大西洋を挟んだ二つの土地に、同じ根を持ちながら、まったく別の姿に育った信仰がある。
ひとつはカリブ海の島国ハイチで、国民の精神生活そのものになったヴォドゥ。もうひとつはアメリカ南部の黒人コミュニティで生き延びた民間呪術、フードゥーだ。
日本では両方まとめてブードゥー教と呼ばれ、藁人形に針を刺す不気味な呪いのイメージで語られてきた。だがその像は、ほとんど全部が間違っている。まあ、落ち着いて順に見ていってほしい。
ここでは宗教史と民俗誌として、この二つの体系を最初から最後まで解きほぐしていく。
- 呪うのではなく、仕える
- 「ブードゥー」という呼び名が、こじれた理由
- 至高神は遠く、中間の霊が近い
- コンゴから来た、十字の宇宙図
- 砂糖と死のプランテーション
- 聖人という仮面
- ボワ・カイマンの夜
- 教会が消えた、半世紀
- ボンデュとロア
- 二つの魂と、水の下のギネ
- ナンションという「国」の分類
- 涼しい神々と、熱い神々
- 十字路を開く、パパ・レグバ
- 白い大蛇、ダンバラ・ウェド
- 二人の、まったく違う愛の女神
- 鉄と戦の神、オグ
- 死者たちは、よく笑う
- ウンフォと、宇宙の柱
- ウンガンとマンボ
- カンゾという、入信の階梯
- 床に描かれ、踏み消される図形
- ビーズとスパンコールの旗
- 「馬」に乗る神
- 十一月、墓地が紫と黒に染まる
- ゾンビという語は、ここから出た
- クレルヴィウス・ナルシスの事件
- テトロドトキシン説と、その批判
- 占領と、ゾンビ映画の誕生
- 一九四一年、太鼓が焼かれた
- 独裁者が纏った、バロン・サムディ
- 二〇〇三年の、公認
- コンゴ・スクエアで打たれた太鼓
- ルイジアナの、独自の姿
- マリー・ラヴォーの生涯
- 伝説が、増殖する
- 墓に書かれた、三本線
- フードゥーは、宗教ではなく技術だ
- モジョと、粉と、根
- ブルースの中の、呪術の語彙
- 一万三千件を集めた男
- 針を刺す人形は、どこから来たか
- 太鼓が変わった夜
- 消えない三本線
- 地下室で聞いた、診断
- 掲示板と、愛好家界隈の反応
- 検証済みの論点を、整理する
- なぜ、これほど怖がられたのか
- 医療と法と、生活の話
- 大聖堂の形と、ポケットの中の袋の形
- 診断されているのは、関係だ
- 誤解を演じることで、生き延びる
- 恐怖のベクトルが、反転した
- 神々は、信じる人が持てなかったものを持つ
- 我々が借りている、眼鏡
- 渡ってきた人々が、そう決めた
呪うのではなく、仕える
ハイチにおけるヴォドゥは、迷信でも黒魔術でもない。明確な神学と儀礼体系と聖職者階層を持つ宗教だ。
信者は自らの行為を呪うとは言わず、セルヴィ・ロア、つまりロアに仕える、と表現する。この言い方が全てを説明している。
ヴォドゥの実践とは、神々と契約を結び、供物を捧げ、太鼓を打ち、歌を歌い、その見返りとして加護と助言を得る奉仕の営みなのだ。
ハイチには有名な言い回しがある。ハイチ人の七割はカトリックで、九割はヴォドゥをやっている、というものだ。
この一見矛盾した数字こそが、ヴォドゥの本質を示している。ヴォドゥは他宗教を排除しない。日曜にミサへ行き、その夜にウンフォ、つまり寺院で太鼓の前に立つ人が、この島では標準的な信仰者になる。
「ブードゥー」という呼び名が、こじれた理由
日本語で流通するブードゥーという表記は、英語のつづりを経由したものだ。そこにはすでに、二十世紀アメリカが押し付けた偏見が染みついている。
現地クレオール語での正しい表記はヴォドゥに近い。母体となった西アフリカ・フォン語のヴォドゥンは、霊、あるいは見えざる力を意味する中立的な語にすぎない。
ところが英語圏では、この語がホラー映画とタブロイド紙を通じて、人形と呪いとゾンビに直結する記号になった。
現在ハイチの実践者や研究者は、綴り分けをすることが多い。宗教としての実体を指すときと、外から貼られた歪んだイメージを指すときとで、書き分けるのだ。ここでも、宗教としての実体を語るときはヴォドゥ、大衆イメージを語るときはヴードゥーと書き分けていく。
至高神は遠く、中間の霊が近い
ヴォドゥの最も太い根は、現在のベナン共和国とトーゴにあたる地域にある。かつてのダホメ王国とその周辺に住んだ、フォン人とエウェ人の伝統宗教だ。
彼らの世界観では、至高神マウ・リサは世界を創ったあと、人間の日常には直接関与しない。代わりに無数のヴォドゥンと呼ばれる霊的存在が、自然現象と人間社会を管掌する。
雷はヘヴィオソ、蛇はダングベ、鉄と戦はグ、大地はサクパタ。この、至高神は遠く中間の霊が近いという構造が、そのままハイチに移植された。
ボンデュ、つまり善き神とロアの関係は、マウ・リサとヴォドゥンの関係の直系になる。
奴隷貿易の最盛期、ウィダーやアラダといった港から積み出された人々が、この神学を頭の中に入れたまま船倉に押し込まれた。神々は荷物には積めないが、記憶には積める。ちなみに、この一点がこの宗教の出発点になる。
コンゴから来た、十字の宇宙図
もうひとつの大きな根は中央アフリカ、コンゴ王国の文化圏にある。
奴隷としてカリブ海に運ばれた人々の相当な割合が、現在のコンゴ、アンゴラ、カメルーンにあたる地域の出身だった。彼らが持ち込んだのは、十字形の宇宙図、コンゴ・コスモグラムだ。
横線は生者の世界と死者の世界を分ける水面を示し、縦線は神から死者の国へ通じる霊力の道を示す。
太陽が昇り、南中し、沈み、水面下を通って再び昇る。この四つの点は、そのまま誕生と成熟と死と再生の循環を意味した。
この図像感覚が、後で述べるヴェヴェの幾何学的な線描を生んだ。そしてアメリカ南部フードゥーにおける、十字の反時計回りの踊り、リング・シャウトも生んでいる。
ハイチのペトウォ系のロアたち、その荒々しく熱を帯びた性格も、コンゴ由来の霊力観に由来すると考えられている。
砂糖と死のプランテーション
ヴォドゥが形をなした舞台は、十八世紀のフランス植民地サン・ドマングだった。
ここは当時、世界の砂糖とコーヒーの主要供給地であり、フランスの富の源泉だった。そして同時に、地上でもっとも死亡率の高い労働環境のひとつでもある。
過酷な労働と病で人口が減り続けるため、経営者は絶えず新しい奴隷をアフリカから輸入し続けた。この、絶えず補充されるという構造が、逆説的にヴォドゥの成立を助けている。
世代を経て記憶が薄れる前に、常に新しくアフリカの記憶が注ぎ込まれ続けたのだ。
しかも出身地は単一ではなかった。ダホメ系、ヨルバ系、コンゴ系、セネガンビア系が同じ農園に混在させられ、互いの神々を突き合わせざるをえなかった。
ヴォドゥが、無数の神々を国ごとに分類するという独特の構造を持つのは、この混住の歴史の直接の産物になる。
聖人という仮面
フランスの黒人法典は、奴隷にカトリックの洗礼を受けさせることを義務づけていた。アフリカ由来の儀礼は禁じられ、発覚すれば厳罰だ。
そこで生まれたのが、ロアをカトリックの聖人像に重ね合わせるという戦略になる。
門と十字路を司るパパ・レグバは、天国の鍵を持つ聖ペトロの絵に重ねられた。蛇のダンバラは、アイルランドから蛇を追い払った聖パトリックの図像に重ねられた。
傷ついた顔の黒い母エジリ・ダントーは、ポーランドのチェンストホヴァの黒い聖母に重ねられている。
頬に二本の傷を持つあのイコンが、なぜハイチの守護女神になったのか。ハイチ革命期にポーランド兵の一部が反乱側についたという史実と、彼らが携えた聖画とが結びついたという説が広く語られている。
仮面は最初こそ偽装だった。だが二百年のうちに仮面と顔は溶け合い、今では分離不可能な一体になっている。
ボワ・カイマンの夜
