- 湖の底から引き上げた壺を、開けてしまった話
- 聖書に書いてない話が、なぜ千年以上も語り継がれたのか
- カタログという発明
- 『レメゲトン』は一冊ではなく、五冊組だった
- 医者が一人、うっかり全部の元になった
- 皮肉だったのか、記録だったのか、商売だったのか
- 誤読から生まれた魔神が、混ざっている
- 六十九から七十二へ、三体を水増しした理由
- 大英博物館で写した男と、勝手に出した弟子
- 三段階の加工を経て、いまの姿がある
- 魔法円と三角形、文献に書かれた道具立て
- 息が臭いので、近づけすぎないように
- 地獄にも、人事制度がある
- 序列一番、猫とヒキガエルと人間を同時にやる王
- 序列二番、ワニに乗った上品な老人
- 序列九番、ラクダに乗って楽隊を引き連れてくる王
- 序列十番、射手座の星として現れる医者
- 序列三十二番、全部盛りの王
- 序列六十八番、真実の消費期限は一時間
- 序列六十三番、術者を殺しにくる侯爵
- 序列七十一番、無数の顔と一冊の本
- ほかにも変なやつが、たくさんいる
- シジルという発明が、四百年後にTシャツになった
- 実践者を名乗る人たちは、何を見たと言っているのか
- 報告の内容が、妙に揃っている
- 日本の実践者は、まず場所に困る
- 日本では、悪魔が全員かわいくなった
- 二次創作が、二次創作されている
- 全部後世の創作だ、という指摘にどう答えるか
- 広めた張本人が、たぶん信じていなかった
- なぜ、四百年前の名簿にこんなに惹きつけられるのか
- 印章という図形が、いつから意味を持ったのか
- 悪魔学という学問が、実在していた時代の話
- 名簿という形式が、四百年もった理由
- 玉ねぎを剥いても、芯が出てこない
- 勉強、金、恋愛、出世
- オカルトと健康は、切り分けたほうがいい
湖の底から引き上げた壺を、開けてしまった話
まずはこの話から始めたい。伝説はいつも、間抜けな一手から動き出す。
ソロモン王は神殿を建てた。ただし人手だけで建てたわけではない、というのが伝説の側の言い分になる。王は七十二の魔神とその軍団を働かせた。石を運ばせ、柱を立てさせ、水を引かせた。
工事が終わったあと、王は彼らを解き放たなかったのだ。真鍮の器にひとまとめに封じ込め、自分の秘密の印章で蓋を留める。そして神の力によって、その器をバビロンの深い湖だか穴だかへ投げ込んだ。魔神たちは水の底で眠った。ここまでが第一幕になる。
第二幕はずっとあとに来る。バビロニアの人々が、水底に沈む金属の器を見つけてしまうのだ。真鍮製で、封がしてあって、やたらと厳重ときている。誰だってこれは宝だと思うはずだ。
彼らは器を叩き割った。中から飛び出したのは黄金ではなく、七十二の首領と、その背後に控えていた軍団の全部だった。彼らは即座に散り、それぞれの居場所へ帰っていく。
ただし一体だけ、逃げなかったやつがいる。それがベリアルになる。ベリアルはその場に据えられた像の中に入り込み、そこに居座った。バビロニアの人々はその像に供物を捧げ、拝みはじめる。
つまり彼らは、封印を解いてしまっただけでなく、逃げ残った一体を神として祀ってしまったわけだ。文献の記述はここで終わる。オチとしてはかなり出来がいい。
この短い挿話が、七十二柱という概念のすべての土台になっている。西洋魔術の側から見ても、日本のサブカルチャーの側から見ても、話の出発点はここだ。そして最初に言っておくと、この話は旧約聖書には一行も書かれていない。
聖書に書いてない話が、なぜ千年以上も語り継がれたのか
聖書のソロモン王は、知恵の王である。裁きが上手で、詩を詠み、神殿を建て、晩年は異教の神に傾いてしまう。魔神を鎖でつないで働かせたという話も、印章を刻んだ指輪の話も、まったく出てこない。
じゃあどこから来たのか。ヘレニズム時代以降のユダヤ人のあいだで膨らんだ噂話が、最初の層になる。
ソロモンの知恵は超自然的なもので、精霊や悪霊を支配する術も含んでいた。この言い方が、正典の外側でどんどん育っていった。それを一冊の物語にまとめたのが『ソロモンの遺訓』と呼ばれるギリシア語のテキストになる。
書かれたのは紀元一世紀から三世紀あたりと見られていて、この分野の文献としてはかなり古い部類に入る。
筋書きはこうだ。神殿の工事現場で、王のお気に入りの少年職人が痩せ細っていく。調べてみると、オルニアスという悪霊が夜ごと少年から生気を吸っていた。
困ったソロモンが祈ると、大天使ミカエルが降りてきて、印章を刻んだ指輪を授ける。この指輪をかざせば悪霊を縛れる。
王は指輪を使ってオルニアスを捕らえ、次にオルニアスに命じて別の悪霊を捕らえさせ。その悪霊にまた別のやつを引っ張ってこさせる。ねずみ講みたいに悪霊が集まってきて、全員が神殿の建設現場に配属された。
捕まった悪霊は一体ずつ、自分の名前と正体と、自分を無力化できる天使の名前を白状させられる。
カタログという発明
この一体ずつ名乗らせて、能力と対処法を記録するという形式が、決定的に重要になる。千数百年後のグリモワールが採用する書式が、もうここに完成している。
名前があって、姿があって、できることがあって、扱い方がある。要するにカタログという形式の発明になる。
指輪と真鍮の壺の話は、ユダヤ教のタルムード伝承やイスラム世界のソロモン譚とも絡み合いながら、地中海世界を何百年もぐるぐる回った。
中世からルネサンスにかけてのヨーロッパでは、ソロモンは悪霊使いだったという前提を土台にした偽ソロモン文書が量産される。『ソロモンの鍵』と呼ばれる系統の写本群がそれだ。そしてその流れの、かなり後ろのほうに出てくるのが『レメゲトン』になる。
『レメゲトン』は一冊ではなく、五冊組だった
ここで用語を整理しておく。混乱の九割はここで起きるからだ。
『レメゲトン』、別名『ソロモンの小さな鍵』は、五つの書を束ねた合本になる。第一書が『ゴエティア』で、七十二柱の魔神のカタログだ。
これが有名になりすぎて、日本語圏では『ゴエティア』が『レメゲトン』全体の別名みたいに扱われることもある。正確には一部にすぎない。
第二書は『テウルギア・ゴエティア』。方位や風に結びついた霊たちを扱う。第三書『アルス・パウリナ』は時刻の天使と黄道の度数の天使。第四書『アルス・アルマデル』は四つの高みの天使を扱い、蝋の板を使う。
第五書『アルス・ノトリア』は、記憶力と学問の理解力を神に願う技術で、これだけ飛び抜けて古い。十二世紀から十三世紀にはすでに流通していた形跡がある。
つまり『レメゲトン』は、誰かが一気に書き下ろした著作ではない。あちこちから素材を集めてきて綴じ合わせた編纂物だ。
