まず落ち着いて、あの絵を思い浮かべてほしい。正月になるとどこにでも貼ってある、あの船の絵だ。金銀財宝を山盛りに積んだ帆船に、太った爺さんやら鎧武者やら琵琶を抱えた美女やらが七人、ぎゅうぎゅう詰めで乗っている。子どもの頃は何も思わなかった。でも大人になって一柱ずつの素性を調べ始めると、これがとんでもないことになっていると気づく。
あの船、国籍がバラバラなのだ。日本生まれは一柱しかいない。恵比寿だけ。残りのうち三柱はインドのヒンドゥー教の神様で、一柱は中国に実在した坊さんだ。あと二柱は道教の星の神で、しかもその二柱はもともと同じ神様だったのに無理やり二人に分けられている。
宗教も出自も時代も言語もまるで違う存在が、なぜか一隻の木造船に相乗りして、日本人に福を配りに来る。
世界中の民間信仰を見渡しても、ここまで節操なく他所の神を混ぜて一つのチームにした例はそうそうない。しかもそれを日本人は数百年、まったく疑問に思わずに拝み続けてきた。この記事では、その異常事態がどうやって成立したのかを、時系列でひとつずつほどいていく。
- 応永27年、京都の街を「福の神」の仮装行列が練り歩いた
- 家康の前で天海が言った「公はすでに七つの福を備えておられる」
- 恵比寿――流された赤ん坊が福の神になるまで
- 大黒天――もとは死体置き場に立つ真っ黒な戦闘神だった
- 毘沙門天――上杉謙信が信じきった、泥の足跡
- 弁財天――川の女神が、蛇になり、嫉妬するようになった
- 布袋――ただの変な坊さんが、なぜ神になったのか
- 福禄寿――頭が異様に長い、道教から来た星の神
- 寿老人――福禄寿と同一神、というややこしすぎる事情
- 枕の下に船の絵を敷け――回文の呪文と初夢の商売
- 江戸の庶民は、信仰半分、遠足半分で歩いた
- 明治政府の神仏分離が、船を真っ二つに割りかけた
- 語り継がれる話、三つ
- 民俗学者は冷静に、御朱印界隈は熱狂し、寺は疲れている
- なぜ日本人は、国籍不明の神を一隻の船に乗せられたのか
応永27年、京都の街を「福の神」の仮装行列が練り歩いた
七福神の話をするとき、多くの人は江戸時代から始めたがる。でも本当の起点はもっと前、室町の京都だ。記録に残る最初期の姿として語られるのが、応永27年、西暦でいえば1420年の京都の出来事だ。この年、都で福の神に扮した仮装行列が行われたという記述が残っている。応永27年というのは足利義持の時代。
応仁の乱の五十年近く前で、京都はまだ焼けていない。だが世の中は決して平和ではなかった。土一揆が頻発し、飢饉と疫病が周期的に街を襲い、明との勘合貿易で銭が流れ込んで物価が乱高下していた。そういう時代に、庶民が「福」という抽象概念を人格化して、それを七つセットにして、しかも仮装して街を練り歩いたのだ。この生々しさが大事だ。
学問の話じゃない。祭りの話であり、うさばらしの話でもある。では、なぜ七柱なのか。ここには有力な説が二つある。ひとつは仏典由来説。
『仁王般若経』に「七難即滅、七福即生」という有名な句がある。七つの災難が消えれば七つの福が生まれる、という意味だ。この「七」という数字が福の神の頭数を規定したという見方で、寺側の説明としては一番よく使われる。もうひとつが「竹林の七賢」なぞらえ説で、こちらのほうが室町当時の空気をよく説明できると私は思う。当時の京都では禅宗が武家と町衆に深く食い込み、水墨画と茶が大流行していた。
中国の魏晋の時代に竹林で酒を飲んで清談していた七人の隠者を描いた「竹林の七賢図」は、禅林の画題として定番中の定番だった。七人の変な爺さんが集まってわいわいやっている構図が、当時の人の目には完全に見慣れたものだったわけだ。そこに恵比寿と大黒を入れて、布袋を入れて、と福の神を七人並べたら、絵として即座に成立する。
つまり七福神は、宗教的な必然というより「絵の構図として七人がちょうどよかった」という、身も蓋もない事情で七柱になった可能性が高い。もうひとつ土台になったのが、恵比寿と大黒の二神セット信仰だ。中世後期、商業が発達して市が立つようになると、この二柱を並べて祀る習俗が畿内一帯で猛烈に流行した。今でも古い商家の神棚に恵比寿と大黒が並んでいるのは、この時代の名残だ。
この鉄板コンビをセンターに置いて、周りに人気キャラを足していった結果が七福神である。アイドルグループの結成と発想がまったく同じで、そう考えると急に親しみが湧いてくる。
家康の前で天海が言った「公はすでに七つの福を備えておられる」
さて、ここから江戸だ。七福神を全国区にした立役者としてよく名前が挙がるのが、南光坊天海。上野の寛永寺を開いた天台宗の怪僧で、徳川家康の政治顧問を務めた人物だ。百歳を超えて生きたとも明智光秀の生き残りだとも言われる、日本史でも屈指の胡散臭い大物である。天台宗側に伝わる話はこうだ。
