神社の境内で、腰くらいの高さの石柱を見かけたことはないだろうか。角ばった花崗岩に、太い字で「百度石」と彫ってある、あれだ。
参道の途中とか、鳥居のすぐ内側とか、拝殿から少し離れたところに、なんとなく置かれている。灯籠でもなければ狛犬でもない。説明書きもない。だから多くの人は素通りする。
でもあの石は、日本でいちばん身体を使う祈りの、折り返し地点なのだ。誰かが百回、そこと拝殿のあいだを往復した。汗をかいて、足を痛めて、たぶん泣きそうになりながら歩いた。
その回数を数えるためだけに、わざわざ石が立っている。そういう石が、今も全国に残っている。今日はその話をしたい。
- 百回歩く、ただそれだけの祈り
- 楽しいことのためにやるものじゃない
- もとは百日通うものだった
- 一日型と百日型が今も併存する
- 鎌倉時代の女房たちも、これを踏んでいた
- 江戸の庶民は商売繁盛にも踏んだ
- 百度石は、寺社が用意したインフラだった
- 歌舞伎の記念碑を兼ねた百度石
- 二十回を過ぎると数がわからなくなる
- 寺社が貸してくれる数取りの道具
- 素足で歩くという、いちばんきつい作法
- 現代の寺社は、はっきり安全側に振っている
- 「人に見られてはいけない」は本当なのか
- 石切さんでは、真っ昼間に何百人が回っている
- 黙って歩くのか、唱えながら歩くのか
- 往復するとは限らない
- 追い越されたら回数がゼロに戻る流派もある
- 六十七分、六千四百二十三歩
- 一周を一年と思って歩いた人
- 温泉に浸かったあとのような余韻
- 百日通って、自己肯定感が上がった人
- 父の告別式が試験の二日前だった
- 後悔の在庫を、一つ減らす
- 迎える側は、どう見ているのか
- 戦時下の境内で
- 制度としての戦争と、一人の祈り
- 願掛けという大きな家族の中で
- 絵馬は、お百度参りの自動化だった
- たこ焼きを断ちます、と宣言した人
- 願を掛けたら、必ず解く
- 丑の刻参りとの、危うい境界線
- 恐ろしいのは呪ったことではなく、変身の過程
- 藁人形は、意外と新しい
- 百度石は、誰かの回復を願うために立っている
- 代行業者は、あり得るのか
- 外注した時点で、何が残るのか
- 成功譚は、驚くほど慎重に語られる
- 祈りが自責の種になるとき
- 信仰の話をしながら、社会常識の話もしている
- なぜ人は、百回も歩くのか
- 待ち時間を、作業に変える
- 誰も統制していない、という強さ
- 祈りに、終わりを設定する仕組み
- 祈りが自責装置に反転する危険
- 願いはばらばらなのに、動作だけが揃っている
百回歩く、ただそれだけの祈り
お百度参りというのは、ざっくり言えば同じ社寺に百回お参りすることだ。俗に「お百度を踏む」と言う。
やり方は拍子抜けするほど単純である。境内の入口から拝殿や本堂まで歩いて拝み、また入口まで戻る。これを一往復として、百回繰り返す。それだけ。
呪文もいらないし、特別な道具もいらない。ただ歩く。ただ拝む。それを百回。
単純なのに、これがきつい。石切劔箭神社という東大阪の神社では、百度石と百度石のあいだを一周すると約三十三メートルになるそうで、百周すればおよそ三キロ強になる。実際に踏んだ人の記録では、六十七分かかって歩数は六千四百歩ほどだったという。
ほかの人の記録でも、だいたい五十分から一時間半のあいだに収まっている。要するに、ちょっとしたウォーキングだ。ただし目的地に着かないウォーキング。同じ三十メートルを、ひたすら往復し続ける。
楽しいことのためにやるものじゃない
ここが大事なところなんだけど、お百度参りは楽しいことのためにやるものじゃない。少なくとも、伝統的にはそうだった。
手術を控えた家族がいる。戦地に行った息子から便りがない。何年も子どもができない。試験まであと百日しかない。そういう、一度お参りしたくらいでは自分の気が済まない切実さがあるときに、人は百度石の前に立つ。
祈りの深さを、回数という形に翻訳する。それがこの習俗の本体だ。
もとは百日通うものだった
面白いのは、お百度参りが最初から「一日に百回」だったわけじゃないことである。
もとの形は百日詣といって、近所の氏神神社や信仰する寺社に、百日のあいだ毎日欠かさず通う行だった。毎朝顔を出す。それを百日続ける。時間はかかるが、身体への負担は一日ぶんずつしかない。
ところが、人生には百日も待てない事情というものがある。手術が来週なのだ。息子の船が明日出るのだ。そういうときに、百日ぶんの祈りを一日に圧縮する形が生まれた。
一日のうちに百度参ることで、百日詣の代わりとする。これがお百度参りである。
つまりこの習俗は、誰かが教義として定めたものじゃない。人々の切羽詰まった気持ちが、自然発生的に押し出した形なのだ。石切劔箭神社の説明では、まるで草木が芽吹くように生まれて今に伝わった形だ、というような言い方をしている。いい表現だと思う。
一日型と百日型が今も併存する
だから現代でも、お百度参りには二つの型が併存している。一日で百往復する型と、百日かけて一日一回ずつ通う型だ。
どちらが偉いということはない。遠方の社寺に願をかけるなら一日型が現実的だし、家の近くに氏神様があるなら百日型のほうが身体に優しい。
ただし百日型には厳しい言い伝えがついてまわる。途切れてはいけない、というやつだ。一日でも欠かしたら最初からやり直しになる、という説が根強い。三か月以上、雨の日も熱の日も通い続けるわけで、これはこれで相当な覚悟がいる。
鎌倉時代の女房たちも、これを踏んでいた
歴史を遡ると、この習俗はかなり古い。
文献で確認できる早い例として、平安末の記録『永昌記』の天永元年、西暦一一一〇年三月十八日の条に、山城の賀茂社への百度詣が見えるとされる。つまり十二世紀初頭には、貴族社会で百度参りが行われていた。
もっと具体的に情景が浮かぶのは『吾妻鏡』の記述だ。文治五年、西暦一一八九年八月十日の条に、奥州追討の祈祷のため、御台所の御所に仕える女房数人に鶴岡へ百度参りをさせた、とある。鎌倉幕府が奥州藤原氏を攻める、その戦勝を祈って、御所の女房たちが鶴岡八幡宮の参道を往復した。
仁治二年、一二四一年七月六日の条には、北条氏が鶴岡に百度願をしたとある。同じころ、公家の平経高の日記『平戸記』には、延応二年、すなわち仁治元年の一二四〇年二月十一日の夜、祇園の社に百度詣をした、と記されている。夜、というのが妙に生々しい。
江戸の庶民は商売繁盛にも踏んだ
説話の世界でも、病気平癒や縁談成就のために百度参る人物の描写が見える。中世の『清凉寺縁起』には、二十歳のときから七十五歳に至るまで毎夜怠らず「丑の時詣」を続けた尼の話が出てくる。これは呪詛でも嫉妬でもなく、ただ夜ごと通い続けた信心の話だ。中世の人にとって、繰り返し通うという祈り方はごく普通の選択肢だった。
