活に支障が出る。
中止したら、目を開け、立ち上がって水を飲み、明るい場所で誰かと話すか、皿を洗う、散歩するといった単純な作業をして通常の意識に戻る。これらが繰り返し起こる場合、実践を中止して医療機関に相談してほしい。
精神科や心療内科の治療中の方、解離症状やてんかんの既往がある方は行わないこと。妊娠中の方、強い不眠や不安を抱えている方も、この種の瞑想は避けてほしい。
アブラフィア自身が震えを必要な段階と記していることは歴史的事実だ。だがそれを目標として追求することは、現代の実践者には勧められない。
唱える言葉と、発音してはならない名
唱える言葉について書いておく。ユダヤ教の伝統において最も基本的な信仰告白は、申命記六章四節のシェマーだ。
音写すると、シェマー・イスラエール・アドナイ・エロヘーヌ・アドナイ・エハードになる。
訳せばこうだ。聞け、イスラエルよ。主は我らの神、主は唯一である。
ここで四文字神名の扱いについて、必ず理解しておくべきことがある。
原文で主と訳されている箇所は四文字神名、いわゆるテトラグラマトン、ヨッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーだ。ユダヤ教の伝統では、これを書かれたとおりに発音しない。
紀元前三世紀ごろには既にこの禁忌が確立していた。タルムードには、その文字どおりに御名を発音する者は来たるべき世に与らない、という厳しい言葉がある。
読誦の際にはアドナイ、わが主と読み替え、日常会話や学習の文脈ではハシェム、その御名と呼ぶ。
マソラ本文に付されている母音記号は、この読み替えのためのアドナイの母音を、子音に重ねたものだ。これをそのまま読んで生じた形が、近代語のエホバになる。
学術的には元の発音はヤハウェに近かったと推定されている。だが実践においては、伝統への敬意から、四文字神名を発音しないことを明確に勧めたい。
数値としては、ヨッド十、ヘー五、ヴァヴ六、ヘー五で二十六という値を扱えばよく、発音する必要はまったくない。他者の信仰の中核にある禁忌を、外部者が好奇心で踏み越えることに何の益もない。
記録の付け方と、ゲニザという習慣
記録は、ゲマトリア実践の質を決定的に左右する。
ノートには、日付、対象とした語とその出典、採用した綴り、使用した計算方式、算出値、照合に使った語彙リスト、見つかった一致を書く。そして、そのとき自分が何を期待していたかを書く。
最後の項目が最も肝心だ。期待を先に書いておくと、後から読み返したときに、自分がどれだけ結論を先取りしていたかが見える。
数か月後にノートを読み返すと、当時これは決定的だと思った一致の大半が、単に自分の関心の反映だったと分かる。この落胆は、実践者にとって最良の教育になる。
もう一点、記録に付け加えるべきは外れた記録だ。
計算したが何も一致しなかった語。期待と正反対の語が一致した例。人はこれらを記録しない。記録しないから、後から振り返ったときに一致ばかりが並び、この技法が驚くほど当たるように見える。
外れを書く習慣は、この錯覚に対する唯一の実効的な防御になる。
後始末について。ユダヤ教にはゲニザという習慣がある。
神名や聖書の言葉が書かれた紙は、たとえ破損して使えなくなっても捨ててはならない。シナゴーグの保管室、すなわちゲニザに納め、一定量が溜まったところで、人間の遺体と同様に墓地に埋葬する。
これは神名の神聖さを損なわないための配慮だ。そしてその徹底ぶりが、結果として歴史学に巨大な贈り物をした。
カイロのベン・エズラ・シナゴーグのゲニザからは、十九世紀末に約三十万点の断片が発見された。中世地中海世界のユダヤ人社会の実像を、根本から書き換える発見になっている。ゲニザという捨てない習慣がなければ、これらは永遠に失われていた。
この伝統に敬意を払うなら、実践のなかで神名や聖句を書いた紙を扱う際には、丸めてゴミ箱に捨てないことを勧めたい。
ユダヤ教徒でない実践者が正式なゲニザに納めることはできない。だが専用の封筒か箱を用意してそこにまとめて保管し、量が溜まったら土に埋めるか、静かな場所で処分する、という程度の配慮はできる。