ハイチ史でもっとも神話化された夜が、一七九一年八月のボワ・カイマン、ワニの森の集会になる。
北部平野の森に集まった奴隷たちの前で、ジャマイカ生まれとされる指導者ドゥティ・ブークマンが演説を行った。そしてマンボであるセシル・ファティマンが黒い豚を屠って参加者にその血を飲ませ、蜂起の誓いを立てさせたと伝えられる。
この数日後、北部平野の農園が一斉に燃え上がり、十三年に及ぶハイチ革命が始まった。革命は一八〇四年、世界史上唯一の、奴隷自身の蜂起によって建国された国家を生む。
ボワ・カイマンについては、批判も強い。開催日も場所も参加者も史料によって食い違い、後世の民族主義的な再構成が多分に混じっているというものだ。
それでも、この一夜がハイチ人の自己認識の中核にあることは動かない。我々の国はヴォドゥの儀礼から生まれた。この物語は、事実性の議論を超えて機能し続けている。
教会が消えた、半世紀
革命後、フランスとの断絶によりカトリック教会はハイチから聖職者をほぼ引き揚げた。正式な関係が回復する一八六〇年の政教協約まで、およそ半世紀にわたって教会組織の空白期間が続く。
この空白こそがヴォドゥにとって決定的だった。
監視も競合もない期間に、地方ごとの実践が整理され、儀礼の順序が固まり、ウンガンとマンボという聖職者身分が社会的に定着したのだ。
国家は繰り返しヴォドゥを取り締まる法令を出したが、農村部では実効性がなかった。むしろ、都市のエリートが軽蔑し農村の民衆が支える宗教、という階級的な色分けが強化される。この構図は二十世紀を通じてハイチ政治を規定し続ける。
ボンデュとロア
ヴォドゥは一般に思われているような多神教ではなく、厳密には唯一神教的な階層構造を持つ。
頂点にいるのはボンデュ、フランス語で善き神を意味する語で、宇宙を創造した超越的存在だ。しかしボンデュは遠く、人間の些事に関わらない。
実際の交渉相手となるのがロアであり、その数は千を超えるとされる。ロアはミステール、つまり神秘とも、アンジュ、つまり天使とも、サン、つまり聖人とも呼ばれる。
この呼称の揺れ自体が、カトリック神学との折衝の痕跡になる。
信者はロアを崇拝するというより、契約する。捧げ物を怠れば加護は消え、時には病や不運という形で催促が来る。厳格な相互性の宗教なのだ。
二つの魂と、水の下のギネ
ヴォドゥの人間観も精密だ。人には二つの魂があるとされる。
ひとつはティ・ボナンジュ、小さな善き天使で、良心や個人の内的核に近い。もうひとつはグロ・ボナンジュ、大きな善き天使で、記憶と人格を担う意識体になる。
憑依が起きるとき、グロ・ボナンジュが一時的に身体から押し出され、空いた席にロアが座る。だから憑依された人は、自分が何を言い何をしたか記憶していない。
死後、グロ・ボナンジュは水の下の祖霊の国ギネへ向かう。
ギネとは地理的にはアフリカ、つまりギニアを指しつつ、同時に死者の世界そのものを指す二重の語だ。奴隷として連れてこられた人々にとって、死とはアフリカへの帰還だった。
この一点だけでも、ヴォドゥがどれほど深く歴史の傷から立ち上がった宗教かがわかる。
ナンションという「国」の分類
ロアは無秩序に並んでいるのではなく、ナンション、つまり国や民族という単位で分類される。これは元をたどれば、出身民族ごとの神々のグループ分けだ。
ラダ、ペトウォ、ンナゴ、イボ、コンゴ、コンガ、ジュバなど、伝統的には二十一の国があると語られる。だが実際の儀礼で主要な役割を果たすのは、ラダとペトウォの二大系統になる。
儀礼は原則としてラダから始まり、途中で明確な切れ目を置いてペトウォへ移る。太鼓のリズムも歌も踊りも供物も、系統が変われば全部変わる。
ひとつの儀礼の中で音楽のジャンルが切り替わるようなものだ。参加者は音を聞くだけで、今どの国の場面かがわかる。
涼しい神々と、熱い神々
ラダ系のロアはダホメとヨルバ系の記憶を色濃く残し、フレット、つまり冷たい、涼しいと形容される。穏やかで、規範的で、正しさを重んじる。
彼らの色は白と青が基調で、供物は甘い菓子、シロップ、白い鶏、香水など上品なものが好まれる。
ラダの太鼓は三つ一組だ。最大のマンマン、中のセゴン、小さなボウラが組み合わさり、ヤンヴァルーと呼ばれる波打つようなリズムを刻む。
背を丸め、上体を波のようにうねらせるヤンヴァルーの踊りは、蛇神ダンバラの動きの模倣とされる。ラダの儀礼は長く、丁寧で、どこか荘厳だ。
対してペトウォ系は、ショ、つまり熱いと形容される。
コンゴ由来の要素が強く、火薬、鞭の音、ホイッスル、唐辛子入りの強い酒が用いられる。ペトウォのロアは短気で、荒々しく、要求が厳しい。だが同時に、素早く強力に働く。
重要な注意がある。ペトウォが悪でラダが善、という単純な図式は誤りだということだ。
ペトウォは植民地の暴力に対抗するために鍛えられた神々であり、革命の火を点けたのもこの系統だとされる。熱さは邪悪さではなく、切迫した状況に対応する力の質を指している。
この区別を理解しないままペトウォは黒魔術と書いた通俗本が、二十世紀に大量に流通した。
十字路を開く、パパ・レグバ
どの儀礼も、まずパパ・レグバへの呼びかけから始まる。
彼は門と道と十字路を司り、人間界と霊界の間の扉を開閉する。彼が開かなければ、他のどのロアも降りてこられない。
杖をつき、麦わら帽子をかぶり、擦り切れた服をまとった老人の姿で現れる。ローストしたトウモロコシや根菜、煙草を好む。憑依されると足を引きずり、しゃがれた声で謎めいた言葉を吐く。
西アフリカのエシュ、あるいはレグバに直結する存在だ。だがハイチではその性的で悪戯好きな側面が薄れ、より祖父的な穏やかさが前面に出た。カトリックでは聖ペトロ、あるいは聖ラザロと重ねられる。
十字路が霊的に特別な場所だという観念は、後で述べるアメリカ南部フードゥーにも、そしてブルースの伝説にも受け継がれていく。
白い大蛇、ダンバラ・ウェド
ダンバラ・ウェドは白い大蛇の姿をとる古い神で、ヴォドゥの神々の中でも特に純粋とされる。妻はアイダ・ウェド、虹の女神だ。
ダンバラは言葉を話さない。憑依された者は床を這い、舌を出し、シューシューという音だけを発する。
供物は白い卵、白い鶏、白い米、シロップ。彼を祀る場所には水盤が置かれ、木の枝が渡される。
彼が水と泉と川に結びつくのは、ダホメの蛇神ダングベの記憶になる。カトリックでは聖パトリックの図像、つまり蛇を追い立てる聖人の絵に重ねられた。
追われる側の蛇が、その絵の中で崇拝の対象にすり替わっている。この転倒が、シンクレティズムの妙をよく表している。
二人の、まったく違う愛の女神
エジリ、あるいはエルズリーは愛の女神だ。だがハイチでは、まったく性格の異なる複数のエジリが並立する。
ラダ系のエジリ・フレダは、美と贅沢と恋愛の女神になる。ピンクと白と金を好み、香水、宝石、甘いリキュール、レースのハンカチを求める。
憑依されると鏡を覗き、化粧を直し、周囲の男たちに愛想を振りまく。そして最後には必ず泣きながら去る。この世の愛はどれも彼女の望みには足りないからだ、と説明される。カトリックでは悲しみの聖母に重ねられる。
一方ペトウォ系のエジリ・ダントーは、まったく別種の存在だ。
頬に二本の傷を持つ黒い母で、子どもを抱いている。彼女は言葉をうまく話せず、ケケケという音しか出さないとされる。革命の際に舌を切られたからだ、と伝承は語る。
女性と子どもと弱者の守護者であり、侵害された者のために苛烈に報復する。供物は黒豚、揚げ豚肉のグリオ、無濾過の強い酒だ。前述のとおり、彼女の視覚的原型はポーランドの黒い聖母になる。
優雅に泣くフレダと、傷を負って黙り込むダントー。この二人の対比の中に、ハイチの女性たちが自分たちの経験のすべてを預けてきた。