江戸時代になると、これが庶民の習俗として一気に広がる。咄本『軽口浮瓢箪』という一七五一年の本には、「何とぞ我々によい客のつくやうに守らせ給へと百度参りしければ」という一節がある。商売繁盛のお百度だ。切実さと同時に、ちょっと笑える題材にもなっていた。
京都では御所千度参りという、千度参りが群衆化した騒ぎまで起きている。百度も千度も、発想の根は同じだ。数を重ねれば思いは通る、という素朴で強靭な信仰がそこにある。
百度石は、寺社が用意したインフラだった
百度石という石柱は、寺社の側が用意した設備だと考えるとわかりやすい。
参詣者が入口まで戻るのは大変だし、大きな社なら参道が長すぎる。そこで拝殿から手ごろな距離のところに目印の石を立て、ここまで戻れば一往復と数えていいですよ、という約束を作った。数取りのための掛札を備えたところもある。信仰の需要に、寺社がインフラで応えた形だ。
現存する百度石には、案外新しいものが多い。東京都中央区は、区内に残る百度石をいくつも文化財として把握している。
於岩稲荷田宮神社にある百度石は大正三年、一九一四年十月の奉納で、全高百二十七センチの花崗岩製だ。正面に稲荷宝珠紋と「百度石」の陰刻があり、頂部には田宮家の家紋をかたどった球形の石が載っている。
歌舞伎の記念碑を兼ねた百度石
面白いのは寄進者である。側面に「大阪浪花座興行記念 四代目市川右団次」と刻まれている。
右団次は関西歌舞伎の名手で、大正三年に大阪の浪花座で『四谷怪談』全五幕を興行し、お岩をはじめ一人四役を演じた。その記念に、お岩ゆかりの神社へ百度石を寄進したわけだ。祈りの石が、芝居の記念碑を兼ねている。区内には大安楽寺や鉄砲洲稲荷神社、大原稲荷神社などにも大正から昭和期の百度石が残っているという。
大阪の四天王寺には、元三大師堂のそばに寺院型の百度石が立っている。福岡県北九州市の八坂神社の百度石は、上部にそろばんの珠のような数え玉が付いていることで知られる。
東京の大宮八幡宮では、神門前の右手に起点となる百度石があり、参道に折り返し地点となる御百度踏石が置かれている。起点と折り返しが対になっている構造だ。石切劔箭神社も同じで、鳥居のそばと拝殿の手前に二基の百度石があり、そのあいだをぐるぐる回る。
こうして見ると、百度石は「古代からの神秘の石」ではない。近世から近代にかけて、都市の庶民信仰が盛り上がるなかで、必要に迫られて次々に立てられていった実用品なのだ。実用品だからこそ、そこに刻まれた年号や寄進者名から、当時の人の顔が見えてくる。
二十回を過ぎると数がわからなくなる
百回も往復していると、まず間違いなく数がわからなくなる。これは体験談を読むとほぼ全員が言っている。二十回を過ぎたあたりで頭の中のカウントは崩壊する。だから数取りの道具がいる。
いちばん素朴なのは、小石や小枝を百個用意しておいて、拝むたびに一つずつ神前に置いてくる方式だ。竹串を使う地域もあるし、こよりを百本よじって持っていく人もいる。細くよった和紙を一本ずつ手放していく。
賽銭用の小銭を百枚用意して、灯籠の上に積んでおき、一枚ずつ握って拝殿に行って投げる、という猛者もいる。実際に小銭百枚方式でやった人の記録があって、何も考えずお金がなくなるまで往復すればいいので楽だった、と書いている。合理的だ。
寺社が貸してくれる数取りの道具
寺社が用意してくれる道具もある。
石切劔箭神社の「お百度紐」は、百本の紐の片側をまとめて結んだ束で、結び目を下にして握り、一周するごとに一本ずつ折っていく。授与所か崇敬会館でいただける。
神楽坂の宗柏寺には「お百度房」というものがあって、手水舎のそばに置いてある房を手に取り、一往復ごとに紐を一本ずつ手の外に引き出していく。成田山深川不動堂では、回数を数えるための紙の束が御札場で貸し出されている。百度石そのものにそろばん状の数え玉が仕込んであって、一往復ごとに珠を弾くタイプもある。
この道具が、思いのほか精神的な支えになるらしい。ある人は、お百度紐は「半分まわったよ」「もう少しだよ」とサポートしてくれる相棒みたいだったと書いている。別の人は、房が残り数本になったとき「これからは自分一人で歩いていくのか」という気持ちになった、と書いていた。
百本の紐が減っていくのを手で感じ続けるというのは、時間が目に見える形で減っていく体験だ。それだけで祈りの質が変わる、というのはわかる気がする。
素足で歩くという、いちばんきつい作法
伝えられている作法のなかで、いちばん身体に来るのが裸足だ。素足で境内を歩いたほうが効果がある、と昔から言われてきた。
理屈としては、身体的な苦行によって祈りの誠実さを示す、ということになる。苦しんで祈るからこそ届く、という考え方だ。中央区の文化財解説には、水垢離を取り、白装束を身につけ、社寺の入口から拝殿までを裸足で百度往復する、という古い形が紹介されている。祈りのフルコース、という感じである。
実際にやるとどうなるか。冬の夕方、雨上がりの湿った地面を裸足で百往復した人の記録がある。その日は暖かかったので裸足でもそこまで辛くはなかったが、砂利が痛いのが問題だった、と書いてある。残り三十枚くらいで足が痛み始めた、とも。
つまり、条件がよくてもそれなりに痛い。夏の炎天下の玉砂利、冬の凍った石畳を想像すると、これは行と呼ぶしかない。
現代の寺社は、はっきり安全側に振っている
現代の寺社は、この点についてはっきり安全側に振っている。
一畑薬師では裸足で踏む人のために足洗い場まで用意しているが、それでも今日は明るいうちの、安全なお百度をおすすめしていると明言している。葬祭関連の解説記事などでは、白装束や裸足にこだわる必要はなく、石やガラスで怪我をする恐れがあるので靴を履くのが無難、とはっきり書かれている。石切劔箭神社の授与所も、歩きやすい服装と靴で、梅雨明け以降は熱中症に気をつけて、と案内している。
私も同じ意見だ。裸足で長時間歩けば足裏の皮膚は確実に傷む。実際、巡礼で三日間素足を通した人が、踵からアキレス腱にかけて皮膚がガサガサになって断念した、という記録もある。切創から感染するリスクもあるし、糖尿病などで足の感覚が鈍っている人には論外だろうね。
作法として語り継がれてきたことと、今それをやるべきかどうかは別の話でいい。同じことは水垢離にも言える。願掛けに水垢離を伴う形式は各地にあり、千垢離、万垢離と回数を重ねる例もあるが、真冬の冷水は洒落にならない。水温が数度まで下がる時期に一人で水に入れば、低体温症や血圧の急変動という現実的な危険がある。
指導者のいない状況での寒中の水行は、本当にやめたほうがいい。祈りは生きている人がするものだ。
「人に見られてはいけない」は本当なのか