これは呪術的な効果を狙った作法ではない。他者の伝統への敬意と、自分の実践に一定の重みを保つための姿勢になる。神名を書かない練習用の計算用紙は、通常どおり処分してかまわない。
一致は、必然的に起こる
ここが最も重要な話になる。ゲマトリアを実践するなら、以下を理解しないまま進んではいけない。
数値の一致は、驚くべきことではなく、算術的に必然である。
標準的なヘブライ語ゲマトリアで、日常的な長さの単語が取りうる値は、おおむね一から二千程度の範囲に収まる。一方、聖書ヘブライ語の語彙は語形変化を含めれば数万に及ぶ。
数万個の対象を二千個の箱に入れれば、鳩の巣原理により、平均して一つの箱に十数個が入る。つまり任意の語について、同じ数値を持つ別の語が十個以上存在するのが普通なのだ。
一致が見つかったことは、何ら情報を持たない。情報を持つのは、その一致が意味的に響き合って見える場合だけになる。だが人間の連想能力は、任意の二語のあいだに意味的なつながりを作り出すことにきわめて長けている。
さらに、方式の選択が自由度を跳ね上げる。
標準値、序数値、小数値、整約値、ミスパル・ガドール、ミスパル・ボネー、ミルイ、それも四種。加えて二乗、三乗。十数種類の方式があり、そのそれぞれで値が変わる。
そこへ、定冠詞を含めるか、マレー表記かハセル表記か、句として計算するか単語ごとか、コレルと呼ばれる補正を適用するかが加わる。
これらを組み合わせれば、一語について数十通りの数値が生成できる。数十通りの数値それぞれに十数個の等価語があるなら、候補は数百に達する。そのなかから望む一つを選ぶことは、常に可能になる。
英語やローマ字に適用した場合、状況はさらに悪化する。英語のゲマトリアには標準がなく、複数の暗号方式が並立しているからだ。
ある検証記事は、同じ一つのフレーズを三つのオンライン計算機に入力し、七百六十二、六百四、三百四十一という三つの異なる値を得た。しかもそのうち一つの値で検索すると、バッキンガム宮殿からピザハットまで、意味的に無関係な語句が大量にヒットする。
使用者は、そのなかから自分の信念に合うものを拾える。ある批評サイトが指摘するように、この体系における真の困難は、一致を見つけることではなく、一致を見つけないことなのだ。
古代にもこの批判はあった。新プラトン主義の哲学者イアンブリコスは、ゲマトリアに対して三つの反論を挙げている。
第一に、同じ数値が正反対の意味を持つ語に割り当てられうること。第二に、文字の字形は歴史的に変化しており、字形に基づく象徴的意味は成り立たないこと。第三に、数学的操作の組み合わせは無限に近く、望む数を作り出すよう操作できてしまうこと。
この三点は、二千年近く経った今も、まったく色褪せていない。
バイブルコードは、白鯨からも出てきた
いわゆるバイブルコードとその統計的反証についても述べておく。
一九九四年、ドロン・ウィツトゥム、エリヤフ・リプス、ヨアヴ・ローゼンベルクが、統計学の専門誌に論文を発表した。創世記のヘブライ語本文から等間隔で文字を拾う等距離文字列によって、後世のラビの名前とその生没日が有意に近接して現れる、という内容だ。
この研究は一九九七年のベストセラーによって世界的に知られ、日本でも大きく紹介された。
しかし一九九九年、四人の研究者が同じ専門誌に反証論文を発表する。ブレンダン・マッケイ、ドロン・バル・ナタン、マヤ・バル・ヒレル、ギル・カライだ。
彼らが突き止めたのは、元の研究における探索条件が十分に事前特定されていなかった、という致命的な問題だった。
どのラビを対象にするか。その名前をどう綴るか。ヘブライ語のラビ名には複数の呼称と綴りがある。日付をどの形式で書くか。これらの選択に遊びがあり、その遊びの範囲内で選択を調整すれば、有意に見える結果を作り出せてしまう。
実際に彼らは、同じ手法をヘブライ語訳の白鯨に適用し、同等かそれ以上に印象的なコードを発見してみせた。