天海は家康に対して、為政者が備えるべき徳を七つ挙げた。
寿命、富財、人望、清廉、威光、愛敬、大量の七つ。そしてそれぞれを七福神の一柱ずつに当てはめてみせた。寿老人が寿命、大黒天が富財、福禄寿が人望、恵比寿が正直と清廉、毘沙門天が威光、弁財天が愛敬、布袋が大量、つまり度量の広さ。そのうえで天海は「公はこの乱世を治め、天下泰平の基を築くだけの福徳をすでに備えておられる」と持ち上げた。家康はこれをたいそう喜び、狩野探幽に命じて七福神の絵を描かせた。
この探幽の絵こそ、我々が今も年賀状や熊手で見る七福神図の原型だ、というのである。いい話だ。よくできすぎている、とも言える。冷静に検証すると、この逸話には一次史料の裏づけが薄い。天海が七福神を「選定した」わけでも、家康が国策として推進したわけでもない。
すでに室町期の畿内で成立していた信仰を、江戸幕府の宗教政策の中枢にいた人物が肯定的に取り上げた、というのが実態に近いだろう。徳川将軍家の菩提を担う天台宗の側が、後年に自派の権威づけとして語り継いだ側面も否定できない。だから「天海が七福神を作った」と断言するのは行き過ぎだ。ただし、この話をただの作り話として切り捨てるのももったいない。
天海は七福神を「福を配ってくれるありがたい神様たち」から「為政者の資質のチェックリスト」へと読み替えてみせた。ここで大事なのは、その解釈の飛躍だ。庶民の縁起物を統治の徳目に翻訳する。これができる人間がいたからこそ、七福神は幕府のお膝元で堂々と信仰される。寺社が競って七福神を祀り、江戸中に広がっていった。
天海が実際に何をどこまでやったかより、「天海がやった」という物語が江戸で受け入れられたという事実のほうが、はるかに歴史的に重い。
恵比寿――流された赤ん坊が福の神になるまで
ここからは一柱ずつ、じっくり見ていく。まずは唯一の日本代表、恵比寿から。恵比寿の名が文献に現れる最も古い部類のものは、平安末期の『伊呂波字類抄』で、広田神社の末社として記録されている。今の兵庫県西宮、えびす宮総本社として知られる西宮神社の原型だ。そして恵比寿という言葉そのものが、じつは強烈に意味深い。
「えびす」は本来「夷」「戎」、つまり外から来た者を指す。海の向こうから漂着してくるものへの信仰、いわゆる寄り神信仰が恵比寿の正体だ。浜に流れ着いた奇妙なもの、とりわけ鯨は「寄り神」と呼ばれ、「鯨寄れば七浦潤す」と言われた。一頭上がれば七つの浜が食っていける。だから漂着物は神なのだ。
この、圧倒的に貧しくて、圧倒的に海に依存していた生活の記憶が、恵比寿の芯にある。恵比寿の正体については二系統ある。ひとつは蛭子命説。記紀神話で伊邪那岐と伊邪那美の最初の子として生まれながら、三年たっても足が立たず、葦の舟に乗せて流された、あの子だ。捨てられた不具の赤ん坊が海を漂い、どこかの浜に流れ着いて福の神になった。
この読み替えは室町期に現れ、西宮神社がその代表になった。もうひとつは事代主神説だ。大国主の子で、釣りをしていたところを国譲りの使者が訪ねてきたという神話の場面から釣り好きのイメージが結びついたのだ。こちらは江戸期に強まり、大阪の今宮戎神社が代表格である。恵比寿が釣竿を持って鯛を抱えているのは、この事代主のイメージによるところが大きい。
そして父である大国主が大黒天と習合しているため、恵比寿と大黒は親子だ、という理屈まで成立してしまった。センターコンビは親子だったのである。面白いのが、恵比寿は耳が遠いという俗信だ。西宮でも各地のえびす社でも、本殿の正面で拝むだけでは足りない。裏に回って壁を叩いたり銅鑼を鳴らしたりして「こっちだ」と知らせろ、という作法が伝わっている。
福の神なのに神経を使わせてくる。
この妙な人間くささが、恵比寿がいちばん日本的である証拠だと思う。
大黒天――もとは死体置き場に立つ真っ黒な戦闘神だった
次が大黒天。七福神の中でも屈指の変貌ぶりで、正直これを知ると同じ神とは思えなくなる。大黒天の原型はインドのマハーカーラ。マハーが「大いなる」、カーラが「時」あるいは「黒」を意味する。ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、その恐ろしい側面を体現した姿だ。
体は青黒く、顔は忿怒相、牙をむき、腕は四本、あるいは三面六臂で三叉戟を振り回す。墓場や葬送地に結びつけられ、軍神であり戦闘神だった。日本の福袋を担いだ笑顔の爺さんとは、共通点が体色くらいしかない。ではなぜ福の神になったのか。ここに二段階の変換が挟まっている。