鉄と戦の神、オグ
オグ、あるいはオグーはヨルバのオグンに直結する、鉄と戦と技術の神だ。
ハイチでは赤を身にまとい、マチェーテを振り、ラム酒を火にかけて飲む荒々しい軍人として現れる。オグ・フェレイユ、オグ・バダグリ、オグ・バラニョなど多数の変異形があり、それぞれ軍人、政治家、鍛冶といった側面を担う。
ハイチ革命の記憶と分かちがたく結びついており、独立戦争の指導者たちの肖像がオグの祭壇に置かれることも珍しくない。
憑依された者は軍帽をかぶり、葉巻を咥え、居合わせた者に軍事的な口調で指示を出す。信者にとってオグは、不当な力に立ち向かうときに呼ぶべき神になる。
死者たちは、よく笑う
ゲデは厳密にはナンションではなく、族と呼ばれる死者の霊の集団だ。
頂点に立つのがバロン・サムディ。黒い燕尾服にシルクハット、鼻に綿を詰め、黒眼鏡をかけた墓地の主になる。妻はグラン・ブリジット、墓地の女主人だ。
ゲデの特徴は、その徹底した猥雑さと諧謔にある。
憑依された者は下ネタを連発し、腰を振るバンダという踊りを踊る。唐辛子を大量に漬け込んだクレラン、つまり粗製ラムを平気で飲み干し、時にはその酒を目や股間に浴びせて平然としている。地位の高い人物をからかい、権威を茶化す。
死をもっとも近くで扱う神々が、もっとも笑いを好むという逆説。生活が苦しいほどゲデはよく笑う、とハイチでは言う。
ウンフォと、宇宙の柱
ヴォドゥの寺院はウンフォと呼ばれる。
中心にあるのが屋根付きの広場ペリスティルで、その真ん中に太い柱ポト・ミタンが立つ。この柱は宇宙の軸であり、ロアが天から降り、地の底の水の国から昇ってくる通路になる。
ペリスティルの床にヴェヴェが描かれ、周囲を信者が円を描いて回る。
奥にはバジと呼ばれる祭壇室があり、各ロアに対応した供物、瓶、人形、写真、ロザリオ、聖人画が所狭しと並ぶ。
ハイチの祭壇は整然としていない。むしろ雑多で、コーラの瓶と聖母のカードと軍隊の勲章が同居している。この雑多さこそが、この宗教が二百年間なんでも取り込んで生き延びてきた証拠だ。
ウンガンとマンボ
男性司祭をウンガン、女性司祭をマンボと呼ぶ。
彼らは儀礼を司会し、占いを行い、病を癒し、争いを仲裁し、入信者を育てる。地位は世襲される場合もあれば、ロアからの直接の召命によって得られる場合もある。
最高位はアソト・アソグウェと呼ばれ、アソンを持つ資格を得る。瓢箪に蛇の骨と数珠玉を巻きつけた、聖なるガラガラだ。アソンを振る音は、ロアに対する正式な呼び出し信号になる。
ヴォドゥには中央教会も教皇もなく、権威はウンフォごとに独立している。だから、ハイチのヴォドゥの公式見解というものは存在しない。地域差と系統差が、そのまま並立し続ける構造なのだ。
ヴォドゥには、ウンガンやマンボとは別に、ボコと呼ばれる術者もいる。
ボコは両手で働くと表現され、依頼に応じて助けにも害にも力を使うとされる。ハイチ社会でボコは恐れられ、同時に必要ともされてきた。
ただし外部の書き手はこのボコの存在を過剰に拡大解釈し、ヴォドゥはボコの黒魔術だという誤った等式を広めた。実際にはウンフォに集う大多数の信者にとって、ボコの世界は日常ではない。
ここではその領域の具体的手順を一切扱わない。民俗誌として記述すべきは、なぜ社会がそういう役割を必要とし、同時に恐れてきたのかという構造の方だ。
カンゾという、入信の階梯
ヴォドゥの入信は段階的になる。最初の大きな段階がカンゾで、時間も費用も相当にかかる。
志願者は歌とロアの属性を暗記し、特別に調合された薬草の湯で身を清める。そしてジェヴォと呼ばれる閉ざされた小部屋に、数日間籠もる。
籠もりの間に頭を洗うラヴ・テットが行われ、ロアが宿るべき場所として頭が整えられる。頭髪や爪の一部を封じたポ・テット、つまり頭の壺が作られ、ウンフォの祭壇に安置される。
この壺は本人の霊的な分身であり、生涯にわたり管理される。段階は通常四つあり、最上位が司祭資格に相当する。
この徒弟制的な構造が、ヴォドゥを単なる民間信仰ではなく、制度化された宗教たらしめている。
床に描かれ、踏み消される図形
ヴォドゥの視覚的シンボルとして最もよく知られるのがヴェヴェだ。
儀礼の前、司祭はトウモロコシ粉、木灰、小麦粉、煉瓦の粉などを指先から細く落として、床に幾何学的な紋様を描く。この紋様はロアごとに固有で、その神の署名であり、同時に降臨のための標識灯になる。
レグバのヴェヴェには杖と十字路が組み込まれる。ダンバラのヴェヴェには絡み合う二匹の蛇が描かれ、エジリのヴェヴェにはハートが、バロン・サムディのヴェヴェには十字架と棺が現れる。
中心の交差点に供物が置かれ、そこにロアが座ると考えられる。起源はコンゴ・コスモグラムか、あるいは西アフリカのニシビディ文字体系にあるとされる。
線描は儀礼の進行とともに踏み荒らされ、消えていく。消えることまで含めて、この図像は完成する。
ビーズとスパンコールの旗
ウンフォにはドラポと呼ばれる儀礼旗がある。
ビロードの布地に数千から数万のビーズとスパンコールを縫い付け、ロアのヴェヴェや対応する聖人像を描き出した豪奢な工芸品だ。
儀礼の開始時、旗持ちの女性たちが二本の旗を交差させて掲げ、剣を持つ者を先頭に入場する。この所作は軍隊の儀仗に由来するとされ、フリーメイソンの儀礼形式の影響も指摘される。
近年ドラポは現代アートとして国際的な評価を得ており、ニューヨークやパリの画廊で高値がつく。
宗教具が美術品として市場に出るとき、そこには常に微妙な緊張が走る。作り手の多くは信仰の内側にいて、外側の市場に売っているからだ。
「馬」に乗る神
ヴォドゥの中核体験は憑依になる。ロアが人に降りることを馬に乗ると表現し、憑依された人はシュヴァル、つまり馬と呼ばれる。
太鼓が特定のリズムを刻み、歌が繰り返され、踊りが持続すると、誰かの動きが突然変わる。膝が折れ、体が痙攣し、次の瞬間には別人の姿勢と声になる。
周囲の者はすぐにどのロアが来たかを見分け、そのロアが好む衣装、帽子、杖、飲み物を差し出す。ロアは集まった人々に語りかけ、警告を与え、病人に処方を告げ、時に叱責する。憑依が終わると本人は崩れ落ち、何も覚えていない。
これを演技だと切り捨てる立場、解離現象として説明する立場、文化的に学習された身体技法とみなす立場がある。
だが現場で肝心なのは、別のことだ。その場にいる全員が、今ここに神が来ているという前提を共有し、その前提の上で共同体の問題が実際に処理される。その社会的事実の方になる。
十一月、墓地が紫と黒に染まる
毎年十一月一日と二日、ハイチ全土の墓地が紫と黒に染まる。フェット・ゲデ、死者の祭りだ。
ポルトープランスの大墓地には数万人が集まる。顔に白い粉を塗り、黒眼鏡をかけ、シルクハットをかぶった人々が、唐辛子入りのクレランを回し飲みしながら歩く。
墓地の入口にはバロン・サムディの十字架があり、そこに蝋燭が立てられ、コーヒーと焼きトウモロコシが供えられる。
カトリックの諸聖人の日と死者の日に完全に重なるが、雰囲気はまったく違う。泣くのではなく、笑い、踊り、卑猥な歌を歌う。
ハイチの人々にとって、死者は遠ざけるべき存在ではなく、参加させるべき隣人なのだ。近年は治安の悪化や政情不安で規模が縮小した年もあるが、それでも祭りは途切れていない。
ハイチのヴォドゥには年間の巡礼暦もある。
復活祭の直後、ゴナイーヴ近郊のソヴナンスでは数日間にわたる大規模な儀礼が行われる。ダホメ系の古い形式が保存されているとされる場だ。
七月十六日前後には、カルメル山の聖母の祝日に合わせて、ソ・ドー、つまり水の跳躍の滝に数万の巡礼者が集まる。人々は滝壺で衣服を脱ぎ捨て、水を浴び、エジリの加護を求める。