現存する最古の写本は十七世紀のもので、大英図書館のスローン写本群がその中心にある。番号でいうとスローン三八二五、三六四八、二七三一あたりがよく参照される。
研究者のジョゼフ・ピーターソンが二〇〇一年に出した校訂版は、これら複数の写本を突き合わせて異同を示したもので、今でも標準的な学術版として扱われている。
英語圏では十七世紀の写本が現存する、という言い方が正しい。ソロモン王の時代から伝わってきた、という言い方は完全に間違いになる。三千年の隔たりがある。ここは押さえておいてほしい。
医者が一人、うっかり全部の元になった
さかのぼると、七十二柱のリストの直接の親は、十六世紀のオランダ人医師ヨハン・ヴァイヤーに行き着く。この人物がめちゃくちゃ面白い。
ヴァイヤーは一五一五年生まれ。十四歳のときに、あのハインリヒ・コルネリウス・アグリッパの住み込みの弟子になっている。
アグリッパといえば『オカルト哲学三書』の著者で、ルネサンス魔術の総本山みたいな存在だ。師匠がボンに移るときには一緒についていった。つまりヴァイヤーは、当時のヨーロッパで最高峰の魔術文献にアクセスできる位置にいた。
その後ヴァイヤーは医者になり、アルンヘムの市医を経て、一五五〇年からクレーフェ公の侍医を務める。そして一五六三年に『悪魔の幻惑について』という本を出した。これが歴史に残る一冊になる。
何が書いてあったかというと、魔女狩りへの真っ向からの批判だった。
ヴァイヤーの論法は医者らしい。魔女とされて拷問され、自白させられている女たちは、犯罪者ではなく病人である。多くは老いていて、憂鬱質に傾いており、幻覚を見ているにすぎない。
彼女たちが空を飛んだり悪魔と契約したりできるはずがない、そんな能力は人間にはない。したがって魔女の罪というものは、そもそも成立しない。
当時としては相当に踏み込んだ主張で、ジャン・ボダンやトマス・エラストゥスといった論客から猛烈に叩かれた。
ただしヴァイヤーは、悪魔そのものを否定したわけではない。ここがこの人物のややこしいところになる。彼は悪魔の実在を信じていた。悪魔は幻覚を作り出せるし、魔術師をたぶらかすこともできる。
彼が線を引いたのは、罪のない病んだ女たちと、自ら望んで悪魔を呼ぼうとする魔術師のあいだだった。前者は救われるべき患者で、後者は自業自得の愚か者だ、と。
そして一五七七年、『悪魔の幻惑について』の版に付録として『悪魔の偽王国』が付けられる。これが七十二柱リストの直系の祖先になる。悪魔たちの名前、階級、姿、能力、率いる軍団の数、そして召喚の作法までが並べられていた。
ヴァイヤーが挙げたのは六十九体だった。
皮肉だったのか、記録だったのか、商売だったのか
ここで当然の疑問が来る。魔女狩りを批判した人が、なんで悪魔召喚の一覧を載せたのか。
これは今でも決着していない論点になる。大きく三つの読み方がある。
一つ目は暴露説になる。魔術師の手口はこんなにばかばかしいのだ、と実物を晒すことで、読者に呆れさせる意図だったという読み方だ。
実際ヴァイヤーは、この付録の内容を賞賛していない。むしろ嘲るような書きぶりを混ぜている。悪魔の位階だの軍団数だのという設定が、いかに人間の官僚制の物真似でしかないかを見せる。一種の皮肉として置かれた可能性はある。
二つ目は資料保存説になる。彼は師匠アグリッパ経由で、当時流通していた『霊たちの職務』系の写本を持っていた。医者としての観察記録の癖で、批判対象であっても現物を正確に記録しておくべきだと考えた、という読み方も十分にありうる。
三つ目は、もっと身も蓋もない読みになる。要するに商業的に面白い付録だった。悪魔の名前がずらっと並んだリストは、当時も今も、単純に読み物として引きがある。本の売れ行きに貢献する種類の内容だ。
どれが正解かは分からない。ただ一つ確実なのは、意図が何であれ、この付録が独り歩きしたということになる。
ヴァイヤーの本文の魔女擁護は忘れられ、付録の悪魔リストだけが後世に生き延びた。皮肉として書いたのなら、これ以上ない皮肉の失敗だ。
誤読から生まれた魔神が、混ざっている
一五八四年、イングランドのレジナルド・スコットが『妖術の暴露』を書いた。これも魔女狩り批判の本で、ヴァイヤーの影響が濃い。
この本にはエイブラハム・フレミングによる英訳で悪魔リストが収録された。フレミングの訳はお世辞にも正確ではなく、綴りの取り違えや誤読が混ざっている。
そして『レメゲトン』の編者が使ったのは、どうやらこの英語版の系統だったらしい。つまり七十二柱の魔神名の中には、写し間違いから生まれた個体が混ざっている可能性が高い。
千年の伝統だと思っていたものの一部が、単なる誤字だったかもしれない。この話が私はけっこう好きだ。
六十九から七十二へ、三体を水増しした理由
ヴァイヤーのリストは六十九体だった。『ゴエティア』は七十二体になる。この三体分の差が、なかなか味わい深い。
七十二という数字は、西洋の秘教伝統では特別な意味を持つ。黄道十二宮を五度ずつ、つまり一宮を六つに割ると七十二区画になる。全天を余さず分割する数だ。
神の名を七十二文字に分ける伝統もある。要するに七十二は、全部を意味する数として使い勝手がよかった。六十九では締まらない。
だから編者は数合わせをした。他の魔術文献、たとえば『ヘプタメロン』のような書物から名前や設定を持ち込み、独自の項目を作って穴を埋めている。
ダンタリオンやストラスといった魔神は、ヴァイヤーにもスコットにも見当たらない。編者が別系統の写本から引っ張ってきたか、あるいは作った。
皮肉なことに、こうして後から足された魔神ほど、現代では人気があったりする。ダンタリオンなんかは日本の創作でもよく見る顔だ。
七十二柱は、最初から七十二体だったわけではない。数字に合わせて増やされた。これは重要な事実で、後述する懐疑論の中核にもなる。
大英博物館で写した男と、勝手に出した弟子
十九世紀末のロンドン。黄金の夜明け団という魔術結社が動いていた。創設は一八八八年、メンバーには詩人のイェイツもいた。
この結社は、それまでばらばらだった西洋魔術の断片を、カバラと占星術とタロットを軸に体系化しようとしたのだ。近代オカルティズムの震源地といっていい。
その中心人物の一人が、サミュエル・リデル・マグレガー・メイザースになる。一八五四年生まれ。彼は大英博物館の写本室に通い詰め、魔術文献を片っ端から筆写して英訳した。
『ソロモンの鍵』『アブラメリンの聖なる魔術の書』、そして『レメゲトン』第一書。メイザースは一八九八年ごろには『ゴエティア』の決定稿を仕上げていたとされる。