まずマハーカーラには戦闘神のほかに厨房の神、つまり台所と食堂を守る性格があった。寺院の食事を絶やさない神である。中国に渡ったとき、この「食物を絶やさない、つまり財福をもたらす」という側面が強調されて祀られるようになった。そこへ日本での第二段階が加わる。最澄が、大黒天と毘沙門天と弁才天を一体にした三面大黒を作り、比叡山延暦寺の台所の守護神として祀ったと伝えられる。
つまり日本に入った時点で、すでに大黒天は「厨房の神」として着地していた。そして決定打が、大国主神との習合だ。「大国」を音読みすれば「だいこく」。ただの語呂合わせである。だが、この駄洒落レベルの一致が信仰を根本から変えた。
大国主は国土を造り、豊穣をもたらす神だ。そこに大黒天が重なった瞬間、忿怒の戦闘神は農耕の福神へと完全に姿を変えた。室町期には日蓮宗でも盛んに信仰され、江戸期には米俵の上に立ち、大きな袋を背負い、打出の小槌を持つ。にこにこ笑う長者形の像として完成した。米俵、袋、小槌。
すべて豊かさの記号であり、インド時代の三叉戟は影も形もない。日本人は外来の神を輸入したのではなく、原型を残したまま中身を丸ごと入れ替えたのだ。
毘沙門天――上杉謙信が信じきった、泥の足跡
毘沙門天はインドのクベーラ、そして仏教に取り込まれたヴァイシュラヴァナが原型だ。もともとは財宝の神であり、施財天とも呼ばれた。ところが中国を経由するあいだに武神としての性格が肥大化する。四天王の多聞天として北方を守護する武装神になった。甲冑をまとい、片手に宝塔、片手に矛や宝棒を持ち、足元で邪鬼を踏みつけている。
あの姿である。
七福神で唯一、明確に武装している一柱だ。日本ではこの毘沙門天が、とくに武士に刺さった。最も有名なのが上杉謙信。彼は春日山城内に毘沙門堂を建て、日々そこに籠って読経した。軍旗に掲げた「毘」の一字はあまりに有名で、自らを毘沙門天の化身と称した、あるいは周囲からそう恐れられたと伝わる。
生涯不犯を貫いたとされるのも、この信仰と結びつけて語られてきた。謙信と毘沙門天の逸話でいちばん背筋が寒くなるのが、泥足毘沙門天の話だ。長く戦場を転戦して久しぶりに春日山城の毘沙門堂へ参ったとき、堂内に泥だらけの足跡がついていた。その足跡は、扉から本尊の毘沙門天像のところまで、まっすぐ続いていた。謙信はこれを見て、毘沙門天が自分とともに戦場を駆け回り、先に堂へ戻っていたのだと解釈したのだ。
以来、この像は泥足毘沙門天と呼ばれる。像そのものは鎌倉期の作とされる。のちに米沢城内の謙信の霊廟に祀られていたが、明治の廃城令にともなって廟所脇の法音寺へ移り、今もそこにある。2022年には山形県の有形文化財に指定された。信仰の熱量が、物理的な泥として床に残る。
合理的な説明はいくらでもつくが、そんなものはどうでもいい。この話が四百五十年生き延びてきたという事実のほうが強い。
弁財天――川の女神が、蛇になり、嫉妬するようになった
七福神の紅一点、弁財天。原型はインドのサラスヴァティーで、これがまた由緒正しい。『リグヴェーダ』に登場する聖なる河そのもの、そしてその化身としての女神だ。つまり最初期の彼女は文字通り「川」だった。水の流れは音を立て、絶えず動く。
そこから音楽と弁舌の神になり、やがて学問と智慧を司る女神へと展開していった。弁「才」天という表記が本来なのはこのためだ。日本に入ってからの弁財天は、二つの姿を持つ。ひとつは『金光明最勝王経』の大弁才天女品を典拠とする八臂像で、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索を持つ。要するに全身武器だらけの戦闘女神である。
もうひとつが琵琶を抱えた二臂の天女形で、こちらが一般にイメージされる弁天様だ。福の神としての柔らかいイメージは、この琵琶を持つ姿から来ている。そして中世、決定的な変化が起きる。宇賀神という蛇神との習合だ。宇賀神は老人の顔をした白蛇という異様な姿の神で、これを頭に載せた宇賀弁才天という形式が生まれる。
宝珠と鍵を持物に加えて財福の神としての性格を一気に強めた。弁「財」天という表記が広まるのはこのあたりからだ。ここで押さえておきたいのは、弁財天の化身が蛇や龍だという説は、インドや中国の経典にはまったく見当たらないということ。日本で作られた宇賀弁才天系の偽経の中で初めて説かれた、純国産の設定なのである。日本人が弁天様に蛇をくっつけた。
財布に蛇の抜け殻を入れる習慣も、銭洗いの水も、この日本製の接続から派生している。俗信もいちばん豊富だ。有名なのがカップルで参ると別れるというジンクスだ。江の島、上野の不忍池、鎌倉の銭洗い弁天など、有名どころにはほぼ例外なくこの噂がついて回る。弁天様が女で、しかも美人だから、仲のいい男女を見ると嫉妬して仲を裂く、という理屈である。