統計学における事前登録の重要性、臨床試験で手順を先に固定するのと同じ論理を、これほど鮮やかに示した事例は多くない。学術的な決着は、ここでついている。
陰謀論的な使い方について
ゲマトリアは、二十世紀以降、しばしば陰謀論の道具として使われてきた。
特定の人物名を何らかの暗号方式で計算して六百六十六という数を導き、その人物を黙示録の獣に同定する。これがその代表的な型になる。
同様に、特定の民族集団や宗教集団を名指しし、その名称の数値から悪しき意味を導いて敵視を正当化する言説も、繰り返し現れてきた。ユダヤ神秘主義に由来する技法が、反ユダヤ主義的な主張の道具として転用されてきたという事実は、皮肉というより悲惨だ。
ここでは、この種の用法を明確に否定する。理由は道徳的なものだけではなく、技術的なものでもある。
前節で述べたとおり、方式と綴りの選択の自由度を使えば、任意の名前から任意の数を導ける。
特定の人物名から六百六十六を導いてみせることは、その人物について何一つ証明しない。それは、計算者がその数を導きたかったという事実だけを証明する。
同じ手続きで、その人物を賞賛する数を導くこともできるし、計算者自身の名前から六百六十六を導くこともできる。実演すればすぐに分かることだが、ここではその手順を書かない。書けば、必ず誰かがそれを他者への攻撃に使うからだ。
したがって、次のことを一切扱わない。実在の人物や民族や宗教集団や国家を対象とした数値計算の手順は書かない。他者に害を及ぼすことを目的とした呪術的操作、攻撃儀式、攻撃用の護符やシジルの作成手順も同様だ。特定の集団への敵意を数値によって正当化する言説も扱わない。
読者に特定の誰かを想起させるような婉曲的な記述も、同様に扱わない。
これらは本来の主題ではなく、また、ゲマトリアという技法の歴史的用法からも逸脱している。ラビ的伝統は、この技法を法的判断の根拠にすることすら禁じた。ましてや人を裁く根拠にできるはずがない。
加えて、繰り返しになるが明記しておく。ゲマトリアの数値は、医療上の判断、法律上の判断、投資や金銭の判断、進学や就職や結婚といった人生の重大な決定を、代替するものではない。
体調に不安があるなら医師に、法的な問題を抱えているなら弁護士に、資産の運用を考えているなら有資格の専門家に相談してほしい。数の一致は、あなたの人生について何も知らない。
実践者たちの声
以下は、実践経験のある方々から聞き取った内容を、個人が特定されない形に大きく加工して要約したものになる。特定の団体名や地名や年月は伏せてある。
四十代の会社員は、西洋魔術の入門書から入り、生命の樹の対応表を暗記しようとして挫折した後、ゲマトリアだけを続けたという。
最初の半年は面白くて仕方がなかった。何を計算しても意味深い一致が出る。自分だけが世界の裏側を見ている気がした。そう語っている。
転機になったのは、記録ノートを一年ぶりに読み返したときだった。去年の自分がこれは決定的だと赤線を引いた一致が、今読むと何とも思わない。逆に、そのとき無視した別の等価語のほうがよほど筋が通って見えた。ああ、これは自分の心の状態を写しているだけだと分かった。
今は月に一度、聖書の特定の章の数値を丁寧に計算する作業だけを続けているそうだ。答えを探すのをやめたら、かえって落ち着いた、という。
三十代の自営業者は、ヘブライ語を独学で学び始めたきっかけがゲマトリアだった。不純な動機だと自分でも思うが、結果的に語学が身についた、と本人は言う。
学習が進むにつれて、態度が変わったという。辞書が引けるようになると、同じ数値の語が山ほどあることが実感として分かる。それまでは、誰かがネットに書いたこの語とこの語が同じ数値という記述を鵜呑みにしていた。自分で確かめられるようになって初めて、この技法の限界が体で分かった。
現在はゲマトリアを、テキストを注意深く読むための、変わった読解演習と位置づけているそうだ。
五十代の自由業者は、アブラフィア系の文字瞑想を、独学で数年間続けた経験がある。最初の一年は何も起きない。二年目に、突然、部屋の輪郭が溶けるような感覚が来た。