同じ七月下旬、北部のプレーヌ・デュ・ノールでは聖ヤコブの祝日に合わせてオグの祭りが行われ、参加者は泥の池に身を浸す。
これらの祭礼はすべてカトリックの祝日と重なっている。教会の暦の上にヴォドゥの暦が完全に重ね書きされているのだ。教会側は長らくこれを苦々しく見てきたが、実質的に分離は不可能になっている。
ゾンビという語は、ここから出た
世界中のホラー映画を支配しているゾンビという語は、ハイチから出た。
語源としてはコンゴ語のンザンビ、つまり神や霊、あるいはンヴンビ、つまり死体や霊が挙げられ、いずれも中央アフリカ由来になる。
ハイチにおけるゾンビ観念は、映画のそれとはかなり違う。伝統的には二種類が語られる。
ひとつは瓶や壺に封じられた魂そのもの、ゾンビ・アストラル。もうひとつは魂を抜かれ意志を失った身体、ゾンビ・コダーヴルだ。後者が労働力として使役されるという話が、恐怖の中核をなす。
ここで見落とされがちな点がある。ハイチ人が恐れているのは、ゾンビに襲われることではない。自分がゾンビにされることなのだ。
奴隷制を経験し、その記憶が国家の根本にある社会において、意志を奪われて無償で働かされ続けるという想像は、他のどんな恐怖より生々しい。ゾンビとは、奴隷制のトラウマが結晶した文化的形象になる。
クレルヴィウス・ナルシスの事件
ゾンビをめぐる議論の中心にある実例が、クレルヴィウス・ナルシスの事例だ。
一九六二年、彼は発熱と喀血を訴えて中部の病院に入院し、数日後に死亡と診断され、埋葬された。
ところが一九八〇年、村の市場に現れた男が自らをナルシスと名乗り、姉のアンジェリーナに幼少期の細部を告げて周囲を驚かせる。
彼の語るところでは、意識があるまま死亡宣告を受け、埋葬され、掘り起こされたという。そしてある術者に何かのペーストを与えられて意志を奪われ、農園で働かされていた。術者が死んで投薬が止まり、正気を取り戻したと彼は語った。
この事例は精神科医らの調査対象となり、後にカナダの民族植物学者ウェイド・デイヴィスが現地調査を行って有名になる。
テトロドトキシン説と、その批判
デイヴィスは一九八五年の著書で、ゾンビ化には粉末が用いられると主張した。
その主成分はフグ毒テトロドトキシンとヒキガエル由来の毒素であり、これが仮死状態を作る。その後は幻覚性植物によって従属状態が維持される。そういう仮説だ。
この説はベストセラーとなり、一九八八年には同名のホラー映画にもなった。しかし学術的な評価は厳しい。
毒物学者らは複数の点を指摘している。押収された粉末サンプルからテトロドトキシンが検出されなかったこと。検出されたとしても量が薬理学的に不十分だったこと。
そして、仮死状態から目覚めて従順な労働者になるという薬理プロファイル自体が、テトロドトキシンの作用と整合しないこと。ある研究者はこれを端的に、悪い科学と切って捨てている。
現在の主流の見方はこうだ。ナルシスの事例を含むゾンビ報告の多くが、誤診、精神疾患、栄養失調、身元の取り違え、社会的追放者の再出現などの複合として説明可能だ、というもの。
ただし、ゾンビ化は文化的に実在する社会的制裁であるという理解は、なお有力になる。共同体が誰かを社会的に抹殺する手続きとして機能してきた、という読み方だ。
占領と、ゾンビ映画の誕生
ゾンビが世界商品になった経路は、明確に追跡できる。
アメリカ合衆国は一九一五年から一九三四年までハイチを軍事占領した。この間、多数の米兵、記者、冒険家が島に入り、帰国後に見聞録を書いている。
決定的だったのは、一九二九年に出版されたウィリアム・シーブルックの魔法の島だ。彼はこの本でゾンビについて、うつろな目をした働く死者として書き、アメリカ読者に強烈な印象を与えた。
三年後の一九三二年、ベラ・ルゴシ主演の映画恐怖城が公開される。白人女性がハイチで意志を奪われるという筋立てで、ゾンビは映画的形象として定着した。
この時期のゾンビ像には、占領する側の後ろめたさと人種的恐怖がそのまま塗り込められている。
後年ジョージ・ロメロが人肉を食う群衆としてのゾンビを発明したことで、元の文脈は忘れ去られた。だが語と概念の出発点がカリブ海の占領地にあったことは動かない。
一九四一年、太鼓が焼かれた
ハイチ史におけるヴォドゥ弾圧の頂点が、一九四一年から翌年にかけての反迷信キャンペーン、通称レジェテ、つまり放棄になる。
カトリック聖職者が主導し、当時のエリー・レスコ大統領政権が後押しした。農村部を巡回して信者に迷信を捨てる誓いを立てさせ、拒めば秘跡を拒否したのだ。
数多くのウンフォが破壊され、太鼓が焼かれ、祭壇の器物が叩き壊された。聖なる木が切り倒された地域もある。
背景には、アメリカの農業政策に伴う農地の再編と、都市ブルジョワジーの近代化志向があったと指摘される。
皮肉なことに、この時期には破壊と学術的正当化が同時進行していた。同じく一九四一年に設立された民族学研究所が、ヴォドゥを体系的な思想として研究していたのだ。
キャンペーンは各地の激しい抵抗と、一部の死傷事件を経て失速する。信者たちは器物を隠し、儀礼を夜と山中に移し、そして数年後には元通りに再開した。
独裁者が纏った、バロン・サムディ
一九五七年に大統領となり、後に終身大統領を宣言したフランソワ・デュヴァリエ、通称パパ・ドクは、ヴォドゥの図像を統治技術として使った。
彼は黒い背広に黒縁眼鏡という、バロン・サムディを連想させる装いを意図的に纏い、自らを霊的な力を持つ存在として演出する。
私兵組織トントン・マクートの名は、ハイチの子ども向け説話に出てくる、袋を担いだ叔父さん、つまり子どもをさらう妖怪に由来する。恐怖政治の道具として、民間信仰の語彙を動員したわけだ。
この時期に世界のメディアはヴードゥーの独裁者という見出しを量産し、ハイチの宗教と暴力を短絡させるイメージを決定的に固定した。
実際には多くのウンガンやマンボが政権に利用され、あるいは弾圧され、共同体の内側では深い分断が生じている。政治が宗教を纏うとき、割を食うのは常に現場の信者だ。
二〇〇三年の、公認
一九八七年の憲法は信教の自由を明記し、二〇〇三年にはヴォドゥを正式な宗教として認める大統領令が出された。
これによりウンガンやマンボは婚姻を法的に執り行う資格を得るなど、公的な地位が整備される。長い間迷信として扱われてきた実践が、国家の法的枠組みに組み込まれた歴史的な転回だ。
もっとも、事態は単純な勝利ではない。プロテスタント系の福音派教会がハイチで急速に拡大しており、彼らはヴォドゥを悪魔的なものとして明確に否定する。
二〇一〇年の大地震の後には、一部の外国人説教者が問題発言をして国際的な非難を浴びた。ハイチの災厄はボワ・カイマンの悪魔との契約の結果だ、というものだ。
二百年前の建国神話が、二十一世紀の災害の説明に持ち出されるという事態そのものが、この宗教に貼られたレッテルの粘着力を示している。
コンゴ・スクエアで打たれた太鼓
ここから舞台は北アメリカに移る。
フランス領ルイジアナには一七一九年から本格的に奴隷が導入され、初期にはセネガンビア地方のバンバラ系が、後にコンゴ系が多くを占めた。
フランス、次いでスペインの支配下で、この地には規定が存在した。日曜は奴隷を働かせてはならない、というものだ。
ニューオーリンズでは、日曜になると黒人たちが街の北の広場に集まり、太鼓を叩き、輪になって踊り、物を売り買いした。この場所が後にコンゴ・スクエアと呼ばれる。
ここで打たれたリズムがジャズの遠い母胎になったことはよく知られる。だが同時に、ここは信仰の場でもあった。
一八〇九年前後、ハイチ革命を逃れた人々がキューバ経由で大挙してニューオーリンズに流入し、ロアの神学と儀礼形式がこの土地に接ぎ木される。ルイジアナ・ヴードゥーの成立だ。