ただしメイザースは出版しなかった。結社の内部資料という扱いだったのかもしれないし、単に金がなかったのかもしれない。彼は生涯、慢性的に金に困っていた。
そこに登場するのがアレイスター・クロウリーになる。一八七五年生まれで、黄金の夜明け団に入団し、メイザースの弟子になった男だ。この二人は最終的に大喧嘩して決裂する。結社そのものが内部抗争で分裂し、クロウリーは自分の道を行くことになった。
そして一九〇四年、クロウリーは『ソロモン王のゴエティアの書』を出版する。メイザースの訳稿をベースにして、自分の序文をつけて。
この序文が有名で、儀式魔術の秘儀参入的解釈と題されている。中身は後で触れるが、要するに魔神は人間の脳の一部であるという、身も蓋もない心理学的解釈だった。師の労作に、弟子が自分の理論を貼り付けて出した格好になる。
三段階の加工を経て、いまの姿がある
この一九〇四年版が、決定的だった。それまで写本でしか読めなかった七十二柱が、印刷された本になり、シジルの図版がついて、誰でも手に取れるものになる。
二十世紀を通じて何度も海賊版が出た。アメリカで無断複製が横行し、そのたびに図版の線が潰れ、印刷が汚くなっていく。
一九九五年にハイメニーアス・ベータが編集した新版が出て、ようやくまともなテキストが流通するようになった。二〇〇一年のピーターソン校訂版が学術的な決定版として続く。
要するに、私たちが今知っている七十二柱の姿は、三段階の加工を経たものになる。十七世紀の写本を、十九世紀末のイギリス人魔術師が英訳し、二十世紀初頭に別の魔術師が出版した。原型からはかなり遠い。
魔法円と三角形、文献に書かれた道具立て
『ゴエティア』には、召喚のための道具立てが図版つきで記されている。ここは記録として紹介するにとどめる。実行の手引きとして読まれるべきものではないし、この記事はそういう目的で書いていない。
まず魔法円から見ていく。差し渡し九フィート、およそ二メートル半強の大きさで、同心円が幾重にも描かれる。
外側の円と内側の円のあいだにはとぐろを巻いた蛇が這っていて、その体の上に神名がヘブライ語で書き込まれる。中心には四角い区画があり、赤で術者の位置が示される。
神名の列はエヘイエーから始まり、月で終わる。これはカバラのセフィロトの配列に対応していて、九つの階梯それぞれに神名と天使名と天球が割り当てられている。
色の指定まで細かく決まっている。蛇の帯は濃い黄色、中央の四角は赤、文字は黒、六芒星は外側の三角が黄色で中が青か緑になる。
この円の役割ははっきりしている。文献の言い方をそのまま借りれば、術者をこれら悪しき霊の悪意から守るためのものだ。円の中にいるかぎり手が出せない、という発想になる。
次が三角形になる。円から二フィート離した位置に、一辺三フィートの三角形を置く。この中に大天使ミカエルの名が入り、外周には三つの神名が書かれる。
三角形は、呼び出す魔神が属する方位のほうに置く決まりになっている。これは魔神を立たせるための枠だ。円が術者の防御なら、三角形は相手の拘束具にあたる。命令に従わない霊は、この三角形の中へ押し込めることになっている。
息が臭いので、近づけすぎないように
ソロモンの秘密の印章もある。真鍮で作られ、真鍮の器の蓋を覆うものとされる。伝説で王が壺を封じたときに使ったのが、この印章ということになっている。
そして真鍮の器そのもの。丸みを帯びた壺として描かれ、上下にヘブライ文字が刻まれる。文字の内容はアグリッパの『七の階梯』から取られていた。
文献にはこの器を作る条件も書かれている。火曜か土曜の夜中に作ること、処女羊皮紙を使うこと、香として明礬や乾葡萄や棗や杉や沈香を焚くこと。そして動物の血を用いること。
念のため書いておくが、動物を殺す行為を含むこの種の記述は、現代の法や倫理からして問題があるし、実行を勧めるものではない。文献にそう書いてある、という事実だけを記録として示している。
最後が指輪になる。銀製で、左手の中指にはめると決められている。外側と内側にそれぞれ神名が刻まれる。用途は、霊たちの臭い煙から術者を守るため、顔の前にかざすというものだ。
魔神の吐く息が有害だという発想が前提にある。実際、アスタロトの項目には、息が臭いので近づけすぎないように、という注意書きがついている。ここだけ妙に生活感があって好きだ。
地獄にも、人事制度がある
七十二柱を眺めていて一番おかしいのは、彼らが徹底して封建的な組織図の中にいることになる。
魔神にはそれぞれ爵位が与えられている。王がいて、公爵がいて、君主がいて、侯爵、伯爵、総裁、騎士と続く。この序列は中世カトリックの天使の九階級に対応する発想から来ていて、要するに天上の官僚制をひっくり返した鏡像だ。地獄も役所なのである。
さらに各々が軍団を率いる。三十軍団、四十軍団、六十六軍団、といった具合に数が明記されている。フォカロルなんかは三百四十八軍団という桁違いの数字を抱えていた。
合計すると膨大な数になるが、その数字に意味があるのかというと、たぶんあまりない。単なる権威づけの数字だと思う。
面白いのは金属の対応になる。魔神のシジルを刻む金属が、爵位ごとに決まっている。王なら黄金、君主は錫、公爵は銅、侯爵は銀、騎士は鉛、総裁は水銀。
これは惑星と金属の照応という、ルネサンス魔術の常識をそのまま持ち込んだものだ。太陽が金、木星が錫、金星が銅、月が銀、土星が鉛、水星が水銀。つまり地獄の階級表は、占星術の惑星配当の焼き直しでもある。
拘束できる時刻や、月の相についての注意もある。爵位ごとに扱いが違う。
全体として、この体系は秩序立っている感じを演出することに全力を注いでいる。無秩序な怪物ではなく、名簿と役職と定員のある組織。だからこそ扱えるのだ、というロジックだ。
ここが七十二柱の最大の魅力でもある。恐怖の対象を、書類に落とし込んで管理可能にする。近代的といえば、これ以上なく近代的な発想だと思う。
序列一番、猫とヒキガエルと人間を同時にやる王
ここからは有名どころを一体ずつ見ていく。
バエルは序列第一で、東方の王にあたる。六十六軍団を率いており、その姿の記述がとにかくすごい。
あるときは猫のように、あるときはヒキガエルのように、あるときは人間のように現れる。そしてときにはこれらすべての姿を同時に、と書かれている。
猫とヒキガエルと人間が同時に存在する何かを想像してほしい。後世の図像では、三つの頭が生えた体として描かれることが多い。声は嗄れている、としつこく書かれる。能力は、術者の姿を見えなくすること。