お百度参りの伝承でいちばん有名なのが、人に見られてはいけない、というやつだ。だから夜中にやる、という話とセットで語られる。時代劇でも、娘が夜の境内を一人で往復している絵が定番になっている。
民俗学の解説では、これは切実な願いが背景にあるからこそ生まれた言い伝えだと説明される。人の目に触れては願いが成就しない、という伝えが広まった、と。
福岡市博物館の解説はこう書いている。境内を行き来する人を見かけることは少なくなったが、実は今でも盛んである。人に知られないように夜半に行われることが多いのも、その一因だ、と。
一畑薬師も似たことを述べている。人に見られないように行うとよいとも言われる。夜通しであったり早朝であったり、黙々と一心不乱に踏む人の姿がある。深夜の境内で偶然に遭遇すると、信仰の力を垣間見る気がする、と。実際に見た人の証言だ。
石切さんでは、真っ昼間に何百人が回っている
ただし、現場の寺社はこの伝承をそこまで厳格には扱っていない。
石切劔箭神社は境内に二十四時間入れるので、いつでも踏める。実際、休日には全国から人が来て、何百人という単位でお百度を踏んでいる。真っ昼間に、大勢が黙々と同じ方向に回っている。誰も隠れていない。
ある参拝者は、最初の十回ほどは周囲の視線が気になったが、次第に気持ちが落ち着いて歩くリズムが祈りに変わっていった、と書いている。むしろ人がいることで勇気づけられた、という感想も多い。周りの人が何を願っているのかはわからないけれど、黙々と回る姿に励まされる、と。
掲示板の相談でも、「人目を避けるべきか」という質問はよく出る。別に他人に見られようが構わない、いつでも好きなときに堂々とやればいい。そういう回答がつくことが多い。深夜だけは避けたほうがいい、不審者だと思われるから、という現実的な忠告も添えられる。
これは大事な指摘だ。夜の神社に無断で立ち入るのは、寺社によってははっきり迷惑だし、近隣住民を不安にさせる。私有地に入り込むなんてもってのほかだ。伝承は伝承として味わって、実行するなら明るい時間に、寺社のルールに従うのがいい。
黙って歩くのか、唱えながら歩くのか
もう一つよく言われるのが、お百度参りのあいだは言葉を発してはいけない、という作法だ。理由としては、余計なことを考えず一心に祈りに集中するため、と説明される。携帯電話の電源も切るべきだ、というところまで書いている記事もある。
これも現場の運用は柔軟だ。石切劔箭神社の方は、取材に対しておおむねこんなふうに答えている。決まりではないが、複数で回る人は大きな声で騒がないでほしい。ただし全く黙ってお参りする決まりもない。
お願い事をつぶやいて歩く人もいるし、試合の必勝祈願でチーム員同士励まし合いながら参る人もいる。自分にも他人にもおおらかな心でお参りしてほしい。
これは実にいいバランスだと思う。
神楽坂の宗柏寺では、むしろ声を出す形が伝わっている。お百度房を手に合掌し、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら釈迦堂に向かう。
体験した人の記録がまた面白い。十回ほど回るうちに、一歩進むごとに「なむ」「みょー」「ほー」「れん」「げー」「きょー」と唱えていることに気づいたという。歩調と題目が同期する。二十回、三十回と重ねると、お題目を唱えることへの照れが消えていく。
住職はこれを「身口意」という言葉で説明していた。身体と口と心で唱える。口に出しているうちに、だんだん身についてくる。島根の一畑薬師でも、本堂を時計回りに百周しながら薬師如来の真言を唱えるのが伝統で、低い声でも心の中でも構わないとされている。
つまり無言型と唱名型が両方あるわけだ。どちらも「余計なことを考えない」ための工夫という点では一致している。黙るのも、同じ言葉を唱え続けるのも、頭の中の雑音を減らすための技術だ。実際に踏んだ人はほぼ全員、半分を過ぎたあたりで雑念が消えていった、と書いている。
歩行と呼吸と言葉が揃ってくる。そういう身体的な単純さが、この習俗の核なんだと思う。
往復するとは限らない
お百度参りは往復するもの、と思い込んでいる人が多いが、実際にはかなりバリエーションがある。
石切劔箭神社は往復というより周回に近い。本殿前の百度石と鳥居側の百度石のあいだを、人の流れに沿って時計回りにぐるぐる回る。しかも同じ石切でも、上之社は左回りが一般的だという。回る方向が社によって違うのだ。
ずっと同じ方向に回り続けるので、ある人は右の股関節が痛くなって七十周でギブアップした、と書いていた。周回型ならではの負荷である。
島根の一畑薬師は完全な周回型で、薬師本堂を時計回りに百周する。本堂の正面では立ち止まって合掌一礼する。両手は振らずに、合掌するか叉手当胸といって右手の上に左手を重ねて胸に当てる。この寺ではお百度を「庭草を踏む」とも呼ぶ。
奈良県春日大社の末社である金龍神社では、社殿の周りを一周すると一回と数える。参道を往復しなくてもいいわけだ。
追い越されたら回数がゼロに戻る流派もある
辯天宗の如意寺や冥応寺でも、百度石を一周すると一回と数える形が取られている。この宗派の百度行には、さらに細かい作法が伝えられている。行の最中に他人が前を横切ったり、追い越したり追い越されたりすると回数がゼロに戻る。そういう厳しい指導があるらしい。
実際に境内の設備配置まで、行者の動線を横切らせないよう改善した例が報告されている。ここまで来ると、ほとんど作法の体系だ。
奈良県五條市の如意寺については、お百度参りの起源そのものが語られている。子宮癌の女性を救うために百日参りの行を行わせたことに始まる、という伝承だ。病を得た一人の人間のために編み出された行が、そのまま寺の習俗になった。この習俗の性格をよく表している話だと思う。
成田山深川不動堂には「お百度石」と「お百度不動尊」があり、この二点間を百回往復するのが作法とされている。東京の大宮八幡宮のように、起点の百度石と折り返しの御百度踏石が別々に置かれている社もある。
要するに、地元の地形と社殿の配置に合わせて、それぞれの寺社が現実的な形を作ってきたということだ。全国統一の正式作法など、はじめから存在しない。
六十七分、六千四百二十三歩
ここからは、実際にお百度を踏んだ人の記録をいくつか紹介したい。読み物として面白いし、この習俗が今も生きていることがよくわかる。
一件目は、東大阪の石切劔箭神社で初めてお百度を踏んだ人の体験取材だ。
鳥居前で一礼して手水舎で手を清め、授与所でお百度紐を受け取る。まず本殿に賽銭を入れて参拝し、それから人の流れに沿って右回りに歩き出す。初めてなので合っているか不安になったが、意外とすんなり流れに入れた。一周ごとに紐を一本折る。周りと歩調を合わせている気はしないのに、自然とその流れに溶け込んだような気分になる。