ちなみに当の江島神社に祀られているのは江島弁財天と呼ばれる三柱の女神で、公式の縁起は嫉妬とは正反対だ。悪さをしていた五頭龍が天女に恋をして拒まれ、心を入れ替えて人々を守る存在になったという、むしろ改心と和解の物語である。江の島には恋人の丘があって、そこの鐘を鳴らしたカップルは別れないとまで言われている。つまり、公式は完全にカップル歓迎なのだ。それでも別れる噂のほうが強く残る。
神様の性別と嫉妬という、人間くさすぎる想像力が、公式縁起を軽々と踏み潰していく。この現象自体が民間信仰のいちばん面白いところだと思う。
布袋――ただの変な坊さんが、なぜ神になったのか
七柱の中で唯一、実在の人間である。中国は唐の末期、明州、今の浙江省寧波の奉化に、契此という僧がいた。太った腹を丸出しにして、いつも大きな布の袋を担いで街をうろつき、もらったものを何でもその袋に放り込んだ。占いをすればよく当たり、天気を言い当て、道端で寝転がっていた。定住せず、寺の格式にも興味がない。
今でいうホームレスの托鉢僧に近い。この人が死んだあと、「あれは弥勒菩薩の化身だったのだ」という話が広まった。臨終に際して弥勒であることを示唆する偈を残したと伝えられる。以後、中国の寺では布袋の姿こそが弥勒像の標準形になった。中華圏の寺に行くと山門の脇でにこにこ笑っている太った仏がいるが、あれは布袋であり、同時に弥勒である。
日本には禅宗の伝来とともに入ってきた。ここが重要で、布袋は宗教像としてではなく、まず「絵の題材」として輸入されたのだ。禅画の定番モチーフとして、水墨で軽やかに描かれる痩せた達磨と太った布袋。室町の禅林と茶の湯の世界で、布袋の絵は圧倒的に人気があった。そして竹林の七賢と同じ画題の棚に並んでいた。
だからこそ、福の神を七人並べるときに、真っ先に呼ばれたのだと思う。布袋が担う徳は「大量」、すなわち度量の広さだ。何を入れても膨れない袋、何を言われても怒らない笑顔、地位も寺も持たない身軽さ。日本での御利益は円満、笑門来福、子宝など。腹を出して笑っている姿は一見だらしないが、あれは何も持っていないから何も失わない人間の顔である。
七福神の中で唯一、生身の人間がそこまで行けると証明してみせた存在だ。
福禄寿――頭が異様に長い、道教から来た星の神
福禄寿は道教由来。名前がそのまま三つの徳を表していて、福は子孫に恵まれること、禄は財産と地位、寿は健康な長寿を指す。中国では福星と禄星と寿星という三体の別々の神だった。ここが後で大問題を引き起こす。姿の特徴は強烈だ。
背が低く、頭が異様に長く上に伸びていて、白い髭を長く垂らし、杖に経巻を結びつけ、鶴を連れている。あの頭は知恵と長寿の象徴と説明されるが、初見のインパクトは相当なものだ。南極星、すなわち南極老人星の化身とされ、宋代の道士だったとする伝えもある。日本での受容過程がまた面白い。中国では、福と禄と寿をそれぞれ蝙蝠、鹿、松や桃といった象徴物で表現する図像が発達していた。
鶴と鹿と桃を伴った老人の絵、というやつだ。これが日本に伝わったとき、日本人はどう見たか。三体の神とその象徴物のセットではなく、「動物を二匹連れた一人の爺さん」として見てしまったのである。つまり福禄寿という一柱の神は、日本人の読み違いが生んだ神様だという可能性が高い。誤読が神を生む。
仏教でも道教でも起きるこの現象が、七福神の成立を語るうえでいちばん象徴的な事件だと思う。
寿老人――福禄寿と同一神、というややこしすぎる事情
そして最大の問題児が寿老人だ。福禄寿の三星のうち、寿星は南極老人星に対応する。この南極老人星というのは実在の恒星で、りゅうこつ座のアルファ星カノープス。全天でシリウスに次いで明るいが、日本からは南の低空にわずかしか見えず、見えたら長寿を得るとされた縁起のいい星だ。この寿星が単独で日本に伝わったものが寿老人である。
つまり福禄寿と寿老人は、大元をたどると同じ星、同じ神だ。同体異名の別バージョンが、なぜか二柱ぶんの席に座っている。姿かたちも似ていて、どちらも白髭の老人で杖を持ち、巻物を提げ、鹿や鶴を連れている。見分け方として「頭が長いほうが福禄寿、鹿を連れているほうが寿老人」といった説明がよく使われる。だが絵によっては両方に鹿がいたり、両方の頭が長かったりする。
要するに現場は混乱している。
この重複が、七福神の歴史に一番の揺らぎを生んだ。江戸中期には「寿老人と福禄寿は同じ神なんだから、片方でいいだろう」という理屈で寿老人を外する。代わりに吉祥天を入れる形が出回った時期がある。吉祥天はインドのラクシュミー、つまり毘沙門天の妃とされる美と富の女神で、これが入ると弁財天と合わせて紅二点になる。ほかにも猩々を入れる形や、お多福、福助、稲荷神、虚空蔵菩薩を入れる形が存在した。