出自をたどると、バエルはカナンの豊穣神バアルになる。嵐と雨を司り、大地に実りをもたらす神だった。旧約聖書は繰り返しバアル崇拝を非難している。
異教の主神が、征服された宗教のもとで悪魔に降格される。典型的なパターンがここにある。
七十二柱にはこの手の元神様が何体も混ざっている。アスタロトはもともとメソポタミアやカナンの女神イシュタルやアシュタルトの系譜だし、アモンはエジプトの神アメンの名残を引きずっている。神が悪魔になる過程が、リストの中に化石として残っているわけだ。
序列二番、ワニに乗った上品な老人
アガレスは東方の公爵で、三十一軍団を率いる。姿の描写がやたら具体的でいい。
年老いた品のいい男が、ワニにまたがっている。実に穏やかに乗っている、とわざわざ書いてある。そして拳にはオオタカを留まらせている。
この一枚絵の情報量が好きだ。ワニに乗るという時点で異常なのに、その乗り方が非常に穏やかと念押しされる。鷹狩りをする貴族の姿と、ワニという爬虫類が、なんの説明もなく合成されている。中世からルネサンスの図像感覚はこういうところがある。
能力は妙に散らかっている。逃げた者を走らせて連れ戻す。あらゆる言語を教える。
地位や名誉を破壊する。そして地震を起こす。言語教師と地震係を兼任している。
もとは美徳天使の位階にいた、という注記もついていて、堕天した過去を持つ設定になっている。
序列九番、ラクダに乗って楽隊を引き連れてくる王
パイモンは七十二柱の中でも人気が高い。大いなる王で、ルシファーに非常に忠実だと書かれている。二百軍団を率い、さらに従属する二王が二十五軍団を持ち、方角は北西とされる。
登場シーンがとにかく派手になっている。ヒトコブラクダに乗った男の姿で現れ、頭にはこの上なく輝かしい冠をいただいている。そして前方には楽隊がついてくる。
ラッパやシンバルやその他あらゆる楽器を鳴らしながらやってくる、と書かれている。完全に王の入場としての行列になっている。
声についても記述が残っている。最初は大きな叫び声で現れるので、術者には聞き取れない。ちゃんと聞こえるように命じる必要がある、と。この最初は聞き取れないという細部が生々しくていい。
能力は知の方面に寄っている。あらゆる技芸と学問を教える。地上の秘密を明かす。
大地とは何か、水はどこに支えられているか、といった問いにも答える。地位や権威を与える。使い魔をよこす。
位階は主天使の出だとされる。教養と権力を同時に扱うタイプで、だから現代でも知識の王として扱われがちだ。
序列十番、射手座の星として現れる医者
ブエルは大総裁で、五十軍団を率いる。太陽が射手座にあるときに現れる、という条件がついている。
姿の記述が独特で、星のような形、あるいは射手座の形として現れると書かれる。後世の図像では、ライオンの顔から五本の脚が車輪みたいに放射状に生えた、異様な姿で描かれるようになった。
この図像は十九世紀のコラン・ド・プランシー『地獄の辞典』の挿絵が広めたもので、原典の記述からはかなり飛躍している。
能力は完全に学者と医者だ。道徳哲学と自然哲学を教える。論理学を教える。
すべての薬草と植物の効能を教える。そして人間のあらゆる不調を癒す。良い使い魔を与える。
攻撃的な要素がまったくない。七十二柱の中には、こういう穏やかで実用的な魔神がけっこういる。悪魔というより、機嫌の難しい家庭教師に近い。
序列三十二番、全部盛りの王
アスモデウスは七十二柱の中でも別格の知名度を持つ。大いなる王で、アマイモンの下では第一位にあたり、七十二軍団を率いる。この数字が七十二柱全体の数と一致するのも、たぶん偶然ではない。
姿がとにかく濃い。三つの頭を持ち、一つは雄牛、一つは人間、一つは牡羊になっている。尻尾は蛇で、口から火を吐く。
足には水鳥のような水かきがある。そして地獄の竜にまたがり、手には旗と槍を持つ。全部盛りだ。
出自はゾロアスター教の悪神アエーシュマ・ダエーワにさかのぼるとされる。旧約外典の『トビト記』には、サラという女性に取り憑いて、彼女の夫を七人続けて婚礼の夜に殺した悪魔として登場する。
この話があるせいで、アスモデウスは色欲と婚姻の破壊者というイメージを背負った。のちに七つの大罪の色欲を担当する魔王として定着する。
『ゴエティア』での能力は、そのイメージとは少しずれる。算術、幾何学、天文学、そしてあらゆる手仕事を教える。隠された財宝の在り処を明かす。姿を消す指輪を与える。学問寄りだ。
ただし扱いは難しく、術者は屋外で、頭を覆わずに立ち向かうべきだと書かれている。帽子を取れ、という指示が入っているのが妙にリアルで、要するに敬意を示せということらしい。名前をきちんと呼ぶまでは何も答えない、という記述もある。
序列六十八番、真実の消費期限は一時間
ベリアル。冒頭の伝説で唯一逃げ残った、あのベリアルだ。強大な王で、八十軍団。ルシファーの次に創られたと書かれている。つまり被造物としての序列がかなり上位にある。
姿は意外なほど美しい。炎の戦車に座った、美しい天使。恐ろしげな怪物ではない。声は心地よく話す、と書かれている。むしろそのギャップが不穏だ。
能力は昇進と人望。地位や役職を配る。友人からも敵からも好意を得させる。優れた使い魔を与える。政治力の魔神である。
ただし注意書きが厳しい。ベリアルには供物と捧げ物と贈り物が必要で、それがないと真実を語らない。そして真実を語ったとしても、神の力によって縛られていない限り、一時間しかもたない。すぐに嘘をつきはじめる。
この一時間の消費期限という設定が異様に具体的で好きだ。契約の相手として、あからさまに信用ならない。
ベリアルという名前自体は、旧約聖書にベリアルの子らという形で出てくる。ただしそこでは固有名詞というより、無価値や破滅を意味する語だったとされる。抽象名詞が人格化して悪魔になった例になる。
死海文書では光の子らと戦う闇の勢力の首領として登場し、そこでかなり格が上がった。
序列六十三番、術者を殺しにくる侯爵
アンドラス。大侯爵で、三十軍団。七十二柱の中で、いちばん物騒な注意書きがついている魔神だ。
姿は、黒い渡鴉の頭を持つ天使。黒い狼にまたがり、手には抜き身の明るい剣を持っている。図像としては最高にかっこいい。だから現代の創作でもよく採用される。
能力は不和を撒くこと。人間関係を壊し、争いを起こす。そしてここからが問題で、術者が注意を怠れば、アンドラスは術者とその仲間を殺す、と明記されている。
他の魔神にも危険の注記はあるが、はっきり殺すと書かれているのは限られる。この記述があるおかげで、アンドラスは七十二柱で最も危険な一体という扱いで語られることが多い。