この人が書いていて印象的だったのは、回数はすぐわからなくなった、という部分だ。理由は、数えるより考えることがあるからだ。健康を願うなら「食生活に気をつけないといけないな」「家族との時間を大事にしないといけないな」といったことが浮かんでくる。黙々とそんな一つのことを考える時間なのかもしれない、と書いている。
結果、六十七分、六千四百二十三歩。歩いたのは六月中旬で、曇り予報なのにとても暑く、水分補給はこまめにしたほうがいいと結んでいる。革靴で行ってしまったのでスニーカーを勧める、という実用的な反省まで付いていた。
一周を一年と思って歩いた人
二件目は、同じ石切さんに毎年通っている夫婦の話だ。
夫のほうは健康のバロメーターとしてお百度を踏んでいる。年に一度お札を授かりに来るたび、当然ながら前回より一つ歳を取っている。だから無事に百回踏めれば今年も健康だ、と考えて、心拍数を上げて元気よく回る。前の人を抜き、後ろの人には追い越されないぞ、と思いながら回る。ほとんどスポーツだ。
ところが妻のほうは、ゆっくり丁寧に回る。夫が終わってから十五分ほど遅れて満願した。どうだったと聞いたら、こう答えたという。今年も丁寧に回れた。
一周を一年と思って、百歳まで丁寧に生きようと思いながら回った。たくさんの人に追い抜かれたけれど、そんなに生き急がなくてもいいのに、と思う。
夫はこれを聞いて、自分がスポーツのように回ったことを深く反省した、と書いている。同じ三キロを歩いていても、人によってまったく違う時間が流れている。この話はずっと覚えていたい。
温泉に浸かったあとのような余韻
三件目は、新宿区榎町の宗柏寺での体験記だ。住職に教わりながらお百度を踏んでいる。
山門の奥の釈迦堂に上がって釈迦如来に参り、線香を供え、手水で手を清め、お百度房を手に取る。房を持って合掌し、お題目を唱えながら釈迦堂へ向かい、階段の下で頭を下げて拝み、房の紐を一本引き出す。今度は山門に向かって唱えながら歩く。これを百回。
この人の記録で好きなのは、心理の変化が正直に書かれているところだ。二十回、三十回と重ねると小さな自信のような気持ちが湧いてきて、他の参詣者が見えてもあまり気にならず、山登りのような気持ちで楽しく続けられた。
ところが房が半分ほどに減ったあたりから、なぜか何回参っても房が減らないような感覚に襲われる。まだこんなにある、あと何回参ればいいんだろう、という邪念が湧く。それを振り払うように続けると、うっすら汗ばんできて、房が徐々に手を離れ、ついに数本を残すのみになる。
終えたときには、体はポカポカ、心はすっきり、まるで温泉に浸かったあとのような清々しい余韻だったという。所要時間はおよそ一時間。房が、苦労を共にした友のようにいとおしく感じられた、という一文で締めている。
百日通って、自己肯定感が上がった人
四件目は、百日型を選んだ人の記録である。
二〇二〇年五月二十日から八月二十七日にかけて、連続百日で近所の神社に通い切った。参拝中に心地よい風が吹いたこと。神様の声なのか自分自身の声なのかよくわからない何かが浮かんだこと。めずらしい動物に出会ったこと。そういう断片を書き留めている。
参拝を重ねるうちに自分の本当の気持ちが見えてきた、とも書く。自分の利己的な願いも混ざっていたことに気づいた。無いものを有るものとしようとする苦しみにも触れている。そして百日続けたことで自己肯定感が上がった気がする、とも書いている。
願いが叶ったかどうかより、百日という時間が本人を変えている。
父の告別式が試験の二日前だった
五件目は、資格試験のために自分でお百度を組み立てた人の話だ。
試験まで百日を切ったところで、近所の天満宮まで徒歩二十分弱の道を、毎朝五時に起きて歩き、勉強用の動画を聴きながら通った。神社では毎朝同じ手順で参る。一礼して鳥居をくぐり、手水舎で手を洗い、ついでに手水舎の掃除をし、二礼二拍手一拝で拝む。
住所氏名を必ず最初に言い、神様に丸投げするのではなく「自分が努力して勉強しますので、どうかお助けください」と応援をお願いする。途中で腰を痛めて歩けなくなったが、それでも毎朝車で訪れて百日続けた。
この人はその年、七月半ばに父親が倒れて亡くなり、試験の二日前が告別式という状況になっている。勉強どころではない。それでも毎朝の参拝は続けた。
結果として一次試験に合格し、涙が出るほど嬉しくてすぐ天満宮に報告に行き、その後の二次試験にも合格したという。本人はこれを、何度も参るうちに自分の中に神棚ができるような感覚だった、と表現している。
後悔の在庫を、一つ減らす
六件目は、代参の話だ。ある人が、入院している知人のために近所の神社でお百度を踏んでいる。
この人は自分の記録のなかで、はっきりこう書いていた。医学的、科学的には参拝は病状回復と何の因果関係もない。直接の関係者にとって優先度は高くない。代参は誰がやってもいい、赤の他人がやってもいい。
関係者はどうしても「あれをやっておけばよかった」という後悔を免れない。差し出がましくも他人が代参を買って出れば、「お参りをしておけば」という後悔を、たった一つでも取り除くことはできないか。
この一節は、お百度参りという習俗の機能をこれ以上ないほど的確に言い当てていると思う。効くかどうかではない。後悔の在庫を一つ減らす。それが誰かの代わりにできるなら、やる意味はある。
七件目は、あえてうまくいかなかった記録も紹介したい。石切さんを二人で回った人が、三十分でようやく半分、ずっと同じ方向に回るので右の股関節が痛くなり、七十周でギブアップしたと書いている。
授与所の説明書きにも「無理する必要はありません。ご自身の思う回数でお参りください」とあったので、二人とも納得して切り上げ、もう一度本殿に参ってから紐を奉納箱に納めた。それでも参道は歩ける、と言って草団子を買って帰っている。この軽さがいい。満願できなくても、その日境内で過ごした時間は消えない。
迎える側は、どう見ているのか
参拝者の話ばかりでは片手落ちなので、迎える側の言葉も拾っておきたい。
石切劔箭神社の授与所の方は、必ず百回でなければいけないのかという質問に、こう答えている。必ず百回でなければならないわけではない。「百」とは単に百を意味するだけでなく、数が多いことを表す語でもある。歳の数や、自分の気持ちが落ち着く回数を決めて踏んでもらって構わない。
服装については歩きやすい服と靴で、暑い時期は休憩と水分補給を、と実務的だ。遠方から来る人のために荷物用のロッカーまで用意している。正月や神事の際には踏めない日や時間があるので、事前に確認してほしいとも言っている。当たり前だけど、寺社は生活と祭祀の現場なのだ。