さらに時代と地域を広げれば、宇賀神、達磨、ひょっとこ、楊貴妃、鍾馗、不動明王、愛染明王、白髭明神まで、一柱に数えられた記録がある。楊貴妃が福の神。冷静に考えるとかなりの珍事だ。現代でも各地に八福神が存在する。京都の清水寺ではお多福が加わり、千葉の八千代では吉祥天が入り、横浜の瀬谷では達磨が入る。
「七」という枠がそもそも神学的な必然ではない。絵の構図と語呂の産物だったからこそ、こういう伸縮が平気で起きる。七福神は、最初からメンバーが固定されていないグループなのだ。
枕の下に船の絵を敷け――回文の呪文と初夢の商売
七福神といえば宝船。この組み合わせも江戸の産物だ。正月の二日の夜、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に敷いて寝る。すると吉夢を見て、その年は幸運になる。この習俗が江戸で爆発的に流行した。
そして絵の余白には必ず、あの歌が刷り込まれていた。なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな。漢字を当てれば「永き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな」。長い夜の深い眠りから皆が目を覚ますと、波を乗り越えていく船の音が心地よく響いてくる、といった意味になる。これが回文だ。
上から読んでも下から読んでも同じ音になる。当時の仮名遣いで読むから成立する古い言葉遊びで、回文は前後の区別がない、つまり終わりのない永続を表すとされる。それ自体が呪力を持つと考えられていた。悪夢を食う獏の絵を一緒に刷ることもあった。そして江戸には宝船売りがいたのだ。
大晦日から正月にかけて、刷り物の宝船を売り歩く商売である。もし悪い夢を見てしまったら、その紙を川に流せば厄が流れる。うまくできている。神事と商売と印刷技術と言葉遊びが、一枚の紙の上でぴたりと噛み合った。七福神が「一枚の絵に七柱まとめて描ける」形式だったことが、この大衆化を決定的に後押しした。
信仰が版画というメディアに乗った瞬間である。
江戸の庶民は、信仰半分、遠足半分で歩いた
七福神めぐりが始まるのは江戸時代半ばだ。はっきりした記録として挙がるのが、享和3年、1803年の『享和雑記』である。ここに、正月に七福神参りをする人が増えている、という趣旨の記述がある。巡り先は不忍池の弁財天、谷中感応寺の毘沙門天、同じく長安寺の寿老人、日暮里青雲寺の恵比寿と大黒と布袋、田端西行庵の福禄寿だ。これが今の谷中七福神で、江戸で最も古い七福神めぐりとされる根拠になっている。
現在の顔ぶれは不忍池弁天堂の弁財天、護国院の大黒天、長安寺の寿老人、天王寺の毘沙門天、修性院の布袋、青雲寺の恵比寿、東覚寺の福禄寿。田端から上野まで、歩いて二時間ほどの行程だ。もうひとつ有名なのが隅田川七福神で、こちらは成立の経緯がはっきりしていて痛快だ。文政元年、1818年ごろ、向島に百花園という庭園を開いた佐原鞠塢のもとに、文人墨客が集まってサロンのようになっていた。
彼らが正月の遊びとして、向島近辺の寺社から七福神に当たる神を選び出してコースを作った。つまり隅田川七福神は、寺社側が布教のために作ったのではなく、文化人が遊びで企画したものなのだ。江戸後期の粋人たちのノリの良さが伝わってくる。この二つが示しているのは、七福神めぐりが最初から「信仰半分、レジャー半分」だったという事実だ。
正月の松の内、寒いなか着物を着込んで、家族や仲間と一日かけて七つの寺社を歩く。途中で団子を食い、酒を飲み、景色を見る。江戸は都市化が進み、庶民に可処分時間と多少の小遣いが生まれていた。伊勢参りや富士講ほど大がかりでなく、日帰りでできて、明確なゴールがあり、達成感がある。要するに、江戸の庶民が発明した最高にちょうどいいレジャーだった。
だから、現代の七福神めぐりが観光っぽいと嘆く必要はまったくない。最初から観光だったのだ。
明治政府の神仏分離が、船を真っ二つに割りかけた
順風満帆に見えた宝船だが、一度だけ沈みかけた。明治維新である。明治政府が打ち出した神仏判然令、いわゆる神仏分離は、千年以上かけて溶け合っていた神と仏を無理やり引き剥がす政策だった。そして七福神は、その混合の最も極端な結晶である。日本の神である恵比寿と、仏教の天部である大黒天と毘沙門天と弁財天と、道教の神と、禅僧が、同じ船に乗っている。