ルイジアナの、独自の姿
ルイジアナのそれはハイチのヴォドゥとは同じではない。
ナンションの体系的な分類は定着せず、司祭階層も緩やかだった。代わりに、個々の霊能者の個人的な力量が前面に出る。
カトリックの聖人崇敬との融合はさらに深く、聖アントニウス、聖エクスペディトゥス、聖ロクスといった聖人が実践の中心に据えられた。
グリグリと呼ばれる護符の使用が特徴的で、この語の記録はすでに一七五〇年代のルイジアナの記録に現れる。生きた蛇を儀礼に用いたこと、そして何より女性が指導的立場を占めたことが際立っている。
自由黒人女性たちが、ヴードゥーの女王として都市の霊的経済を担った。当時のアメリカ社会において、黒人女性が公然と権威を持てる場は、他にほとんどなかったのだ。
マリー・ラヴォーの生涯
ニューオーリンズのヴードゥーを語るとき、避けて通れないのがマリー・ラヴォーになる。
一八〇一年、フレンチ・クォーターに自由有色人種の女性として生まれた。一八一九年にハイチからの移民と結婚したが夫は程なく消息を絶ち、その後クリストフ・グラピオンとの間に長く連れ添っている。
彼女は美容師として働き、裕福な白人家庭を出入りしながら、そこで交わされる私事の細部を集めた。この情報網が、彼女の見通す力の少なくとも一部を構成していたと考えられている。
セント・アン通りの自宅で相談を受け、コンゴ・スクエアやポンチャートレイン湖畔で儀礼を執り行った。家庭内の紛争、健康、金銭、訴訟といった生活の問題に応じたのだ。
マリー・ラヴォーの評価を難しくしているのは、彼女が呪術師であると同時に、明確に慈善家であった点になる。
黄熱病の流行時には病人の看護に当たり、死刑囚の独房を訪ねて祈りを捧げ、恩赦や減刑を働きかけたと伝えられる。敬虔なカトリック信者として教会に通い続けた記録も残っている。
彼女の中では、ロザリオを繰ることと薬草を煎じることと霊に呼びかけることが、何ひとつ矛盾していなかった。この統合性こそが、ニューオーリンズの霊性の本質だ。
一八七四年の聖ヨハネ祭前夜、ポンチャートレイン湖畔で行われた儀礼には、一万人を超える見物人が集まったと当時の新聞は報じている。もはや個人の儀礼ではなく、都市の年中行事だった。
伝説が、増殖する
彼女には同名の娘がいたとされ、母の死後もヴードゥーの女王として活動し、より演劇的で見世物的な催しを行ったと語られる。
母娘の活動が混同されたことで、伝説が生まれた。マリー・ラヴォーは年を取らなかった、何十年も若い姿のままだった、というものだ。
彼女は一八八一年六月に没した。同時代の肖像とされる絵は複数存在するが、生前に描かれた確実な肖像は一枚もない。
つまり我々がマリー・ラヴォーの顔として見ているものは、すべて後世の想像になる。伝説とは、確実な記録が薄いところでこそ最も濃く育つ。
墓に書かれた、三本線
彼女が葬られたとされるのは、セント・ルイス墓地一番にあるグラピオン家の墓だ。
二十世紀後半から、この墓には願いを叶えるための儀式が観光客の間で流行した。三本の印を書き、三回回り、願いを唱え、叶ったらお礼に来る、というものになる。
墓は赤いレンガ色のチョークで埋め尽くされ、供物のマルディグラのビーズや酒瓶が積み上がった。
だがこの作法は伝統的なヴードゥーの実践ではない。二十世紀に観光の中から生まれた、新しい習慣だ。
二〇一三年には何者かがピンク色のラテックス塗料で墓全体を塗りつぶすという事件が起き、修復のために多額の費用がかかった。現在、この墓地は許可を得たガイド同行でなければ立ち入れない。
信仰の場が観光地になり、観光地が破壊され、規制で閉じられる。典型的な経路をたどっているわけだ。
女王たちの陰に隠れがちだが、男性の施術者も重要な役割を果たした。
中でもジャン・モンタネ、通称ドクター・ジョンは、セネガル出身と自称し、キューバで奴隷として働いた後にニューオーリンズに現れ、占いと薬と護符で財を成した。彼は複数の家と多数の使用人を抱え、街の名士として振る舞っている。
彼の弟子筋にあたる人物から、マリー・ラヴォーが技術を学んだという説もある。彼の名は二十世紀の音楽家にも受け継がれ、ニューオーリンズのピアニストが芸名として名乗ったことで、伝説はさらに広い層に届いた。
フードゥーは、宗教ではなく技術だ
ここで用語の整理が必要になる。フードゥーは、しばしばヴードゥーと混同されるが、まったく別のものだ。
フードゥーはアメリカ南部の黒人共同体が発達させた民間呪術の体系であり、神々の万神殿も、司祭階層も、入信儀礼も持たない。
実践者はルートワーカー、コンジャー・ドクター、ツーヘッド・ドクターなどと呼ばれ、彼らの多くは自らを敬虔なキリスト教徒だと考えている。聖書の詩篇を呪文として唱え、教会に通いながら護符を作るのだ。
宗教ではなく技術であるがゆえに、既存の信仰と競合せず併存できた。この、宗教と抵触しない実用性こそが、フードゥーが北米で生き延びた最大の理由になる。
モジョと、粉と、根
フードゥーの中心的な道具がモジョ・バッグだ。
布か革の小袋に、薬草、根、鉱物、金属、聖書の断片、本人の身体の一部などを詰め、目的に応じて組み合わせる。
モジョという語はキコンゴ語で魂や生命力を意味する語に由来し、コンゴのンキシ、つまり霊を宿す容器の直系になる。袋は定期的にウイスキーや香油で食べさせなければ、力を失うとされる。
もうひとつ有名なのがグーファー・ダストで、これは死ぬを意味するキコンゴ語に由来する語だ。害を及ぼす用途で語られることが多いが、ここでは調合や使用の手順を一切記さない。
肝心なのは、これらが奴隷制下において、公然と抵抗できない人々の唯一の効く手段として機能したという歴史的意味の方になる。
監督者の暴力から身を守るために袋を縫った人々がいた。その事実の重みが、成分表よりはるかに大きい。
ブルースの中の、呪術の語彙
フードゥーの薬草の中で最も有名なのが、ハイ・ジョン・ザ・コンカラー・ルートだ。
ヒルガオ科の植物の塊根で、幸運と男性的な力の象徴とされ、しばしばポケットに入れて携帯された。
この根の名は、決して屈しなかった伝説の奴隷ジョンに由来するとされる。彼は主人を機知で出し抜き続け、決して捕まらなかった。ゾラ・ニール・ハーストンはこのジョンを、黒人の希望の骨と表現している。
そしてこの語彙は、二十世紀のブルースに大量に流れ込む。
マディ・ウォーターズが一九五四年に録音したフーチー・クーチー・マンには、ジョン・ザ・コンカラーの根も、黒猫の骨も、モジョも登場する。
ロバート・ジョンソンが十字路で悪魔と契約したという伝説も、パパ・レグバの十字路信仰の残響として理解できる。アメリカのポピュラー音楽の一部は、フードゥーの語彙で歌詞を書いているわけだ。
一万三千件を集めた男
フードゥー研究の巨大な基盤が、聖公会司祭ハリー・ミドルトン・ハイアットの調査になる。
彼は一九三六年から一九四〇年にかけて南部十二州を巡り、およそ千六百人の話者から聞き取りを行った。録音にはエジソンのシリンダーと当時の口述録音機が使われ、機材が不調のときは手書きで記録している。
成果は一九七〇年から一九七八年にかけて自費で刊行された。五巻四千七百六十六ページ、収録された呪法と信仰の項目は一万三千四百五十八件に及ぶ。
これは単一の文化集団から採取された民俗資料として、アメリカ最大の集積だ。現在の実践者の多くが、失われた技法を復元する際にこの五巻を参照している。
皮肉なことに、白人聖職者が学術的関心から集めた記録が、黒人共同体の伝統復興の主要な資料になっているのだ。
もう一人の決定的な記録者が、人類学者にして作家のゾラ・ニール・ハーストンになる。
彼女は一九二〇年代後半からフロリダとルイジアナで調査を行い、一九三五年のラバと人間でその成果を発表した。