神楽坂の宗柏寺の住職の言葉も印象深い。お百度参りをする人がどんなことを願って来るのか。そう尋ねられて、その内容は聞かないと断ったうえで、こう答えている。悩みがある人や、受験する子どものお母さんが心願成就を願って訪れることが多いのではないか、と。
そのあとが面白い。ほかにも、朝のラジオ体操のように日課としてお参りする人もいる。それはすごくいいことだと思う。お百度を踏むというのも大変なことで、まずお百度を踏めるというのは、お寺に来られて、健康だということです。自分に悩みがあるときに踏むのもお百度だけれど、楽しいときや感謝をするときに踏んでもいい。
願掛けの装置を、健康のバロメーターとして読み替えている。さっきの石切さんの夫の話とも通じる。
島根の一畑薬師は、体調に合わせて無理をせず、一日が困難なときは二日に分けてもいいと明記している。時間のない人は三回でも一回でも踏んで帰ってください、とまで書いてある。百度石の前で二の足を踏んでいる人に、ちゃんと逃げ道を用意している。これは信仰の切り下げではなく、成熟だと思う。
戦時下の境内で
近代のお百度参りを語るとき、避けて通れないのが戦時下の話だ。
明治に入って生活様式が西洋化し、社寺に足を運ぶ機会が減ると、お百度参りをする人も一度は減ったとされる。ところが昭和の戦時中、戦地に赴いた家族の無事を祈るために踏む人が急増した。このころから「お百度参りは切実な願いをするもの」というイメージが広まったとも言われている。
当時の銃後の祈りの形を並べてみると、その熱量が伝わってくる。出征する人には千人針が贈られた。一枚の布に千人の女性が一人一針ずつ玉結びを縫い込む。虎は千里を行って千里を帰るという故事にちなんで虎の絵が描かれ、寅年生まれの女性は年の数だけ結び目を作ってよいとされた。死線を越える、苦戦を越えるという語呂合わせで、五銭玉と十銭玉を縫い付ける。
町内会や婦人会は氏神で武運長久祈願を行い、家族は陰膳を据えた。浅草寺の天水鉢には「千社参拝 武運長久祈願」と書かれた札が貼られる。神社の拝殿には、出征者の名を連ねた武運長久の扁額が奉納された。茨城の村社天満宮に掲げられた昭和十三年の扁額は、敗戦後に外されたまま長く忘れられ、七十数年を経て郷土博物館に寄贈されている。
制度としての戦争と、一人の祈り
そういう総力戦の祈りの列のなかに、お百度参りもあった。母親が、妻が、姉妹が、夜明け前の境内を往復した。息子の名前を唱えながら、百回歩く。
ここには美談を語る気になれない重さがある。千人針は国策として奨励された側面があり、祈らないという選択肢が事実上なかった時代の産物でもある。
それでも、ある人が回想で書いていたように、千人針を作る者と受ける者のあいだに生まれた感情は、兵隊送りの歌や別れの挨拶とはちがったものだった。戦争が生み出したものでありながら、戦争を越えたものとでも言えばよいのか、と。
お百度参りも同じだと思う。制度としての戦争と、一人の人間が身内の無事を祈る気持ちは、同じ場所にありながら別のものだ。百度石は、その両方を見てきた。
願掛けという大きな家族の中で
お百度参りは孤立した習俗ではない。願掛けという大きな枠組みの一部だ。
民俗学の整理では、願掛けは共同祈願と個人祈願に分かれ、祈願の内容が困難であるほど、心情が痛切であるほど、その方式は複雑になっていくとされる。一度の参拝で足りなければ二十一日間の日参になり、それでも足りなければ百度、千度と重なっていく。累積すれば効果も累積する、という発想だ。百度参り、千度参り、千社詣で、千人針は、この点でひとつの家族なのである。
身を清める系統では水垢離がある。もともとは参拝前の禊だったものが独立して願掛けの方式になり、千垢離、万垢離と数を重ねる形にまで発展した。村の大事な氏子が大病にかかって命が危ういとき、大勢が集まって何度も水をかぶる。柳田国男が書き留めているのはそういう光景だ。
一定期間、神社や特定の場所にこもるお籠りもある。家族と別火の生活をして、垢離を取りながら祈願を続ける。
絵馬は、お百度参りの自動化だった
奉納系統では絵馬がある。絵馬はもともと神の乗り物である馬の代わりとして始まり、生きた馬も馬型も献上できない人が馬の絵を奉納したのが起源とされる。ただし柳田はこの定説に疑問を呈していて、馬以外の絵も古くから奉納されていたのではないかと指摘している。
庶民の小絵馬になると、これがめっぽう面白い。目が悪い人は「め」の字を年の数だけ書き、耳の悪い人は錐を奉納する。「め」の逆さ字、八つの目、向かい合った「め」の字。疱瘡除けには牛が草をはむ絵。
金儲けにはムカデ、縁結びにはハマグリを描く。女断ちには女に錠前、禁煙にはキセルに錠前、博打断ちにはサイコロに錠前を掛ける。
そして肝心なのが「拝み絵馬」だ。自分が祈っている姿そのものを絵にして奉納する。福岡市博物館の解説は、これをお百度参りの自動化だと説明していた。絵馬がかかっているあいだ、絵の中の自分が神仏に問い続けてくれる。
百回歩く代わりに、絵に歩かせる。この発想は本当にすごい。
たこ焼きを断ちます、と宣言した人
断ち物も願掛けの定番だ。願いが叶うまで好きなものを断つ。酒断ち、茶断ち、塩断ち、煙草断ち、餅断ち、砂糖断ち。もとは信仰対象が嫌うものを断つ形が主流だったのが、のちに自分の好物を断つ形が増えていったという。
歌舞伎の世界には有名な逸話がいくつも残っている。八代目市川團十郎は父の江戸追放に際して茶断ちをし、成田不動に日参したと伝わる。落語の『死神』には三日間の塩断ちを勧められながら漬物を食べてしまう演出まである。
断ち物は、自分を縛ることで神仏を動かそうとする祈りだ。前に紹介した裸足で百度を踏んだ人が、終わったあとに断ち物の宣言を忘れたことに気づく。帰宅後にあらためて神様に「たこ焼きを断ちます」と伝えて、願掛けを完了させた、と書いていた。願いが叶わないと自分は二度とたこ焼きを食べられない、と本気で書いている。おかしくて、少し切ない。
願を掛けたら、必ず解く
願を掛けたら、解かなければならない。だから願果たし、願ほどき、お礼参りが重視される。願いが叶ったら、できるだけ間を置かずに報告と感謝に行く。
ここを軽んじる人が多いのだけれど、伝統的には祈願と同じかそれ以上に大事とされてきた。神仏を縛った状態を解いてあげる、という感覚だ。
民間には、なんでもかんでも願をかけてはいけない、その間神様は逆立ちしておられるのだから、という戒めまである。願掛けとは神仏に無理をさせることなのだ、という認識がここにある。
ちなみに、願を掛けたまま人が亡くなった場合には「願もどし」という作法が各地にある。扇の要を外して屋根に投げたり、生前の着物を逆さに振ったり。願掛けのせいで成仏できなくなることを気遣った、周囲の心遣いだという。この習俗は、祈りが人を縛りうることを知っていた。