実際に危険かどうかは知らないが、テキストがそう書いている以上、伝承としてはそうなる。ちなみに海外の実践者コミュニティでも、アンドラスは初心者が触るべきではない筆頭として名前が挙がる。文献の一行が、四百年後のネット掲示板の空気を規定しているわけだ。
序列七十一番、無数の顔と一冊の本
ダンタリオン。大公爵で、三十六軍団。前述したとおり、ヴァイヤーにもスコットにもいない、『レメゲトン』系の写本で初めて出てくる魔神になる。編者の創作か、別系統からの持ち込みか。
姿がいい。男女あらゆる顔を無数に備えた男として現れる。そして右手に一冊の本を抱えている。顔が無数にある、という設定が、そのまま能力に直結している。
能力は思考の領域だ。あらゆる技芸と学問を教える。誰の心の中の秘密の思考も読み取る。
人の心を望むように変える。愛を生じさせる。そして世界のどこの誰の姿でも、幻として見せる。
要するに、他人の内面を全部覗いて操れる。物理的な破壊力はないが、いちばん怖い部類の能力かもしれない。
無数の顔と一冊の本という組み合わせは、ビジュアルとして非常に強い。現代の創作でダンタリオンが好まれるのは、この一枚絵の完成度のせいだと思う。
ほかにも変なやつが、たくさんいる
八体で終わらせるのはもったいないので、印象的な連中を続けて挙げておく。
アモン、序列七番。最初は蛇の尾を持つ狼として現れ、火を吐く。命じると人間の姿になるが、顔は渡鴉のようで、犬の牙が生えている。過去と未来のすべてを語り、友と敵のあいだの争いを和解させる。放火魔と調停者を兼ねている。
バルバトス、序列八番。太陽が射手座にあるとき、四人の高貴な王を従えて現れる。鳥の歌、犬の吠え声、牛の鳴き声、あらゆる生き物の言葉を理解させてくれる。そして魔術で封じられた財宝の在り処を明かす。動物の言葉が分かるようになる魔神、というのはかなり牧歌的だ。
ヴィネ、序列四十五番。王にして伯爵という二重の位を持つ。ライオンの姿で黒馬に乗り、手には毒蛇を持つ。
隠されたものを暴き、魔女を見つけ出し、未来を語る。そして塔を建て、石垣を崩し、嵐を起こす。破壊工事と建築を同時にやる。
フォカロル、序列四十一番。グリフォンの翼を持つ人間の姿。船を沈め、人を溺れさせ、風と海を支配する。
ただし命じれば害をなさない。そして千年たてば第七の座に戻れると希望している、という記述がついている。堕天使が復帰を夢見ているという設定が、いきなり切ない。
セーレ、序列七十番。東方の王アマイモンの下の君主にあたる。翼のある馬に乗った美しい男として現れる。
世界中どこへでも、まばたきのあいだに行ける。盗品の在り処を告げる。純粋に善い性質だと書かれている、めずらしいタイプ。
アンドロマリウス、序列七十二番。リストの最後尾になる。蛇を手にした男の姿。
盗人と盗まれた品を連れ戻し、あらゆる悪事を暴き、盗人を罰する。三十六軍団。最後を締めるのが探偵みたいな魔神なのは、リストの構成として妙にきれいだ。
デカラビア、序列六十九番。最初は五芒星の中の星として現れる。命じると人間の姿になる。
薬草と宝石の効能を教え、そして鳥の幻を作り出す。その鳥は本物の鳥のように歌い、水を飲む。この最後の一節がやたら詩的で、七十二柱の記述の中でも屈指の好きな箇所になる。
シジルという発明が、四百年後にTシャツになった
七十二柱がここまで広まった最大の理由は、たぶん文章ではない。図形だ。
各魔神には固有のシジル、日本語でいう紋章や印章が割り当てられている。曲線と直線と丸と十字を組み合わせた、抽象的な図形。読めそうで読めない。意味がありそうでない。これがものすごく強い。
シジルの起源は、おそらく惑星魔方陣から線を引き出す技法や、ヘブライ文字を図形化する技法にある。ただし七十二柱のシジルの多くは、そういう規則から逆算できない。作られた経緯が不明なものが大半だ。誰かが、それらしく見えるように描いた可能性が高い。
しかし、だからこそ機能した。意味が確定していない図形は、見る者に何か意味があると思わせ続ける。ロゴとして完璧だ。
一九〇四年の印刷本でシジルの図版が広く出回ってから、これらの図形は魔術書の外へ出ていった。
今では、タトゥーとして彫られ、ペンダントになり、スマートフォンのケースに印刷され、Tシャツとして売られている。海外の通販サイトでは七十二柱のシジル一式がデジタルデータで販売されている。バンドのアートワークに使われるのは日常茶飯事だ。
二〇一八年のホラー映画『ヘレディタリー』は、この流れを一段押し上げた。作中で崇拝されるのがパイモンで、彼のシジルが繰り返し画面に映る。
映画公開後、パイモンのシジルの検索数が跳ね上がり、タトゥーの依頼も増えたと言われる。四百年前の写本に描かれた線が、ハリウッド映画を経由して現代の皮膚に彫られている。伝播経路として異常に長い。
実践者を名乗る人たちは、何を見たと言っているのか
さて、実際にやったと言う人たちの話をしよう。断っておくと、以下は当人がそう語っているというだけの話になる。検証はできない。それでも読み物として面白いので紹介する。
英語圏のオカルトブログに、パイモンとの複数回の接触を記録した長い体験談がある。書き手によれば、最初の一回は人生で初めての儀式だったという。
円も三角形も雑で、シジルは鉛筆書き、杖は自作。素人丸出しの装備だ。それでも三十分ほど続けたところで、ぼんやりとした男の姿が見えたと言う。
ローブをまとい、片手に杖、もう片方に剣を持っていた。書き手は怖くなって儀式を切り上げた。ただし、そのとき頼んだ願いは後日かなった、と書いている。
同じ書き手は、四回目の接触をこう記録している。部屋の気圧が急に下がったかのように、家中の何もかもがきしんだ。そして体に重さを感じた。書き手はこれを、霊が到着した合図だと解釈している。
この回は口頭ではなくペンと紙を使ってやりとりをして、知識に関する込み入った問いへの答えを得たという。五回目には、儀式の最中に遠雷が鳴り、突風が吹いたと書かれている。
このときパイモンは長い髪にアラビア風の冠をかぶった姿で現れ、書き手はやあ、古い友よ、と挨拶したそうだ。四回目までの緊張感が消えて、常連客みたいな距離感になっているのが面白い。
報告の内容が、妙に揃っている
海外の大手オカルトフォーラムには、パイモン体験の投稿が何百と並んでいる。読んでいて驚くのは、報告の内容が妙に揃っていることだ。
まず圧迫感。背中に巨大な圧力がかかって上半身が前に押し曲げられた、と書く人がいる。内臓を絞られるような圧縮感、と書く人もいる。