分離の理屈からすれば、あの船は真っ二つに割れなければおかしい。実際、大きな影響が出たのが弁財天だ。弁財天を祀っていた社の多くが、祭神を宗像三女神あるいは市杵嶋姫命に改めた。仏教の天女を、記紀神話の女神に読み替えたのである。竹生島の宝厳寺のように、弁才天を祀る堂と市杵嶋姫命を祀る神社が制度上きれいに分かれてしまった例もある。
大黒天も同様で、大国主を祀る神社と、大黒天を祀る寺に分かれた。祀られていた像が移され、堂が壊され、名前が書き換えられた。それでも七福神信仰は死ななかったのだ。理由は単純で、庶民が手放さなかったからだ。役所が祭神の名前を書き換えても、正月に宝船の絵を枕の下に敷く人はいなくなりようがない。
恵比寿と大黒が並んでいる神棚を、政令ひとつで片付けさせることはできない。むしろ明治から昭和にかけて、七福神めぐりは全国へ広がっていく。鉄道が敷かれ、私鉄各社が沿線の寺社を結んで正月の集客企画にした。近代の交通インフラが、江戸のレジャーを全国規模に膨らませたわけだ。分断されかけた七福神は、電車に乗って生き延びた。
語り継がれる話、三つ
ここで、七福神をめぐって人々のあいだで語られてきた話をいくつか紹介したい。どれも証明できる類の話ではない。でも、こういう話が生まれて残っていくところにこそ、信仰の体温がある。ひとつめは、谷中七福神を毎年歩き続けた老夫婦の話だ。都内の下町に住んでいた夫婦が、結婚した年の正月に軽い気持ちで谷中七福神を歩いた。
寒い日で、色紙を買って、二時間ほどで七つ回って帰った。それだけの話だったのに、翌年も歩き、その翌年も歩き、気づけば毎年の恒例になったのだ。子どもができてからは三人で、二人になってからはまた二人で。同じ色紙に印を重ねるわけにいかないから、色紙は毎年増えていって、押し入れの箱がいっぱいになった。夫が先に亡くなったあと、妻は一人で同じコースを歩いたという。
同じ順路で、同じ寺で、同じように手を合わせて。周りが「もうやめたら」と言っても、彼女は「歩かないと年が始まらないから」と答えた。七福神めぐりが何の御利益をもたらしたのかは分からない。でも、四十年ぶんの正月がそのコースの上に積み重なっていること自体が、たぶん御利益だ。信仰というのはこういう形で人の生活に食い込む。
ふたつめは、江の島に行ったカップルの話。付き合って二年目の二人が、別れるというジンクスを知りつつ、あえて面白がって江島神社に行った。弁天様のところで手を合わせ、恋人の丘まで上がって鐘を鳴らし、南京錠までかけて帰ってきた。ジンクスなんて迷信だ、と笑いながら。そして半年後、二人は別れた。
理由はまったく別のところにあって、弁天様とは何の関係もない。ところが後年、その男は友人にこう話したという。江の島のせいだとはこれっぽっちも思っていない。でも別れたあと、なぜか真っ先にあの鐘のことを思い出した、と。ここに俗信のいちばん怖い仕組みがある。
ジンクスは結果を作らない。結果を解釈する枠組みを、あらかじめ人の頭に入れておくのだ。だから別れたカップルはジンクスを思い出し、続いたカップルは何も思い出さない。ジンクスは絶対に反証されない。そうやって数百年生き延びてきた。
江島神社の公式縁起がどれだけ和解の物語を語っても、この構造には勝てない。みっつめは、地方の商店街が七福神めぐりを作った話だ。人口が減り、シャッターが増えた地方の町で、商店会の役員たちが起死回生の企画を考えた。町の中と周辺に散らばる寺社を七つ結んで、七福神めぐりのコースを仕立てる。ところが困ったことが起きた。
数えてみたら、七福神に該当する神を祀る寺社が六つしかなかったのだ。どうしても一柱足りない。役員会は紛糾した。そこで彼らは、町外れの小さな堂に祀られていた、由来のよく分からない古い神像を七柱目に据えることにした。町の古老に聞いても正体は分からない。
だから住職と相談のうえ、その像を福禄寿ということにした。こうして七福神めぐりが完成し、正月にはそれなりの人が歩くようになった。この話を聞いて、いい加減だと笑う人もいるだろう。でも私はまったく逆に思う。これこそ七福神の正しい作り方だ。
室町の京都でやったことも、向島の文人たちがやったことも、本質的にこれと同じである。手元にある神を、七つの枠に当てはめて、船に乗せる。七福神とは、その融通無碍さそのものなのだ。
民俗学者は冷静に、御朱印界隈は熱狂し、寺は疲れている
七福神をどう見るかは、立場によってきれいに割れる。民俗学の側は昔から冷静だ。七福神は上から与えられた教義ではなく、下から編集されて生まれた複合信仰である。その主体は民衆の側にあるという理解が基本線になっている。各地に七福神を歌い込んだ民謡が残る。
芸能に取り込まれ、福島の一部では養蚕の守護を祈る行事に組み込まれた例もある。