彼女の特異な点は、観察者にとどまらなかったことにある。自ら複数の施術者に弟子入りし、入信の過程を通過したのだ。ニューオーリンズのアルジェ地区で師についた際の記述は、外部の観察では決して到達できない細部を含む。
彼女は後にハイチとジャマイカで調査を行い、一九三八年の我が馬に告げよを書いた。ハイチのゾンビとされる女性を撮影した写真は、当時大きな話題を呼んでいる。
ハーストンの仕事は、黒人女性研究者が自らの文化を内側から書くという、当時としては極めて例外的な達成だった。
針を刺す人形は、どこから来たか
そしてここで、最大の誤解に正面から取り組まなければならない。針を刺す人形は、ヴォドゥの伝統ではない。
ハイチのヴォドゥにおいて人形が使われる場合、その用途はまったく異なる。墓地の十字架に括りつけられた人形は、死者への伝言を託すための郵便物として機能する。他人を害する目的の身代わり人形は、この宗教の主要な実践ではない。
では、あの人形はどこから来たのか。
人型に見立てて呪う技法自体は、ヨーロッパに古くから存在した。中世から近世のイングランドやフランスには、蝋や布で作ったポペットに針を刺す民間呪術の記録があり、魔女裁判の証拠として繰り返し登場する。
西アフリカにも、中央アフリカにも、人型に霊力を宿す観念はある。だがそれは呪う道具というより、霊の器に近い。
二十世紀のアメリカで、これらの断片が観光土産とホラー映画の中で混ぜ合わされた。そしてアフリカ由来の恐ろしい呪いの人形という商品が発明されたのだ。
つまりヴードゥー人形とは、ヨーロッパの呪術技法にアフリカ系宗教の名前を貼り付けた、二十世紀の合成品になる。
この発明が受け入れられた理由は、当時のアメリカ社会の需要を見ればわかる。
ハイチ占領期、アメリカは自国が軍事支配している国について、支配されて当然の野蛮な国という説明を必要としていた。同時に南部では、黒人の霊的伝統を危険で不気味なものとして描くことが、社会秩序の維持に都合よく機能する。
ヴードゥー人形は、この二つの需要を同時に満たす完璧な小道具だった。小さく、視覚的で、説明不要で、誰でも一目で怖いとわかる。そして何より、それを持つ側を合理的な文明人の位置に立たせてくれる。
以後この人形は映画、漫画、ゲーム、広告に無限に複製され、実在の宗教を覆い隠す厚い層になった。日本でブードゥーと聞いて多くの人が思い浮かべる画像も、この層の一部だ。
太鼓が変わった夜
商社勤めで中米とカリブ地域を担当していたという四十代の男性は、二〇一〇年代半ばに業務でハイチに滞在した。現地スタッフの家族の招きで、ウンフォの儀礼に立ち会った経験を語る。
正直に言うと、最初は完全に観光気分だったという。断ったら失礼だから行った、くらいの気持ちだった。
着いたのは日が落ちてからで、屋根だけあって壁のない広場に、太い柱が一本立っている。その柱の周りの地面に、白い粉で細かい模様が描いてあった。
誰かが指先から粉を落として描いていくのだが、フリーハンドなのに線が定規で引いたみたいに真っ直ぐで、左右対称。これは相当訓練しないと無理だなと思ったという。
太鼓が三つ、大きさ違いで並んでいる。最初のうちはゆったりした、正直ちょっと眠くなるようなリズムだった。歌もフランス語混じりのクレオール語で、意味はわからないけど賛美歌みたいに聞こえる。人が輪になってゆっくり回る。盆踊りみたいなものだな、と思っていた。
変わったのは二時間くらい経ってからだ。
司祭らしき男性がガラガラを振って、太鼓のリズムが切り替わった。それまでの波打つような感じから、鞭を打つみたいな鋭い刻みになる。空気の温度が変わったとしか言いようがない。
それから十分もしないうちに、輪の中にいた五十代くらいの女性が突然、膝から崩れ落ちた。周りが慌てて支えるかと思ったら、誰も驚かない。
むしろ待っていたみたいに、二、三人がすっと寄って、シルクハットみたいな黒い帽子と、黒いサングラスと、杖を持ってきた。
その女性が立ち上がったときには、もう別人だったという。声が完全に男の声で、しゃがれていて、歩き方も腰を落とした爺さんの歩き方になっている。しかも喋る内容が下ネタらしくて、周りが爆笑している。
自分にも何か言ってきて、通訳してくれた同僚が真っ赤になって訳せませんと言ったので、まあそういう内容だったんだろう、と彼は言う。
怖くはなかった。むしろ場が明るかった。ただ一点だけ、今でも引っかかっていることがある。
その女性が、一升瓶みたいな瓶に赤唐辛子がびっしり詰まった酒を、コップに注いで一気に三杯飲んだ。それから残りを自分の顔にぶちまけた。目にも入っている。普通なら悶絶するはずなのに、笑っている。
翌日、その人が普通におばさんとして市場で野菜を売っているのを見たとき、背筋がすっと冷たくなったという。演技だとしたら、あの唐辛子はどう説明するんだと。今も答えは出ていない。
消えない三本線
学生時代にニューオーリンズを一人旅したという三十代女性の話は、観光と信仰の境目の居心地の悪さをよく伝えている。
ガイドブックに、マリー・ラヴォーのお墓で願い事をすると叶う、と書いてあった。三本の印を書いて、三回回って、願い事をして、叶ったらお礼に来る。今思えば軽率だったが、当時は完全にパワースポット感覚だったという。
実際に行ったら、墓が赤茶けたチョークだらけだった。下にビーズのネックレスとか、口紅とか、小さいラム酒の瓶とか、造花とかが山積みになっていて、正直ちょっと異様に見える。
自分も持っていたペンで書こうとしたら、たまたま近くにいた地元の年配の女性に、静かに止められた。
怒鳴られたわけじゃなくて、本当に静かに、それはあなたの習慣ではないでしょう、みたいなことを言われた。英語がゆっくりで、はっきり覚えているという。それから、お墓に頼み事をするなら、まず自分の家のお墓に行きなさい、と言われた。
その言葉が刺さって、結局書かずに帰ったという。
ホテルに戻ってから調べて、あの三本線の作法自体が二十世紀にできた観光の習慣で、伝統的なものではないと知った。恥ずかしいというより、なんというか、足元がぐらついた感じだったという。
現地の伝統を体験しているつもりで、実際には観光客が作った習慣を観光客として再生産していたわけだ。
ただ、その旅で一番印象に残ったのは、その後に入った小さな店だったという。
表向きはお香とキャンドルの店で、奥に祭壇があった。聖母マリアの絵と、鏡と、コインと、明らかにカトリックじゃない何かが並んでいる。店番の女性は普通に世間話をしていて、日曜には教会に行くと言っていた。
呪術と信仰が同じ棚に並んでいるのが、まったく矛盾に見えていない。あの光景の方が、墓の三本線よりずっと本物だったと今は思う、と彼女は語る。
地下室で聞いた、診断
ニューヨークで長く働いていた五十代男性は、ハイチ系移民の同僚に連れられて、住宅街の地下にあるウンフォを訪ねたときのことを語る。
同僚が体調を崩して、病院に行っても原因不明だと言われた。それで、家のやつに診てもらう、と言い出したという。正直、医者に行けよと思った。
でも本人が、病院にも行っている、両方やる、と言うので、じゃあ付き合うと。
場所は普通のブラウンストーンの半地下だった。看板も何もない。中に入ると、部屋の一角が全部祭壇で、蝋燭が何十本も立っている。聖人の絵と、瓶に入った液体と、ビーズの旗と、なぜか軍隊の記章みたいなものが並んでいた。壁際に太鼓が三つ立てかけてある。
司祭は六十代くらいの女性で、驚くほど事務的だったという。神秘的な雰囲気は一切ない。
同僚の名前と生まれた月を聞いて、トランプみたいなカードを並べて、それからカードを見ながら質問を続ける。仕事のこと、家族のこと、最近誰かと揉めなかったか、去年の何月に何があったか。刑事の取り調べみたいな精度になる。