次に暗さ。小さな明かりが全部薄暗くなった、という報告が複数ある。姿については、フードをかぶった背の高い黒い人影、という描写が繰り返される。夢の中で黄金の玉座に座る王として会った、という人もいる。
態度についての報告も揃っている。最初は不機嫌で、テレパシーでなぜ呼んだと怒鳴られるように感じた、という証言がある。位階への敬意を求めるらしく、丁寧に接して供物を出すと落ち着く、と複数の人が書いている。
そして接触後も何かが続く、という話が多い。金縛りに遭うようになった、変なことが起き続けている、といった具合だ。香の煙が、姿が見えていた場所へ向かって流れていった、という報告が独立に複数あるのも印象に残る。
もちろん、これは同じ本を読んだ人たちが同じ本の記述に沿った体験を報告している、という説明で全部片づく。パイモンが権威を重んじる王だと本に書いてあるから、無礼にすると怒られた気がする。
圧迫感は暗い部屋で長時間集中していれば普通に起きる身体反応だ。それでも、これだけ揃うと不気味ではある。
日本の実践者は、まず場所に困る
日本語圏にも実践記録は存在する。有料記事や個人の日記の形で、蝋燭を灯し、羊皮紙にシジルを描き、序列七十二番アンドロマリウスを呼んだ、といった記録が公開されている。
日本の実践者の記録に共通するのは、道具の入手に苦労する話が必ず入ることだ。羊皮紙をどこで買うか、香をどうするか、そもそも二メートル半の円をどこに描くのか。
ワンルームの床に九フィートの魔法円は物理的に描けない。この生活感のある障害が、記録を妙にリアルにしている。
逆方向の証言も紹介しておく。スピリチュアル相談を受け付けている日本の実践者の中には、悪魔召喚に手を出すなと明確に警告している人がいる。
面白半分でシジルを描いて呼んだ結果、体調を崩した、部屋の空気がおかしくなった、悪夢が続く、といった相談が持ち込まれるという。この手の警告記事は、内容の真偽はともかく、実際にやってみる人が一定数いるという事実を裏づけている。
念のためはっきり書いておく。この記事は儀式のやり方を教えるものではないし、実行を勧めるものでもない。動物を傷つけたり、自分の体を傷つけたりする行為を含む記述が古文献にはあるが、それは現代の法にも倫理にも反する。
孤立して精神的に追い詰められた状態でこの種の実践に深入りするのは、単純に危険だ。不調を感じたら、オカルトではなく医療の側に相談してほしい。
日本では、悪魔が全員かわいくなった
日本での受容の話をしよう。ここが一番おかしい。
まず用語から違う。ソロモン七十二柱という呼び方は、実は日本独自の言い回しになる。英語圏ではゴエティアの悪魔たち、といった呼び方をする。
柱という助数詞は日本では神を数えるときのものだから、悪魔を柱で数えている時点で、もう独自解釈が始まっている。
流れの起点は一九七〇年代から八〇年代の悪魔学ブームだ。西洋の悪魔学やオカルト事典が翻訳され、紹介書がたくさん出た。この時期に、日本の読者は七十二柱という揃ったカタログを知る。
日本人はカタログに弱い。名前と姿と能力と序列が全部揃ったリストは、それだけで欲しくなる形式だ。
そこにゲームが来る。一九八〇年代後半から始まる女神転生シリーズは、神話と悪魔を大量に取り込んだ。
この作品群の思想として面白いのは、登場する神も悪魔もある意味ですべて平等に扱う、という姿勢になる。開発側の解説によれば、悪魔とは実在の存在というより、人々が抱いてきたイメージの総体が具現化したものだという。
この割り切りが、日本の創作における悪魔の扱いの基本形になった。神話的正確さより、キャラクターとしての機能を優先する。
以降、七十二柱は日本の創作の共有資産になる。全七十二体を主題にしたスマートフォンゲームが作られ、ロボットアニメでは機体すべてに魔神の名前が振られている。大型のRPGでは魔神柱という形で、七十二柱が敵として登場した。学園ものの舞台装置として使われた作品もある。カードゲームにも入っている。
二次創作が、二次創作されている
そして、日本の創作を通ると彼らは総じてかわいくなる。少女になり、少年になり、擬人化され、恋愛対象になり、コメディをやる。
アガレスがワニに乗った老人であることは忘れられ、アンドラスが術者を殺すという注記も背景設定になる。
これを軽薄だと嘆く人もいるけれど、私はわりと肯定的だ。だって元のテキストからして、後世の誰かが数合わせで水増しした寄せ集めなのだ。二次創作の産物が二次創作されているだけである。四百年前の編者も、たぶん同じことをやっていた。
日本語圏のネットでは、各種の百科事典サイトやまとめサイトに、七十二柱の詳細な一覧が作られている。序列と階級と軍団数を並べた表が無数にあり、推し悪魔を見つけようという趣旨の記事まである。
原典の翻訳精度がどうこうという話とは別の次元で、この情報の蓄積は膨大だ。ちなみにこれらの日本語記事の多くは、原典ではなくメイザース訳の日本語訳や、そのまた孫引きを参照している。伝言ゲームの層がさらに一段増えている。
全部後世の創作だ、という指摘にどう答えるか
さて、懐疑の話をしよう。
七十二柱に対する批判はいくつかの層に分かれる。まず事実関係の話になる。
ソロモン王が悪魔を使役した記録は聖書にない。七十二柱のリストは十六世紀のヴァイヤーの本が直接の親で、しかも彼は六十九体しか挙げていない。残り三体は後から水増しされた。名前の一部は英訳の誤読から生まれた可能性がある。写本は十七世紀のもので、ソロモンの時代から三千年ほど新しい。
ここまでは、ほぼ争いのない事実だ。
次に位置づけの話になる。じゃあ七十二柱はデタラメなのか。ここは意見が割れる。
文献学的には、確かに古代の秘伝ではなく近世の編纂物だ。だが近世の編纂物であることと、価値がないことは別になる。
実際、七十二柱は近世ヨーロッパの世界観を驚くほど正確に映している。天使の階級を鏡像にした地獄の官僚制がそこにある。惑星と金属の照応もそのまま入っている。
異教の神を悪魔として再分類する処理も見える。そして学問と財宝と恋愛という、当時の人が魔術に求めていた三大需要が並んでいる。読み物としてこれ以上ない史料になる。
ヴァイヤーの意図をめぐる議論は、今も研究者のあいだで続いている。近年の研究では、彼の反カトリック的な立場が執筆動機に深く関わっていたとする論もある。悪魔祓いを商売にしていた聖職者たちを、同じ穴の狢として並べて見せたかった、という読みだ。
これはかなり説得力がある。だとすれば『悪魔の偽王国』は、魔術師と教会の権威を同時に嘲るための道具立てだったことになる。
広めた張本人が、たぶん信じていなかった