地域ごとに神の性格が入れ替わり、必要とされる御利益に応じて中身が書き換えられていく。この可塑性の高さこそが研究対象であって、「正しい七福神」を探すこと自体が的外れだ、という立場である。一方、御朱印の世界は近年ものすごいことになっている。七福神めぐりは色紙や専用の御朱印帳を使う。七つ集めると絵が完成する形式が多く、コレクション性が異常に高い。
正月限定という期間の縛りもある。
当然、集めることが目的化しやすい。そして実際、御朱印ブーム全体で無視できない摩擦が起きている。二〇一九年の令和改元のときには、記念の御朱印がフリマアプリに頒布価格の何倍もの値段で大量に出品された。ある神社では月替わりの限定御朱印が高額転売され、対策として参拝者の名前を裏に書き入れる方式を導入した。
宮司が「参拝の証しなのに、何のために転売で手に入れるのか理解に苦しむ」と語っているのは、まったくもってその通りだと思う。別の神社の宮司は、御朱印帳を見せながら「ここでクリアですか、コンプリートでいいですよね」と言ってくる参拝者がいると証言している。ゲームの語彙で寺社を回る人が、確実にいるのだ。都内の有名神社では特別御朱印をめぐって職員への暴言が発生し、祭りでの頒布が中止された。
通常の御朱印を拒んで限定御朱印のページを引きちぎった参拝者の話まで残っている。ここで私が言いたいのは、「昔は純粋だったのに今は堕落した」という話ではまったくない、ということだ。さっき書いたとおり、江戸の七福神めぐりも半分はレジャーだった。宝船売りは商売だったし、隅田川七福神は文人の遊びで作られた。だから観光化それ自体は批判の対象にならない。
問題はもっと単純なところにある。相手が人間だということを忘れる瞬間だ。御朱印を書くのは人で、堂を開けるのも人で、そこには生活があり、法要があり、都合がある。列に並んでいるあいだ、その建物が誰かの人生の場所であることを思い出せるかどうか。七福神めぐりのいいところは、歩く時間が長いことだと思う。
寺から寺まで二十分歩けば、少しは頭が冷える。スタンプラリーとの違いがあるとすれば、たぶんその歩いている時間のほうにある。
なぜ日本人は、国籍不明の神を一隻の船に乗せられたのか
最後に、いちばん大きな問いに戻る。なぜこの奇妙な組み合わせが日本に根づいたのか。ひとつめの理由は、日本の神観念がもともと「役割」ベースだったことだ。一神教のように「誰が唯一正しい神か」を問う構造がないから、大事なのは出自ではなく機能になる。商売を繁盛させてくれるなら、その神がインド人だろうが中国人だろうが関係ない。
むしろ外来であることは、遠くから来た力として加点要素ですらある。恵比寿の名がそもそも「外から来た者」を意味していることを思い出してほしい。日本の福の神の原型からして、外来性が神性の根拠なのだ。この土壌があれば、多国籍の混成チームは何の矛盾もなく成立する。ふたつめは、習合という技術が異様に発達していたことだ。
大黒天と大国主は「だいこく」の語呂で結びついた。恵比寿と蛭子は漂着というイメージで結びついた。弁財天と宇賀神は水と蛇で結びついたのだ。どれも論理的には無茶苦茶だが、当時の人にとっては十分な理由だった。名前が似ている、絵が似ている、持ち物が似ている。
この程度の連想で神と神を接着してしまう大胆さが、千年かけて磨かれていた。その技術の総決算が七福神である。みっつめは、絵になったことだ。これが決定的だと思う。七福神は、教義として広まったのではなく、画像として広まった。
禅画の系譜に乗り、宝船という一枚絵の形式を得て、版画に刷られ、正月ごとに何万枚と刷られて配られた。誰も『仁王般若経』を読まなくてもいい。船の絵を見れば全部わかるからだ。誰が何を持っていて、どんな福をくれるのか、目で見て一瞬で理解できる。この視認性が、識字率や教養の壁を軽々と越えた。
そして四つめ、いちばん大事な理由。七福神は完成していないのだ。メンバーは入れ替わり、地域ごとに数が増え、由来は矛盾し、誰も正解を知らない。福禄寿と寿老人が同じ神だと知っている人ですら、平気で両方拝む。この未完成さと適当さこそが、この信仰を八百年生き延びさせた強度の正体だ。
厳密に定義された教義は、時代が変われば矛盾を起こして壊れる。定義がゆるいものは壊れようがない。だから、あの船はこれからも沈まない。乗員がまた入れ替わるかもしれないが、それも含めて七福神である。
ここまで書いてきて、あらためて七福神という現象の異様さを整理しておきたい。この信仰の本質は、「輸入」ではなく「編集」である。この一語に尽きると思う。普通、外来の宗教が入ってくるとき、受け入れ側は二つの道のどちらかを選ぶ。原型を尊重してそのまま受け入れるか、拒絶して排除するか。