そして代参だ。行けない人の代わりに誰かが参る。江戸時代の伊勢講や富士講は代参の仕組みそのもので、村で予算を集め、当番の代表が参ってお札を持ち帰った。犬に代参させた「お犬参り」なんて話まで残っている。
仏教には回向という、自分の積んだ功徳を他者に振り向ける正式な考え方があり、代参はその発想と地続きだ。お百度参りにも代参型があって、本人が動けないなら家族が、家族がいないなら知人が踏む。まったくの他人が買って出ることもある。
丑の刻参りとの、危うい境界線
ここで、どうしても触れておかなければならない話がある。丑の刻参りだ。お百度参りと混同されることが本当に多い。夜、人に見られてはいけない、繰り返し通う、満願がある。表面的な特徴が似すぎている。
でも、この二つは目的が正反対だ。お百度参りは誰かの幸いを願う祈りで、丑の刻参りは他人を呪う所作として語られてきた。ここははっきり分けておきたい。
そのうえで、民俗学の研究が示していることを記録として書いておく。まず、「丑の時参り」という言葉のほうが古い。もともとは丑の刻に神仏へ参拝して祈願することを指す、ごく普通の言葉だった。『清凉寺縁起』の尼の話がその用例である。呪詛でもなければ女の嫉妬も関係ない。
京都の貴船神社には、貴船明神が降臨したという丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に参詣すれば心願が成就する、という伝承があった。つまり出発点は、心願成就の祈りのほうだったんだ。
恐ろしいのは呪ったことではなく、変身の過程
そこに嫉妬と変身の物語が接ぎ木される。鎌倉時代後期に成立した屋代本『平家物語』の「剣巻」に見える宇治の橋姫の説話だ。
嵯峨天皇の御代、ある公卿の娘が貴船大明神に七日籠って、生きながら鬼にしてほしいと祈る。神託を受けて宇治川に二十一日間浸かり、鬼女に変じる。頭に鉄輪を戴き、顔に朱を差し、身に丹を塗るという異形の描写がここにある。
研究者が指摘しているのは、この説話の恐ろしさの核心が「呪った」ことより「変身の過程が具体的に描かれている」点にある、ということだ。祈願が執念に変わり、執念が異形に変わる。その筋立てが後世の想像力を強く規定した。室町時代の能『鉄輪』はこれを翻案し、安倍晴明が祈祷で呪いを封じる役回りで登場する。ここで陰陽道と呪詛が物語のうえで結びつく。
一方、人形に釘を打つ呪術は独立して古くからあった。『日本書紀』の用明天皇二年、五八七年の条には像を作って呪う記述があり、奈良時代の遺物としては胸に鉄釘が打ち込まれた木製の人形代が出土している。島根県松江市の遺跡からは、両乳房と心臓の位置に木釘を打たれた女性の絵の木札が出ている。呪詛が禁じられた律令の条文も残っている。
藁人形は、意外と新しい
この二系統が江戸時代に合流して、今日イメージされる形が完成した。
國學院大學の紀要に載った研究によれば、近世に入っても人形はなかなか登場しない。元禄頃に紙や木の人形が見え始める。藁人形の使用が明記される最も古い例は、一七八三年の『万載狂歌集』だという。
鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』は一七七九年の刊行だ。「丑時参」の項に添えられた文には、胸に鏡を隠し頭に三つの灯を点し丑三つの頃に神社に詣でて杉の梢に釘を打つ、とある。だが藁人形への言及はない。
石燕は続けて「はかなき女の嫉妬より起りて、人を失ひ身をうしなふ。人を呪咀ば穴二つほれとは、よき近き譬ならん」と書いている。江戸の教養人は、この行為を恐怖としてだけでなく、身を滅ぼす愚かさとして捉えていた。
さらに近世には、丑の刻参りは笑いの対象にもなっている。落語の『藁人形』では、藁人形に五寸釘とは聞くが油炒めとは聞いたことがないと言われた男が「釘じゃ効かねえんだ、相手は糠屋の娘だ」と返す。近松の浄瑠璃や小咄でもパロディ化された。
研究者の集計によれば、明治の時点で藁人形が使われると明記される割合は六十三パーセントだったのが、平成以降では八十九パーセントに上がっている。藁人形が日常品でなくなり、メディアが「丑の刻参りといえばこれ」というイメージを固定した結果だという。
百度石は、誰かの回復を願うために立っている
私がここまで書いたのは、丑の刻参りを紹介したいからではない。むしろ逆だ。この習俗が「そう語られてきた歴史の産物」であることを知ってほしいからである。
実行の手順として書く気はまったくないし、書くべきでもない。他人を呪う行為は、人を害する意図をもって行われる時点で、現代では単なる迷惑行為であり、場合によっては犯罪になる。御神木に釘を打てば器物損壊だし、境内への夜間の無断立ち入りも問題になる。
何より、石燕が二百五十年前に書いたとおり、人を呪わば穴二つなのだ。お百度参りの解説記事の多くは「他人の失敗や不幸を願うことは言語道断」「悪い念は自分に返ってくる」とわざわざ書き添えている。この二つが混同されがちだからでもある。
百度石は、誰かの回復を願うために立っている。そこは間違えないでいたい。
代行業者は、あり得るのか
現代の話に移ろう。今、お百度参りには代行サービスが存在する。祈祷師があなたに代わって百度石のある社寺へ赴き、丸一日かけて百回の祈りを捧げる、というものだ。
ある事業者は、実施報告書と現地の写真、百回を数え終えたお百度紐の写真まで送ると謳っている。「本当に百回祈ってくれたのか」という不安を残さないための証拠だ。他者を不幸にさせる呪いの依頼は断ると明記もしている。個人がスキルマーケットで受注している例もあり、四万円ほどで百回賽銭を投げて祈ります、撮影して編集して送ります、といった内容が出品されている。
これをどう見るかは、正直かなり割れる。
肯定側の論拠ははっきりしている。代参は日本の巡礼文化そのものだ、というものだ。江戸時代の伊勢講、富士講、御嶽参り。行けない人の願いを講の代表が背負って参る。
四国八十八ヶ所でも代参の納経帳は今も正式に受け付けられている。仏教には回向という功徳を他者に振り向ける考え方があり、遍路には同行二人という思想がある。
歩いているのが誰であれ、誰の想いを乗せて歩いているかが問題なのだ、と。高齢や持病で動けない人、遠方に住む人、体調管理の都合で外出を避けるべき受験生。そういう人の願いを誰かが届けることの、どこが不誠実なのか。実際、無償で代参を引き受けてくれる家族や知人がいない人にとって、有料の代行は最後の手段になる。
外注した時点で、何が残るのか
否定側の違和感も、よくわかる。お百度参りの本体は身体だからだ。
足が痛くなること、汗をかくこと、途中で嫌になること、それでもあと十本だと思って持ち直すこと。あの全部が祈りなのだとしたら、それを外注した時点で何が残るのか。