その体験自体は肯定的に受け止めているが、続けるうちに問題が出る。時間を延ばしていったら、夜眠れなくなった。日中もぼんやりして、仕事のミスが増えていく。三十分を超えたあたりから明らかにおかしかった。
実践を三か月完全に止め、睡眠が戻ってから、十五分以内で週二回という上限を自分に課して再開したという。上限を決めることと、記録をつけることは、後から効いてくる。あのとき止めていなかったらどうなっていたか分からない。
二十代の学生は、SNSでゲマトリアを知り、自分の名前と好きな人の名前を計算して一喜一憂していた時期があったという。
同じ数値だと運命だと思って、違う数値だと落ち込む。あるとき、別の音写の仕方をすると数値が全然変わることに気づいて、急に馬鹿らしくなった。
その後、大学でヘブライ語聖書の講義を受け、ゲマトリアが学術的にどう扱われているかを知って考えが変わったそうだ。占いとして使うのは、たぶん一番つまらない使い方だった。今は、古代の人がどうやって文字を読んでいたか、という話として面白い。
六十代の元教員は、バイブルコードの本を読んで強い衝撃を受け、独自に調べ始めたという。数年かけて、いろいろ計算したという。当たっているように思えることも多い。
反証論文の存在を知ったのは、かなり後になってからだった。訳を探して読んだ。白鯨から同じような暗号が出てくる、という一節で、正直、腹が立った。だがしばらくして、腹が立つのは自分がそれだけ信じていたからだと分かった。
今も計算は続けているが、姿勢は変わったそうだ。見つけた一致を人に言いふらすのはやめた。誰かを説得するために使う道具ではないと思うようになった。
十二の手順で、一巡する
以下は、自己省察と瞑想と浄化のみを目的とした、全十二ステップの手順になる。
他者に働きかけること、他者の名前を対象にすること、未来を予測すること、実務的判断を委ねることは、いずれもこの手順の目的に含まれない。所要時間はおよそ六十分から九十分。月に一度から二度程度の頻度を想定している。
第一に、日を決め、予定を空ける。実施日を三日以上前に決め、その前後に急ぎの用事を入れない。前日は十分に睡眠を取る。
当日、疲労が強い、体調が悪い、強い感情の動揺があるといった状態なら、迷わず延期する。無理をして行う理由はどこにもない。飲酒後は行わない。
第二に、場を整える。机の上を完全に片付け、対応表、ヘブライ語辞書、記録ノート、筆記具、電卓、水を入れたコップだけを置く。
スマートフォンは電源を切り、別室に置く。窓を開けて数分換気する。照明は手元がはっきり見える明るさにする。暗くしすぎないこと。暗い環境は、この手順の目的から言えば不利に働く。
第三に、身体を整える。手を洗い、顔を洗う。これは宗教的な清めの模倣ではなく、意識を作業へ切り替えるための単純な区切りになる。
座る姿勢を作り、肩を三回上げ下げして力を抜く。四つ数えて吸い、四つ止め、六つかけて吐く呼吸を、六回ゆっくり繰り返す。息を止める時間を長くしたり、回数を増やしたりしない。
第四に、目的を書く。ノートを開き、日付を書き、今日、私は何を考えたくてこれを行うのかを三行以内で書く。答えを求めている問いがあるなら、それも書く。
同時に、私はこの作業から、どんな答えが出てほしいと思っているかも正直に書く。この二つを分けて書くことが、この手順全体の要になる。期待を先に紙に出しておかないと、後の解釈が期待に吸い寄せられる。
第五に、対象語を選ぶ。今日扱う語を一つだけ選ぶ。他者の名前、団体名、実在の人物に関わる語は選ばない。
選ぶのは、自分が向き合いたい状態や徳目を表す中立的な語になる。たとえば平安、真理、光、知恵、命など。ヘブライ語辞書で正しい綴りを確認し、綴りをノートに書き写す。
第六に、数値化する。方眼のマス目に、右から左へ一文字ずつ書く。各文字の下に数価を書き入れる。