ところが日本が七福神に対してやったのは、そのどちらでもない。原型のガワだけを残して、中身を全部入れ替えたのだ。マハーカーラは墓場に立つ忿怒の戦闘神だったのに、日本では米俵の上で笑う爺さんになった。名前は同じ、体色も黒いまま、でも人格は正反対。サラスヴァティーは河そのものだった女神なのに、日本では蛇を頭に載せて金を増やす財福の神になった。
しかもその蛇の設定は、インドにも中国にも典拠がなく、日本国内で作られた経典の中で初めて登場する。要するに、日本人は輸入した神に勝手に設定を書き足して、それを正典として運用してきた。二次創作が原作を上書きし、そのまま数百年運用されてきたようなものだ。これは無礼な行為だろうか。私はそうは思わない。
むしろ、対象を心底から自分たちの生活に必要なものとして扱った結果だと思う。ありがたく棚に飾って触らないより、勝手にいじって使い倒すほうが、よほど本気の付き合い方だ。そのうえで、成立の経緯を年代順にもう一度たどると、七福神が「誰かが作った」ものでは全然ないことがよく分かる。1420年に京都で福の神の仮装行列が出たとき、そこにいたのは一部の神だけだったはずだ。
恵比寿と大黒の二神併祀が商業の発展とともに広まり、それが核になった。禅林で人気だった布袋の絵が加わり、竹林の七賢の構図が七という数を用意する。『仁王般若経』の七難即滅七福即生がそれに宗教的な根拠を後づけした。道教から来た福禄寿は、中国の図像を日本人が読み違えた結果生まれた可能性が高い。寿老人はその福禄寿と大元が同じ星の神なのに、なぜか別枠で座席を得た。
この重複が江戸期に問題視されて吉祥天が繰り上がったり、猩々やお多福や福助や達磨や鍾馗、果ては楊貴妃まで候補に挙がったりしたのだ。天海が家康に七福を説き、狩野探幽が絵に描いたという物語は、この編集作業に幕府公認のお墨付きを与えた。享和3年の『享和雑記』には谷中を巡る人々の姿が記録される。文政元年ごろには向島の文人たちが遊びで隅田川のコースを設計した。
明治の神仏分離で弁財天は市杵嶋姫命に、大黒天は大国主に名を変えさせられた。だが庶民は宝船の絵を手放さず、やがて鉄道会社がそれを正月商戦の目玉にして全国へ運んだ。そして令和の今、御朱印帳を手にした人々がコンプリートを目指して同じ道を歩いている。この六百年の連なりを見ると、七福神は誰か一人の設計者を持たない、集団的な即興演奏のようなものだと分かる。
誰も全体像を管理していないのに、結果として一隻の船という完璧な形式に収まった。これは奇跡的なことだ。もうひとつ強調しておきたいのが、七福神が持っている「福の分散」という構造だ。あの船には、財を司る神、武を司る神、長寿を司る神、芸を司る神、度量を司る神、そして商いと漁を司る神が、それぞれ別々に乗っている。ひとつの万能の神が全部叶えてくれる形ではない。
福というものが複数の異なる要素からできている。しかもそれらは互いに交換できない、という認識がここに埋め込まれている。金があっても健康がなければ意味がない。長生きしても人望がなければ寂しい。武力があっても愛敬がなければ人は寄らない。
天海が家康に説いたという七つの徳目のリストは、まさにこの考え方の政治版だった。福を七つに割って、それぞれに担当を置く。この分割の発想は、意外なほど現代的で、実用的で、そして正直だと思う。人間の幸福はひとつの数値では測れない、と六百年前の日本人が船の絵で表現していたわけだ。最後に、批判的な視点をもう一度だけ置いておく。
七福神めぐりの観光化やスタンプラリー化を嘆く声は根強いが、私はその嘆きの半分は的外れで、半分は正しいと考えている。的外れなほうから言えば、七福神は最初から俗っぽい信仰だった。宝船売りは商売であり、隅田川七福神は文人の正月の遊びである。江戸の庶民にとって七福神めぐりは信仰であると同時にレジャーだった。だから今それが観光になっていることを堕落と呼ぶのは、歴史を知らない言い分になる。
では正しい側の批判とは何か。それは、目的地の数だけを消費して、そこにいる人と時間を消費しない態度への違和感だ。限定御朱印を転売すること、順番を待てずに怒鳴ること、コンプリートという言葉で寺社を語ること。これらが批判されるべきなのは、信仰が足りないからではない。単に、他人への敬意が足りないからだ。
宗教的な純度なんてどうでもいい。七つの寺社を歩くあいだに、その町の景色を見て、寺務所の人に一言礼を言えるかどうか。たぶん七福神は、そのくらいのことしか要求していない。国籍も宗派も時代もバラバラな七柱が、文句も言わずに同じ船に乗って笑っているのだから、我々が数十分並ぶくらい、どうということはないはずだ。