前に紹介した人たちの体験談を読み返すとよくわかる。彼らが得たのは「願いが叶った」ではなく、「自分と向き合う時間になった」「一周を一年と思って歩いた」「自分の中に神棚ができた」だった。それは代行できない。
さらに現実的な懸念もある。目に見えないサービスなので、やったかどうかの検証が難しい。だから業者は写真や報告書で証明しようとするわけだが、遍路代行の世界では、一か所だけ形だけ納経して残りを回らない業者の存在が実際に指摘されている。効果を断定的に保証するような表現を使う業者は避けたほうがいい、というのは複数の実務者が口を揃えて言うことだ。切実な人ほど足元を見られやすい、という構図はどうしても残る。
私自身の落としどころとしては、代参という文化そのものは間違いなく本物で、批判されるべきではない、と思う。ただし、それはもともと無償の助け合いとして育ってきたものだ。市場に載せた瞬間に、価格と信頼という別の問題が発生する。そこを見分ける目は、依頼する側にどうしても必要になる。
そしてもう一つ。もし歩ける身体があるなら、自分で歩いたほうが得るものは圧倒的に多い。これは信仰の話ではなく、体験の話として言える。
成功譚は、驚くほど慎重に語られる
SNSや掲示板でお百度参りが語られるとき、その語り口には独特のパターンがある。
まず、成功譚は驚くほど慎重だ。願いが叶ったと書いている人でも、「お百度参りのおかげかはわからないけれど」という留保がほぼ必ず付く。
ある人は、お百度参りを始めた月にブログを始めた。翌月に十年勤めた会社を辞め、その翌月に広島から千葉へ移り住む。人生の転機と見事に重なった、偶然ではない気がしている、と書いている。断定はしていない。因果ではなく共時性として語る。
しかもこの人は、正直に告白している。転居のせいで元の神社での百日は達成できなかった。引っ越し先の神社で続けて、達成したことにしてこのレポートを書いている、と。厳密には満願していない。
それでも効果はあったと思っている、と。この不完全さの開示がむしろ信用できる。
祈りが自責の種になるとき
次に、効かなかった話は、あまり「効かなかった」という形では語られない。もっと静かな形をとる。
不妊治療を続けながら、いろんな神社に何度もお参りしてきた人がいる。そのたびに違う結果を経験するうちに「神事イコール安心」という感覚が薄れていった、と書いている。
この人は次の妊娠のときには安産祈願に行かなかった。理由が切実だ。お金を払って祈願しても、心の底から安心とは思えないだろう。逆に万が一のことが起きたときに「お参りに行かなかったからだ」と自分を責めることもないだろう。
そう感じたからだという。祈りが救いではなく自責の種になりうることを、身をもって知った人の言葉だ。
子宝祈願で神社に行った人が、並んだ絵馬を見て孤独になった、という話もある。「授かりました、ありがとうございました」という喜びの声ばかりが並ぶなかで、自分のまだ叶っていない祈りが、見えない存在みたいに感じられた、と。
これは願掛けの場が抱える構造的な問題だと思う。奉納物として残るのはお礼の言葉だけで、叶わなかった祈りは記録に残らない。生存者バイアスが、境内に物理的に掲示されている。
信仰の話をしながら、社会常識の話もしている
掲示板での議論はもっとドライだ。
深夜の神社にまつわるスレッドを見てみる。お百度参りの人に出くわしたら申し訳ないから夜は近づかない、という書き込みがある。その一方で、お百度参りは別に隠す必要はない、いつでも好きなときに堂々とやればいい、というレスもつく。ネットに転がる情報を安易に信じるものではない、と質問者が反省しているやりとりもある。
参拝作法についての質問にも、実に現実的な助言が並ぶ。毎回手水はすべき。ジョギングのついでに参拝するのではなく、お百度のついでにジョギングにすればいい。深夜は不審者と思われるから避けろ。
信仰の話をしているのに、みんなちゃんと社会常識の話もしている。これが今の温度感なんだと思う。
そして忘れてはいけないのが、医療との関係だ。前に引いた代参の人が書いていたとおり、参拝と病状の回復に医学的な因果関係はない。お百度参りは治療の代わりにはならない。ここを曖昧にする語りは危ない。
宮司自身が「祈願と努力はセット」「神社は願いを叶えてくれる場所ではなく願いを誓う場所」と書いているのは、まさにこの点への牽制だろう。百度石を回るのは自由だが、それは病院に行かない理由にはならない。
なぜ人は、百回も歩くのか
最後に、この習俗の芯にあるものを考えたい。なぜ百回なのか。なぜ歩くのか。
一つ目は、単純に「回数は誠意の可視化になる」ということだ。民俗学の整理では、これは累積祈願と呼ばれる。一度では足りないから二十一日、それでも足りないから百度、千度。数を重ねることで、自分の信仰心の厚さと祈願の切実さを訴える。神仏に対するプレゼンテーションだ。
しかも百という数字は、実際の百を意味するだけでなく「たくさん」を表す語でもある。だから寺社の側も、歳の数でも自分で決めた回数でもいい、と言える。数はあくまで気持ちの目盛りなのだ。
二つ目は、言葉が足りないから身体を使う、ということ。柳田国男が絵馬について書いた一節がヒントになる。言葉はまだ我々の心の中のものを、同じ強さではっきりと言いあらわすことができない。人に効果がないことは神様にもまた届かぬかもしれぬ。それを補充しまたは代表するのが絵馬ではなかったか、という趣旨のことを書いている。
祈りにおいて、言葉は不十分な道具なのだ。「治ってください」という五文字では、自分の内側にある恐怖と願いの総量が全然表現できない。だから絵にする。だから歩く。三キロ歩いた足の痛みは、少なくとも五文字よりは自分の気持ちの大きさに近い。
待ち時間を、作業に変える
三つ目は、待ち時間を作業に変える、という機能だ。これはたぶん現代でも一番効いている。
手術を待っている一時間、合否発表を待っている百日、判定日までの二週間。人間にとって、何もできずに待つ時間はいちばんきつい。その一時間を、三キロ歩くという具体的な作業に変換する。
祈っているというより、待っている。でも待っているだけではない。この構造が、お百度参りをこれほど長く生き延びさせたのだと思う。実際、体験談で最も多い感想は「達成感」だ。
願いが叶うかどうかよりも、ここまで歩けたという達成感が大きかった、と書いている人がいた。それは祈りの副産物ではなく、たぶん本体に近い。
四つ目は、思考が整理される、という効果である。歩行のリズムは、人間の頭をゆっくりにする。体験者が口を揃えて言うのは、半分を過ぎたあたりで雑念が消えた、ということだ。