使用する方式を、計算を始める前にノートに明記する。合計を電卓で出す。そのうえで、逆順にもう一度足して検算する。二回の結果が一致しなければ、三回目を行う。数値が確定したら、ノートに記録する。
第七に、等価語を自作リストで探す。事前に用意した自分の語彙リスト、三十から五十語程度でそれぞれの数値を計算済みのものと照合する。オンラインの数値索引は、この段階では使わない。
一致が見つかれば記録する。一つも見つからなくても、それが正常であり、失敗ではない。見つからなかったという事実そのものをノートに記録しておく。
第八に、解釈せずに眺める。得られた数値と、あれば等価語を、五分間ただ眺める。この五分間は、意味を作らないことに努める。連想が浮かんだら、判断せずに流す。時間を計り、五分で切り上げる。
第九に、文字瞑想を行う。選んだ語の文字の順列を紙に書き出す。三文字なら六通り、四文字なら二十四通りだ。
順列を一つずつ目で追いながら、各文字を息を吐きながら一音ずつ発声する。吐き切ったら自然に吸う。一つの順列につき三回。頭の動きは加えなくていい。加える場合も、ごく小さな動きにとどめる。
四文字神名は用いない。発音もしない。全体で十五分を上限とし、タイマーを必ずセットする。タイマーが鳴ったら、途中でも終える。
第十に、中止基準を確認し、必要なら中断する。第九ステップの最中および直後に、以下のいずれかが現れたら、その時点で直ちに中止する。
めまい、頭痛、動悸、息苦しさ、手足のしびれ、耳鳴り。自分や部屋が現実でないように感じる感覚。意図しない声や像が現れること。そして強い不安や恐怖だ。
中止した場合は、すぐ目を開け、立ち上がり、水を飲み、窓の外を見て、遠くの物の名前を五つ声に出して言う。それでも収まらなければ、部屋を出て人と話すか、明るい場所で単純作業をする。この日の残りのステップは行わない。
症状が繰り返す、あるいは翌日以降も続く場合は、実践を中止し医療機関に相談すること。精神科や心療内科での治療中の方、解離症状やてんかんの既往のある方は注意してほしい。妊娠中の方や重い不眠を抱えている方も同様で、第九ステップ自体を省略し、第八から第十一へ直接進むこと。
第十一に、記録する。ノートに、実施日時、選んだ語、綴り、使用方式、算出値、検算の結果、照合した語数、見つかった一致を書く。なければ、なしと書く。
さらに第八ステップで浮かんだ連想、第九ステップの所要時間と身体の状態、中止の有無を書く。
そのうえで、第四ステップに書いた出てほしかった答えを読み返し、今日得られたものがそれとどう違ったかを一段落書く。一致していた場合は、なぜ一致したと思うかを書く。本当に符合したのか、それとも自分が誘導したのか。
最後に、この作業がなかったとしても私は同じことを考えただろうか、という問いに一行で答える。
第十二に、後始末をして切り上げる。神名や聖句を書いた紙があれば、丸めて捨てず、専用の封筒または箱にまとめる。溜まったら土に埋めるか、静かな場所で処分する。練習用の計算用紙は通常どおり処分していい。
机を片付け、窓を開けて換気し、水を飲む。その後、必ず日常的な行為を一つ行う。食事を作る、洗濯物を畳む、外を十分歩く、家族や友人と雑談する。身体と社会に接地する行為だ。
これは形式的な締めではない。内向きに集中した状態から抜けるための実務的な手続きであり、省略しないこと。最後に、次回の実施は最低でも二週間後とし、それまでこの作業を行わないことをノートに書いて確認する。
鏡であることを、忘れさせないために
この十二ステップは、答えを得るための手順ではない。自分が何を求めているかを、自分で見るための手順だ。
ゲマトリアは、二千年にわたって、既に信じられていることを鮮やかに言い直す道具として使われてきた。その用法を守るかぎり、この技法は害を持たず、テキストと自分自身への注意を深めてくれる。
その線を越えて、数に判断を委ねようとしたとき、歴史が繰り返し示してきたとおり、この技法は使う者の望みを映す鏡になる。そしてやがて、鏡であることを忘れさせる。
線がどこにあるかを知っていることが、実践者にとって最大の技術になる。