三十分くらいして、彼女が言ったのは、あなたの家の先祖のうち一人が放置されている、名前が呼ばれていない、ということだった。
具体的に、母方の祖父の兄弟に、若くして亡くなって誰も墓参りをしていない人がいないか、と聞いた。同僚が電話でお母さんに確認したら、本当にいたという。ハイチにいた頃に亡くなった大叔父で、家族の誰も墓の場所を知らない。
そこから先の処方は、思っていたよりずっと地味だった。
白い皿に水を入れて窓辺に置き、コーヒーを毎朝一杯供え、その人の名前を声に出して呼ぶ。それだけ。何万円もかかる儀礼を勧められると身構えていたので、拍子抜けしたという。彼女ははっきりと、病院はやめるな、薬は飲め、と言っていた。
二か月後、同僚の体調は良くなった。薬が効いたのか、名前を呼んだのが効いたのか、あるいは会社の人事異動でストレス源がなくなったのが効いたのか、わからない。
ただ、あの司祭の名前が呼ばれていないという言い方だけは、今でもときどき思い出すという。人が本当に消えるのは、呼ばれなくなったときなんだな、と。
掲示板と、愛好家界隈の反応
日本語圏のオカルト掲示板やSNSで、この題材は独特の位置を占めている。
まず圧倒的多数を占めるのが、ヴードゥーは人形で呪いだ、という前提で書かれた投稿になる。
人形の作り方を尋ねるスレッドが定期的に立ち、そのたびに詳しい者が、それはヨーロッパのポペットでハイチのヴォドゥとは無関係だ、と訂正し、議論が伸びる。この同じサイクルが十年以上繰り返されている。
次に多いのが、ゾンビ映画の起源をたどる文脈からの流入だ。ここでは比較的正確な情報が共有される傾向がある。
テトロドトキシン説をめぐる議論は、その真偽以上に、なぜこの説がこれほど魅力的に見えたかという点で盛り上がる。科学で説明できる呪術という枠組みが、オカルト愛好家にとっても懐疑論者にとっても、心地よい落としどころだったからだ。
海外の実践者コミュニティでは、まったく別の争点が立っている。
ハイチ系やアフリカ系アメリカ人の実践者が繰り返し表明してきたのは、祖先の宗教が他人の趣味の素材として消費されているという不満になる。
特にフードゥーについては、これは閉じた実践か開かれた実践か、という論争が長く続いている。祖先崇敬を核とする以上、その祖先を持たない者が同じことをできるのかという問いは、原理的に簡単には解けない。
一方で、ハイチのヴォドゥ側からは、正式な入信を経れば出自を問わないという立場も表明されており、実際に外国出身のマンボやウンガンも存在する。この二つの態度の違いは、宗教と技術という前述の構造の違いから来ている。
もう一つ、界隈で定期的に燃えるのが観光と商品化の問題だ。ニューオーリンズのヴードゥー土産物店の多くは、実際の宗教的実践とほとんど関係のない商品を売っている。
それを文化の破壊と批判する声と、それでも黒人経営の店が街の経済を回しているという反論が交錯する。この対立に単純な正解はない。
検証済みの論点を、整理する
この題材について、押さえておくべき検証済みの論点を整理しておく。
第一に、ヴードゥー人形の起源がヨーロッパの民間呪術にあり、ハイチのヴォドゥの主要な実践ではないという点。これは民俗学的にほぼ確定している。
第二に、ゾンビ粉のテトロドトキシン説は、複数の毒物学者によって否定的な検証結果が出ており、現在は仮説として支持されていない。
第三に、ボワ・カイマンの儀礼については、開催の日付、場所、参加者、内容のすべてに史料上の異同がある。少なくとも現在語られている形は、十九世紀以降の再構成を多分に含む。
第四に、マリー・ラヴォーについては、生没年、活動内容、母娘の区別、埋葬場所のいずれにも異説があり、確実な肖像は存在しない。
第五に、フードゥーとヴードゥーの混同は、二十世紀初頭の英語圏の出版物によって拡大した用語上の事故であり、両者は構造も歴史も異なる。
逆に、確度が高いのはこれらになる。
ハイチのヴォドゥは千を超えるロアの体系を持つ組織宗教であり、司祭階層と入信儀礼と地域ごとの伝承体系を備えている。
憑依は制度化された儀礼技法として反復可能な形で生じ、共同体の紛争処理と医療的判断の一部を実際に担ってきた。ヴェヴェは高度に規格化された図像体系だ。
フードゥーは奴隷制下の抵抗の技術として機能し、その語彙はアメリカのポピュラー音楽の骨格の一部になった。
なぜ、これほど怖がられたのか
この一連の誤解がなぜ生まれ、なぜここまで広まったのかを分析しておきたい。
第一の理由は、恐怖が政治的に有用だったからだ。
西半球で唯一、奴隷が自力で独立を勝ち取った国が存在するという事実は、周囲の奴隷制国家にとって受け入れがたい脅威だった。だからハイチは呪いの島でなければならなかった。あの独立は理性や勇気の産物ではなく、悪魔的な何かの結果だ。そういう説明が必要とされたのだ。
第二の理由は、憑依という現象そのものの視覚的な強度になる。
人が突然別人になる光景は、それを説明する枠組みを持たない観察者にとって圧倒的に不気味だ。しかもヴォドゥの憑依は、静かな瞑想ではなく、太鼓と踊りと大量の酒を伴う激しいものになる。カメラを持った外国人が撮って帰るには、これ以上ない素材だった。
第三の理由は、動物供犠だ。
鶏や山羊を屠って捧げる行為は、食肉を工場で処理する社会から見れば残酷に映る。だが同じ人々が、屠殺の現場を見ないまま鶏肉を毎日食べている。この非対称性が、しばしば野蛮という判定に化ける。
第四の理由は、商業的な複製の速度になる。恐怖は売れる。売れるものは複製される。複製されたものは事実として通用する。
一九三〇年代のパルプ雑誌から二〇二〇年代のスマートフォンゲームまで、この回路は一度も止まったことがない。
医療と法と、生活の話
この題材を扱う上で、明確にしておくべきことがある。
ここに書いたのは宗教史と民俗誌の記述であり、いかなる意味でも他者を害する術の手引きではない。この種の伝統の中で、他者に危害を加える目的の実践については、その具体的な手順を記述しない方針をとっている。
また、ヴォドゥにもフードゥーにも豊かな薬草知識が蓄積されているが、それは現代医療の代替にはならない。
前掲の体験談に出てきた司祭が、病院はやめるな、薬は飲め、と明言したことは、実は現地の実践者の一般的な態度に近い。ハイチの多くのウンガンやマンボは、自分たちの領分と医師の領分を区別している。
健康、法律上の紛争、金銭や投資の判断については、必ず資格を持つ専門家に相談してほしい。占いや儀礼をその代わりにしてはならない。これは信仰を否定するための注意ではなく、信仰を長く健全に保つための前提になる。
さらに、実際に危険なのは霊ではなく、人だ。
霊能を名乗る者が過大な料金を請求する、不安を煽って追加の儀礼を重ねさせる、家族関係に介入して孤立させる。そういった被害は世界中で報告されている。
恐怖を作り出し、その恐怖を解除する代金を取る構造は、あらゆる文化に存在する。伝統そのものと、伝統を看板にした搾取は、はっきり分けて考える必要がある。
大聖堂の形と、ポケットの中の袋の形
最後に、この二つの体系を並べて眺めたときにだけ見えてくるものを、書き残しておきたい。
まず確認すべきは、この二つが同じものの濃淡ではないということだ。異なる歴史的条件が生んだ、異なる解の形をしている。
ハイチでは、革命によって独立が達成され、その後およそ半世紀にわたってカトリック教会の組織が不在だった。この空白期間に、ヴォドゥは隠れる必要がなくなり、公然と体系化された。