そして最大の皮肉は、七十二柱を世に広めた張本人が、その実在を信じていなかったかもしれないという点になる。
クロウリーは一九〇四年版の序文で、儀式魔術の心理学的な解釈を打ち出している。彼の言い分をざっくり言えば、ゴエティアの霊たちは人間の脳の一部にすぎない、というものだ。
儀式の道具立ても、香も、円も、術者自身の意識状態を作り変えるための装置であって、外部から何かを呼んでいるのではない。
この解釈は二十世紀のオカルティズムに巨大な影響を与えた。後のカオスマジックの実践者たちは、この線をさらに推し進めて、魔神を心理的なモジュールとして扱うようになる。名前もシジルも、自分の無意識にアクセスするためのインターフェースだ、と。
だから現代の実践者コミュニティは、大きく二つに分かれている。魔神は独立した実在の存在だと考える派と、心の中の構造物だと考える派だ。
両者は同じ本を読み、同じシジルを描き、同じ儀式をして、まったく違う説明をする。どちらも自分の体験を証拠として挙げる。この対立は原理的に決着しない。
なぜ、四百年前の名簿にこんなに惹きつけられるのか
最後に、この話がなぜここまで人を掴むのかを考えたい。
第一に、名前があるからだ。名前のない恐怖は扱えない。だが名前があれば呼べるし、呼べれば交渉できる。
七十二柱の本質は、混沌に名札を貼る作業になる。世界の理不尽さ、自分の無力さ、説明のつかない不運。それらに固有名詞と役職と軍団数を与えて、書類の形にする。
カタログ化とは、恐怖を管理可能なものに変換する技術だ。この欲望は現代でも全然衰えていない。私たちは今も、不安に病名や診断名やラベルを貼りたがる。
第二に、揃っているからになる。七十二という数は全部を意味する。中途半端に六十九体でなく、きっちり七十二体。
序列番号がついていて、階級があって、軍団数まで書いてある。この網羅性が、収集欲を刺激する。実際、日本の創作が七十二柱を好むのは、そのまま図鑑になるからだ。
第三に、造形が強いからだ。ワニに乗った上品な老人がいる。渡鴉の頭で狼にまたがる剣士がいる。無数の顔と一冊の本を抱えた男がいて、ラクダに乗って楽隊を連れてくる王がいる。
これらは四百年前の誰かが、たぶん適当に思いついたイメージだ。でも、適当に思いついたにしては強すぎる。デザインとして完成している。だから使われ続ける。
第四に、シジルがあるから。読めない図形は、意味の受け皿になる。見る人が勝手に意味を注ぎ込める。ロゴとして最強の性質だ。
そして第五に、はっきりしないから。写本の来歴も、名前の由来も、シジルの作図法も、ヴァイヤーの意図も、全部どこかに穴がある。穴があるから、そこに想像を差し込める。全部解明されてしまった伝説は、もう伝説として機能しない。
印章という図形が、いつから意味を持ったのか
シジルの起源についても、もう少し丁寧に見ておきたい。ルネサンス期の魔術書には、惑星ごとの魔方陣から線を引き出して図形を作るという技法が繰り返し記録されている。
この技法では、数字を並べた正方形の上を、意味を持つ語の数値に従って線でなぞっていき、その軌跡そのものを霊的な印として扱うという手順が踏まれていた。
つまり図形は、恣意的に描かれたものではなく、一定の計算規則から機械的に導かれたものだという建前がそこにはあった。この建前が、図形に権威を与えていたわけだ。
ところが七十二柱のシジルの大半は、その種の計算規則をどれだけ探しても逆算することができないという厄介な性質を持っている。誰かが手で描いたとしか思えない形が並んでいる。
近代以降の研究者が繰り返し試みてきた復元作業も、いくつかの図形について部分的な説明を与えるにとどまり、体系全体を貫く生成規則を見つけ出すには至っていない。
この説明のつかなさは、しかし実務上まったく問題にならなかった。図形が本当に規則から導かれたかどうかは、それを見て何かを感じる人間の体験には関係しないからである。
むしろ規則が不明であるほど、その図形は特別に見える。読めそうで読めない記号が、読み手の側の想像力を無制限に引き出してしまうという構造は、現代の商標やロゴにもそのまま通じている。
そう考えると、四百年前の写字生が意味も分からず線を引き写した行為は、結果として最も効率のよい伝達方法を選んでいたことになるのかもしれない。意味が抜け落ちたぶんだけ、図形は身軽になった。
悪魔学という学問が、実在していた時代の話
ここで少し引いて、七十二柱が生まれた時代の知的な地形を見ておきたい。当時のヨーロッパでは、悪魔について語ることは決してオカルト趣味ではなく、神学部の正規の議論領域として扱われていた。
十五世紀から十七世紀にかけて、大学で神学を修めた聖職者たちが悪魔の階級と能力と行動様式を大真面目に論じ、その成果を分厚い書物として次々に刊行していた。この事実は、現代の感覚からするとかなり奇妙に映るはずだ。
彼らにとって悪魔は比喩ではなく、世界の因果関係の一部として実在する存在だった。その性質を正確に把握することは、疫病や不作や突然死を説明するための必須の作業でもあった。
つまり悪魔学は、当時としてはかなり実務的な知識体系だったことになる。何が起きているのか分からない出来事に対して、原因の候補を体系的に整理して提示するという役割を担っていたわけだ。
この文脈を踏まえると、ヴァイヤーが悪魔の名簿を几帳面に整理して掲載した行為が、必ずしも彼の医学的な合理主義と矛盾しないことが見えてくる。当時の医学と悪魔学は、現代人が想像するほどきれいには分かれていなかった。
そして魔女狩りの熱狂が最も激しかった時期に、その熱狂を批判する本の付録として悪魔の一覧が置かれたという逆説。これはこの時代の知識人が置かれていた立場の複雑さを、そのまま反映しているのだと思う。
批判する側も擁護する側も、悪魔が実在するという前提だけは共有していた。争点はあくまで、その悪魔と契約できる人間が本当に存在するかどうかという一点に絞られていたのである。
だから当時の議論を、現代の科学対迷信という図式に当てはめて読むと、ほぼ確実に読み違えることになる。ヴァイヤーが守ろうとしたのは合理主義ではなく、拷問されて焼かれる具体的な女たちの命だった。
この一点を押さえておくと、彼の本の構成が急に筋の通ったものに見えてくる。悪魔は確かにいる、しかしそれを操れると称する連中はほぼ全員が妄想か詐欺であり、その妄想の内容とはこういうものだ。そういう順序で書かれた本だったわけだ。
付録の悪魔リストは、告発される女たちの側ではなく、自ら望んで悪魔を呼ぼうとする男たちの側の資料として置かれていた。この配置の意味が後世に完全に失われてしまったことが、この本をめぐる最大の悲劇なのかもしれない。