そして残るのは、意外にも実務的な考えだったりする。食生活に気をつけないといけないな。家族との時間を大事にしないといけないな。祈っているうちに、自分にできることが浮かんでくる。宗柏寺の住職が言っていた身口意も、資格試験の人が言っていた「自分の中に神棚ができる」も、この現象を別の言葉で言っているのだと思う。
五つ目、そしていちばん大事だと思うのは、後悔の在庫を減らす、という機能だ。代参をしていた人が書いていたあの一節に尽きる。関係者はどうしても「あれをやっておけばよかった」という後悔を免れない。お百度を踏むことで、その後悔のリストから一項目を消せる。
結果がどうであれ、できることは全部やった、と言えるようになる。これは効くとか効かないとかいう話ではない。人が悲しみに耐えるための、実用的な技術なのだ。
だから私は、百度石の前で立ち止まる人を茶化す気には全然なれない。あの石は、人間が持っているいちばん古くていちばん切実な問いに、身体で答えるための装置だ。どうすることもできない事態を前にして、それでも何かをしたい。その「何か」を、日本人は千年かけて「歩く」という形で用意してきた。それだけの話であり、それはとてつもないことだと思う。
誰も統制していない、という強さ
ここまで書いてきて、あらためて思うのは、お百度参りという習俗の最大の特徴が「誰も統制していない」ことだ。
教義がない。開祖がいない。正式作法もない。石切劔箭神社が自ら言っているとおり、誰かが「このようにしなさい」と決めたわけではなく、人々の気持ちから自然発生的に生まれて今の形になった。
だから地域ごと、寺社ごとに形が違う。往復する社もあれば、堂を回る寺もある。右回りの社があれば左回りの社もある。無言を守るところもあれば、題目や真言を唱えるところもある。数取りは小石でも竹串でもこよりでも小銭でも構わない。
この徹底したフリーダムさは、統制された宗教儀礼にはない生命力を持っている。統制されていないから、時代の要請に合わせていくらでも変形できる。百日詣が一日百度になり、往復が周回になり、素足が運動靴になり、深夜が明るいうちになる。
変形しても、核だけは残る。核とは何か。「切実な願いを、身体を使って、繰り返し表現する」という一点だ。これだけあれば、お百度参りはお百度参りでいられる。
祈りに、終わりを設定する仕組み
もう一つ、この習俗が現代まで生き延びた理由として、私は「祈りの外部化」がうまくできている点を挙げたい。
頭の中で百回念じるのと、実際に百回歩くのとでは、決定的に違うことがある。歩けば、終わりが来るのだ。お百度紐が全部折れる。小石が全部なくなる。
房が手を離れる。祈りに、明確な終点が設定される。
これは精神衛生上、かなり大きな仕組みだと思う。不安というものは、放っておけば無限に続く。終わりがないから人は消耗する。ところがお百度参りは、その不安に人為的な区切りを入れる。
三キロ歩いたら終わり。百日通ったら終わり。
終わったあとに願いが叶うかどうかは、正直わからない。でも「自分がやるべきこと」には終わりが来る。ここで人は、いったん手放すことができる。
願果たしやお礼参りが重視されるのも、たぶん同じ構造だ。掛けた願は、必ず解く。神仏を縛りっぱなしにしない。同時に、自分も縛りっぱなしにしない。
「その間神様は逆立ちされているのだから」という民間の戒めは、実は祈る側を守る言葉でもある。願掛けは長引かせるものではない。区切って、終わらせて、日常に帰る。この設計思想は、現代のメンタルケアの発想とも案外近い。
祈りが自責装置に反転する危険
批判的な視点も、最後にきちんと置いておきたい。
第一に、この習俗には確実に自己責任論と接続してしまう危険がある。「百回歩いたのに叶わなかったのは、心が足りなかったからだ」「途中で数を間違えたからだ」「百日を一日欠かしたからだ」。この論法は、いくらでも成立してしまう。
前に紹介した不妊治療の人は「お参りに行かなかったからだと自分を責めることはないだろう」とわざわざ書いていた。この危険を直感的に理解していたからだと思う。祈りが救いではなく自責装置に反転する瞬間が、確かにある。
寺社の側が「無理をされないように」「回数は自分で決めてよい」「三回でも一回でも構わない」と繰り返し言うのは、この反転を防ぐための知恵だと読める。ゆるくしておくこと自体が、参拝者を守る設計なのだ。
第二に、身体的な危険がある。裸足での長時間歩行は足を確実に傷める。真夏の炎天下で三キロを一時間かけて歩けば熱中症のリスクがあるし、真冬の水垢離は低体温症や血圧の急変動という現実的な危険を伴う。
切実な人ほど無理をしがちで、切実な人ほど「無理をすることに意味がある」と思い込みやすい。ここは冷たいくらいに言っておきたい。祈っている本人が倒れたら、祈られている人がいちばん困る。石切さんが水分補給と休憩を、一畑薬師が二日に分けてもよいと案内しているのは、綺麗事ではなく実務だ。
第三に、代行サービスをめぐる問題。代参という文化自体は本物で、江戸の講から続く助け合いの形だ。それを否定する気はない。ただ、それが市場に載った途端、切実さは購買力に変換される。
証明できないサービスに高額を払う構造は、どうしても危うい。効果を断定的に保証する言葉が出てきたら、そこは一歩引いたほうがいい。
第四に、医療の代替になりえないという点。これは何度でも書く。参拝と病状回復に医学的な因果関係はない。百度石を回ることは、治療を受けることの代わりにはならない。
両立はできる。むしろ両立させるべきだ。手術の前夜に家族が神社を往復するのは、手術を信じていないからではなく、自分にできることが他に何もないからだ。その順序を間違えなければ、お百度参りは害にならない。
願いはばらばらなのに、動作だけが揃っている
最後に、この習俗のいちばん美しい部分を書いて終わりたい。
石切さんでお百度を踏んだある人が、途中で一緒に歩いていた年配の方と自然に会話が生まれ、「私も孫のために参ってるんです」と言われた、と書いていた。見知らぬ人同士でも、同じ思いで歩いていると不思議と心が通う、とも。
百度石の周りには、いつも複数の人がいる。誰が何を願っているかは、誰にもわからない。受験かもしれないし、手術かもしれないし、何年も続く不妊治療の途中かもしれない。
それでも全員が、同じ三十メートルを、黙って、同じ方向に歩いている。願いの中身は完全にばらばらなのに、動作だけが完全に揃っている。
あの光景は、たぶん千年前からほとんど変わっていない。鎌倉の御所の女房たちも、戦地に息子を送った母親も、資格試験の前の会社員も、みんな同じことをしている。
人間はどうしようもない事態に直面したとき、結局、歩くのだ。百回歩いて、また明日を待つ。それが日本でいちばん身体的な願掛けの、静かな正体なのだと思う。