ナンションによる神々の分類、四段階の入信階梯、ウンフォという物理的施設、アソンという司祭の徽章。これらはすべて、堂々と組織を作れる期間があったからこそ成立した。
宗教が宗教の形をとるためには、その形を作れる時間と空間が要る。ハイチには、暴力的な代償と引き換えに、それがあったわけだ。
対してアメリカ南部には、それがなかった。
奴隷制は南北戦争まで続き、その後もジム・クロウ体制が黒人の集会と組織化を厳しく制限し続ける。黒人が公然と自前の宗教組織を持てば、それは直ちに脅威と見なされ、破壊された。
だからフードゥーは、宗教の形をとらないという戦略を選んだ。
神殿を建てず、司祭を立てず、教義を書かず、代わりにすべてを個人の技術として、袋と粉と根と聖書の詩篇の中に隠したのだ。キリスト教と競合しないという性質は、寛容さの表れではなく、生存のための必然だった。
誰かの家の台所で、鍋の横で、日常の動作に紛れて実践できること。それがフードゥーの設計思想になる。
同じ根から出た二本の枝が、片方は大聖堂の形に、片方はポケットの中の袋の形に育った。この対比ほど、宗教が政治的条件の産物であることを鮮明に示す例は少ない。
診断されているのは、関係だ
次に、両者が共有している核心について考えたい。それは関係の修復という発想になる。
ヴォドゥで人が不調に陥ったとき、司祭が探すのは病原体ではなく、切れた関係だ。祀られていない祖先はいないか、約束を破ったロアはいないか、誰かとの間に未解決の争いはないか。
前掲の体験談で司祭が言った、名前が呼ばれていないという言葉は、この発想を端的に表している。
フードゥーでも同じで、多くの施術は関係の操作として組み立てられている。誰かとの関係を良くする、悪い関係を切る、切れた縁を戻す。
個人の内面ではなく、人と人、人と死者の間の配線を診断するわけだ。
これは近代医学や近代心理学とはまったく異なる問題設定であり、だからこそ両者は競合せずに併存できた。実際、ハイチでもアメリカでも、実践者は病院を否定していない。彼らが扱っているのは、病院が扱わない層なのだ。
誤解を演じることで、生き延びる
誤解の力学についても、もう一段深く踏み込みたい。
ヴードゥー人形が二十世紀の合成品だという事実は、それ自体としては単なる誤情報の訂正にすぎない。しかし本当に興味深いのは、なぜこの合成品が、それを押し付けられた側にまで採用されてしまったのかという点になる。
今日ニューオーリンズやハイチの土産物店では、実際にヴードゥー人形が売られている。作っているのも売っているのも、多くは現地の人々だ。
外から貼られたレッテルが、経済的な理由で内側に取り込まれ、再輸出されるという循環が起きている。
これは責められるべき裏切りではない。観光しか外貨を稼ぐ手段がない場所で、観光客が求めるものを作って売るのは合理的な選択だ。
だが結果として、誤解はますます、現地でも売っているのだから本物だという補強を得る。
文化が誤解される過程は、外部からの一方的な押し付けだけでは完結しない。押し付けられた側が生き延びるために誤解を演じ、その演技が誤解の証拠として引用されるという、閉じた輪ができあがる。
この輪の構造を理解しないまま、現地の人も認めていると言うのは、あまりに雑な議論になる。
恐怖のベクトルが、反転した
恐怖の対象がどこにあったのかという問題も再考しておきたい。
ゾンビの節で触れたとおり、ハイチ人が恐れているのはゾンビに襲われることではなく、自分がゾンビにされることだった。この非対称は決定的になる。
アメリカやヨーロッパのゾンビ映画では、ゾンビは常に外から来る他者の群れであり、主人公はそれから逃げる側にいる。
ハイチの伝承では、ゾンビは自分がそうなるかもしれない未来であり、恐怖の位置が内側にある。同じ語が、大西洋を渡る間に恐怖のベクトルを反転させたわけだ。
この反転は、輸入した側が自分の歴史をどう処理したかを露骨に示している。奴隷制の当事者であった社会が、意志を奪われて働かされる存在の恐怖を、自分ではなく他者の側に置き換えた。
ゾンビ映画の群衆が常に匿名で、顔がなく、殺しても罪に問われないという構造は、その置き換えの帰結として読むことができる。娯楽の形式は、しばしば歴史の後始末の形をしている。
神々は、信じる人が持てなかったものを持つ
女性という主体についても書いておきたい。
ヴォドゥのマンボ、ニューオーリンズのヴードゥーの女王たち、フードゥーの薬草を扱った女たち。この系譜には一貫して、ある事実が刻まれている。公的な権力から徹底的に排除された女性が、霊的な領域では権威を持てたという事実だ。
マリー・ラヴォーが十九世紀のニューオーリンズで持っていた影響力は、当時のアメリカ社会で黒人女性が持ちうるものとしては例外的に大きい。彼女は情報を握り、人脈を持ち、裁判の行方にすら口を出したとされる。
エジリ・ダントーが女性と子どもと弱者の守護者であり、報復する存在であることも、この文脈で読むべきだろう。
神々は、その神々を信じる人々が現実で持てなかったものを持つ。傷を負い、舌を切られて言葉を奪われ、それでも子を抱いて立っている黒い母。その像がハイチの女性たちにとって何であったかは、説明を要しないはずだ。
我々が借りている、眼鏡
この題材を扱う日本語圏の読者にとっての、固有の距離感についても触れておきたい。
日本の民間信仰にも、家の神を祀る習慣があり、憑き物の観念があり、死者の名を呼ぶ習慣があり、そして呪いの人形の伝承がある。丑の刻参りの藁人形は、ヴードゥー人形よりはるかに日本人にとって身近な図像だ。
にもかかわらず、我々は前者を日本の伝統として相対化しながら、後者を未開の呪術として消費しがちになる。
この非対称は、我々が二十世紀のアメリカ製の視線を無自覚に借りていることの証拠にほかならない。
ハイチの人が墓地で死者と酒を飲むのを奇異に感じるなら、お盆に迎え火を焚いて先祖を家に呼ぶ習慣も等しく奇異なはずだ。
異文化の宗教を怖がることそれ自体は自然な反応になる。だが、その恐怖がどこ製の眼鏡から来ているのかは、一度点検しておく価値がある。
渡ってきた人々が、そう決めた
最後に、この二つの伝統が今どこへ向かっているかを述べて締めくくりたい。
ハイチのヴォドゥは、二〇〇三年に正式な宗教として公認され、法的な地位を得た。
だがその後の十数年で、この国は大地震、コレラの流行、大統領の暗殺、治安の全面的な崩壊という連続した危機を経験した。祭礼の規模は縮小し、巡礼路は治安上の理由で寸断され、若い世代の相当数が福音派の教会へ移っている。
国外へ移住した人々のウンフォが、ニューヨーク、マイアミ、モントリオール、パリで維持されている。いまやハイチの宗教の相当部分がハイチの外で実践されているという逆転が起きつつある。
フードゥーの側では、逆に近年になって明確な復興が進んでいる。
ハイアットの五巻をはじめとする記録を頼りに失われた技法を復元し、祖先の伝統として意識的に継承しようとする若い世代が増えた。同時に、それが誰の実践なのかをめぐる線引きの議論も先鋭化している。
失われかけたものが記録によって蘇り、生きていたものが危機によって散っていく。この二つの動きが同時進行しているのが、二〇二〇年代のこの領域の姿だ。
共通しているのは、どちらの伝統も一点から始まっているということになる。大西洋を強制的に渡らされた人々が、それでも自分たちの世界の説明を手放さなかった、という一点だ。
神々の名前が変わり、聖人の絵が重ねられ、土産物として売られ、映画に歪められても、その一点だけは変わっていない。
ロアは海を渡った。渡ってきた人々がそう決めたからである。針を刺す人形の向こう側には、その決断の二百年分の重量が沈んでいる。我々が本当に見るべきなのは、人形ではなく、その重量の方だ。