名簿という形式が、四百年もった理由
もうひとつ考えておきたいのが、なぜ名簿という形式がこれほど長く生き延びたのかという問題になる。物語ではなく一覧表という形式で残ったことには、それなりの理由があるはずだ。
まず名簿には、読み手が自由に出入りできるという性質がある。物語なら最初から順に読まなければ意味が取れないが、一覧表はどこから開いても、どの項目だけを読んでも成立してしまう。
この開かれた構造のおかげで、七十二柱は写本の時代にも、印刷の時代にも、そして検索が主流になった時代にも、まったく同じ形で機能し続けることができたのだと思う。
次に、名簿は追加も削除も容易だという点が効いている。実際に六十九体から七十二体へ水増しされたときも、テキスト全体を書き直す必要はまったくなく、項目を三つ足すだけで済んでしまった。
物語であればこうはいかない。登場人物を三人増やせば筋書きの調整が必要になるが、名簿なら行を足すだけで整合性が保たれる。恐ろしく維持コストの低い設計になっている。
さらに名簿には、内容の真偽を問われにくいという不思議な性質もある。物語は矛盾を指摘されるが、名簿は項目が並んでいるだけなので、どこを攻撃すればよいのかが分かりにくいのだ。
現代のゲームやアニメが七十二柱をそのまま使えるのも、この形式の柔軟さのおかげだろう。名前と姿と能力という三点セットは、そのままキャラクター設定として転用できる完成度を持っている。
そして皮肉なことに、この転用のしやすさこそが、原典を読まない層を大量に生み出す結果にもなった。七十二柱の名前を全部言える人はいても、レメゲトンが五冊組の合本であることを知っている人はごく少ない。
もっとも、それを嘆く必要があるのかというと、私はあまりないと思っている。四百年前の編者だって、自分が写した名簿がどこから来たのかを厳密には知らなかったはずだからだ。
写して、足して、訳して、また写す。この連鎖のどこにも正しい原本は存在せず、あるのは常に誰かの手が入った途中の版だけだった。七十二柱の歴史とは、要するにその途中の版が積み重なった記録そのものになる。
玉ねぎを剥いても、芯が出てこない
ここまで書いてきて、改めて全体を眺めると、七十二柱という現象の面白さは原本がないことに尽きると思う。
普通、この手の伝承には核になる原典がある。ところが七十二柱の場合、たどっていくと核が消える。
十七世紀の写本を開くと、そこには十六世紀のヴァイヤーの影がある。ヴァイヤーをたどると、彼が参照したらしい『霊たちの職務』系の失われた写本に突き当たる。その写本の元をたどろうとすると、中世の偽ソロモン文書の茫漠とした海に出てしまう。
さらにさかのぼれば『ソロモンの遺訓』があるが、そこに七十二という数字も、バエルもパイモンもダンタリオンもいない。核がない。層だけがある。玉ねぎを剥き続けて、芯が出てこないやつだ。
この構造が、実は七十二柱の強さの正体だと思う。原典がないから、誰も、それは間違いだ、と最終的に裁定できない。
メイザースの訳が正確でないと指摘することはできるし、ピーターソンの校訂で写本間の異同を示すこともできる。でも本来の姿を提示することは誰にもできない。だから解釈は無限に開いている。
日本の作家がアガレスを美少女にしても、原理的にはそれを否定する権威が存在しない。四百年前の編者が三体水増ししたのと、二〇二〇年代の作家が性別を変えるのは、手つきとして同じ操作になる。
勉強、金、恋愛、出世
もうひとつ深掘りしておきたいのが、この体系が持っている実用性の構造だ。
七十二柱の能力を並べてみると、驚くほど需要が偏っている。学問と語学を教える魔神が異様に多い。隠された財宝の在り処を明かす魔神も多い。
愛を生じさせる、人を結びつける、逆に不和を撒くという対人操作系も多い。地位や名誉を与える、あるいは破壊するという出世関連も定番になっている。
並べ直すと、勉強、金、恋愛、出世という四本になる。四百年前の人が魔術に求めていたものは、現代人が占いやスピリチュアルに求めるものと寸分違わない。
逆にいうと、七十二柱のカタログは近世ヨーロッパの願望の調査結果でもある。史料としてこんなに正直な資料はなかなかない。
そして三つ目に、危険についての記述の扱いを考えておきたい。
文献には、アンドラスは術者を殺すとか、アスタロトの息は有害だとか、ベリアルの真実は一時間で腐るとか、そういう注意書きが散りばめられている。これを字義通り受け取る必要はない。
だが、こうした警告が体系の中に組み込まれていること自体には意味がある。危険がなければ、力の価値も生まれない。安全に何でも叶うなら、それはもう魔術ではなくサービスだ。
リスクの記述は、この体系に本物らしさを与えるための構造部品として機能している。同時に、それは実践者の暴走を抑えるブレーキでもあった。近づきすぎるな、屋外でやれ、供物を出せ、円から出るな。これらは信仰の言葉であると同時に、素人が無茶をしないようにするための手綱でもある。
オカルトと健康は、切り分けたほうがいい
現実的な話として、この種の実践に深入りして体調や生活を崩す人は実際にいる。
深夜に一人で長時間、暗い部屋で香を焚いて集中し続ければ、身体はそれなりの反応を返す。圧迫感も、視界の歪みも、音の変質も、感覚遮断や過呼吸や睡眠不足で普通に起きる。
それを霊の到来と解釈するかどうかは、その人の枠組み次第だ。ただ、解釈が何であれ、生活が壊れていくなら止めるべきだし、眠れない状態が続くなら医療にかかるべきになる。
オカルトの領域と健康の領域は、切り分けたほうがいい。この記事が儀式の手順を並べていないのは、そういう理由もある。
最後に、なぜ私たちがいまだにこの話をしているのかを、もう一度別の角度から言い直しておきたい。
七十二柱は、人間が分からないものに対してとった、最も人間らしい対応の記録だ。分からないものを、名前と役職と番号で整理する。整理すれば、少なくとも扱えている気分になれる。
それが本当に効いたかどうかは、たぶん問題じゃなかった。目録を作り、写し、印刷し、翻訳し、絵を描き、いま画面の中でキャラクターとして動かしている。この四百年の連鎖のどこにも、超自然的な出来事は必要ない。必要だったのは、名前を面白がる人間の性質だけになる。
真鍮の壺を開けたバビロニア人は、たぶん一番正しい行動をとった。宝だと思って開けたのだ。中から出てきたのは金ではなく物語だったが、結果として、その物語は三千年分の金より長持ちした。私たちはいまも、その壺の中身を眺めて遊んでいる。悪くない遊びだと思う。
